デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.327-337(DK030108k) ページ画像

明治五年壬申四月七日(1872年)


 - 第3巻 p.328 -ページ画像 

是ヨリ先、明治四年八月三井八郎右衛門等十八名相謀リ、関西鉄道会社ヲ創立シテ京都大阪間ニ鉄道ヲ敷設センコトヲ京都府ニ出願シテ允許セラレ、又鉄道敷設工事ヲ工部省ニ託シ、会社株券七十万円ノ募集促進ヲ図リ、且ツ其工事費ヲ支弁センコトヲ大蔵省ニ請ヒテ許サル。然ルニ工部省ハ実地調査ノ結果工事予算ヲ百三十一万四千八百余弗ト見積リ、之ヲ大蔵省ニ諮ルヤ、大蔵省ハ会社ノ資力到底斯カル増額ヲ弁ジ難キヲ慮リ、是日省議ヲ以テ敷設工事費ノ軽減ヲ工部省ニ交渉ス。栄一終始其局ニ当リ折衝甚ダ勉ム。


■資料

青淵先生伝初稿 第七章五・第四六―五〇頁 〔大正八―一二年〕(DK030108k-0001)
第3巻 p.328-329 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章五・第四六―五〇頁 〔大正八―一二年〕
明治三年政府が鉄道を東京・横浜間及び大阪・神戸間に布設せんとするや、其年八月京都府にては、府下の豪商たる三井・小野・島田等を慫慂して、鉄道会社の設立を出願せしめたり。其計画によれば、大阪・敦賀間に鉄道を布設する目的なれども、先づ京都・大阪間の工事に著手し、其費用を七十万円と概算して、七千株を募集すると共に、全株式に対して年一割の利子を政府より受くるの許可を得たり。然るに株式募集に著手の後、工部省の実地調査の結果、経費約百四十万円を要することを知りたれば、明治五年正月、工部省は正院を経て大蔵省に経費の支出を要求し、大蔵省よりは二月大少輔の名にて差支なしと回答せしに、三月に至り大蔵省の議変じ、「文化未だ開けざるの際、独り鉄道のみ洪大に敷延せんは然るべからず、況や開業後の利益は、資本の利息をも償ふ能はざるべきに於てをや。かくては会社の頽廃を来さんの虞あり、若し万一其蹉跌を見ば、漸く進歩発達の域に向へる気運を阻害するものなれば、賛同すること能はず」と答へて反対したれば、工部少輔山尾庸三は先生を訪ひて之を語る。先生之に苦しみ、僅に経費省減の希望を以て一時を弥縫せんとせしに似たり 此時先生より在阪の井上に送れる書あり 此時鉄道会社も計画齟齬して経費の倍増せるに驚き、明治五年四月に至り、京都府に対し、百四十万円の募集は容易の事にあらざれば、七十万円は規則の如く百円・五十円の株券にて発行するも、残りの七十万円は、十円以下の小券を発行して、応募者の便宜を図らんことを請へり。之について大蔵省の意見は、「京都より大阪までの鉄道建築の入費、最初の見込とは相違し、百三十万四千八百四十一弗《(マヽ)》の予算は、工部省実験上の定見にて、当省にて異議をいふべきにあらず、さりとて会社に於て聚金弁ぜざる時には、建築中止にも及ぶべきの処、会社にて引受出金せんといへるは幸の事なり、許可ありて然るべし。尤も不足金七十万円の分、十円以下の小券製造は弊害なきにあらざれども、会社の基本確定に至らば、其憂にも及ばざるべし、されば将来の利潤を失はず、諸人の困難を醸さヾる様の方法をば官府より指揮し、保護せんこと必要なり。万一頽廃せんには、会社の損耗のみにあらず、発行の株券は官府の負債となり、皇国の疲弊を来さんとす。されど敦賀
 - 第3巻 p.329 -ページ画像 
までの創業は、他日人民開化の域に達するまで中止すべしといへり。


