公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2025.3.16
第5巻 p.285-290(DK050064k) ページ画像
明治10年10月10日(1877年)
是ヨリ先、栄一長野県南佐久郡ノ富豪早川重右衛門、黒沢鷹次郎等国立銀行創立ヲ企画スルニ当リ指導、援助スルトコロアリシガ、是日上田第十九国立銀行開業免状ヲ下付セラレ、早川重右衛門頭取トナリ、同年十一月八日開業ス。
中信毎日新聞 〔昭和一七年一一月〕 第十九国立銀行創業史(二)(山岡竜三)(DK050064k-0001)
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中信毎日新聞 〔昭和一七年一一月〕
第十九国立銀行創業史 (山岡竜三)
(二)
渋沢栄一と黒沢、中山
彰真社々員として黒沢鷹次郎は金融業務に理解を進むるに到つたが彼は既に明治元年より横浜に往来して生糸売買に活躍してをり、地方の座繰生糸売却先なる横浜茂木商店支配人中山浜治郎は北牧村の先輩で嘗て共に平田鉄□の同門人となり思想的にも交流ある間柄である。地方の生糸を馬背で横浜に運び商談をして金を受取つて帰るには最短限度二週間を要した。既に第一銀行は為替を実施してゐるが信州には
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全然京浜間と荷為替の取組みが出来ないことは商機上非常に不利なるのみならず蚕糸業全体からも誠に遺憾である。この度国立銀行条例は誠に好機であると考へ中山及び県内の同志に国立銀行創立について意見を述べ機運の熟するを待つた。
中山は既に第二銀行を通じて渋沢と懇意であり、伯父伴次郎及び自分も中込の親戚小林喜三郎方で安政の頃、時々渋沢と顔を合せたことがある。そこで渋沢を訪問して意見を叩くことになつた。
黒沢伴次郎=四郎兵衛長男学者黒沢佐左衛門(号桑孤)孫にして其教育を受け、質実剛健、篤学の士にして郷党同族への感化多し。
小林喜三郎=代々紺屋を営み、先々代喜三郎姉つな伴次郎弟米蔵(二代目利左衛門)に嫁す、其長男鷹次郎。
○彰真社ニツキ「第十九国立銀行創業史」ニ次ノ如キ記述アリ。
「当時の製糸金融は、中野製糸、深山田製糸をはじめいづれも横浜小野組の仕送りによれるが、七年十一月小野組破綻するや仕送り杜絶し廃業、休業続出し、一般県下財界へも影響深刻なり、地方自主のもとに金融機関を起すことの必要に迫つて、明治九年北信地区先覚者によつて組織せられたのが、彰真社であり、長野町に本社を置き、長野県為替方の業務をも担任した。○中略 同社は後に信濃銀行となり。安田銀行に合併し、同行長野市支店となる。」
○黒沢鷹次郎ハ伴次郎トトモニ彰真社ノ社中主要人物ノ一人ナリ。
中信毎日新聞 〔昭和一七年一一月〕 第十九国立銀行創業史(三) (山岡竜三)(DK050064k-0002)
第5巻 p.286-288 ページ画像PDM 1.0 DEED
中信毎日新聞 〔昭和一七年一一月〕
第十九国立銀行創業史 (山岡竜三)
(三)
為替問題の難関と再度出願
銀行正面の沿革によれば、第十九国立銀行は『明治十年二月廿日国立銀行出願』となりてゐるが、筆者の考察によれば既に旧条例当時第一銀行設立の直後に創立の運動開始せられ明治八年には上田に事務所を設けて出願し、既に陣容整ひ時々社員総会を開催し許可遅延につき苦慮し屡々対策を講じたが為替問題で一度び不許可となり再度出願したものである。従つて明治九年彰真社の創立より前に企画せられたものである。(一説によれば第一回の受付は全国六位なりといふ)
これを証するのに明治九年一月廿二日長野町発早川重右衛門、黒沢羽三郎両名が東京堀江町三丁目野沢屋林兵衛方中山浜治郎宛の左の書翰がある。(北牧村中山武三郎氏方土蔵にて発見す)
本月十一日発の御書翰十五日阿部万五郎殿方にて拝見仕り候、僕等より五日差上候書状御披見被遊候趣尚又仰越の件は一に承諾仕り候然処去る十二日出しの銀行より昨年中依頼致候『コルラス』『ホンテンス』の約定、紙幣寮にては許可難相成以前の御指令書相添通知被致、右に付社中集会右指令持参御本県罷出、兼而旧年御打合申上候通り御県に右取替相願、銀行定約の儀は公債にて可差出旨決心致候処掛り御官員より今般更に願書可差出旨被仰、昨廿日直に願面相認差上候処為取替書案認中掛官員御打合も有之趣にて五七日間も有之儀に付右書案出来次第倉石様方御沙汰御相成可申事相願一且帰村致候へ共、右段御承引願度、第一銀行御掛合被下候ば定而委細御話可
