デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.2.18

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.394-491(DK030119k) ページ画像

明治五年壬申六月九日(1872年)

是ヨリ先、本年二月大蔵少輔吉田清成七分利付外国公債募集ノ為理事官トシテ渡米、尋イデ五月渡英シ、参議大隈重信、大蔵大輔井上馨、栄一及ビ大蔵省三等出仕上野景範等ヘ公書ヲ寄セタリシガ、是日栄一井上大輔及ビ上野三等出仕ト連署シテ吉田理事官ヘ公書ヲ発ス。爾後六年ニ至ル迄栄一等ト吉田等トノ間ニ屡バ公書ヲ往復シテ其事ヲ議ス。明治六年一月之ガ発行ニ成功ス。


■資料

雨夜譚 巻之五・第二三―二四丁〔明治二〇年〕(DK030119k-0001)
第3巻 p.394 ページ画像

雨夜譚 巻之五・第二三―二四丁〔明治二〇年〕
○上略
偖て其歳も暮れて、明治五年の春となつたが、去年大蔵少輔に任ぜられた吉田清成といふ人が、英国に於て公債を募集する為めに洋行を命ぜられました、此公債募集の事は大蔵省で井上が立案したもので、其主意は華士族の禄制を設けて、一時にこれを給与し、国庫が永年の負担を免かれやうといふ方法であつて、其原資に充てる為めに、外国に於て公債を起して、正金銀の資本を備へ、終に紙幣兌換の事も此資本にて行ひ得らるゝ見込を以て、吉田少輔に欧羅巴派遣を命ぜられたのである、吉田が出立の際に自分は大蔵三等出仕に任ぜられて、少輔の事務を取扱ふことを命ぜられました、これは其歳二月の事で、今歳は大蔵卿の大久保も洋行中であるから、省中の事務は井上が全権で、自分はこれを補翼する次官の任であつた、 ○下略


七分利付外国公債発行日記 (一)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第七一―七二頁(DK030119k-0002)
第3巻 p.394-396 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (一)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第七三―七五頁(DK030119k-0003)
第3巻 p.396-398 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (三)(明治前期 財政経済史料集成 第一○巻〔昭和一○年八月〕) ○第二八―一二〇頁(DK030119k-0004)
第3巻 p.398-400 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (三)(明治前期 財政経済史料集成 第一○巻〔昭和一○年八月〕) ○第一二二―一二四頁(DK030119k-0005)
第3巻 p.400-401 ページ画像

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第3巻 p.401-402 ページ画像

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第3巻 p.402-403 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (五)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第一六九―一七一頁(DK030119k-0008)
第3巻 p.403-406 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (五)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第一七二―一七三頁(DK030119k-0009)
第3巻 p.406 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (五)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第一七七―一七九頁(DK030119k-0010)
第3巻 p.406-408 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (五)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第一八四―一八七頁(DK030119k-0011)
第3巻 p.408-410 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (五)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第一八九頁(DK030119k-0012)
第3巻 p.410-411 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (五)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第一九一頁(DK030119k-0013)
第3巻 p.411 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (五)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第一九七―一九八頁(DK030119k-0014)
第3巻 p.411-412 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (六)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第二〇五―二〇七頁(DK030119k-0015)
第3巻 p.412-414 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (六)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第二一四頁(DK030119k-0016)
第3巻 p.414 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (七) (明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第二二四―二二五頁(DK030119k-0017)
第3巻 p.415-416 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (七) (明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第二二七―二二八頁(DK030119k-0018)
第3巻 p.416 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (七) (明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第二二八頁(DK030119k-0019)
第3巻 p.416 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (七) (明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第二二九―二三一頁(DK030119k-0020)
第3巻 p.417-418 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (七) (明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第二三四―二三五頁(DK030119k-0021)
第3巻 p.418-419 ページ画像

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七分利付外国公債発行日記 (七) (明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第二三六頁(DK030119k-0022)
第3巻 p.419 ページ画像

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在欧吉田少輔往復書類 (一)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第二七七頁(DK030119k-0023)
第3巻 p.419-420 ページ画像

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在欧吉田少輔往復書類 (一)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第二八四―二八五頁(DK030119k-0024)
第3巻 p.420 ページ画像

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在欧吉田少輔往復書類 (二) (明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第二九一―二九七頁(DK030119k-0025)
第3巻 p.420-426 ページ画像

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在欧吉田少輔往復書類 (二) (明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第三〇八―三〇九頁(DK030119k-0026)
第3巻 p.426-428 ページ画像

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在欧吉田少輔往復書類 (三)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第三一七―三二一頁(DK030119k-0027)
第3巻 p.428-432 ページ画像

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在欧吉田少輔往復書類 (三)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第三二三―三三二頁(DK030119k-0028)
第3巻 p.432-450 ページ画像

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在欧吉田少輔往復書類 (四)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第三四六―三四八頁(DK030119k-0029)
第3巻 p.450-453 ページ画像

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在欧吉田少輔往復書類 (四)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第三四九―三五〇頁(DK030119k-0030)
第3巻 p.453-454 ページ画像

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在欧吉田少輔往復書類 (四)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第三五六―三六四頁(DK030119k-0031)
第3巻 p.454-462 ページ画像

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在欧吉田少輔往復書類 (五)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻 〔昭和一〇年八月〕) ○第三七五―三八三頁(DK030119k-0032)
第3巻 p.462-471 ページ画像

