デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.370-375(DK030113k) ページ画像

明治五年壬申五月二十一日(1872年)

栄一大蔵大輔井上馨ト謀リ、是日三井八郎右衛門小野善助及ビ三共・小野両組ノ番頭手代ヲ井上邸ニ招致シ、両組共同ニテ国立銀行ヲ創立センコトヲ告諭ス。此以前ヨリ両組不和ナリシモ、是ニ依
 - 第3巻 p.371 -ページ画像 
テ已ムヲ得ズ六月ニ至リ両組連署シテ国立銀行ノ創立願書ヲ大蔵省紙幣寮ニ提出ス。


■資料

青淵先生伝初稿 第九章上・第一三―二二頁 〔大正八―一二年〕(DK030113k-0001)
第3巻 p.371-372 ページ画像

青淵先生伝初稿 第九章上・第一三―二二頁 〔大正八―一二年〕
○上略 先生等が銀行を民間に起さんとして苦心せるにも係らず、皆其出願を抑止せるは、国立銀行条例の制定近きにあるが故に、其条例に準拠して設立せしめんとしたるなり。当時巨万の富を擁せる資本家は、必ずしも尠からず、然れども其最も政府に接近して官金を監理し、金融界に勢力を有したる者は三井・小野・島田の三組なり。時に政府の財政未だ豊ならざれば、信用厚き三組を利用して銀行を創始せしめ、以て模範を天下に示さんことは、大蔵省当局の心算なりしなり。先生が三井バンクの計画を勧告したるも亦之が為なりき。されど三井バンクの計画は、金券発行を条件としたれば、主として米国のナシヨナルバンクの制度に則れる国立銀行条例と牴触する所あるが故に、一時三井バンク設立の認可を取消したれども、三井組の勢力を藉るの必要は失せたるにあらず、これ先生等が三井組の子弟をして、米国に遊学せしめたる所以なり。而して又三井組に小野・島田の両組をも加へ、此三組を中心として設立せしむることの得策なるを按じ、玆に始めて三組の協同経営を慫慂せしが、島田組は幾もなく家道衰頽して之を辞退せしかば、爾来先生は専ら三井・小野・両組の勧誘に力を用ゐたり、これ実に明治四・五年の交にありき。
明治五年五月二十一日、先生は井上と謀り、三井八郎右衛門・小野善助・及び両家の手代数人を井上の邸に招き、銀行設立に就きて告諭する所あり、紙幣頭芳川顕正亦席に陪す。此時先生と井上とは、両組不和の聞えあれど、共に政府の御用を勤仕せる上は、決してさる事あるべからず、銀行設立の件に至りても、能く熟談を遂ぐべしと諭して両組を戒めたり。抑々両家は島田組と共に官金出納の任に当り、利益の競争より闇闘常に絶えざるが故に、銀行設立の内命に接するに及びても、両組は各々手限りにて設立せんことを希望し、協同経営には異議を挟みたれば、遂に此に及べるなり。然るに両組は尚戒諭に服せず、運動周旋に力めたれども、先生等断じて之を斥けたれば、両組も已むを得ず、同年六月を以て連署して銀行創立願書を紙幣寮に呈出せり。
    銀行創立願書
 御一新以降、私共両組共
 政府為替方被 仰付、金銭為替、並出納、其外臨時御用向等無滞奉事仕候儀ハ、重々難有仕合奉存候。就而ハ方今之御時体奉恐察候ニ追々外国御交際モ御更張被為在、専ラ富強之根軸ニ御着目相成、流通之利便、物産ノ蕃殖等、万般御鞅掌被為在候ニ付而ハ、差向真成之銀行御創立之義、尤以御急務ニ奉存候。因而先頃私共両組共各々特別ニて銀行開業之義奉願置候得共、尚熟考仕候処、所詮一身一個之独力ヲ以、各自其業相営候様ニ而ハ、終ニハ相牴触之患も有之、殊ニ卑見陋才、加フルニ微薄ノ財力ニ而、鴻業成立ハ無覚束、況哉毎々被仰出候協同戮力之盛旨ニも相悖候次第ニ付、此度両組共全協
 - 第3巻 p.372 -ページ画像 
力仕、差向金弐百万円ヲ目的と致、確実之銀行共立仕度奉存候。尤右創立ニ付而ハ、追々組合相望候者モ可有之ニ付、尚ホ順序ヲ以テ株主相募、且向後増高等之見込モ有之候旁、往々金五百万円之合集高ニ相済候様仕度奉存候。右銀行御規則等ニ於而ハ、追々御取調モ被為在候趣仄奉聞候ニ付、毎事成規ニ照準致シ、敢テ悖戻之所為仕間敷候間、何卒右之通御許可被成下置候様奉願候。将又右銀行御允可ノ上ハ、従来奉務罷在候御為替方ハ勿論、其外臨時御用向ハ都而右共立ノ銀行江被仰付、是迄ノ通戮力奉事仕度、尤モ西京・大阪・横浜・神戸・長崎・新潟・函館其ノ他枢要之地江も夫々出店取扱、諸為替向聊凝滞無之、内外之流通御弁理相成候様、可仕奉存候。此段奉願候也
    壬申六月            小野善右衛門印
                    小野善太郎印
                    小野善次郎印
                    小野善助印
                    三井元之助印
                    三井次郎右衛門印
                    三井三郎助印
                    三井八郎右衛門印
      紙幣御寮
七月十二日三井八郎右衛門等より同族篤二郎への書翰に、「バンク一件、摸様柄相洩レ《(マヽ)》可申旨、右は五月中井上様にて、渋沢様・芳川様・御立合之上、此方小野合併之バンク相建可申様御沙汰有之、就而ハ訳ケ柄小川町君より御談に付、此方小野同道、度々御同所江出張、御規則等迄御内々拝見いたし候処、大蔵省御用向一般、バンク江被仰付候御規則ニ付、合併之儀御断申上度候得共、左候而ハ御本省御用向に相放レ候次第、無是非此方小野合併、□万両之バンク相建可申旨、過日紙幣寮江願書差出し候儀ニ有之候、其後上ケ置之儘にて、何等御沙汰無之候」と見えたるにて、其事情を察すべし。小川町君とあるは即ち先生なり。蓋し内命を奉ずるにあらざれば、官金出納の御用を免ぜらるべしと内示せられたるなり。