世外井上公伝 第二巻・第四九一―四九七頁 〔昭和八年一二月〕(DK030108k-0002)
第3巻 p.329-331 ページ画像

世外井上公伝 第二巻・第四九一―四九七頁 〔昭和八年一二月〕
 既に第一章第九節に於て、三年三月より政府が京浜間の鉄道敷設工事に著手し、五年五月七日から、品川・横浜間の運転を開始したことを述べた。この鉄道に次いで我が国に起されたものは、大阪・神戸間の鉄道である。同鉄道は三年七月を以て測量を開始し、閏十月から工事に著手した。ついで、政府は四年三月に工部省に命じて京都・敦賀間の鉄道を計画し、四月に京都・大阪間を測量せしめた。而してその資金は民間に求めることとし、府民を誘導して鉄道会社を発起せしめた。即ち四年八月に三井・島田・小野の外に十人の用達が之に当つたのである。その規則書に拠ると、建築経費は一里約七万円と見て、総計金高七十万円を募集する。而して一株を百円として七千株。その内、三千五百株は発起人と社中の者で引受け、他は弘く之を世に募る。但し鉄道建築は凡て政府が之に当り、営業も亦政府の手に委し、而して全収入の中から営業費を差引き、益金の二割を会社に受けるもので、二十箇年後は何時にても政府はその元金を望に任せて払戻をなし、又鉄道の払下を請ふ時には、政府は鉄道を渡して会社の所有となすといふにあつた。以上の請願は、九月五日を以て許可の指令があつた。
 こゝに於て、十二月に大蔵大輔であつた公及び少輔吉田清成の名を以て、株券売出の規則書を各府県に頒布した。然るに五年二月に工部省が更に線路を測定するに及び、線路延長二十八哩一五として、嚮の建築費予算七十万円の約二倍即ち洋銀百三十一万四千八百四十一弗に上ることとなつたので、公はこの巨額の支出に就いて頗る難色があつた。会社に於ても彼の調査を聞いて大いに驚き、三井初め七十二人の連署を以て再請願を為した。その請願の趣旨は建築総金高百四十万円の中、七十万円は嚮に定めた規則で募集し、残り七十万円は一般流通の鉄道株手形十円以下の小券を発行し、これには利息を付せないといふにあつた。
 そこで四月五日に大蔵省は長文の照会書を工部省へ送つた。その大意を述べれば、「この程山尾少輔が京都に出張して調査した所に拠ると、鉄道建築費は百二十七万六千弗余を要する旨京都府へ申渡したさうで、その旨を同府知事から申立てて来たが、尚よく勘考するに、鉄道の敷設は、その地民衆の開化程度を顧慮せねばならぬ。京浜間の鉄道は官営であるから、今後の損益は一に係つて政府に在るけれど、京阪間は会社の建設であるから、今日のところ汽車の利益で資金の利息を仕払ふことも出来ぬと思ふ。今若し会社が非運に陥ることでもあれば、折角開明に向はうとする気配を挫き、進歩を妨げることが甚大であらう。米国では英国式建築法にて一里程四万弗位で出来るやうだから、それ位の金高で出来るなら、会社でしても償還の途は付くであらう。とにかく御同議にも及ぶが、何分前記の巨額を会社で募集するのは、当省として賛成しがたい。」とのことであつた。而して公はこの書に左の附書をして、同月之を正院に提出した。
   京坂之間鉄道建築取掛候に付てハ、出張工部省より入費金受取
 - 第3巻 p.330 -ページ画像 