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在欧吉田少輔往復書類 (五)(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻 〔昭和一〇年八月〕) ○第三八四―三九二頁(DK030119k-0033)
第3巻 p.471-480 ページ画像

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在欧吉田少輔往復書類 電信書籍綴(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○三九四頁(DK030119k-0034)
第3巻 p.480-481 ページ画像

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在欧吉田少輔往復書類 電信書籍綴(明治前期 財政経済史料集成 第一〇巻〔昭和一〇年八月〕) ○第三九七頁(DK030119k-0035)
第3巻 p.481 ページ画像

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世外井上公伝 第二巻・第一七〇―一九八頁 〔昭和八年一二月〕(DK030119k-0036)
第3巻 p.481-491 ページ画像

世外井上公伝  第二巻・第一七〇―一九八頁〔昭和八年一二月〕
○上略 四年に廃藩置県の事があつて、中央集権の制が漸く完成しようとしたが、政府の財政は頗る困難を極めたので、公等は種々熟慮の末次の考案を立てた。即ち諸侯の家禄を減却して、之を限るに年を以て支給し、その減却の余裕を抵当にして大いに外国公債を興し、一部分は之を内国負債の支消と減却した家禄の支給とに充て、一部分は之を産業振興の費用に供し、而してその外国公債は十余年間で償還し、家禄の如きは七年間支給した後は止める方法を設け、内国負債も漸次償却して余裕ある制を立てようとするにあつた。公は之を正院に伺つたところ、正院は細論審議の末その施行を決した。かくて外債募集の件は大蔵卿に委任された。当時大蔵卿であつた大久保利通は在外中であつたから大蔵大輔たる公が主として取扱ふことと為つた。そこで大蔵少輔吉田清成を理事官として米国に派遣し、右の公債を募集することを命じた。時に五年二月十五日である。大蔵省御雇ジヨージ、ビー、ウイリアムス(G.B.Williams)等もその随行の命を受けた。
 吉田が理事官を命ぜられたと同日に、公は吉田と連名で在米国の大久保及び伊藤に長文の一書を送り、起債の目的とその方法とを縷述してその諒解を求める所があつた。その文に拠ると、公債の目途は凡三千万円で、最初六箇年は利子のみを支払ひ、七年目に至つて元金を償還し始め、五・七年にして償還を了るやうにする。若し幸ひにしてこの公債全額が成立すれば、家禄を処分し、前の新公債を償却し、猶その余剰を以て、小額の外国負債数件を償却し得られるのみならず、鉱山・鉄道等の興業費をも支弁し得る。その募集金額は必ずしも三千万円と高を限ることなく、千五百万円・二千万円・三千万円と自由に定めてもよいが、禄券買上の資金に充てるべき千五百万円は是非希望するといふのであつた。
 吉田は二月十八日に、公等の見送をうけて、随行大蔵少丞大鳥圭介・同大録南保・租税権中属本多晋、及び勧農寮留学生十二人、勧農助田良源太郎引率 外に官私学生二十余人とともに横浜を出帆し、三月十一日に桑
 - 第3巻 p.482 -ページ画像 
港に到著した。我が少弁務使森有礼は一行を迎へた。越えて四月十一日に森は書を吉田に送つて、今回の君が渡米のことは己の職務に関する所が多いから、その大要を領知したいと求めた。吉田はその大意を答へ且つ森の意見を叩いたところ、森は又書を裁して、今回の挙は我が国将来の基礎を定める上に於て、不正有害の企図であるから、之を矯正すべく詳弁せねばならぬから、更に日を期して面議しようと求めた。そこで十三日に吉田は弁務館に森を訪ひ、弁論数刻、吉田は遂に持来つた公債募集、華士族の家禄、及び旧藩債等に関して自己の意を述べた書を森に付して去つた。森はこの文中解しがたきもの少からずとて、その不審の点を条記して問ふ所があつた。十五日に吉田は毎条之を回答し、尋で吉田は又書を森に与へて条件を逐うて質問したが、森は之に対して一々答へる所があつた。その後森は書をウイリアムスに与へて、その附託の任が彼が身に添はぬことを責めたが、彼は直ちに回答して、「余は参議諸君から日本政府貸借の事を輔助すべき命を蒙り、且つ貴国を出帆するに臨み、優渥なる勅語を拝受したのである。今や貴政府の命を奉ずるを知つて、閣下の命に従ふを知らず。」と。遂に米国からその応問の書を副へて、書を西郷参議及び公に呈し、森の異議を唱へる情況及び明日吉田と共にこの地を発して欧洲に赴いて募債を試みようとする旨を、具さに開陳する所があつた。
