デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.339-366(DK030110k) ページ画像

明治五年壬申四月(1872年)

是ヨリ先、明治四年七月政府盛岡藩ノ債務ヲ継承スルニ及ビ、大蔵省同藩用達村井茂兵衛ノ採掘権ヲ有スル秋田県尾去沢銅山ヲ差押ヘ、後之ヲ上納セシメテ是月岡田平蔵ヲシテ採掘ニ従事セシム。当時井上馨大蔵大輔ヲ以テ其局ニ当リ、栄一等モ之ニ与リシガ、其間ニ私曲アリトノ嫌疑ヲ受ケタリ。尋イデ六年十二月十八日村井ハ司法省裁判所検事局ニ出訴シ、井上及ビ栄一等数名連坐ス。明治八年十二月二十六日東京上等裁判所判決ヲ下シ、之ヲ紙幣大属川村選ノ大蔵省十等出仕ニテ判理局出仕中ノ過誤ナリトシ、同人ニ罰俸三ケ月ヲ申付
 - 第3巻 p.340 -ページ画像 
ケ、大蔵省ヨリ二万五千円ヲ村井ニ還付シ、井上ニハ川村ノ第三従トシテ懲役二年ニ代フルニ贖罪金参拾円ヲ申付ケ、栄一等数名ハ無罪トナル。


■資料

明治文化研究 第三輯 〔昭和九年十月〕(DK030110k-0001)
第3巻 p.340 ページ画像

明治文化研究 第三輯               〔昭和九年十月〕
                   正五位 渋沢栄一
 其方儀大蔵省在職中村井茂兵衛稼キ尾去沢銅山附属品買上代価同人承諾ノ証書相添ハサル決議ノ文案ニ連署セシ科、名例律同僚犯公罪条ニ依リ所由川村選ノ第三従トナシ二等ヲ減シ無罪(疑獄史の一断面)


渋沢子爵家所蔵文書 【拝答書】(DK030110k-0002)
第3巻 p.340-342 ページ画像

渋沢子爵家所蔵文書
    拝答書
旧盛岡藩外国負債ニ関係致候村井茂兵衛分借金相滞候ニ付、同人請負稼致居候陸中国尾去沢銅山返上、諸器械附属品悉皆御買上之上、其代価之内ヲ以上納致度願之趣、私儀大蔵省奉職中壬申三月廿四日之廻議ニテ聞届相成居、右ハ必公平之評価無之テハ願意聞届之主意難相立筋ニ相聞候、然ルヲ今日ニ至ル迄其儀無之ハ如何ノ心得ニ有之タル哉、詳細書取ヲ以可申上旨御封書御推問之趣敬承仕候、右ハ私奉職中取扱候事柄ニハ候得共、最早三歳余ヲ経過候儀ニ付、其節之書類等モ熟読不仕候テハ詳細之所ハ記憶仕兼候得共、御封入之廻議写ニヨリテ当時之手続ヲ推測仕候ニ概略左之通ニ相覚居候
 村井茂兵衛儀旧盛岡藩外国負債分借金其外ニテ其節大蔵省ヘ上納可致金額凡五万五千円余之処、其前同人身代向ハ元民部省ヨリ取締被申付、別ニ上納金ノ目途無之ニ付、同人ノ志願ニテ夫迄請負稼致居候陸中国尾去沢銅山ヲ返上致、右附属品一切御買上相願、其金ヲ以前書上納金ニ充申度旨、元江刺県ヘ数度願出候末、壬申二月頃大蔵省ヘ其段願出候ニ付、其情実ヲモ篤ト為承糺候処、全以同人之志願ニ出候儀ニテ外ニ返納金調達ノ工夫ハ無之趣ニ付、不得已願意聞届候外無之処、其節大蔵省議ニ於テハ鉱山官行ハ先以見合候方可然トノ考案ニ有之候ニ付テハ、弥右銅山ヲ村井茂兵衛ヨリ返上致候ハハ、跡引受之稼人無之テハ附属ノ諸器械其外モ価位ヲ失シ可申、殊ニ右附属品之類ハ其鉱山相稼候ヨリ価モ相生シ候儀ニテ素ヨリ通常物品之売却方法ヲ以取扱難出来筈ニ付、可成丈茂兵衛ノ資産不相減様ノ心得ニテ、跡引受人ノ論議ニ及候処、折節大阪商岡田平蔵ト申者従来鉱坑之業ハ相心得候由ニテ、其身代向モ相応ニ相営居、右山請負稼ノ儀願出、且此坑業御許可之上ハ外国之器械買入漸次拡伸ノ目的モ充分有之候旨申立候ニ付、跡稼人ハ同人ヘ可申付ト省議相決シ、茂兵衛方ヘハ銅山附属品一切ヲ以大蔵省返上金ニ充可申、平蔵方ヘハ其附属品一切ヲ以テ金五万五千円余ニ引受可申旨申談、双方共承諾致候ニ付、両人之願書ヘ夫々指令及候儀ニテ、既ニ右銅山受取渡ニ付テハ大蔵省ヨリ官員モ出張為致、茂兵衛・平蔵両人ヨリモ代理之者罷出受取渡相済候、届書等ハ双方ヨリ差出有之候様相覚居候、右銅山返上ニ付テハ公平ノ評価無之テハ願意聞届ノ主意難相立筋トノ御推問ニ候得共、既ニ前段具陳之通本人ノ志願ニテ返上之儀
 - 第3巻 p.341 -ページ画像 
申立其附属品ノ代価ヲ以テ上納金ニ充申度トノ儀ニ付、跡引受人モ詮議致シ幸岡田平蔵儀ハ稼方ニ見込有之趣ニテ願出モ有之ニ付、附属諸品ノ代価積立等モ大蔵省ヨリ厚ク申談ノ上、通常ノ価位ニ不拘出格之勉強ニテ金五万五千円余ニ引受候儀ハ事実無相違相聞、殊更茂兵衛右銅山返上之儀ハ敢テ身代分散ノ方法ニ拠リ候事ニモ無之、其上当時ノ有様ニテハ官府ノ負債ニ対シテ其所有品ヲ引取候トテ、評価公売之成則等ハ無之儀ニ付、双方承諾ノ上ニテ其事実不相当之儀無之候ハヽ、聊以差支無之事ト相考、双方之願意聞届夫々指令仕候儀ニ御座候
右御推問ニ付記憶之件々拝答仕候也
  明治八年九月 日
    東京上等裁判所
     六等判事 中村元嘉殿
去ル三日村井茂兵衛返上金之儀ニ付、封書ヲ以推問ニ及候処答弁書ニ対シ左之件々更ニ及尋問候
 (朱字)
 第一大蔵省ヘ上納五万五千円余之所云々
右茂兵衛大蔵省ヘ之上納金ハ結局三万六千円余ニテ此金額上納督促ノ末、別紙第一号写之通リ出納差出タル事ニ有之、江刺県米代滞九千円並為替会社負債壱万円余ハ全ク鉱山ニ附帯シタル借財ニテ大蔵省ニ対スル部分ニ無之事
 (朱字)
 第二茂兵衛資産不相減ニト相考居候所云々
右文意ニ因ル時ハ代価定マラサル見エタリ、然レハ岡田平蔵ノ外高価ニ可引請モノ無之トハ何ニ因テ証明セラレタリ哉
 (朱字)
 第三茂兵衛方ヘハ銅山附属品一切ヲ以返上金ニ充テ可申云々
右茂兵衛之願意ハ別紙第一号写之通代価定マラス、其後五万五千四百円ヲ以返上致度ト申出タル証拠不相見、達書ニモ亦代価ノ内ヲ以云々ト有之、然レハ五万五千四百円ヲ以異議ナシトハ、何ニ因テ証明サル哉、蓋茂兵衛ノ諾不諾ヲ不問、鉱山及ヒ諸物品ヲ引上ケタリト云ン乎、恐ラクハ大蔵省ニ於テ其権ナカルヘシ、依テ問フ鉱山返上ハ茂兵衛ニ願意ヲ許可セラレタル哉、将取上ニ相成リタル哉
 (朱字)
 第四所有物ヲ引上候トテ公平之評価成則ハ無之ニ付、双方承諾ノ上云々
右双方承諾之上ハ公私之別ナク、今日トテモ裁判上ノ所分ニ非ラサルヨリハ、必シモ評価公売ヲ要セス、双方承諾ノ証拠何レニ在ル哉、且大蔵省ニ於テ最初三月二日回議案中ニ「附属品代入札申付落札高ヲ以返納金数ヨリ過分有之節ハ茂兵衛ヘ被遣可然云々」《(朱字)》ト有之其許申立ト矛盾致候条更ニ封書ヲ以可被申出候也
  明 八 九月八日          六等――――――
        ――――――殿
(栄一自筆)
      拝答書
村井茂兵衛返納金一件ニ付本月二日御封書御推問ノ趣、同五日書取ヲ以テ拝答仕候処、右答弁中齟齬ノ件々有之候由ニテ、去ル八日更ニ御封書御推問ノ趣奉敬承候、右ハ五日附ノ書面ニモ申上候通リ、三歳余
 - 第3巻 p.342 -ページ画像 
ヲ過去リ候義ニ付、旧記等熟覧不仕候テハ、胸間ノ追想ニ出テ或ハ齟齬ノ事共無之トモ難申上ニ付、其段ハ御寛恕被下度候、就テ右再御推問ノ件々ハ左ニ御答奉申上候 ○以下欠ク


世外侯事歴 維新財政談 下・第三六四―三七〇頁 〔大正一〇年九月〕 三二 尾去沢一件(DK030110k-0003)
第3巻 p.342-344 ページ画像

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世外井上公伝 第二巻・第五五―一一二頁 〔昭和八年一二月〕(DK030110k-0004)
第3巻 p.344-364 ページ画像

世外井上公伝 第二巻・第五五―一一二頁 〔昭和八年一二月〕
    第五節 尾去沢銅山事件 (その一)
 尾去沢銅山といふのは、旧盛岡藩即ち南部侯の治下で、現今は秋田県鹿角郡尾去沢村に属し、谷内川の左岸で、花輪駅を距る西方一里許に位する銅山である。この銅山は慶長年間に金を、寛文年間に銅を掘始めたと伝へてゐる処で、『南部侯の御世帯』の一であつたといはれてゐた。明治維新に際し、盛岡藩の財政は頗る窮迫して、銅山経営の資金を調達するに苦しみ、已むを得ず明治元年より経営を村井茂兵衛の手に委ねるに至つた。
 村井は文久元年に藩の大阪蔵屋敷から尾去沢銅山関係の資金の送達に就いて為替御用を勤めたので、大方大阪に居たのであつた。而してその後南部家の一時転封があつて、藩への献金なども相当に勤めてゐた。併し藩の財政は愈々行詰り、村井から藩への貸上金は既に五万両となつてゐたので、已むを得ず元年から、銅山を村井の手に引請けねばならぬことに為つたのである。ついで版籍奉還に際し、村井は更めて鉱山司から同銅山の稼方を命ぜられ、二年六月に盛岡県から左の指令を受けた。「今般歎願ノ趣モ有之候間、已前ノ達ヲ以テ、当巳年ヨリ来ル酉年迄六ケ年ノ間、御任相成候条、依之年々為冥加、金壱万三千両ヅツ七月・十二月二季ニ金上納、御銅山諸事前々定之通取行、不取締ノ義無之、諸働ノ者共迷惑筋不相成様、製銅出産御益増ノ義可為専務候。且非常私曲ノ義有之ニ於テハ、年限中ニテモ免許差上可申也。」大蔵省文書然るところその後銅山経営は好成績を挙げ得ず、終に出銅皆無の有様と為つた。加之、村井は藩より依託された十二万余両を各商法
 - 第3巻 p.345 -ページ画像 
に振向けてゐたが、これとて急に回収も出来ず、他より高利の金子を借入れて漸く一部分の責を塞いでゐた。併し商法も見込違ひと為りて夥しい損害を被り、京阪に於ける商業取引も全く杜絶の有様と為り、村井は愈々苦境に沈むこととなつた。更に村井は、三年に入りて強制的に盛岡藩産物商社の頭取に推された。それで外国取引の書類にも彼は少なからず調印したので、旁々村井の家は到底支ヘ得ぬ有様となつた。而も村井は東大参事等から、「領主に対して多年の恩顧に酬いるのはこの時である。」と懇々説諭を加へられ、終に九月十三日に盛岡県大参事以下四名の連署を以て、「高知藩商会並オールト弁金の義ニ付、為国家其方家産傾け候而も尽力可致、右功労之儀者無遺失、後来引立可遣候事。」と達せられた。村井は已むを得ず『家産傾ケ』の証書に調印した。
