公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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明治6年(1873年)
同行、七月二十日営業開始以来一般業務ニ於テモ諸般ノ改善ヲ計リ、営業ノ発展ヲ期ス。六年下半季拾壱万余円ノ純益ヲアグ。
第一国立銀行半季実際考課状 第一回〔明治六年下期〕(DK040006k-0001)
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第一国立銀行半季実際考課状 第一回〔明治六年下期〕
金札引換公債証書相願フモノアレハ当銀行ニ於テ取扱金子受取差出方等都テ条例ニ拠リ取計フヘキ旨明治六年七月十七日紙幣頭閣下ヨリ御下命有之候
○中略
定期預リ金証書当座預リ金通帳為替手形預リ金手形等ノ製ヲ定メ、並其利足又ハ打歩等ヲ決議シ、其定則ニ従ヒ追々繁昌イタシ候
定期預リ金ハ其期限ノ約束ニヨリ相当ノ利足ヲ附シ候ヘトモ、当座預リ金ハ無利足ノ処、預リ金高三万以上ニ及ハヽ其約束ニヨリテ相応ノ利足ヲ附スヘキ旨、取締役ノ決議ヲ以テ取扱ヒ罷在候
品物抵当貸附又ハ割引貸附等、都テ確実ナル方法ニヨリ其利足ハ可成丈ケ低下ニスヘキ事ヲ決議シ、追々取扱ヒ現今ノ処滞貸等ハ一切無之候
諸帳面記載ノ方法、並毎日ノ計表等マテ都テ本法ノ西洋式ニ従ヒ、紙幣寮ニ於テ御雇外国人ヲシテ調査セラレタル簿記精法ニ拠リ、旧来ノ記帳手続ヲ一切更革シ新ニ簿帳計表等ヲ作リ其取扱手順ニ至ル迄全ク成規ニ準拠致シ居候
第一銀行五十年史稿 巻二・第九―一六頁(DK040006k-0002)
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第一銀行五十年史稿 巻二・第九―一六頁
営業開始の広告と営業種目
本行はまた銀行業の性質を世人に示し、及び営業の開始を知らしめんが為に、開業式挙行の当日、即ち明治六年八月一日東京横浜の各新聞に営業開示の広告を掲載せしが、其文中営業の種目を挙たること左のごとし。
○中略
即ち当座預金・定期預金・金銀貸附・公債及地金銀の買入・為替等を営むにありしが、当座預金の如きは無利息の定めなりき、この無利息当座預金勘定は広告に見えたるが如く通帳を交附して小切手支払の便を計れるものなるが、当時使用の小切手の雛形は左の如し ○五八頁参照
此前後に於て定期預り金証書、当座預り金通帳、為替手形、預り金手形の制を定め、八月十四日には当座預り金約則を制定して、之を東京
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日々新聞に掲載し十八日には品物抵当貸附金略則を制定して同月廿日より実施し、十月十三日には各省並に各寮局に当座預りの勧誘書を発するなど大に努むる所あり、総監役渋沢栄一も亦取締役支配人等を督して、重なる商人に取引の開始を促せるなど、苦心大方ならず、されども世人はいまだ銀行を危ぶむもの多くして、十分の効果を挙ぐること能はざりしも、日本橋附近の商買数名の相尋で取引を開きしより漸く営業の光明を認めしかば、ますます鋭意して業務の改善と拡張とを図りたり、かくて顧客の中数口の融通を申込むものもありて、其時々証文を作成するは手数不便を感ずるを以て、始めて根証文の制を設く、即ち予め顧客をして根証文を差入れしめて、簡便なる方法により融通の便を図るにあり、其根証文の雛形は左の如し
当座預金は初め無利息の定めなりしが、其後之を改めて金額参万円以上の預金には特に相当の利息を附するの内規を設けたるに、同年十二月金沢為替会社は率先して利付預金を申込み、爾来之に倣ふもの尠からず、実に此種預金の嚆矢なりき、此月また株主を勧誘して其所有株券を銀行に預入せしめ、以て保護預り事務を開始せり。
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明治六年の下半季即ち開業以来第一季の営業状態は此の如くにして此季末における発行紙幣の流通高は七拾五万参千余円、官金部における政府預金残高五百参拾七万参千余円、一般営業部における定期預金残高参拾七万四千余円、当座預金残高五万四千余円あり、また一般貸出金残高は参百弐拾五万余円にして同季間の純益金は拾壱万弐千余円に上り、壱万千余円の積立金を為し、且つ役員賞与金を引去りて資本金に対し年利四分五厘の配当を為し、なほ後季に弐万七千余円を繰越す事を得たるは誠に好成績なりといはざる可からず。
○下略
