デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
3款 特殊銀行 3. 日本勧業銀行
■綱文

第5巻 p.222-230(DK050051k) ページ画像

明治29年12月8日(1896年)

内閣ヨリ日本勧業銀行設立委員ヲ仰付ケラル。同三十年六月三十日免ゼラル。


■資料

官報 第四〇三五号〔明治二九年一二月九日〕 叙任及辞令(DK050051k-0001)
第5巻 p.222-223 ページ画像

官報 第四〇三五号〔明治二九年一二月九日〕
    叙任及辞令
          大蔵次官法学博士男爵  田尻稲次郎
               農商務次官  金子堅太郎
               大蔵書記官  添田寿一
              法科大学教授  梅謙次郎
              農科大学教授  玉利喜造
              農科大学教授  松崎蔵之助
 - 第5巻 p.223 -ページ画像 
                 正四位  富田鉄之助
                 従四位  渋沢栄一
                 従五位  河島醇
                 正六位  中上川彦次郎
                      五十嵐敬止
                      山本直哉《(マヽ)》
                      荘田平五郎
  日本勧業銀行設立委員被仰付(各通)(十二月八日内閣)


東京経済雑誌 第三四巻・第八五六号〔明治二九年一二月一九日〕 日本勧業銀行設立委員会(DK050051k-0002)
第5巻 p.223 ページ画像

東京経済雑誌 第三四巻・第八五六号〔明治二九年一二月一九日〕
    ○日本勧業銀行設立委員会
日本勧業銀行設立委員会第一回は去十二日午前十時より大蔵省内の事務所に開会せり、田尻、金子、添田、梅、玉利、松崎、富田、渋沢、河島、中上川、五十嵐、山本、荘田の各委員出席、松方大蔵大臣も佃秘書官と共に臨場し、同行創立に関する一場の演説をなし、終りて田尻稲次郎氏を委員長に、添田寿一氏を幹事に選定し、夫より諸事の打合を為したるが、本会の議事及其経過は総て秘密と為す事に決定し、午前十一時三十分頃散会したり


東京経済雑誌 第三五巻・第八七〇号〔明治三〇年四月三日〕 勧業銀行の株主募集(DK050051k-0003)
第5巻 p.223 ページ画像

東京経済雑誌 第三五巻・第八七〇号〔明治三〇年四月三日〕
    ○勧業銀行の株主募集
同行設立委員会は去月廿六日午後六時より開会し、田尻委員長初め各委員出席して協議する処ありしが、元来株主募集の件は投機者流の乗ずる所となりし事実少からざれば、設立委員の如き今後勉めて公平の処置を取り、世間の嫌疑を受けざる様努め、一定の期限間に遍ねく世間に募集する事に決したりと云ふ


東京経済雑誌 第三五巻・第八七一号〔明治三〇年四月一〇日〕 日本勧業銀行株主募集(DK050051k-0004)
第5巻 p.223-224 ページ画像

東京経済雑誌 第三五巻・第八七一号〔明治三〇年四月一〇日〕
    ○日本勧業銀行株主募集
去八日の官報を以て左の如く公告せらる
 今般大蔵大臣の認可を得て株式会社日本勧業銀行の株主を募集するに付左の事項を公告す
            東京市麹町区大蔵省構内
             日本勧業銀行設立委員事務所
   明治三十年四月八日    設立委員長 田尻稲次郎
 一当銀行の資本金は一千万円にして株式の総数を五万株とし一株の金額を二百円とす
 一当銀行の定款は明治三十年三月十七日大蔵大臣の認可を得たり
 一当銀行の定款は公衆の便を図り明治三十年四月一日の官報に掲載せらるを以て就て閲覧せらるへし
 一株式引受申込期限は四月十日より同二十九日限りとす
  申込書に四月二十九日までの郵便局消印あるものに限尚五月十一日まては受付け其以後に到着するものは総て返戻すへし
 一株式申込人は一株に付き証拠金二十五円の割合を以日本銀行名宛
 - 第5巻 p.224 -ページ画像 
にして設立委員長田尻稲次郎指図払の為替手形を申込書と共に封入し当事務所宛に必ず書留郵便を以て発送せらるへし当事務所は現金取立の上領収書を発送すへし
 一申込株数株式総数に超過する場合には総申込株数につき按分比例にて割当つへし但一株に満たざる端数は切捨つるものとす
 一募入額確定の上は株式申込人に其株数を通知すへし其既に払込みたる証拠金総額は之を第一回払込金(一株に付き五十円)に充つる為め預り置き剰余あるときは之を還付すへし
  募入外れの場合には其旨を通知し証拠金は返戻すへし
 一株金第一回の払込を怠るときは株主たるの権利を失ふものとす此場合に於ては証拠金を没収す
 一申込書様式左の如し