 吉田は桑港著後、公債を募らうとして直ちにカリフオルニア銀行支配人ローストンに面会し、頭取ミールに談ずる所があつた。かゝる折に米国国務卿デレノーが三月十九日に桑港に来著したので、ウイリアムスは早速面会して、公債の事に就いて尽力を請うた。デレノーも特に好意を我に寄せ、是非米国で起債の成るやうにしたいといふ意嚮であつて、我が政府と特別約定を締結し、公債証書には政府の実印を以て発行するならば、十分目的を貫徹することが出来るといふことであつた。そこで吉田は公の諒諾を得た上、これを執行する全権を委任されたい旨の一書を公に送つた。ついで吉田の一行は紐育に於て運動するため桑港を発し、四月五日に同地に到つた。時に華府滞在の岩倉大使から電報があつて、起債の一件を発表する前に面会したいとのことであつたから、八日に出府して岩倉に面会した。この時に起債の前途に面白からぬ一事件が起つた。それは前にも述べた如く吉田・ウイリアムスと森少弁務使との意見の衝突であつて、これが為に我が国の信用上に関して米国人に疑を懐かしめたことである。森は吉田の桑潜到著以来その説に慊焉たるものがあり、両者の間に屡々議論が交はされたが、なほ森は外債反対論及びその時の問答書を英文の印刷物にして諸友に頒布するに至つた。これは彼の地の新聞紙にも掲載されたことはいふ迄もなく、これによつて彼の国人は皆起債に関して弁務使に異論のあることを知悉したのである。森の外債反対論の大要を挙げれば、(一)政府の権を以て、代代家禄として相続し来た権利を奪ふの理由はない。(二)国を富ます法は、全国の土地を挙げて各個の私有とするに如かぬ。然るを今却つて之を政府の手に併さうとする。これ将来地瘠せ人惰る基である。(三)土地は政府が各人に売るべきもので、買ふべきものではない。若し之を売るならば金を借らずして却つ
 - 第3巻 p.483 -ページ画像 
て金を貸すことと為る。(四)人民の為に利益と為らざる事又は公平ならざる事は政治の主意に戻る。かくの如くんば各国と交誼を全うすることは出来ぬ。要するにそは開化を妨げ人民を貧苦に導くものである。一国の盛衰はその初め小事より起るもので、必ずしも大事のみでない。些細な事も年を経る後には大害と為ることがある。実に政治は網の如きもので、一所が破れると全くその用を為さぬやうになる。(五)国債には内外の別がある。経済の学説に、内債は政府と人民と上下一致存亡を共にする心を生ずること、同舟逢風の如きもので、却つて国益を増すのであるが、之に反して外債は、我が国の如き微力且つ新建された国に於ては弊害があるといふに在つた。かゝる森の意見発表は、我が国の米国に於ける信用を傷つけ、外債募集の妨げとなつたこと少くない。森のかゝる行動に対して、公は非常に憤慨した。されば六月二十四日附で、公及び上野から吉田に宛てた書中に、「一、第一森有礼事、先生と争論の末、終に争論の始終と、且士卒族禄、元来彼等のプロペルチー故、政府より掠奪する事不条理明白抔といふ意味にて、米国に於て英文のプリンチングを諸朋友へも送達せり、同人事チヤーヂダツペーヤにて、只政府の用向を米国政府へ達するまでの職掌外の事務、且我政府を辱かしむる所業、言語に絶し候、定めて欧羅巴へも右等の書は散乱するハ必然、此一身を以ても我信用を失せし夥しく、条公始め殊の外憤怒、是非とも呼返し厳罰するに決議あり、実に先生の今度の業作を妨害する多し、余程御苦慮と想像せり、
右様の説散布する時ハ、よし八ペルセントパーと思考候て公債証書発行候とも、プブリツク、ロウンの事なれバ中途にて瓦解し、前後進退度を失ひ、終に其非を遂るに至りては、政府の不為ハ言ふに不及、ロウン毎に失策して、世間の嗤笑を招き可申なり」大蔵省文書とあり、又七月十八日附、公及び上野・渋沢連名で吉田に送つた書中にも、「此度之公債一件ニ付、森有礼之処為実ニ驚愕之至に候、既ニ賢台ニ対し多少不都合有之候而已ならず、尚同人自己之憶見を主張し、剰是を洋文に刊行して稠衆之意見を問ひ、頗政府を詬罵いたし候ハ、実ニ代理公使之職掌をも不顧所業、言語に絶し候次第ニ候、此儀ハ正院にても御詮議之次第有之、近々御処分可有之と奉存候」大蔵省文書 とあるのを見ても公は森の非常識を大いに憤つてゐたことが知られる。吉田は森の妨害に屈せず起債に奔走した。而して四月二十三日には大統領に面会し、尋で紐育に赴き、折衝大いに力める所があつたが、利子の協定について交渉が意の如く捗らず、且つ前述した米国政府との公約関係の証書発行は公の望む所でなかつたので、遂に米国に望を絶ち、英国に渡らうと決心した。
 吉田が米国に見切をつけて、倫敦に向けて紐育を去つたのは、五月三日である。これより先吉田は米国に支店を出してゐる独逸の豪商シフに面会して、公債募集の目的、会計の状態、及び将来支消の算当を説いたところ、彼は頗る諒解する所があつて、是非一手にて引請けたい旨を申出でた。こゝに於て吉田はシフの支配人と同道、フランクホルトなる本店へ赴いて相談すべく、先づ倫敦に落著いてからその地に赴く考であつたらしい。その事は五月朔日に吉田が紐育から公及び渋
