デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 第一国立銀行 株式会社第一銀行
■綱文

第4巻 p.83-132(DK040012k) ページ画像

明治7年11月20日(1874年)

是ヨリ先、政府、府県為替手続上ノ改正ヲ行フ。小野組動揺シテ閉店シ、是日為替方赦免ノ儀ヲ大蔵省ニ出願ス。政府之ヲ許可ス。是ニ於テ各府県公納金其他ノ取扱ヲ同行ニ移ス。小野組ノ閉店ニ際シ栄一事態ノ収拾ニ奔走ス。


■資料

第一銀行五十年史稿 巻二・第四二―四九頁(DK040012k-0001)
第4巻 p.83-85 ページ画像

第一銀行五十年史稿 巻二・第四二―四九頁
  第二節 小野組の破綻
創立以来本行の営業は次第に順境に向ひ、明治七年上半季に至りては現金の総額一千万円に上り、貸出も亦之に伴ひて、行務漸く佳境に入れるのみならず、下半季に入りても同じく佳良の成績を示し、コルレスポンデンスは始めて締結せられ、各種為替の取扱も漸く盛大となり今や将に順風に乗じて快走せんとする時に当り、はしなくも険悪なる気流が意外の所に生じ、本行の基礎を動揺せしめんとしたるものは小野組の破綻なりき。小野組は三井組島田組と並び称せられたる都下屈指の豪商にして、明治元年以来三井島田の両組と共に会計官大蔵省の為替方となり、官金出納の事務に鞅掌し、枢要の各地方に支店又は出張所をも設けたるが、廃藩置県の後ち全国の租税悉く中央政府に集まるに及び、五年五月には各府県送納の租税金をも取扱ひたり。幾もなく政府は大蔵省為替方を廃し其官金出納事務を第一国立銀行の前身たる三井小野組合銀行に移したれども、租税金の為替送納は三井島田の両組と同じく、旧によりて鞅掌せり、かく此三家は巨大なる政府の預金を擁せしかば、之を自家経営の事業に投ぜることも尠からず、就中小野島田の如きは投機的事業にまで手を延ばしたる結果、漸く資金の運転に窮し上納金の納付をも完全に履行する能はざるに至れり。是より先本行が大蔵省と金銀取扱規則を締結調印するや、政府は諸省使府県に令し、右の取扱規則に準拠して約定案を定め、其官金出納を取扱へる為替方の統一を図り併せて危険予防の方針を取らしめたりしが、府県の為替方は大蔵省の金銀取扱方法とは自ら異同ありて該規則に照準しがたき事情あるがゆゑに、明治六年七月五日に至り別に府県の為替方を設くる手続及び為替規則を制定せり、之によれば為替方は毎年其取扱ふべき金額の概算高の三分の一又は四分の一の担保を差出すべきものとなし、翌七年二月更に三分の一と確定したり、然るに政府は今や小野組の状態に就きて不安の念を抱きしものゝ如く、同年十月二十二日府県の為替手続に改正を加へ、担保は必ず預ケ金相当の金額たるを要することゝなし、越えて二十四日更に追加すべき担保は十二月十五日限り提供すべき旨を厳達せり、これ誠に峻酷なる所置なりしかば、為替方の中にも恐慌を来たせるもの尠なからず、かくて三井組は能く命に応じ納付したれども小野島田の両組は資金の回収意の如くならず、此年十一月に至りて小野組まづ破綻し、尋で島田組も亦破綻せり。世俗普通に両組の破産と称すれども、政府は維新の際における功労に報ゆるが為に、特別の庇護を加へて破産処分を行はざりきこの両組は上文に述べたるが如く、金融業者中屈指の富豪にて、三井組と共に
 - 第4巻 p.84 -ページ画像 
財界の覇権を握れるほどの有様なりしかば、其破綻は世上一般の金融に大影響を与へ、政府の損失も小野組の分七十五万円島田組の分八十二万円に及べりといふ、而して最大の打撃を蒙れるものは実に我が第一国立銀行なりき。
本行は其名は株式組織なれども実際に於ては専ら三井小野両組の専有にて、頭取以下の諸役員概ね其代表者たらざるはなく、互に権力を擅にして各自家の便益を図り、また無担保にて巨額の融通を為せるが故に、両組孰れかの破綻は直に銀行の基礎を動かし、これが経営に堪へざらしむるに至るべきは当然の結果なり、況や本行より小野組への貸附は百三十八万余円に達したるをや、若し其回収を得ざらんには、営業の継続覚束なく、将来の運命予期す可からざるものあり、然るに幸にもかゝる悲境より免れて却て将来発展の動機を為せるは実に井上馨の好意により、また本行の総監役たりし渋沢栄一の周到なる注意と熱心なる努力とによれり。
井上馨は曩に大蔵大輔の職を辞してより、暫く閑地にありしが、政府の要路と親交あるがゆゑに、小野組処分に就きても、本行が之に連坐して倒産せんことを憂ひ、明治七年の秋小野組破綻の兆あるを察し、密に渋沢栄一に政府が同組に対して厳重なる検束を加ふるの決意ある旨を告げ予め之が備を為して禍を未萌に防ぐべきことを注意せり、小野組が窮境に陥れるよしは金融に従事せるものゝほゞ推測し得たる所なれども、今や政府が同組を見限りて断乎たる態度に出でんとするを知りては栄一は総監役たる職責上一日も捨て置きがたく、直に其善後策に着手せり、当時小野組への貸出は上述の如き巨額に達し、而も概ね信用貸なれば、百方奔走して抵当物の蒐集に従ひ、小野善助小野善太郎及び小野組の番頭古河市兵衛の所有に係る本行の株券八十四万円の外に、米四万九千七百五十六石余、岩鉏卅四万二千貫目、新公債一万三千五百円秋田院内鉱山並に諸建築及諸器械出銅等を押収することを得たり、これ蓋し栄一の機敏なる行動の結果なりといへども、而も古河市兵衛がいたく信用を重んじて資産を隠蔽せず、進んで之を提供せる高潔なる心事に需つ所また大なりきといふ。かくて本行は同組への貸附金に関する一切の証書を大蔵省に呈出して指令を仰げる後、株券は抵当の流込となし、米銅公債等は売却処分に附することゝなしたれども、なお数万円の滞貸を生じたり、而してこの滞貸に対しては、大蔵省より利息年二分の割合にて四十六ケ年賦返済となすべきよしの命令あり、同時に旧公債証書額面八万七千七十五円と通貨千七百四十四円余とを下附せらる、この公債と通貨とは大蔵省が小野組より押収せるものなるべし、かくて公債証書売払の代価と下附の現金とを合算して之を滞貸消却の資に当て、差引本行の損金総額は一万九千三百二十二円八銭五厘となりしが、此元利四十六ケ年分の通計三万七千六百五十一円余は無利息三十ケ年据置として、更に之を小野組に貸附くることゝなし、玆に貸金の始末を結局することを得たり。実に明治九年の事なりき、後十二年に至り少金の内入を以て之を免除したり、かくて一時本行の基礎を危からしめんとせし重大事件も、処分の方法宜しきを得たるが為に僅少なる損失のみにて営業上に何等の故障をも生ぜ
 - 第4巻 p.85 -ページ画像 
ざりしは本行の為に将た一般金融界の為に誠に幸福なりしなり。


小野組瓦解ニ関する史料 三、小野組瓦解顛末 小野善太郎手記抄(DK040012k-0002)
第4巻 p.85-86 ページ画像

小野組瓦解ニ関する史料 (古河男爵家所蔵)
 (朱書)
 三、小野組瓦解顛末 小野善太郎手記抄
明治六年ヨリ陸羽及九州筋買入米ノ事行ハレ、翌七年ニ亘リ現米弐百万石ノ租税代納ヲ各地ニ於テ定約シ漸次其代価ノ為替金ヲ大蔵省ヘ納付スルニ当リ、場合ニ依リ一時延納ヲ黙許セラルヽコトアリ(買入米ハ途中支障ナキトキハ東京着壱石ニ付壱円余ノ利益ヲ概算シ得ベシ)然ルニ二三ノ豪商ハ争フテ人ヲ派シ買入米ニ着手セリト雖モ、陵羽地方ハ略小野組ト結約済ニテ僅少ノ残米アルニ過キサリシ、既ニシテ約三分ノ一ハ目的ヲ履行シ多少ノ利益ヲ収得セリ、此時ニ当リ見ル所アリテ為替方ヲ辞退セント欲シ、一面買入米ノ完結ニ全力ヲ傾注セント思惟セリ、而シテ九州地方ニ於テ長崎熊本最寄ハ早ク手配リヲ為シ、又熊本県ハ当夏非常ノ洪水アリ仍テ救済ノ為メ巨額ノ所有米ヲ洪水以前ノ低価ヲ以テ売却ニ応シ、頗ル人望ヲ博シ、殊ニ賞トシテ銀盃一組ヲ下賜サレタリ、陸羽米ハ其数多額ナルト僻陬ノ故ヲ以テ完結速カナラズ「為替金上納ノ期限追々切迫シ、一時延納ヲ便宜黙許セラレシ上官ハ更迭転任セラレ頓ニ支障ヲ生ジタリ、此時ニ方リ為替方規則ヲ頒布セラレ三分一ノ抵当ヲ納入スベシトアリ、予テ考慮スル所モアレバ各地ヨリ買入約定シ、又ハ已ニ収手セシ新旧秩録公債証書及《(禄)》ビ現金百万余円ヲ漸次納付シ、不足ノ分ハ所有地所ヲ見積リ納付スベキ手続ヲ運ブコトニ着手セリ、尋デ同年秋為替方規則改正アリテ相当ノ抵当ヲ納ムベシト命アリ、差当リ各鉱山借区及ヒ建物器械ハ価格ヲ定メガタク、且固定資本ヲ急ニ回収スルハ不可能ニシテ銀行株金壱百万円ハ抵当ニナシ得サル条例ノ存スルアリ其措弁ニ困難ヲ感スルニ至レリ
曩ニ明治四年西村勘六ハ小野組ヲ代表スル上ニ於テ時宜ニ応シ小野善右衛門ト改称セシハ、上来陳述セル如ク一朝主人家ノ列ニ入リシハ同人ノ努力ニ酬ヒル希ニ見ル異数ナリトス、人或ハ云フ何故ニ名誉アル西村勘六ヲ以テ始終セサリシカ、善右衛門ノ襲名ハ却テ勘六ノ偉大ヲ傷フナキカ、同人ノ為窃カニ惜ムモノアリシ
小野組活動以来善助ノ為替御用ハ善右衛門之レニ当リ、生糸店ノ業務ハ古河市兵衛之レカ主宰者タリ(市兵衛ハ京都岡崎ニ生レ、木村姓ニシテ幼年ノ頃ニ小野家ニ入リ、年月ノ久シキ漸次登用セラレ、福島支店名代人トシテ井筒屋市兵衛ト称シ、或ハ盛岡支店ニ在勤シ、中頃江州生糸商人ニシテ小野家貸出金紹介ノ関係ヲ有スル古河太郎左衛門ノ所望ニ拠リ、養子トシテ古河姓ニ改メタリ)小野家ノ隆運ニ向ヘル大舞台ニ立チ超越セル胆力ヲ以テ専ラ商機ニ干与シ、或ハ横浜支店長トシテ九十番館瑞西人シーヘル氏ヲ始メ外国人ニ親交ヲ得、生糸輸出ノ業ニ当リタリ、善右衛門ト各特徴ヲ有スレトモ資性篤厚ニシテ其天稟ノ商略ハ一頭地ヲ抜キ、善右衛門ノ企及スヘキニアラス、近時為替御用ニ加フルニ商事日ニ尨大ニ旺盛ヲ致シ、善右衛門ノ手腕ハ漸ク統轄上ノ実力ニ危疑ナキ能ハス、同人ノ措置ニ付慊然タルモノアルニ至リ、窃カニ物議ヲ醸シ終ニ小野家百年ノ鞏固ヲ謀リ、為替御用ハ善助ノ業務トシテ善右衛門之レニ当リ、生糸ヲ始メ商事ニ対シ助次郎ノ業務ト
 - 第4巻 p.86 -ページ画像 
シテ古河市兵衛之ヲ主宰シ、公私共ニ経営ヲ区分シ、截然分離シ、積弊ヲ一掃シ、両個相互慎重奮励以テ共ニ祖先ニ奉公セン事ノ懸案ヲ見ルニ至レリ、善右衛門カ草セル略記中ニ宗分家主ガ手代ノ煽動アリテ一家ヲ区別セント昨年以来家議一定セス総理代人ヲ廃スルノ議ヲ起ス云々トアリ、両個対立ハ改革上旧主人ノ意旨ニシテ善右衛門ニ多少ノ衝動ヲ与ヘ畢竟総理代人ヲ排斤スルモノト思惟セシハ後ニ至リ知ルヲ得タリ、既ニシテ分離革新ノ以テ局面ヲ変シ各自ノ心ヲ新ニスルハ長久ノ計ナルコトヲ認識シ、分離案ノ協議ニ一歩ヲ進メ未タ具体的ニ実現ヲ見サル前ニ霹靂一声七年十一月ノ事件ニ遭逢シ、革新ノ懸案ヲ見ス万事休セルハ豈ニ一大恨事ナラスヤ
「七年十一月十五六日頃ナラン、仄カニ聞ク、大蔵省ハ各府県ヨリ小野組ヘ預入レタル金銭ヲ一時ニ取立ツ旨電報ヲ以テ各地方ヘ厳達アルヘシト、官金ハ支障ナク完納スルモ人民ヨリ預リタル為替金及ヒ預リ金ハ何ヲ以テ之レヲ弁償シ得ンヤ、所有不動産ヲ売却スルモ急遽ノ場合ニハ諺ニ云フ二束三文ニ直ヒセサルヘシ、維新以来官ノ会計ハ勿論内国為替ノ便ヲ聞キ《(開カ)》専心勉励シタレハ官民ノ信用ヲ博シ公私巨額ノ金ヲ運転スルヲ得タリ、今ヤ人民ニ対シ義務ヲ愆ルハ忍ヒサル所ナリ、或ハ云フ小野組ノ隆盛ヲ嫉視シ陰ニ讒誣スル輩アリテ小野組ヲ亡滅セシメン計略ニ出ルナリト、果シテ然ルヤヲ知ラス、此ニ於テ咄嗟ノ間断乎決心シ大蔵省カ各府県ヘ電報セサルニ早ク本店ヲ閉鎖シ、同省ヘ歎願スルニ如カスト為シ、同月十八九日東京各支店主任ヲ招集シ、緊急会議ヲ開キ其旨趣ヲ解説シ承諾ヲ得、其廿日善右衛門自身大蔵省庶務課ヘ歎願書ヲ呈シ、其他諸官省各府県出張所ヘ代人ヲ以テ届出ヲ為シ為替方御用ヲ辞退セリ、此日歎願書ヲ受理シタル旨庶務課長ヨリ命アリ、此夜陵海軍省会計官本店ニ臨ミ両省協議ノ上金庫ニ封印アリ、二十三日ニ至リ大蔵省ニ勘査局ヲ新置セラレタリ、本店ハ検査官ヘ諸帳簿金庫ノ外現在金又ハ重立タル所有物品ノ漸次引渡ヲ開始セリ、十二月中旬南部勘査官ヨリ小野組負債額ノ見込ニ付申立ツヘシト命アリ、然レトモ全国五十有余所ノ支店ナレハ広汎ニ亘リ急ニ確実ナル計上ヲ得ンハ不可能ナリト雖モ、漠然概略ヲ見積レハ貸借総高ハ莫大ノ数字ニ上ルヘキモ差引不足額ハ金参百万円余位ニ止メ得ヘシ、之レガ償却ハ陸羽各鉱山借区本年迄ハ資本注入ノミナレトモ明年ヨリハ多少収益アル見込ヲ以テ平均一ケ年金弐拾万円ト看傚シ、十五ケ年賦ヲ以テ償完スヘク答案ヲ提出シタリシガ、許否ノ命ニ接セス、元ヨリ斯ル簡単ナル方法ヲ以テ当時ノ財界ヲ聳動セル小野組負債額ヲ完済スヘキ謂レナク、咄嗟ノ間ニ答ヘタル概念ニ過キサルヘシ」


世外侯事歴 維新財政談 下・第四二五―四二九頁 〔大正一〇年九月〕(DK040012k-0003)
第4巻 p.86-88 ページ画像

世外候事歴 維新財政談 下・第四二五―四二九頁〔大正一〇年〕
    小野島田等の破産
      男爵渋沢栄一 侯爵井上馨 佐伯惟馨
      男爵松尾臣善 益田孝 中井三郎兵衛 談話
渋沢男 ○上略 小野組のは相場も多少ありましたが、たゞ無暗に手を拡げた、各県の為替を莫大に引受けて、唯だ金融の為替事務ばかりでなく、或は鉱山業の売買もしやう、運送もしやう、何でも御座れに
 - 第4巻 p.87 -ページ画像 
引受けた。而して又豪く外面を張つて、早く言へば懇親会とか御馳走とか、さういふ派手ツぽい事は何事に依らず先鞭を著けた。三井もそれに刺激されて、多少競争せざるを得ぬ様な姿であつた。其内に小野の方は段々、仕事が窮屈になつて、国立銀行に対しては百万円の資本は入れたが、それを皆借りて仕舞つても、まだ足らぬと云ふ事情で、三野村は……小野が潰れると困る困ると云ふ事を私共にも注意する位であつた。私の銀行経営の立場としては、三井、小野何れにも偏せぬ様にして、行かねばならぬと思つて、其態度を執りました……三井の方は国立銀行に向つて、金を借ることは余り為なかつた、小野は頻りに借りた。加之、小野には二つの大仕事があつた、金融部の方が田所町、田所町が本店だ。それから糸傘といふ方は瀬戸物町でやつて居つた、其他各地方に支店があつた。田所町と瀬戸物町との双方に向つて、確とは覚えぬが、破産前の貸高が丁度百三十万位でしたらう、田所町に向つて七十万許、瀬戸物町に向つて六十三万と云ふことを、間違つて居るか知らぬが、一寸覚えて居ります。大概は米、銅山などに対して貸した、小野は段々窮迫して来て迚も支払が付かぬと云ふので、結局破産論が起て来たのです。其時に唯単純に破産してはいけない、どんと破産して、其担保品を競売されてしまつては、銀行が堪らぬから、瀬戸物町のなどは、厳密に庫に封印を付けて……担保は取つてない……唯米は何俵と云ふ様な取り方ですから、破産前にそれ丈けの事を確定して置かぬと困るので、頻に双方に向つて心配をして、実行し様として居たが、愈愈喧ましい場合になつた。其時です、井上さんが突然私に大層な内意をして下すつたので、御自身は知らぬ様ですが、私は甚く感じて彼人は親切な人だと、毎々お話するのです。どう云ふ都合だつたか細かには覚えぬが、私が丁度今の海運橋、あれが、まだあんな家を造らぬ前で、御用所といふ者の側の方に、変な家がありました、其処に居つたのです。銀行の事務を取扱ふに就て……其家へ一日、井上さんが、何の事だつたか、ヒヨイとお出なすつた。何処へ住つてお出だつたか、其時分浜町は退いて、木挽町だつたか、麻布だつたか、何にせよ浜町の家を退いた後です、七年の十一月頃。井上さんが突然ござつて、「閑なら何処へか行かうか」と誘はれた、実は余り閑でもなかつた、併し折角の事だから……元来、能く一緒に遊びに歩くお仲間だつたから、直ぐ出掛けた。夫から柳橋に行かないで、どう云ふ訳だつたか、八百善へ行つたと覚えて居る、唯両人限で行つた。吉原や、柳橋からも芸者を招んで、調戯ひ話などをして、後になつて、真面目な話が出た。「君は銀行をどうする積りか」、「小野組に対する取引はどうなつて居る、俺は夫が心配になつて居るから来たんだ」、私もどう処置して宜いかと心配して居た時だから、私からも精しくお話した。「実は小野の方は迚もいくまいと思ひます、斯う斯う云ふ処置にする外ないと思ふが」と云つて、多少躊躇して居つた。「だがまごまごして居ると大変、夫は不都合な場合になるぞ、早く決行するが宜いぢやないか、有るべき権利は押へ、取るべきものは取つてしまはなければ、いかんぢやないか、銀行を潰して何にな
 - 第4巻 p.88 -ページ画像 
るもんか、まごまごして居ると、銀行を潰してしまふ、俺はそんな事が多少気に掛つたから、実は今日君の様子を聴きに来たんだ」と云ふので、イヤそれは誠に御親切の話です。夫で速に夫等の事に就ての決行が、私にも判断が能く付いた。夫と同時に三井との関係は如何であらう、三井はさうどうも、私の考では、潰れる程の事はなからうと思ふと云つて、三井に係る国立銀行の関係は、其時分どんな有様だつたか、それ程懸念すべき点が無かつたから、随つて記憶もしない。それから小野と三井との事に就ては御為替方といふ方の関係から、二ツか三つ組合みたいな事があつて、是はあの儘置くといかぬと云ふ事を注意をされた。私は思ふに、小野組と国立銀行との関係を、程好く整理する事の決断は、当時井上さんの注意なかりせば、或は余程躊躇したかも知れませぬ、或は時機を遅らしたかも知れませぬ。井上さんはそれを深く心配されて、どうぞ銀行を潰さしたくない、延いて将棊倒しみたいな事を、やらせたくないと云ふ注意から起つて、それとなしに、唯偶然遊び旁に擬へて来て下すつた好意であると云ふ事を後で解釈しました。真に親切な人だと思ふてひどく感じました。それが多分明治七年の小野組が大蔵省へ書面を出した、其二日か三日前でせう。或は一週間位前だつたか、其辺は確と覚えませぬ。(明治四十一年十二月三日、四十五年三月二十日)


