デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.674-693(DK030149k) ページ画像

明治六年癸酉三月十七日(1873年)

是ヨリ先、明治五年十一月国立銀行条例公布ノ後、大蔵大輔井上馨ト共ニ為替会社ノ処分ニ当リシガ、是日西京・大阪・神戸・大津・敦賀ノ五為替会社ノ処分ヲ了セリ。其他ノ為替会社ノ処分ハ栄一等退官ノ後ニ行ハレタリ。


■資料

青淵先生伝初稿 第七章五・第一七―二四頁〔大正八―一二年〕(DK030149k-0001)
第3巻 p.674-675 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章五・第一七―二四頁〔大正八―一二年〕
○上略
国立銀行条例の公布によりて、従来の為替会社は金銀券の発行を中止し、其銷却回収を行ふと共に、全く廃業するか、国立銀行に転業するかの一を選ばさるべからざるに至りしに、横浜為替会社のみは、漸く負債を整理して、国立銀行に転ずるを得たれども、其他の各為替会社は、巨額の負債を整理すること能はざるが故に、大蔵省は遂に横浜以外の為替会社を解散せしむるに決したり。此時井上馨は紙幣頭芳川顕正と共に其処分に任じ、先生も亦大蔵少輔事務取扱として井上に副たり。斯くて先づ西京・大阪・神戸・大津・敦賀の五為替会社の処分を行はんが為に、明治六年三月上旬井上は京阪地方に赴き調査せるに、大津、敦賀の両会社は、僅に社員出資金の損失のみに止りて処分容易なれども、他の三会社は、合計五十二万五千四百余円の負債を有したり。諸会社の設立はもと政府の慫慂に出で、何くれと干渉したることなれば、政府も責任の一半を分たざるを得ざるが故に、政府は三会社の負債額に相当する資金を貸下げ、之を準備有合金に併せて、預金の返却と金券の交換とを行はしめたり。而して今直に解散せば、債務者は返済を為さゞる虞あるを以て、暫く会社の改正といへる名義を用ゐ其地に設立せる米・油の相場会所を、各社に隷属して事務を管掌せしめ、三月十七日を以てほゞ其処分を完了せり。かくて先生等辞職の後に至り、政府は右貸下金の中、西京為替会社は四万余円、大阪為替会社は八万五千余円、神戸為替会社は三万二千余円を即納せしめて、其他を棄捐することゝなしたるが、西京・神戸の両社は種々哀訴せるによりて、同年五月政府は上納残額をも棄捐したりき。
東京・新潟・二会社の処分は、上記の五会社と同時なること能はざりき、これ東京為替会社は東京商社との関係浅からず、又新潟為替会社は、東京・横浜の両会社、並に東京商社との間に複雑なる出資関係あ
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るが故に、五会社処分の後に此に及ばんとする予定なりしに、幾もなく井上も先生も共に大蔵省を去りたれば、其処分は次の大蔵卿大隈重信によりて行はれたるなり。
為替会社の外、各地の商社・開商社も同時に処分せられたれども、東京商社の外は其記録を見ざれば、此には東京商社の処分を記さんに、同社は明治六年一月七日其損益勘定を明にし、差引五十一万九千余円の負債償却方法を案して大蔵省に出願せる所は、従来同社へ特許せられたる米油相場会所に改正を加へ、其利潤を以て負債を銷却せんとするなり。先生等審議して之を許可し、相場歩合金高の二割を上納し他の八割を同社の所得となしたれども、当時同社は東京為替会社に対し四十五万四千余円の負債を有し、之を弁償するにあらざれば、為替会社の処分を為すを得ざるが故に、暫く後に譲り、先づ他の為替会社の処分を行ひしが、商社と東京為替会社との関係を断つに先ちて、先生は井上と共に職を辞したり。商社及び東京為替会社は、其翌月各大蔵省に訴へて救済を歎願せしかば、政府は遂に商社への貸下金残額六万四千円を棄捐し、別に三十四万円を下附して為替会社への弁償に充てしめたり。此後東京商社は専ら米油相場会所の事のみを経営せるに似たり。


明治貨政考要 下編・第一一一―一四三頁〔明治二〇年〕(明治前期 財政経済史料集成 第一三巻・第三六一―三七九頁〔昭和九年七月〕)(DK030149k-0002)
第3巻 p.675-693 ページ画像

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