デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.645-654(DK030143k) ページ画像

明治五年壬申某月(1872年)

参議西郷隆盛、栄一ヲ小川町邸ニ訪ネ旧相馬藩ノ興国安民法ノ存続ニ付栄一ニ謀ル。栄一之ヲ拒ム。


■資料

雨夜譚会談話筆記 下・第六四一―六四六頁〔昭和二年一一月―五年七月〕(DK030143k-0001)
第3巻 p.645-646 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第六四一―六四六頁〔昭和二年一一月―五年七月〕
○上略
   右のお話を終つてから「大西郷と二宮尊徳翁の教へに就て論ぜられしに就て」に関し更に談話を続けられる。
先生「次に西郷と興国安民法のことに就て論じ合つたのは、明治五年のことと思ふ。私が大蔵省へは入つたのは二年で三年頃は大隈、伊藤等が主脳に居り、伊藤は自ら新らしい仕事をする為めにとて三年冬米国へ視察に赴き(一)国立銀行の制度(二)公債証書の発行制度(三)大蔵省の事務(四)貨幣制度などを調べて四年に帰国したが、之れを実際に行つたのは井上で、私も大いに働いた。即ち五年十一月には銀行条例を発布した。これより先、三条さんが太政大臣であつたが、各省から大蔵省へ予算額を出せ出せと頻りに要求して来る。当時は今日の如く規律立つた要求でなく、まるで喧嘩腰であつたかな、井上が文部省や司法省と喧嘩する。又私が大久保大蔵卿
 - 第3巻 p.646 -ページ画像 
と陸海軍の予算に就て論争し、御機嫌を損じたことなどもあり、井上も大議論をして、大蔵省の仕事を引受けて終つたこともある。西郷が訪ねて来たのは、それより後の事と思ふ。従来から相馬藩には一種の精神家が居た。岡部、志賀などゝ云ふ人達が其の重職で、二宮尊徳の「興国安民法」を尊重して居た。これは経費に限度を立て剰余金で殖産を図る法で、斯くして新らしい土地開拓を行ふがよいと云ふのであつた。相馬藩のやり方は百八十年を三段に分け、天地人とし、上六十年、中六十年、下六十年とし、中作を平均されたものとして基準とし経費を定めると云ふことにしたが、之では危険であるとして、乾□《(坤脱)》とし乾を上、□《(坤脱)》を下とし、下を基として一定の限度を定めそれより収納の多い時、即ち上の場合はそれだけを殖産的な経費に用ひ、新開地を物になるやうにして居たのである。処が廃藩置県を実施し旧制を一切廃することになつたので、相馬藩では之を中止するのが惜しいと考へ、此事に力を入れて居た主な人々が当時参議として最も勢力のあつた西郷と知合ひであつたと見へ、「大蔵省は新式の考へばかり実行する。井上など実に乱暴だ。是非相馬藩の興国安民法は継続して置かれたい」と云つたと見へ、大西郷も尤もとし、斯様なことは渋沢に相談した方がよからうと云ふので、小川町の家へ訪ねて見へたのである。初め会ひ度いと云つて翌日来たのか、直ぐ来たのか憶へぬが、大西郷が訪問すると云ふことはメツタにないことであり新しく膝をつき合せて話すのは極めて珍しいよい機会だと考へたから、此の「相馬藩のやり方を残されたいものだ」と云うたに対して「相馬藩の興国安民法も必要であるが、現在は全日本の興国安民法の甚だ必要な時節である。予算の如きも歳入を計つて歳出を定めねばならぬ。然るに限度も定めずたゞ出せ出せと云ふのでは、徒らに公債ばかり増加してよくない結果を生ずる。此事は太政官へ陳情したこともあるから、御聞及びのことゝ思ふ。此日本の興国安民法は棄てゝ省みずに、相馬の方のみ残せとは余り判らぬお話である」と論じた処「今日はお頼みに来た積りでしかられに来たのではない筈であるが、厳しく叱られた」と云つて帰られた。其結果であるかどうか分らぬが、相馬藩の此の制度は継続されなかつた。西郷には私が一ツ橋の周旋方であつた時、度々会見したことがありよく知つて居たので、当時「君が君公に直接話の出来る身柄ならあゝ云ヘこう云へ」などゝ云つて、二三度も豚鍋を御馳走せられたことがある。こんな関係もあつた為めか、相馬藩のことに付て話しに来た。要するに西郷のこの心配も廃藩置県の一般の組織に引つけられてしまつて、興国安民法は廃止された。其後「お前がやつてくれぬからだ。どうも役人が喧しくて困る」などゝ苦情の手紙をよこしたりした。相馬藩の興国安民法の話はそれだけで、別に効果はなかつた。然し西郷は参議といふやうな大身でありながら、私の宅などへ自ら訪問して来る位な人で、実に感心である。 ○下略


