デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.337-339(DK030109k) ページ画像

明治五年壬申四月(1872年)

大蔵大輔井上馨ト共ニ太陽暦ニ改ムベキコトヲ正院ニ建議ス。政府之ヲ容レ、同年十一月九日改暦ノ詔ヲ発シテ、太陽暦ヲ採用ス。


■資料

青淵先生伝初稿 第七章六・第一六―一七頁〔大正八―一二年〕(DK030109k-0001)
第3巻 p.337 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章六・第一六―一七頁〔大正八―一二年〕
○上略 時刻の計算は一日を昼夜に分ち、更に之を各々六時に区分するが故に、季節昼夜の伸縮によりて一時間の長短均しからず、且つ官辺は多く洋式の時を用ゐ、民間は多く日本時を用ゐ、官民の時刻混淆して、不便尠からず。先生之を憂ひ、明治五年四月井上と謀り、天下一般西洋の制度に傚ひ、一日を二十四時に分たんことを正院に建議せり。政府之に従ひ、同年十一月九日改暦の詔を発し、太陰暦を廃して太陽暦を採用するや、同時に太政官達を以て、昼夜平分二十四時に分つことを公布せり。天下始めて不便を免る。 ○下略
   ○栄一等ノ建議ハ今伝ハラザレドモ、初稿ノ編者ハ震災前ノ大蔵省所蔵記録中ニ之ヲ見タルナリ。


法令全書 明治五年・第二三〇―二三二頁 太政官 第三百三十七号十一月九日(布)(DK030109k-0002)
第3巻 p.337-338 ページ画像

法令全書 明治五年・第二三〇―二三二頁
太政官 第三百三十七号十一月九日 (布)
今般改暦ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候条此旨相達候事
 (別紙)
  詔書写
朕惟フニ我邦通行ノ暦タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス、故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス、置閏ノ前後時ニ季候ノ早晩アリ、終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル、殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ属シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス、蓋シ太陽暦ハ太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ツ、日子多少ノ異アリト雖トモ季候早晩ノ変ナク四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ、七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス、之ヲ太陰暦ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固リ論ヲ俟タサルナリ、依テ自今旧暦ヲ廃シ、太陽暦ヲ用ヒ、天下永世之ヲ遵行セシメン、百官有司其レ斯旨ヲ体セヨ
  明治五年壬申十一月九日
 - 第3巻 p.338 -ページ画像 
    ○
一今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
  但新暦鏤板出来次第頒布候事
一一ケ年三百六十五日十二ケ月ニ分チ四年毎ニ一日ノ閏ヲ置候事
一時刻ノ儀是迄昼夜長短ニ随ヒ、十二時ニ相分チ候処、今後改テ時辰儀時刻昼夜平分二十四時ニ定メ、子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ、午前幾時ト称シ、午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ、午後幾時ト称候事
一時鐘ノ儀来ル一月一日ヨリ右時刻ニ可改事
  但是迄時辰儀時刻ヲ何字ト唱来候処以後何時ト可称事
一諸祭典等旧暦月日ヲ新暦月日ニ相当シ施行可致事
   太陽暦 一年三百六十五日
       閏年三百六十六日 四年毎ニ置之

   一月大  三十一日        其一日 即旧暦壬申 十二月三日
   二月小  二十八日 閏年二十九日 其一日  同 癸酉 正月四日
   三月大  三十一日        其一日  同    二月三日
   四月小  三十日         其一日  同 三月五日
   五月大  三十一日        其一日  同 四月五日
   六月小  三十日         其一日  同 五月七日
   七月大  三十一日        其一日  同 六月七日
   八月大  三十一日        其一日  同 閏六月九日
   九月小  三十日         其一日  同 七月十日
   十月大  三十一日        其一日  同 八月十日
   十一月小 三十日         其一日  同 九月十二日
   十二月大 三十一日        其一日  同 十月十二日
    大小毎年替ルコトナシ

