デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
3款 特殊銀行 2. 横浜正金銀行
■綱文

第5巻 p.221-222(DK050050k) ページ画像

明治17年7月(1884年)

是月ヨリ栄一横浜正金銀行ノ株主トナル。同行株主タルコト数年ニ及ブ。


■資料

横浜正金銀行第十回半季実際考課状並諸報告表 (自明治一七年七月至同年一二月)(DK050050k-0001)
第5巻 p.221 ページ画像

横浜正金銀行第十回半季実際考課状並諸報告表
                  (自明治一七年七月至同年一二月)
    横浜正金銀行株主姓名表
 東京    渋沢栄一    六〇
   ○当初ノ株主名簿中ニ栄一ノ姓名ナク、後、株主ト為レルナリ。而モ十七年頃ヨリ数年間株主タルニ止マル。


雨夜譚会談話筆記 上巻・第三〇二―三〇八頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕(DK050050k-0002)
第5巻 p.221-222 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上巻・第三〇二―三〇八頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
    第十一回雨夜譚会
  昭和二年七月廿七日午後五時より飛鳥山邸にて雨夜譚会を開く。出席者は青淵先生、敬三氏、増田氏、渡辺氏、白石氏、小畑氏、高田氏、岡田、泉。特殊銀行たる、横浜正金銀行、日本勧業銀行、台湾銀行、北海道拓殖銀行、日本興業銀行、朝鮮銀行の創立と青淵先生の関係に就て御談話を伺ふ。
敬「横浜正金銀行に就てのお話を御願ひ申します」
先生「正金銀行の創立されたのは日本銀行の創立より前で明治十三年頃だつたと思ふ。私はそれには余り相談に与からなかつた。当時の大蔵卿は大隈(重信)さんであつたが、誰が進言してどう云ふ順序で出来たかよく憶へぬ、中村道太と云ふ人が主唱者となり、一時的ではあるが中心人物となつたやうだが、此の中村と云ふ人は大いに画策して仕事をすると云ふ程の人物ではなかつた。私としては海外に対して為替銀行がなければならないと考へ、第一銀行
 - 第5巻 p.222 -ページ画像 
でも十一年には朝鮮へ支店を出し、又上海へも支店を出さうとした。上海への支店計画は前にも話した様に、十年に支那から金融交渉があり、二百五十万両を貸付けることになり、実際は日本政府から貸付するのであるが、表面第一銀行が債権者となることになり、それが原因となつて上海に支店を出さうとした。そして私の考へでは海外の為替業務も同時に取扱ひ度ひと思ひ、大いに支那に発展しやうとする心組であつた処、此時未だ大蔵省に居たと思ふが、シヤンドから、為替業務の危険である旨の注意を受け、誠に尤もな意見と思つたので、支店設置は中止した。即ち其の注意は「第一国立銀行は普通銀行として立つて居るのに支那に支店を置くのは銀為替を取扱ふことになり、本旨に反するのみならず頗る危険である。二兎を追ふ者は一兎をも得ない結果になるから止めた方がよい」と切実に云つて呉れた。正金銀行の設立も其頃の事であつたから特に力を入れて尽すと云ふやうなことはなかつた。然し全然関与しないのではなかつたのである。当時紙幣の下落が甚だしく、一般から大いに懸念せられたので、紙幣減縮の意見で、其の償却説が高くなり、私達も其方法に就て協議した。学問上から主張したのは田口卯吉氏であつた。処が大隈さんは之に反して、外国から借金して整理しやうと云ふ政策を採つたのであるが、後に松方(正義)さんが大隈さんに代つて紙幣償却の任に当り消極策を実行した、然し此正金銀行の出来たのは大隈大蔵卿の時代で園田(孝吉)氏、原六郎氏等も主な賛成者であつたと思ふ。兎に角私は大隈さんから嫌はれて居た時分であつた。○中略
敬「では正金銀行は其後別に御相談なしに延びて行きましたか」
先生「私が力を入れたことはなかつた。何んでも業績が悪くなつた時には園田孝吉氏が整理したと思ふ。中村道太と云ふ人は、先づかきちらかす方で、本当にやつたとは申せなかつた」
   ○園田孝吉の正金銀行頭取就任ハ明治二十三年三月。