市河晴子筆記(DK030143k-0002)
第3巻 p.646-648 ページ画像

市河晴子筆記                   (市河晴子氏所蔵)
      西郷の二
    これは出来るだけ祖父様の御言葉をそのまゝに語尾等に注意して書いておく
 - 第3巻 p.647 -ページ画像 
 その後はあまり西郷さんと逢うことも少うござんしたがね、明治五年の冬当時参議だつた西郷さんが、突然小川町の家へ尋ねて見えたので、何しに来なさつたかと不審に思つて逢つて見ると「今日は御たのみが有つて来た」つて云はれる
 その頼みと云うのは二ノ宮尊徳の遺法「興国安民法」が相馬藩に今まで伝はつて来たが、廃藩置県でこれが中絶しやうとして居るのを藩主もなげき、志賀直当《(マヽ)》、富田久七郎等が西郷に何とかなるまいかと頼んだので、そりや大蔵省方面の人に考えてもらうがよかろう、渋沢に相談したらと云ふ訳で出て来なさつたのさ
 それで私がね「あなたはその興国安民法とは、どんなものか御承知か」と尋ねたら「いや知らぬ」と云はれてね、で一通り説明しましたのさ
 一体二ノ宮尊徳つて人は一種の人物で、漢学の素養もちつとは有り法政経済の手腕があつて、相馬藩の疲弊して居たのを立派に立て置した、その法が興国安民法でね、まづ当時から維新まで百八十年とすると、それを農作の豊凶によつて天地人三才か乾坤の二つかに分つて、その悪い方の収入を目易《(安)》として、その中で藩政を切り盛りして、豊作で余つた収入は開墾に当てる、だから相馬藩は段々内福になつて来たまあこれが興国安民法の概略で、これを行うについての案がかれこれ有るのを一渡り説明して、相馬藩の事については又よくしらべもし、考えて置きましようと云う話になつたのだがね
 丁度その頃は大蔵省の財源不足で、やつさもつさしてゐる折柄だつたもので、私もちつと皮肉だつたが「西郷さん失礼ながらあなたの御職分は何ですか」と尋ねたものさ、西郷さんも変な顔して「参議」と答えられたから、そこで「その参議が私風情の家へわざわざ駕をまげられて御用繁多の中で二宮翁の遺法の存続に御尽力なさる、こりやいかにも結構な美事です、しかし西郷さんあなたがはたして興国安民法をそれ程のよい方法と思はれるなら、何故御自身ではその全然反対な事をなさるか、大蔵省で懸命に計算した御国の収入、その入るを計つて出づるを制し、組み上げた予算で、折角ほどよく各方面に割ふつて置と、あそこからもこゝからもこりや延せぬ仕事だから今すぐどれだけ出せ、何としてもしぼり出せ、後は何とでもならうでないかと云うて、参議さんが先立ちで御せめなさる、それをなりませんと云へば井上はけしからん、渋沢はけちんぼだ……それじや、興国安民法を少さく守つて大きく破るものは、西郷隆盛……」と云つたらね、「とんだ罪人にするねー」つて笑つてだつたから
 「いや二ノ宮にして今日あらしめば一層はげしい事を申すかも知れません、どうぞ興国安民法を相馬一地方に雛型として存続なさる以上に、これを全国にほどこして大臣としての規模を現はして頂きたい」と云うとね、「いやごもつともでごあす」つて云つて居られたがね、やがて無邪気に首をかたむけて「渋沢さん、おいどんは今日何しに来申したかな、頼みごとに来てその頼み事の中味の説明を聞かされるだけでさへ妙なもんだに、その上こりやわざわざ叱られに出て来よつた様なもんでごあしたな、こりやいかん、ま帰りましよう」つてね、こは
 - 第3巻 p.648 -ページ画像 
い強い中にそんなに柔かなクスツと笑ひたくなる様なおかしみのある御人でしたよ
 そりや当時参議と云や大したものな上に、西郷さんと云へば飛びぬけて人気者だつたから、そんな少さなことでわざわざ出て来なさるさへおかしな位なのに、私もづかづか云つたものさ、それでも西郷さんは相手の身柄の高い低いなど眼中にない人で、たゞその議論が成程となつとくが行くと、やせ我慢てものゝこれつぽつちもない子供の様に素直に聞きなさる、大したものだと思ひましたがね、何しろ一つ不服だとなると、「おいどんは左様は思ひ申さん」とか「そぎやんこと無か」とかの一てんばりで、どの点が気に入らないか、どこが間違つてゐるのと云ひなさるのかわからなくてじれつたい、いらない腹をたゝせられることもあつたけれど、根が至誠の御人で眼のつけどころ信じた事をやりぬく力の格段な御人な上に、そんな巧まない愛きようもあつたんでね
 その時もらつた手紙……何《なあに》その相馬藩の興国安民法は続かなくつてね、だから叱言の手紙だつたつけが、あの時の火事で焼いてしまひましたよ
祖父様の西郷びいきはその外薩州人には共通の熱味があると云ふやうな話の時も「大西郷はじめね《オヽ》」と云はれ、大久保さんの狭量な話の時にも「西郷とはまるで型のちがつた人で」と云はれた「どんな御人でござゐました」と云ふと、きまつて「妙な御人ねー」と云つて、だまつて好感をもつて思ひかへす様に脇息をたゝいて御いでになつて、大変大きくてぶさいくで、目がギヨロギヨロして、位しか外面の御話は伺へないけれど、かなり愉快そうにおつしやる、それだけに御気の毒で十年の役の御話にはふれられない様である、一度母様が切りだしてごらんになつたが、思つたとうり「そうねーどうしたもんかねー」と、よく御満足でない時にされる御動作、片手(左)の甲で御眼をこしこしとこすられた