 そこで大蔵省は前記の四千六百両余と外に三万千四百両は、之を村井の分借金と見做し、都合三万六千円余を村井より徴収すべき旨を達した。その際村井は之に応ぜず抗弁したので、政府は已むを得ず、四年七月十三日を以て、盛岡県に命じて村井の家産一切に封印を命じた。村井側からいふと、それは川井が申立てた如き、孛人ライスヘンケーより借入れた金の内からの分借金では無く、その理由に就いても大蔵省で碌々調査もせず、村井のいひ分を採用しなかつたのであるといふのである。かくして家財に封印されては、村井の金融が礑と止まるのは当然である。これより先、村井は四年六月より五年二月まで四回に及んで、銅山返上・山内諸物品定価買上げの事を願つてゐた。村井の要求する諸物品の定価といふは、旧藩から買取つたと称する代価十二万四千八百円であつたから、政府は之に耳を仮さず、即時嚮の残金を上納すべく命じた。かくて五年三月五日に、村井は該銅山を見込に立て、七箇年乃至三箇年賦にて上納を歎願した。併し政府では聞届がなかつた。
 而して三月十八日に大蔵省十等出仕川村選は、「岡田平蔵尾去沢礦山引受願之儀ニ付見込取調伺」と目安書した稟議書を作製し、諸務課・判理局・丞を経て輔に提出し、大輔たる公が之に決裁した。その文意に拠ると、五万五千三百五十六両余 五月三十日、大蔵省より工部省へ打合はせの書面に五万五千四百円と為つて居るのは、端金が有つては不都合といふので、切上げたものである を村井から上納すれば、一件が落着することであるが、当時の村井に弁金の途が無いから、出願も有ることだから尾去沢銅山を返上せしめ、その附属品を悉皆買上げ、希望の人物を見立てて同山の事業を継承せしめたい。幸ひ大阪の商人岡田平蔵といふ者が志望の理由を申出たので、身許を取糺して見れば、鉱業には随分巧者であり、殊に造幣寮の御用をも勤め、身代は相応の者であるから、願の通り允許になつて然るべきや、就いては右還納金五万五千余円の内訳は左の如く致したい。即ち村井から上納すべき分、
  金三万六千一百〇八両三分永十三文七分は之を年賦にして、岡田に納めさせる。
  金一万九千二百四十八両二朱永十一文三分は之を年賦にして、岡田・村井二人打合はせの上、秋田県へ納めさせる。
 右決議と為つたならば、村井が家財封印を解くことを仰付けられて然るべく、依て大阪府・岩手県・秋田県へその旨を達せられたい。又
 - 第3巻 p.346 -ページ画像 
鉱山に関しての主務省たる工部省へも照会されたいといふことであつた。
 かくて同二十五日に、遂に銅山返上の達書に対しての請書を出してこゝに尾去沢銅山は全く村井の手を離れた。而して村井の家財封印附は同時に解除されたのである。同月三十日に公は渋沢及び上野と連名の打合書を山尾工部少輔に提出し、銅山経営方を岡田へ下命されたい旨を通じた。公から山尾への照会はこれが二度目であつた。これで間も無く発令があつたと見え、四月に大蔵省から川村選が現地に出張し銅山燃込釜・在銅・米塩・味噌・器械その他の在庫品一切を岡田へ引渡した。これより後は岡田が採鉱に従事したのである。但し岡田の上納金年賦決定は十一月のことで、その年に二千五百八円七十六銭三厘七毛を即納し、残金は毎年年額二千四百円を両度に分納することに為つた。
 村井は一旦は銅山を上納したものの、銅山を岡田へ下渡され、その条件として村井が上納を怠つた金高と同額を弁済し、而も年賦上納に為されてゐるといふに至つては、尾去沢銅山に対して簡単に断念するわけには行かなかつた。即ち大蔵省に対して屡々上願して、嚮の金高を即納もしようから、従来不況の間を兎も角も取続けて来た事に同情されて、自分へ銅山経営を委せてくれと申出た。併し大蔵省では朝令暮改の処置を執り得べきで無いから、一切取合はなかつた。
公は六年五月十四日に辞職願が聞届けられて愈々免官と為つた。当時公の考では将来は全然身を実業界に委ねる覚悟で、種々画策する所があつた。その際に岡田から尾去沢銅山の視察を依頼されたので、公は之を米国鉱山技師ルイスジンジルに謀り、相共に視察することに決し、将来は岡田と共同経営をなさうとの約をも結んで居たもののやうであつた。然るに木戸は、当時政府部内には頗る難問題が多く、機務を決するに公の助力に俟つものが多き折から、公が僻遠の地に去るのを好まなかつた。それで全権副使伊藤博文の帰朝も近きにあることだから、その時までなりとも旅行を延期することを希望し、百方公を説いたが、公はジンジル技師を月給千弗の約で雇入れてあつたので、空しく淹滞せしめては、多大の損失を被ることを憂慮し、木戸に事情を述べて出発の決心を翻さなかつた。七月三十一日附公より木戸に送つた書翰に、
 「御高志之廉々逐一心奉敬服候。於生等モ過日申上候通リ、民力上ヲ重ゼズ、只欧米模様之今日之開明ハ、他日衰弱ヲ来スハ必然ニ候。併生ハ最早官途之風波ニハ余程滅却仕候事故、既ニプライベトビジネスヲ相始候事故、善悪共敢エテ関係仕候了簡ハ更ニ断念ニ御座候。其子細ハ過日申上候様、再任之面皮モ無之、且ハ多人数コンパニーヲ組立候而自然モ彼等ニ損害ヲ蒙ラシムル等之難渋ニ立至リ候而者、上下え失信、終ニ身ヲ容地モ無之ニ至リ可申ト愁歎此事ニ御座候。且老賢台ニ於テハ余リ過去ヲ御痛難有之候而者、終ニ御気分ニモ相支リ可申歟ト奉懸念候故、人世之著目或ハ議論、古今ヲ渉帰一セザルモ、人面其形様ヲ異スル之類ニテ、又邦家進歩之一端ト相成、一人ニトリ異説ヲ聞、其才識ヲ隆ムルノ
 - 第3巻 p.347 -ページ画像 
具ト被思召候様専一奉祈候。且又生北行ハ伊藤モ近々帰朝之事故面会後出立候様御下命候得者、過日来鉱山之所業、秋田之方手ヲ空敷相待、為此之損失、且外国人モ空敷当地無手ニ差置、旁今日迄相留リ候訳ニモ無之候得共、過日申上候新聞紙え奏議書載セシ罰ト、且ハ老台之御帰朝拝青ニト相済セ度思考候様遅延ニ打過候事故、此辺ハ不悪被聞召分候而北行御免被下度奉祈候。就而ハ明朝第七字前ニ参堂仕度候間、御都合御聞セ可被下候。」木戸侯爵家文書
 とあるのを見ても公の心事が知り得られよう。そこで八月一日に木戸は公の寓居を訪うて、猶引留めの示談を試みたのであつたが、公は到底之に応じ得ぬ事情を述べ、意を決して出発することにした。八月八日附、公から木戸に贈つた書中に、「御高諭ヲモ不用出立候事、於御高誼不相済事トハ愚考候得共、追々申上候様、第一利益ヲ増加シ、生涯之事業ヲ興起シ・後世ヘ名誉ヲ残シ置度志願相達シ度方ヘシンパシー走リ行候事故、定テ御不快ニハ可被思召候得共、何分ニモ宿志相達候様御保護奉祈候。」木戸侯爵家文書とあるを見れば、公の決心の程が十分推察される。
 公は愈々八月八日に益田孝・岡田平馬・馬越恭平・井上勝等十数名を引連れて、岡田平蔵と共に東京を出発した。この時の費用は総べて、岡田が負担し、馬越が現金を預つて会計の任に当つた。一行は太田原・郡山・二本松・福島・仙台を経て、松島を見物し、次いで釜石鉱山を視察し、同月二十五日に盛岡に著いた。それから秋田県で有名な鉱山持の瀬川安五郎の案内で、二十九日に愈々問題の尾去沢銅山に著いて、仔細に之を調査した。而して公は銅山地境に「従四位井上馨所有云々。」の榜示を樹てたと後に専ら噂されたのはこの時のことである。さて公は同月三十日に、山内の者へ次の達書を告示せしめた。即ち、「当鉱山是迄岡田平蔵山主ニテ、則金方小野組ト協議ヲ尽シ、夫々所分致来候ヘ共、不都合有之、此度従四位井上馨殿凡テ御依頼仕、御処分奉仰候コトニ相成、既ニ御同人昨夜御著ニ相成候上ハ、我々ニ於テモ諸事務ノ義ハ、先従来ノ通リ取扱候様御達有之、尤其他ノ事件ニ付テハ従前仕来亦ハ此御処分等ニ付、御同人之御見込モ被為在候趣被仰聞候間、為心得等分役員中迄相達候事《(当カ)》。岡田平馬印。瀬川安五郎印。」井上侯爵家文書とある。かくて尾去沢視察を了へて、一行が同県の阿仁鉱山に赴いたのは九月五日で、その視察が終ると、秋田に出て、又南下して院内銀山を視察し、二十一日に米沢に著き、二十八日に帰京した。
 この後岡田は資金を投じて著々鉱山を経営したものらしい。而して公も亦多少経費を分担したのではあるまいかと思はれるのは、七年一月一日に吉富に送つた書状の中に、「是まで鉱山之元金ハ岡田ト生ト之金計リにて致居候姿、五六月ニも至り候へバ判然仕候間、其上ニテ老兄社中ニ御加入可被下当然ニ御座候。」吉富家文書と述べてゐることから推察される。併し収支相償はぬ点から、公は間もなく棄権したものらしい。
 これより先、司法卿江藤新平は尾去沢銅山が収公されたことを聞くや、予て公とは快からず常に公の間隙を狙つてゐたことであるから、機乗ずべしとなし、司法大丞兼大検事警保頭島本仲道に内命を下し
 - 第3巻 p.348 -ページ画像 