○営業開始ノ新聞広告ハ明治六年八月一日ノ条ニ収ム。
○明治七年八月ヨリ八年二月ニ至ル間第一国立銀行ニ於テ使用セシ簿記帳渋沢子爵家ニ所蔵セラル。
佐々木勇之助氏座談会筆記(DK040006k-0003)
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佐々木勇之助氏座談会筆記 (竜門社所蔵)
二、「第一国立銀行五十年史稿」(巻二 一三頁)に
「総監役渋沢栄一も亦取締役、支配人を督して、重なる商人に取引の開始を促せるなど、苦心大方ならず、されども世人はいまだ銀行を危ぶむもの多くして、十分の効果を挙ぐること能はざりしも、日本橋附近の商賈数名の相尋で取引を開きしより漸く営業の光明を認め」云々とあり。
(イ)こゝに云ふ取締役も支配人も副支配人も何れも三井組及び小野組の人々なれども(巻一 五二頁)、これらの人々は、直ちに近代的銀行業務を会得し、夫々業績を挙げたるものなりや。或は近代的業務には適せずして失敗の事多かりしものなりや。
(ロ)また「日本橋附近の商賈数名」とあるは如何なる人々なりしや。これらの人々は直ちに銀行の便益を悟るに至りしものなりや。御記憶を承り度し。
佐々木氏―私の記憶では「日本橋附近の商賈数名の相尋で取引を開きしより漸く営業の光明を認め」云々と云ふのは、ずつと後のことで明治九年銀行条例の改正以後、明治十年以後のことで、小津、大橋清左衛門などのことでせう。
私は明治七年から銀行の方に廻されて張面掛りを勤めて居りましたので、その頃小野、益田の先収会社(後の三井物産)古川、大倉それに金沢為替会社と云ふのがあつて―どう云ふわけか知らぬが、金沢為替会社の支店が東京の浅草にありまして、そこと取引をしました―その振出した小切手が私の処に廻つて来たのは知つてゐますが「日本橋附近の商賈」と云ふのは余程あとのことだと思ひます。
糸平はよく銀行へ来て居りましたので、私共は又来てゐるなと思つてゐました。しかし糸平が子爵とどんな話をしてゐたかは存じません。
大沢氏―高崎屋も其頃銀行と取引をしてゐたのですか。
佐々木氏―高崎屋は商社の方の例として挙げたので、銀行の取引先と云ふのではなく、商社に入つてゐたのです。
渋沢子―最初に小切手を振出したのは大倉さんだと云ふことですが。
佐々木氏―小切手を振出したのは先収会社の益田や、大倉、古河、金
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沢為替会社が最初で、その他にはありませんでした。
明石氏―明治十二年頃の第一国立銀行年報の終りに、取引先の名が印刷されてゐるのを見たことがあります。
佐々木氏―兎に角、日本橋辺りの商売人が本当に銀行と取引したのは明治九年末か、十年になつてからのことです。明治九年の条例で銀行が沢山出来まして―例へば安田も其頃出来て続いて六十銀行、第百銀行など幾つも出来ました。商売人が銀行と取引らしい取引をしたのは其頃からで、明治十年以降のことでした。
(イ)の「これらの人々は……失敗の事多かりしものなりや」これは全くさうでした。
○大沢ハ大沢佳郎、渋沢ハ渋沢敬三、明石ハ明石照男ナリ。
青淵先生伝初稿 第九章中・第一―八頁〔大正八―一二年〕(DK040006k-0004)
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青淵先生伝初稿 第九章中・第一―八頁〔大正八―一二年〕
開業当時に於ける営業の状態
国立銀行条例第十条第一節には、為替・両替・約定為替・荷為替・預り金、其余引請貸借、又は引当物を取りて貸金を為し、貸借証書其他の諸証券、及び貨幣地金取引等を以て営業の本務となすべしとの規定はあれども、世人の多くは銀行の性質を解せずして、商工業者の取引未だ盛ならず。先生之を憂ひ、或は営業広告を新聞紙に掲載し、或は重なる商人に取引の開始を勧誘し、又或は各省寮司に当座預りを慫慂したるなどの結果、漸く日本橋附近の豪商等と取引を開くを得たり。かゝる有様なれば、其営業状態の活溌ならざりしは勿論なり。此に於て先生は先づ官金出納事務に重きを置き、徐に銀行事務の発達を図らんとせり。○中略 此間一般銀行事務に至りても、顧客の為に種々の利便を図り、或は当座預金に利子を付し、或は保護預りを開始し、或は各種の手形・証書等に改善を加へたるが、其苦心は空しからず、明治六年の下半季即ち開業以来第一期の成績は、一般営業部に定期預金残高三十七万四千余円、当座預金残高五万四千余円あり、又一般貸出金残高は三百二十五万余円にして、同季間の純益金は十一万二千余円に上り、一万千余円の積立金を為し、且つ役員賞与金を取去りて、資本金に対し年利四分五厘の配当を行ひ、猶後季に二万七千余円を繰越すことを得たり。