竜門雑誌 第四四一号・第六三―六五頁〔大正一四年六月〕 大西郷と青淵先生(DK030143k-0003)
第3巻 p.648-649 ページ画像

竜門雑誌  第四四一号・第六三―六五頁〔大正一四年六月〕
  大西郷と青淵先生
   大西郷と青淵先生の関係に付ては、「大西郷と豚鍋をつゝく」と云ふ題の記事を、前々号本欄に転載したが、多少疑問の節がある為め、青淵先生に確めたところ、果して大部分が間違ひであつた、依て訂正旁更めて玆に書くことにした。
○上略
 それから大西郷が先生を訪問したことであるが、それは明治政府の廃藩置県後、先生が大蔵省の官吏たりし時、湯島の天神下でなく、神田小川町に居られた頃だとのことである。其時分先生は廃藩置県のことで、色々と働いて居られ、諸藩の旧制度の廃止等を頻りに急いで居たのである。大西郷の来訪も此関係からであつた。即ち相馬家にあつた二宮尊徳の遺法たる、興国安民法も廃せらるゝことになつて居たが相馬藩では是非之れを存置したいとのことから、旧藩の志賀直道とか富田某とか云ふ人達が、薩摩と懇意である関係から、大西郷に依頼し
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大西郷も何とか出来るだらうとの考へで、大蔵省の役人たる先生に相談に来たのであつた。大西郷は当時只一人の陸軍大将で、又権威赫々たる参議であつた。当時参議と云へば実に堂々たるもので、親しく一下級の官吏を訪問するなどと云ふことは無かつたのであるが、かくの如く見識振らぬところが、大西郷の大西郷たる所である。
 そこで大西郷は
「大蔵省では興国安民法を廃止しようと云ふことであるが、此れは存続する様に」
と云はれたので、先生は之に答へて
「西郷さん、貴君は興国安民法のことに付て御話ではありますが、興国安民法がどんなものかを御存じないかと思ひます。其の法は入るを量つて出るを為すと云ふ根元法であつて、今、日本は実に此の興国安民法によりたいと大蔵省も切望し、自分等も努力して居るのであります。然るに、あなた始め参議の方々は、之をさせまいとせらるゝ。大蔵省では局に当る井上を始め一同が真に苦心をして居りますが、所謂無い袖は振れないので、困難を極めて居ります。それを文部なり、司法なり、兵部なりで要求すれば、直ちに承認を与へられる、そこで各方面から西郷参議の許可を得たからと云ふて、大蔵省を苦しめるのであります。かくの如く日本の興国安民法を認めないで、一相馬藩の遺法を存続され様と云はるゝのは其意を得ませぬ」と云ふ意味のことを云はれたところ、大西郷はケゲンな顔をして、「今日は依頼に来たのであつて、議論を聴きに来たのではない。然し聞いて見れば、尤の様にも思ふが、兎に角よく考へて、なるべく都合よくして呉れ」と言ふて帰つたとの事であるが、其後遂に興国安民法を廃止されたので、大西郷は手紙で、不満の意を洩したとのことである。 ○下略