方申出候ハバ、鉄道会社金七拾万円之内より渡方可取計旨、先達而掛合遣し候処、最初見込より一倍之入費と相成候に付而者、右七十万円渡切、不足之分受取方指揮受度段、京都府知事より伺出候間、別紙之通工部省え懸合置申候、右者当省より不足之入費金差出候訳に者至り兼候間、工部省え御移り合之上、可然御参考有之度、依而京都府伺並工部省え之懸合書写相添、此段申進候也 大蔵省文書
右の照会書を見た工部省の山尾少輔は或日公を大蔵省に訪うたところ、折から公は大阪出張中であつたので、渋沢が之に応接した。山尾は、「京阪鉄道建築に就いては、大蔵省に異論があるやうだが、これは工部省の独断で施行する訳でなく、予て正院へ申立て貴省へも合議に為り、決裁の上取計らつてゐるものである。一体鉄道建築といふものは容易の業でなく、中々会社の集金位で成功の目算は立たぬ。故に貴省の御引受がなくては取掛る訳のもので無い。然るを今に至つて御異存があつたのでは、迚も鉄道敷設の見込も無いので、旁々将来の成功確立の見込を承りたい。」と申立てた。渋沢はこれが弁解を避け、いづれ公に申談じた上で御答へすると挨拶して山尾を帰した。抑々工部省から出した鉄道予算といふのは、莫大なものであつたけれど、既に工部・大蔵の連署で正院の決裁を経たものである。而もこれが実行の点に至つては困難なものであつたので、渋沢は直ちに之を公に報じて考慮を求める所があつた。その後同月十五日に公は大阪から帰京し、会社の請願書を見て、政府は既に京阪間に敷設の意を明示した今日、経費の多少を以てこれを中止するのは、他の軽侮を招く所以であるとなし、乃ち意見書を正院に提出した。その大要は、「会社の事業は遅滞なく進ましめねばならぬ。かの請願の小券の如きも弊害なしとは断言しがたいが、政府に於て相当の指導と保護とを与へたならば之を免かれ得るであらう。抑々鉄道は困難な事業であるから、将来の経営は大いに慎重にせねばならぬ。京阪線は今日に及んで已む能はざる所であるけれど、敦賀線の如きは当分見合はせても良い。民力の未だ発達しないのに、西洋風物の極致を急速に模傚するのは採用すべきで無い。而も衆力の合致を得ずに、政府単独の事業を興すのは、概ね失敗に陥り易い。」といふものであつた。而して公は小券発行の事のみは之を許すに躊躇したのであるが、後之を許して所要の株式を募集することとし尋で十月に工部省は会社との条約を改訂し、公募の金額には年七朱の利子を下附することとした。既にして大蔵省では協議の上、「鉄道敷設の工事は工部省の管轄に属すと雖も、民衆の資金を聚合し、而して償還の利子に界限を設け、且つ利益を分与するが如きに至つては、会計上官民契約の事に属するのであるから、之を工部省に委するのは当を得ない。故に公貸及び利子等の処分は之を当省に委し、工事のみ工部省に委すべきである。」と決した。そして六年一月にこの省議が採択せられ、五月に工部省は更に実地を調査し経費を洋銀百五十六万四千五百十弗とした。蓋し物価の騰貴よりして経費に狂ひを生じたものである。この会社は最初より単に鉄道会社とのみ唱へ、その株券は西京鉄道株と称してゐたのであるが、この年に至り関西鉄道会社と命名し
 - 第3巻 p.331 -ページ画像 
た。而して五月に京都府知事と大蔵・工部両省との協議に依り、会社との嚮の約定を改めて、更に議定書を作成したが、この時は公が既に大蔵を去つた後のことである。而して十二月に至つて会社は解散し、工事は九年七月に竣成したのである。