      (印)
     印紙 株式会社日本勧業銀行株式申込書{用紙は美濃印形は実印}

  一株式会社日本勧業銀行株式何株
    此金額 何円
  前記株式引受申度株式会社日本勧業銀行定款及株主募集公告を認諾の上一株に付き証拠金二十五円の割を以て総金高何円の為替手形相添此段申込候也
                    府県郡市町村番地
    年月日                何    某 印
    日本勧業銀行設立委員長
         田尻稲次郎殿


東京経済雑誌 第三五巻・第八七七号〔明治三〇年五月二二日〕 日本勧業銀行株式割当の決定(DK050051k-0005)
第5巻 p.224 ページ画像

東京経済雑誌 第三五巻・第八七七号〔明治三〇年五月二二日〕
    ◎日本勧業銀行株式割当の決定
予て報したる如く勧業銀行株式の申込は非常なる好景気にて、十四倍六分に達したるが、其株式は当初の目的通り按分比例を以て割当つることなるも、尚三千七百余株の端数を生ずるを以て、勧業銀行設立委員は去る十八日午後六時より同委員会を開会し、此端数は更に抽籤を以て申込口数に一株づゝ振分ることに決定せりと云ふ、去れば十五株以下の申込を為して普通の割当に漏れたるも抽籤によりて其の割当を得る人もあるべきなり、又同一人にて前後数回に申込たるものは、前後申込株数を通算して一口となして計算する由、而して愈々株主も決定したる上は予納の証拠金中より一回払込金五十円宛を差引其残余の払戻に着手するは来る二十五六日頃なるべしと聞けり。


官報 第四一九八号〔明治三〇年七月一日〕 叙任及辞令(DK050051k-0006)
第5巻 p.224-225 ページ画像

官報 第四一九八号〔明治三〇年七月一日〕
    叙任及辞令
            大蔵次官法学博士男爵  田尻稲次郎
               大蔵省監督局長  添田寿一
            法科大学教授法学博士  梅謙次郎
                農科大学教授  玉利喜造
 - 第5巻 p.225 -ページ画像 
                農科大学教授  松崎蔵之助
                   従三位  金子堅太郎
                   正四位  富田鉄之助
                   従四位  渋沢栄一
                   従五位  河島醇
                   正六位  中上川彦次郎
                        五十嵐敬止
                        山本直哉《(マヽ)》
                        荘田平五郎
   日本勧業銀行設立委員被免(各通)(六月三十日内閣)


雨夜譚会談話筆記 上巻・第三〇二―三〇九頁〔大正十五年一〇月―昭和三年一一月〕(DK050051k-0007)
第5巻 p.225 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上巻・第三〇二―三〇九頁〔大正十五年一〇月―昭和三年一一月〕
     第十一回雨夜譚会
   昭和二年七月廿七日午後五時より飛鳥山邸にて雨夜譚会を開く。出席者は青淵先生、敬三氏、増田氏、渡辺氏、白石氏、小畑氏、高田氏、岡田、泉。
○中略
敬「日本勧業銀行の設立に就てお願ひ申します」
先生「勧業銀行も松方(正義)さんの胆入りで出来たので、私が立入つて世話をしなかつた。創立委員にはなつて居たらうが、松方案で出来たので、高橋新吉氏が最初の総裁であつたと憶へて居る。此人は薩摩人で正直であつた」
   ○初代総裁ハ河島醇、次代総裁ハ高橋新吉(明治三十二年十月就任)。


