デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 第一国立銀行 株式会社第一銀行
■綱文

第4巻 p.363-366(DK040032k) ページ画像

明治10年(1877年)

栄一上海ニ同行ノ支店ヲ設ケントス。英人アレクサンダー・アーレン・シャンドAlexander Allen Shandノ勧告ニヨリ中止ス。


■資料

竜門雑誌 第四六三号〔昭和二年四月〕 支那問題に就て(青淵先生)(DK040032k-0001)
第4巻 p.363-364 ページ画像

竜門雑誌 第四六三号〔昭和二年四月〕
    支那問題に就て (青淵先生)
○上略
   三
 支那に対しては事業上に就ても古い関係があります。明治九年末のことであつたと思ひますが、陜西省、甘蕭省方面の饑饉の為め、左宗棠の勢力下にあつた金順と云ふ其地方の将軍から、日本から金を借りたいと云つて来ました、当時、日本軍人で支那に滞在する者が少くなかつたが、其内の一人で陸軍大佐の福原和勝と云ふ人を通じて、日本の陸軍に交渉し、それから大蔵卿の大隈(重信)さんに申して来たのである。私は以前から大隈さんと懇親にして居たので、其時大隈さんは私を呼んで次のやうに云はれました。
 「実は支那から金を借りたいと云つて来た。支那に好くして置くことは、日本の将来のためであるが、政府自ら貸金する訳には行かぬ。だから第一銀行から貸したらどうであらうか。第一銀行が銀行として単独で大いに支那へ手を延すと云ふことは、今日の処難しいであらうが、政府も連絡をつけるし、表面は出来ないけれども、事実に於て援助する積りである。支那のそれに関する主任者は許厚如と云ふ者である」
 其処で私も、第一銀行をして海外に発展せしめることが出来る上、金ばかりでなく、物資も欲しいと云ふのであるから、金融の外に、貿易上にも資する訳であるとして乗気になり、物資の関係から三井物産を代表して益田孝君、又大蔵省銀行局長の岩崎小二郎と云ふ人及び仲介者の福原和勝氏、金を貸す側として私、都合四人で上海へ赴き二三週間滞在して、委員の許厚如と交渉を重ね、二百五十万両の貸借契約を結びました。返済の期間や利率は憶へないが、兎に角対支借款が成立したのであります。然るに其後支那側から契約を破棄したので、解約の罰金として三万ドルか六万ドルかを支払はしめました。此の借款のことは其の時限りの一事件であるが、海外に活躍する為め、此の機
 - 第4巻 p.364 -ページ画像 
会に支那に支店を置かうと考へて、三井物産の上海支店内で、金融取引をする下準備までしました。当時第一銀行は海外支店としては朝鮮に店舗を有つて居たのであります。
 処で銀行事務の教師であつたシヤンド氏に此事を相談した所、厳しく忠告せられたが、尤もと思はれたので遂に実行を中止しました。其のシヤンド氏の説は次のやうなものでありました。
「第一銀行が海外に支店を出すことは適当でない。元来第一銀行は商業銀行である。内地の金を預り、之を貸出に廻し、日本産業の発展に資するのを目的とするもので、海外の為替取引に関するものとは全然性質が異つて居る。同じく金融機関ではあるが、本質に於て全然違ふ、勿論双方の仕事を掛け持つことも出来ぬことはないが、二兎を追ふ者は一兎をも得られない結果となるであらう。殊に銀本位の支那に於ては、金銀の比価変動が常ならず、其途の専門家でも其間に処して宜しきを得ることは中々困難である。況んや素人たる第一銀行はどうしても損失を招き易い。真に危険千万である。貴方は未だ銀行家として玄人とは云へない。たゞよく勉強するから、必ず出来ないとは申さぬけれども、先づ二股をかけることには少なからぬ懸念があるから切におとめする」
これはほんの概略であるが、此意味の意見書を出した。之を読んだ私は、成る程と考へ、直ぐに「御注告を感謝し、此度のことは思ひ止まる。然し朝鮮の支店のみはよすことは出来ない」と云って、結局上海の方の計画は中止したのであります。