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申哉存候へ共、昨年渋沢栄一君より大蔵省え官金取扱の手続も当一月相成て打合被下哉の話の処此儀如何致呉候哉御序に御聞合被下度御願申上候、当方にては御県えは兎に角東京一名出張致居事相願候得共、其中銀行の模様も可有銀行へ依頼致度候、此段御含被下御取計奉願上候
一、御発足被遊候て
熊谷御立寄り帳合向御探査被下候趣寔に御手数難御礼申上候《(有脱)》、何分宜敷御願申上候、当方も成丈取急度候得共前条の次第乍思延引実に当惑仕候、御早く御帰宅御相談被下度御願申上候(後文略)
一月二十一日 早川重右衛門
黒沢羽三郎
中山浜治郎様
想像外の苦心
即ち右書面によれば左の点が首肯され得る。
(一)明治八年既に大蔵省へ願書出願してあり、第一銀行とのコルレスポンデンス約定は紙幣寮に於て許可せられず、願書を書き替へて本県を経由し再度出願せること
(二)第一銀行との為替取引絶望となりたる為一転して東京出張所の設置を必要とするに到つた
(三)渋沢栄一は為替約定及官金取扱等に於て斡旋し居れる事
(四)中山浜治郎は東京迄出張して連絡に当り熊谷に赴き帳簿方を見付けたこと、後年堀江町の東京支店は同人宿所野沢屋林兵衛と関係あつたこと
(五)早川重右衛門、阿部万五郎、黒沢羽三郎も第一銀行、本県当局に出向運動し居れる事
(六)長野在栗田村倉石吉左衛門は本県当局との連絡に当れること
等は何れも明らかにして交通不便にして長野、東京へも徒歩を要し電話、電信も間に合はない当時に於て南北佐久、上小、長野、東京、横浜といふ複雑な地理的関係の総意をまとめこれを上田へ集中する迄には到底三月や半年で出来得るものでない。発起人賛成人を纏めるにも一年以上は要したであらうから明治七年乃至八年上期において既に着手し想像以上の苦心を要したものである。
今月今日創業
大蔵当局と本県当局との間の指令事項が手間取れ為替取組で一応不許可と決してから尚一年を要し明治十年二月二十日資本金を十万円とし改めて出願した時の発起人は最初より顔ぶれも変り左の如くであつた。
早川重右衛門(前山村) 阿部弥曾太(栄) 中山彦輔(北牧) 黒沢伴次郎(穂積) 黒沢鷹次郎(穂積) 出浦敬三(穂積) 前島清三郎(野沢) 竹内幸四郎(野沢) 阿部万五郎(岩村田) 森田斐雄(上田) 長岡万平(上田)
しかして長野県下北十一大区四小区上田町に創立、同年六月十五日允准を蒙り『第十九国立銀行』の称号を命ぜられ、新聞紙に株式募集
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を広告、十月十日開業免状を下付せられ、玆に用意万端整ひ、十一月四日開業すべき予定の処、大蔵省より下附の紙幣が間に合はず十一月八日即ち六十五年前(明治十年)の今月今日開業に到つたのである。
(本稿の意義深きことを洞察さるべし)
上田新参町の軒頭には国立銀行の首途を祝する国旗がはためき銀行内には神棚を設け職員一同至誠奮励を皇祖に誓つたのである。
○下略
中信毎日新聞 〔昭和一七年一〇月〕 第十九国立銀行創業史(十)(山岡竜三)(DK050064k-0003)
第5巻 p.288-290 ページ画像PDM 1.0 DEED
中信毎日新聞 〔昭和一七年一〇月〕
第十九国立銀行創業史 (山岡竜三)
(十)
三代頭取と経済史的・郷土史的意義
早川重右衛門
初代頭取早川重右衛門は明治初年南佐第一の富豪と唱へられ俗に田地千駄取り、小判一万枚を有したといふ。旧幕時代天領に属したるを以て御影代官は何かといへば直ちにこの家をめざしたる如くこの程同家書類より代官甘利八右衛門の自署上書きの受取りが幾多発見され《(マ丶)》弥に長州征伐の時は六百両を献金してゐる。代々名主を勤め明治となり副戸長となり、前山を繞る五里四方の作場道に全部石橋を架せんとし其一部は架設し今でも前山辺田圃道には所々これを見るといふ。彰真社及び十九銀行創立については最も先輩(三十八歳で頭取)として渋沢子を招き幾度か指導を乞ひたりといふ。(先に紙上問を発したるが詳かならず)
彼の富力は遠近に聞えたるを以てその氏名入り紙幣は明治十年代地方財界を安定せしなるべく十四年に到り出浦敬三、中山彦輔、阿部弥惣太等十九の一派と諮り岩村田に佐久銀行を創立しその頭取を兼ねた。玆に於て稍二兎を追ふの慨あり、翌十五年は十九頭取を辞しやがて佐久銀行も辞するに到つたが、その巨大な財力の没落は明治十七年の大不況の殃ひせる処多かるべく各種貸金の回収不能、公共交際等の失費政治運動(子権弥氏の第一回衆義院選挙出馬)等にもよるであらう。