て、密かに本件の内容を調査せしめつゝあつた。而して島本の報告は(一)村井の提出した請取証に「奉拝借」と認めてあるものを、大蔵省は反対の意に解し、村井の弁明を斥けてその返納を迫つた。(二)村井が旧盛岡藩に対して五万五千余円の責任ありとして、多額の財産を所有せる旧藩の証人たる村井の全財産を差押へるのは、全く圧制である。(三)大蔵省は銅山を収公して之を払下げるに当り、嘗て公売の手続をなさず、山口県人岡田某に払下げたが、村井の申出の五箇年賦を排して岡田に二十箇年賦で払下げたのは、当時の大蔵大輔たる公が岡田に私交関係を有するやの疑がある。大要以上の三箇条に帰するものであつた。依て江藤は公を拘引する議を太政官に持出した。併し三条・木戸の回護もあつて、その事は行はれなかつた。もとより公を拘引するに足るほどの明確な証拠とては有らう筈は無かつたからである。大隈侯八十五年史には、該事件が司法裁判所の手に移つたのを六年五月としてある。然らば公が辞職を聞届けられた月であるから、江藤は公が重職を去るのを待つてゐて、こゝに本件を公然告発することに為つたのではないかと思はれる。而してこれは村井から訴状が出たので始めたものではない。然るに江藤は六年十月に征韓の議協はずして司法卿を辞し、大木喬任が之に代り、島本も同年十一月に退官したので、表面は平静の如くであつた。
 尾去沢銅山が収公されて後は、村井家は益々悲運に沈淪して最早経済上再起の見込が無かつたので、尾去沢に関する執著を棄てる訳には往かなかつた。これより先、江藤は予算の定額を得て司法権の独立を主唱し、五年十一月二十八日に、司法省達第四十六号を以て、地方人民にして官庁等から不法の迫害を受けた者は、進んでその地方裁判所若しくは司法省裁判所へ出訴すべしとの令を出したので、村井は之を利用するより外に途が無かつた所から、六年十二月十八日を以て、司法省裁判所検事局に出訴した。村井側から出た資料の中に、「内国ノ蔽ヲ矯ムルヲ趣意トスル輩ハ、種々悪弊之箇条ヲ発揚セントシ、則尾去沢鉱山モ其条中ニシテ、茂兵衛ノ手続人等ヘ窃カニ教唆スル者等追々有之、又同人モ好機会トシテ、酉十二月十八日《(六年)》、司法省構内裁判所検事局ニ出訴ス。」とあるから、予て公に快からぬ人たちが煽動したことに因つて、村井が出訴するに至つたのである。然るにこの件は遽かに進捗し難い理由があるといふ説を村井が聞込んだので、翌七年一月八日に、一旦その訴状を下戻し、二月五日を以て、同裁判所へ再訴に及んだ。但し訴状の文意は未詳ではあるが、同年三月に呈出した計算書 司法省文書 に拠ると、
      記
 一金拾弐万四千四百廿七両弐分
      旧盛岡藩ヨリ洋銀代借入金高也
  巳ノ九月
 此内
  一金弐千弐百拾七両            返納
  巳十二月
  一金五百両                同
 - 第3巻 p.349 -ページ画像 
  午正月
  一金弐万弐百両              同
  同弐月
  一金六万弐千弐百廿弐両三歩八百六十三文  同
  同五月
  一金弐百両                同
  同七月
  一金壱万五千五百両            同
  同八月
  一金弐千三百五拾両            同
  同九月
  一金八千三百廿八両三歩壱朱弐百五十文   同
  同閏十月
  一金千八百両               同
  合計金拾壱万三千三百拾八両弐分壱朱壱〆百拾三文
 借入ト返納金ト込引残
  金壱万千八両三歩壱朱百三十七文
 今般御取糺ノ上双方申分符合且確証面ノ通引去候分
  一金五千三百六拾五両
    但銅九百八十五箇代金ノ内四千九百七十七両弐分三度ニ受取残ノ分ハ借入金ノ内ヲ以テ上納可致御談判ノ金ナリ。
 又込引残
  金五千七百四拾弐両三歩壱朱百三十七文   全借入金
 如斯正ニ借入金ニ相成候也。
                    村井茂兵衛
    明治七年三月五日          代言人
                        堀松之助
                    同 代書人
                        佐藤芳三郎
      司法省
        御裁判所
 とあつて、嚮に未払の金三万六千余円と大蔵省で指定されたのは誤謬で、彼の返上残金は金五千七百余両が実際であると計算を立てたものらしい。然るに同年五月に裁判所は村井茂兵衛代理堀松之助に、「村井茂兵衛義、旧盛岡藩産物処ヘ外国貨幣ヲ借入ルヽ砌、川井清蔵ノ頼ニ任セ証書ヘ連署イタス罪、違令律ニ依リ従トシテ論ジ、存命ナラバ懲役三十日ノ贖金弐円弐拾五銭可申付処、死後付其罪ヲ問ザル間、此旨可相心得事。」司法省文書と判決があり、代言堀松之助・差添人佐藤芳三郎は連署を以て請書を出した。而も本訴は之を以て終末と為つた訳では無かつた。
 初め盛岡藩の外国負債一件を司法省裁判所で受理した時は、大解部の松村道文等が掛で調査してゐたが、松村は六年五月に埼玉県在勤と為つたので、その跡を権中判事大島貞敏東京府人及び少判事石井忠恭佐賀県人が引受けた。然るに同年九月に至り、尾去沢一件のみは、右の中から引
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抜き、少判事小畑美稲・少解部長沼東夫福島県人及び同長崎彊高知県人がその掛と為つた。但し小畑は大阪出張中かの地に於ける村井関係者の調査から帰つてこの掛と為つたのである。その後に村井からの訴訟が聴訟課へ提起されたのであるが、小畑以下は七年五月に又京摂へ臨時出張することになつたので、その後は大島判事が専ら之に当つた。権大判事河野敏鎌は聴訟課長として関係はしてゐたが、特に掛といふことでは無かつた。そこでその闕員を補充せねばならぬとの議があつたと見え、大島判事から、同月十日に大解部山崎万幹高知県人を、十七日に権中解部長崎彊を各々申立て、その掛を命ぜられた。その後掛判事移動のことは不明ではあるが、大島だけは動かず、他は皆転任に為つたものらしい。そこで八年五月十四日附を以て、木戸は書を山田司法大輔に送つて判事の選定を促した。即ち、「井上一条ニ付、池田某其懸り被命候ニ付而ハ大ニ可然ト奉存候処、今一人之処不得其人ハ《(マヽ)》而ハいか様之不都合出来候とも難計と奉存候。于時立木兼善と申ものは生資正理之人ニ而大ニよろしき由。幸裁判官今少々ハ御増ニ相成候由。此人被仰付候上ニ而此人其カヽリニ池田ト同様ニ相成候ハバ重畳ト奉存候。今日モ井上来訪、頻ニ立木元福岡県令也ト井上某是ハ阿州之人ニ而元大参事相勤め、随分有名の人也之事もどふぞ司法え御採挙相成候様ニと申居候事御座候。依而大木卿ヘハ及内談置申候。何卒井上之事も都合克早々為相運不申而ハ色々あたりさわり多く、実ニ困却仕候。どうぞ御含置被遣可然奉願候。」山田伯爵家文書と述べてある。この池田といふは少判事の池田弥一佐賀県人のことであるが、木戸はその適任であることを賛し、更に立木兼善を推薦して、間もなくその掛に任命された。今一人西潟某が登用されたやうであるが、何人の推薦で何時頃入つたのであるか不明である。兎に角同月十五日附、公から吉富に送つた書翰の中に、「生身上之事も、何分世間も囂々面倒ニ候故、一度ハ司法え出弁解仕候と決心、夫ニ付木戸・伊藤等も、余程心配候而、少々裁判官之差繰も有之○頭書。役差繰候事件抔ハ必御他言御用捨之事大概相済ミ可申と奉愚考候。就而ハ近日より司法省も其裁判を起し可申候間、木戸抔も一先為相済候テ、帰坂可然との事故、任其意ニ申候大概十九日廿日頃ニハ呼出シと相成可申候。先首尾克行ば御慰、若シモ不行、只生之廃藩置県之節馬鹿正直ニ事を担任セシガ、識之不足と相あきらめ申候。自然も事もつれ候ヘバ、拘留とも相成可申哉も難計候間、其節ハ唯々先収社之始末計懸念ニ御座候間、不幸中之事故、別て御尽力奉祈候。」吉富家文書とあるにて、裁判官の交替があつたことが知れる。二十四日に木戸は司法部内の情況を公に内報した。即ち左の如くである。
   御手紙拝見、立木事頃日検印等相済候へども、被申付候事不相分候に付、昨日も催促いたし候処、居所不相分、昨日は司法省へ尋ねたり何ぞいたし候由に御坐候。
   大島課長之事、山田よりも預相談候に付、種々論談いたし見候得共、好趣向無之由。其に付昨日まで山田へも不致返答、参院之上内密相談いたし候へ共、好工夫無之、大島課長に而は元より我我の好む処に而は決而無之候得共、気遣無之と申候。イ藤へも相談じ候事に御坐候。
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   其訳は立木而已ならず、此度新任之判事皆不慴《(慣カ)》に付、自ら課長は辞し候由。立木と申候而も大島・池田之上に立候而いたし候と申事は必六つケ敷、其ならばとて別人を出し候と申候而も其人は大底新任而已《(マヽ)》のよし。池田はは《(マヽ)》大島の下故、此事に而已池田を大島の上にと申訳には難出来次第に可有之、且又無左とも始終世間なり司法中なり、兄が何か跡ぐらき候様申触らし、其を頻に弟どもが保護候様引受合候気味御坐候処、現に頃日一見仕候書類等に而も明白なる通り、実に裁判等之有心故蔵歟《(造カ)》と相考候へば服《(腹カ)》が立ち候てたまり不申。何卒此度之処は明白に此上御弁論書類之処に而も当然之儀、弟等も面色を一洗いたし候処も企望仕候。
   今日も大島之一条、今一応相談じ見可申候得共、如何可有之哉前文之次第に付、此上同人もと申事は難題歟と相考へ申候。何も其上に而承知候事も可申上候。木戸孝允文書
 右の文に拠ると聴訟課長大島貞敏 河野が転任後聴訟課長と為つたものらしい を移動せしめようと山田から木戸に相談があつたものと思はれる。元来大島といふ判事は、江藤の司法卿であつた時に引立てられた人らしく、河野の下に在つた時から頗る強硬の論を持して、本件を内閣の大問題たらしめたのも、実は彼が審理から公を有心故造と断定した所より起つたのであらうと思へる。故に本件を一刻も速かに終末に導かうとするには、大島を取替へるより外は無かつたから、木戸は立木を推薦して新たに課長たらしめようと考へたのであつた。然るに本件はその根源頗る古く且つ極めて複雑な事件であつたから、終末に近づいての飛入りでは、その任を全うすることは出来ないと思つたので、立木は課長たるを辞したのであつた。されば池田を以てするとしても、大島の下位に在る人物であるから、之を引上げる訳にもゆかなかつた。木戸の苦心の有様が右書翰に窺はれてゐる。