世外井上公伝 第二巻・第五三一―五三八頁 〔昭和八年一二月〕(DK040012k-0004)
第4巻 p.88-91 ページ画像

世外井上公伝 第二巻・第五三一―五三八頁〔昭和八年一二月〕
  小野組の破錠
○上略
 公が著京後数日にして所謂小野組破産事件が突発し、明治初年に於ける経済界の一大恐慌を惹起した。小野組破産の主な原因を挙げれば第一は同組営業方法の放漫、第二は為替方抵当物件に関する規則の改正、第三が財界の一般的不況等であらう。第一の小野組の経営が極めて危険であることは、既に公が先収会社創立以来各地を巡視してゐる間に、早くも之を看破し、三井組の中心人物たる三野村利左衛門に忠告を与へてゐる。之に就いて世外侯事歴維新財政談に公は次の如く語つてゐる。
   政府を退いてから、渋沢が言ふ通り、渋沢もいろいろの実業に従事する、私も掛るからと云ふので先収会社といふ者を起した。夫が益田・馬越、それから山口の吉富簡一、こんな者を一緒にし又亜米利加人のアルウインといふ者も仲間に入つた。さうして合同でそんな事をやり出した。其時だつて銭と云つては有りはせぬが、唯もう政府の役人には、再びなるもんではない。分らぬ人を相手にして、其仲間に入つて、どうせうと言つてもいかぬと云ふ観念が強いものだから、商売人になつて種々な事をやつて見た。大阪の方へ行つたり、仙台の方へ行つたり、青森の方へ行つたり、いろいろ彼方此方歩いた。無論それは米を買ふ様な事もあり、或はそれを売る様な事もした。所が小野組といふ者が居るだネ。三井・小野、夫からもう一つ島田。さうすると馬関で米を買つたり何かするから、其筋は私には分る。小野組の出張所がやはり馬関
 - 第4巻 p.89 -ページ画像 
にある、広島にもあり、大阪にもある。実際調べて見ると、馬関で小野組のやつが、仮に米を売るぜ。売ると之を広島の小野組の奴等が買ふのだ。損をしても益をしても、何にもなりはせぬ話だらう。それから又広島の方を調べて見ると、大阪の方で売つたやつを又広島の方でそれを買つたりすると言ふ様な事を、仲間に入つてやつて居ると云ふ事を見出した。それで三野村利左衛門と云ふ者に、貴様大蔵省の御用達をして居つて小野組と一緒にやつて居るが、今どうなつて居るか、俺は知らぬけれども、まだ元の通りに相違ない。大蔵省から五十万円を三井組・小野組に預ける。さうすると三井組・小野組の連帯責任と云ふ事が俺は大蔵省に居た時からの懸念ぢやつたが、どうも此小野組はあぶないぞよと云ふのだ。之を三井の、其時主にヤリ居つた三野村といふ者に忠告した所が、「あぶないと云ふ事は如何でせうか」。「悪くすると倒れる」。「イヤそんな事はありませぬ。それはあなた先代から斯う斯う」。「イヤ先代から今迄何ぼ年限が経つたからと云つても、統一といふものが無い。故に馬関で売る米を広島の支店で買ふと云ふやうな事をして居る。益のあつた時には自分にそれを取るだらう。損のあつた時分には皆小野組に出すのに相違ないと踏んで居る」。「それはマア多少ありませうけれども、そんな御懸念はない。」と云つて、なかなか俺の言ふ事を利左衛門が信じない。それから渋沢にも、それは言ふた事がある。それは渋沢も覚えて居ると云ふ。それで遣り居つた所が、サア果して小野組が、どうも行けなくなつたのだネ。
 右の如く小野組自身の経営方法が極めて統制なく、放漫不規則で危険性があつた所へ、七年末に為替方に対する抵当物件に関する規則の改正が行はれ、これが小野組が破産を招いた直接の原因となつたのである。
 明治初年に政府は三井・島田・小野等の豪商に命じて、為替方として官金の為替取扱を行はしめたが、初め何等証拠金などの規定がなかつた。在官中公はこの不都合を見付けて、五年五月に為替方へ府県送納の租税金をも取扱はしめることにした際、一県に就き壱万円の証拠金を上納せしめたが、これが我が国に於ける証拠金徴収の初めである。尋で六年六月に預り金の質物として、公債証書・確実なる預ケ金・貸出金の証文又は家作地面地券の類を実価に見積り、その預り金の半高だけ差出し、預金高は二百万円或は百五十万円をもつて極度と限定された。それから間もなく為替規則が制定せられ、為替方の担保は公債証書又は不動産に限るものとせられ、その高は概略取扱高の三分の一又は四分の一と決定せられた。而して七年になつて、之を三分の一と確定し、次いでこの秋に預ケ金高相当の質物を取置くべきことに改められた。而もこの担保を十二月十五日までに完納せよとの厳令が発せられたのである。この担保を預リ金の三分の一から急にそれ相当の担保提供に改正し、之を短日月間の内に完納せしめることは確かに酷である。且つ公が在職中は幾分その取立にも融通を与へてゐたのに、当局がかくも強硬に出たので、為替方たる小野組にしても三井組
 - 第4巻 p.90 -ページ画像 
にしても、斉しく一大恐慌を感ぜざるを得なかつた。小野組も到底布達の如く完納の困難であることを察し、遂に十一月十八九日頃に本店を閉ざし、為替方を辞することになつた。これ公が著京早々の出来事であつて、公が予て抱いてゐた小野組破産の予測が遂に事実となつて顕れたのである。
 当時第一流の豪商として自他共に許してゐた小野組が、突如一溜りもなく破産したのであるから、経済界に及ぼした衝動は勿論甚大なものであり、其の閉店は只小野組一箇の問題をもつて止まるものではなかつた。就中同組が大株主であつた第一国立銀行は多大な影響を蒙り、将に倒壊の危機に瀕したばかりでなく、一方三井組の前途も計り知るべからざるものがあつた。元来第一国立銀行は三井小野組合銀行の後身であつて、国立銀行条例発布後に於ける我が国最初の国立銀行であることは既述の如くである。その株主は五十余名より成立してゐたが、その主なものは三井・小野の両組であつた。而して取締役として両組から夫々五名宛を之に任じ、別に総監として渋沢が実際の事務を処理してゐた。該銀行の資本金は始め百三十四万二千四百四十円と称せられたが、開業前既に小野・三井の両組は銀行から夫々二十四万二千円の巨額を借出して居り、銀行開業の時に至つても返済してゐないから、その実額は僅か八十五万四百四十円に過ぎなかつた。而も右の貸出金には何等抵当も附してなかつたし、爾来小野組は銀行の借主となつて無抵当で巨金を融通し、遂に七十一万五千円といふ巨額を銀行から借出すに至つた。
 大体第一国立銀行の内幕は、以上の如く極めて危険状態にあつたところへ、突然大株主である小野組が破産したのであるから、その打撃を免れる筈もなく三井組も亦危険に陥つたわけである。のみならずその影響を蒙つて第一国立銀行に蹉跌を来すといふことは、我が金融界の前途に暗影を投ずる重大問題である。公は如何なる手段をもつてしても我が経済界発展のため、銀行の倒壊だけは飽くまで防止せねばならぬと考へた。公は在官中国立銀行設立について少からず苦心をしたことは、第四編第一章に於て詳述した如くであるが、創立間もない第一国立銀行が万一破産の不祥に遭遇したとあつては、我が銀行業の発達にも大なる障害を齎すことであり、国家の非常な打撃である。問題は啻に三井や渋沢の身上にのみ関する小問題ではない。それで公は今在野の一賈売となつてゐるとはいへ、到底坐視傍観し得なかつたのである。併し小野組の救済は望み得る所ではない。それで一方の大株主たる三井組さへ救済すれば、銀行はとにかく倒壊とまで至らずして済む見込があつた。そこで公は一日渋沢総監を招いて先づ彼の決意を質して見た。ところが未だ確たる決心がついて居ないやうだつたから、この非常の際一刻も躊躇せず断乎たる処置に出で、銀行の倒壊を防ぐべしと激励を与へた。渋沢は公の懇切な忠告に始めて目覚め、これより大いに防止策に奔命した。公は一方渋沢を鞭撻して置いて、他方自ら政府筋に奔走し、大隈大蔵卿、伊藤工部卿等と屡々会見して、銀行救済を行はねばならぬことを力説し、その為には三井組援護が必要であるとて当局の注意を喚起した。世にこの際の公の三井組救済運動は
 - 第4巻 p.91 -ページ画像 
同組に対する私的関係からであるかの如く専ら伝へられてゐるが、十一月二十二日に公が伊藤に送つた書中に、「過日来度々御妨申上候、爾後バンクラツプ一件も存外早く相成、中々合併を分ツ間も無之候、併三ツ井組も夫々書面丈出し込み申候、以上はコンメルシャルノ為ニ、銀行ハ保護専一と奉存候、左得《(候脱カ)》ば三井組ヲ御保護無之而は防禦之術ナキハ御承知道理《(通カ)》ニ候間、何分御尽力奉祈候。」伊藤公爵家文書とあるによつても明かなる如く、銀行倒壊防止の手段として、三井組救済が必要であつたので、公の心事は至極公明であつたことが知られる。○下略


渋沢栄一 書翰 大隈重信宛(明治七年)一一月二〇日(DK040012k-0005)
第4巻 p.91 ページ画像

渋沢栄一 書翰 大隈重信宛(明治七年)一一月二〇日 (大隈侯爵家所蔵)
只今五代 ○友厚 より承り候処既ニ各県へ御達にも可相成哉之由、右ハ暫時御猶予被下候義ハ出来間敷哉、何分毎事差輳ひ実ニ困難仕候且今日ハ余程一般之人気にも差響き候勢ニ付、弥右等之御達にも相成候ハヽ或ハ三井又ハ銀行とても人之懸念を受、胸々不可歇之勢《(洶)》ニ相成候哉と苦念之次第ニ御坐候、何れ後刻罷出可申上候得共、右御猶予之処暫時御手心奉伏願候 匆々
  十一月廿日
                         渋沢栄一
    大隈参議殿


翁の直話 (古河市兵衛述) 第五五―五七頁(DK040012k-0006)
第4巻 p.91-92 ページ画像

翁の直話 (古河市兵衛述) 第五五―五七頁
  小野組の閉店
 右の生糸を初めとして、米や、鉱山などの業を拡げ、本支店共小野組の全盛を極めましたのは、明治五六年の頃でありますが、さて明治七年となつて、世間の金融が引締るに連れて、政府の御用金に対しては相当の抵当品を入れるようにといふ厳達がありました。ところが前にも話しましたやうな次第で、元々この為替金とか各省の御用金とかいふものは無期限で、殖産興業といふことを趣意としてあつたものですから色々の事業に入れて、まだ起業半ばのものもありますれば、固定の事業に入れ込んだものもありまして、中々遽にその抵当品を差出すといふことには行かなかつた。そこで、百方手を尽して挽回の途を講じましたけれども、中々大家のことでございますから内外の事情已むを得ないところからして、解散をせねばならぬといふやうな非常な場合になりました、此処は小野組一家も、私一身上に就いても、非常な関係がありますから、巨細に申述べねばならぬやうな筋合ではありますけれども、この時分の御処分なり、また、小野組一家の次第柄に就ては、詳しい事情を申上げるといふことは甚だどうも忍びないことがありますから、詳しくは申しませぬ。
 併し明治七年に閉店して、一年余りの間、大蔵省で調べを受けて、十分その間に清算をしました結果、債権者の元金に対して四割七分の返金をし、また百円以下のものは丸金を返却しました。その当時のことですから、随分閉店の場合に清算をしたんでは上結果であつたと云はなければなりませぬ、なぜならば、その時に遽に処分のあつたものですから、売却したものも、まるで二束三文にもならぬといふやうな
 - 第4巻 p.92 -ページ画像 
売り方をした、それでもまだ殆ど半額を弁償する余地があつた位ですから、遣り方に依つては、随分この小野組といふものを、維持することが出来たかとも思ひましたけれども、その当時のことに立戻つて見ますると、今言ふやうな訳には行きませぬからして、甚だ残念に考へます。


古河市兵衛翁伝 第七〇―七三頁〔大正一五年四月五日〕(DK040012k-0007)
第4巻 p.92-93 ページ画像

古河市兵衛翁伝 第七〇―七三頁〔大正一五年四月五日〕
  二人の師友
 玆に、翁の新生涯を叙する前に当つて、翁が小野組時代に得たる二人の師友に就て語らねばならない。二人の師友とは、後の子爵渋沢栄一氏と、後の伯爵陸奥宗光氏とである。
○中略
 翁と渋沢氏との交誼は、渋沢氏が野に下つて第一銀行を創設した後に於て一段の深厚を加へた。前に叙べたやうに、第一銀行が小野組に対する貸金約百四十万円の内、翁名義の貸出は約七十万円に達して居た事によつても、渋沢氏が翁の手腕に信頼した程度を知る事が出来るのである。斯かる際に小野組瓦解の凶徴がきざして、渋沢氏と小野組幹部との会見に至つた事は既叙の通りである。渋沢氏は小野善右衛門に会見した翌夜、柳橋の舛田屋に翁を招いた。其時の有様は、次の子爵の談話に悉して居る。
 『たしか、それは前夜に小野元方の連中と相談をした話の続きでした。私は古河君に対して、数年の懇親でお互に力を戮せて遣つて来たが、残念ながら今は小野の経営ではいけなくなつた。如何に君が糸店を維持する積りでも根本の小野組が潰えれば共に潰えざるを得ぬ。第一銀行も担保が十分で無いので維持し難いかも知れぬが、どう云ふやうにして呉れるかと打明け話をした時に、古河君は、小野組が倒れて私の信用が無くなつた以上は、貴君から金を借りて居る訳にも行かない、私も覚悟しませう、銀行には決して迷惑を掛けますまい。私も此処迄遣つて来て、今倒れるのは如何にも残念であるが致方ないと真に歎息されて、男泣きに泣かれた。これ迄、古河君の期する処は、渋沢が第一銀行に居る。これに相当の信用を有つて居る故、自分が発展して行くだけの財源はある。それを利用して鉱山であれ、商売であれ、各方面に無限に力を張らうとするに在つた。それが事志と違つて自分の翼を収めなければならぬのですから、古河君としても是程の失望落胆は無い。私もそれに感じて声は放たなかつたが、共に落涙した。』『その後の古河君の態度は実に見上げたもので、糸店関係の財産はすべて担保に提供し、自分は、裸一貫で追ひ出されたと云ふ世間の比喩の通りに、実に情けない有様に陥つて、小野組の跡始末をしたものです。』
 この談話にある通りに、翁は直ちに糸店の資財中、米穀、岩鉏、公債、株券、院内阿仁鉱山等を第一銀行に提供し、渋沢氏に対する言責を全うした。第一銀行創立直後の危機は斯くして無事に経過するを得た。其後、翁が草倉創業資金の融通を渋沢氏に仰いでより、明治卅六年の終焉に至る迄、翁が渋沢子爵に負ふ処は真に甚大なるものがあつ
 - 第4巻 p.93 -ページ画像 
た。


渋沢栄一 書翰 大隈重信宛(明治七年)一一月二二日(DK040012k-0008)
第4巻 p.93-94 ページ画像

渋沢栄一 書翰 大隈重信宛(明治七年)一一月二二日
               (早稲田大学図書館所蔵)
拝禀、昨日御内諭ニ付愚考奉建言候、小野組破産取纏一条尚熟考いたし、昨夜も重立候者共へ篤と説諭いたし、御預り金其外引負高大概を胸算仕候処、実ニ不容易巨額ニ有之候、尤も是迄本店支店之資産負債等取調之方法充分無之様子ニ付、素より空漠之凡積にハ候得共、先重立候者共へ推問候処にて更ニ愚見を加へ按算候ハヽ、凡左之計算と相成可申と奉存候
  一金百五拾万円也 諸省府県定額金租税金等引負高
  一金百五拾万円也 同断 利足附御預金高
  一金百万円也 華士族人民より預り金高
  〆四百万円也

 但右之外銀行借財等ハ抵当物有之候ニ付加算不仕候
右之負債高ニ対し所有物之見込高
  一金百万円也 諸方貸出金追々取立可相成見込高
  一金三拾万円也 地所家作土蔵之類諸方有高
  一金三拾万円也 公債証書之類有高
  一金拾五万円也 本店支店現在有金
  一金拾五万円也 諸道具其外器械類仕込元入金共見込
  一金拾万円也 一類並重立取扱候者家産中より差加高
  〆金弐百万円也

右之計算ニいたし候ハヽ詰り半高之有物にて百円ニ付、五拾宛之分散賦当《(円脱カ)》□《(とカ)》相成可申、尤も負債廉書之中百五拾万円ハ先取之権有之ものとして残弐百五拾万円ニ対し五拾万円之所有と相成候ハヽ、金高五分一之分散賦当と相成可申歟
右ハ敢而帳面取調候義にも無之、又重立候ものにても何分空漠にて目算□《(相カ)》立兼候由申居、三人ニ相尋候得は三様之答詞有之義ニ付、只其言語間之摸様大体之有様とにて小生之想像臆算迄ニ候ハヽ、事実取調済之上ハ大ニ相違も可相生哉ニ奉存候
右之都合ニ相成候ハヽ、先使用すへからさる金額ハ枉りなりにも償弁可相立哉ニ付、先其罪ハ軽く相成可申、乍併前書之分散法ニいたし候にハ、何分昨日申上候通り速ニ正院御伺済之上各省府県へも御達相成先諸方より御迫りハ見合せ御本省之一局にて都而御取纏相成候様ニ無之而ハ相届申間敷候、人民之預り物裁判所へ訴出候分も早々司法省へ御下命相成、都而其願書を御本省之一局へ御廻し被成、此裁判ハ司法ニ御関係無之様致度候、併人情ハ寛大之御処置にハ却而狎れ安きものニ付右様臨時至寛之御処分にても、万一本店支店等之者共心得違にて或ハ有金を散し又ハ所有物を隠密ニ埋蔵散脱等之弊無之とも難申ニ付、速ニ此裁判法御決定之上本支店共東京ハ御本省之一局、各地ハ各地方官ニ於て書類帳簿其外一切御封印被成候義迅速ニ御処置有之度候
 是ハ小生之愚案ニ候得共、随分人心ハ不可測ものニ付、表面にハ体裁を全くし、内実ハ悪計を謀り候ものも無之とハ難申哉ニ被存候
右御封印之上其帳簿其外追々順序を追御調査被成各地之分を取纏メ其中真ニ他人之品ハ其証跡ニよりて之を返却し、又追徴すへき義判然た
 - 第4巻 p.94 -ページ画像 
るものハ之を取上、負債と所有とを合計して前条之目的ニ合し候ハヽ之を分散賦当候迄にて罪科之御沙汰ハ無之様奉願候
右御取調之節抵当物直段積等ハ可成丈寛ニ御積り被下、譬ハ新債百円ハ百円位ニ御取上被下候ハヽ、たとへ前条之目的大ニ相違候とも無利足之官金丈ハ償弁を得可申歟、然時ハ前同様罪科之義ハ御宥恕被下度候、右は真ニ臆案にて敢而御見合せとも相成間敷候得共、昨夕より色色苦配之上存附候儘不取敢申上候 匆々頓首
  十一月廿二日 渋沢栄一
   大隈大蔵卿閣下
  尚々此見込書ハ全御胸算之端緒にも相成候哉と存込候儘申上候義ニ御坐候、併前ニ申上候人心不可測云々ハ只閣下丈ニ御聞置被下度、何か小人之胸臆を以て言忌嫉ニ渉り候様相成候得共、実ニ人慾ハ無限之ものニ付、又制限なかるへからすと奉存候、呉々迅速御処置有之度候
   此件秘中之秘何卒御他見被下間敷候


