デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.637-643(DK030139k) ページ画像

明治五年壬申十一月(1872年)

太政大臣三条実美各省主任者ヲ招キテ台湾征討ノ可否ヲ諮問ス。栄一大蔵大輔井上馨ニ代リテ出席シ、其不可ナル所以ヲ説ク。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第二七―二八丁 〔明治二〇年〕(DK030139k-0001)
第3巻 p.638 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第二七―二八丁 〔明治二〇年〕
此の歳(明治五年)の十一月頃であつたが、時の外務卿副島種臣から、台湾征討の事に就て政府へ建議せられたことがある、陸海軍の軍人などは其職掌上から頻りにこれを企望して、此の建議の行はれむことを促しましたから、終に政府の議となつて、各省の主任者を三条公の邸へ招かれて、此の事の利害を討論させられました、此の時井上は母の喪に丁つて出席が出来ぬといふことで、自分がこれに参列して、痛く其不可説を唱へて、大に副島と議論をしました、自分の論旨は今日の日本は王政維新抔といつて、其名は誠に美なるやうだが、実は廃藩置県の後、其政務を顧みれば毫も整理の実が挙らぬから、国家は疲弊して人民は窮乏に苦む最中である、然るに此の際事を外国に起して、干戈を用ゐんとするのは、実に危険千万な事で、仮令外征に勝利を得るにもせよ、内地の商工業を此の上衰頽させる時は、徒らに虚名を海外に売るに過ぎむ事だ、といふ意味を以て切に反対の意見を述べたが、幸に政府に於ても副島の建議を採用にはならずに済みました、


