デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.502-505(DK030124k) ページ画像

明治五年壬申七月二十日(1872年)

是ヨリ先、栄一改正掛長トシテ伝馬助郷ノ制ヲ改正スベキヲ議シ、略其ノ成案ヲ得タリシガ、後駅逓頭前島密ノ管掌スル所トナル。是日太政官伝馬所及ビ助郷ヲ廃スベキヲ布達ス。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第六―八丁〔明治二〇年〕(DK030124k-0001)
第3巻 p.502-503 ページ画像

雨夜譚  (渋沢栄一述)  巻之五・第六―八丁〔明治二〇年〕
○上略 又其頃の難問題で、何れも苦心したのは、駅逓の法であつた、今日の若い人は知らぬ事だが、、旧幕府の制度には、御伝馬、助郷、といふものがあつてこれが為めに村々では甚だ難渋をしました、今其概略を申せば、譬へば一諸侯が国道を通行する時には其通路の宿駅から相当の人馬を出して駅伝する仕組で、中山道の深谷には其近傍の何箇村、又次の本庄にも同じく最寄の何箇村と定助郷の名あるもの、並に加助郷の名あるものから各々相当の人馬を弁ずるのである、試みに其一例を申せば、玆に加賀宰相が中山道を経て江戸へ参勤するとき、深谷宿に於て人夫千人馬百疋を要するといへば、本助郷が十箇村で七百人と七十疋、加助郷が十箇村で三百人と三十疋を出すといふ割合で、其通行のある時に合羽籠を持つたり宿駕籠を担つたり、(此の宿駕籠といふものは竹を曲げて板を張り、其上に布団を敷き両人して是を担ふので、極めて軽便で、無造作な駕籠であります)又小荷駄馬を牽て荷物を選ぶものもあり、鎗や長柄を持つものもあり、具足櫃を背負ふものもあり、種々の労役に服して通行の大小名を駅伝するので、勿論相当の賃銭を取つて農間の働きにする方法だが、其初め江戸に幕府が開けた頃は、沿道の村々へ此助郷を命ずるのは、却て一の救助法だといふ処から其宿駅に縁故の多い村が本助郷、若くは加助郷の名を受けて縁故の少ない村落は此助郷に加入することは出来なかつた、偖て其賃銭は慶長小判で定つて居たけれども其後元禄・宝永の頃には漸々と貨幣が粗悪になつて来たから、是ではならぬといふので八代将軍が享保年中に始め
 - 第3巻 p.503 -ページ画像 
てこれを改正したけれども、全く復古したといふではない、然るに其後代になつてからも、又再三改鋳して或は真字小判とか、草字小判とか、又は保字判とか、二分判とか、安政・文久の頃に至る迄、度々改鋳があつて、其都度金質に幾分づゝの粗悪を呈したに依て、随て物価も騰上して、詰り享保度に定めた御伝馬の賃銭は安きに過ぎて堪へられぬといふので、村々の苦情になつて居ました、固より其時分には人力車もなく、馬車もなく、鉄道などは夢にもみたことのない頃であるから、大小名通行の際に其供人の足が痛めば是非とも宿駕籠を出して駅伝をせねばならぬ定めだから、助郷村の難渋といふものは実に五畿七道に通じて苦情のない所はなかつた訳で、時に取ての難題であるからこれも改良せねばならぬといふ評議で、即ち改正掛に於て其方案を立てた、其時に前島が駿河から出て居つて幸に其事を担当して適当の方法が出来たから、前島は直に駅逓権正に転任してこれを実施することになりました、如此政治上の改正は何事も改正掛で取調べて其々意見を立、処分方案を作つて大蔵省から頻りに政府へ出すから、其頃大蔵の威権といふものは各省を傾ける程になつて、甚しきは大隈などは兎角各省を圧倒するなどゝいつて、嫌忌されるやうになりました、 ○下略


青淵先生伝初稿 第七章一・第二三頁〔大正八―一二年〕(DK030124k-0002)
第3巻 p.503 ページ画像

青淵先生伝初稿  第七章一・第二三頁〔大正八―一二年〕
○上略 又駅逓の法は伝馬助郷などいへる旧制は極めて煩雑にして不便なるが上に、郷村の負担も重かりしかば、ほヾ改正の成案を得たれども其実行は後に駅逓頭に任じたる前島密によつて為されたりき。 ○下略


法令全書 明治五年・第一三七頁 太政官 第二百四号 七月二十日(布)(DK030124k-0003)
第3巻 p.503 ページ画像

法令全書 明治五年・第一三七頁
太政官 第二百四号 七月二十日 (布)       府県
東海道其他ノ街道追々伝馬所助郷を廃シ、相対運輸ノ法相立候処、猶依然旧式ヲ存シ置候向モ有之、一事両岐ニ跨リ不体裁ニ付、来ル八月晦日限諸道共総テ伝馬所並助郷其他之ニ属スル一切ノ課役及ヒ官ヨリ支給ノ米金ヲモ被廃止候条、従前伝馬所有之候宿駅ヘハ各適宜ノ相対賃銭ヲ受取、人馬継立方可取扱、陸運会社或ハ相対人馬継立所等ヲ為取設其取扱人ノ姓名並相対賃銭ノ現額共駅逓寮ヘ可届事
 但他日相対賃銭更正ノ節モ同様可届出事



〔参考〕法令全書 明治五年・第四四頁 太政官 第十号 正月十八日(布)(DK030124k-0004)
第3巻 p.503 ページ画像

法令全書 明治五年・第四四頁
太政官 第十号 正月十八日 (布)
今般東海道駅々伝馬所被廃候条、諸官員通行之節休泊等総テ相対ヲ以相当ノ旅籠料相払駅方ノ厄介ニ不相成様心付可申事