竜門雑誌 第四六一号・第八九―九四頁〔昭和二年二月〕 【西郷南洲】(DK030143k-0004)
第3巻 p.649-651 ページ画像

竜門雑誌  第四六一号・第八九―九四頁〔昭和二年二月〕
○上略 それから、翌年 ○五年 の秋口であつた。
 和服姿で、結髪の西郷が、神田小川町の、私の陋屋へ、ひよツこり尋ねて来た。その頃の西郷は、まだザンギリ頭ではなかつた。私も、意外に思つたのである。
 座敷へあげて、さて会つて見ると、相国寺の事が想ひ出される。して又、その時といへども、一方は政府の中堅此方は一省の属吏、西郷と私の地位とは、大分の隔たりがある。従つて西郷が私の家へたづねてくるといふやうなことは、夢想だにせなかつた。
『御用が厶りましたら、私の方から御伺ひいたします、わざわざ御入来で、却つて恐入ります』
『いや、今日は君に頼みがあつて参つた』
彼は、此う云つた。
『何で厶りませうか』
『実は井上さんに話をしようと思うたが、事務は、君が執られて居る故、君に直接会うて話した方がよいと思うて参つた』
『一応、御伺いたしませう。私の力で及ぶことならば、どんなにでも致します』
 - 第3巻 p.650 -ページ画像 
『外でもない、相馬藩のものが、わしの処へ参つた、あそこには、二宮尊徳以来の興国安民法といふものが行はれて居る。然るに、廃藩置県になると、此の殖産方法が、根柢からくつがへされることになる、何とか特別の取計をしてやつて貰へまいか』
 話は、それである。
 相馬藩は、財政窮乏の際、二宮尊徳を招いて、此の興国安民法と称する尊徳一流の殖産政策を実施した。
 これは、どういふものかと申すと、百八十年を六十年づゝ、天地人に分け、天は上作、地は中作、人は不作とする。更に全体を九十年づつ乾坤に二分し、乾は良作、坤は不作とする、そして人六十年の不作と、坤九十年の不作との平均を得て、これを藩一年の平作とする。
 さうすれば、天と乾との余裕を産むことになる。そこで、その余裕をもつて新しい土地を開墾し、その利益は、別途積立にしておいて、殖産の増進をはかるといふに在る。
 従つて、実施後、百八十年を要する勘定になる。廃藩置県当時は、その中途であつた為、尊徳高弟富田久七外二三のものが、西郷に泣きついた。
『いかにも、承知いたした』
 西郷は、あゝいふ寛弘大度の人物故、他事なく引受けて、私のところへ訪ねて来たので
『ははあ、きたな』
 私は、うなづいた。相馬藩が、此の制度だけは特別に旧藩に許して貰ひたいと云ふのは、今始つた事ではない。
 已に大蔵省へ運動に来て居る、しかし、省としては、断乎とし拒絶した。それを、結局、西郷のところへ担ぎこんだものらしい。
『どうだ、俺は経済の事は分らんが、許せるものなら、許してやつてくれぬか』
『いけません』
 少壮血気の私である。直ちに、此う刎ねつけた。
 相手は、維新の元勲である、さり乍ら、当時閣議に於ては、大蔵当局の意見を無視する場合が多かつた。平生の意見を吐露するには、好い機会である。
 私は西郷を前において、国家財政の処理について淊々と弁じたてた。
『御話の興国安民法も、まことに結構で厶ります、至極、私も賛成であるが、今日の我国は、廃藩置県がやうやく行はれたばかりで、国家財政の基礎といふものは、一向定つては居りませぬ。一相馬藩の都合よりも、日本全体の便宜を計るのが、当面の急務で厶ります。されば私から申しますると、僣越至極な申分ではあるが、寧ろ日本全体の興国安民法が必要であらうかと存じます』
 遠慮なく斯うのべると、西郷は、じつと聞いてゐた。その間一言も挿まなかつた。
 やがて、私の言葉が切れると
『さうか』
 重々しい調子で云つた。
 - 第3巻 p.651 -ページ画像 
『成る程、君に聞いて見ると、尤もな訳ぢや、しかし俺は今日は君に物をたのみに来たので、理窟を云はれるつもりぢやなかつた』
 莞爾として、笑つてしまつたが、その寛仁大度といふものは、何となしに、人を魅する力があつた。
 末輩の私共から、かく無遠慮に理窟を並べられたなら、大抵のものは、むつとするであらう。しかるに、西郷には、頓と、さういふところが見えなかつた。
 多くの人々が、西郷のふところに抱かれるといふのは、ここであつたらうと、後になつて考へた事である。
 翌年、征韓論破裂の為、西郷は、国元へ引きあげた為、私も、其後会談する機会を失つた。だが暝目すると、彼の風姿、言動、今も尚、ありありと私の眼底にのこつて居る。孔子は、『恕』を云つたが、西郷の如きも亦、忠恕の人であつた、と、私はさう信じて居る。
  ○右ハ「西郷南洲」ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。
  ○以上掲ゲタル四種ノ談話ハ骨子ニ於テ同一ナルモ、多少ノ相違アルヲ以テ列挙ス。此事ノアリシ年ガ明治五年ナリシコトハ一致スルモ、或ハ五年ノ秋口ト云ヒ、或ハ五年冬ト言ヒ、明確ナラズ。
  ○初稿ノ記事四年ノ秋冬ノ頃トスルハ、恐ラク参考トシテ掲ゲタル栄一ノ談話「二宮先生の遺法」ニ明治四年八九月頃トアルニ依レルモノナラン。談話ノ事実ガ廃藩置県ニ関聯アルヲ以テ四年ガ事実ナリシナラント考ヘラレザルニ非ザレドモ、今五年ニ依ル。