大日本憲政史 第一巻第一編 第六八七―六九一頁 〔昭和二年五月〕 二 征蕃問題の起因(DK030139k-0002)
第3巻 p.638-641 ページ画像

大日本憲政史  第一巻第一編 第六八七―六九一頁 〔昭和二年五月〕
    二 征蕃問題の起因
○上略
 此歳十一月、三条首相は参議及各省の長次官を其の邸に招き、征蕃問題を議するや、大蔵大輔井上馨は財政上の見地より兵を外に構ふるを以て無謀の挙なりと為し、之に反対し、参議大隈重信は、外交上の見地より先づ清国政府と折衝し、其異議なきや否やを質して、出師に及ぶも遅しとせずとし、之れが異議を唱へたり。然るに、六年一月、備中小田県柏島村の水士四名、帆船に乗じて紀州を発し、風浪の為に流され、三月上旬、漸く台湾の東南岸に到著し、其の上陸するや、蕃民来りて其の所有物を奪ひ、積荷を掠め、船舶を破壊し、彼等を殺害せんとせしかば、辛うじて清国官憲保護の下に福州に送られ、更に我が上海領事井田譲の手に引渡されたり。此報の日本に達するや、陸海の将士、往々激昂し、或は朝命を俟たずして自ら生蕃を討たんとするものあるに至る。是れ実に明治六年三月、外務卿副島種臣が特命全権大使として、清国に赴きたる所以なりしなり。
 時に木戸派の代表者たる井上馨は痛く征蕃の役に反対し、三等出仕渋沢栄一と共に、一篇の意見書を草し、之を三条首相に上れり。井上等の建議は木戸派の意見如何を知るに足るものあるを以て、吾人は之を左に掲げて、読者の参稽に供す。
  大蔵大輔従四位源馨、謹而書を太政大臣三条公の閣下に呈す。臣馨密に承るに、前日公参議及海陸諸省の長次官を其邸に合同せしめ、台湾島生蕃人我琉球国民を横殺せしより、政府斯民を保護するの義務を尽し、皇威を海外に輝かせしめんため、先づ使臣を支那に遣し、生蕃の残虐無状と其由来する所とを陳弁極論して、之を支那政府に詰問し、以て生蕃の支那政府の統管に属するや否を判し、其答辞に従て、直に問罪の師を興し、頼て以て生蕃之地
 - 第3巻 p.639 -ページ画像 
を略せんと議あり、且其使臣を発遣するに於て、彼是之事情は、已に詳悉にして其方略も具備すれば、若し或は支那政府の其答に緩慢なるを予謀し、殊に我軍を使臣に副へ、兵力を以て之を促迫すべしと、会同の諸臣意見差あり、未だ其議を了せずと雖、然も廟謨或は之を嘉納して、将に以て其所置に及ばんとすと。臣馨曩に其事由を渋沢栄一より聴了し、又其廟謨を承聞して、実に驚嘆無已、日夜悚々焉として心之が為に忸恟せざるを得ず。閣下、今職大臣に居り、天皇を輔翼し、庶政を総判し、権百官の事を統へ身天下の重きに任ず。深思熟慮以て利害得失を考覈すべし。必しも一場の快談として、此等の大事を決せんとす。馨前日会同の衆議を聴了し、説を開くを渋沢栄一に於ても、其議の不可を閣下の面前に陳すと。馨甚だ栄一の意能く馨が所見に合するを喜ぶ。
  而して馨の其議を不可とする更に栄一の陳するより甚しきことあり。今閣下もし安意偏断、敢て此大事を挙んとせば、馨素より又無用の弁を費さゞるべし。閣下聡明叡智決して、此妄断あることなくして、却て其説の宜きものあるを沈思すと。故に馨今閣下の為めに左の五事を開陳して、以て此議の不可なるを明析せんとす一曰、問罪義務、凡そ各国、内余力ありて、外拓地を事とする多く、問罪の義務を名として、略地の計を逞ふせざるなし。英の香港を略し、仏の安南を占る、概皆此の如し。然り是皆国内の百度具備するより余雄を頴脱するものにて、決而其国の全力を以て略地のことを遂ものと云べからず。夫れ能く地を略して其得失を量らざれば、之を略するも又之を持するも能はず。故に略地の計に於て、即今欧亜名国の内治周備の国と雖ども、之を難しとす。況や今百事創建の際に於て、国内の庶政未だ一の斉備を得ず、却て全力を以て此事を興さんとす。是れ其軽利害の欲訟者なる者也。議者或は曰く、今生蕃の如き、孛米の垂涎、既に久し、之を耽視する、又年あり。我もし此機会に投ぜしは、両国果して生蕃を占略すべしと。馨極て其説の允当ならざるを知る。今夫孛米の強国にして、此蛮地を略せんとする、苟も其威力を用ひず、只一挙にして、其志を逞ふするを得ず。何必しも我の挙措を得んや、且其説思想中に在て、実際現務に顕るゝを見ず、既に米の如きは其国民の横殺に逢と云ども、只其罪を問ひ、善く後の和約を為すに過きず。蓋し其地荒僻、其民頑愚にして、之を得るも、其得失の償はさるに依るべし。若し果して要地として、実に両国の嘱望たらば縦令之を得るも、其失ふなきを保つ可からす。何ぞ今一に外人の臆説に信憑し、全国の考案を了知するを得可けんや、此議を不可とするの一なり。
  二曰く、能内外の形情を洞察して将来の深慮せざる可からず、方今我国維新の名ありて、未だ維新の実を全せず、旧習未だ改らず民俗未だ和せず、未た矯正せず、法律未だ立ず、教令未だ治らず従来覇政権制之余毒と、戊辰干戈の凋弊とを承て、俄に更始建国の規模を建て、開明の直政を致さんとするも、政度規律よりも、凡百の事物に至るまで、之を改定せざるを得ず。而して華士族の
 - 第3巻 p.640 -ページ画像 
禄制、農商の雑業と税法の如きは、最も速に釐正更革せざる可らず。此際に当り、従前の世業を失ひ、新に自営の道を謀んとて。恟々自考以て安著する能はず。忉悼怨嗟、或は政府の酷薄を訴んとす。夫れ内国の事務鞅掌多端なる、人心の厄難恐怏する、此の無用のは兵事を弄せんとす。仮令、外其利あるも、内其害の更に甚きものある可し。是馨の此議を不可とするの二なり。
  三曰く、全国の会計を按算して其有余不足を審量せざる可らず。戊辰復古の基業より、延て今日に至り、用度の夥多なる、毎に供給し難きに苦む。去秋廃置県の後、財本始て一致に帰すると雖も旧藩中外の負債、及擅制の紙幣の如き、未だ全く支消収却する能はず。而て官省の紙幣に於るも、素より無様のものにして、決て準備の真貨あるに非ず。只政府の威信により、僅に今日の通貨たるを得ると云も、漸く真貨兌換の制なければ、後来人心の信憑を固確する能はず。加之各地物価均しからず、融通便ならず、商業壅塞して、物産益凋弊す。然り而して中外の費に於ては、維新に応じ、兵備、学務、交際、建築等より、一切の事務皇張拡興して竟に歳入歳出に供する能はざれば、百事挙る能はず。不得已より費用常に入額に越えて既に昨今両年に於ても、二千余万の巨額を費す。経済の要義、何日か立ち、国家の会計何日か全きを得んや夫れ是を深慮せずして、却て際限すべからざるの費途を開かんとす。是馨が此議を不可とする三つなり。
  四曰く、大使発遣の時に於て誓約せし条款は、輙ち之を返違することあるべからず。去冬、特命全権大使を欧米に派出するや、徒に虚美を海外に求るにあらず、能く中外事情を斟酌し、従来の矛盾を正し、国際の盟約に於ても、大に改定せざるを得ざるより内事多故の際に於て、殊に欽旨を奉じて、右大臣以下を発遣す。時に三職各省の長官と会議し、将来内外意見の差謬なきを要して、奉務を誓約せる盟書あり。曰く、大事は、必ず照会を歴て之を処置し、政体及び各省長官の如きは、決して変動す可らずと。然り而め今此議を決して兵事を動す如き、之を大事と云ざる可んや、況や其事の関渉によりて終に兵端を支那及ひ諸邦に開かんとす。是実に安危存亡の所係にして、而して之を大使に照会して、其熟議を採らずして叨りに妄意専決せば、夫れ約書を何と云はんや。是馨が此議を不可とするの四なり。
  五曰く、兵を用ひんとす、先づ能我軍備を審量せざる可らず。夫れ維新の際、速に乱を戡定して今日の統治を得る、此間勇兵強卒なしと云可らず。然りと云ども、我国の兵制未だ全く斉備に至らず。即今国事に供するは、従前戦労の藩兵近衛に備ふるもの、及び鎮台常備兵に過ぎず。これ実に国家捍衛の良制と云可らず。故に全国募兵の法を設け、国役を平均して、偏軽偏重の勢を失せしむ可からず、然り而て朝議已に此に及んで、漸く其施設に及ばんとす。今其法未だ定らず、却而此一部の兵力を以て、此大事を興さんとす。是れ馨が此議を不可とするの五つなり。
  凡此五不可、馨の深く苦慮する処にして、閣下の高才明智、決し
 - 第3巻 p.641 -ページ画像 
て之を思惟せざる可らず。既に之を思惟して、却て此議を決せんとす。是馨実に閣下に疑なきこと能はず。馨今日現に会計の責に任ず。前の五事に於て悉く渉猟せんと云ふ以関係なしと云べからず。閣下若し馨を怯懦として、此言を遐棄して果て此議を挙行せんと欲せば願は先ず馨が職を褫ぎ、別に会計の任を撰定すべし。馨資性至愚、敢て開議することなしと云ふ。亦自ら欺て心之を不可として、此大事に雷同する能はず。縦令宸断に出で不臣の罪あるも、馨亦謹で其罪を受くべし。庶幾は閣下馨が区々微衷を憐て、更に之を再思せよ。馨激切屏営之至に堪へず。言忌諱に触れ、尊厳を冒涜す。馨多罪昧死以聞す。
   ○右ノ意見書ハ「世外井上公伝」第一巻、第四七九―第四八六頁ニモ掲ゲラレタレドモ、「大日本憲政史」ヨリ引用セルモノナリ。