鉄道寮事務簿 第二巻(DK030108k-0003)
第3巻 p.331-334 ページ画像

鉄道寮事務簿 第二巻 (鉄道省所蔵)
   乍恐以書附奉願上候
一今般鉄道御建築ニ付、別紙規則書之通会社取結ヒ、御用途ノ一端ヲモ奉助度候間、此段奉願上候尤会社人数之義ハ猶追々増加其節ニ可申上候間、此段御聞届願之通御許容被成下候ハヽ難有奉存候 以上
                 発起人御用達
  明治四辛未八月            三井八郎右衛門
                     三井三郎助
                     三井次郎左衛門
                     三井元之助
                     三井源右衛門
                     島田八郎右衛門
                     小野善助
                     下村正太郎
                   先入社中
                    御用達並
                     山下 弥太郎
                      ○外九名略
第一条 京都ヨリ大阪マテノ鉄道里程凡ソ十里ト見積リ、京都ノ停所ヨリ大阪ノ停所マテト取極ムヘシ、其建築ノ入費ハ一里ニ付凡ソ七万円ト見積リ、総金高七十万円ヲ要用トス
第二条 此七十万円ヲ募ルニ付鉄道会社ヲ創立ス、此会社ハ政府ノ允准ヲ得テ社ヲ結ヒ、鉄道ノ株手形ヲ出シ、以テ七十万円ノ金ヲ募ルヘシ
第三条 此鉄道ハ会社ニテ其建築入費ヲ募ルト雖モ、建築方ヨリ成功ノ上ノ取扱方モ皆政府ノ手ニテ之ヲ受持チ、他ノ鉄道ト異ル事ナシ故ニ政府ノ鉄道ニシテ、会社ハ元金ヲ出シテ政府ノ鉄道仲間ニ加入シ、其利足ト其益金トヲ得ルモノナリト心得ヘシ
第四条 此鉄道会社ヲ結フニハ、凡五人ヲ以テ発起人トナシテ、他ノ身元アル者ヲ会社ノ仲間ニ入レ、其株数元金ノ半高ニ至ルヲ待チ、凡ソ五十人ヲ限トスヘシ
第五条 発起人ノ進メニ応シ仲間ニ加ハル者ハ即チ鉄道会社ノ人ナリ、此内ヨリ一人ヲ選ミテ総頭取トナス、又五人ヲ選ミテ取締トナス、尤此人々ハ下条ニ表ヲ以テ掲タル通ノ株数ヲ所持スル人タルヘシ
 支配人勘定方等ノ者ハ其職ニ適フ者ヲ雇入レ、総頭取並取締ノ差図ヲ奉スヘキ者ナレハ、株主ニアラストモ可ナリ
第六条 鉄道ノ株ハ百円ヲ以テ一株トス、故ニ七十万円ニテ七千株トナル。其五十円ノ手券アルハ一株ヲ折半シテ世ノ便利ニ従フナリ
 株手形ハ会社ニテ彫刻シ、政府ノ允准ヲ得テ之ヲ発行スヘシ、其入費ハ政府ヨリ追テ之ヲ償フヘシ
 株手形ノ利息ハ一ケ年一割ト定メ一株ニ付十円ツヽ春秋両度ニ割合セ、株手
 - 第3巻 p.332 -ページ画像 
形ニ附タル利札ヲ持参ノ者ヘ渡スヘシ
第七条 会社ノ発起人並ニ其仲間ハ株手形ヲ売出スニ付、信ヲ政府ト庶人トニ表スヘキ人ナレハ、左ノ株数ヲ所持スヘシ
  七百株 会社発起人凡五人ニテ所持ス
   此金高七万円ニテ即チ元金七十万円ノ一割最初創立ノ節積立テ、凡五十人ノ者仲間入シタル上、平均ノ割高ニ応シ、七十株宛ニ減スル共可也
  二千八百株 会社仲間ニテ所持ス
   此金高二十八万円ニシテ、即チ元金ノ半高ヨリ右ノ七万円ヲ引去タル高ナリ
 右ニ付発起人並ニ仲間トヲ一ツニシテ凡ソ五十人ト見積リ、一人ニ付平均七十株宛
  会社総頭取ハ 百株以上ヲ所持スヘシ
  会社ノ取締ハ 七十株以上ヲ所持スヘシ