日本勧業銀行史 第一編 日本勧業銀行前史・第一四二―一四九頁〔昭和二十八年六月〕(DK050051k-0008)
第5巻 p.225-230 ページ画像

日本勧業銀行史 第一編 日本勧業銀行前史・第一四二―一四九頁〔昭和二十八年六月〕
  第四章 日本勧業銀行法の制定と日本勧業銀行の設立
    第三節 設立手続
一 設立委員の任命と定款の議定 日本勧業銀行法の公布によりいよいよ設立手続が開始された。その第一着手として政府は設立の免許を与えるまで一切の発起事務を処理する設立委員を任命せねばならない。ところが明治二九年九月の政変によつて伊藤(第二次)内閣は倒れ、松方(第二次)内閣が成立し、松方正義が首相と蔵相を兼摂した。日本勧業銀行法の生みの親はかくて銀行の設立をも担当することとなつた。銀行の性格に影響を与える設立委員の人選には、松方蔵相は深く考慮を払い、一二月一八日次の人々をこれに任命した。
 田尻稲次郎(大蔵次官)、金子堅太郎(農商務次官)、添田寿一(大蔵書記官兼大蔵参事官、のち監督局長)梅謙次郎(法科大学教授)、玉利喜造(農科大学教授)、松崎蔵之助(法科大学教授)、富田鉄之助(貴族院議員元日本銀行総裁)、渋沢栄一(第一銀行頭取)、河島醇(衆議院議員)、五十嵐敬止(貴族院議員、多額納税議員)、中上川彦次郎(三井合名会社専務理事)、山本直成(十五銀行支配人)荘田平五郎(三菱合資会社、日本郵船会社)
 設立委員の任務のうち、主要なことは定款作成と株式募集である。設立事務所は大蔵省構内におかれ、一二月一一日第一回委員会を開き互選の結果田尻次官を委員長、添田書記官を幹事と定め、いらいほとんど毎週一回会合した。
 委員会はまず定款の作成に着手した。大蔵省で作成し議会に参考と
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して配布された「仮定定款」を修正して原案とした。三〇年三月一七日の議事に至るまで、審議は八回にわたり慎重に行われた。実業家の渋沢、荘田、中上川、山本諸委員と農政学者の玉利、松崎両委員、地主派の五十嵐委員がしばしば対立し、河島委員および梅委員(民法起草者)は学識者としてその間独自の立場に立ち、また金子委員は産業保護を強調するなど、討論はきわめて活溌に行われた。
 まず問題に上つたのは、日本勧業銀行法の設立目的とする「農工業」の範囲である。玉利、松崎両委員の質問に対し、添田幹事は「立法ノ精神」として左のような注目すべき弁明をした。
「実ハ原法案ハ農業ノミニ限レリ、然ルニ我国ニ於テ生糸ハ主タル国産ニシテ、農家農作ノ閑時ニ於テ之ヲ為シ密着ノ関係アリ。且之ヲ進ムル必要ニ於テ毫モ軽重ナキヲ以テ之ヲ入ルルニ至リシナリ、故ニ大工業ノ如キハ重ナル目的ニアラザルモ、成立セル法案ノ上ヨリ見レバ製糸紡績織物ノ如キ亦此中ニ入レザルベカラズト信ズ」(日本勧業銀行設立委員会議事録第二回)。
 すでに見たように従来の諸草案では始めから農工業の目的が併記されているので、この「農業ノミニ限レリ」という原案は何時のことをさすかよく分らない。しかし工業といつても、それが農業に関係深いものをさしたであろうことは察せられる。添田幹事が紡績、織物をも新法の範囲にふくめたことは、むしろ情勢の変化を反映している。玉利委員はこの点をつき「製鉄煉瓦ハ如何。造船所ハ如何」と追究し、政府側から「是等ハ含マザルモノトス」との答をえた。田尻委員長の弁明は添田幹事よりもいつそう農政家に妥協している。「立法ノ精神ハ農業ノミナリキ。造船製鉄ノ如キニ貸付ケザルノ意ナリキ。然ルニ何時カ工業入ルニ至リ、問題ヲ生ズルニ至レリ。然レドモ、農家ノ為スモノニハ貸シ、大仕掛ノ紡績ノ如キモノニハ貸サザル様、総裁之ヲ取捨スルヲ得ルト信ズ」(同上)。しかし玉利、松崎両委員はなお懸念して、「工業総テニ貸ストセバ、或ハ全力ヲ工業ニ奪ハレ農家ハ恩沢ヲ蒙ルコト能ハズ」といつた。正反対の態度を表明したのは実業界の代表の一人、荘田委員で「農業者タリ工業者タリ何レニモセヨ、怜悧ナル方先ニ借リニ来レバ可ナルベシ」と産業資本家の立場を主張した。なおこの討論で、当時の代表的な企業の鉄道業は「運搬業」、新興の電灯業は「物品貸付販売業」としていずれも商業に属するものとされ、農工業から除外された。