銀行全書 二篇 一(DK040012k-0009)
第4巻 p.94-104 ページ画像

銀行全書 二篇 一 (三井文庫所蔵)
 (朱書)
  銀行 番外
小野組御地本店閉鎖候由ニテ当地同枝店ヘモ鎮台裁判処府庁等ヨリ、突来預ケ金取調府庁ヨリ封印及候趣ニ付、不取敢当地第一銀行ヘ昨早天以来長岡隆一一同出張、当寮始メ出納寮預ケ金其他悉皆検査及候処、別表之通聊不都合無之候処、営業金ノ内同組ヘ貸高拾万弐千円之内弐万円抵当米三千石之分証書而已ニテ正米請入無之、不都合之次第取糺中ニ有之、尚又当座貸越金五万四千〇四十円之分全ク無抵当ニテ弁償難行届模様、去迚官金ヲ後チニシテ厳収候運ニモ難立至殆ト致困却候間、御地ニ於テ本店銀行御取糺相成度存候、将又同銀行預ケ官省札其外引揚札損壊札共全ク完備並三井組預ケ兌換証券準備金之義モ開拓使ヘ掛合及検査候処、別記之通別条無之、尚爾後ハ頻繁検査精緻取糺之上可申進廉モ可有之、不取敢此段御報知相及候間、委曲別記類ニテ御了承相成度候也
                   在阪
  七年十一月廿三日           岸紙幣助(印)
   得能紙幣頭殿
貸附金
貸附日明治七年十月第一日        島田組
一金三万円                期限 明治七年十二月卅一日
   抵当新公債証書六万円

同 十月第三日
一金六千円                同  同十一月三十日
   抵当 新公債証書  壱万千四百五拾円
      旧同     弐千百円
貸附日
明治七年十一月第四日
一金壱万円                期限 明治七年十一月三十日
   抵当新公債証書弐万円
 - 第4巻 p.95 -ページ画像 
   〆金四万六千円
     内金千円  明治七年十月三十日入金
  差引残金
   金四万五千円
貸附日明治七年七月十日    フイシヤレツフル 商会
一金壱万弐千円

同 七月十一日
一金壱万弐千円

同 七月十四日
一金千円
   但抵当鉄七千八百束
〆金弐万五千円
   内金四千百円  明治七年九月廿四日入
  差引残高
   金弐万〇九百円
貸附日
明治七年十一月七日     高木善兵衛
一金弐千円         期限明治七年十一月三十日
   抵当新公債証書壱万円


一金千円


一金千円

同 十一月八日
一金三千円
   抵当旧公債証書弐万円

同 十一月九日
一金五千五百円
   抵当 新公債証書 六千四百五拾円
      旧同    六千九百円
 〆金壱万弐千五百円
貸附日
明治七年八月廿二日       小野組
一金三万八千円          期限明治七年十二月卅一日
   抵当 新公債証書 六万五千円
      旧同    六万円

同 八月廿九日
一金弐万円            同 同十一月三十日
   抵当米三千石  但小野組証書ニテ

同 九月十九日
一金弐万四千円          期限明治七年二月廿八日
   抵当 新公債証書 五万四千九百円

明治七年十一月十三日
一金弐万円            同 明治七年十二月十五日
   抵当 秩禄   六千円
      新公債  三万弐千円
 - 第4巻 p.96 -ページ画像 
 〆金拾万弐千円
  総計
   金拾八万〇四百円也
   〆
右之通相違無御座候也
                 大阪支店
  明治七年十一月廿三日        第一国立銀行
  在阪
   紙幣御寮
                    (岸・朱印)
     品預リ証書            (印)
  一 米三千石也 但江州沢手米
右玄米我等所持ニ候処、此度別紙証文ヲ以金借用之抵当ニ差入候処相違無之候、然ル上ハ右米御引取可被成処、蔵所御都合ニ寄其儘我等方ヘ正ニ預リ申候、万一元利相滞候節ハ何時ニテモ右米御引取可被成候其節異論申間敷候、為後日証書依テ如件
  明治七年戌八月三十一日     西大組第一区
                   土佐堀弐丁目
                       江川重助
                   小野組名代
                       赤松豊助
                       武岡久七

    第一国立銀行
       頭取支配人 御中
                    (岸・朱印)
当座預リ金之内               (印)
貸越
  一金三千六百四拾六円       中尾氏就
    抵当四千円定期預リ証書
  一金千五百円           永見米吉郎
    抵当五千円定期預リ証書
  一金五万四千〇四拾円       小野組
    但約定ニ因テ無抵当
  一金五万円            三井組
    但右同断
総計
  金拾万九千百八拾六円
右之通無相違御座候也
           大阪支店
 明治七年十一月廿三日 第一国立銀行
在阪
  紙幣御寮

   以書面奉申上候
一金貨七千六百五拾三円六拾銭七厘
 〆
 - 第4巻 p.97 -ページ画像 
右者長崎税関戌九月中収税金之分、同港小野組印元東京同組渡リ為換券ヲ以東京出納御寮ヨリ当地ヘ本納ニ相立来リ候ニ付、右為換券ヲ以テ当地小野組ヘ金額請取方申入候処、不渡ニ付、不得已右為換券ヲ現金ニ見做御検査奉請候儀ニ相違無御座候、此段書面ヲ以奉申上候也
  明治七年十一月廿二日        大阪支店
                     第一国立銀行
   在阪
    紙幣御寮

別紙之通リ出納御寮ヘ御届奉申上候間此段御届奉申上候也
                  大阪支店
  明治七年十一月廿三日       第一国立銀行□
   在阪
    紙幣御寮

   以書面ヲ御届奉申上候

 一金貨七千六百五拾三円六拾銭〇七厘也
右ハ長崎税関当戌九月中収税金之分、同港小野組印元東京同組渡リ為換券ヲ以東京 御本寮ヨリ当地ヘ本納ニ相廻リ候ニ付、右為換券ヲ以当地小野組ヘ右金額受取方申入候所目今業体難行届旨申述候ニ付段々及掛合候得トモ不相渡ニ付、不得止右為換券一ト先東京表ヘ返戻可致候、猶本店ニオヰテ御本寮ヘ御所分ノ義相伺可申様通達可致、依テ此段御届奉申上候也
                 大阪支店
明治七年十一月廿三日         第一国立銀行
 在阪
  出納御寮

                     (朱印)
  記                   (印)
大阪御府
 一金拾壱万円       御預リ高
  内
  金三万弐千五百八拾五円     現金
        (朱書)
  金五万八千円 公債証券並    抵当物
         地券建家類
  金八千円 地券建家類      抵当物
                  定価未極
右之通上納仕御座候
  金壱万千四百五拾円       不足
右出来次第上納可仕旨被仰渡候
御鎮台
 一金五万六千円      御預リ高
  内
  金七千円            現金
          (朱書)
金四万九千円    神戸表地券類 抵当物
右之通上納仕御座候
 - 第4巻 p.98 -ページ画像 
  御裁判所
   一金壱万六千円 御預リ高
    内
                 (朱書)
    金壱万九千五拾六円五拾銭 神戸表地券類 抵当物
     (朱書)
     元金壱万円貸出抵当ニ取置地券ナリ
右之通御座候已上          大阪
  明治七年十一月          小野組□
   在阪
    紙幣御寮
     記
一金貨三万八千三百廿円
  内             但壱箱入
  五円金三万円
  壱円金八千三百円
  弐拾円金弐拾円
右準備金今日御検査ノ上御封印奉請候也
                三井組名代
  明治七年十一月廿二日       西村虎四郎(印)
   岸有憙殿

   (朱書)
   十一月廿四日上達○
 (朱印)
 
                  (朱印)
明治七年十一月廿四日 権中属 外山脩造(印)
 卿
 輔
     代理   (朱印)
    丞(印) (印) (印)   (印)(朱印)
    紙幣頭(印) 助(印) 属(印)
別紙之通第一国立銀行より届出候間供御廻覧候也
(欄外朱書)
   七年十二月廿九日 記百五十八号

(欄外)
第五百九拾八号
去十七日当銀行貸附元帳御検査之節、小野組貸金高三拾八万五千円ニ御座候処、其後追々手形取附等ニ而惣高七拾壱万五千円ニ増加仕候ニ付、右返済日限厳敷申候得共、何分返済之目途無之趣ニ付、不得已銀行条例第十一条第四節之御趣旨ニ随ひ、小野善助所持之株手形七千枚即金高七拾万円右貸金之引当ニ請取置申候、同組之内古河市兵衛貸金ハ惣高六拾八万千九百円之処、追々取纏六拾七万四千五百七拾円ニ相減シ、且引当品も精々取入当時米四万九千七百五拾六石八斗九舛、岩鉏三拾四万弐千貫目、新公債証書壱万三千五百円、外ニ羽州秋田院内鉱山並諸建築、及諸器械出銅共悉皆合金五拾七万円余之分有之、残拾万円余ハ前件之振合を以て同人所持之株手形千枚、即金高拾万円根引当ニ引取有之候間、此段更ニ御届申上候也
 - 第4巻 p.99 -ページ画像 
                       (朱印・東京第一国立銀行)
                       
  明治七年十一月廿四日         第一国立銀行
    須藤紙幣助殿
(朱書)
第五百八十八号
                        (朱印)
明治七年十一月廿九日       権中属 外山脩造(印)
  (朱印)  (朱印)           (朱印)
  頭(印) (印)  助 (印) 属(印)
別紙之通第一銀行ヨリ届出候間供高覧候也

第六百弐拾弐号
    御届書
当銀行大阪支店ヨリ同所小野組出店ヘ貸附金高並抵当品之義、別紙調書之通一昨廿七日同所支店ヨリ申越候ニ付、写相添此段御届申上候也
                        (朱印)
                        
  明治七年十一月廿九日          第一国立銀行
    得能紙幣頭殿

   大阪支店ニ於テ同所小野組出店ヘ貸附金調書
貸附日
明治七年八月廿二日
一金三万八千円也          期限明治七年十二月三十一日
 抵当 新公債証書 六万五千円也
    旧同    六万円也

同 八月廿九日
一金弐万円也            期限明治七年十一月三十日
 抵当 米三千石          但証書ニテ取置候趣
貸附日
明治七年九月十九日
一金弐万四千円也          期限明治八年二月廿八日
 抵当 新公債証書五万四千九百円也
一金弐万円也            期限明治七年十二月十五日
 抵当 秩禄公債証書 六千円也
    新公債証書  壱万〇四百円也
 〆金拾万弐千円也
当坐貸越高
一金五万四千〇四拾円也
総計
 金拾五万六千〇四拾円也
右之通御坐候也
                       (朱印)
                       
  明治七年十一月廿八日         第一国立銀行

(欄外)
第五百七十一号
                       (朱印)
 明治七年十一月廿九日   十四等出仕 大倉戒三(印)
   (朱印)   (朱印)         (朱印)
   頭(印) (印) 助 (印) 属(印) (印)

第一国立銀行ヨリ小野組並古河市兵衛ヘ貸附金之抵当物並其証書写共
 - 第4巻 p.100 -ページ画像 
取調差出候ニ付共電覧候也

第六百拾四号
    御届書
兼テ申上置候当銀行ヨリ小野組並古河市兵衛其他之貸附金尚詳細取調申候処、別紙証書写之通ニ御座候、依テ写相添此段申上候也
                       (朱印)
                       
  明治七年十一月廿七日         第一国立銀行
   得能紙幣頭殿

    小野組並古河市兵衛ヘ貸附金調書

(朱書)
第壱号写之通
一通帳差引高金七拾壱万五千円       小野組
   此引当
    当社株券七千枚

(朱書)
第弐号写之通
一通帳差引高金弐拾四万七千八百弐拾円   古河市兵衛
   此引当
    米壱万五千弐百拾七石八舛       浅草深川別紙蔵附通
    同壱万〇六百四拾石七斗        同断別紙調通リ商社掛米
    当社株券千枚

(朱書)
第三号写之通
一金拾七万也     但証書貸     古河市兵衛
   此引当
     米九千弐百拾四石壱斗壱舛
    米壱万〇弐百石         但 青森船川港ヨリ追々廻米之分
    米千六百石           但 大阪支店ヘ越後ヨリ廻米分
    米弐千八百八十五石余      右 同断
    岩鉄三拾四万弐千貫目      但 浅草深川別紙蔵附通

(朱書)
第四号写之通
一金弐拾五万円也 証書貸 古河市兵衛
   此引当
    秋田県下阿仁院内銅銀山並附属諸山加護山吹所其他向山銀山始五ケ山並右山々一切ノ器械家屋及諸道具諸物品従来仕込有之候有形之儘且山々ヨリ出鉱物ハ現今山々ニ有之分ハ勿論船川港ヘ出荷ニ相成候分トモ悉皆抵当ニ差出候事

(朱書)
第五号写之通
一金六千七百五拾円也 別証書貸 古河市兵衛
   此引当
    新公債証書壱万三千五百円
右東京本店ニテ貸附分
    大阪支店ヨリ小野組ヘ貸附金
 - 第4巻 p.101 -ページ画像 
一金三万八千円
一金弐万四千円
一金弐万円
  右三口引当ハ公債証書及地券
右公債証書地券員額ハ追テ取調之上記入可仕候事

一金弐万円
   此引当
    米三千石
右大阪支店ニテ貸附分

   横浜支店ヨリ小野善三郎ヘ貸附分
一金弐万五千円
   此引当
     地所家作
右通御座候也
                       (朱印)
                       
  明治七年十一月廿七日         第一国立銀行

(朱書)
第壱号証文写
   通帳差引高
一金七拾壱万五千円也
右之残高返済之目途不相立候ニ付、小野善助所持之株高七千株、即今七拾万円ヲ右借用金之抵当ニ差入、株手形御引渡申候間、其銀行ニ於テ可然御所分有之度候、依テ証書如件
               借主   小野善治郎
 明治七年十一月十九日    引請証人 小野善助
               証人   小野善右衛門
               同    行岡庄兵衛

(朱書)
第弐号証文写
   通帳差引高
一金弐拾四万七千八百弐拾円也
  此抵当
   金拾四万円也       米穀別紙
                 蔵附之通
   金拾万七千八百廿円也   古河市兵衛株券
                 千枚金高拾万円也
右之差引残高即今何分返済目途相立兼候ニ付前書抵当之米穀並ニ拙者名前株手形トモ御引取之上可然御処分有之度候、為後証依テ証書如件
             借主   古河市兵衛
明治七年十一月十九日   引請証人 小野善助
             証人   難波藤七

   借用金証書之事
一金拾七万円也
   此引当
    米穀弐万石        東京並秋田船川湊青森港ニ蔵置有之候分共別紙調書之通リ
 - 第4巻 p.102 -ページ画像 
    米四千四百八拾五石    大阪土佐堀江川重助方ヘ売払之為メ回漕候分別紙調書之通リ
    岩鉏三拾四万弐千貫目余  蔵附共別紙調書之通
前書之金子正ニ請取借用候処実正也、右金返済之儀ハ来ル十二月限リ金子調達返納可申候、万一金子調達致兼候節ハ書面引当之米穀嵓鉏共銀行ヘ御引取御売払可被成候、尤大阪表ヘ廻漕米ハ売払之為メ土佐堀江川重助方ヘ相廻シ置候儀ニ付、同表銀行支店ニ於テ直ニ右米売払代金御請取被下度、右之趣ハ当方ヨリ江川重助ヘ申越置候間則書面写共相差出申候、右之通リ聊相違無之候、為後日借用証書依テ如件
                   小野組代理
  明治七年十一月十八日    借主  古河市兵衛印
                   同
                証人  難波藤七印
   第一国立銀行
     頭取支配人 御中

   副証書
米穀壱万石余             但浅草御蔵ヘ積置候分
  此俵員三万九百三拾七俵      深川富士蔵ヘ同断
 米穀四千石             秋田県下船川湊ニ積置候分
 米穀六千弐百石           青森湊ニ積置候分
  〆弐万〇弐百石
大阪廻シ
 米千六百石             越後新潟港ヨリ廻漕米土佐堀江川重助預リ分
  此売払代金壱万千五百弐拾円也   壱石ニ付七円廿銭売直
 米穀弐千八百八拾五石余 当十一月十一日同十五日東京表ヨリ蒸気千里丸ニテ積送候分
   但八千四百俵
 合計弐万四千六百八拾五石余
右之通米穀蔵置石高並大阪表ヘ廻漕共相違無之候也
                        (朱印)
  明治七年十一月十八日       古河市兵衛(印)
   第一国立銀行
    頭取支配人 御中

一書啓上致シ候、然ハ当十一月中蒸気千里丸外壱艘ニテ其表ヘ積送候米穀弐千八百八拾石余、並越後柏崎湊ヨリ廻漕ニ相成候米穀千六百石共第一国立銀行ヘ借用金抵当品ヘ差出置、右売払代価ハ直ニ同表ニ於テ貴殿方ヨリ銀行支店ヘ相渡候筈約定致候ニ付、右之趣ハ銀行支店ヨリ貴殿方ヘ御引合モ可有之候間、右様御承知銀行支店ヘ売払代金御渡有之度此段申進候也
  尚々越後米ハ売払ニ相成候趣電信承知致シ候、其他モ売払次第至急御申越有之度候也
   十一月十八日 古河市兵衛
    江川重助殿

(朱書)
第四号証書写
   借用金証書之事
 - 第4巻 p.103 -ページ画像 
一金弐拾五万円也
  此引当物件
  拙者許可ヲ受ケ稼方致居候秋田県下阿仁院内銅銀山、並附属諸山加護山吹所其他向山銀山始五ケ山並右山ニ一切ノ器械家屋及仕送リ諸物品ハ、従来仕込有之候有形之儘ヲ以テシ、且山々ヨリ出鉱物ハ現今山内ニ有之候分ハ勿論船川港ヘ出荷ニ相成候分トモ、別紙之通出鉱物仕込物品月表並調書ニ従ヒ悉皆抵当ニ差出候事
前書之金子正ニ請取借用候処実正也、右金返済之儀ハ明治八年三月限リ金子調達返納可申候、万一期限ニ至リ金子調達致兼候ハヽ書面引当之諸鉱山官許年限中之株式始山々ニ附属有之候家屋諸器械仕込物品並出鉱物トモ別紙調書之通悉銀行ヘ御引取之上、御売払被成候トモ又ハ他人ヘ御譲ニ相成候トモ銀行之御処分ニ可被成候、最モ現今此諸鉱山ニ付他借等ハ一切無之候、仮令此後ニ至リ候共諸鉱山並附属諸物品出銅等ヲ引当トシテ決テ他方ヨリ金子借用致申間敷候、為後証借用証書如件
 明治七年十一月十八日       小野組代理
               借主  古河市兵衛(印)
                  同
               証人  難波藤七(印)
   第一国立銀行
    頭取支配人 御中

   借用金証書
一金六千七百五拾円也 但 利息月壱分
  此引当新公債証書壱万三千五百円
前書之金高正ニ請取借用候処実正也、右金返納之義ハ当十二月限リ調達可致候、万一期限ニ至リ調達致兼候節ハ書面抵当之公債証書其銀行ヘ御引上、名前御書換之上御扱有之度、為後証依テ如件
  明治七年十一月十九日         古河市兵衛
   第一国立銀行
    頭取支配人 御中

  第弐第参号証文内訳○略

(朱書)
第四百廿二号
                         (朱印)
明治七年十二月十八日       権中属 外山脩造(印)
   (朱印)     (朱印)         (朱印)
  頭(印) (印) 助 (印) (印) 属(印) (印)

第一国立銀行ヨリ別紙之通大阪出店ニ於テ同所小野組出店エ貸付金証書類取調届出候間、供御回覧候也

第六百八十七号
    御届書
当銀行本支店ヨリ小野組本支店エ貸附金之義ハ、既ニ調書ヲ以テ御届申上置候処、大阪当銀行支店ヨリ小野組同所出店江貸附金証書写取調今般差越候ニ付、写ヲ以テ御届申上候、尤右貸金之内第二号証書二万
 - 第4巻 p.104 -ページ画像 
円之抵当米三千石、並第四号証書写二万円之抵当秩禄公債証書、新公債証書、神戸地券右二廉抵当品ハ小野組出店之都合有之、小野善太郎所持之当銀行株券四百枚、即四万円ト引換之義申込候ニ付、右申込之通リ引換候旨申越候、右ニ付先般申上候抵当品トハ相異リ候儀ニ御座候、依之此段御届申上候也
                        (朱印)
  明治七年十二月十七日       第一国立銀行□
    得能紙幣頭殿
  尚々本文小野善太郎株券ハ全ク同人所有候物ニテ、先般小野組本店ヨリ当銀行エ抵当ニ致置候分トハ別廉ニ御座候、此段為念申上候也