〔参考〕鴻爪痕 (前島弥発行) 自叙伝・第一一〇―一一四頁〔大正九年四月〕 駅制廃止(DK030124k-0005)
第3巻 p.503-505 ページ画像

鴻爪痕 (前島弥発行) 自叙伝・第一一〇―一一四頁〔大正九年四月〕
    駅制廃止
駅制廃止以前に於けるその制度の模様を略記せん。大化年代より唐制に摸して駅制を設け、駅送する官物の数量、官吏の階級に応じて、駅馬駅夫を使用せしめ、其人馬供給の便を図るが為に、沿道便利の地に
 - 第3巻 p.504 -ページ画像 
駅を置き、駅戸の地税を免除する等の制を立てたり。時代に依りて小変更ありと雖も、其大体は唐制を摸倣したるものなり。徳川中世頃より、公卿諸侯官吏士族(藩用を帯ぶる者)に至るまで旅行の装飾華美を競ひ、従者行李の数多く、毎駅所定の人馬を以て其使用に供給すること能はず。幕府は駅制を漸次に拡大し、助郷又は加助郷の名称の下に各駅近傍の郷村に人馬を課出せしめ、其供給を助け、而して非常に低度なる官定賃銭を払はしめたり。故に郷村の費額は地租に超過せる所もありたり。明治維新の前後は官物官吏の通過夥多なるより、政府は更に加助郷区域を拡大し、遠きは七・八十里に及びたるも、尚人馬を供給し能はざる事あるより、駅吏に之を受負はしめ、後日債務を果すの已む無きに至れり。之が為め紛擾を醸す殊に甚しきものありき。
余は下総関宿の藩儒船橋某が駅制の弊を論じたる書を読み、大に感ずる所あり、爾来数回東海道、奥羽等の道を通行し、実際に之を見聞せしより、愈々此悪制を除き、駅制根本の革新を図らんことを欲したりしに、今余は其駅制を掌る主任者たり、何ぞ之を等閑に附すべけんと已に腹案を起したり。然れども余の案たるや、駅制を全廃し、官私を問はず平等の賃金を払ひ、人馬を雇使せんとする根本の革新なれば、官吏及諸駅の反抗多く、恐らく政府の容るゝ所となるまじと思ひ、暫く黙して時勢を待たんと覚悟したり。(此時英国行の命あり、又郵便創刱の案に忙殺せられたり)
明治四年八月帰朝し、東海道を通行して、駅路の状況を視察するに、旅客貨物の数は(余の予想せしより早く)減じて駅務は甚だ閑散と為れり。余は是を以て余の腹案を行ふべき時期は方に来れりと自信し、時なる哉と雀躍せり。加之海運業は近く興るべき徴候を現はし(郵便蒸汽船会社を起す計画ありたり)又鉄道は近き将来に於て敷設すべき政府の議決もあり、所謂四民平等の権を認むるの今日、余の腹案を発する何ぞ早しと為さん、唯行幸又は軍事輸送の為に臨時人馬を徴召すべき一の法令を新設せば、之に対する支障無しと。(此法は余の考案を是とし、公布ありしも、爾後時勢に要無く自然消滅せり)是等の案を具し、本省の同意を得て、属吏を派遣し各駅に其事を口演せしめ、伝馬所廃止後の人馬供給所即ち内国通運会社を便宜駅に設置すべく命令する等、諸般の準備を整頓せり。是に於て明治五年某月左の意の布達をなしたり。
  何年何月より諸道に於ける伝馬所及助郷を廃止し、官私用を問はず相当の賃銭を以て人馬を雇用すべし。
此伝馬所及助郷廃止の一令は、千有余年の旧慣を一挙にして打破するものなれば、駅路に一時大変動を与へ、従来運送に従事したる雲助一輩の徒に苦情の起るべきは必至の事にて、余も予め之を期したり。果して種々の紛雑を惹起し之を処するに大努力を要したるが、此等の事は今玆に委曲に語るの遑なし。唯一事、当時の状況を推測せしむる一話あり。駅制廃止後、余は偶々大阪より東京に帰らんとし、両名の寮属(長谷川時彦其一人たり)を随へ、東海道を視察せしが、土山駅にて宿駕籠を雇ひ、坂下駅に到るの間、坂路は駕籠を下り、徒歩して彼等駕夫に接し各駅の情勢を問ひしに、彼等は大声を発し、近時前島とか云ふ悪駅逓頭は種々の改革を行ひ、伝馬所も助郷も之を廃止し、船路を開いて陸地の旅客を減じ(彼等は時勢の変移を知らざるより、旅客の減少をも此改革に因ると思へり)旅亭休憩所の衰頽
 - 第3巻 p.505 -ページ画像 
は勿論、我等の迷惑亦容易ならずと罵れり。是に於て長谷川は戯れて其駅逓頭は近日東海道を通行すと聞く。汝等直接に彼に面し、苦情を訴へ、請ふ所ありては如何と言ひたるに、彼等は曰く、君等は其実を知らざる者なり。前年幕府の道中奉行の本道通行には従者五六十人あり、駅の役人と雖も其行列に近寄るを得ざりき。今日の駅逓頭は日本中の宿駅を管轄する者なれば従者の数も之に倍すべし。我等卑人は何ぞ近接するを得んと。彼等の言や一笑に附すべきも、実は不穏の風聞もありて、若し前島が此道を過ぐるあらば殺戮すべしと叫べる地もありしなり。百年不断の営業も此人の改革に依て終滅せりと思はゞ、其痛恨幾何ぞや、之を想へば余も亦同情無き能はざりき。