 松崎委員は「造営物ノ建設貸附或ハ公衆ノ利用ニ供スルヲ以テ営業トナス事業」と「製造ヲ目的トスル会社又ハ企業ニシテ未ダ創業セザルモノ」に貸付をせず、また「抵当トス可キ不動産ハ企業ノ所在地ト同一ノ府県内若クハ一定ノ距離内ニアルヲ要ス」る規定を設くべきことを提案した。その精神は、「電灯ノ如キ工業ニ含マシムルノ恐」なからしめるというように反工業的のものであつた。玉利委員のほか賛成がなくて、この案は成立しなかつた。
 次に注目すべき論議は、抵当にとることのできない物件(定款草案第四四条定款第三六条)について行われた。金子委員は農商務省の立場から、鉱坑、石抗、池沼、鉱泉地をこれにふくめたのを非難した。幹事の「鉱業ハ山
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師業ニシテ危険ナリ」との弁明に対して、「日本ハ鉱物ニ富ミ居ルガ故ニ日本ノ国富ヲ増シ工業ノ改良発達を企図スレバ、鉱業ノ進歩ヲ謀ラザルベカラズ」といい、コークス製造やアンチモニー、マンガン鉱、またセメント石灰製造に貸付けないのは不当であると力説した。また畜産に関して秣場(牧場)を抵当にとりえないことに抗議した。これは一部いれられ「秣場ノ二字ヲ除シ入会地ヲ広ク解釈スルコト」となつた。なお原案では市街宅地に貸さないことになつていた。この点は河島、金子委員から非難されたが、田尻委員長は「仏国巴里ノ土地銀行ノ如キ失敗ノ先例モアレバナリ」と答えて原案を支持した(同上第三回)。
 激論を生じたのは一口当り貸付金額の制限であつた。払込資本金の百分の五とする原案を、松崎、玉利、五十嵐の三委員は百分の二に引下げようとし、反対に荘田委員は「資本ノ流レ先ノ如キハ問フベキモノニアラズ」と制限撤廃を主張した。しかし渋沢委員が自己の国立銀行における経験により制限説を支持したので、原案が採択された。
 借入金を農工業の改良発達以外の目的に使用したときは直ちに貸付金の償還を要求し、その他借入金を契約目的外に使用して銀行において不利と認めるときは償還を要求しうる定款規定は、格別の異論を見なかつたが、重要である。これは農工銀行では法の中に明規され、また勧業銀行でも法の諸草案にふくまれた規定である。
 農工債券引受については、これをその発行額の三分の一に制限するか否かが問題となつた。三分の一という根拠は次のとおりである。農工銀行の総資本金高を三〇百円、その発行しうべき債券を一五〇百万円として、その三分の一の五〇百万円を日本勧銀業行で引受けるならば、勧業債券発行高の最高限度一〇〇百万円の半額五〇百万円はみずから貸付けることができる。この制限は「仮定定款」にあつたが、委員会原案では削られていた。河島委員はその制限の復活を主張して「若シ引受ニ制限アラバ農工銀行モ自身募ルノ途ヲ勉メ勧業銀行依頼ノ念薄カルベシ」としたが、松崎委員は「引受ノ事ハ不利益ト認ムルトキハ之ヲ拒絶スルコトヲ得ベキ」故をもつてこれに反対した。当時地方農工銀行の弱体はすでに予想されていたので、この点は各委員の首をひねらせたあげく、「若シ定款ニ此規定ヲ設ケズ重役ノ任意ニ一任スレバ、農工銀行ノ強請ヲ峻拒スルニ困難ノ事情アリ、知ラズ識ラズ情弊ニ流レ、勧業銀行ノ資力ハ農工債券引受ノ一偏ニ傾注スルガ如キ恐レナキ能ハズ」との理由で、河島説のとおり制限を復活することとなつた。