○別紙略

(欄外)
   七年十一月廿九日 記百五十一号
                 紙幣頭 得能良助《(得能良介)》
                          (朱印)
                        代理(印)
    卿
     (朱印)
    輔(印)
      (朱印)
     丞(印)

(朱書)
十一月廿七日上達○
(欄外記事)
十一月廿九日正院ヘ卿大丞持参
今度小野組閉店ニ付テハ第一銀行之義も如何可有之抔と人心洶々之評も不少候ニ付、不取敢検査トシテ同銀行ヘ紙幣権頭渡辺弘外三名出張致シ取調候処、同組貸出金之儀は夫々抵当取置有之、銀行之損失とは相成不申、今後営業差支不申趣ニ有之候間、人心鎮制之為メ右次第御布達相成候様仕度、依之正院ヘ之御伺案並御布達案取調左ニ相伺候也

   第一銀行営業之儀ニ付伺
今度小野組閉店ニ付而は、第一銀行之義も如何可有之哉と不取敢紙幣寮官員指出シ検査為致候処、同組ヘ貸出金之義は夫々相当之抵当物取置有之、同銀行之損失ニハ相成不申、今後営業指支無之趣ニ付テハ人心鎮圧之ため別紙之通布達可及と存候、因テ布達案相添此段相伺候間至急御指揮被下度候也
  月 日             大蔵卿 大隈重信
    太政大臣 三条実美殿

  布達案
今度小野組閉店ニ付第一国立銀行之義も如何と疑懼致候輩も有之哉ニ候得共、夫々紙幣寮官員指出シ検査を為遂候処、小野組閉店ニ付聊同銀行損失も無之、従前之通営業無指支候間何れも疑念なく取引可致、此段布達候事
(朱印) 松方(印) 隋(印) 熊谷(印) 北村(印)
   (下紙)
    云々。紙幣寮官員差出シ夫々検査ヲ為遂候処右銀行ニ於テ従前之通営業聊差支無之候条此旨布達候事
    右之通末文御仕替相成候方可然存候事
                     (朱印)
                 臨時取調掛(印)《》

 - 第4巻 p.105 -ページ画像 

明治史要 上 第三九六頁(DK040012k-0010)
第4巻 p.105 ページ画像

明治史要 上 第三九六頁
二十二日○十一月是ヨリ先、官金ヲ三井、小野二商会ニ委付ス。本年ニ至リ其抵当ヲ加徴ス。三井命ヲ聴キ、小野弁スルコト能ハス。囚テ其業ヲ罷メンコトヲ請フ。是日第一国立銀行ヲ以テ之ニ代ヘ、遂ニ小野商会ノ財産ヲ収ム。(太政類典、産業・商業)


国立銀行書類 従明治五年至九年(DK040012k-0011)
第4巻 p.105 ページ画像

国立銀行書類 従明治五年至九年 (東京府文庫所蔵)
  御届書
当銀行役員之内左之通リ
              頭取   小野善助
              副頭取  小野善右衛門
              取締役  小野助治郎
              同    行岡庄兵衛
              支配人  江林嘉平
今般免役致シ候ニ付此段御届申上候也
 明治七年十一月廿四日         第一国立銀行
 東京府知事 大久保一翁殿
  ○
  頭取取締役誓詞御消印之儀願書
当銀行役員頭取小野善助始外三人今般免役イタシ候ニ付、本年二月奥書相願置候頭取取締役誓詞御消印被成下度、依而誓詞相添此段奉願上候也
  明治七年十一月廿九日        
                  第一国立銀行
  東京府知事
    大久保一翁殿


第一国立銀行半季実際考課状 第三回〔明治七年下期〕(DK040012k-0012)
第4巻 p.105 ページ画像

第一国立銀行半季実際考課状 第三回〔明治七年下期〕
小野組ヨリ各所御為換方御用御赦免ノ儀大蔵省ヘ願出候ニ付従来同組ニ於テ取扱罷在候各府県ヘ公納金其外差向当銀行エ御預可相成旨大蔵省ヨリ御達ニ付御用命之県々ハ取扱手続廉書ヲ以テ申立日々手代ヲ差出シ出納御用取扱罷在候
島田組ニテ御用取扱来候県々岡山鳥取小田山梨名東北条之諸県ヘ大蔵省ヨリ御達ニ相成右県々出張所御預金取扱之儀当銀行ヘ御下命相成申候
○中略
小野組御処分ノ儀都テ大蔵省ヘ御委任相成候ニ付当銀行本店出店ヨリ同組並古河市兵衛ヘ貸附金抵当品並証書類等詳細取調上申イタシ抵当品売却等ノ儀ハ都テ勘査局ヘ伺済ノ上精密取扱罷在候
○下略


渋沢栄一 書翰 五代友厚宛(明治八年)三月二八日(DK040012k-0013)
第4巻 p.105-106 ページ画像

渋沢栄一 書翰 五代友厚宛(明治八年)三月二八日 (五代竜作氏所蔵)
爾来愈御清迪奉賀候、先頃ハ尊翰御恵投且御代理岩瀬君にも拝晤来諭
 - 第4巻 p.106 -ページ画像 
之件ハ委細拝承仕候、御所持株之内半高又ハ何部分減方之義ハ何分銀行条例も有之只御都合ニより減高とも難申、尤も小野組御処分相立候上ハ凡百万円ハ減方いたし候方可然との一同考案ニて、予メ其段紙幣寮へも申立ハいたし置候得共、未タ小野組之御処置も不相済、且相済候とて同家之株にて百万以上有之義ニ付、尚其上ニも御所持株を減し候との義ハ一同衆議之上ニ無之而ハ如何有之哉奉存候、併弥御売払にも被成度義ニ候ハヽ、猶望人有之次第精々譲渡の手配も可仕候、又是非御減被成度候ハヽ当七月中株主方御会同之節小野組之御処分相済候上前書百万之外にても尚減方割合御評論相成御協議之上ハ何れにも相成可申歟、乍併此減株ニ付一種之難事ハ既ニ右株ニ付金札引換公債証書相願有之処、今減株ニ付其証書返上と申訳にハ相成間敷、然時ハ縦令減し方相成候とも詰り通貨ニて皆金引取候義ハ出来兼高六分通りハ公債証書と相成可申六分利ニ付右にてハ折角減し候而も其効如何と奉存候、右等之都合御代理之方へも申上候得共、何卒御考案被下度候、尤も昨年中より世間大不景気ニて大蔵省ハ引続き御取締向厳重ニ有之、何事も思ふよふにハ行届兼預ケ金をいたし候者も追々引出し候姿ニ付、先以て銀行之困難ニ立至り候得共、頻ニ心配いたし漸取続申候、此程ハ少しハ人気も立直り候哉、預ケ金抔も稍相増候様子ニ相成候ニ付、此所一両年辛抱いたし候ハヽ回復之期も可有之哉と奉存候、小生も切角従事仕候銀行之義ニ付実ニ苦心、是非維持いたし度と紙幣頭殿抔にも厚く申立、一念勉力候間其辺ハ御降心可被下候、東京一般之景気実ニ寂寥商人之大困苦ニ御坐候、併米ハ不相替高直別ニ目ニ触候事にハさして難渋と相見不申候、只商売向ハ可憐之有様ニて大商人も追々戸を締候様之勢ニ御坐候、貴地之御摸様如何御坐候哉、支店之所も心配ニ付来月頃ハ一寸罷出申度と相考申候、右来諭之報答迄匆々如此御坐候、何れ其中拝晤前件之事情緩々可申上候 頓首謹言
  三月廿八日
                      渋沢栄一
    五代松陰様
  尚々、小野御処置も色々御面倒之由一同も困苦いたし候、併大蔵省之御摸様ハ近々落着之運ニ被存候
  大坂下之新議論ニて頃日ハ廟上何か色々御取込之由、右ニ付諸事運歩不宜銀行抔ハ大ニ困り入申候


渋沢子爵家所蔵文書 【第一国立銀行より小野組本支店及古川市兵衛[古河市兵衛]へ貸附金並抵当品代価凡積差引調書 明治八年五月二日 第一国立銀行】(DK040012k-0014)
第4巻 p.106-108 ページ画像

渋沢子爵家所蔵文書
  第一国立銀行より小野組本支店及古川市兵衛[古河市兵衛]へ貸附金並抵当品
  代価凡積差引調書 但利足金ハ八年四月三十日迄之計算
     東京銀行本店より小野組本店へ貸金
一金千弐百七拾七円五拾七銭三厘 長崎出店印元為替金不渡リ分 但為替口預リ高差引残
     大坂支店より同地出店へ貸金
一金貨三万八千円        明治七年八月廿二日貸渡利足月六朱
 右利足金千七百六拾三円廿銭内 金千〇〇三円廿銭七年分月六朱
                金七百六拾円 八年分年六分
  抵当 新公債証書高六万五千円  五拾八円之見積リ
      代金三万七千七百円
     旧公債証書高六万円    拾七円之見積
      代金壱万〇弐百円
 - 第4巻 p.107 -ページ画像 
 元利差引
     〆金八千百三拾六円八拾銭      返上
一金弐万円           明治七年八月三十日貸渡ス
                利足月九朱
 右利足金千百四拾四円   内 金七百四拾四円 七年分 月九朱
                金四百円 八年分 年六分
 抵当 銀行株券弐万円 代金弐万円
 元利差引
     〆金千百四拾四円          不足
一金弐万四千円         明治七年九月十九日貸渡
                利足月六朱
 右利足金九百七拾九円廿銭 内 金四百九拾九円廿銭 七年分 月六朱
                金四百八拾円    八年分 年六分
 抵当 新公債証書高五万四千九百円  五拾八円之見積リ
    代金三万千八百四拾弐円
 元利差引
     〆金六千八百六拾弐円八拾銭     返上
一金弐万円           明治七年十一月十二日貸渡
                利足月九朱
 右利足金六百九拾四円   内 金弐百九拾四円 七年分 月九朱
                金四百円    八年分 年六分
 抵当 銀行株券弐万円代金弐万円
 元利差引
     〆金六百九拾四円          不足
一金五万四千〇四拾円 無抵当  当座通帳ヲ以貸越高
                利足年九朱
 内金三千円長崎出店ヨリ当座預リ金有之候ニ付本文貸越高之内ヘ請取
 残金五万千〇四拾円ト相成ル
 右利足金弐千百三拾四円五拾八銭 内 金千〇五十三円七十八銭 七年分年九朱
                   金千〇八十円八十銭八年分年六分
 元利差引
     〆金五万三千百七拾四円五拾八銭  全不足
     横浜支店ヨリ同地出店ヘ貸金
一金弐万五千円         明治七年十一月廿日貸渡
                利足一日金高弐千分ノ一三厘日歩
 右利足金千〇弐拾五円   内 金五百弐拾五円七年分三厘日歩
                金五百円 八年分年六分
 抵当 横浜南仲通リ五丁目地所及西洋煉化造建家並土蔵共一式凡代価金壱万五千円
 元利差引
     〆金壱万千〇弐拾五円        不足
 元金
   〆金拾八万弐千三百拾七円五拾七銭三厘
 利足
   〆金七千七百三拾九円九拾八銭
 合金高拾九万〇〇五拾七円五拾五銭三厘
  内
   金千六百三拾六円     小野善太郎銀行株金五万円之内四万円分
                七年下半季利足金預リ
   金拾三万七千七百四拾弐円 抵当品売払凡代価見積リ及預リ金共
 差引残金五万〇六百七拾九円五拾五銭三厘   不足
     銀行本店ヨリ古川市兵衛[古河市兵衛]ヘ貸金
一金拾七万円          明治七年十一月十八日貸渡
                利足一日金高三千分ノ一弐厘日歩
一金弐拾四万七千八百弐拾円   右同断通帳ヲ以貸渡分
                右同断
右弐口利足金壱万四千四百八拾四円四拾弐銭六厘
   内 金六千百弐拾八円〇弐銭六厘 七年分 弐厘日歩
     金八千三百五拾六円四拾銭 八年分 年六分
 抵当 岩鉏弐拾八万七千四百〇四貫六百目余
  代金弐万弐千円余      壱円ニ付拾三貫目替之見積リ
 米九千石余        内 四千八百石余青森 三千百五拾石程
                石ノ脇 千五拾石 船川
 - 第4巻 p.108 -ページ画像 
 代金三万八千三百四拾五円   地払石ニ付 四円廿五銭之見積
 銀行株券拾万円
 代金拾万円
 米四千四百八拾五石余     大坂土佐堀江川重助方ヘ廻米相成候分
 代金弐万九千四百弐拾八円余  大坂小野組出店ヘ江川ヨリ繰込有之分
 〆金拾八万九千七百七拾三円
 金弐拾三万八千四百四拾八円六拾四銭九厘
  是ハ抵当品之内東京ニ有之候米並岩鉏延鉄売払代金ニ而追々御預ケ相成候分
 元利差引
     〆金四千〇八拾弐円七拾七銭七厘   不足
一金弐拾五万円         明治七年十一月十八日貸渡
                利足一日金高三千分ノ一弐厘日歩
 右利足金八千六百六円六拾六銭六厘 内 金三千六百六十六円余七年分弐厘日歩
                    金五千円 八年分年六分
 抵当 秋田県下鉱山出品及附属品共一式
  凡代金弐拾五万円余之見積
 元利差引
     〆金八千六百六拾六円六拾六銭六厘  不足
一金六千七百五拾円       明治七年十一月十八日貸渡
                利足一日金高三千分ノ一弐厘日歩
 右利足金弐百三拾四円   内 金九拾九円 七年分 弐厘 日歩
                金百三十五円 八年分 年 六分
 抵当 新公債証書高壱万三千五百円  五拾八円之見積リ
    代金七千八百三拾円
 元利差引
     〆金八百四拾六円          返上
 元金
   〆金六拾七万四千五百七拾円
 利足
   〆金弐万三千三百八拾五円〇九銭弐厘
 合金高六拾九万七千九百五拾五円〇九銭弐厘
  内 金四千〇九拾円     古川市兵衛[古河市兵衛]銀行株金拾万円
                七年下半季利益金預リ
    金六拾八万六千〇五拾壱円六拾四銭九厘 抵当品売払凡代価見積リ及米其外売払代金預リ共
 差引残金七千八百拾三円四拾四銭三厘 不足
     小野組本支店及古河分共合計不足金左ニ
 金五万八千四百九拾弐円九拾九銭六厘 不足
右者代価凡積リヲ以計算相立候ニ付実地売払候節ハ加不足相生シ可申候、且四月三十日迄之利足積リニ付五月一日ヨリ之利足猶又加算相成申候也
  明治八年五月二日
                    第一国立銀行


第一国立銀行半季実際考課状 ○第四回〔明治八年上期〕(DK040012k-0015)
第4巻 p.108-109 ページ画像

第一国立銀行半季実際考課状
  ○第四回〔明治八年上期〕
当銀行ヨリ小野組ヘ貸付金七拾壱万五千円ノ抵当ニ請取リタル小野善助株高七拾万円、並ニ之ニ生スル利益金ヲ以テ右貸金打切消却ノ儀ハ大蔵省勘査局ノ許可ヲ得テ簿記其外紙幣寮ヘ伺済之上精算相立申候
○中略
右ハ明治八年一月以後六月迄半季実際考課状並別紙報告共相違無之、
 - 第4巻 p.109 -ページ画像 
且此半季実務施行之順序ハ充分ノ都合ニシテ発行紙幣流通高ノ減少及為換会社、古河市兵衛等貸金利息ノ滞モ有之候得共、相応ノ利益ニ有之、追々当銀行ノ確実繁盛ヲ徴スルニ足ルコトナレハ、株主各位ニ於テモ之ヲ満足セラル可キコトト思考致シ、併セテ之ヲ株主各位ニ祝シ候也

第一国立銀行半季実際考課状 ○第六回〔明治九年上期〕(DK040012k-0016)
第4巻 p.109 ページ画像

  ○第六回〔明治九年上期〕
当銀行横浜支店ヨリ小野組出店ヘ貸附金抵当流込相成候同所南仲通五丁目地所家屋ヲ吉田幸兵衛ヘ貸渡約定ノ儀ハ二月八日紙幣寮ノ乞允裁貸与結約致シ候


竜門雑誌 第二五三号〔明治四二年六月〕 ○明治五年の財界(承前)(青淵先生)(DK040012k-0017)
第4巻 p.109-110 ページ画像

竜門雑誌 第二五三号〔明治四二年六月〕
  ○明治五年の財界 (承前) (青淵先生)
○上略
▲小野組の破綻と第一銀行 所が七年が過ぎて突然大打撃を受けたのは彼の小野組閉鎖の影響である、小野組は三井と同じく其の同族が集つて今の合資会社的の組織で経営して居たが其事業は各地の為替御用、県の出納を始め一方には生糸もやる鉱山もやると云ふ様な風に盛んに手を伸して三井と競争をする、其の実力は三井より乏しいのに三井より派手に頗る華美なる経営をした、又一方の古河市兵衛は矢張り小野組の片割れで生糸・鉱山・種紙・米・斯う云ふやうな商売をやると云ふので本店の方で銀行事業為替方をやつて居るのと本店以外に古河の手でやる仕事と双方に向つて第一銀行は大分融通して居つた、所が七年の秋頃から段々金融塞迫して担保品も無くなつて来るやうになつて遂に支払を停止するの悲運に迫つた、若し是れが不都合なことになると小野の為に銀行は潰れて仕舞ふことになる、小野を助けやうか三井の方では小野の為に銀行を潰されては困ると云ふ、小野を見殺しにして仕舞ふが宜いか、銀行の成立に付ては重もなる株主であるから商売としても又銀行の為に謀つても見殺にするやうなことをしてはならぬ、実は中に入つて取捨進退に頗る困つた、其時には寧ろ政府の役人をして居つたらこんな苦しみはなかつたらうと思ふた位であつた、明治六年に銀行者になつて総監役の位地に立つて頭取から支配人、甚しきは小使までもすると云ふ位に勉強して、政府に対することは私が一人で引受け三井と小野の調和までもせねばならぬ、皆な一人で処理して来た、これも先づそれ程困難ではなかつたが小野組の挫折と云ふ場合には大に心配した、それでどうしても立行かねば早く諦めさせるより外はないと思つて小野善右衛門、古河市兵衛其他の人と親密に相談をして銀行の方には漸くにして完全なる担保を提供させたが小野組はどうしても計算が立たぬと云ふので大蔵省に歎願書を出して終に支払を停止した、其れが為めに銀行ではそれが処分の済むまでは金融が固定して一時は困りはしたけれども其時には小野組との取引は総体で百五六十万円あつたやうに覚えて居るが、其中僅かに七千幾らの損失があつたのみで甚だしい迷惑は受けずに済んだ、是れが創業早々の大打撃で、其の時分には殆ど銀行は潰れはしないかと思はれる位であつた、併し結局はえらい迷惑を受けず其為に利益配当が出来ぬと云ふこ
 - 第4巻 p.110 -ページ画像 
ともなくて其の損害も其時に償却して公明正大な計算を発表することが出来たのである。
   ○第一国立銀行ヨリ小野組ヘノ貸附金ハ銀行全書及ビ渋沢子爵家所蔵文書ニヨレバ利息ヲ算入セザルモ金九拾万参千六百九拾参円六拾銭七厘ニシテ、之ニ古河市兵衛名儀ノモノ金六拾七万四千五百七拾円ヲ加ヘ小野組ヨリ同行ヘノ預金九千参百七拾六円参銭四厘ヲ差引ケバ、貸金総額ハ百五拾六万八千八百八拾七円五拾七銭参厘ナリ。之ニ対シ抵当ノ見積概算ハ百五拾参万円ニシテソノ中ニハ第一国立銀行株券八拾四万円ヲ含ム。
   ○第一銀行五十年史稿ニハ同行ヨリ小野組ヘノ貸附金ヲ百参拾八万余円トナセリ。按ズルニ渋沢子爵家所蔵文書中ノ小野組ヘノ貸附金拾八万余円ヲ脱セルナルベシ。
   ○明治七年十二月二日、同年十二月三十一日、同八年七月十一日、同年八月一日ノ各条(本巻一三二頁・一三九頁・一五六頁・一六八頁)ヲ参照スベシ。