青淵先生伝初稿 第七章六・第二七―三二頁〔大正八―一ニ年〕(DK030143k-0005)
第3巻 p.651-652 ページ画像

青淵先生伝初稿  第七章六・第二七―三二頁〔大正八―一二年〕
幕末の経済家として世に知られたる二宮尊徳は嘗て相馬氏に招聘せられ、中村藩の荒蕪地を開墾し、水利を便にし貧民を救助せるなど、成績見るべきもの多かりしかば、尊徳幕府へ召出されし後も同藩は之に報いんが為に俸米六十四石を報功米と称し、旧によりて支給し其子孫に及べり。然るに廃藩置県により、中村藩廃せられて磐前県の置かれし後、明治五年八月、同県は尊徳の功労を称し、報功米のみは其孫金一郎是より先中村藩に来り仕へ、報功米の外、家禄三十三石を受けたりに永世支給せんことを大蔵省に出願せり。然れども先生は二宮の子孫のみに特例を開くを非として之を却下し、翌六年二月更に開墾事業等に功労ある平民・郷士等に与ふる扶持米は、支給高三箇年の金額を一時に下附する定なるも、尊徳の成績は抜群なるが故に、特に五箇年分の合計を一時に下附すべしと稟議し三月其許可を得たりき。
二宮尊徳の遺法に興国安民法といへるものあり、廃藩置県の後、旧中村藩士等遺法の廃棄せられんことを憂ひて之を要路に遊説せり。参議西郷隆盛も興国安民法を信奉する一人なりしが、明治四年秋冬の頃、一日突如として先生の私第を訪ひ、「二宮の興国安民法は誠に良法なりと思はるゝに、今や藩と共に廃絶に帰せんとするは惜しむべし、足下は省中にありて専ら廃藩後の処分を取扱へるよしなれば、何とかして之を存続する様配慮せられたし」といへり。先生思ふ所あり、之に答へて曰く、「閣下参議の貴きを以て、駕を草廬に枉げて懇談せらる、直に命に応ずべきなり、されど謂ふに二宮の遺法は、限度を立てゝ財政を行ふといふ点に存するが如し、閣下果して之を善とせば、予は疑
 - 第3巻 p.652 -ページ画像 
なきことを能はず、今政府の為す所を見るに全く此興国安民法と相反せるに似たり、予等財政の衝に当る者は、歳出と歳入とに注意し、量入為出の方針を定め、各省経費の定額限度を設けんことを苦心せるに太政官の評議は常に各省の要求を納れ、巨額の支出を大蔵省に迫りて已まず、これ豈興国安民法の趣旨ならんや。閣下若し二宮の遺法を存続せんことを欲せば、旧中村藩の為に図るの心を以て、現政府の政策を顧慮せざるべからず、閣下は参議にして太政官清要なるが故に苦言を呈するなり」と言放てり。西郷之に答へず、「予はたゞ足下に懇談せんが為に来れり、議論を承らんが為にあらず、さらば御暇申すべし」とて辞去せしが、後に不足を訴へたる書翰を先生に寄せたりといふ。 其書は今佚せり 先生が此言を出せるは当時先生及び井上の財政意見が太政官と相容れず、為に不平を洩したるなるが事は章末に至りて叙すべし。