 然るに六月二十三日に大島は書を三条太政大臣に上つて、本件の審理は決して大島一人で為したものでなく、河野・小畑と三人で関知したものであるから、若し司法卿がその職事を開申するに妄を以てしたならば、そは政府を欺瞞したものである。又河野・小畑にして司法卿に誣告したものならば、徹頭徹尾その曲直を明晰にせねばならぬ。故に河野・小畑の言を俟たず、閣下自ら事由を極究し、速かに明決あるやう希望する旨を述べた。それで三条から木戸に命じて、果して小畑が今猶本件に関与してゐるものなるや如何を聴糺したので、大木は直ちに答弁書を提出した。月日は不明であるが、左の一文は恐らくこの時のものと見て誤がないであらう。
 一、井上ヲ取調候ユヘンノ訳ハ、兼而申上置候通ニテ、更ニ不贅言大蔵省官員川村某等糺シ之上、北代正臣取調ニ係リ候上也。小畑判事ハ正臣ト同県懇意之間柄ヲ以て、忌避可致トテ同人申立之上大島判事等ヲ合掛リニ相命候より、小畑義ハ右掛リ免シハ不致候得共、此時より右事件ハ大島処分担当取調致候。
 一、小畑義右掛リヲ不免レバ無関係ト云ニハアラザレドモ、忌避致スト申ス事ヲ平語ニ解釈スレバ、手前より用捨シテ此事ニあづからずと申ス事ニ可相成候。
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 一、喬任一日、小畑ヲ呼で尾去沢銅山一件ヲ尋ルニ、小畑申シ候ニ美稲此事承知ハ罷在候得共、此事北代正臣ニ関シ忌避ニ而不関候。仍而大島担当候ニ付、同氏ニ引合呉候様被申候ニ付、此以後ハ屡大島ヘ問合致候。已ニ日外哉、閣下より銅山一件担当主任之向キ御呼立相成候節も、大島出頭致候得ば、御尋ニ応ジ同氏より処分御答申上られたる義ト相心得候。
   モシ忌避スルトハ、臨席之節ノミ忌避シテ、其実主任之場ニ付担当之義ハ有之ト申スナラバ、喬任小畑ニ問合之節、大島ヲ申出ルニ不及、閣下へも小畑出頭可致義当然ト存候。左無之ユヘンハ大島担当之事ト存ジ罷在候。
 一、右ニ就キ今般井上取調ニ係リ候とも、小畑義ハ井上ニ忌避ハ被致間敷候得共、正臣ニ忌避可被致ニ付、井上ト正臣ト如何之関係有之やも難測、左候得ば正臣ヲ尚又取糺候而ハ不済ル事も可有之、就而は寧小畑ヲ掛ンより、大島を掛リニ致候方可然ト相心得候。
 一、尤小畑ヲ出張○七年五月、京摂に臨時出張を命ぜられた 相命不申候得ば、同氏ヲ掛ケおき候而も支ヘハ無之候得共、右は今般御改革ニ際シ、見込有之出張拝命候上ハ、必ズ同氏ヲ相掛ニ拝命不申而《(相カ)》ハ不済ルト申ス筋ハ決而無之候。
 一、如何トナレバ、右件のみニ不限、外事件も多分有之候処、右之類も引受、判事必ズ結局ヲ相付ケ候而より出張可致事トナシテハ際限無之、各方出張も大延引致シ不都合ニ相成候ニ付、右等之類総テ分断ヲ付テ、是迄受持の者半途タリとも跡引受之向き向きニ引送リ候事ニ致候。
 一、井上取調ニ付、無評之事も喬任承知ハ罷在候得ば、此上小畑ヲ引留、右取調さセ候得ば可然ト申ス義も、一応ハ尤之様ニ被存候得共、第一右之通ニ致候順序無之、右は前条ニ陳ズル如ク、外事件総テ夫々分断ヲ付候処、此事件のみ小畑ヲ引留候訳無之、殊ニ今般ノ章程ニ随イ、上等裁判所長ノ見込ニより、夫々取調ニ掛リ候次第之処、喬任より小畑ヲ引留、此事件ニ掛リノ様相命候義裁判長ニ可命筋無之、強而右ヲ申スニハ、一種特別ノモノト相成リ、喬任ニ於テ之ヲ特別ノ処置不致而は不済ル義トも不相見込候。尤政府之御僉議ニ而是非々々特別之取調可致トノ御主意ニ候得ば猶勘考ハ可仕候。
 一、抑無評ヲ顧テ判事ノ引受ヲ交換スル様ニ而ハ、甚以不可然候。誠ニ其条理ヲ陳述セン。
   タトヘバ井上馨ヲシテ有心故造ノ実アルモノトセン乎。何レノ判事ヲシテ之ヲ糺弾セシムルモ、必ズ其実アルモノヲ挙ゲン。今掛リノ判事 今掛リノ判事トハ池田・西潟ヲ指ス 掩テ之ヲ無キニ帰セント欲ストモ得不可。又井上ヲシテ有心故造ノ実ナキモノトセン乎。何レノ判事ヲシテ之ヲ糺弾セシムルモ、必ズ其実ナキヲ証セン。元掛リ之判事 元掛リノ判事トハ小畑等ヲ指ス 羅織シテ之ヲ陥レント欲ストモ不可得。然レバ糺弾ハ実事ノ有無ニアリ。糺弾人ニよりて実事ノ有無ヲナスニアラズ。若シ今掛リノ判事ハ有ヲ以テ無トナスト疑バ、元掛リノ判事
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ハ無ヲ以テ有トナスノ疑アラン。喬任不肖ト雖、有ヲ以テ無きトナシ、無キヲ以テ有トナス等ノ判事ハ、司法部中壱人も無之ト信用罷在候。然則判事ハ判事ニシテ易ルコト無之、只其実事如何ニアル而已。仍而ハ井上取調ノ件ノ如キも、悉ク掛リかへ致候而も毫も妨無之候へ共、事之前後始末を心得候人有之レバ、猶又都合よろしきト申ス義ハ有之候処、右は大島一人掛り相成居候得ば、決而不都合無之ト存候。大島最前担当之節、小畑より前後始末ハ篤と承知之事ニ候得ば、小畑掛リタルモ同前之事ニ候。
   されば小畑ヲ掛ルト云ハ、世人ノ論ヲ顧ル迄ニテ、若シ之ヲ顧レバ際限も無之、反テ不条理ニ陥リ可申義ト懸念致候。右は前陳仕候次第ニテ御坐候。
   世評ヲ推究スレバ、元掛リ判事ヲかへテ、新掛リ判事ヲして、有ルモノヲ無キトナスノ主意ナリト。
   之ヲ顧テコトサラニ小畑ヲ掛レバ、新掛リノ判事ヲ疑フノ処置ナリ。新掛リ之判事決し而折合申ス間敷、是又一ノ苦郷《(マヽ)》ナリ。
   判事ニヨリテ実事ノ有無ヲナス義ハ無之処、世人之漫言ヲ御顧憚成而は、此後とも裁判ハ世人ノ評ニヨリ候義ニ移リ行キ、甚以不可然候。三条公爵家文書
    第六節 尾去沢銅山事件 (そのニ)
 初め政府及び司法部に於て、この尾去沢銅山事件が頗る面倒となつて来た時、公は七年三月十五日附にて書を参議兼大蔵卿大隈重信に送つて、事件の救解を依頼した。即ち、「其節懇願申上候尾去沢クレームヨリシテカ、別々野生之三年来遊跡等探索候様子、終ニ昨日は岡田方へ至り帳面モ相改メ候由、勿論野生身ニ於テ左程後暗キ所行モ不仕、何も恐怖ハ決て不仕候へ共、如何ニ疑惑候迚も限アル者歟と奉存候。如斯政府より疑を受、如何ニも遺憾切歯之至ニ候。併不才不徳と雖、小人之乱心と同一ニ見做サレ候事口惜事ニ御座候。最早右山も野生は丸で離レ、既ニ工部省えは平馬より返上之書面モ差出シ候事故、左迄御疑念無之とも可然哉ニ奉存候。拾三年来一身を捨国事ニ委身、終ニ如斯レピテーシヨンモ保護を不得、実ニ無情之極と奉存候。最早定て不遠内司法より呼出シ詰問も可有之と覚悟罷在候。併何卒旧知を被思召出、大木辺えも可然御弁解、事平穏ニ相済ミ、司法え呼出シナシニ相済候得ば無量之仕合と奉存候。如吾輩一身ニ権ナキ人と雖、余り無情と奉存候間、可然御含被下候而御保庇を蒙り度、伊藤え過日粗相咄シ置申候。何分御依頼申上候。」大隈侯爵家文書こゝに於て大隈も該事件に種々斡旋したものと見え、同月二十九日附にて公は更に、「過日来毎々拝趨種々私情愁訴候而、早速大木先生へも御咄シ被下候由ニ而、彼の方も□□《(古川カ)》え調印候而、口上差出シ候ニハ不及との事ニ而、夫成止ミ之気色ニ候由。誠ニ以偏ニ先生之御高庇を以、且々レピテーシヨンモ保存シ、御厚誼之程決て忘却不仕候。実ニ不徳之性質ニ而斯迄怨望を受候次第。遺憾之極ニ御座候。爾後大木君えも罷出候而、い曲情実も吐露仕置候。乍此上御保護奉懇祈候。」大隈侯爵家文書と述べてある。かくの如く大隈の尽力もあつたので、政府も十分に該件の事実を知る要があつて十二月十日に、政府は大隈に達して公が大蔵大輔であつた時の旧盛
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岡藩外債に係る村井上納金処分の次第を詳細取調べて差出さしめた。又山田も少からず之に尽力したことは、八年一月三日附、公が山田に送つた書中に、「身上一件ニ付而は、不一方御高配被成下候由、別て難有奉存候。乍此上可然御願申上候。」山田伯爵家文書とあるのでも知れる。それといふのも予て木戸が公の再仕官を望み、各方面の諒解を求めてゐたからであらうと思はれる。同年三月十一日附、木戸は一書を伊藤博文に送つて、「井上世外も一応参議に被召出候而は如何。左候へば余り隙取ざる方可然歟と奉存候。何と歟申ものの云々も、昨日之御噺通ニ而はどう歟。早々片付候様にも窺ひ申候。明白に御処置無之而は不都合と申事に御坐候へば、世外も行政上之誤而、何も私心私情より出候事にも無之、且井上と申候而も法之当られざる人と申議も有之間敷候間、贖罪金出し候とも、格別は無之事と奉存候。尚御高案可被下候。」木戸孝允文書と述べてゐるので、木戸の意見も大凡は窺はれる。