第八条 会社ノ仲間ニテ所持スル株数ノ残高ハ会社ヨリ之ヲ世上ニ売出シテ金ヲ募リ、毎月報告書ヲ添テ其募金ヲ府庁ニ出シ、府庁之ヲ政府ニ出ス、尤府庁ヨリ時々役人ヲ遣ハシ、会社ヲ監督セシムルノ理アルヘシ
 株手形ヲ売出シ金ヲ募ルノ年月ハ遅クトモ鉄道落成ノ時迄ヲ限トスヘシ、此期ニ至リ株手形不残売切ルコト不能時ハ、会社仲間ニテ買取ルトモ、或ハ売残丈ケノ元金ヲ減少スルトモ勝手タルヘシ
第九条 株手形ノ利足ハ証書面ノ通手形売渡ノ時ヨリ加ルト雖モ、之ヲ払渡スコトハ明治七年七月ヨリ始メ、二十年ノ後即チ明治二十四年正月一日ヨリ以来ハ、何時ニテモ政府ニ於テ其元金ヲ望ニマカセテ払戻シ其株ヲ取消スヘシ、尤会社ヨリ此元金ヲ払戻シ鉄道ヲ受ント乞フ時ハ、則チ会社ヘ鉄道ヲ渡シ永ク会社ノ所有トナサシムヘシ
第十条 株手形ノ利息ハ毎年両度ニ政府ヨリ之ヲ一マトメニシテ府庁ヘ渡シ、府庁ヨリ会社ヘ渡ス、会社ニ於テ其計帳ヲ開キ、持参ノ利札ト元帳ノ番号金高年月等ヲ悉ク引合セ、無差支之ヲ割渡スヘシ、故ニ利息ハ政府ヨリ直ニ株主ヘ払渡ス趣意ニテ唯政府ノ煩ヲ省カンタメニ会社ノ手ヲ経ル而已
第十一条 此株手形ノ取扱振ハ、凡ソ政府ノ公債調書ニ比シ唯政府ヨリ会社仲間ニ請合ヒ、会社仲間ヨリ株主ニ請合フ都合ナリ
 此株手形ハ本ヨリ売買勝手次第ナレハ、日本中何レノ支配ニ属スル者タリトモ素ヨリ無差支之ヲ所持スルノ理アルヘシ、故ニ利息払渡ノ節ハ其株主ヲ問ハスシテ其利札ヲ目的トスヘシ
第十二条 此鉄道会社ハ烏丸通元常見邸ヲ以テ主舗トス、但シ利息払渡ノ便ヲ謀リ主府主県ニ利払所ヲ設ケ追テ世上ニ公布スヘシ
第十三条 株手形ノ売買ハ勝手ナリト雖モ、会社仲間ノ人ハ総頭取ト取締トノ承届ヲ得ルニ非サレハ之ヲ売渡スヘカラス、又書入質入ニ致スヘカラス
第十四条 会社仲間ニテ所持スル株手形ハ宜シク之ヲ会社ノ庫中ニ蔵メ置クヘシ、若シ売渡スカ書入質入ニ致ス時ハ会社ノ株数帳ニ其次第ヲ書込ミ、総頭取並取締ノ差図ヲ得テ之ヲ庫中ヨリ出スコトヲ得
 - 第3巻 p.333 -ページ画像 
ヘシ
第十五条 会社仲間ノ人自己ノ株数ヲ減スルコトハ総頭取ノ承届ヲ得ル上ハ勝手タルヘシ、但七千ノ株手形ヲ尽ク売切ルマテ、或ハ鉄道落成マテハ之ヲ許サヽルヲ良トス
第十六条 鉄道ヲ建築スルノ後、汽車ヲ通行セシメ旅人ノ往来荷物ノ運輸ヲ初メ、鉄道ノ切手ヲ売出シ、偖一年ノ出納ヲ計リ愈利益アルノ期ニ至ラハ諸入用ヲ差引キ真ノ益金ノ二割ヲ毎年両度ニ政府ヨリ会社ヘ渡スヘシ、之ハ元金ヲ募リタル功ニ報フルタメナリ、此益金ハ会社仲間ノ株高ニ応シテ分配ストモ、或ハ功労ノ多少ニヨリテ分配ストモ会社仲間ノ取極ニ任スヘシ
第十七条 会社ノ仲間ハ其自己ノ身分ハ各々管轄セラレタル地方官ニ係ルト雖モ、鉄道ノ事務ニ於テハ工部省鉄道局ノ指揮ヲ受クヘシ
第十八条 此鉄道会社ハ毎月報告ヲ差出シ、会社仲間人員ノ増減株数ノ多寡並仲間ノ姓名等ヲ委シク書載スヘシ
第十九条 毎年両度利息払渡シ、前ニ会社仲間ノ人員増減株数ノ多寡総頭取取締人ノ姓名等悉ク書記シ、府庁ヲ経テ政府ヘ差出スヘシ
   京都府下町人三井八郎衛門《(右脱)》以下十七人より京都より大坂迄鉄道建築会社取結之義願出候ニ付伺
京都府下町人三井八郎右衛門以下十七人、今般京都より大坂迄鉄道建築会社取結度願書並規則書相添願上候趣、京都府より伺出候ニ付、規則其外株手形等熟慮取調候処、差支之廉も無之、至当之義と被存候、且伊藤博文より申越候次第も有之候間、旁以御許容可相成義と存候、依而別紙願書其外共相添、此段伺候也
  辛未九月三日              工部省
                      大蔵省
        正院御中
     張紙 伺之通  正院之印