       時刻表

   零時 即午後十二字 子刻  一時  子半刻  二時  丑刻   三時  丑半刻
午前 四時        寅刻  五時  寅半刻  六時  卯刻   七時  卯半刻
   八時        辰刻  九時  辰半刻  十時  巳刻  十一時  巳半刻
  十二時        午刻
   一時        午半刻 二時  未刻   三時  未半刻  四時  申刻
午後 五時        申半刻 六時  酉刻   七時  酉半刻  八時  戌刻
   九時        戌半刻 十時  亥刻  十一時  亥半刻 十二時  子刻

右之通被定候事



〔参考〕大隈侯八十五年史 一・第四五四―四五六頁 〔大正一五年一二月〕(DK030109k-0003)
第3巻 p.338-339 ページ画像

大隈侯八十五年史 一・第四五四―四五六頁 〔大正一五年一二月〕
 玆に尚ほ特筆すべきは暦法改正である。わが国の暦法は曾て支那から伝へられ、久しく大陰暦を用ゐたが、五年十一月、断然それをやめ、天皇親ら厳かに改暦式を宮中に行はせられ、次いで太陽暦に改むべき旨を大廟並に歴代の神霊に告げさせられた。間もなく、新暦本を普く天下に頒行し、十二月三日、明治六年一月一日と改めた。それは大陰太陽両暦の得失を理由とする外、更に世界の大勢に順応し且つ従来の暦本中にある迷信的事項を除くためにもよるが、更に実際上大陰暦を不利とする重要なる理由が今一つあつた。それは諸官員に支給すべき
 - 第3巻 p.339 -ページ画像 
俸給が、昔のやうに俸米でなくて金子となり、年俸でなく月給となつた時代に、歳の正閏に依り、月数を異にし、二三年毎に必ず十三ケ月となる場合があると、歳出予算を定むる上に、甚だ不便不利があつた。それも亦改正を要した一つの動機である。君が改暦を強く主張して止まなかつた所以も一つはそこにあつた。
 ところがこの事のため他方に意外な物議を惹起した。それは他ではない、従来暦本は年々大廟の大麻と共に、伊勢の神宮が一般にそれを頒布し、生活の一助として来たので、一朝、大陰暦が廃止されて暦本頒布の特権を奪はれる由を聞くと、大に驚いた。彼等は「それではこの後大廟の尊厳も如何あらう。今回の改暦は実に国体破壊の漸を成すものだ」と唱へ、人心を動揺させた。それに次いで突如として大廟遷座論なるものが起つた。古例によると祖廟を宮中に安置して、その神霊を擁護した事もあるので、大廟を彼等神官の手から離し、それを東都の宮中に遷座し奉るべしといふことを伊知地正治が首唱し、西郷、板垣等がそれを賛したので、一時勢を得た。その時、君は祖廟遷移の事は民心の上に大きく影響すべきを思ひ、且つ左迄移転を主張する必要がないと考へたので、断乎としてこれを排し「大廟の国体に関係あるは言ふを俟たぬが、その所在によつて国体に影響があらう筈はない。且つ久しく伊勢に鎮座せられあるのは、神意に基づくといふ歴史的根拠がある。苟も神意の変らない限り、又これを継承し給ふ陛下の大御心の動かせ給はぬ限り、臣民たるものは、決して遷座の事を私議すべきでない。これを敢てするのは僣越だ。国体上、危険至極の事である」と主張した。けれども廟議は遷座論に傾き将に三条に迫つて陛下に請ひ奉らうとするに至つた。君はその正しと信ずるところを貫くため、已むを得ず、遣外使節と閣臣との間の約定を取出し、「大廟遷座は真に国の重大事である。軽々の処断を許さない。断じて使節の帰朝を待つて決するか、或は書信を往復して審議した後に事を定むべきである」と切論したので、漸くその事は中止になつた。
   ○大隈重信モ別ニ建議セルモノカ、或ハ栄一等ノ建議ヲ支持セルモノカ、今明カナラズ。