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沢・上野に宛てた書翰の中に、「日耳曼より当地出店の豪商シフえ再会、我国ニ於テ今般新ニ公債を募挙するの要旨、目今並ニ将来会計の景況、及新債支消の目途等弁解致し置、其後数回及談判候処、同人儀我会計の目途充分了解いたし、是非一手ニ而引受弁給致度志願之趣申出候ニ付、余が答ニ公債募方之成否ハ第二段ニ置、利息相当之分割 但し七朱までならバ相談可及、七朱以上ニてハ相談ニ取掛候儀無詮事と手強く申聞候処、右之分割ニて十分出来候見込ニ付、早速同人エゼント、ウヰルソン氏を、欧羅巴フランクホルトの本店へ差遣シ、一応相談致し候上ニて引請申度、就てハ従今凡四周日之後ニは其都合相分り可申候得ども、右等の事件ニ至りてハ電信の往復のみニてハ、其事情充分ニ徹底いたし兼候廉も不少候ニ付、同人のエゼントと共ニ拙者初同行、フランクホルトえ出張候ハバ、第一時日を空に費し候憂も無之、彼地におゐて速ニ成功可相成、旁以好都合に候間、是非速ニ出張致し度趣同人も充分勉強、此度の公債ハ一手ニて引受弁給致度との見込を以申出候ニ付、彼是の事情篤ト熟慮仕候ニ、右シフ社中之外我公債を一手ニて速ニ引請調達致候程の有力バンクも無之、たとへ遇々有之候《(マヽ)》とも、七朱位の利足ニて募方出来候儀ハ、十ニ八九無覚束、且従今四周日の間、拱手罷在候て其機会を失し、米国ニて策尽き事成らずして後彼地 泰西へ 出張致し候てハ、誰彼の別なくバンク等之気込ニも関渉し、事務施行之際多少之障碍有之儀ニ付、寧ろ未ダ米国ニ於て之を公発せざる前ニ、航渡致し居候ハバ、万々一右シフ社中ニて引請兼候節ニ立至り、他の有力バンクへ手を出し候にも、一層之便宜を得可申と存候ニ付、当地ニて右等の事情ニ熟達の輩とも相談及候処、いづれも速ニ彼地へ出張致候方、充分上策ニ可有之云々、種々忠告も有之候ニ付、断然決定、来ル土曜日西暦六月八日、当港開帆の積り御座候、尤今般泰西渡航之儀ハ、当米国ニ而策尽き候上ニて、出張致し候儀ニハ万々無之、縦令彼地ニ於てシフ社中の本店と引合を遂るにも、矢張当ニウヨーク府を本陣と定め、大体の示談行届候得バ、速ニ当府へ帰航仕候上ニて、ヱゼントを命じ、証書発行之手続等を取極候見込ニ御座候間其辺ハ決して御懸念被下間敷様致し度存候、シフ身代之義者、先便も申上候通り、日耳曼ニ於て頗る巨豪の聞へ有之ものニて御座候」大蔵省文書とあるにて知れる。又その倫敦に直行した理由は、主として東洋銀行に対して諒解を得る為であつた。同銀行は従来我が政府と関係もあつたので、今度の外債も同銀行の手を経て募集する途もあつたのであるが、その交渉をなすに至らなかつたので、公も之を心に懸けてゐた。それで公は屡々吉田に注意したこともあり、吉田も十分この事を承知してゐたから、今欧洲に渡つて独人シフと交渉を開くに際しては、一応東洋銀行に渉りをつけて、この方面に遺憾のないやうに取計らつて置く必要があつた。その事は前引用文の続きに、「一、前書公債之儀ニ付てハ、ヲリエンタル、バンクえは可成丈ハ、依頼せざる心得に御座候へども、日耳曼シフ方ニても不相成、其他に於ても差支候節ハ、無拠同バンクニ投ぜざるを得ず候得共、等しく七朱位の利に候へば、可成ハ外々ニ而調達し度決心ニ御座候、併御地ニおゐてハいづれにもヲリエンタル、バンクの不平を引起さざる様致度存候事」とあり、
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又「万一シフ社にて不相整候様之事出候節、不得止オリエンタルバンクへ依頼する程の事有之節ニ至り、不都合なき為め右のエゼント、リー氏へ、示談之上にてロンドン、オリエンタル、バンクへ、今日電信を以て問合置候間、明日ハ返答可有之候」と見えてゐる。而して公がこの事に関し、六月九日附、公等から吉田に送つた長文の書中に、「御書状に而ハシフのヱゼント同道ニて、フランフオルト《(ク脱カ)》へ直ニ御出発、シフの本店へ御相談と奉想像候。又過日英国より伝信の模様ニてハ、オリエンタル、バンク本店へも御相談相成候様ニも相考候、同店ハ元来此書中ニハ、可成七朱之利足ニ候ハバ、外ニ調達可致と有之、只策尽て御依頼之様ニ相見得、旁御深意了解いたし兼候、伝信ニハ八分或ハ八分半の利足のオーソライズを御申越ニ候得共、政府ニても不同意之事故、伝信を以て利足之制限ハ、是迄之外許可不相成儀、並大久保・伊藤両使著迄、御趣向御見合之段を申通置候、定而御了解と奉存候。