 この頃政府筋の消息は如何であつたか。その詳細は明かでないけれども、七年七月まで司法大輔であつた佐佐木高行の日記から大体の事が窺知される。即ち裁判所でこれまで北代・小野及び判任官某を取調べた所では、公がその時の上長官であつたから、之を取糺すべきであると権大判事であつた河野から上申したのであるが、封書推問に附せよとの沙汰で、公を召喚するに至らなかつた。その際板垣は大内史であつた土方久元を以て、河野に該件を平穏の取扱に致したいと説いた。河野はこれに応ぜず、その上板垣に面会して、「この事の根本は、貴下が井上は国賊であるから取糺して然るべきであるといはれたので、遂に今日の情勢に至つたものであるに、右様反対の説を承るに至つたのは寔に意外千万である。」といつたのに、板垣は、「それは僕退職後の所説を開陳したばかりであつて、今日は事情も変り、在官の身であるから、これに順応した所見を述べるのであるが、かの件は単なる風聞だけで取扱うてはどうかと思ふ。」と答へた。河野は板垣が嘗ては西郷・江藤等と共に公の事件に関して探偵を放ち、この事には特別の力瘤を入れてゐたのを、今遽かに表裏反覆の説を持出したものであるから、河野は直ちに之を承諾する筈はなかつた。それで河野は再応土方よりの内談をも断然之を拒絶したので、木戸は親ら折衝を遂げようと当時陸軍会計監督であつた田中光顕を以て河野に交渉して見たが、強硬の議論を持してゐた河野は、遂に面会するを避けた。而して不平満々として事の成行を注視してゐた。河野は嘗て佐佐木を訪問して事の経緯を語り、且つ板垣の態度に頗る慊たらぬ所以を述べた序に「板垣といふ人は実に信頼するに足らぬ人物である。このたびは井上から借金した恩返しに奔走してゐるが、一体板垣は大負債で、消却も行届かぬに、日常遊蕩を事とするよし。又先般大阪で板垣・岡本・古沢等が花柳界に蕩尽した費用も皆井上の周旋金であるとの世上の取沙汰である。この事は裁判所でも既に探知した所である。」などと放言するに至つた。
 江藤の命を受けて尾去沢銅山事件を内偵した島本は、前に述べた如く江藤が朝を罷めた後間もなく退官し、北州社を組織して訴訟弁護の依頼に応じてゐたので、村井から依頼を受けてその代言人と為つた。
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これは西郷・板垣・江藤等が公と甚だ快くなかつた時からして彼はその情実を能く知つてゐたから、村井に頼まれた訳であつた。然るに島本は岡本健三郎から頼まれて公の為に斡旋することとなつた。一日河野を訪うて、「何とか考はあるまいか。岡本白身の為にもなることであるからといふ談合で来たのである。」といつたところ、河野は、「君は今非役であるから何うとも周旋して一身の為を計るも宜しからうが、拙者は職務上の事であるから致方は無い。」と答へて応じなかつた。その後島本は友人間の忠告が甚しかつたので、公の為の斡旋は中止したとのことであつた。
 右の如き情勢であつたから、木戸も本件に関しては頗る当惑してゐた。その事はこの年三月三十日附で山口県協同会社の吉田右一に送つた書翰の中にも、「井上馨一条も、司法省之処種々葛藤を生じ居、小野某○義真 と申もの二月余も為其に他人相対等も出来不申よし、誠に難渋千万之次第、困り入候事御座候。」木戸孝允文書と見えてゐるので一端が窺はれる。又木戸が公を参議に推薦しようとした事も次第に縺れ行くことを恐れて、四月十四日附で一書を大警視川路利良に送つて諒解を求めた。その書翰中に内閣の意嚮と木戸の真意とが見られるから、左に之を掲げて見よう。
   今朝は態々御光来、無御服臓御示諭、万謝此事に奉存候。付而は縷々何も申上候通之次第に而、寸分も別に一物も無御坐、また小生之井上を強而撰挙仕候と申候は全く素人之疑惑に而、現場之情実におゐて難忍事に御坐候。是も必竟板垣氷解上より起り候事に付、撰挙之論も一層盛なる次第に御坐候。小生も井上之処、決而有心には有之間敷と愚考仕候。其訳は段々之行がかり申上候通に而、当人も奉職は甚迷惑之由に御坐候処、是も強而被相迫、終に板垣など之説に同論仕候事に御坐候。且又訴訟上より起り候事にも無之、判理局之事務を再調らべいたし候処より起り候事に而、今朝も御噺仕候通、大蔵卿よりも大臣公へ、大蔵に而一応取調らべ 必竟事務上より起るに付、如此 可仕趣も申出候由。公論歟と相考へ申候 尚又如別紙申出候ものも有之、是も大蔵卿之説と一致に御座候。此書面は為御考按真之御内々に而、先生まで御覧候次第に付、必御他見は御無用に御願仕候。旁之都合に付、板垣よりも御登用相成候而、決而不苦趣も大臣公へ申上候由、差急候事は大阪已来実に又不得止之情実有之申候。事務上之事に候へばと申処に、是も基き候考と存申候。先は為其申上候 草々頓首
     四月十四日
   尚々御探索書一見仕候。疑惑上之説を謬聞候事と被存申候。今朝御内話之今別之一書は、早々御廻し御願仕候 拝 木戸孝允文書
 この日木戸は書を病気欠勤中の伊藤に送つて、「井上一条に付、難事出来、事により候得ば一紛紜を生じ、大に不都合に至り候歟とも相考へ申候。其に付候而ハ、兼而大久保より貴下へ御内話もいたし置候由。付而は兎に角明日は御出勤有之度候。其前早天御宅まで罷越、巨細とも処分之都合御右手合いたし置度候間、左様御承知被下、何分之義御一答奉祈候。」と述べ、その追書に、「彼一件、今日臨御に而御
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発表に相成候。先日来井上云々に付、御聞及之事も少しは齟齬有之候歟とも相考へ申候。小生も同様なり。司法には随分如石に相成居申候。」木戸孝允文書と認めてゐる。
 かくて三条・大久保・伊藤の合議と為つた。大久保利通日記、四月十六日の条に、「九条公《(三カ)》え参上、河野子入来ニテ、伊藤子同席。井上一条云々示談帰宅。一字伊藤子入来。同道木戸子別荘え至ル。」とあつて河野の説が公を有心とするといふ事が窺はれるといふので、終に折合が附かなかつた。十七日に、木戸は一書を川路に送つて、その趣を内報した。「昨日大臣公始大イニ参議公然御談議も御坐候由之処、到底決局に至り不申候由。此後一難事と愚考仕候。必竟小生も只々平和を慮り候より種々窃に心配仕候得共、毫も小生主として撰挙論なり、其他今日之関係を相論じ候と申事は無御坐、過日も入々御内話仕候通、浪華已来之云々も有之、為其板垣なども専ら上申も有之候様相察申候。小生之主として相論じ候などと申事は素人説に而、現地之事於情実上も難出来事と於小生は相考申候。格別蒙御高配候事に付、為御安堵一応申上置候。此上は大久保・板垣両参議始御決論に随ひ候事元よりに御座候。」木戸孝允文書
 本件は次第に困難を加へて来たので、この上は他の方法を以て解決せねばならぬやうに立到つた。木戸はこれが根本の処置に著手しようとして、四月十八日附、一書を公に送つてその存意を開陳した。即ち「彼一条も如意不相運、実に御気の毒に奉存候。承り候得ば、どう歟近日一応御帰坂之よし。付而は其御覚悟云々等之御噺も承り及候処、其は些御過按どもには無之哉と愚按いたし申候。必竟左様陥り候事に御坐候へば、弟等も別に苦慮仕候事も無之候得共、安心いたしがたき所より何歟と苦心仕、此度奉職後も民会云々及び此一条等に付候而も、夢寝間も安著いたし得不申。依而また趣向をかへ、根本之措置へ御著手相成候様周旋いたし居候事に御坐候。付而は如何之事歟も過慮之余一応申上候。」木戸孝允文書と見え、又更に月日不明の一書には、「過日御内話仕候御身上之一条、弟は幾応にも公明に御引受け之方為後来可然と奉存候。昨夜山田司法大輔に相談じ罷出候而、い曲兄へ御噺仕置候様相談じ置申候。万一何歟御失念上より出候事に御坐候得ば、其丈け之責を御受けまでに而、決而賢人君子と雖も行事中に過ちなきを保つと申事は難出来事と奉存候。」木戸孝允文書と述べてゐるので、木戸の存意を知ることが出来る。
 かゝる間に河野はこの月二十五日附を以て元老院議長に転任した。勿論公の一件に原由を持つものとして専ら噂されたのであつた。司法官中にもいづれ論評の有つたことと思はれるが、大久保利通日記、四月二十八日の条に、「二字退出。司法省大塚・大島入来。河野一条云々承ル。早川入来。是又同断ナリ。」とあるから、権中判事大塚正男 高知県人 及び同大島貞敏が大久保を訪うて、河野転任に関し愬へる所あつたものと見える。その時刻より少し後れて、司法少丞早川勇が来てゐるのは、これ亦河野に関して何か諒解を求める所あつて来たものと想像するに難くない。
 四月二十七日に先収会社の吉富簡一は、大阪から書翰を木戸・伊藤
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に送つて、公の冤罪に就いてこの上ながら保護を請うた。その文中に「司法省兼テ井上君ヲ忌憚スル人ニ打合シ、井上氏ヲ陥入レント謀ル裁判官アル趣、驚入候次第。廃藩置県之混雑中之処分ヲ付込、冤罪ヲ醸サント計画ノ、司法官トシテ実ニ拙ナキ処業。両閣下及板垣君殊之外御高配相成候事実、井上氏ヨリ細縷通報。素ヨリ両台方御扣之事ニテ、大阪より気遣候ニ不及事ニハ御坐候ヘ共、兼テ司法省江藤君トハ井上君之間ハ御承知之通信睦ナラヌ中ト云ヒ、特ニ井上君御在職中百事多端之折柄故、随分決末判然覚居ラレザル事可有之候。付而ハ悪《アク》ハ悪デモ、当坐之理屈を申気意ニテ仕、両負ニ立ル様之義にて候テハ万万之遺憾。井上君ヲ司法省呼出質問、若シ相違アルトキハ強テ罪ニ落シ入レント謀ル手段ト被相伺候。」とあり、又「違法ノ為ニ罰セラルヽ御本人、我々友人モ敢テ厭ヒ候事ナラズ。併シ江藤氏其他之有志致改造上《(心故カ)》ヨリ冤罪ヲ負ハレ候如キ事アリテハ、如何ニモ残懐至極ニ奉存候。」吉富家文書とあつて、江藤の公排斥に原由することも、遠き大阪にゐる吉富が能く知つてゐた位であるから、既に在京の識者間には知れ切つたことと思はれる。而も当の江藤は既に故人と為つてはゐるが、河野がその後を承けて強硬論に出で、長い間内閣議論が続いて決著に至らず已むなく河野を元老院議長に栄転せしめて、はやく事を大団円に導かうとしたものの、それでも河野は猶局外から活動を続けてゐた。これは五月五日に木戸から伊藤に送つた書中に、「今日河野なるもの来訪、縷々情実陳述。どふと歟御工風有之候方、往々為裁判にも可然歟と相考申候。為前途を慮り候事に御坐候。乍卒爾御料理有之候而も不宜候得共、河野等は裁判之方に而は、随分多信用人物に付、御案じ置可被下候。大分底意を推候事も御坐候。」木戸孝允文書と述べてゐるので知れる。木戸の意中では大審院設置前に公の一件を終結せしめるつもりで、頗る焦慮したのであつたが、遂に意の如く運ばずして、五月四日を以て司法省程の改正と与に大審院が設置されることに為つた。その間の事情は、六日に木戸から公に送つた書に見えてゐる。即ち、「規則前に参り兼候事に而、此々かしこ皆意心伝心差略而已に御座候間《(マヽ)》、精々差急候而も、いつまでと申所目的はつきり相立兼候に付、其為内々実に心配仕居申候。大木へも先日来及催促候事も有之、裁判官之繰替等之都合も有之候由、一昨日大審院被相立候に付、司法審之章程《(省カ)》も御渡に相成申候付而は、無間著手之事と相考候へども、大木先生も引当に不相成事不少。其故山田へも得と申聞置申候。右之次第故拝青ならでは、中中難尽候。先日来河野にも度々面会。一昨朝も来訪。同人之心事も承り色々底意を推見候処、同人之考へも口では不申候得共、底は無之様只々次第丈相立度と申様之意味も御座候。乍去此人は今日関係不仕候得共、裁の方へは内々大関係有之、此度転移候に付而も、諸裁判官、大久保へも罷越候而各々建言もいたし居、又尤之事も御座候。」木戸孝允文書
