デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.699-701(DK030151k) ページ画像

明治六年癸酉四月二日(1873年)

是ヨリ先、大蔵大輔井上馨等ト共ニ家禄及ビ賞典禄処分ノ事ヲ謀ル。是日在米ノ大蔵少輔吉田清成ニ井上ト連署ノ書翰ヲ寄セ、禄制処分ノ議略決定セルヲ報ズ。


■資料

青淵先生伝初稿 第七章三・第四五―四七頁〔大正八―一二年〕(DK030151k-0001)
第3巻 p.699 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章三・第四五―四七頁〔大正八―一二年〕
廃藩と共に士人の常職を解きたれば、彼等をして生活の安定を得せしめざるべからず、又華士族・平民に授けたる家禄・賞典禄の米給を止めて金禄となすことも財政整理の上の急務なりき。此に於て先生は井上と共に其方法を研究し、明治六年十二月遂に秩禄公債証書の制定あり、同九年八月金禄公債証書の制定あり、皆先生辞職後に決行せられしものなれば、今細説せず。然れども其端緒が先生等によりて開かれしことは注意せざるべからず、明治六年四月二日先生が井上と連署して在米の大蔵少輔吉田清成に寄せたる書翰に、「禄制の事は種々廟議ありて、先づ大概は決定せり、されど確定施行するまでには尚時日を要すべし」といへるにて当時既に成案を得てほゞ決定したりしことを知るべきなり。


世外井上公伝 第二巻・第一四―一八頁 〔昭和八年一二月〕(DK030151k-0002)
第3巻 p.699-701 ページ画像

世外井上公伝 第二巻・第一四―一八頁〔昭和八年一二月〕
○上略公がかくのごとく士族・卒の整理に努力したことは乃ち家禄を処分する前提であつて、これが調査を急いでゐたのではあるが、愈々調査完了したのは六年三月で、廃藩後の秩禄 華族士族平民家禄・皇族及び華族士族平民賞典禄・社寺禄 支給高を金額に直して年額合計二千二百六十五万七千余万円といふ多額に上つた。それでも廃藩直後の年額に比しては、その減少したこと百分の四十三半強であつたから、この上にも一層の減額を計らねば、到底政府として将来を支持することが出来ぬ状態であつた。五年六月九日附、公及び渋沢・上野から滞英中の吉田清成宛の書中に「当年米価凡平均三両一歩位ト見込候外無手段候、当年歳出凡二千万円計リ不足ヲ生ジ候見込、殊ノ外苦心ノミ、世間ヨリモ忌憚ヲ蒙リ、実ニ困却ノ次第ニ御座候、尤士族卒禄ハ先著手不仕、華族ハ兼テ決議ノ通リ、早々禄制ニ決定仕度心組ニ御座候、且中々此禄制位ニテ不足ヲ償不
 - 第3巻 p.700 -ページ画像 
申、其他ハ凡テ諸省月給迄定額ニ取定、是迄ヨリハ少々宛減少シ、其他ハ新札ヲ以テ是間ニ合セ可申ト相考ヘ居候、」大蔵省文書と述べたのでもわかる。吉田は四年十月に大蔵少輔となり、後節『国債の創設』の条に於て述べる如く、当時理事官として英国に渡り外債の事務に奔走してゐたのである。又その翌十日附、海外に在つた大久保・伊藤宛の公の書中に、「公債之正否ヲ以、禄券発行売却之決議ニ候得共、未ダ公債之模様モ不相分故、華族之禄丈至急過日入御覧候通リ之禄制相立候様正院へも内々申出候、多分同意之様子ニ御座候、凡七拾万石余有之候得共、尤不足之償ニは引足リ不申、諸省之月給モ凡テ定額外ニ渡来候得共、是亦月給之分丈半分ニシテ凡テ減少ヲ議シ、其他ヲ新札ヲ以償候積、可也決末相付可申候、来年之計算ハ更ニ覚束ナク相考申候、」井上侯爵家文書とあつて、公等が秩禄処分に早くから絶えず苦心してゐたことが知られる。
 而して公は一面に種々秩禄の減少を図りつゝ、他面には外国起債の事一日も速かに達成されることを心に祈つてゐたのであるが、この年八月附公及び大隈参議連署にて滞英の大久保・伊藤・吉田に宛てた書翰中に、「華士族家禄減削之儀、当春御決議之通、素ヨリ異論相生じ候様之儀ハ無之候得共、既ニ此公債募方も最初之目途通リにハ不相整、且正院に而も爾来種々覆案之次第も有之、最初之見込ニ而ハ若士族・卒家券之法施行候而も、其買上方ニ於テ不行届之儀も有之候ハバ、其節ニ至リ、政府を怨望し、終に不平を相唱候義無之とも難申、殊ニ右禄券之融通充分ニ無之様ニ而ハ、唯支消高を減ずる丈ハ、政府之御都合ニ候得共、矢張士卒共無産業ニ就候次第にも至間敷、詰り経済上得計とも難申ニ付、聊其方法を寛にし、別紙計算之通リ改定相成候様、右様相成候得バ其所作両様ニ而、銘々之望ニより択取之筋にも相成、将来之施設ニ於而決而苦情不平等無之ハ勿論、充分相行はれ可申と存候、尤両様之割合、一ハ年々減却之仕法、一ハ一時禄券之方法ニ而其勘定ニも大ニ得失有之候間、大概禄券之方ニ可相成ハ必然之事ニ存候、又年々減却之法ニ而引続候とも、決而大体之目的ニ差支ハ無之候間、御降慮可被下候、」大蔵省文書と述べてゐる。その後六年二月に至リ、吉田は公の意見に対し、帰朝まで秩禄処分の発表を見合はせてくれるやう公に申出でた。よつて四月二十二日附で、公は吉田宛通信の序でに之に応へて、「禄制ノ義ニ付テ御帰朝マデ見合候様、尤御考案も有之趣拝承仕候、爾来此件ニ付而ハ、種々廟議モ有之、先大概ハ決定いたし居候併確定施行ノ処ハ、尚時日モ有之候ニ付、詰リ御帰朝前発表ニハ相成申間敷哉ニ被存候、」大蔵省文書と述べてゐる。この書翰の如く秩禄処分は急速の実施には立至らず、とかくする間に公は五月七日に冠を挂けるの止むなきに至つたのである。而してその実施に至つたのは十二月のことであつて、政府はつひに家禄奉還の議を決し、太政官布告をもつて『家禄奉還者へ資金被下規則』を発布したのである。なほ翌七年三月、政府は更に家禄を引換へる秩禄公債証書条例を制定して、永世禄は六箇年分、終身禄は四箇年分を合計し、その半ばは公債証書、その半ばは現金を以て交付した。而してその交付を得た人員は、十三万五千余人で、交付の公債証書高は一千六百五十六万五千八百円、現金
 - 第3巻 p.701 -ページ画像 
交付の高は一千九百三十二万六千七百三十七円、合計三千五百八十九万二千五百三十七円といふ高に上つたのであつた。かくの如く秩禄処分の実施は、公が大蔵大輔退職後に行はれたが、その基礎となるべき各種の調査は、公が在職中に完成したものであつた。井上侯爵家文書・大蔵省文書・内閣文庫文書・太政官日誌・法規分類大全・理財稽蹟・大蔵省沿革志・近世財政事情・明治財政史