オリエンタル、バンク之事度々御申越、此間策を害する処置抔有之候由、併世間より我政府を不信して公債成功ニ不至、後同店へ強テ依顆するとも成功之道理且可引請見据有之間敷遠察罷在候、元来何人迚も自分利益を不計、人の為めにする者も無之候故、旧債ハ約定充分無之ニ付、此度之分充分ニ約定取結び、後害無之様いたし、若英国ニて御発行之都合ニも候ハバ、是非とも同店を根基と御定被成候方、好都合と愚考仕候、其次第未ダミント之事も、彼の手を絶ち候事ハ六ツケ敷、且世間も充分同店の云事を信ずる様愚考いたし候、其故ハカルホルニヤ、バンク迚も、第一に同店へ伝信を以て直に掛合候様子、且ツセフ・ロスチヤルド《(シフ・ロスチヤルド)》の如き人迚も、オリエンタル、バンクへ政府の形様聞合候ハ必然ならん、又世人より見ても、余り同店へ忌憚を生じ候と同店の不正歟、或ハ日本政府の人の信心朝三暮四歟、此間へ心を付可申、随而彼ハ其用《(信脱カ)》を失ひ、日本政府を誹謗するハ当然ならん、然る時は我クレヂツトも同様損害を招き可申候。此辺ハ屹度御注意無之候ては、可成功も或ハ其害多からん奉存候《(と脱カ)》。フランクホルト其他英国ニて公債を発行候とてもニウヨルクを本陣と被成候との御議論ハ 一通り御尤ニ候得ども、未ダ御発令無之前にて見れば、格別策尽き候と申ニも無之、是非ニウヨルクを本陣と被成候ニも及び申間敷、公債ハ英国或ハ孛国等ニて発行する時ハ、後年利足本元之払込等ニも甚不便利を生じ可申候、勿論最初之決意転動するハ不可然候得ども利害と便不便に従て変換不致候ハでは、名を以実を害し可申御注意可被下候」 大蔵省文書 とあり、又吉田の渡欧後、六月二十四日附で公等から送つた書翰中にも、「第、二先生カルホルニヤ、バンク初会の節、東洋銀行政府へ勤向ニ付、不満足の意をロルストンへ廉々御話し有之候を、書面ニて倫敦東洋銀行スチユアルトへ其儘を申遣し、同人よりロルストンへ返答ともロベルトソンへ差贈り、同人余程心痛いたし居り、使節著して何等不平の廉々、又疑惑を蒙りたる乎。ロンドンに於ても問合候様子ハ書面に現在せり、何分証拠なき事を外言被成候事故、実ニ申訳ニも困り入申候、依てハ同店も深意快く存し居候て此度の事業も引請候積り哉否ハ遠察六ツケ敷候、又同店も最初論ぜずして他ニ策尽て依頼せしと見くびらるゝハ必然ならん、且先生の疑惑を不快ニ思ハざるを
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得ず、此二ケ条ハ実ハ大なる妨碍を生し事《(候脱カ)》と相考へ申候、如此大なる妨碍を不顧して事を起す時ハ、其事実困難を引出し、進退に困しむ様相考へ候ニ付、元の七分なれバよし、若し其制限の如く不被行時ハ、一度趣向を改め、来年又ハ明後年に起すとも遅きにあらず、又金も必借を要する時ハ、貸主も高利を要求する疑なし、故に当時之処にては正院我等に於ても、却て此ロウンハ先延引する方上策歟と相考申候、併制限中にて成就するコトなれバ誠に重畳なれバ、御尽力可被成候也」とあることを考へれば、吉田の行動は全く公の意志に添ふやうに進めてゐたものと思はれる。
 吉田は倫敦著後、直ちに東洋銀行を訪ひ、爾来数次同行に赴いたが未だシフ会社の方の成否が分らなかつたので新公債の談判にはかゝらなかつた。併し同行頭取の意嚮は、頻りに引受けたき様子であつたのので、吉田は他と同様の利子であるならば、東洋銀行と交渉する方がよいと思うた。かゝる両者の所望によつて、意外に早く談が纏つたので、十三日に吉田は公及び大隈に宛て、倫敦の東洋銀行は公債発行のため尽力するやう保証をした旨の電信を打ち、且つ同日附の書翰をも送つて来た。その文面に拠ると、初め吉田は東洋銀行へ程よく接しおき、大略の趣旨を示してその見込を書面で申出させたのであるが、吉田より可否の返事は与へず、他銀行へ示談してゐた。然るに東洋銀行の支配人スチユアルドは、他の銀行に取られることは、従来の関係上名誉を失墜するものと考へて、是非引請けたいとのことであつたから、再び見込を申出させた。それによると他の銀行よりは却つて安利の分割に当るやうであつたから、乃ち公債発行は同行に託することに取極めたとのことである。
 これより先吉田は各方面を偵察して見たが、その利子の点に就いて公の固く主張した七分までに妥協の付きさうなものはなかつた。即ち最初は年八分以下では見込なく、吉田から公に対して委任状に八分半までとして送達を請ふ旨諾否を求めた位であつたが、公は断乎として之を斥け、大久保・伊藤の著英あるまで待てと打電した程であつた。それで吉田も大いに決心して、同月二十一日に大鳥及びウヰリアムスと共に倫敦を出発して独逸に赴き、愈々フランクホルトのシフ会社に交渉したが、矢張り利子は七分には纏まらなかつたらしい。故に吉田の一行はパリに引上げ、こゝでも金策はして見たが、無論成立しさうもないので、直ぐ倫敦に引返した。然るに七月十四日に、大久保・伊藤が倫敦に来著したので、吉田が今日までの経過を述べて、利子の点も深く研究する所があり、同月二十日に大久保・伊藤両人の名を以て公及び西郷・大隈に宛て、我が国のクレヂツトが八朱と三分一よりは昇らぬから、七分利年賦償還の起債は行はれ難い旨を打電した。而して二十三日に吉田から右三人宛にクレヂツトに関する詳細なる説明を為し、且つ当時各国の公債利息表を添へて之を送つた。越えて八月二十二日に吉田は書を公及び上野・渋沢に送つて「利合之儀ハ先便各国公債之利息表を相添巨細申進候通、各国に比較いたし、迚も七朱ニ而ハ募挙難出来事ニ御座候」 大蔵省文書 と述べた。又公債年季に就いても、公は十五箇年と指定したが、吉田は売出直段と元金との差が十五箇年位