 尾去沢銅山事件は啻に公の一身上に関するばかりではなく、大蔵省対司法省の問題でもあつた。それで大蔵省より該件調査の書類写取の事を判事に申入れたところ、判事の拒絶に遇つた。この申入れは大隈の発意であるか木戸の希望に因つたものか詳かではないが、この写取
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に関聯して木戸は山田に卿・輔の権を以て書面を見るに不都合はあるまいといひやつたと見え、山田は五月九日附で一書を木戸に送つて、左の如く詳かに之を弁明した。
  従来裁判之事、一旦判事ニ付シ候上ハ判事ニ而大概取糺シ、若シ難獄事件ニ候得バ、判事ヨリ卿・輔エ相伺候事ハ有之候ヘ共、其取糺半途之物ヲ卿・輔ニテモ書面ヲ見セ候ト歟、ドフイフ見込歟ト歟申義ハ、判事ニ向ヒ不可言ト申事、今日以前之慣習ニテ御座候故、先比以来モ手ヲ出シ掛テ仕遂ゲ候事不能次第ニ御座候。別而今日ニ至リ裁判権区分相立候上ハ、決而不被行義ト愚考罷在申候。尤モ右等ニ関係不仕候而、好工夫有之候得バ極妙也。御高慮相伺度候。
  大蔵省ヨリ写取度旨申越云々之義ハ、今朝モ大略申上候様、判事申口ニ而ハ、此度藩債取調之義ニ付而ハ、政府ヨリ之御達且検事ヨリ之原告等、総而井上一人ヲ相手取候義ニ無之大蔵省ヲ相手取候事ニ付、今日ハ其人ハ替リ居候得共、其事務ハ即其省之事務ニ付、被告人ニ対シ其書面ヲ見セ候事ハ不相成ト申居候。是モ其掛判事ヨリ右様申出居候ヲ、卿・輔之権ニ而強而見セヘトハ指令難致 先頃大蔵省ヨリ掛合之節、品川ト申者度々判事ト争論仕候事、今朝申上候次第ニ御座候 候。併シ判事之申口、法律上又ハ常則ニ相違候事ナラバ、如何様トモ取計方可有之ト存候得共、総而ケ様之慣習ニ相成居候ヨシニ御座候故、大ニ困窮仕候。尤モタトヘ司法省ニ而ハ慣習ト相成居候事ニ而モ、大体上不条理ト歟不公平ト歟申事ニ相成候得バ、大蔵省ヨリ表面其条理ヲ明弁シ、司法省エ掛合相成候得バ、其上ニテ答弁可仕候方可然歟ト愚考仕候。其辺尊慮如何相伺度候。木戸侯爵家文書
 右の弁明で山田の慎重なる態度も知れ、木戸も諒解を得たことと思はれる。
 木戸が判事の調書を知らうとした事は判事の苛酷なる裁断を懸念したばかりでなく事の速かに運ぶことを希望したからのことであつて、五月二十七日附、木戸から公に送つた書中にも、「今日大木に逢候はば否内談仕見可申候。兎に角此一事早くさらさらと相済せ度実に公明之事と雖も、奥歯にもののはさまり候様之訳に而、彼是へ相響きいまいま敷御座候。」木戸孝允文書と見え、遷延を重ねることを寧ろ心外としたのである。併し同月二十九日附で公から吉富に送つた書翰によると、裁判上の大体の目星が附いたことが知られる。即ちその一節に、「司印一件も充分にも無之候得共、最早懸り役員も相極り候而、定テ二日三日頃より開庭と可相成候。尤極内にて大蔵之書願《(類カ)》一見候処、敢テ手続キも失シ候事ニハ無之、木戸・伊藤も一見候而子細無之、最早此上暴威ニ而拘留モ致すまじ。尤有心故造ニテ拷問等無為ニ候得バ詮方無之候。先右横之事ハ無之様、山田も充分注意罷在候。決テ御安思被下間敷候《(案じカ)》。只々世間人口ニ喋々不正之罪アル様名誉ヲ被汚候事遺憾、腸を削之心地ニ御座候。御憐察可被下候。一度出庭候ハバ模様も相分可申候。」吉富家文書とある。又、「於生ニ敢テ不正ノ心アリテ致候得バ天罪ニ候ヘ共、更ニ心ニ覚ヘ無之候間、古ヨリ威権を張り事ヲ処セシ人如此例不少、怪ニ不足候。只々マジメニテ廃藩立県之処分を、竹槍を覚悟シ、終ニ今日獄庭え出ルニ至リ申候間、必ズ案思呉レ不申様御伝言奉願
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候。」同上 とあるので、公の覚悟と心事が窺はれる。而して又六月二十八日に木戸から吉富に送つた書中にも、「井上之一条も先路目的は相立、大安心いたし候得共、誠に手間のかゝり候には困却いたし申候。真に馬鹿馬鹿しき事に而、腹がくさり申候。」木戸孝允文書と見え、愈々司法省の内情も知れて来たのである。併し裁判官中の議論が二派に分れてゐて容易に決せず、永引いてゐたことは、七月九日に公から吉富に送つた書翰の一節に、「生一身之事も未ダ埒明不申、実ニ断腸の念を生じ候得共、木戸初メ益田○後の男爵益田孝モ他の友人迄、怒心セぬ様と毎々之忠告ニ《(マヽ)》故、馬鹿ニ成丈勤居申候。然ル処終ニ裁判官中議論二ツニ相成、却て是迄之裁判官有心故造と申出、当節ハ其喧嘩と体を変じ候由、就而ハ中々容易ニ落著無覚束と愚考候故、」吉富家文書とあることから知れる。先に木戸は前途の方向もついて安心したといつたのとは正反対で、中々以て安心の出来ぬ情況に為つたと思はれる。而して前記小畑の問題も未だ決しなかつたと見え、七月九日附で木戸から伊藤に送つた書中に、「井上一条に付、小畑云々之事、司法省より正院へ申出候事御坐候由、此事早急御沙汰無之而は不都合と申事に御坐候。何卒早々御運願処に御坐候。」木戸孝允文書とあるから、小畑の該件に関係如何は重要事であつたものらしい。かくて司法省の議も公に取つては只悪化するばかり、愈々永引く模様であつた。同月十八日に公は又書状を吉富に送り、「野生之事、中々以テ司法省之議論大議論ト相成、愈長引可申候、併井上ヲ糺弾スル道理ナリ云論議故、皆々不平多き由ニ御座候。兎角善悪共迷惑ハ生一身ニ帰シ申候。」吉富家文書と述べ、八月六日には、述懐をいひ送つた中に、「何れ今三十日位も仕候ハバ、定て生も司印ノ方片付可申候。……ドウデ怨を受居候生故、一応は面を晒ス様立行可申と愚考罷在候。」同上 といつてゐる。また同月二十七日に木戸から吉富への書中に、「井上一条も先日より運びかけ、不日相片付候事と存じ候。実に一朝一夕ならざる元因に付、春来之混雑不容易候。如此事に而大苦心をいたし候事は、其益何に有之候歟、少しも不相分、歎息之限りに御坐候。」木戸孝允文書とある。
 かくて十月に至つても未だ裁判は終結を告げない。聞く所では、北代正臣内務権大丞、前大蔵省六等出仕が高知へ帰県して不在であるから、帰京せねば相済まぬとの事であつたので、この月五日に木戸は書を伊藤に送り、関係者全部居合はさではといふことであるなれば、上野も英国から帰つた上でなくてはならぬやうなものであるから、どうか貴下から大木へ談じて、迅速に裁断を運ばせるやうに尽力を願ひたい。山田へは自分が屡々追立てゐるけれども、兎角延引勝になつて因入ると依頼する所があつた。伊藤はもとより之に同感であるから、早速大木に催促しようとの返事であつた。又木戸は書を内務大丞林友幸に送つて、銅山一条の裁判も悉皆口書等結了したのに、北代の不在で一同大迷惑と為つてゐるから、至急帰京するやうに通じて貰ひたいと尽力を頼んだ。然るに実はこの時北代は帰京してゐたものらしく、公はこれを知つて木戸に報じ、大木・山田に迫つて、早く運びを附けるやう依頼した。
 これより先征韓論が起るや、朝議が外間に漏れ、地方の政客が頗る
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激昂して与論を振興しようと努めたものも少くなかつた。中には遠地から出京して運動してゐる者さへあつた。既にしてその到底行はれないのを知り、説を転じて内国の弊事を翦除すると称して説を立て、或は顕官要路の邸に抵つて暴行を肯へてする者があり、或は尾去沢銅山事件の如きを論評する者があり、又該事件が有耶無耶に葬去られることを恐れて、後には該事件の内容を新聞紙上に掲載する者さへ出て来た。かくなり来つたのでは、裁判官が江藤贔屓でなくとも、被告に向つて眼の光るのは自然の勢である。殊に被告側の一人として召喚された大蔵省八等出仕川村選に対しては、屡々幸辣なる査問が遂げられた。これには相当理由があつた。即ち川村は村井からの取立金処分に関し、その答へる所が村井側の申立てと頗る齟齬の点があり、判事の詰問に遇うて答申に窮した結果、玉井半三郎なるものをして岸本且矩なる者の紹介で村井側の弁護人堀松之助に面会せしめ、かの一万両・一万五千両等の事由を書取りにして差出し、村井が申出に反せぬやうに申立てくれるやう内々に依頼に及んだ。これは七年四月のことであつたが、堀は之に承諾を与へず、遂に訟延に於て双方対決の際に図らずもこの私和の事が発覚し、八年十月に川村は遂に始末書を取られた。その書中に、「昨春已来、元司法裁判所ニ於テ屡御吟味之際、自分御答之廉々、茂兵衛代人堀松之助申立ト齟齬之廉不少、不都合ノ旨御詰問ヲ蒙り、頗ル困迫之余、不測心得違ヲ生ジ、裁判官ノ故意ニ出候歟松之助ノ誣告ナルカヲ疑ヒ、岸本且矩ニ依頼シ松之助へ申込、壱万円《(両カ)》・壱万五千円《(両カ)》等ノ事由云々書取ニイタシ、自分申出ニ反セザル様申立可呉様内々及依頼候へ共、松之助承諾不致、終ニ申口不居合ヨリ、訟庭ニ於テ対決之際、内々岸本ヲ以口合之義不束之段発覚ニ及、御吟味ヲ蒙、前件自分取調之義粗漏之廉有之ヨリ、茂兵衛ノ苦情モ引起申候。素ヨリ被判官故意ナラザルコトモ判解仕、全ク心得違之段悔悟仕候事。」司法省書類と述べてゐる事は、本件の裁判審理上頗る被告側の不利であつたのはいふまでもない。加之判事に対しても悪印象を与へたものと思はれる。