今般鉄道会社取結御聞届相成候、就而者近日ヨリ株札売出シ之義別紙之通願出候間、会社規則書三百二十部差出候条、諸府県ヘ御頒布、株札売買無差支様御布告被成下度、此段相願候也
  辛未十二月三日             京都府
        大蔵省御中
  追而会社規則書御領布之節、万一不足ニ候ハヽ、御差図次第早々差出可申候也
 (別紙)
   乍恐奉願上候
一今般鉄道御取開候付、乍聊京都ヨリ大阪迄之御入費ヲ奉助度、会社取結、追々組立候ニ付、近日より株札売出シ可申候ニ付、普ク御布告奉願候、乍恐諸府県ヘ御達之程奉願上候、右願之通御聞届被成下候ハヽ難有仕合奉存候 以上
  辛未十一月                 鉄道会社
   辛未十二月九日
 - 第3巻 p.334 -ページ画像 
   大小輔      大木大録
    大小丞     諸務課
    検査頭助      属
  京都府出願鉄道会社規則書府県頒布等之義評議
別紙京都府願之趣府県ヘ御布告候中、会社規則書頒布之儀トも御聞届可相成哉、御布達案取調相伺申候
    府県ヘ布達案
 今般三井三郎助頭取京坂之間江鉄道相開候為メ、会社取結、別紙規則書之通方法取設ケ候条、有志之輩ハ株札売買可為勝手、依而右規則書四部ツヽ相達候也
   辛未十二月            大少輔
        府県宛
   ○是ヨリ先キ政府ハ既ニ東京横浜間及ビ大阪神戸間ノ鉄道敷設ニ着手シ、外債百万磅ヲ募リ、ソノ資ニ宛テタルモ猶不足ヲ告ゲ、爾余ノ線路延長ニ及ブヲ得ズ。是ニ於テ京都府参事植村正直ハ府下豪商ニ慫慂シ、四年三月二十日附ヲ以テ工部省ニ具申シテ、敦賀線建築ヲ民資ヲ以テスルノ意ヲ示セリ。依テ同月太政官達ニヨリ京都敦賀間ヲ、四月大阪京都間ヲ各測量スベキ旨工部省ニ命ゼラル。六月十七日ニ至リ三井八郎右衛門外十七名鉄道会社取結ニ付願出、更ニ願書ヲ改訂シテ八月十六日、規則書ト共ニ京都府庁ヲ経テ上申ス。右ノ鉄道会社ハハジメ単ニ鉄道会社ト称シ、規則書株券雛形ニハ西京鉄道会社ト記シ後明治六年四月関西鉄道会社ト改称セリ。
   ○上掲明治四年九月三日付大蔵工部両省連署ノ稟議ニ対スル正院ノ許可ハ大蔵省沿革志 本省第五 (明治前期 財政経済史料集成 第二巻 第二〇三頁)ニハ九月五日裁下トアリ、又同年十二月九日付稟議案ハ太政官ヘ上リ裁下セラレルヽ項ヲ同書ハ十二月十八日条ニ載セタリ。
   ○府県宛布達ハ大蔵大輔井上馨同少輔吉田清成ノ名ヲ以テシ、栄一コノ件ニハ稟議案作製ニ参劃ノ外関係明ナラス。但シ後コノ件栄一ノ管掌スルトコロトナル。後掲ヲ見ヨ。