渋沢栄一 書翰 井上馨宛 ○明治五年五月二〇日(DK030113k-0002)
第3巻 p.372 ページ画像

渋沢栄一 書翰 井上馨宛         (井上侯爵家所蔵)
 ○明治五年五月二〇日
拝啓然者昨日申上候通、小生義今日ヨリ四五日之処彼バンク方法再調之義ニ付宅調御聞届被下度候、併もし御留守中小生取扱候件々に付出頭を要し候義も候ハヽ、御指揮次第何時にても可罷出候
○中略
    五月廿日
  明日三井小野御呼集ニ相成候ハヽ罷出可申哉、然時ハ何時頃にて宜敷候哉為念相伺候、廻議ものハ夜分にても取調可申候間、小生受持之分ハ大少丞ヘ御下命宅へ御遣し被下度候
                      渋沢栄一
    井上大輔閣下

渋沢栄一 書翰 井上馨宛 ○五月二二日(DK030113k-0003)
第3巻 p.372-373 ページ画像

 ○五月二二日
○上略 昨日三小へ御一声余程響応之体にて両方とも実ニ恐悚不知所出之
 - 第3巻 p.373 -ページ画像 
模様ニ御座候、此末如何処置可仕候哉、今日又ハ明日方ハ果して小生へ乞憐過訪と奉存候、矢張御見据之如く打払致置可申と存候、併決局ハ昨日も申上候通、先畏縮縮懾服之後中心を悔悟せしめ、而して活路を与候方にハ有之間敷哉、小生敢而此両家によりバンク建創を企望候にハ無之候得共、自今別ニ叱咤を加へべきものも外にハ無之候間、先易に就き候考案ニ御座候、就而窮畢之処置ハ昨日も申上候通之準備金、会議論是非御採用御座候様奉仰候
 即今両家抔へ右様之体ハ聊も相示し不申候、却而厳格ニ打払置可申候
右不避義ニ候へとも為念高慮奉伺候
先頃来政府申請之件其外とも要務心附候廉々別紙申上候、宜御処分奉仰候 匆々頓首
  五月念二                渋沢栄一
    井上大輔閣下