 かくて大蔵大丞小野義真も推問の上拘留され、大蔵五等出仕北代正臣も推問の上一時他行を禁ぜられる場合と為つた。これに伴うて公の召喚されるに至るのは已むを得なかつた。そこで公は八月二十二日・二十五日・二十七日の三日に亘つて出廷し、判事の推問に答へた。その口供は複雑な事件の割合に頗る簡単で且つ漠然たる答弁であつた。その事は公から吉富簡一に宛てた八月二十八日附の書翰に見えてゐる。「一、生過ル廿二日より下調として東京上等裁判所え呼出し、其後廿五日と、昨廿七日、三度ニ及び申候。今日ハ調印仕候。尤余程柔順ナル問方ニ候而、只処分之次第を尋候計ニ御座候。最早一応出調ニ相成候ハバ、裁決ニ至リ可申候。前々之小野抔之調とは、丸デ様子も相違候事ニ候而、更ニ他出等も留メ不申候。併不喰腹迄探候と申者故、満心不足計ニ候而憤怒ニ不堪候。御憐察可被下候。一先相済候次第下坂仕候間、必御掛念被下間敷候。」吉富家文書而も事件は公が考へたやうに簡単には済まず、判事の方では更に突込んで論難の出来得ぬことも無いではないから、公及び北代・川村の三人の口供を比較対照し、その不
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備の点を十箇条に纏めて、之をその筋に具申した。これは猶一応進んで公を審問しようとする積りであつたものと思はれる。
 然るに本件は単なる司法の問題でなくして、既に内閣の問題と為つてゐたものであるから、司法部内の協議のみを以て判決する訳にはゆかなかつた。故に荏苒時を経過し、九月末日に至つて公は復裁判所に呼出された。即ち十月四日附、公の吉富宛の書翰に、「野生一身上之事も、過ル三十日裁判所え呼出、本調と相成候テ、只今是ハ御規式ノミニテ、先調丈ハ相済候故、近日判決ニ立至リ候由、定テ生ハ更ニ無罪と相成候模様ニ御座候。」吉富家文書とあつて、この頃公は全く無罪と為るべきものと深く信じてゐたのである。而して同月二十日に至つて公は裁判所に於て口供調印をなした。これで公は事件が忽ちに解決に就くものと思つてゐた。併し事件は意の如くに運ばなかつたので、公はその月末に木戸に書信の序にこの事を聞きたゞし、更に十一月六日には、「山田ヨリ昨日来書ニ、四五日前司法省ヨリ政府え伺ニ相成候由、未ダ御沙汰無之故、催促スル云々有之候間、何卒早ク相運候様、御面倒ナガラ奉願候。」木戸侯爵家文書又八日には、「司法省ヨリ政府エ擬律ヲ付相伺候由、山田ヨリ申事ニ候間、成丈早ク相済候様御願申上候。自然未だ山田之考へ違ニテ政府へ差出し不申候ハバ、至急差出シ候様、今一応御催促奉祈候。」同上 と述べて、政府筋の進行を促した。されど容易に進捗せぬので十一月二十二日に公は書状を吉富に送り、「野生も今以裁判申渡シ丈無之、実は大蔵より少々金を村井なる者え払返ス様相成候処、大隈少々又異論有之故ケ様長引申候。誠に御上之沙汰ハ長キ者にて、込り入申候。」吉富家文書と内情を告げてゐる。併しこの時に至つて既に大体政府と司法部との調和が取れて、政府過収の金を村井へ還附することに議が協定されたものと察せられる。
 然るに十二月中旬、公は木戸の推薦で黒田特命全権弁理大臣に副として朝鮮に差遣される事に内定してゐたから、第五編第三章参照 政府としても早く尾去沢銅山事件を解決せねばならなかつた。従つて木戸の焦慮も一通りで無かつたらしく、その尽力愈々効を奏して、同月二十六日に判決を見るに至つた。但し裁判所からは二十五日に公の旅宿木挽町一町目鹿島方へ宛て召喚状を出したが、不在で預かり置いたので、裁判所から再び急御用であるから、早々出頭せよとの通知があつた。それにも拘らず公は他に宿泊してゐたと見え、二十六日の朝は未だその事を知らず、書を木戸に送つて、「生一身之事件モ未ダ司法一条決シ不申而手間取候次第、且伊藤モ病気ニテ今以出勤不仕候。尤明日ハ押テ出勤、夫々相片付候様申居候。」木戸侯爵家文書と述べてゐる。而もその書翰を差出した直ぐ後刻に、召喚状を受取つたものらしい。即ち公に対する判決文司法省書類は左の如くである。
      申渡
                  従四位 井上馨
  其方儀、大蔵大輔在職中、旧藩々外国負債取調ノ際、村井茂兵衛ヨリ取立ベキ金円多収スルノ文案ニ連署セシ科、名例律同僚犯公罪条ニ依リ、川村選ノ第三従トナシ、二等ヲ減ジ懲役二年ノ所、平民贖罪例図ニ照シ、贖罪金三拾円申付候事。
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   但、多収シタル金弐万五千円ハ、大蔵省ヨリ追徴シテ村井茂兵衛ヘ還付イタス間、其旨可相心得候事。
  明治八年十二月      東京上等裁判所
 この事件の被告側の主なる川村・第二従たる北代に対する判決は左の如くである。
                 紙幣大属 川村選
  其方儀、大蔵省十等出仕ニテ判理局勤務中、旧藩々外国負債取調ノ際、村井茂兵衛ヨリ旧盛岡藩ヘ係ル貸上ゲ金ノ内ヘ償却シタル二万五千円、同藩ヨリ貸付ト見做シ徴収セシ科、職制律出納有違条ニ依リ、座賍ヲ以テ論ジ懲役三年ノ処、過誤失錯ニ出ルヲ以テ、官吏公罪罰俸列図ニ照シ、罰俸三箇月申付候事。
   但、村井茂兵衛稼ギ尾去沢銅山附属品買上ゲ代価同人承諾証取置カザルハ、違式ノ軽ニ問ヒ、懲役十日。
   一、吟味中茂兵衛ノ代人堀松之助ヘ私和ヲ求メシハ、不応為ノ軽ニ問ヒ、懲役三十日、各本罪ヨリ軽キニ依リテ更ニ論ゼズ候事。
   一、右多収シタル金二万五千円ハ、大蔵省ヨリ追徴シテ村井茂兵衛ヘ還付致ス間、其旨可相心得候事。
                内務権大丞 北代正臣
  其方儀、大蔵省六等出仕ニテ判理局担当中、旧藩々外国負債取調ノ際、村井茂兵衛ヨリ取立ベキ金円多収スルノ文案ニ連署セシ科、名例律同寮犯公罪条ニ依リ、川村選ノ第二従トナシ、一等ヲ減ジ懲役二年之処、当時病患ニ罹リ事務調査ノ気力ニ乏ク、専ラ首犯ニ任セ置タル情状ヲ酌量シ、更ニ三等ヲ減ジ懲役一年、官吏公罪罰俸例図ニ照シ、罰俸一箇月申付候事。
   但、多収シタル金二万五千円ハ、大蔵省ヨリ追徴シテ村井茂兵衛ヘ還付致ス間、其旨可相心得候事。
                大阪府士族 川井清蔵
  其方儀、旧盛岡藩大属在職中取扱タル同藩負債名義ニ付、大蔵省ニ於テ取調ノ砌、同藩ヨリ村井茂兵衛ノ旧債ヲ抵償シタル金二万五千円ヲ以テ、同人ヘ貸付金ト見做シテ具申セシ科、改定律例第二百四拾七条、上ニ告ルニ詐テ其実ヲ以テセザル者ノ重キニ擬シ、懲役一年ノ処、已ニ右証書取拵ヘニ付禁獄一年ノ処断ヲ経ルヲ以テ、二罪倶発例ニ照シ、罪等キニ依リ更ニ論ゼズ候事。
従五位小野義真・大久保親彦・従五位岡本健三郎・正五位渋沢栄一は皆無罪と為つた。又原告であつた村井方へは左の如く申渡された。
      申渡
                  村井茂兵衛手代
                      堀松之助
  其方儀、村井茂兵衛ヨリ旧盛岡藩ヘ貸上金二万五千円大蔵省ニ於テ多収セシ一件、川村選吟味中岸本且矩ヲ以テ私和ヲ求メシ一件等相尋ル処、御用相済候ニ付、此旨可相心得事。
   但、多収シタル金二万五千円ハ大蔵省ヨリ追徴シテ、追テ村井茂兵衛ヘ可下渡候間、其旨可相心得候事。
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  明治八年十二月        東京上等裁判所
 翌日公は書を裁して木戸に宛て、「彼一条裁判モ終局ト相成、三十円罰金ニ而相済申候。誠ニ以長々御苦配被仰付、且ハ老台之名誉迄モ汚スニ至リ、実以心事不安、恐縮之至ニ御座候。」木戸侯爵家文書と長い間木戸の一方ならぬ配慮を謝した。かくて尾去沢銅山事件は終末を告げたのである。