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の短年季では結局高利になるから、前申述べた通り二十五箇年位にした方が宜しいでは無からうか。又最前の勅旨には一千五百万円から三千万円までとあるけれど、今回は一千万円に減じては如何と提案した。そこで公は、八月二十九日附で二千万円のノミナル、カピトルだけは附けておくが、真価は一千万円さへあれは格別差支ない。この点は御委任状外であるから、安心のため拙者が受けて別書証書を譲渡する。且つ利息もロバートソンの気附もあるから、八分半まで許可の事も、同様の手続にして電信で答へるとのことであつた。而して九月五日に電文を打つて、「モニー、マーケツトノ景況ニヨリ、四百万ポンドステルリング之高ヲ募ル可シ、但、当方ニ而ハ千万円程入用ナリ、右ハ東洋銀行え相談ス可シ、而シテ余分之高ヘ利金不相払様之策を勘考ス可シ。当方ニ而ハ通常之諸雑費ヲ除之外、一ケ年百ニ付八分半之利金ニ候得者不苦ト決セリ、此証券ハ二十年或は二十五年ノ年限タルベシ、払戻方ハ一年或ハ二年目ヨリ買戻ヲ始ム可シ、委任状ハ十月一日、横浜ヲ出帆セシ桑港行之蒸気船ヲ以而発セリ、」 内閣文庫文書 と吉田に対して方針を示した。
 次に抵当物の件に就いては、最初三千万円を募集する積りであつたから、現石百二十万石を以て宛てたのであるが、一千万円となつたのでは過当であるから吉田は更に増加した方が然るべきであると主張した。然るに公は、百二十万石の引当も、唯華士族減禄中の一部を以てこの新公債を支消するため抵償の目途に充てたのであつて、敢へて右の高を年々そのまゝに積置くのではない。若し右高で公債年賦の分賦の分又はその利息を消却した上で、その余剰は禄券買上その他にも供したいと説いた。
 前に述べた如く、倫敦に於ける金利関係からして、我が公債は到底最初希望した七分では纏まり兼ねるので、吉田は八分半までとの限度で、公の諒解を得て置いたのであつた。吉田は大久保・伊藤と協議の上、専らかの地の金融好況時期を待つてゐたが、十月以来倫敦の金利は頗る上騰したので、起債の取結びを躊躇した。何が故にかく金利が上騰したかといふに、その主な原因は、独逸が統一後、新金貨マルクの鋳造に取掛り、その高が既に三億マルク以上に及んだので英国その他から金貨幣並びに金地金を買込んだことであると伝へられてゐる。されば英国の金貨が独逸に輸出される間は、倫敦の金融界は、迚も利子を引下げることは無からうといふことで、十一月六日に大久保・伊藤・吉田は三人連署して書を公及び大隈に送つて、縦ひ今後数月間拱手して待つてゐても、到底五朱或は四朱に低下する予測はつかぬから、こゝ暫く好景気に為るのを俟つて速かに著手したい旨を述べた。怡もその頃和蘭の前公使ポールスブロツク(D.Graaf von Polsbrock)及び商法会社某二名が尋ねて来て吉田に面会し、同国では一億円から二億円までならば、何時でも募債に応ずる旨を演べた。併しこれも結局は無効に為るものと考へ、吉田は之を辞した。
 而して前述の方針によつて、翌六年正月三日から、再び東洋銀行との談判に取掛つた。公は未だその事は少しも知らぬので頗る苦慮し、同月七日に一書を吉田に送つて、若し倫敦の市況が依然たる有様であ
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つた場合、八半以上のレートで公債を発行するのは、後害を醸す恐があるから、若し見込が付かぬやうならば中止しては如何。当地でも独逸銀行又は蘭英会社は近来銀行を創立せんとし、我が国に金を貸すことを希望して居り、その金は横浜請取り八半から九分位までならば、公債とはせずして私債にて借入れ得るやうであるから、この書状が到著した後に、倫敦でまだ利子が下らぬやうならば、その際は打電されたいと、吉田に所存を聞合はせた。
 その後、吉田対東洋銀行の起債談判も意外に進捗して、一月十三日に吉田並びに寺島公使等は東洋銀行に会同し、法律家ハツチンス及び銀行支配人スチユアルド立会の上、公債証書に調印し、寺島の保証書を添へ、勅旨二通・公債手続書二通並びに英訳とも一綴にして、之をハツチンスに渡した。翌十四日に吉田はウヰリアムスと連名で公及び大隈に宛てその大要を打電しおき、十七日を以て詳細な報告書を発送した。その書中に、
  一、公債利息年々七朱。但年々両度に払ふべし
  一、公債呼高二百四十万封度
  一、発行直段百ニ付九十二半
  一、証書流通年季二十五ケ年