〔参考〕東京市養育院月報 第一二一号・第三―四頁〔明治四四年三月〕 二宮先生の遺法(渋沢男爵)(DK030143k-0006)
第3巻 p.652-654 ページ画像

東京市養育院月報  第一二一号・第三―四頁〔明治四四年三月〕
  二宮先生の遺法 (渋沢男爵)
   本講話は去月十三日渋沢院長が出勤せられたる時報徳会員たる本院養育院職員より一場の講話を乞ひたるものにして、会員が其の大要を筆記したるものなれば、幾分の誤りあるは免れざるべし読者幸に諒せられん事を
                        (月報記者識)
今日諸君に御会合してお話を致す事は私の甚だ喜ぶ所である、予て本院にては数年前より各職員諸氏に依て組織せられた報徳会、即ち故二宮金次郎先生の遺訓を実行せらるゝ結構なる会が存在して、現に智徳部、事業部などでは夫れ夫れ効果を奏しつゝあると云ふことであるが今回更に慈善部なるものを設け、婦人に対する職業紹介の労を執る様に致したいと云ふので、安達幹事より私に会長になつて其事業を進捗せしむる様にして貰ひたいと云ふお話に与りました、元より結構の仕事であるし、殊に各職員諸氏の組織せられたる会であれば、兎に角院長といへる資格の上より申しても会長となるは穏当なる訳柄でもあらうと信じましたものですから、早速お受を致した次第であります、扨二宮金次郎先生の事柄に就きましては歴史上余り研究致しませんでしたから詳細のことは存じません、然し先生の生れは相州の小田原在で極めて貧しき家庭に人となられたのであります、先生は随分若い時より勤労せられ、苦学せられ、有らゆる悲惨の経歴を甞められたやうに思はれます、先生が一代の技倆を展べられたのは相馬藩に招聘せられて藩の財政を整理せられた時で、即ち報徳会の基礎をなしたものであります、其の基礎と申すは彼の至誠、勤労、分度、推譲でこの四ケ条の励行です、私が報徳の主旨を取調べましたのは余程以前の事に属します、夫は明治四年の頃で私が大蔵省に奉職して国家の財政に就て尠なからず苦心を重ねました時代であります、彼の薩長土が率先して封土を朝廷に奉還致しましたのは明治二年の事でありますが、実際に於ける廃藩置県の行はれたるは即ち四年の事でありました、其時の大蔵大臣とも申すべきお方は今の井上侯爵であられまして、私は次官の地位に居つたので侯爵を補佐して財政の難局に当つたのであります、所が、王政維新と云ふは恰も源頼朝が総追捕使となつて施政の実権を握
 - 第3巻 p.653 -ページ画像 
つて七百年来の武門政治を破壊して朝廷の御世となつたと同様でありましたから、ソラ海軍準備をせよソラ陸軍を拡張せよ新に学校を起せよ工業を起せよ商業を盛にせよと、四方八面から支出の注文があります、然るにこの注文に応ずべき歳入はない、殆んど予算の立て様がない、日本全国に於てドノ位の収入があるものかそれすら分らぬのである、そこで二宮金次郎先生が相馬藩の財政を如何に整理したか其の方法を取調べて見やうとの考を起したのである、先生の経済法は分度に重きを置いたもので相馬藩の創立以来百八十年を三分して天地人の三才となし、六十年豊作の年と六十年中作の年と六十年不作の年とを比較し、又百八十年を乾坤両儀に分ち、乾の九十年中豊作の年と坤の九十年中不作の年と相互に比較研究し、即ち不作の年の収入平均数を以て一藩の予算、即分度と定め、素朴の風を奨励し節倹に勤労に有らゆる美徳を涵養したものであるから経費に剰余を生ずる、経費に剰余を生ずるとこれを以て荒地開墾の資本となし、斯くして漸次に藩の財政を整理したと云ふ事が分明したのでありました、恰度明治四年八九月頃《(マヽ)》の事と記憶して居りますが、故西郷参議即隆盛公が私を神田