明治六年下半季貸借対照表
負債に属する分
円
株金 二、四四〇、八〇〇
紙幣流通高 七五三、一九五
定期預金 三七四、六五四
当座預金 五四、二三六
預金手形 二三六、〇四九
政府預金 二、一二一、〇九八
同手形預 一、〇八一、九九三
同別段預 二、一七〇、五〇〇
純益金 一一二、七一二
合計 九、三四五、二四一
資産に属する分
円
紙幣抵当公債証書 一、一八二、二〇〇
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預金抵当公債証書 一〇〇、〇〇〇
発行紙幣準備本位貨幣 五一〇、〇〇〇
貨幣及紙幣 三、三九七、二二五
諸買入元金 五五七、〇五〇
貸附金 三、二五〇、〇六八
為替貸 八六、九四九
新旧公債証書 一一八、一二〇
地金銀 二、一二六
営業用家屋土蔵 一四一、五〇〇
合計 九、三四五、二四一
明治六年下半季利益金分配
円
積立金 一一、二七一
役員賞与金 一九、一六一
割賦金(百円ニ付二円二十五銭ノ割) 五四、九一八
後半季繰込 二七、三六二
合計 一一二、七一二
右の表中にある流通紙幣といへるは即ち銀行紙幣の事なり、其詳細は下文に説くべし。かくて明治七年一月十一日第一回半期実際考課状をも印刷して株主に頒ち、尋で利益勘定其他を新聞紙に広告せり。我邦に於て営業報主を株告に頒ち、又之を新聞紙に広告せるは、第一国立銀行を以て嚆矢と為す。
〔参考〕渋沢栄一 書翰 吉田清成宛(明治六年)一〇月二五日(DK040006k-0005)
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渋沢栄一 書翰 吉田清成宛(明治六年)一〇月二五日
(京都帝国大学文学部国史研究室所蔵)
奉稟、爾来心外御疎濶申上失敬の至ニ候、先日吉田次郎面会の節、第一国立銀行向後の目途ニ付、篤と高慮拝承仕、尚愚考も申上度、其中昇堂の都合相伺呉候様申述置候、右ハ先頃コレスポンダンスの高諭も有之、其拝答も矢張向来の営業目途ニ付、夫是とも事実委細申上度候間何卒時日御都合ニ随ひ御指揮被下度、尤も即今勘定方法抔も略手続相定り、どふかこふか洋式のブツクキーピングも出来候ニ付其計表即日表のバランスシートニ御座候も持参の上厚く御教示も相伺度心得ニ御坐候 右拝伺
頓首匆々
十月廿五日
尚々明廿六日ハ如何御坐候哉相伺候、尊邸にて御来客等御差支も有之候ハヽ当銀行楼上又ハ三野村宅にても光臨相成候ハヽ、別而難有奉存候、乍失敬此段も申上候
渋沢栄一
吉田大蔵少輔閣下
乞親督
〔参考〕渋沢栄一 書翰 大隈大蔵卿宛(明治六年)一二月二七日(DK040006k-0006)
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渋沢栄一 書翰 大隈大蔵卿宛(明治六年)一二月二七日 (大隈侯爵家所蔵)
奉稟、然は当銀行半歳の実務都合能相運候賀筵として来廿九日午後第二時より今戸小野組別荘ニ於て一盞を奉呈度、昨日芳川紙幣頭殿に頼り申上候処、御省諸公御一同御承知被下候得共
閣下にハ未タ御出省無之ニ付、小生より更ニ尊邸ヘ申上切ニ御賁臨可
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奉願旨只今芳川より申来候、就而ハ来廿九日午後第二時より是非御出張奉仰候、尤も御省諸君の外ハ伊藤君・井上君・福地源一郎及銀行取締役共迄にて其他御陪宴の者ハ無之候、此段偏ニ奉願候 頓首
十二月廿七日
渋沢栄一
大隈大蔵卿閣下
光臨場所
今戸小野組別荘
来廿九日午後第二時
右の通御坐候
〔参考〕渋沢栄一 書翰 吉田清成宛(明治七年)一月一七日(DK040006k-0007)
第4巻 p.62 ページ画像
渋沢栄一 書翰 吉田清成宛(明治七年)一月一七日
(京都帝国大学文学部国史研究室所蔵)
○上略 偖、当銀行の諸勘定も既に報告書を以紙幣寮へ上呈候通にて、昨年分ハ可也行届候哉ニ候得共、尚本年の取扱方等ニ於て聊卑考申上、御賢慮も奉伺度、就而四五日間ニ尊邸へ拝趨可仕候得共、自然御差支等被為在候而ハ却而恐入候ニ付、何日ニ罷出候而可然哉、日時御指揮の程奉祈候
何れ万縷拝 芝の上申上度、不取敢右伺旁奉得芳意候 匆々不宣
一月十七日
渋沢栄一
吉田少輔閣下
第一国立銀行役員等級一覧表
明治六年十二月三十一日 第一国立銀行頭取
同 取締