  一、元金支消ハ二ケ年半後よりアツキユムレーチブ、シンキング、フォンド 是ハ初年ニ元金ノ二分通りを払戻し、年々元利年賦済崩之方法なり。尤二ケ年半後即千八百七十五年第七月を以て元金を払ひ始むべし の方法たるべし
  一、抵当ハ禄米買上高の内四拾万石を備ふべし
  一、九十二半ニて発行し、二朱半をシンヂケートのコムミツシヨンとし、残九十を日本政府へ納むべし
  右之積を付て計算相立候処、実利凡八朱に当り候シンヂケート之コムミツシヨン二朱半を引去り、手取九十ニて算すれバ、凡八朱三分ニ当り、外ニ東洋銀行之コムミツシヨン一朱、其外証書製造費用当引去り算計相立候とも、大凡八朱半に過ぎず、従前諸方より差出候見込書と比較いたし候得共余程安価ニ候間、先ヅ右之手続を以て発行之積り決定し、今正月九日、書面を以て我公債取扱之ヱゼントニ命ずる趣、東洋銀行へ掛合候処、速ニ承諾之趣回答有之ニ付、則別紙之通公告文を刊行いたし、去ル十三日、寺島全権公使並法律家ハツチンス氏立合之上、公債呼高二百四十万封度之公告証書ヂエネラル、ボンドニ調印し、寺島公使之保証書相添勅旨二通、公債手続書二通、大久保大蔵卿之保証書一通、原書訳文共東洋銀行へ附与し、公債発行之手続き無滞相整候間、御降心被下度候 大蔵省文書
とあるのでその内容は知られる。而して同日に公に差出した吉田の私信の中に、「公債之都合、美且良、是れ国名之為す所、足下等御安慮被玉かしと所祈ニ候、当時 昨今之勢情ニ而ハ少少不都合之模様ナリ のモニー、マーケツトは不都合なれ共、七朱之利付ニ而九十二半ニて発行 十四日之事ナリ せしに、早や九十四半以上之売買有之、多少意外ニ存候程ニ御座候、先ヅ先ヅ御安心可被下候」井上侯爵家文書 とあれば、その後の情況は無論良好であつたことは申迄もない。
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 かくて公債は愈々予期の目的を達成したものの、如何なる方法を以てこの金員を我が国に輸送するか、これ亦一問題であつて、若し一歩を誤れば結局は高利の公債を為したと同様になるのである。公は予めこの事に就いて策を立てておいた。即ち公は五年十一月十八日附書翰で、吉田に之を述べてゐる。
  一、在横浜外国人吾公債之事件も、大概承知仕居候故、方今より漸々御地との為替引揚候者必然なり、又当時洋銀も五ペルセント丈ケ我貨幣ニ対し引揚居申候、就而ハ充分此間著目せずんバ大損失を生じ可申候
  一、公債募集相成候ハバ、必オリエンタル、バンク其他ヘモ為替之都合、只御胸中へ御秘算有之度、生之愚考には、御地為替之相場相見合被成、何部分歟ニウヨルクへ為替を不意ニ御取組被成候ハバ、バンク其他定メ而米国為替へ著目可申、然れバ横浜へ為替ハ漸々マーケツト下落するハ必然ならん、其時諸入費差引勘定引候ハバ、横浜へ或部分を御取組有之度、且ニウヨルク之分ハ、米金にて其儘御取寄候而も、或ハゴールド、バーを御買入候ても可然候、又ニウヨルク之内、相成事ニ候ハバ、メキシコ銀塊買入候而、同所ミントヘコイネージして、之を横浜へ御送達候ハバ、誠ニ都合宜敷相考へ申候、尤御都合次第サンフランシスコニて洋銀之為替ニ相成候共、両様之内勘定之利益ある方に御取極被下度候
    実ニ先便申上候様、我貨幣洋銀之威権に圧倒せられ候事時々有之候故、凡四百万之洋銀を備置候得バ、決而外人抔ニ相庭之高下ハ被致不申候間、右高丈ハ是非とも御用意被下度候、此儀ハ必々バンク其他へも被察候てハ面白く無之候故、屹度御注意可被下候、就而ハ此御返事ハ承置度候間、著次第御胸算之程御報知奉祈候 大蔵省文書
この書が倫敦に著したのは翌六年二月四日で、その時は未だ起債談判中であつたのである。その後公が一月二十二日附で通信した書翰が、吉田の手に落ちたのは三月十一日であるが、その文中にも新公債を如何なる形にして我が国に入れるかについての意見が見えてゐる。
   今便「ウヰリアムス」氏え之答書ニも申送候得共、此上ハ送回方為替方法ニ一段之御注意有之度、其故ハ先信以来も申進候通、当地ニおゐても、此拳ニ臨み追々為替之相場引上ケ相待候様之気味ニ而、自然御地も同様之事ニ可有之、一体為替等之業体こおゐて此辺ニ注意、低昂之際利を得んと計るハ不可怪之儀、然る処え当然之順序を以、受取之品悉皆為替を以御送回相成候様ニ而は、運輸之際莫大之損失も有之候儀、厚く御勘弁有之度奉存候、且猶一事厚く御頼托申候は、公債成功之内凡三四百万程ハ墨銀回著候様有之度、其故ハ、曾て御承知之通、今ニ時々墨銀之沸騰有之、 雖方今百弗ニ付百六円半ナリ 乍存大なる損失も有之儀遺憾に存候、其之れを防ぎ候ニハ、政府常々洋銀を備へ、機に乗じ高低を抑制し、外人之不意ニ出候様いたし度と被考候、其辺「ウヰリアムス」氏えも申通置候、可然御打合可被下候