小川町の邸に訪れて、ナント一つ相馬藩の財政を整理した二宮金次郎先生の掟を保存継続せしむる様に取計ふて貰ひたいとの相談でありました、一体故大西郷先生は至つて率直のお方で傍より相談を受けると直ちに其の様に云ふてやると申さるゝ様な極て大雑把の気質で、余り細かなる財政経済などの考は薄い方でありました、そこで私は之は誠によい御相談を受けたものと存じましたから、奇貨措くべしと考へ、私も只今財政上の事につきましては尠なからず苦心中でありますから、実は先頃より二宮先生の財政整理法に就て研究致して居るのでありますが、有体に申せば現時の如く陸軍の方面からも海軍の方面からも教育の方面からも工務の方面からも種々なる御注文は受けましても収入が未だ判然せんのでありますから、財政の分配に就きまして実に当惑して居るのであります、閣下は二宮金次郎の遺法を御承知で左様に仰せがあるのでありませうか、二宮の遺法は啻に相馬に之を保存するの必要があるのみではありませぬ、我が国家の財政上に之を応用致さねばならぬと考へる、二宮の遺法と申すものは一国の分度を定め入るを量つて出るを制し、余力を以て国の防備を施設し財源を涵養するの道に支出する方法にて、漸次に将来の富強を期するのでありますが、今我が国情は之に反し財政の基礎も定らざるに無法に支出を要求するの状態であります、是れでは将来富強の基礎を確立する事は出来ません、今閣下は相馬の二宮の遺法を破らぬ様にしたいとの仰せは御尤も千万に存じますが、帝国の仕法も亦二宮の方法に依らねばならんと考へますが如何でありせうかと申した所が、西郷参議もお頼みに来たらゑらい議論を聞かされたと笑はれた事であります、余談ではあるが其節二宮翁の遺法は取調べて承知して居たので、思ひ出したから序ながら当時の事をお話したのであるが、二宮先生四ケ条の遺法と申すは前にも申述べた通り至誠、勤労、分度、推譲である、至誠は今更申すまでもなく中庸と云ふ孔子の孫子思の作られたる古き書籍には全篇至誠を説かれてある、論語中にも民信なくんば立たずと記されてあるに徴しても人間
 - 第3巻 p.654 -ページ画像 
としては至誠が無ければ何事も成就致しません、勤労は之も亦人間としては欠くべからざる要件であると思ふ、私などは当年七十二歳になりますがこの年まで只の一日寸時と雖ども呆然りとして暮した事はありません、只今では朝起るのは少し遅く七時になりますが、夜は必ず十二時の時計を聞かなければ臥せりません、其の間は人に接して御相談を受けるか又は社会上有益なる御話を伺ふか事務を取扱ふか読書するか新聞を覧るか何か必ず仕事に就て居ります、元来人は働く為めに生れたのであるから働くが正当であります、若し働く事が厭であれば夫れは生きて居らぬがよろしいのである、分度とは前に申した通り分限を守ることである、奢侈に傾かぬ様気を付けるのである、若し分限を超ゆる時は一身一家も破滅の基ひであり、一国滅亡の端緒である、呉れ呉れも自分を能く理解し置かばならぬ、推譲とは即ち物事総て恭譲なれとの意味であつて慈善も其中に含まれて居ることと思ふ、然し慈善を行ふても衒ふと云ふ心が有つてはならぬ、陰徳でなければならぬ、来れ我汝に与へんと云ふ如き態度でしたならば却つて先方に敵愾心を起さしむるやうなものであるから之は余程謹まねばならぬ事である、一口に云へば縁の下の力持ちが尊いのである、之を六づかしき字に直せば陰徳である、陰徳は人間行為中の第一尊重すべきもので是非共実行せねばならぬことである、私は報徳会委員並に会員諸氏に推されて今回会長となりましたに就き一言二宮先生のお話を兼ね併せて会員諸君と共に飽くまでも先生の遺されたる以上四ケ条の美徳の励行を期せんことを希ふのであります。