雨夜譚会談話筆記 上〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕 ○第三七―三八頁(DK030139k-0003)
第3巻 p.641 ページ画像

雨夜譚会談話筆記   上〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
 ○第三七―三八頁
○上略
敬 「征台論に就て他の人々の議論はどうであつたでせう」
先生「副島と私とで大いに議論を闘はしたので、他の人達は多く云はなかつた、何れ、かれこれ云つた人はあらうが主として両人で論争した、副島は「斯くの如きことを黙認すれば、愈侮蔑される」と云ふ、私は「国の力を図らず事を起せば侮蔑以上の結果を齎らすので冒険の極みである、先ず極端に云へば懐中と相談してからかゝらねばなるまい」と云つたのである」
敬 「此時の相手は支那でしたか」
先生「結局支那になる訳である」
敬 「征台説はたゞ漫然と説へられたのですか、それとも相当具体的なものであつたのでせうか」
先生「どうすればよいと云ふ様に具体的になつて居なかつたと思ふ、従つて簡単に云へば大蔵省としては貴方方が左様なさつても、財布は出さぬと云つたので、三条さんは定まつた説を持つて居なかつたと見え、大蔵省の主張を重じたのである。○下略」

雨夜譚会談話筆記 上〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕 ○第二六七―二六九頁(DK030139k-0004)
第3巻 p.641-642 ページ画像