工部省記録 第一巻(DK030108k-0004)
第3巻 p.334 ページ画像

工部省記録 第一巻              (鉄道省所蔵)
   大坂ヨリ西京迄鉄道建築之儀伺
大坂ヨリ西京迄鉄道建築之儀被仰出候ニ付別紙之通井上鉄道頭より伺書差出候間相伺申候右ニ而線路方向並建築方等可然儀ニ候ハヽ御入費出方之義大蔵省ヘ御達有之度依之別紙絵図面其外相添此段相伺候也 ○別紙不載後出鉄道建築調書ヲ見ヨ
  壬申 正月廿三日        工部少輔 山尾庸三
       正院御中
 (二行朱書)
  伺之通
   但捷線之方ニ御決定相成候事
            二月五日伺済


鉄道寮事務簿 第五巻(DK030108k-0005)
第3巻 p.334-337 ページ画像

鉄道寮事務簿 第五巻            (鉄道省所蔵)
   大坂西京之間鉄道建築調書
昨年三月西京より敦賀迄測量被仰付、尚又四月同所より大坂迄測量可致、御沙汰相成候ニ付、線路測量ニ取掛候内、先差向大坂西京之間鉄
 - 第3巻 p.335 -ページ画像 
道建築概算調書別紙之通ニ有之、尚再度計較仕候処、此概算ニ付而ハ迂捷之二途有之、是を甲乙ニ分ち、甲ノ一途者成丈ケ捷路ヲ取り、大坂より直ニ吹田ニ赴く、又乙ノ一途ハ大坂より神崎村迄 神戸線ノ熟路ナリ 逆退して同村より別路東行して吹田ニ赴く、則大坂より之直道と出会致し別紙略図之通鼎峙之形ニ而三角之岐途各線之出会所ニ相成候
甲之一途概算ハ大坂より西京迄線路ハ英里数二十八里十五ニ而此建築之入費単線ナラハ百拾九万五千九百九拾弗、尤諸所大小橋及田畑用水悪水抜諸溝修造等初発より複線ヲ敷通シ候方便利ニ可有之、就而は拾壱万八千九百三十二弗を増加して惣高百三拾壱万四千八百四拾壱弗と相成候
乙之一途概算ハ大坂より神崎村迄回り西京へ線路英里数三十里〇五九ニ而、此内大阪より神崎迄ハ既ニ神戸線路ノ内ナリ神崎村より西京迄建築之入費単線ナラハ百拾八万千〇二十三弗、諸修造前同様《(マヽ)》ニテ複線ヲ敷通シ候入費九万五千三百七拾弗を増加して惣高百弐拾七万六千三百九拾三弗と相成候
○下略

 (山尾)
  (印) 少輔
 (佐野)
  (印) 大少丞
大阪ヨリ西京迄鉄道建築之義、別紙之通伺済相成候ニ付、御省江も御達相成候義と存候、就而は無程建築等ニ取掛候間、惣御入用百三拾壱万四千八百四拾壱弗程之凡目的高ニ有之候、御省ヨリ御渡方之義ニ付前以御打合申置度此段及御掛合候也
  壬申二月七日             山尾工部少輔
        井上大蔵大輔殿
        吉田大蔵少輔殿
西京ヨリ大坂迄鉄路建築御許可相成候ニ付、右御入用金請取方御申越之趣致承知候、右者京都府おゐて渡方之積申達置候間、請取方同府へ御申出可有之、尤精算帳之儀者一ケ月限取調、是亦同府へ御差出可有之候、此段及御回答候也
  壬申二月十二日             大蔵省
      工部省
        御中