雨夜譚会談話筆記 上・第八六―一八七頁〔大正一五年―昭和二年〕(DK040032k-0002)
第4巻 p.364-366 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上・第八六―一八七頁〔大正一五年―昭和二年〕
    在外支店設置とシヤンド
敬○渋沢敬三「シヤンドは日本の銀行創始に当つて相当尽したのに余り恩人らしく云はないのは何故でせう」
先生「シヤンドは十三四年頃まで日本に居つた。第一銀行で上海へ支店を出さうとして出さなかつたのもシヤンドの説があつたからである。上海へ支店を出さうとしたのは、支那の奥地に饑饉があつたので左宗棠が、日本へ借金を申込んで来た。当時大蔵省に大隈さんが居て、金は政府から出すから第一銀行が債権者になつて呉れと云ふので、左宗棠の代理の許厚如と二百五十万の貸借の約束をした。(但し此の借款は後、破談となつた)其の時私は夫等の取扱をする為めと同時に上海へ第一銀行の支店を置かうとしたのである。処が支那へ支店を置くに就てはシヤンドが意見を云ひ出した。其の意味は、新銀行制度に依つて文明式にやらうとするには、第一に其の基礎を固めなければならない。東洋の事態は金と銀との差が甚だしい、そしてその動きを予め知ることは困難であるから非常に危険が多い。普通銀行と為替を扱ふ銀行とは性質が全然異り兼営することの出来るものでない。第一銀行は内地の金融に力を尽すものであるのに、為替銀行の働きをする支店を出すのは、危険が甚だしいから、第一銀行としては上海へ支店を置くやうな危険なことは中止して、普通銀行で進んで行つた方がよいと云ふ。大蔵次官であつた吉田清成氏なども、それと同
 - 第4巻 p.365 -ページ画像 
説であつた、私は支那へ手をつけ度いと思つて居たから、色々に考へて見たが、此異論は正当である。実際金と銀との差は相当甚だしいのみならず紙幣の兌換も出来ない有様であつて、国立銀行を造つたが政府の紙幣引換にした程であるから、海外支店を置くことは間違ひであると考へた。又一般に為替銀行は独立して別に造つたらよいと云つて居た。それで後に為替専門の横浜正金銀行が出来た様な訳で、之れはシヤンドの意見があり吉田清成氏が主張して政府関係のものとして創立せられたのである。云はゞ大隈さんの風呂敷の中へ入つたのである。そしてシヤンドは人としての巾の狭い人でもあつたから、日本銀行界の恩人であるが、余り有難がられぬ。たゞ帳面など厳格に調べる人で第一銀行でも三度ばかり検査された。
○中略
敬「御始めの前に一寸伺ひたいと思ひます。先夜銀行倶楽部でのお話の中にシヤンドから第一銀行の為替業務を開始することをとめられ、上海へ支店を出す計画を中止したと云はれましたが、之に付て佐々木頭取は(第一銀行の支店を置かうとしたのは上海でなく、米国だつたように思ふ。それを建言したのは米国の第四国立銀行に居た種田誠一で、当時の駐米公使吉田清成も日本から米国へは生糸が売れて其代金を受取らねばならぬ。又公使館の費用も送る必要がある。此点から云ふても日米間の為替取扱ひをする必要がある、と云つて居た。此様な関係から第一銀行でそれを実行しやうとした。然るにその事をシヤンドが知り、内地預金銀行と為替銀行とは性質が異ふ、預金銀行が為替銀行を兼ねてはならぬとの意見書を書いて出し、尤と云ふので止めたように承知して居りますが)と云つて居られましたが如何でせう。それからシヤンドの通訳は中原国之助と云ふ人であつたそうです」
先生「其の記憶は佐々木君のが違つて居る。上海へ支店を出す計劃をしたことは或はまだ佐々木まで通じなかつたかも知れぬ。明治十年頃三井の植田安三郎と云ふ、身体の小さなよくしやべる男が物産の支店を上海へ設ける為め行くことになつたことを覚えて居る。第一の支店を上海へ置かうとしたのは其後であつたと思ふから十一年であつたらう。然るに此頃受取つたシヤンドの手紙によると西南戦争の始まつた時分に日本を去つたと見える。若しシヤンドの記憶に謬りがないとすれば年代が合はぬが、果して如何であらうか。兎に角私は自分の記憶によつてお話しよう。其時上海へは八巻知道と桃井可雄をやる積りであつた。其事をシヤンドに相談した処(銀貨国へ支店を出して為替の取扱ひをするのは頗る危険である。英国では内地の普通銀行と為替銀行とは全然区別して居る。何故かと云ふと両者は性質が異ふ。為替銀行の方は時に暴利を得ることもある代りに非常な損失を醸すことがある。極めて危険であるから是非思止るようにしたい)と切に注意した訳である。其後種田から米国へ支店を出したがよいと云ふ話があつたかも知れぬ。種田の兄に陸軍少将が居たが、十年戦争の折に熊本で死んだ。又種田誠一は三十三銀行を経営して居たが遂につぶしてしまつた。其後谷元《(谷元道之)》と一諸に東京馬車
 - 第4巻 p.366 -ページ画像 
鉄道をやつたことがある。斯様な訳で第一の支店は上海の方を計画した。後に種田あたりから、米国へと云ふ話があつたかも判らぬがよく記憶しない」
敬「シヤンドの出した意見書の訳したのが、第一銀行にあつたのを豊川良平さんからの依頼で、三菱へ貸し、三菱の人々がそれを読んで居た為め、三菱銀行が海外へ支店を出すのが後れたと云ふことですが」
先生「そんなことかも知れん。――豊川君に貸したことも記憶して居る。」
○下略
  ○明治七年、支店ヲ米国ニ設ケントセシコトアリシモ、矢張リシヤンドノ反対ニヨリ中止セリ。明治七年二月(本書第七三頁)ノ条ヲ参照スベシ
  ○清国トノ借款問題ニ就テハ明治十年一月二十六日(本書第三一九頁)ノ条ヲ参照スベシ。