〔参考〕刀筆余塵(DK040012k-0018)
第4巻 p.110-114 ページ画像

刀筆余塵 (中出一氏所蔵)
  小野組負債処分ノ儀ニ付意見書
小野組事項ノ勘査タルヤ先ツ官民ノ預金ヲ通算シ、負債ノ総額ヲ精覈ニシ所有ノ動不動産及ヒ貸付金ヲ調査シ、財産ノ部類ヲ綿密ニシ、事故ナキモノハ大概売却或ハ取立、該集合ノ金員ヲ以テ既ニ客歳中官民債主ヘ対シ公平ニ第一回ノ分配畢リシ後チ、尚残品売却方並貸金取立方等間断ナク厳談督責スト雖モ万般ノ事項紛錯シテ各府県下ニ散乱スルモノ殆ント列星ノ如ク故ニ只手数ノミナラス事実ノ煩雑ナル推シテ知ルヘシ、去レトモ物品ノ如キハ稍売却ニ至リシ故現今ニ存在セシモノハ僅々屈指スルニ過キサレトモ、貸金ニ至テハ種々ノ事故アリテ何分俄ニ取立難ク、又諸物件ハ成ヘク丈ケ価格ヲ損セサル様頗ル注意ヲ加ヘ売却スト雖モ、多数ノ内ニハ衆庶ノ入札ヲ欲セサルモノアリ、之ヲ勉メテ売ントスレハ格外ノ低価等ニテ当初ノ概算ニ相違スルモノ尠カラス、斯ノ如ク輙ク施行スヘカラサル事由アルヲ以テ千思万考専ラ有益ニ着眼シ、時ニ臨ミ機ニ投シ、便益其宜ヲ謀リ、漸クニシテ第一回分配後現今迄ノ徴収金凡七拾弐万円余ノ概算ヲ得タリ、之レヲ以テ一般債主ヘ分賦ノ所分ヲ為シ、当局ノ取扱ヲ完了セントス、依テ従来取扱フ処ノ実況ニ付各債主ノ為メ償却法ノ得失ヲ論シ、併セテ意見ヲ陳述ス
一小野組総負債ハ別紙概表ノ通リ金七百有余万円余ノ内、抵当ヲ要セシ債主特占ノ金員及未届ノ分等ヲ除キ、金五百参拾六万円余ナリ、此内金百八拾七万円余ハ第一回ノ分配(歩合三分五厘即チ百円ニ付三拾五円ノ割)トシテ已ニ償却シ、残テ三百四拾八万円余ナリ




小野組計算表ノ凡例ニ残負債凡三百五拾万円余ニ掲載セシハ閉店後債主ヨリ届出サル金員迄ヲ籠メシモノナレトモ此際分配スヘキ負債ノ残額ハ本文ノ如シ







一第一回分配後現今迄徴収スル金員凡七拾弐万円ヲ以テ負債ノ元額五百参拾六万円余ヘ対シ、官民平等ニ分賦スルトキハ壱歩三厘四毛余(即チ百円ニ付拾三円四拾三銭余)ノ歩合ヲ得、之ヲ第一回分配ノ歩合ト併算スレハ四分八厘余(即チ百円ニ付四拾八円四拾三銭余)ノ償却ニ該ル、而シテ五歩壱厘余ノ残額即弐百七拾六万円余ノ負債ヲ全償スルノ道目下已ニ尽キタリ、尤貸
 - 第4巻 p.111 -ページ画像 
金取立残額百九拾壱万円余アレトモ只名位ノミニシテ其実況ニ至リテハ別紙ニ記載アル理由ニ基キ思料セハ、今ヨリ後チ数十年ノ久シキヲ俟ツト雖モ漸以テ十分ノ二分壱厘ヲ得ルニ過キス、去レトモ此弐分壱厘ヲ小野組ニテ利倍増殖セシメハ、三十ケ年間ヲ期シ四倍壱歩弐厘強トナルモノナリ、斯ノ如キ目的アルニ飽迄身代限ノ名義ヲ蒙ムラセントセハ、真ニ労シテ功ナキモノト云フヘシ、如何トナレハ一旦身代限トナレハ債主ノ為メニ設クヘキ利倍増殖法モ随テ行ワレス、残負債ハ追テ身代持直シ次第弁償セシムルモノトナスモノナレハ、全償ノ期ハ到底予知スヘキモノニ非ルハ今更言ヲ俟タスシテ知ルヘシ、且利倍増殖法ノ如キハ一旦其時機ヲ失シ、他日悔ユルニ至ルモ決シテ前日ニ及フヘキモノニ非サルモノナレハ、篤ト利害ヲ稽考スルヲ最モ緊要トス
一前条ノ場合ナルヲ以テ金高千円以上ノ債主ハ格別ノ寛恕ヲ以テ別紙小野組ノ情願ヲ容忍シ、将来ヲ期シテ全償ヲ得ル方却テ便益ナルヘシト思考ス、如何トナレハ追テ身代持直シ次第償却ノモノト為ストキハ仮令今ヨリ後数十年ノ久キヲ俟テ漸ク弐三拾万円ノ身代トナリシトキ要償ストモ、此金ヲ以負債ノ総額ニ対シ得ル処ノ歩合ヲ見ルトキハ僅カ五厘五毛余(即チ百円ニ付五円五拾九銭余)ノ償却ニシテ、尚巨額ノ残負債アリ、到底全償ヲ得ルノ目途ヲ失スルノミナラス前件ノ時機ニ於テモ期ス可カラサルコトナレハナリ
一此際小野組情願中ノ一部分、即チ旧公債証書ノ賦金ヲ以四十六ケ年賦ノ償還ヲ容忍シ、今試ニ債主中甲乙ノ別ヲ設クル如キハ採用セスシテ一般平等ニ分賦スルモノトシ、之ガ計算ヲナセハ残負債三百四拾八万円ニ対スル旧公債証書ノ実額ヲ購求スル代価凡六拾八万円ニ至ル、(額面百円ニ付拾八円替ノ積)現在金(即チ現今迄ノ徴収金)七拾弐万円余ト差引金四万円余ノ残余ヲ生ス、之レヲ負債ノ総額ニ分賦スレハ其歩合七毛四糸余ニ過キス、(即チ百円ニ付七拾四銭六厘)故ニ旧公債証書ノ外斯ノ如キ僅少ナル金員ヲ各債主ヘ分賦ストモ之レカ為メ各債主ノ権利ヲ満足セシムル効見ナキノミナラス、実際之ヲ施行スルニハ殆ント三千人ニ及フ各債主ヘ悉ク之ヲ謀議セサルヲ得ス、然ルトキハ之カ為メニ数多ノ日月ヲ費スト雖モ、衆心一致ノ目途ハ容易ニ期スヘカラス、斯ノ如クナレハ不知々々遅緩ノ弊害ヲ緊要ナル資本即チ七拾弐万円余ノ概算ニ来シ、遂ニ幾分ノ減算ヲ起サシムルニ至ルモ知ル可カラス、然ル所以ハ後文ニ於テ詳カナルヲ以テ爰ニ略ス
一千円以上ノ債主ハ利子ヲ付スト雖モ些少ノ利金ニシテ殊ニ四十六ケ年ノ永年賦ナリ、之ヲ千円以下全償ヲ得ル債主ニ比較スルトキハ頗ル、不公平ニシテ条理ノ所在ヲ知ラサル処置ニ似タレトモ、実際ニ臨ミ数千債主ノ情実ニ就キ施行ノ難易ヲ酌量シ得失ヲ稽考スレハ敢テ不当ノ処分ト言フ可カラス、夫レ数千債主ノ情実トハ何ンソヤ、曰ク総債主ノ人員殆ント三千人ノ内弐千八百有余人ハ皆千円以下ノ債主ニシテ、多クハ一時ノ為替滞或ハ物品買上ケ代未払金等ノ類ニシテ、小野組閉店ノ為メ家計ヲ経営スルノ道ヲ失シ、至難ノ苦情ヲ当衙ニ鳴告スルモノ比々之レアリ、災厄止ムヲ得サルモノトハ云ヒナカラ全ク小野組ノ為メ不慮ノ窮迫ヲ極メ、遂ニ離産ノ景状ニ至リ
 - 第4巻 p.112 -ページ画像 
シハ実ニ憫諒スヘキモノニ非スヤ、又施行ノ難易得失トハ何ンソヤ、曰ク他ナシ同組負債ノ所分法ヲ弐千八百有余名ノ債主ヘ迄之ヲ謀ルト千円以上ノ債主ニ於テ得ル処ノ金員等ナリ、如何トナレハ前述ノ如ク苦情アル許多ノ人員ヘ一々謀議スルハ甚タ難事ニシテ亦容易ニ一致セサルモノナリ、然ルニ斯ノ如キ至難ノ情実アル債主ヘ対スル負債ヲ通計スレハ僅カ八万円余ニシテ、之レヲ負債ノ総額ニ比スレハ、漸ク壱厘五毛弱ナリ、其人員ノ多数ニシテ其金額ノ少数ナル斯ノ如シ、是等ノ理由アルヲ以テ千円以上ノ債主ニ於テハ今回旧公債証書ノ外ニ僅カ七毛四糸余ニ当ル(前条ニ掲載スル旧公債証書買入残金四万円余ヲ総負債ヘ分賦ノ歩合即チ百円ニ付七拾四銭六厘)金員ヲ得テ自余償却ノ時機ヲ寓然無期ニ俟ツヨリ確乎タル年限ヲ約シ、毎歳二歩(即チ百円ニ付弐円)ノ利金ヲ収入スル方却テ便益ナルヘシ、尤モ万円以上ノ債主ハ今後三十ケ年ニ至ラサレハ利金ヲ得難シト雖モ、如何ニセン算法ノ立サルヨリ不得止斯ク区域ヲ設ケシモノナリ
一若シ亦右処分法ノ不可ナル所以ヲ論スルモノアラン、其論旨タルヤ千円以上ト雖モ為替滞アリ、又千円以下ニモ尋常預金アラン、為替滞ト尋常預金トノ性質ハ元来相同シカラサルモノニシテ、今其必竟ヲ論スレハ為替金ハ緩急必要ノ自由ヲ達センカ為メ更ニ幾分ノ手数料ヲ付与セシモノナリ、尋常預ケ金ノ如キハ保護ノ為メニスルモノト雖実ニ利資ヲ要スルモノナリ、斯ノ如ク主客反対ノ景状判然タルモノヲ区分セスシテ却テ千円内外ノ区分ヲ設クルハ甚タ不公平ナルモノナリト、是等ノ論旨ハ一ヲ知テ二ヲ知ラサル皮相ノ僻論ト云ハサルヲ得ス、如何トナレハ小野組負債ノ総額ハ五百三拾六万円余ニシテ、其八歩即チ四百弐拾六万円余ハ官金ナリ、抑官府ノ預金タルヤ元来為替規則ニ依リ確乎タル契約ヲ結ヒ、加之金銭取扱ノ多寡ニ拘ハラス常ニ若干円ノ金員ヲ給与シ、而シテ後チ出納ノ受払、或ハ為替ノ取扱ヲ為サシムルモノナレハ、亳モ使用ス可カラサル金員ナルハ勿論、真ニ一種特別ノ預ケ金ナレハ第一ニ先取ノ権利ヲ有スト云モ決シテ不当ト云フ可カラス、去レトモ是等ノ論旨ハ暫ク閣キ、為替名義ヲ有スルモノハ官民ノ別ナク通常預金ニ先チ償却セシムルノ法案ヲ起草セント欲セハ、独リ官金ノミニテモ別紙第一表ノ通不容易金額ニシテ、一般債主ヘ対シ弥全償ノ道ヲ失スルニ至ルハ必然ナリ、殊ニ法律上ニ於テモ区別アルヲ聞カス、且官府ニ於テハ小野組閉店ノ始メ吏員ヲ東西ニ発遣シ、主トシテ奸曲ノ有無ヲ探究シ而シテ官民ノ預金ヲ通算シ、負債ノ額ヲ精覈ニシ物品ヲ販売シ貸金ヲ徴収シテ今日各債主ヘ償還ノ処分法ヲ謀ルニ至ル迄ノ費用既ニ三万有余円ニ及ヘリ、此費用タルヤ必竟小野組ヘ対スル債主一般ノ権利ヲ保護セシモノナレハ、今之ヲ現有金ヨリ償却セシムルモ決シテ不当ト云フ可カラサルモノナレトモ、官府ニ於テハ公衆債主ノ便益ヲ主トスルヲ以テ是等ノ意旨ハ全ク耐忍セラレタリ、斯ノ如キ理由アルヲ知ラスシテ只公平ノミヲ至要トシ、処分セント欲セハ一般債主ハ遂ニ意料外ノ不利ヲ招ニ至ルヘシ、能ク是等ノ道理ヲ得解セハ千円内外区分償却法ハ却テ便益ヲ得ル方法ト云フヘシ、如何トナレハ至難ノ事情アル弐千八百有余人ヘ対スル謀議ヲ省クヲ以テ、施行上甚
 - 第4巻 p.113 -ページ画像 
タ捷径ナレハ多少ノ財本ヲ速ニ入手スルノ便アレハナリ
右ニ陳述スル如キ実況アルヲ以テ千円内外区分償却法ハ該事件ニ採リ最モ恰当セルモノト思料ス、好シ又他ニ良法アルニセヨ得失ヲ旨トシテ考究スレハ速ニ容忍□《(ス)》ルヲ利益アルモノトス、如何トナレハ現今ニ存スル貸金ハ別紙告示書ノ如キ実況ニテ容易ニ取立難ク、仮令二三年ヲ期ストモ徴収スヘキ金額ハ僅々些少ナルヲ以テ先ツ償却金ノ定度ハ暫ク七拾弐万円余ト見做ザルヲ得ス、而シテ衆論一致完結ヲ期スル迄ノ小野組ニ属スル諸経費ハ此内ヨリ弁給セサルヲ得ス、故ニ千円以上各債主ノ容忍一日後ルレハ即チ一日ノ損アリ十日後レハ即チ十日ノ損失ヲ公衆債主ニ帰スルモノナレハ、専ラ便益ヲ主トシ公平ノ利害ト遅速ノ得失ヲ稽考シ処分スルヲ此事項ニ於テ適実セルモノト思料セリ
 明治九年十月                 勘査局

 小野組ヨリ他人ヘ対スル貸金取立残結果ノ大意
小野組ヨリ各人民ヘ貸付金ハ同組閉店爾来東京府下ノ分ハ勘査局ニ於テ各府県下ノ分ハ該管轄庁ニ於テ綿密ニ取調、厳重ニ督責事故ナキモノハ勿論多少事故アリシモノト雖モ、大体取立相済ミタレトモ、意外ノ事故或ハ貧寠ニ陥リ殆ト破産ニ至リ停業シ以テ目下生活ニ汲々タルモノ許多ニシテ、間断ナク督責又ハ懇切ニ勧解ヲ施スト雖モ、真実赤貧ナルヲ以テ何分俄ニ取立ノ道ナク、止ヲ得ス淹滞セシモノ少カラス其故如何トナレハ事故ノ理由貧寠ノ実否ハ本人ノ口述或ハ帳簿ヲ以テ容易ニ弁知セラルヽモノニ非ス、故ニ常ニ現況ヲ視目スル区戸長或ハ貸金取立ノ扱人等ヲシテ彼ニ探リ爰ニ偵サシメ漸次ニ真正ノ情状ヲ明瞭ニセシモノナレハ、決シテ一朝一夕ノ間ニ能ク整頓スヘキ事項ニ非サルハ自然ノ理ニシテ是淹滞セシ所以ナリ、然リ而シテ其取扱ニ於ルヤ又条理ヲ以テ悉ク画一ノ処分ニ帰セシムル能ハサルモノアリ、如何トナレハ許多ノ事由アルヲ以テ彼此ノ差縺ヲ来セシモノハ、大体数十年来商業上ノ差引残等必竟当初ノ契約粗漏ナルニヨリ、互ニ計算ノ誤解ヨリ紛紜数回ニ渉リ輙ク其実否ヲ得難キモノアリ、或ハ大家ヲ結構シ外貌ニ於テハ相応ニ営業ヲナセシモノ有リト雖モ、漫ニ外観ヲ虚飾セシ迄ニテ身代ノ摸様ヲ探偵スレハ他ニ巨額ノ負債有之現在ノ家屋財産ハ他ニ抵当ト為セシモノアリ、是等ノモノハ仮令身代限ノ処分ニ及フト雖モ、現ニ他ニ特権ヲ有スル債主アレハ啻ニ手数ヲ費シ小益ナキノミナラス却テ全償ノ方ヲ失スルハ必然、又或ハ些少ノ抵当アル貸金ト雖モ今其抵当ヲ売却為サシムレハ眼然ニ一家ヲ破壊シ纔ニ負債元額千分ノ一ヲ塡ムルニ足ラスシテ尚残金償却ヲ捨ルノ類只タ条理ヲ以テ措置セハ其損益得失ハ計較セスシテ瞭然ナリ、是レ条理ヲ以テ悉ク画一ノ処分ニ帰セシムル能ハサル所以ナリ、故ニ便宜ヲ以テ益ヲ取リ損ヲ捨テ緩急其宜ヲ思慮シ、実ニ官民債主ノ都合ヲ計リ、現ニ止ムヲ得サルモノハ厳密ニ調査シ、更ニ親戚ノ処有品ヲ抵当ニ差出サシメ或ハ確乎タル保証人ヲ撰ミ年賦月賦割済ノ願ヲ聴シ、従前粗漏ナル証書即チ甚キニ至テハ一紙半票ヘ只金員ヲ記スルノ類ハ真ニ債主タルノ権利ヲ有スヘキ明文ヲ顕シタル証書ニ更正為致、全ク従前証文ノ体面ヲ変換セシヨリ精神ヲ有スル真ノ貸付証文ト成ルニ至レリ、然リ而シテ将
 - 第4巻 p.114 -ページ画像 
来ノ取立高ヲ予定セスンハアル可カラス、故ニ先ツ年月賦ヲ不論凡ソ十ケ年間ニ償却ノ約アルモノヲ目途トシ之ヲ合算スレハ弐拾六万円余トナル、之ヲ十ケ年ニ平均スレハ一ケ年ノ収額弐万六千余円トナル、然レハ之ヲ当九年ヨリ向十ケ年間ニ取立得ヘキ貸金ノ定度ト見ルヘキヤ、然ラス、如何トナレハ契約書ノ能力ハ未来幾多ノ霜星ヲ経歴ストモ期限ヲ有スル間ハ決シテ消滅スヘキモノニ非ルハ言ヲ俟タサルモノナレトモ、実際取立金ノ眼目ハ契約書ヨリ負債者ノ身代ニ着意スルヲ緊要トス、譬ハ確実ノ契約アル負債主ニシテ数万円ノ義務ヲ怠リタルニ依リ其義務ヲ督責シタリ、然ルニ意外ノ損分其他事故アルヲ以テ之ヲ行ハサルトキハ仮令如何ナル契約書アルニセヨ到底身代限ノ処分ヲ仰クヨリ外ニ道ナカルヘシ、故ニ仮令契約書ニ就テ概算シタルモノナレハトテ一概ニハ定度ト見做シ難カルヘシ、其第一ニ着意スヘキ身代ノ景状ハ現存ノモノスラ変動スルハ自然ノ理ナリ、況ンヤ未来ノ盛衰ヲ予知スルニ於テヲヤ、且数多ノ負債者中往々稀レニ富ヲ致スモノアルニセヨ、年月賦ヲ一時ニ提償スルモノハ万々アルヘカラス、然ルニ之レニ反シテ聊不利ヲ招クモノアレハ苦情百端、年賦割替ヲ主張スルハ勿論身代限ノ処分ヲ求ムルモノ許多アルモ知ル可カラス、故ニ仮令概算ニセヨ将来ノ方法ヲ設クル為メノ定度ナレハ能ク此等ノ種類ヲ分別シ、確実ニ確実ヲ要セサレハ他日不測ノ変動ヲ発出スルノ恐アルヲ以テ先ツ当九年ヨリ向九ケ年間ノ収額平均壱ケ年ニ弐万円トシ、夫ヨリ後チ又二十一ケ年間ハ毎歳壱万円ノ収額ト見做シ、該収額ヲ資本トシ、各債主ヘ対スル利金償却ノ為メ利倍増殖ノ方法ヲ起サシメタリ、依テ其顛末ヲ掲ケ結果ノ事由ヲ判然ナラシメント欲ス
  明治九年十月                勘査局