此程山尾少輔殿登京之上、京坂之間鉄道建築致候ニ付而は百廿七万六千弗余相掛候由、京都府江申渡之趣ニ而、同府知事より申立候次第も有之、厚勘考致し候所、一体鉄道築造之義は往復運輸之便交際流通ヲ拡充スルノ基礎、随而人民営生之利益ヲ増候ハ必然ニ候得共、興止利害得失如何は其地其人民之開化厚薄如何帰シ候義と存候、第一海外諸国鉄道は其国其民開化隆盛之極、現今我国ニ比較難致、未開人民物産不盛之域江独鉄道ノミ洪大ニ敷延致し候共、其実際不適当と存候、将横浜より東京迄之鉄道は悉皆官費築建ニ候得は、向後之損益一切政府ニアリテ、現在人民之損耗ニハ無之候得共、京坂之義は会社ニ而建立之義故、今時之景況ニ拠リ、得失参考致し候得共、中々汽車之利潤ヲ以資本之利足ヲも難償様被存候、然は会社之頽廃結社之未然ニ相観へ、若
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シ此盛挙失敗致候時は、未開之人民漸ク文明ニ赴カントスルノ気配ヲ屈き、却而進歩ヲ懲縮サセ候様之義も可有之歟と存候、併亜墨利加建築之鉄道は英吉利式之造作ニ而一里程四万弗位ニ有之由、右等之金額ヲ以出来候ハヽ費用総額多分相減シ、他日会社人民費用償却之道も可ナリ可相立と存候間、兎ニ角御同議ニモ可及候得共、何分前顕数万之本入金仮令会社ニ而募散致し、当省ニ不関といへとも、到底会社之困難ニ陥リ候義は於当省御同議難致、依而此段及御掛合候也
  壬申四月七日               大蔵省
      工部省
        御中
   (山尾)(佐野)
 (印)
(案)
京坂之間鉄道建築之費用百廿七万六千弗余相掛候段、過日登京之節京都府ヘ申談候儀ニ付、同府より申立候次第も有之、厚御勘考之上云々、御懸合之趣逐一致承知候、然ル処右鉄道之儀ハ独リ京坂之便ニ備候而已ニ無之、越前敦賀迄之測量被命、遂ニは敦賀迄鉄路ヲ布設シ、北国陸運之便利ヲ十分ニ得セシメントノ庿儀ニ因リ、先測量相済候京坂之間より致創建、其事業結局至極緊要之挙ニ有之候、然ルニ未開之人民物産不盛之域ヘ独鉄道而已洪大敷延致候共、其実際不適当ト御申越之儀は、当省見込ト齟齬致シ候得共、今日ニ至リ其可否ヲ論候場合ニモ無之候間、強而御議論モ御座候ハヽ、御見込之処ハ正院ヘ御申立可然存候、尤建築之儀ニ付而は経費之多寡第一ニ考究可致は申迄も無之候得共、偏ニ金額ニ拘泥シ、後来之損破保持ヲ不計候而は、其害忽チ至リ可申、右ハ官ノ関不関ニ不拘、能ク其利害得失ヲ考量シ、冗費ヲ省減シテ堅牢ニ落成致候様可取計事勿論候、乍併御書中亜墨利加ニ而建築セル鉄道之一里ト申ハ、即英国之里法ニ而我十四丁余ニ当ル所ニ而ハ無之候哉、今般建築之入費は英之一里ニ付四万六千七百八弗之見込ニ候間、彼之四万弗ト比較候得は六千七百八弗丈ケ過金相成候得共、轍線其外彼之物品ヲ多用シ、殊ニ本邦不馴之者ヲ遣ヒ、建築之用ニ充候事故、自然御入用も相嵩候は不得止義ニテ、右ハ邦人ヲシテ勉励従事、速ニ工術ニ進歩練熟セシメ、大ニ国用ニ供スルノ資本ニ有之候、且仮令英亜人等ニ為請負候共、諸物品之運輸建築技術者多人数之航海等入費も亦多分相懸リ可申ニ付、必四万弗ニ而請負堅固ニ築造候哉否ハ無覚束存候、況ヤ我一里之行程洋銀四万弗位ニ而請負候者有之トハ見込不申候得共、自然其儀申立候者も有之候ハヽ、其次第承知致度候、尤京坂之間建築之儀は当二月中伺済、御省共御打合済之末、事業既ニ取懸リ申候、此段御答旁申進候也
  壬申四月十□《(日カ)》         山尾工部少輔
      井上大蔵大輔殿
      渋沢従五位殿
      上野従五位殿
  本文京都府より建築費用百廿七万六千弗ト申越之趣ニ候得共、右は当省より伺済之費用ハ総計百三十一万四千八百四十一弗ニ有之候、
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右御心得迄申進置候也



〔参考〕渋沢栄一書翰 大隈重信宛(明治五年)三月一二日(DK030108k-0006)
第3巻 p.337 ページ画像

渋沢栄一書翰 大隈重信宛(明治五年)三月一二日 (大隈侯爵家所蔵)
鉄道会社より差出候書面京都府参事植村より申来候処、右ハ井上大輔滞京中夫々処置可致筈ニ付、右書類ハ其儘取置可然仍御廻し越相成正ニ収手仕候、今日出便も有之候間尚大輔ヘ可申遣、且右廻越之書類ハ一覧之間暫御預リ申上候、奉答匆々如此御坐候也
  三月十二日
                        渋沢栄一
    大隈参議殿