 勧業債券の券面金額については、もつともはげしくかつ興味ある論戦が生じた。原案は五〇円、一〇〇円、二〇〇円の三種であつたが、これに対して議論は両極端にわかれた。委員間に債券に対する基本観念が対立していたのである。河島委員は西欧の経験に従い「債券ハ下婢ヌハ貴族等ニ買ハシメザルベカラズ」とし、五〇円の一種として、できうれば五〇円をさらに分割することをも許したいといつた。これに対し渋沢、荘田、山本の各委員は五〇〇円もしくは一、〇〇〇円への引上を主張した。これら実業家委員によれば「債券ハ財産トシテ買求シ置クモノニ非ズ。剰余金ヲ以テ他日金ニ代ヘ易キ為メニ買求スルナ
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リ。煩雑ナル手数ヲ要スルモノナレバ買求スルコトナシ」という。従つて五万円の債券が千枚にもなれば利札を切る手数も大変である。「債券ヲ買求スル人ハ銀行カ大金持カ」で「五十円券ニテ細民ノ募集アリトスルモ金額ハ僅少ナルベシ」。要するに債券の消化は大衆によつてなされるはずはなく、「公債証書ト均シク銀行ノ間ニ廻リ行フモノ」と見たわけである。松崎委員は折衷説をとり「銀行ニ依頼セザルモ全国ニ募集スレバ募リ得ベシ」と論じ、一〇〇円説を主張した。妥協の結果、松崎説により一〇〇円におちついた(同上第五回)。しかし実際の債券発行の結果は、後に見るとおり河島説の正しさを実証した(第二編第一章第四節)。
 定款は三〇年三月一七日議了され、直ちに政府の認可を受けた。つづいて委員会は株式募集に着手した。
二 株式募集と応募の盛況 日本勧業銀行の株式は一株二〇〇円、五〇千株であつたが、その募集方法は最初からもつとも論議の集中した点である。後に見るように、日清戦後の企業熱の勃興から有望株には常に応募者が殺到し、その間に思惑が盛んに行われていた。いわんや国家の保護と監督の行われる一大特殊銀行である日本勧業銀行の株であるから、はげしい競争が予想されたのである。議会でもこの点に多くの議論がなされた。
 政府当局者もかねてから頭をなやましていた。設立委員に対する大蔵大臣の命令書第一条に「其株式募集ニ関シテハ殊ニ公平ニ処理スベシ」とあり、第一回の設立委員会には松方蔵相自身がわざわざ出席して「殊ニ株主募集ノ事ニ至リテハ一般世人ノ注目スル所極メテ大ナレバ、公明正大ノ方法ヲ以テ其間毫末モ欠点ナク之ガ募集ヲ終ランコトヲ望ム」と訓示したくらいである。
 事実公募広告の前から応募の申込は続々とあつた。河島委員の言では「衆議院ノ如キハ殆ド各員其ノ依頼ヲ受ク」とあり、石川県知事からは県下資本家二六名が一万株を申込んだ件につき、県治上重大な関係あるをもつてとくに配慮を乞う旨電報で依頼してきた。委員会や大蔵省で勝手なことをするという悪質デマも世上にいいふらされた。
 そこで公募の方法に関しては、設立委員会で大に論議された。幹事原案は一定期間公告し、申込保証金を一株につき三〇円として「権利株ノ間ニ利益ヲ得ント謀ルモノ」をふせぎ、割当は応募数の按分によるものとした。これに対して渋沢、荘田各委員からは、委員が適宜割当てる「肉眼判定説」が出、河島、松崎両委員は、公債割当の例により多数応募に薄く小口申込に厚くする累進逆比例法の採用を主張し、また梅委員は一〇株以上でなければ議決権のない法の精神から小株主を多数作らぬのを本旨とすべしと論じた。結局按分法を公平とすることに落ちついたが、保証金の額でまた対立した。実業家委員は一〇円を主張したが、二五円に妥協した(同上第九回議事録)。
 この決議に従い、明治三〇年四月七日設立委員長は次の条件をもつて株式募集を官報ならびに全国各地の県公報掲載新聞紙に公告した。
 (イ)申込期限は四月十日より同月二十九日限りとすること。ただし同日日附の郵便消印のあるものは、五月十一日まで受付けること。