〔参考〕大蔵省エ願書並御指令写(DK040012k-0019)
第4巻 p.114-116 ページ画像

大蔵省エ願書並御指令写 (小林銀三郎氏所蔵)
    奉歎願候書附
小野組閉店御処分ニ付テハ不成容易奉懸御手数奉恐入候処、特別之御寛恕ヲ得負債償却之方法相立、家名継存偏ニ御寛典御処分故ト冥加至極難有仕合奉存候、御処分完結之後各御府県残貸金証書類皆御下ケ渡ニ相成、御調査諸帳簿之通無相違奉請取候、此残貸金ヲ取立公債証書ヲ漸次買入、利倍増殖仕、年々還済仕候利子、及ヒ向三十ケ年之後利子還納可仕方法ニ御座候ニ付各地方エ出張貸金取立方、追々催促、或ハ旧証書書換等示談中ニ御座候処、此残貸金ハ御処分中其筋々ヨリ御督促亦ハ厚御理解ヲ以御取立被成下候残リ之貸金ニシテ、悉ク事故有之、旧貸附証書之儘ニ有之候分モ不少、其上内国一般ニ分離仕候故聊宛之長年賦金遠路之義ニ付取立人出張之旅費ニモ宛リ不申向モ有之、殊ニ西南国々ハ客歳非常之兵乱ニテ負債者之内住居等不分明之向モ有之、加之年々増殖仕候各種公債証書ハ、案外之価格騰貴、利倍増殖方法ハ年壱割利ヲ以計算仕候義ニ付、前後従横之不都合困難心痛罷在候、此節之成行ニテハ遠国出張貸金取立其他之諸費及万円以内各債主エ年々相渡候利子ニ稍相宛リ候迄ニテ、況テ向三十ケ年之末巨額之利子還納可仕目途ヲ失シ、此上小野組ヨリ各債主エ対シ義務ヲ愆ルニ至リ候テハ特別御寛恕之御処分ニ奉対実ニ奉恐入候ノミナラス、人事無
 - 第4巻 p.115 -ページ画像 
情破廉恥之極、進退切迫如何トモ悲歎之余奉歎願候は、向三十ケ年之末御省エ還納可仕利子別紙計算表面ニ掲載仕候歩合法本年分減額元金高ニ対シ金百円ニ付金五拾七銭七厘ノ割ヲ以テ即金上納可仕候間、予テ奉差上置候利子証書御下ケ渡被成下度、只管奉懇願候、特別之御救助御憐愍之御詮議ヲ以願之通御聞届被成下候ハヽ細々ニモ家名相続之目途モ相立難有奉存候、此段奉歎願候 以上
                小野組総理代人
  明治十一年十月七日        小野善右衛門 印
    大蔵卿 伊藤博文殿

第七拾四号
願之趣官金ニ係ル利子打切納之儀ハ聞届候条、予テ国債局ヘ預ケ有之秩禄公債証書ヲ沽却シ、其代価ト大分県ヨリ送付セシ金員トヲ貸金取立金ニ合セテ官民預ケ金本年分残負債高ニ割合、官金之分ハ其各省ヘ可相納事
  明治十二年八月十五日     大蔵卿 大隈重信 印

    奉願候書附
小野組負債利子御打切之義奉歎願候処、特別之御憐愍ヲ以願之趣御聞届被成下難有仕合奉存候、付テハ御調査被成下候貸金取立高及其他之現金ヲ合シ本年負債残額元金ニ割合、左之歩合法ヲ以上納仕度奉願上候
  一金四万百円五拾銭      秩禄公債証書売却代
  一金五千百弐拾弐円三銭四厘  大分県御送付現金
  一金六千円四銭七厘      貸金取立諸費差引現金
 三口合金五万千弐百弐拾弐円五拾八銭壱厘
本年減額元金弐百九拾九万七千五百八円五拾銭
  此元金百円ニ付利子御打切歩合金壱円七拾銭〇八厘八毛三八五五七宛
右本年減額元金ハ官金及官御預ケ民金各府県御扱之分外ニ元万円以上各債主内訳ケ左之通
一金百六拾五万九千百五拾五円   各府県官金国債局御引請之分
一金七万六千六拾七円       国債局
一金三千三拾壱円五拾銭      元 紙幣局
一金四千百弐拾八円        元 印書局
一金五万八千七拾壱円五拾銭    旧蕃地事務局
 小以金百八拾万四百五拾三円
  此歩合金三万七百六拾六円八拾三銭五厘
一金八千五百七拾八円五拾銭    太政官本局
  此歩合金百四拾六円五拾九銭三厘
○中略
 締官金弐百四拾万弐千弐百三拾八円
  此利子打切歩合締金四万千五拾円三拾六銭九厘

    官御預ケ民金之分左ニ
一金六万七千四百弐拾四円     東京府
 - 第4巻 p.116 -ページ画像 
  此歩合金千百五拾弐円拾六銭七厘
○中略
 締元金弐拾四万七千弐百弐拾八円五拾銭
  利子打切此歩合金四千弐百弐拾四円七拾三銭六厘
    元万円以上各債主之分
一金三拾四万八千四拾弐円     第一国立銀行外拾八家元金
  此利子打切歩合金五千九百四拾七円四拾七銭六厘
総元金弐百九拾九万七千五百八円五拾銭
  此利子打切歩合金五万千弐百弐拾弐円五拾八銭壱厘
    本年減額元金比較
一金三百弐拾万六千六百三拾七円  明治九年総額元金
 内金弐拾万九千百弐拾八円五拾銭   同九十十一年分旧公債証書年賦金ヲ以還納高
残金弐百九拾九万七千五百八円五拾銭    本年減額元金
   締
右之通御座候御突合被成下度奉願候也
                小野組総理代人
  明治十二年八月廿二日       小野善右衛門 印
    国債局御中


〔参考〕佐々木勇之助氏座談会筆記(DK040012k-0020)
第4巻 p.116 ページ画像

佐々木勇之助氏座談会筆記 (竜門社所蔵)
   閉店後の小野組
四、小野組が明治七年に閉店したる以後の事は不明にして、明治十五年に京都にて再興したりとの記事新聞に見えたり。閉店後の小野組に就き、御存知の点承り度し。
佐々木氏―私能く存じませぬが、何でも京都の方に小野組の家名だけは存続して居ると聞きましたが、再興とか何とか迄には力が及ばなかつたやうです。小野組の番頭の中で頻りに心配して両替町の隣りに来て居たものもありましたから、多分京都の方に幾らか家名位は存して居らうかと思ひますけれども能く存じませぬ。
渋沢子―正金のリオンの支店長をして居りました小野さんと云ふのが小野組の後ださうです。其子供は今正金銀行に務めて居ります。それから話を聞いたことがあります。
佐々木氏―其時分支配人をして居る人の所に行つて話をしたことがあるのですが、迚も駄目だと云ふことで、此小野組の閉店に付ては先生が非常に御心配なすつたものなんでせう。吾々は一向知りませぬでしたが……


〔参考〕東京日日新聞 ○第八五九号〔明治七年一一月二三日〕 三井組と拮抗して財界に雄飛せる豪商小野組 破綻の顛末(DK040012k-0021)
第4巻 p.116-118 ページ画像

東京日日新聞
  ○第八五九号〔明治七年一一月二三日〕
   三井組と拮抗して財界に雄飛せる
     豪商小野組=破綻の顛末
 世に名高き小野組は当十一月二十日に戸を鎖たり。そも此小野組は小野善助を総本家とし小野一家の組立たる所にて、御一新の初より三ツ井組と共に朝廷に対し会計向の御用を勤め、日本国中に於て三井小
 - 第4巻 p.117 -ページ画像 
野と並らび称せられ、世上より見る時は万代不易とも云ふべき程の豪家なるが、今日に至りて俄に戸を鎖したるは実に我輩の思ひ掛けざる所なれば、大に怪み驚かざるを得ざるなり。
 戸をしめ商業を止むる上は、其落着により此節専ら世間に流行する分散の仕末に至るやも計り難し、若し左ある時には、此の小野組が豪家だけに其響にて難儀を受け迷惑を蒙むる者は幾千百人ぞや。誠に日本国中の理財上に付きての大騒動とも云ふべし。抑々小野組は大蔵省を初めとし、三府六十県の内にて凡そ五分の三(四十県余)程の出納御用を一手に引受け、其外に諸華士族豪富の人々より預りたる金額も必らず莫大の高なるべし。而して此度の騒動直様日本全州に聞こえなば、貴賤上下共に豪家を信ず可からずとし、金融を人に托す可からずと又もや昔日の風習を思ひ出すに及ぶべし。然る時は小野組と同商業を営みたる国立銀行並びに三井組の如きも必らず是迄の預り金に差響き、其の余波は此の諸豪家より金子を流用して商売をなし、工業を起したる諸会社諸商人に及ぼし、日本の金銀融通は其の源を塞ぎ、其の流れを止むるの姿に立至るべし。是程の大関係ある事柄なれば、小野一家に対しては其の家政の善悪を流布するに当り甚だ不本意なりと雖ども、我輩は先づ専一に其の来歴を篤と問糺す事を、世上一般の為に肝要なりとす。既に廿日の新聞を得たるより以来種々の手続きを以て問糺し、我輩が聞知たる丈けの報知を忌み憚る所なく玆に託し、併せて思考する所を掲ぐべし。
 小野組の戸を閉めたるは思ひ寄らざる事と驚きたれども、熟考すれば誠に当然の事にて我輩は能くも今日まで持ち堪えたりと怪しむべし。如何となれば、是まで日本の豪家は大抵其主たる人々才もなく能もなく、只先祖以来の財宝を伝へ受け、番頭手代任せにて其家政を釐む、故に名は町人と雖ども実は大名も同様なり。其大名も廃藩立県より元の大名に非ざれば、町人とても争でか其の実力なくして数百万の素封を擁し永く長者物持の栄名を為すべき理あらんや。能能考へて見よ、東京大坂其外日本国中の豪家にて、戸を鎖し分散に及びたる大家は、此四五年以来何千百人ぞや。而して其来歴は皆当主たる人々其才能に乏しく、全権を委ねたる番頭等が時勢に暗くして方向を謬まりたるに依らざるはなし、情を以て論ずれば気の毒なれども、理を以て論ずれば又尤の次第なり。小野組の如きも矢張この来歴に依て今日の衰兆を起したるは豈当然の事に非ずや。此小一野組は御新以来三井と立並びて御用を勤め、常に三井の上に出ん事を心掛け、日本国中に枝店を設け公私の金を預かり、而して商売向は蚕卵生糸米穀鉱山等手を下さざるなし、(是れ即ち「バンク」銀行と外商売と二軒の店を一つにしたる有様にて、苟くも理財の法を知りたる人の眼を以て見る時には頗る安全ならざる仕法なれども、日本の風として此仕法を行はざる豪家は甚だ少なし)而して一般の規則章程なきに付き此枝店なる者も其全権たる支配人番頭の独断にて諸事の取計を為し、各自みな非常の大功を奏せんと著目し、(御一新頃の諸藩の如し)却て同店互に相争ふの姿を為せり。(下関の枝店にて米を売出したる時に広島の枝店より人を遣はして之を買たる由の風聞あり)斯の如くに広く手を延したる故に、さしもの小野組と雖ども限りある資本金を以て、限りなき商業工業を兼ね有する事能はざれば、他の手段を以て其資本金を集めざる事を得ず。此に於て小野の発言にて三井小野第一国
 - 第4巻 p.118 -ページ画像 
立銀行の三家は詰り同商業なれば、預り金の利足も同じ割に為すべしとの趣意にて、三家共に預り金利年六分と定めたり。三井と銀行とは正直に此約束を守りたる故に、諸省庁県を初として諸方の得意より預け金を取り戻され、又小野は六分以上の利足を払ひたり、故に其預り金も増加し遂に四十余県の得意を占めたり。今日となりて考ふれば増減は三井の為には幸の種となり、小野の為には却て衰微を招ねきたる基とぞ成りにける。
 然るに官省府県の公金を預る者は其の預り高丈けの抵当物を差出すべき旨の御達あるに付、仮令ば公金百万円を預かる時は百万円丈けの地券か公債証書か、又は株手形証文の類を政府へ差出さざるを得ず、三井は預り金高も少なく、又是まで金貸の外には余り商法に手を出さぬ家風ゆゑ、此度も右の抵当物を御達通りに差出し、且つ三井小野両組の御用為替座の如き合併したる箇所は、前以て其筋に願ひ出て分離を為したれども、小野組は之に反し此段に至りてハタと差支へ、止むを得ずして今日の手続きに至れり。是れ則ち此両家の禍福自から拠て来る所なりと思はる。然れども唇亡びて歯寒きの道理なれば、三井組と雖ども銀行と雖ども此小野組の騒動に付き必らず差響きあるべく、而して此時に臨み三井組は如何なる処置を成すか、第一国立銀行は重立たる株主の盛衰には拘らぬ者か、又大蔵省は日本全国の金融通の壅さがる事には更に貪着《(頓)》せぬものか、此数条は我輩が尤も力を尽して問ひ糺し成丈け速かに(明日にも)世間に報知すべき緊要の事柄なり。

〔参考〕東京日日新聞 ○第八六一号〔明治七年一一月二五日〕 小野組の閉店は経済界の大脅威(DK040012k-0022)
第4巻 p.118-119 ページ画像

  ○第八六一号〔明治七年一一月二五日〕
   小野組の閉店は経済界の大脅威
 両日以来、我輩の頻りに嘆息する処の小野組の閉店は如何なる都合に成行べきか未だ之を知らずと雖ども、世上の人気は大に騒立ち到る処みな此事の評判を聞かざるはなし。我輩が探索し得たる報知の通り三井組の身上は更に気遣べき所もなく、又世間にても安心して之に依頼すれども、兎角に諸人の案じ暮して苦労にするは、海運橋の「バンク」と唱へたる第一国立銀行の事なり。成程この銀行の元金二百五十万円は三井小野より各々百万円宛を入金いたしたれば、実地の所は三井小野の合併銀行といふとも可なり。然るに若し此の合併人の小野組が万一分散とも相成る時は忽ち銀行に差響き申すべく其節には銀行の元金の内百万円は小野に返し一万株を取消し、残りの百五十万円にて「バンク」商売を致し申すべきや、又は小野所持の一万株を糶売に出して、之を貸方に配当いたし、銀行の株主が替る丈けにて相済申すべきや、此処分により日本全州の商売工業に大いなる利害を引き起すべきに付き、我輩は篤と其内情を知りて後に考を立てざる可からず。
 世間の評判にては銀行より抵当品もなく小野組へ百万以上の金を貸し渡したるに付き、銀行も瓦解いたすべき由を云ひ触らせども是れ全く虚説にて信ず可からず。我輩が問糺したる処に拠れば、銀行より小野組へ凡そ百万円余も貸し付けたれども、皆夫々相応の抵当品を取り置たれば、縦令小野組が瓦解するとも銀行は更に損得なき姿なりと聞けり。然れば此度の騒動は諺に云ふ雨降りて地固まるの類にて、是まで学問の無き商人達が七面倒だの小六箇敷のと謗りたる銀行条例、規
 - 第4巻 p.119 -ページ画像 
則成規等の万一の時に益ある実証を顕はし、銀行の為には却て世間の信用を増べき幸なりと云ふべし。貸し金の事は右の通りなれば頗る安心にて、少しも銀行瓦解の掛念はなけれども、我輩が苦心する所はこの銀行にて小野の持ち株百万円を差し戻し、元金の高を減少するか如何に在るなり。夫れ熟思するに、数年来日本政府の誘導にて創立したる会社商社の名目あるもの一つとして利益あるはなし。遅かれ速かれ皆元金の損毛となるもの而已なり。故に町人も何社中に命ぜられ元金を出す時は、初めより之は損金、御上への御奉公と覚悟する位なり。(自主の社には至て堅固なる者あり)然るに此銀行のみは、是までの会社に比からず、株主も半年毎に相当の利益金割賦を得て、世間の人々に社を結びたる功能を示し、又二つには金融の為に銀行の無くてならぬ手本をも示し、漸やく町人をして方向を定めさせんと致したる期に臨み、是までに取り立てたる銀行の腰を折る事ありては、差向き日本の金融を壅のみならず再たび日本の富家豪家をして社を結び元金を募るの念を断しめ、折角誘導したる奮発の功も中途にて水の泡と成果べし。況んや二百五十万を募るほどの大社は、もはや迚も当分の処にては創立し難きに於ておや。我輩が平生より口癖に唱ふる通り、日本全州の進歩は商売の繁昌と工作の盛大とにあり。其繁昌と盛大とを起すは元金の融通を便にするにあり。而して政府に於ても元金の融通を便にするは銀行を立るに在りと云ふ道理に深く注意し、力を尽して此銀行を助けられん事を希望するなり。一概に云へば政府は何にも銀行を助けずとも済む事と思へども、是は銀行を助くるには非ず、即ち日本の商売と工作とを助くる為なれば、矢張政府にて取扱かふべき務の一分たり。夫れ故にこそ英国や仏国の如き開化の国にても「バンク、オフ、イングランド」英国銀行「バンク、デ、フランス」法国銀行を繁昌せしめ、維持せしむる為には時として非常の助勢を加へ、特例を与へたる事間々少からず、歴史に依りて之を証すべし。
 世間にて書物読と名けたる経済学者の内に此銀行の元金は多過たれば之を減少すべしといひ、或は元金を分け枝店みな独立の姿となすべしといひ、種々の考案を出し、夫々に皆一理ある事なれ共、詰り今日の急務に非らず、今日の急務と言ふは政府にて此銀行を助け、其元金を決して減少せしめざらん事に在りと我輩は考へたるなり。
   小野組の資産
 小野組にては現在所持する所の金高は凡そ七万円余、地券公債証書の類十一万円余なり。是は海陸軍より官員出張して土蔵に封印を附け、両三人にて之を守り、其ほか諸庁使の官員方掛り掛りにて出張なるに付、重立ちたる番頭は只応対のみに忙しく、帳面を調ふるの暇もなしと聞けり。


〔参考〕新聞雑誌 ○第三四一号〔明治七年一一月二六日〕 没落した小野組の処分(DK040012k-0023)
第4巻 p.119-120 ページ画像

新聞雑誌
  ○第三四一号〔明治七年一一月二六日〕
    没落した小野組の処分
 大蔵省ヨリ諸県ヘ達 ○今般小野組ヨリ、各所為替方悉皆御免、就テハ是迄ノ御預リ金ハ追テ動産、不動産等売却ノ上、上納致度旨願
 - 第4巻 p.120 -ページ画像 
出候ニ付、右処分方ノ儀正院ヘ相伺候処、当省ニ於テ勘査処分可致旨御下命有之候条、兼テ相達置候通万一贖金其外各種ノ預ケ金有之候ハバ、右金高並預ケ方手続及ビ抵当等ノ有無共詳細取調至急可申出、此段相達候事

〔参考〕新聞雑誌 ○第三四四号〔明治七年一二月二日〕 小野組の財産隅から隅まで洗ひ上げる(DK040012k-0024)
第4巻 p.120 ページ画像

  ○第三四四号〔明治七年一二月二日〕
    小野組の財産隅から隅まで洗ひ上げる
大蔵省達〔東京府ヘ〕 小野組破産処分ニ付、東京府下小網町小船町ヲ始メ、其他河岸河岸並、本所、深川等ニ有之候人民所有ノ諸貸蔵ノ内ヘ、小野組社中別紙名前或ハ小野善助召仕私有品ノ旨ヲ以テ、米穀其外諸荷物積入有無至急取調ノ上、右名前ノ荷類ハ蔵主並ニ差配人ヘ預申付置早々可申出候

〔参考〕新聞雑誌 ○第三五二号〔明治七年一二月一八日〕 小野組怨嗟の声 三井にまで当り散らす(DK040012k-0025)
第4巻 p.120 ページ画像

  ○第三五二号〔明治七年一二月一八日〕
    小野組怨嗟の声
     三井にまで当り散らす
 小野組破産ノ事ニ付テ、三井組総代三野村利左衛門ヨリ大蔵省ヘ歎願ノ書ヲ見レバ、人民一般ノ預ケ金ヲ、五十ケ年賦ノ公債ヲ以テ、預ケ主ヘ歎願為致可申トノ事、此扱ニテハ債主ハ皆不承知ナルベシ。若シ又此説ノ如クセンニハ、小野組ヨリ他人ヘ貸タル金モ、同様五十ケ年賦ニテ取リ立ルナルベシ、小野ニテ預リタル金ハ五十ケ年賦ニシテ其貸タル金ハ速ニ取立ントナラバ、甚ダ勝手我儘ナルコトナリ。然ルトキハ小野組ヨリ借リタルモノハ此度ノ破産ガ却テ大ナル僥倖トナリ預ケタルモノ、為メニハ大不幸トナルナリ。如此不条理ナルコトヲ政府ニテ御取上ゲハ有間敷ナリ。又右ノ歎願書ニ拠レバ、官金先取ノ法ニテ、是レ旧政府ノ時ノ苛政ノ法ナリ。且他家ノ分散ハ不知、小野組ノ分散ニ付テハ、政府ニ於テ人民一般ノ預ケ金ノ御所置ハ一層懇切ノ御所置アルベキナリ。ソノ故如何トナレバ、小野ヘ吾輩ヨリ多分ノ金ヲ預ケタル、素政府ヨリ御為替御用ノ看板ヲ免許シタルニ付、コレデハ大丈夫ナリ決シテ間違ハナキナルベシト、安心シテアヅケタルニテ其御為替御用ノ看板サヘ無キナラバ、固ヨリ不見不知ノ善助ヘ大金ヲ任せ置ベキ筈ハナキナリ。故ニ政府ニテ小野ヘアヅケタル人民ヲバ、殊ニ憐愍ヲ加ヘテ一層懇切ノ御所置アルベシトハ思フナリ。又思フニ三井ニテハ善助ノ身代モ荒増ハ予テ心得居タルコトナルベシ。然ラバ此ニ至ラヌ内ニソノ事ヲ政府ヘ申立、御所置相願フベキコトナルニ、是迄打捨置、方今ニ至リ自分身退キサヘスレバ、政府ノ御損毛モ人民ノ難渋モ高ミデ見物トハ甚ダ薄情ナル了簡ト云フベシ。願クバ日本商家ノ大総代頭取タル三井組ノコトナレバ、人民一般ノ為メニ一層勉励ヲ尽シ、此難渋ヲ救ハンコトヲ。小野組破産ニ付テ、難渋ヲ蒙リタル衆人ニ代リ貴社新聞ヲ頼デ、三井ニ歎願スルモノハ、則難渋人ノ一人立野某ナリ。