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   一、受取之新債送回方ニ付、一二之鄙見左ニ具陳いたし候、借入レ之額中幾部分歟を一旦米に為替御取組、自然「メキシカン」辺銀塊等の廉なる儀ニ候ハバ、是を買入れ、「メキシカン」「ミント」にて洋銀鋳造して、之を回送してハ如何ニ候哉、篤と損益御勘合之上、只洋銀之三四百万弗丈ケ手ニ入ラバ可然事ニ候、其辺取計方之模様、兎角世人をして偵知せしめざる様肝要と存候、或ハ為替も平常ニて、当然之都合を以、御送回之方可然御見込も候ハバ、我臆見《(マヽ)》に御拘泥なく御処分可被下候、いづれにも夫是御較思適宜之御処置所祈ニ御座候 大蔵省文書
右の文中の墨斯哥銀回送に就いては、公は二月七日附の書面を以て再び吉田に注意した。即ち四百万弗許は墨銀で回送して貰ひたい。その理由は、横浜の貿易上、時に意外の騰貴があつて、我が金貨の流通を妨害するから、之を防ぐためには墨銀を貯蔵しておき、時機に応じ之を抑圧するより外に策は無い。故に篤と此辺に注目して、仮令多少の損失はあつても、前記の金額を送つて欲しいとのことであつた。然るに英国に於ては墨銀は払底して居り、早急には買入を了する訳には行かぬので、第一回の送金は、英貨で二十万封度、外に墨銀一万弗余をこの月十三日出帆の印度洋英国郵船に積込んだのであつた。而して吉田から公へは、近日墨国から墨銀が著英の筈であるから、その際は四五十万弗は買入れたいと思うてゐるが、四百万弗の大高を買入れることは到底覚束ない旨を申送り、且つ這般横浜にて墨銀の相場が時々変動するのは、第一、支那で之を法貨に定めたので、需要が頓に加はつたためであらう。第二、開港地で内外商人の取引に悉く墨銀を以てし蚕紙・生糸輸出期に於て、需要・供給の平均を失つたためであらう。されば墨銀の乱高低を予防するには、開港地以外で内外人の商取引には、我が本位金を以てする布令を出さば、或は之を矯正する一助とならうと述べた。
 次ぎに第二回の送金は英金五十万封度、外に墨銀十二万四千オンスで 凡十四万二千六百弗に当る 二月二十七日にサウザンプトン出帆の太平洋郵船で出した。そして三月一日までに集まつた新公債の金は、既に百四十四万四千六百七十封度十六シルリング十ペンスであつた。最初はこの金を金地金で送る考であつて、既に公の諒解をも得てゐたが、その後同月十一日発の吉田の書面で見れば、銀行へ預金にしておく時は、二分五厘の利が附くからして利益になるけれど、金地金で送つたのでは、その失費が一万二千七百五十四封度にも為り、随つて政府貯蔵の墨銀が幾分かづつ減少して、相場を騰貴せしめる恐があることを述べてゐる。然るに十二日に渋沢から公に送つた書翰に拠れば、金地金買入の件は、既に両三度も吉田に指図してゐることであり、又金地金を買入れて我が国へ輸送することと、英貨を米国に輸送売却して米貨に代へ而して金地金を購入することと、孰が優れるかを比較して後、便益なる方を選ぶのが上策と思ふと述べてゐる。その趣旨は吉田も既に承知してゐるので、臨機の処置を執る積りでゐた。而して前述の吉田が公等に書翰を送つた翌日即ち十二日に英金五万〇四百七十封度、同十四日に東洋銀行より同二十万〇三百六十三封度二シルリング七ペンス、
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同二十七日に同銀行より更に同十五万〇六百二十三封度十三シルリング七ペンス、マルコム、ハドソン商会より同十五万〇五百二十四封度十二シルリングの金地金を発送した。
 なほ前述の墨銀であるが、これも三月十一日出帆の太平洋郵船に附託した公及び渋沢宛の書翰に就いて見れば、七十四万弗を送つてゐる。且つ書信の中にこれで当座を凌いで貰ひたい。進んでまた十万弗余は為替で送ると述べてゐる。猶その後も追々に墨銀を買入れ、英貨十二万五千封度ほどに為つた。併し大体新募の金員は之を英国に留置いて、その中から旧債の利子、新債の第一回利子を払ふ方針で、徐ろにその処分を待つ積りでゐたらしい。然るに公は東洋銀行へ旧債の内元金十万九千百封度を償還せよとの命を発し、而して四月二十七日を以て、一八七〇年 明治三年 の証券を送出し、尚また倫敦市中に散在してゐる旧公債を買戻すべく命じたのであつたが、何分にも旧債の証書は市中の相場が騰貴してゐるので、買戻し兼ねる旨吉田からの返事があつた。
 以上述べた通りで送金も大体は終り、残金は之を東洋銀行に預入し、万般の結末がついたので、吉田は倫敦を出発し、八月七日東京にに帰著した。その時は公は既に大蔵省に在らず、その帰朝も知らなかつた。それはともあれ、この新外債の成否は新興の我が国としては実に難問題であり、且つ将来国運発展の上に重大な関係を有するものであるので、その成功に公が苦心惨澹した事は実に特筆に値するものである。 井上侯爵家文書・大蔵省文書・大隈侯爵家文書・佐佐木高行日記・国債紙幣始末・理財稽蹟・明治財政史・近世財政事情・明治政史・井上勝日本帝国鉄道創業談
   ○本外国公債発行ノ顛末ニ付イテハ「明治財政史」第八巻ヲ参照セヨ。