銀行界を引退するや風流を友とし、談一度華やかなりし銀行頭取当時に及ぶや顔を曇らせ話頭を転じたりといふ。
明治三十六年病革りてより時々『黒沢氏は見えざるか』と呼び、その来れるを聞きて安堵し六月三十日永眠した。
時の十九銀行頭取黒沢鷹次郎弔詞中に曰く
『君の本行を創むるや明治維新を去ること遠からず、百事草創の時に際し当路の施政に慊らざるの士全国に散在し、その不平の発して西南の乱となるや窃かに形勢を観望し暗に野心を包蔵したるもの所在少からざりき、然るに君は深く時勢の傾向を察し意を利用厚生の道に注ぎ、人心悩々の中に立ちて早くも本行の創立に従事せられたり、当時銀行の名僅か一部上流の人士に知られたるのみにして其運用の妙機に至ては之を知るもの殆ど稀なり、君即ち東奔西走近く先輩有識の士に諮り遠く欧米諸国の例を酌み拮据経営、資金十万を募り地を上田に卜し第十九国立銀行の名を以て旗旆を商界に樹立せり
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是実に今を去ること二十六年以前の本月にして惨たんたる苦衷に到りては今人の夢想し能はざるものありき。(後文略)』
本弔詞は実に名文であるが文中『近く先輩有識の士に諮り』云々は当時発起人間に於ては彼早川最先輩なれば恐らく渋沢子を指すものならん乎。○下略
黒沢鷹次郎
氏のことは十九銀行頭取として明治廿年阿部頭取の後を承け蚕糸業発展の上に余りに有名なるを以て一般的履歴を叙さず従来伝へられざる方面を特記して参考となす。
△十九国立銀行創立に就ては特に渋沢栄一子の指導を得たりとのことは明治四十五年野沢中学にて講演す。
○下略
以上の要約
以上十回に亘り考述せる第十九国立銀行創業史を要約する処左の如し。
国立銀行の使命
明治初年の不換紙幣を引上げ、民業の資金流通を図り、且金禄公債価格を維持して(この頃改正条例より該当す)国民生活を確保せんが為に国立せられ、紙幣発行により各地方的産業を振興したる事大なるも、銀米の奔弄による紙幣の下落により日本銀行銀貨兌換券発行により其脆弱性を支へ、日清役の償金を以て金本位制確立につれ明治廿九年終止す。
十九国立銀行の性格
開港市場と長野県の物資、資金交流を敏活ならしめ、地方産業を開拓し、殊に本県を生糸の主産地たらしむるに到れるを独特の性格とし幾多の経済施設皆これに源を発す。(その発行紙幣十二万は一ケ月約三、四回運転し、生糸輸出による外貨獲得に連鎖し、帝国今日の国防力の一部たらしめたり)
従来経済史の修正点
これにより経済史中修正さるべき点を考察すれば
(一)『明治七年小野組破綻に代る金融機関として明治九年彰真社設立し次いで明治十年十月佐久の黒沢鷹次郎は早川重右衛門、阿部万五郎と諮り第十五国立銀行創立《(九)》せられ小野組に代つて直ちに製糸資金供給を開始せり』との史書の説は左を以て妥当正確とす。
第一国立銀行創設さるゝやこれに傚ひ東信の生糸商黒沢鷹次郎、横港茂木商店支配人中山浜治郎等は佐久の富豪早川重右衛門、阿部弥惣太外八名と諮り国立銀行を企劃し、渋沢栄一指導の下に明治八年より出願したが仲々許可とならず、小野組破綻後金融機関なきを以て明治九年本県許可の彰真社設立に力を致したるが、九年八月の国立銀行条例改正により紙幣発行減額を条件として三回目の出願により漸く許可せられ十年十二月八日開業せり。
生糸資金については当初荷為替の便益を図り、十四年以後諏訪の製糸資金の供給を行ふに到つた。
○下略
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○大蔵省編「銀行課第一次報告」(自明治六年七月至明治十二年六月)ニヨレバ、上田第十九国立銀行ノ創業期ノ状況ハ左ノ如シ。
開業免状下 資本金高 資本増減 同上年月 資本金現高 支店ケ数 開業日 発行紙幣高 発行紙幣現高 上田第十九国立銀行 十年十月十日 一〇〇、〇〇〇円 円 十一年 一五〇、〇〇〇 一 十年十一月八日 八〇、〇〇〇 五〇、〇〇〇増 八月一日 一二〇、〇〇〇
○寺部鉄治著「銀行発達史」(昭和二十八年八月刊)ニヨレバ、第十九国立銀行ハ明治三十年株式会社十九銀行トシテ再出発シ、大正十五年黒沢合名会社ヲ、昭和三年東山銀行ヲ、昭和四年中野銀行ヲ合併シ、昭和六年、稲荷山第六十三国立銀行ノ後身ナル六十三銀行ト新立合併シテ、八十二銀行トナレリ。