〔参考〕東京日日新聞 第八八六号 〔明治七年一二月二三日〕 小野島田組ノ為替商倒産相つぎ資本融通の政策全く行詰る(DK040012k-0026)
第4巻 p.120-122 ページ画像

東京日日新聞 第八八六号 〔明治七年一二月二三日〕
  小野島田組ノ為替商倒産相つぎ
     資本融通の政策全く行詰る
 島田組は小野組に引続きて、名を知られたる豪家なりしが、遂に小
 - 第4巻 p.121 -ページ画像 
野組と引続きて、本月十九日に至りて、戸鎖を成したり。其情実を見聞すれバ、又小野組と更に異なる所なし。故に吾輩は島田組より、諸県に差出たる歎願書を今日の新聞に採録し、併て諸豪家の跡を追て破産する事を歎息し別けて島田組の為に之を痛哭するなり。○之を世間の風評に聞くに、島田組の破産ハ疾より其色を顕ハしたれども、拮据して今日まで是を維持し、遂に力尽きて斃れたる也と、果して然らバ我輩は愈々為に之を痛哭せざるを得ず。○我輩が曾て、小野組の戸鎖の時に臨みて説きたる如く、此諸豪家の数十世の久しきを経て、その門戸を張り繁昌したる原因ハ、なほ華士族の世禄あるに於けるが如し、何如となれバ、豪家ごとに出入の諸侯に、金を貸し附け、年々其元利を収め、出入の廉にて米金の俸給を得て、その家計を定め、恰も今日の公債証書を所有したる人に同じきを以て、之に名けて、商業の利に食むと云ハず、藩債の利に食みたる、世禄の豪家なりしと考へざる可らず。○此世禄豪家ハ、廃藩と共に大変革の状を起し、其資本ハ幸にして、新旧公債と替ハり、稍やく政府の為替御用だけ勤むるハ、恰も諸侯の華族と成りて、家禄を賜ハるに比し、而して此豪家の番頭も、亦華族の家隷の如く、各々其主人を利し、且つハ自己の栄をも達せんと心掛くるに付き、公債の薄利を甘ぜず、為替の口銭を足れりとせずして、遂に手心なき新商売に取掛り、損に損を重ねて破産に及ぶハ、其主人の天福も、玆に尽たる時節とは云ふものゝ、実ハ其天福を保つの才力なきと、其奉公人の事勢に迷ひて、徒らに急進を主とし、肝腎の漸進を打チ忘れたるに出づるなり。○世間にてハ、又この島田組は、横浜の外国人中にて、和蘭商社(蘭五)、並に香港上海銀行(六二)等より三十万円程も借財ありと評判せり。我輩ハ其実否を知らず、好しや実説なれバとて、外国人の事ゆゑ、まさか抵当物なしには、仮令へ日本で如何なる豪家と称するとも、空に金を貸すべき筋なけれバ、詰り引当を入れたる借金なり。
世間にてハ、昨今又専ぱら、島田組の戸〆ハ、蓬莱会社の盛衰に、大関係あるべしと、気違《(遣)》ふ人々少なからずと雖ども、我輩ハ此会社創立の目的も、株主の姓名も、又いかなる商業を営むかも、詳知せざるに付き、決して我輩の見込を説き出す事を得ず。○只々我輩の聞及びたる所ハ、此会社の重立ちたる株主ハ、島田組たる事だけなれバ、其状を計るに、或ハ小野組が、第一国立銀行の一万株を所持したるよりも其割合ハ多数に出たるやも知り難し。○姑く臆測の想像にてハ、此会社より島田組に、貸金あるとも、引当物さへ聢と取り置きたる事ならバ、猶彼の銀行の小野組に於けるが如く、気遣ふべき所ハなかるべしと雖ども、若し島田分散配当の為に、其所有物たる蓬莱会社の株式を取消す事あらバ、其会社の資本ハ、為に減少すべし。若し又、其結社の規則に依りて、此株手形を公売するに至り、世上の取引に於て、其株の実価を幾分か原価よりも、減少する事あらバ、此会社ハ其の為に大に信用を薄くし、声価を落すべし。○此会社が、肥前高島の石炭坑を、五十万円にて、政府より買取り、二十万円を即金に納め、残金三十万円ハ、六ケ年賦に納むべき約定を、取極めたるハ、本月の初めの事なりと、世上にて評判せり。而して即金の二十万円ハ、此会社の資
 - 第4巻 p.122 -ページ画像 
本より出すものか、或は他の方法を以て出したるか、我輩ハ固より之を知るに由しなけれども、若シ其の株主たる島田組より出金する見込にて、取り掛りたる大業ならバ此度の分散ハ、実に蓬莱社の為にハ、頗ぶる重大なる関係ありと云ハざる可らず。
然りと雖とも、蓬莱会社ハ有名なる人々の集りて営業する所たるに付き、仮令へ何程の難事に及ぶとも能く其社を保存し得べきハ、我輩が深く信する所なり。只々我輩が憂ふる所ハ、小野三谷島田の諸豪家が日を逐て鎖店し、其預り金を返し得ざるの証を実地に顕ハすに付き、日本人民は愈々其所有物を、人に托するの甚た不安心なるを発明し、昔日の陋習に立ち戻り、地を堀りて埋むるか、仏壇の後ろに張付るの外に上策なしと信し、折角に有力者が苦心して、誘導したる資本融通の道も、遂に壅塞するに至らん事を。是レ我輩が前に、島田組の為に其鎖店を痛哭したるハ、即ち人民の為に憂苦するより出たるなり。


〔参考〕文書より観たる 大隈重信侯 (渡辺幾治郎著) 第四〇七―四〇九頁〔昭和七年八月〕(DK040012k-0027)
第4巻 p.122-123 ページ画像

文書より観たる 大隈重信侯 (渡辺幾治郎著) 第四〇七―四〇九頁〔昭和七年八月〕
    三井組の保護に就て
 維新以後明治政府は小野組、島田組、三井組等の富豪に特別の保護を与へ、租税その他の官金の出納を取扱はしめた。これ等の富豪はその預けられた官金を資本として、為替会社を組織し、これに民間の預金を集めて、事業を営み、或は貸出しもしてゐた。廃藩以後政府は財政の整理と共に、漸次官金には抵当を徴収することとした。それが少しく急激に亘つたので、明治七年に至り、小野組先づ閉店し、島田組が尋いで休業し、三井組も危険に瀕して来た。これは官に納むべき抵当がないので、官金は預けられないで、引上げられる、かうなると民間の預金は引出さるゝのみで、新に預けられるものはないから会社はたまらない。井上はこの時大蔵大輔を罷めて、実業に従事してゐたが三井組の危険を見て、必死の運動をなし、大蔵卿の侯にその保護を歎願した。彼が明治七年十一月二十日及び十二月七日の書翰は能くこの消息を語る。
  毎度拝趨御邪魔計申上候、昨宵伊藤え面会候而内情を相語り置候間、乍此上一軒之焼留り御注意候て、三井之方御保護奉祈候、銀行之方ハ多分昨日も渋沢へ面会候而夫々引当物も粗相片付申候間御安心可被成下候、昨日承り候得ば最早小印之御用向は御取揚之御沙汰も可有之由、然レ共余リ至急ニ御処分被下候而は防禦にも差閊、且各県え差響候而は出張人銘々一身上之覚悟候而、不容易政府之御損失歟と奉恐察候、何分ニも四方江検査之人御派出被成候而、夫々御引〆リニ而も候上に無之而は、双方御損失歟と奉存候、何分ニも深ク御注意被遊候而御処分偏ニ奉願候、先ハ御願迄
                         匆々拝白
     十一月廿日                馨
      重信様
小野組一軒の焼止まりにて、銀行(第一)や三井組に類焼することなきを懇願し、小野の処分も急激に失することなきを冀望したのである。
 - 第4巻 p.123 -ページ画像 
また十二月七日の書簡は、
  益御多祥御精奉敬賀候《(マヽ)》、生も過日廿八日チリニテ出帆、三十日朝著神戸仕候、御放慮可被成下候、滞在中は毎々罷出御厄介を蒙り奉謝候、漸外事相済ミ候得は又小野分散之事件差起り、別て引続き御心配之事計と奉恐察候、爾後三ツ井モ随分取付烈敷様子ニ候得共、只々此上小野と組合之損分三井ヘ懸リサヘ不申候得は、且且取凌き可申胸算ニ候間、実ニ三ツ井之為ニあらす、銀行御保護之主意ニ候、銀行御護《(マヽ)》日本人民モニトランサクシヨン(金銭取引)之便利ニ候、小野閉店以来殊之外不融通を生シ、コンタ《(マ)》ルシヤル上之不便不一方、此上三井並銀行モ同様成行候而は、日本之クレジツトハ地ニ落チ、且金銀ハ最早地中ヘ穴を作り入置候外手数無之候間、申上候も疎ニ候得共、実際上ニ付テ之御処分奉仰候、其処分ハ只三井江小野之損分相懸り候と否ニ有之可申候と愚考仕候、是非とも御尽力奉祈候。○下略
    十二月七日
                          馨
     重信様
といふのである。これは井上が、三井のために代弁大に力め、小野組の損失の三井組に及ばざる様に、侯に尽力を懇請したのである。この時に当つて三井組の取附もかなり烈しく、その存亡は一に小野組の損害を及ぼすか、否かにかゝつてゐたので、井上は只管その損害の負担を及ぼさぬやう、つまり小野の一軒焼に止めんと必死に運動したのである。日本一を誇る三井王国も、明治初年にかゝる危機があつたことを忘れてはならない。


〔参考〕三井銀行五十年史 第二六―二八頁〔大正一五年九月〕(DK040012k-0028)
第4巻 p.123-124 ページ画像

三井銀行五十年史 第二六―二八頁〔大正一五年九月〕
従来公金の取扱は会計局御為替方以来三井・小野・島田三組専ら之に当り廃藩置県四年七月以後は更に府県方と称し三府七十二県に亘り各支店出張所を設け公金の収支に従事したり、当時三井組の出店所在地は三府を初め横浜・新潟・静岡・名古屋・松阪・木更津・島根・土浦・敦賀・和歌山・赤間関・流山等にして、各地には又数箇所の出張所及派出所ありたりと云ふ、而して公金取扱に対しては最初無担保なりしが取扱高の増加に伴ひ質物を徴求することに定め公債地券其他慥成質物其割合は最初預ケ金高の三分の一又は四分の一なりしも六年七月大蔵省第百八号達後三分の一に確定し七年大蔵省第十五号達更に預け金相当と改訂せられたり七年大蔵省乙第十一号十三号達当時三井組の官金預り総額は三百七十九万七十三円六十銭余、洋銀四十五万九千八百七十七弗余に達したるが命に従ひ増質相当額の公債地券株式等を差入れたり、該命令は事唐突に出で且頗る苛酷なるものあり、為めに狼狽せしもの尠からざりしが小野組亦之に累せられて遂に閉店し七年十一月島田組相次で倒産するに至れり八年二月、当時財界の一大異変にして都鄙恐慌所在騒然たり、三井組亦影響なきにあらざりしも何等基礎に関係なし、然るに小野組とは享保以来の御為替仲間として其窮厄を座視するに忍びず、七年十二月三野村利左衛門乃ち三井組を代表して小野組の為めに書を大蔵卿大隈重信に呈し、同組負債整理の方
 - 第4巻 p.124 -ページ画像 
法を縷陳すると共に家名存続の儀を歎願したり、其後小野組に対する政府方針の緩和及家名存続の事実より見れば願意概ね容れられたるものの如く、当時世上にては三井組の義挙を称するもの尠からざりしと云ふ。


〔参考〕古河市兵衛翁伝 第五五―六六頁〔大正一五年四月〕(DK040012k-0029)
第4巻 p.124-127 ページ画像

古河市兵衛翁伝 第五五―六六頁〔大正一五年四月〕
  小野組の隆替
    一、戊辰の奉公
 編伝の筆は翁の主家小野組の隆替に就て叙する順序となつた。
 小野家は京都の富豪であつて、家号を井筒屋と呼び、維新前は幕府の御為替方十人組の一人であつた。宗家は代々小野善助の名を伝へて、為替両換を業とし、分家に助次郎、又次郎、善右衛門の三家があつた。善右衛門店は譜代の重役が年限を定めて其名を襲ふを例とし、生糸絹物を商つた。維新後この四家を合せて小野組を組織したのである。
 王政維新の際に小野家は存亡の岐路に立つた。旧来の貸附金は殆ど棄却されて回収の望は絶え、営業は杜絶して収入の途を失ひ、挙家唯周章狼狽せる際に、後に分家小野善右衛門の名を襲げる重役西村勘六氏は、克く大勢の赴く処を明察し、主家を説き、旧為替方たる三井、島田両家を誘導して、逼迫せる朝廷の財用を救ひ、報国尽忠の誠を致したのであつた。
 子爵由利公正氏の直話によるに、『明治元年正月三日、伏見鳥羽の戦争は突如として起つたが、朝廷には軍資の準備が無い。然るに曩に小野善助の主管小野善右衛門なるものが、大政復古を慶賀し、金千両を献納したと聞いたので、翌四日、善右衛門を金穀出納所に召致して、焦眉の急を救はん事を相談した。処が果して見込に違はず、小野家の有金を残らず朝廷の御用に立てることを承諾した。それより善右衛門は三井島田の両家に説き直ちに金壱万両を調達したので兵機を過つ事なきを得た。』とある。又、同年三月御親征御用度金十万両の調達に際しても、『善右衛門蹶起して小野より一万両を出すと同時に、三井、島田、下村を説いて各一万両宛を調へしめ、残り一万両を他の八名の両換店をして納金せしめた。而して残半額五万両は大阪に於て鴻池初め十四名の豪商より調達せんとして百方奔走した。』とある。其他、三百万両の会計基金徴集に際しても政府の勧説のみに安んじ難いので、小野家は意外の者より募金上納を願はせ内実は自家より立替出金して、応募の人気を煽揚せんと試みた。善右衛門氏の手記に、『此時に至り三家(三井・島田・小野)立替も漸次三十万両となり各自手許融通に差支へ、内情異論を起す者追々ありと雖も、素より朝廷と存亡を共にせんと兼て心に盟ひたれば、断然動かず、厚く説諭を尽し、種々計策を以て漸く其日を送るのみなり。』とある。朝廷と存亡を共にせんの一語の如き、今日より観れば措辞恭虔を欠くが如きも、明治元年新政府の基礎の如何に危殆なりしかを云ひ得て遺憾なき言葉と称す可く、併せて小野家奉公の微衷を窺ふに足る文字である。
 要するに、王政復古当初の危機に際し、窮迫せる新政府の財政を支
 - 第4巻 p.125 -ページ画像 
障なからしめた点に於て、小野家の尽した処は尠少では無かつた。如何に当路の諸公が正面より大義名分を力説し、報国の至情に訴へて、献金醵出を促したとしても、裏面に斡旋誘導の労を尽す者がなかつたならば、新政府は京阪富豪の財力をあれ程迄に利用し得なかつたかも計られぬ。
    二、為替方の昌運
 明治元年二月、三井小野島田の三家は政府に対して、国庫金出納事務取扱の伺書を提出し、会計裁判所より、『御為替掛屋《かけや》被仰付候間御締方万端心を配り正路に可相勤候事。』の允許を受けた。これが抑も小野組の政府為替方を勤むるに到つた発端であつた。
時勢は遷る。三為替方の財力を背景として維新大業の財用を円滑ならしめた新政府は、忽ちの内に、為替方の債務者たるの立場よりして預金者の優越なる立場に転ずる事が出来た。明治元年五月に太政官が小野三井島田三家に発した御沙汰書の一節に、『皇運新に復し国是漸く定まり、万機御親裁に出で百事まさに備らんとす。此時に方り独り備らざるものは金穀なり。右は全く徳川慶喜大政奉還の節国家の用度併て返上勿論たるべきの所、其儀未だ相運ばざる内春来の始末に立到り、朝廷入る無くして出る所の費用一方ならず……』とあるが如き窮厄は昔の夢となつた。又、明治元年に三家より差出した伺書中に、『……右会計局出納取扱候ては諸入用等も相掛り候得共当分御奉公に奉相勤、追々出納手馴れ候上は相当御入用見積御下渡奉願上候……』とある。即ち無手数料にて公金出納を取扱ふ事が其時代には御奉公の意味でもあつたのであるが、政府の財帑充実し来つた後に於て、公金を無手数料にて取扱ふ事は、無利子の資金を運用し得る大特権に外ならなかつたのである。新政府が天下の財用を以て天下の事を行ふの順境に出でると同時に、為替方の昌運は開け始めた。
 玆に明治六年に於ける小野組全盛期の陣容を叙するに、東京日本橋田所町に本店を移し、これを元方と称へ、全国に為替方支店四十有余を配置し、瀬戸物町に糸店を置き、横浜、福島、仙台、若松、山形、平、前橋、長野、松本に支店を設けた。元方及び糸店に於て為替御用を承つたる府県は、足柄、熊本、栃木、長野、福島、磐前《いはまへ》、若松、岩手、青森、山形、置賜《おきたま》、酒田、秋田、小倉、佐賀、白川、愛知、浜松、筑摩、高知、福岡、長崎、奈良、滋賀、飾磨、大分、豊岡、堺、大阪府の一府廿八県に及んだ。これ等の府県の公金を預り為替を取扱ふ事によつて、小野組の金嚢は膨脹するが儘に膨脹した。その当時の小野組の業態は、公金を無期限無利子にて預りたる特殊銀行である、その銀行が産業振興の風潮に乗つて、新事業に放漫なる貸出をなした、そして一方には糸店といふ商事会社を兼営して、生糸米穀の取引に従事し、製糸場に鉱山に猪突的なる経営を企てたのである。斯くの如き業態に在つた小野組が、明治初年に於ける金融機関として、又産業振興の先駆者として威勢隆々天下を風靡した事は想像するに難くない。
    三、瓦解
 しかしながら、前節に叙せる小野組の昌運を以て、戊辰の功労に対する恩賞と看做すには、少しく不自然であつた。不自然なる語を当ら
 - 第4巻 p.126 -ページ画像 
ずとなすも、晏如としてその昌運に傲り、派手な経営方針を採つたのは、余りに無謀であつた。為替方の全盛は新政府の庶政混沌たる時代の副産物とも云ふべきであつて、その特権は、戊辰の功労が如何に甚大であつたにせよ、為替方に対して決して永く授けらるべき性質のものでは無かつたのである。併し、又、その特権は小野三井島田三家の存立を無視した荒療治によつて剥奪せらるべきものでも無かつたのである。
 然るに、為替方に対する政府の方針は急変し、明治六年より漸次に厳酷を加へて、明治七年に至つて、疾風迅雷殆ど耳を掩ふの暇なく一令に次いで一令は発せられた。政府は明治七年二月に各府県為替方設置手続及為替規則に修正を施して、為替方は毎年取扱ふべき金額の概算三分の一を担保として提供すべき事を定め、同年十月廿二日復び之を修正して担保額を預け金相当額となし、同月廿四日また更に令して追加担保の提供期限を同年十二月十五日限りとなす旨を厳達した。明治初年以来の繁栄に有頂天となつた為替方は急に一斗の冷水を浴せ掛けられた。
 然るに十一月に入つて政府の追窮は愈酷しく、大蔵省は各府県に対して電報を以て、小野組に預入れたる金額を一時に取立つ可き旨を厳達せんとした。この情報を仄聞して小野組は咄嗟の間に閉店を決意し大蔵省が各府県に訓電するに先んじて同省に整理を歎願するに如かずとし、十一月廿日に大蔵省に歎願書を提出し、其他諸官省各府県へ対し為替御用辞退を願ひ出でた。若しも小野組の閉店が時機を失して各府県より預入金を取附けられたならば、小野組に対する民間の預け主は非常なる迷惑を蒙るところであつたが、咄嗟の閉店によつて官民一律の整理を行ひ、幾分にても小野組の面目を保ち得たのである。小野組に対する政府の方針は斯くの如く急迫を極め、殆ど身を躱す暇も無かつたのは、名家小野の為めに悵然たらざるを得ない。
 これより先き、小野組幹部と第一銀行総監渋沢氏との間に内密の交渉が開かれた。
 第一銀行は創立当初は第一国立銀行と呼ばれた。本邦に於ける銀行業の最初の施設として、明治六年八月、小野三井両組の協同組織の下に成立し、渋沢栄一氏これが総監として業務を董督した。創業当時の主なる株主は、
○中略
 斯くの如く、第一銀行の株式の大半は小野、三井両家によつて所有されたのであつたが、明治七年の秋、前大蔵卿井上馨氏《(マヽ)》は小野組に対する政府の態度の峻酷なるべきを第一銀行に告げて、予めこれに備へんことを注意した。当時第一銀行が小野組に対する貸出は、百三十八万円の巨額に達して居つたので、総監渋沢氏は万一小野組瓦解の暁は第一銀行も余波を蒙つて必ず破綻すべきを深憂して、小野善右衛門、行岡庄兵衛の二人及び翁と会見し、銀行の立場を説明して、整理の方法を懇談した結果、小野組は累を第一銀行に及ぼさゞる事を誓ひ、同行に対し十分なる担保を提供すべきを約して、誠実にその言の如く履行した。
 - 第4巻 p.127 -ページ画像 
 明治七年十一月、小野組は資財全部を大蔵省に提供して自ら其整理を訴へ出た。玆に於て、大蔵省は新に勘査局を設けて、取調べに着手し、明治十年六月を以て処分を結了した。小野組に続いて、島田組も瓦解し、残る三井組のみ事無きを得た。
 湮没せる小野の家名は明治廿六年に再び世に顕れた。この年、朝廷は特旨を以て、故小野善助に正五位を贈り、小野善右衛門を従五位に叙し、維新の功績を旌表された。