渋沢栄一 書翰 井上馨宛 ○明治五年五月二四日(DK030113k-0004)
第3巻 p.373-374 ページ画像

 ○明治五年五月二四日
拝稟然者昨日陳白之書中三井小野御譴責一条昨夜一同弊廬へ罷越候ニ付再三不快を以面会を謝絶候処、強而面会を乞候ニ付、其心得方等取糺し候処、真実ニ恐悚懾服之体にて只管歎願之旨趣ハ、両家共維新以来聊なから会計之事務を奉承し、自家営業之余贏ハ勿論、世間之面目とも相心得、何分にも勉力奉事微少たりとも報効相立度、幸即今会社創立之御体裁に於ても大概御目途被為立、不日方法御設立にも可相成之際、突然従来之御用向さへ御取離しと相成候様にてハ、縦令右紙幣会社之創立ハ官許を蒙り候とも、第一名目声価を失ひ、何等之不都合をも不取分、是迄世間に対し候信用も忽払地之場に至り可申、実ニ家道之危頽此事に必し如何にも困迫之極ニ候間、何等之実効を呈し何様之心得ニ相成候ハヽ、右御譴責之廉御宥恕之御沙汰可有之と歎慨悲傷懇々切々ニ其情願を陳弁被致候ニ付、生ハ却而漠然之言論を以て一旦之を打払申し、尚再三考案を凝し自顧反求して可申出と申聞置候、併右之情状にて先真成悔悟何れにも高旨を奉し、聊以私念を加ひ候様之義ハ無之様相見へ候、就而ハ向後之処如何之御定見ニ御座候哉、何分追々迫り来可申、旁寛猛之挙措到底之処分高慮不相伺候而ハ応答にも不都合可有之候と芳案奉伺候、生之愚案にハ、先右之大喝一声にて其心胆を相挫き真実之見込に回復せしめ、然後ハ曾而申上候準備金合併之方法にて会社創立をも御聞届相成、其他尚誠精之心術表呈之事実を為相立、為替方之事務に於てハ別而確実之方法に拠り(従来之為替方ハ是迄通両家へ申付置、唯出納寮最寄ニ堅牢之金庫を両家より為取立、公金を私之融通に供するの弊害万一にも予防いたし度、尤其勤向ニ付而ハ相応之御手当ハ被下候方歟、将又諸方為替之義も此程之廻議之通、先御命し相成候方、今日より新ニ為替方等を御命相成候より穏当之御処置にも相成、其事務も御弁理いたし)且官府之御都合ニ可相成と奉存候、百事精確ニ取扱候様更ニ方法等取設候ハヽ万御懸念も有之間敷、且両家阻格等も決而無之事と被存候、御指揮之次第によりてハ尚其精誠之心術表呈之処可申談と奉存候、可然御下命被下度候、もし又閣下之高慮実ニ従来之御用向ハ御取離し、新ニ為替方御申付との次第ニ候
 - 第3巻 p.374 -ページ画像 
ハヽ其処置御不体裁無之引継万端都合を伺候様不致候而ハ、終に御譴責之効験も不相立、或ハ彼等之侮謾を得可申と奉存候、詰ル処即今之景状にてハ抂りなりにも先両家抔を矯正して従事せしめ候方其当を得候御処置と奉存候、就而ハ幸此挙ニ就て充分ニ生擒し、将来をも為相慎申度、併大概之落着ハ御取究無之而ハ彼等も真ニ一大事と苦配中ニ付、諸方奔走歎訴等之不体裁も可有之歟、何卒御判定之処御諭し被下度候、右拝趨申上度候処、昨日も申上候通何分当痾平臥中乍失敬書中申上候次第ニ御座候 匆々頓首
  五月念四
                       渋沢栄一
    井上老台


世外井上公伝 第二巻・第二八一―二八二頁 〔昭和八年一二月〕(DK030113k-0005)
第3巻 p.374 ページ画像

世外井上公伝 第二巻・第二八一―二八二頁 〔昭和八年一二月〕
○上略 国立銀行条例の公布に先だち、公は銀行の設立を三井・小野両組に慫慂したところ、五年六月に両組は連署して紙幣寮に請願し、二百万円を目的とする確実の銀行を創立しようとした。それが八月十五日に愈々許可になつた。これが第一国立銀行の前身であつて、この設立には公及び芳川・渋沢の尽力が多大であつた。
 従来三井組も小野組も殆と同様の営業を為し、互に競争の有様であつたから、国立銀行を創立する際には、必然東京の大株主としてこれ等富豪を網羅せねばならぬ。それでこの両者が競争の形勢を持続してゐては、共同一致の事業を完成することは出来ぬ故、公等は内々両者の融和を計り、終にこゝに組合銀行が設けられるに至つた次第である。されば八月二十九日の深夜に渋沢は一書を裁して旅行先の公へ宛てた書翰の末に、「明後一日ハ三井・小野打寄せ、銀行営業之順序開店之都合、其外頭取・支配人之取究、紙幣押印、及名面書入等まで取究申度ニ付、願くバ明夕御帰京奉渇望候。」井上侯爵家文書とあるに依つても、この間の事情を想察するに難くない。


第一銀行五十年史稿 第四二―四四頁(DK030113k-0006)
第3巻 p.374-375 ページ画像

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