 ○第二六七―二六九頁
○上略
岡実君 仏蘭西に御旅行になつた時分の日本はその独立が可なり脅されて居つた、日本が立つて行くか行かぬかと云ふ事を皆考へて居つた。其当時陸海軍即ち国防を充実すると云ふやうな事に付ては相当御熱心であつたか。或は寧ろ国防といふ如きは暫く最小限に止めて置いて、さう云ふ金があれば矢張殖産興業の方へ向けなければならぬと云ふ御考であつたか。私は薩長は寧ろ国防、陸海軍の方面に大分力を注いだと思ふが、この政策には御反対でありましたか。
渋沢子爵 全く反対でした。さう云ふ事は悪いと云ふ位にまで思うたので、丁度何でも明治五年でせう、副島○副島種臣 さんが台湾問題があつた時に三条さんの所に大蔵省からも出ろと云ふので、井上○井上馨 さんが行けませんで、多分それも今御話した大蔵省の寄合の時に井上
 - 第3巻 p.642 -ページ画像 
さんが来ぬのも同じ関係で、母の喪であつたらうと思ひますが、差支があつて出なくて、副島からどうしても海外に事を起すと云ふことのあつたときに、井上さんから指図をされて居つたからでありますけれども、丁度今仰しやるやうな訳で、空威張に国威を張ると云ふことが、後の続かぬ時に飛んだ間違になるから、悪く言へば少々馬鹿にされても此場合金を使はぬやうにして呉れなければいかぬと云ふ極く平たく言へばさう云ふ主義を持つて頻に事無かれ論をしまして、私は大いに其連中とは説が違つた。唯々私一人でありまして頻に困つたものだと思うて、それから早速井上の所に其事を報告したことがありました。遂に大なる費用を出すと云ふことにならずに終つた。何でも台湾の関係だと思ひますが、何の事だつたか顛末を能く覚えて居りませぬけれども、御問の如く少々幅が利かぬでも、内を充実するが宜からうと云ふ方を主義とした積りであるのです。併し唯一つ朝鮮だけは伊藤○伊藤博文 さんなどゝ説が違ひました。朝鮮の事は今の問題よりは大分後の事ですけれども……」○以下京仁鉄道ノ事ヲ説ク


先賢墨蹟 第一巻「十月廿七日 馨拝」(DK030139k-0005)
第3巻 p.642 ページ画像

先賢墨蹟  第一巻            (竜門社所蔵)
謹読、過日ハ御病中種々御面倒を申出、早速御高調被成下、実ニ明文一点之添削も無之候而既に昨朝条公ヘ拝謁呈上、且書外ハ言頭ニ尽シ候処、既ニ大隈より大略ヲ申出居、粗其断之暴ナルヲ知り、大隈共々悔語之姿之処分明《(マヽ)》ニ相成、実ニ一々実着之論憾服《(マヽ)》ニ候故、断然兵を携ヘ使臣差贈ル抔之処置相止可申との事ニ候間、御互ニ先苦心之詮有之、為邦家憾喜《(マヽ)》ニ不堪候、尤生より上書仕候而相止候様之論相起り候而ハ不可然候間、御互ニ黙止居候方と奉存候
御病気も御全快ニ至兼候由、分て御加養第一奉存候、㝡早□□《(不明)》内輪之混雑も片付候間、充分御療養可被成候
亜一より受取候洋銀ニ付、英一江之勘定奉承知候、先ハ貴答迄 匆々拝復
  十月廿七日                    馨拝
    青淵盟賢兄


渋沢栄一 書翰 井上馨宛(明治五年一一月一二日)(DK030139k-0006)
第3巻 p.642-643 ページ画像

渋沢栄一 書翰 井上馨宛(明治五年一一月一二日) (井上侯爵家所蔵)
  副啓
ホルモサ一件先頃之来諭も御座候得共、何分副島発遣之義ハ既ニ決定ニ付難引戻、尤条件ハ教令にて屹度相達候間、決而相悖候談判ハいたす間敷、其辺御懸念無之様と大隈より内話有之候
陸氏之義も閣下御帰京之上、尚御相談可申上との事ニ御座候、内閣一条ハ全寝入申候、詰り御流れニ可相成哉懸念不少候、尤も鹿児島船ハ明後十四日開帆之積、勝も同船との事ニ付壱弐月中にハ西郷も登京可致歟、夫迄ハ一同船待之体にて腰掛奉公いたし居候
 此般之事小生尤悪忌する処にして実ニ給金取を厭候根性益深く相成申候、情実にも程かあると被存候得共、到底ごまめ之切歯無用之事ニ御座候
○下略
 - 第3巻 p.643 -ページ画像 
  ○此書翰ハ末尾切取欠ニシテ日附明カナラザレドモ、文中「明後十四日」トアルヨリ推シテ、明治五年十一月十二日附ノモノナラン。右引用ノ末ニ「給金取を厭候根性益深く相成」トアルヨリ見レバ、既ニ辞意ヲ抱キ居タルモノト察セラル。