〔参考〕竜門雑誌 第二四五号・第一四―一七頁〔明治四一年一〇月〕 ○事業的勇者の典型(青淵先生)(DK040012k-0030)
第4巻 p.127-128 ページ画像

竜門雑誌 第二四五号・第一四―一七頁〔明治四一年一〇月〕
    ○事業的勇者の典型 (青淵先生)
  此勇者は余が三十余年間の親友○それは比類なき程非凡な自信力○余は此程の勇者を他に見ない○如何にも男らしい立派な人物○誰が何と言つても耳にも留めぬ○それが義に感ずれば声を揚げて泣く
此編は「実業の日本」の為めに先生の談話せられたる所にして「余は事業的勇者の典型として何人を推薦するか」と題し同雑誌十月十日発行勇者の世界に掲載せられたるものなり
○中略
    ▲余の追懐に堪へざる三十年前の古河
小野組は明治五六年頃に全盛を極めて居たが、明治七年になると世間の金融が引締る。政府の御用金に対しては相当の抵当品を入るようにとの厳達がある。元々此為替金とか各省の御用金といふものは無期限で、何時も命令次第に上納せねばならぬ。而して小野組でも種々の殖産興業に資本を投じてまだ起業半ばのも固定したのもある、中々遽に完全の抵当品を政府に差出すことが出来ない。結局小野組は閉店しなければならぬ事情になつた。
当時の小野組は其営業が二に分れ、銀行部は小野善右衛門と云ふ人が監督し、も一つの糸店……糸店とはいふが、其は当初の事で、勿論生糸が主ではあつたが、米や鉱山などにも手を拡げて居た……の番頭が古河氏で、浅野幸兵衛以下の人々が其下に附て居た。
当時私の第一銀行は余程小野組に金を貸して居た。本店と糸店とを合せたら百三四十万円になつて居たらう。本店からは第一銀行の株を、糸店からは生糸や米を抵当に入れてあつたものであるが、確とした契約書があつた訳ではない。云はゞ信用貸のやうなものであつた。当時第一銀行は創立したばかりで、小野組の貸金が取立てられなければ、折角企てた銀行事業も試験中に没して了ふ、私も余程懸念して居つた。
    ▲如何にも男らしい立派な処置
其中に古河氏が私の許に来て言ふ「私も種々御配慮に預つたが、小野組も愈々存立が覚束なくなつて来た。小野組が閉鎖する為に、貴下に御迷惑を懸け、又は銀行を潰す様な事があつては、何分にも私が貴下に済まぬ。併し私は決して銀行を潰ぶす様な事をせぬ、勿論信用貸とはいふけれども、是丈の仕事であるから是れだけの金融をして貰らひ
 - 第4巻 p.128 -ページ画像 
たいと云つて借りた金である。手続きこそ完全でないが抵当にしたと同様なものである。就ては私の方に在る財産を糸でも米でも悉皆差入れるから直に正当な手続をして下さい」と云つて、先方から抵当権設定のことを請求し、而してこの倉庫の米が何俵、何れが何俵、この生糸が幾何と云ふ様に貸金に相当するだけの抵当を提出し、その為に私の銀行は抵当を完全に受取ることが出来て大した損失もなく、危険な時期を過すことが出来た。金を借りて居る、抵当が不確であつたから確実に書入れにするといふは、少しも不思議のないことである。然し斯やうな場合になればある商品でも隠匿したがるのが人情である、手続が不確であれば、それなりに誤魔化しするが世間の常である。私も其を心配して居たので、他の債権者との間に議論でも起る様なことになるのを憂へたのである。然るに古河氏が隠匿するどころか、自分から云々の抵当品を提供して書き入れを請求して来る、必ず御損をかけぬようにすると云ふ、如何にも男らしい立派な処置である。勇気ある人でなければ出来ぬことである。私は深く感心した。
    ▲流石の古河も声を挙げて泣いた
此時の事である、たしか其年の十一月中頃であつたと思ふ。愈々大蔵省に申請することに定まつた三日ばかり前の事、私は古河氏から案内を受けて柳橋の升田屋……其頃古河氏がよく遊びに行つた……船宿へ行つた。小野組の人が三四人ばかりと私。其時に古河氏が「私は明治三年から貴下と御懇意を結び、非常な御世話になつた。銀行を御創立になつてからも、私は金を預け入れるものでなく金を借り出すものでいつも御厄介ばかりになつて居つた。今回小野組が危険になつたに就ても、相当な抵当を入れるから御迷惑を懸けぬ積である。年来の御厚誼には背かぬ積である……然し考へれば如何にも残念である、本店の方は兎も角、私の糸店の方は既に計画も建つて、月々に良好な結果を挙げて居る。それを見す見す廃止するのは如何にも残念で堪らぬ、私がどうしたといふ訳でないが、小野組が破産すれば私も破産者の一人となる。事業の成績が悪いのであれば致方もないが、良い事業を行りながら斯様なことになつたと云つて、流石の古河も声を挙げて泣き出した。あの自信力の強い男が男泣きに泣いたのである。余りに気の毒なので「何もそんなに歎くことはないではないか、自分が破産をさせたといふではなし……お互にまだ年も若いし是れから大にやらうぢやないか、男子は此位な事に泣く様なことでどうする、大志ある者は須からく大成を今後に期すべしである」と云つて大に奨励し、慰めたことがある。顧みれば三十余年前の事、茫として夢の様に過ぎ去つたが当時の光景は今日でも尚ほ眼前に見えて居る。
    ▲無一文となつて初て独立の必要を感じた
小野組もとうとう閉店して了つた。古河氏も給金や賞与金を預けて置いたが、それは無論取る事は出来なかつた。明治八年には殆んど無一物となつた。○下略


〔参考〕古河市兵衛翁伝追録 第一―一三頁〔大正一五年四月〕 【市兵衛翁を憶ふ 子爵 渋沢栄一氏談】(DK040012k-0031)
第4巻 p.128-132 ページ画像

古河市兵衛翁伝追録 第一―一三頁〔大正一五年四月〕
  市兵衛翁を憶ふ
 - 第4巻 p.129 -ページ画像 
                子爵 渋沢栄一氏談
    翁との交誼
 故市兵衛翁と私とは相応に懇親を厚うした間柄であつて、私の方からも此人は将来成功する人であると信じ、市兵衛翁も渋沢は頼むに足る者だと思つて呉れ、二人の間は所謂相識ると云ふ状態であつた。
 翁と懇親になつたのは、何でも私が民部省の租税頭となつた後で、多分明治三年の夏頃からの交際であつたと思ふ。初めはどう云ふ事で御目に掛つたのか記憶せぬが、翁は条理上の話は嫌ひで、何時も来る毎に実際問題を話した。どうしても御一新後の日本は商売を盛んにせねばならぬ、第一に生糸を盛んにしたい、種紙の輸出も面白い、鉱山も遣つて見たいと云ふやうな話があつて、私も面白い人だと思つた。それに、あの人は至つて町人風で、へいへい云うて、私の事を殿様殿様と云ふ、『君は殿様だけは止めて貰ひ度いものだ。』と云ふと、『それでも政府の御役人様に失礼があつてはならぬ。』と、一寸も礼儀を欠かさぬ人であつた。こんな工合に交際して居る内に、明治五年に種紙の輸出で大層利益を得た。それを後で聞いて私は、『利益を得たか知らぬが、小野組が左様な事にまで手を伸ばすのは感服せぬ。』と意見した事がある。その時翁は、『いや、あれは屹度良いと思つたから、一寸手を出したばかりで、あれを小野組の終世の事業としようとは思はぬ。』と答へた。
    小野組瓦解と翁
 小野組は、明治五六年頃全盛を極めて居たが、余り手広く遣り過ぎた為めに、不確実なる事業に資本が固定し、政府よりの預り金は厳重なる取立てに遭ふと云ふ訳で、明治七年には閉店しなければならぬ程の悲運に陥つた。当時の小野組は、営業が二つに分れて居て、銀行部は小野善右衛門氏自ら之を総理し、糸店の方(名目は糸店でも米や鉱山などにも手を拡げて居た)は、古河翁の主宰で、その部下には浅野幸兵衛以下の人々が附いて居た。而して私が経営して居た第一銀行は、小野組が百万円の大株主であつたから、私もそれを信用して百参四拾万円の貸出を為して、これが抵当として本店から第一銀行の株、糸店からは生糸や米を提供してあつたが、それに就て別に確乎たる契約書を取つた訳でも無く、いはば信用貸の様なものであつた。然るに小野組は俄然破産に瀕したので私は事業界の為め、将た銀行の為め、非常に心痛したのである。その際、古河翁は進んで此の倉庫の米が何俵、この生糸が幾何といふ様に貸金に相当する丈の抵当物を提供した。その為めに、第一銀行は大した損失もなく、危険な時期を通過することが出来たのである。世間普通の者なら、破産に際すれば、有る品物も隠匿したがるのが人情である。然るに翁は隠匿するどころか自ら進んで抵当物の提供を申出で、必ず御損を懸けぬやうにすると云つた。如何にも立派な、男子らしい態度ではあるまいか。誠実にして且つ勇気あるものに非ざれば、到底学び能はざる処であらうと、私は深く翁の性格に感じ入つた。
    翁の再起
 この時に小野組は遂に破産して仕舞つた。翁は一方の棟梁であつた丈に相当な金も持つて居つたが、それは一切主家に預けてあつたから
 - 第4巻 p.130 -ページ画像 
受取ることも出来ず、翁も亦それを強ひて取らうとせず、さつぱり断念して、所謂裸一貫で小野組を去つたのである。
 無一物で出た翁は、明治八年に亦無一物で自家の業を創めた。その時私にも相談に来て、鉱山業が一番面白いから、自分は一生をこのことに投ずる積りだと語り、その第一着手として、新潟県下の草倉銅山に手を下した。固より古河翁は無資本であるから、この時第一銀行から一万円程も融通したやうに覚えて居るが、幸ひにもこの銅山が的中して、次第に運命を開拓するやうになつた。
    足尾銅山
 翁が畢生の事業であつた足尾銅山には、私も種々なる関係を持つて居つた。足尾は明治九年頃は副田欣一と云ふ人の所有であつた。この人は士族で鉱山を手広く経営して居たが、金が乏しかつたので、足尾も岡田平馬と云ふ人が資本を出して営業を続け、一時所有主と営業主とが人を異にして居た。それも立ち行かぬので、古河翁に売渡しの相談を掛けて来た。勿論、翁は欲しいが買取る丈の資本が無い。そこで相馬家と組合で経営する事となり、後に私も参加して三人で二万円宛を出資し、仕事は翁が引受けてやることにした。処が副田と岡田との関係が右の通りであつたので、古河翁が愈引受けると云ふ段になつて苦情が起つた。権利は誰にあるとか、山を渡すの渡さないのと互に争うて果しが無い。幸ひに岡田も私の知人、副田も第一銀行の取引先、三人とも私の知人であつたので、その仲裁を私が引受け、漸くの事で円満に解決させた。
 然るにこの山は古く掘続けた丈に、坑口が蜂の巣のやうになつて居た。それ故、『どうしてあんな山を古河が引受けたのだらう。』とか、『あんな山をやつては失敗は見え透いて居る。』とか、非常に非難した人もあつたさうであるが、翁は別に見る処があつたものと見え、何人がいかやうに云つても耳に留めず、仕事をずんずん進行させた。併し最初は損を仕続けて、更に算盤はとれなかつたが、そんな事に頓着したり挫折するやうな人でないから、行ける所まで行つて見ると云ふ決心でやつて居た。その中に段々良くなつて、終に今日の大成功を見ることが出来たのであつた。それから、明治十二年と記憶して居るが、鉱山は面白いものだ、私が案内するから行つて御覧なさいと云はれて翁に連れられて、足尾に行つたことがあるが、その時は実に微々たるものであつた。その後、また、十六年にも行つて見たが、山の規模は次第々々に大きくなるばかりであつた。
    天成の鉱業家
 其時に、古河翁の鉱山に対する知識は不思議なものだと思つて、今も人に物語るのであるが、元来翁は新聞も余り読まぬ学問の無い人で法律などの話をしても、国の法律も県の命令も皆混同して等しくお上の掟だ服従しなければならぬと云ふ風で、其点から云へば文盲な不条理な考へ方をする人であつて、斯かる事柄に関しては、記憶も頗る悪かつたが、これに引きかへて、鉱山の事になると実に記憶が良い、まるで人間が違ふやうに思はれた。其当時、月に一遍は私の所へ山の模様を話しに来たが、足尾銅山が頭脳の中に畳み込まれてある様に見え
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た。学問はせぬが鉱山の事は技師以上であつた。昔の書物に、或人が経書の講義には居睡りしたが、六韜三略になると席を乗り出したとある。それと同様に古河翁は或事柄に就ては殆ど無感覚であつたが、鉱山に対しては特殊な感覚を有ち、その能力は非凡なものであつた、而して鞏固な自信力をも具へてゐて、唯一心に之に従事し、あらゆる鉱山に手を出した。
    谷花銀山
 何でも草倉で成功して間も無い頃であつたが、土州の島本仲道といふ人から、谷花といふ銀山を買入れたことがある。その時も銀行に融通を頼んで来たが、私はその契約は危険だから思ひ止つては如何かと懇々諌めたが聞き入れぬ。結局五万円ばかり融通したが、この銀山は全く見込外れで大損をした。依て私は、『それ見たことか、云はないことではない、あんな事をしては困るではないか。』と半分小言交りに意見を云つた処が、翁は一向平気なもので、
 『それは貴君が違ふ、河童は川で死ぬといふ事がある、鉱山を専業とする以上、五万円が十万円でも廿万円でも損をしても宜いではないか。その位の考へでなくては、大きな仕事は出来ませぬ。五万円損をしたから怪しからぬと云ふのは、鉱山で志を成さうとする者に対して余り小言が酷すぎる。』
 『成る程私が云ひ過ぎたか知れぬが、少し気を附けて貰ひたい。』
 『気は附けるが、損をしたのが不可ないと云ふのは、叱る方が無理だ。』万事がこの調子であつた。
    楽みは事業に在り
 このやうに、損を損と思はずに、事業に熱中する性質であつたが、自己の慾には淡い人であつた。
 生来潔白の人で、金銭上の事から人に迷惑を及ぼす様な事は決してなかつた。金を儲ける事は非常に好きであつたが、然し普通に交際して居ては少しもそんな風は見えなかつた。そして時々、『人は運、鈍、根の三つが必要だ。』とか、『耳朶が肝腎だ。』とか、妙なことを云つて居た。野蛮的な処もあつたが、『大慾は無慾に似たり。』とでも云ふものか、頓と金儲けをしたいといふ風は見えなかつた。第一銀行は最初から、翁の為めに金を融通して居たが、然し長い年月の間、唯の一度も利子を負けて呉れと云つた事がない、銀行から計算書を送れば、翁は銀行のなす儘を信じ切つて、如何に苦しい場合でも必ず都合して利子を払つた。
 翁自身は自己の富を増すと云ふよりは、事業を盛んにするのが目的で、楽みは事業に在つて、事業より生ずる利益は渣のやうに考へて居た。真に勇しい愉快な性質の人であつた。
    猪突的な経営
 併し、その半面には事業に対して熱し過ぎる嫌ひがある。詰りこれも事業好きの結果であつたらうが、何しろ無暗と山を買込む、その買込方も頗る大雑駁のやり方で、大概は一目見て好い加減に鑑定を下しどしどし買取つて仕舞ふ。場合に依つては精細に調査研究することもあつたが、大概は大腹な事をするのが弊であつたから、自分等も大に
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これを気遣ひ、一時は山を買ふことを中止するやうに忠告した事もあり、又口約では安心出来ぬから、今後余り事業を拡張せぬと云ふ証書を書かせた事もあつた。併し、当人は容易にこの癖は止まず、鉱山事業ばかりは如何なる先輩知己の言でも決して容れなかつた。一度自分で見込を附けたが最後、何と云はれても、勇往邁進、究極に達しなければ止まぬので、これが為めに損害を被つた事もある。それから又、平生こんな事を云つて居た、『自分は此上とも、自分の資力の許す限り、生命の続く限り、飽く迄もこの事業を拡張する積りである。この事業の為めならば、内地ばかりでなく、外国迄も手を伸ばして見たい考を持つて居る。』と。
 こんな風であつたから、私は或時、各鉱山の所長が出京した機会を利用して、その人々を兜町の事務所に集め、
 『古河翁には成る可く事業を勧めないやうにして呉れ。』と懇談した事などもあつた。
 翁は真に珍しい進取的の人で、鉱山にかけては殆ど猪突的であつたと云つてもよい。
    文字と手柬
 前にも云ふ通り、翁は学問の無い人であつた丈に、文字も極めて見悪いものであつた。それでも必要な手紙は自ら筆を執り、決して代筆をさせた事がなかつた。受取つた手紙も難かしい文字は読み抜くことが出来なかつたらうと思ふが、それも一々点検して、返事を必ず認めた。事業を非常に手広くやつて居たのであるから、手紙の往復丈でも容易でなかつたに相違ないが、それを一々自分で応酬して居た其の気力は、実に非凡なものである。
    無学成功の三人
 翁は学問こそなけれ、天稟の才能が著しく発達せる非凡の人物であつた。私の知己に無学成功の三人がある。三井家の三野村利左衛門氏天下の糸平と云つた田中平八氏、それに古河翁。この三人くらゐ、無学でありながら非凡の才能を備へた人を、私はまだ見た事がない。無学と云ふと甚だ軽蔑したやうに聞えるが、私が無学の人と云ふのは、規則的の学問をせぬと云ふ意味で、つまり、順序に従つて修学せぬことを云つたのである。この三人は各流儀を異にして居たが、学問の無いことだけは三人の共通点であつた。三野村氏も新聞の論説などは読みこなす力が無かつたらうし、古河翁も、新聞は少し難しいところになると解らなかつた様子で、文字も金釘流のまことに悪筆であつた。田中氏に至つては更に甚しい。
 三人は斯くも文字は無かつたが、その為した事業は、凡人の企及すべからざるものが多い。その内でも、古河翁が第一位を占むべきものと私は考へて居る。