 以上両節に亘つて縷述した所を要略すれば、尾去沢銅山事件は盛岡藩の財政困難に起因し、村井が同藩の用達を勤め、その藩との貸借関係が頗る複雑であり、而も書類に不備な点が多かつたので、四年七月に廃藩置県のため全国各藩の債務を政府が継承して弁済することになつた際、村井と藩との貸借関係について大蔵省の査定と村井の陳述とに径庭を生じた所から、江藤司法卿が大蔵省の当局者殊にその処分を管掌した上司たる公に何等か不当の処置があるものとして、問題を惹起したものである。当時盛岡藩の負債は四十余万円の巨額に達してゐた外、なほ政府より十四万七千両の融通を受けてゐたのであつたが、政府は此等の負債を返済処分した。而して右の負債調査に際し、大蔵省に於ては村井より藩へ返納すべき残金四千六百両余及び分借金三万千四百両があると査定し、之を村井に徴収すべき旨を達した(これが問題の一)。村井は明治初年以来藩が経営に悩んだ尾去沢銅山を引受けて事業を継続してゐたが、成績が甚だ思はしくなく、且つ他の営業も不振に陥り、頗る窮迫した際なので、大蔵省の査定に抗弁して応じなかつた。それで大蔵省は盛岡県に命じて村井の全財産を差押へさせた(これが問題の二)。かくして家産一切を差押へられた村井は、金融の途が礑と止まり、何等の事業もなし得なくなつたので、銅山を有利に処置して転換策を講じようとして、屡々政府に銅山を返上し山内諸物品を元価で買上げて貰ひたいと懇願したが、その価格が甚だ不当であつたので許されなかつた。村井は更に銅山の見込書を作つて返納金の年賦上納を請うたが、村井には既に銅山経営の資力がなかつたので、政府は亦許可を与へなかつた。かくの如く村井は種々手を替ヘて歎願するのみで、更に残金を返納しなかつたので、大蔵省の当局者も頗る之をもてあぐんでゐた際に、岡田平蔵が五万五千余円で該銅山引受を願出た。そこで大蔵省では村井を処置する一法として之を許可し、村井より銅山を返上せしめてその差押へを解いた(これが問題の三)。
 かくして村井の返納金問題及び銅山の始末は一段落となつたが、江藤始め司治当局者は疑惑の眼を以て大蔵省の査定を不当とし、村井の家産差押へを圧制とし、且つ村井の歎願を許さずして岡田に銅山経営を許可したのは公と岡田との私交関係によるものとし、その不正を抉剔しようとした。併し何等の不正もその間に行はれてゐなかつたのである。
 かゝる冤罪を大蔵省の当局者、殊にその上司たる公に蒙らしめたのは、当時公と不和の間柄にあつた江藤より出でたことは既述の如くであるが、事件の真相を解せず批判的に盲目なる世人は、種々臆測を逞しうして囂々喧伝し、今日なほ尾去沢銅山事件といへば一種の疑獄であるかのやうに思做し、公等に疚しい事でもあつた如くに伝へられて
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ゐる。即ち、「井上等大蔵省在職中尾去沢銅山を其借区人村井茂兵衛より強奪し以て自ら利する所あり。」評伝井上馨といふが如きそれであつて世人は亦かゝる誣枉を真実と思うてゐるのである。併し何等強奪といふが如き事蹟がなく、又公自らこれに関聯して非常に迷惑したことは明かである。公を難ずる者は多くその事件の結果から臆断して、公が大蔵大輔辞職後銅山を視察して岡田の経営を援助し、又八年十二月に贖罪金三十円を申付けられたこと等より、公が大蔵大輔在職中にも後暗き事があつたやうに伝へてゐるが、甚だしい臆測といはねばならぬ。銅山援助は岡田が経営不如意の為に公に依頼したのによるのであり、贖罪金は、直接盛岡藩の負債を調査した判理局員川村選が、「奉内借」とある書類を藩の慣例を知らなかつた為に村井が藩より借用したものと解して、二万五千円を多収したといふ手落が公に累を及ぼして、上司としての責を受けたものであつて、公としては思ひも寄らぬ科を申渡されたのである。当時廃藩置県といふ政治的大改革を遂行する為に公を始め大蔵省当局者が寝食を忘れて鋭意その処分に努力し、而も全国諸藩の種々なる難件を処理するには一大英断を要した際であつたから、係員が多少手続上に過誤のあつたことは免れなかつたことと察せられる。その聊かの過誤を以て、直ちにその上司たる公に対して、大蔵大輔の職権を濫用して銅山を強奪したと称するが如きは曲解の甚しいものである。要するに尾去沢銅山事件は、廃藩置県に全国諸藩の負債を整理するに際し、盛岡藩の負債査定に於て過誤があつた為に累を公に及ぼしたものであつて、公に反感を抱いてゐた者がこれを利用して、揣摩臆測をなし、虚妄の声を大にして公を陥れようとしたものに過ぎなかつたのである。大蔵省文書・井上侯爵家文書・木戸侯爵家文書・木戸孝允文書・吉富家文書・山田伯爵家文書・三条公爵家文書・佐佐木高行日記・明治聖上と臣高行・世外侯事歴維新財政談・大隈侯八十五年史・江藤南白・松菊木戸公伝・渋沢子爵談・益田男爵談・馬越恭平談



〔参考〕大隈侯八十五年史 第一巻・第四九一―四九四頁 〔大正一五年一二月〕(DK030110k-0005)
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大隈侯八十五年史 第一巻・第四九一―四九四頁 〔大正一五年一二月〕
    (九) 井上の窮境を救ふ
 玆に尾去沢事件の由来を少し述べて置きたい。最初尾去沢鉱山採掘権の持主は、南部藩御用達の村井茂兵衛で、彼れは大阪にも支店を出し、手広く営業して居た。ところが、南部藩は維新の変に朝敵の罪名を負ひ、二十万石の高が十三万石に減ぜられた上、尚ほ七十万両の献金を命ぜられ、財政窮迫、遂に外債を起した。その際村井が命ぜられて保証人になつたが、廃藩置県と共に南部藩の債務をも政府が引継ぐ事となり、その外債償却の為めに保証人たる村井に償却を迫つた。尚ほその上、村井が南部藩への貸金の受取に藩の体面を重ずる一種の形式に従ひ、普通には「請取」と書くべき所を「奉拝借」と認めて差出した請取証が二通出たのを誤つて事実と反対の意に解し、大蔵当局は南部藩から村井への貸金として督促した。それに対して村井が弁明したに関らず、容赦なく右五万五千余円の債務に対して、尾去沢鉱山の採掘権を取上げた。それが既に不法処分である上に、村井が困窮哀願して、五万五千余円の債務を認め「償却に応ずるから、何卒今鉱山を取上げず、五万五千余円を五ケ年賦として償却することにして戴きた
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い」といつたが、それをも斥け、岡田平蔵なるものに同価を以て売却し、而もそれには代金の二十ケ年賦償却を許した。それで村井はこの不法に痛憤して、司法省達四十六号で、地方人民の官庁より不法の迫害を受けた者は、府県裁判所、若くは司法省裁判所に出訴することが許されるに及び、時の大蔵当局を相手取つて訴訟を司法省裁判所に提起した。江藤はそれを見て国家民人のためにその罪悪を剔抉して官紀の振粛を期しなければならぬとし、司法大丞兼警保頭島本仲道に専らその事件担任を命じた。江藤が井上を蛇蝎の如く憎みつゝある折柄、井上が野に下ると間もなく、尾去沢鉱山の所有名義を岡田平蔵より自己に移し、自らその山に出張して「従四位井上馨所有」の高札を建てたといふ風説さへ伝はり、その上岡田は長人で井上と親しい関係にある事が知れた。これを見た江藤は井上糺弾のために蹶起した。かうして右の事件が司法裁判所の手に移つたのは六年五月の事で、その後荏苒決せず、江藤失脚後、明治八年十二月下旬に至り、漸く判決があつた。主犯は紙幣大属川村選と定まり、その他内務権大丞北代正臣以下少からぬ連座者を出したが、井上も村井から取立つべき金員徴収の文案に連署した罪科に依り、懲役三年に処せらるべきを減刑して罰金参拾円を課せられた。
 事は単にそれだけで、何等それ以上の罪悪は摘発されなかつたけれども、事実が刑法上に関するだけに、当時の井上は非常に焦心苦慮した。それについて井上が君の許に寄せた数通の書簡が今尚ほ残つてゐるが、試に七年三月十五日附の一書を見ると、その中に「その節愁願致した尾去沢クレームよりしてか、方々野生の三年来の遊跡等探索する様子、終に昨日は岡田方へ至り、帳面も相改めたそうである。勿論野生身に於ても左程後暗き所行も致さぬ、何も恐怖はせぬ。如何に疑惑された迚も、限あるものだと存ずる。かくの如く政府より疑を受け、如何にも、遺憾切歯の至りである。併し不才不徳と雖も、小人の乱心と同一に看做されるのは、口惜しい。最早右の山も、野生は丸で離れ、既に工部省へは平馬より返上の書面も差出して置いた故、左迄御疑念なくともよいと思ふ。十三年一身を捨て、国事に身を委ね、終にかくの如きレピユテイシヨンも保護を得ず、実に無情の極と存ずる。最早定めて遠からぬうちに司法より呼出し、詰問もあらうと覚悟致してゐる。併し何卒旧知を思召して、大木辺へも然るべく御弁解、事平穏に済み、司法へ呼出しなしに相済むならば、無量の仕合と存ずる。わが輩の如く一身に権なき人と雖も、余り無情と存ずるので、然るべく御含み下され、御保庇を蒙り度い。伊藤には過日粗ぼ相咄し置いた。何分御依願申上げる」云々との意を述べてある。それによつて知らるゝやうに、彼が如何なる手続によつたかわからぬが、兎に角岡田と共に一度その山に関係しただけは確かで、従つて瓜田に履を踏入れた程度の責は免れ難かつた。特に井上は当年折花攀柳の遊が強かつたと伝へられるので、三年来の遊跡が偵吏の細探に由つて発き出されるとなると、それだけでも、彼れの名誉上少からぬ苦痛であつたらう。併し幸ひに井上が裁判所へ出廷する一事だけはなくて済んだが、その判決を見ぬ間は頗る憂慮したと見える。尚ほ七年六月八日附の一書で「且亦
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生司法省一件今以て相済申さぬ、外にも御不審の筋があるのか、或は未だ位にある故、事奏聞の上で、御処置相成る事故、隙取るかとも存ずる。御様子御洩し下さらば、難有仕合である。旁参堂の覚悟であるが、権門家へ度々出入すると、又世間の誹謗を増すであらうかと差控へ、書中を以て申上げる云々」といふ旨を記して居る。「権門家へ度々出入云々」と嘆じた井上も後には君よりも栄進して得意の境に悠遊したが、その在野失意の時代には、君に向つて右の如き嘆声を洩したこともあつた。そして君は常に井上の心中を察して同情を寄せ、彼れの立場を失はしめぬやう計つた上には与つて力があつた。それは井上が長く君を徳とした所以である。