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 (ロ)申込人は一株につき証拠金二十五円を設立委員長に送付すること。
 (ハ)申込株数株式総数に超過する場合には総申込株数につき按分比例で割当てること。ただし一株にみたない端数は切りすてること。
 この募集条件は申込期間の非常に長いのを特徴とする。申込開始から最終締切まで二〇日。後に日本興業銀行の株式募集に当り、開始の翌日に応募満株で締切つたのとは対照的である。思惑的な申込の排除のために「株金第一回ノ払込ヲ怠ルトキハ証拠金ヲ没収ス」と条件づけ、これで「山師ハ驚キテ奔ラン」とした。この募集方法の精神とするところは公平普及にある。議会では、「成ル丈小株主ヲ広ク集メテ、其小株主が数千人、数万人寄ツテ設立スルハ大イニ此銀行設立ノ精神ニ適」うとの株式分散論が出たほどであつた(明治二九年二月二七日衆議院委員会)。設立委員会はこの趣旨を体して、全国各地からなるべく広く申込みうるように意図したのである。
 募集後応募の申込は全国から殺到した。「銀行創立事務担任者は……方外にも予想最高額の凡そ三倍にも達したれば、一切の準備総て欠乏ならざるはな」き有様であつた(明治三〇年五月一五日銀行通信録)。五月一一日締切の結果、応募株数は総計七三〇、四九五株、募集数の一四、六倍。申込証拠金は一八、二六二千円。後の満鉄株の一、〇七八倍には比ぶべくもないが、当時としては非常な盛況であつた。
 こうした熱狂はどこからきたか。当時の経済雑誌は五つの理由をあげている。第一に権利株を見込む思惑。第二に日本銀行株が現に払込の三倍の時価であり、「勧業銀行が半ば官設の形式を帯」びていてこれに類すること。第三に土地抵当銀行として貸付の安全性があること。第四に公債のように抵利借換になるおそれのないこと。第五に「農工銀行を利用せんと欲する連中」が「進んで勧業銀行の株主となり居ることの」便宜である(明治三〇年五月五日東京経済雑誌)。日本勧業銀行が特殊銀行として半官半民の印象を与えたこと、農工銀行の中央機関としての利用価値を見越したことは注意せねばならない。権利株の価格は四月末ごろに一五円ないし二〇円を唱えた(明治三〇年五月一日東京朝日新聞)。
 他方一八百万円という巨額の証拠金の吸上は、全国金融の上に思いがけぬ波紋をまき起した。各地の銀行は急激な預金の引出にあい、貸出は増加し、その資金は日本銀行に集中固定し、ために金融は大に逼迫した(明治三〇年四月二九日時事新報、明治三〇年五月一九日東京朝日新聞)。そのため「各地の銀行は漸次資金の底を払はんことを恐るるの有様となり、利子二、三厘を引上げた」(滝沢直七「稿本日本金融史論」五二三頁)。滝沢直七によれば、「この日本勧業銀行の株式募集は……金融の逼迫を早からしめし一動機」となり、後に三一年の恐慌をみちびくところの「水中に投ぜし一石」であつたという(同上)。従つて三〇年五月の始めには、一日も速かに募入額を決定し、過剰証拠金を返還せよとの声が世上に高くなつた。
 また按分比例の結果三、七四九株という切捨端数株が生じて、この処分も大きな問題となつた。公売説、再按分説その他が出たが、公平第一主義で申込者全員七、九〇〇余人に抽籤で割当てることとなつた。
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この結果として一株株主が増え、一株申込で籖に当つた幸運者六二名も出た(前掲第九回議事録)。
 設立委員会は株式の割当を終り株主を確定して、設立免許を大蔵大臣に稟請した。即日免許状が下附され、ここに設立発起に関する一切の手続は完了した。時に明治三〇年六月七日であつた。そこで委員会は事務を日本勧業銀行総裁に引きつぎ、創立事務所を閉鎖した。