デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
4款 国立銀行及ビ普通銀行 9. 第六十九国立銀行
■綱文

第5巻 p.317-323(DK050069k) ページ画像

明治11年12月20日(1878年)

是ヨリ先、三島億二郎、岸宇吉ニ諮リ金禄公債ヲ利用シテ長岡ニ国立銀行ヲ設立セントシ、共ニ上京シテ栄一ヲ訪ヒ意見ヲ叩キタルヲ以テ、栄一懇切ニ指導ス。是日長岡第六十九国立銀行開業ス。


■資料

岸宇吉翁 (小畔亀太郎編) 〔明治四四年一〇月〕(DK050069k-0001)
第5巻 p.317-322 ページ画像

岸宇吉翁 (小畔亀太郎編) 〔明治四四年一〇月〕
 ○第二三―三五頁
    第四章 翁の交際
○上略
明治初年の頃、翁は商用を帯びて上京する度に、必らず福沢先生を訪ふて、新知識の仕入れをせられたが、第六十九国立銀行創立以来は、今の松方侯爵、渋沢男爵、石黒男爵等と特に懇意になり、銀行の経営を始め時事問題に就て研鑽された。又一面には在京の矢野次郎、長谷川泰氏、郷里に在りては三島億二郎、関矢孫左衛門氏等を始め、有為の人々と親しく交はられたが、其の範囲の広き、一々数へ難い。是等
 - 第5巻 p.318 -ページ画像 
の諸氏は、皆翁の為には他方改善を計るべき益友であつた。○中略
    第五章 翁と銀行業
今日の六十九銀行の前身、即ち第六十九国立銀行の営業を開始したのは明治十一年十二月で、其創立の経過は下に掲げてある『第壱回半季実際考課状』に記してあるが、更に一歩を進めて、其創立に至つた事情を探究すれば、翁と銀行との関係が明かになつて、頗る興味の饒きを覚ゆるのである。
当時長岡は戊辰大変の後を承け、旧藩士は流離し、市民は疲弊し、満市荒涼殆んど見る影もなく、唯だ運命の弄ぶ所に是れ委すといふ有様であつた。斯る時に際し、経済上より長岡を恢興せんと罄力したりし人物があつた。三島億二郎氏の如き、又翁の如きは其一人である。
翁と三島氏とは、或る意味に於ける長岡の代表的人物である。即ち三島氏は旧藩士の代表者で、翁は町人の代表者であつた。此の代表的二人物は、啻に私交に於て厚かりしのみならず、斉しく経済上から長岡を恢興せんと熱心に心掛けて尽力されたが、銀行の創立は、実に両氏協力の賜で、此の二勢力の一致を現実にしたものである。
明治八九年の交、政府が金禄公債を発行して、士族に交附するといふ内議のあるを聞いて、東京に居つた小林雄七郎氏(小林病翁先生の弟)から、三島億二郎氏に宛て、下附の公債を利用して長岡に銀行を設立してはどうかと勧めて来た。之と前後して、翁も亦病翁先生から銀行の性質、業務の概要などを聴き、併せて之が設立を慫慂されたので、翁は熟考の末、挺身其任に当ることに決心し、先づ三島氏に相談して其賛同を得、それから熱心に有志の人々を勧誘して遂に多数の賛成を得るに至つたのである。○中略
翁の銀行設立に対する決心は既に定まつた。そこで士族に下つた七朱金禄公債を八十二円の割で株金に換算して買入れ、其他有志の出資を得て、総額十万円の資本で銀行創立の事に決した。政府は名くるに第六十九国立銀行を以てして、紙幣を下附されたから、十二月二十日より開業する事となつたが、此時の翁の喜びは譬ふるに物なく、又其一面に於ける苦心は実に容易でなかつた。牙籌の事に迂きは士族の通弊で、中には、我々が政府より百円で頂戴したものを八十二円とは何事ぞ、畢竟岸が町人根性でした仕事に相違ない、白昼の盗賊、彼れ斬らずんばあるべからずなどゝ怒つた人のあつたといふことに徴しても察することが出来る。
是より先、翁は家業を廃止する目的で漸次に縮少し、専心銀行の経営に心を注がれたが、当初に於ける重役は、頭取に関矢孫左衛門氏、取締役兼支配人に山田権左衛門氏、取締役に三島億二郎、遠藤亀太郎、青柳逸之助の三氏で、翁自身は副支配人の位置にあつて実際の業務に当られた。此の銀行の設立発起者は三島億二郎、岸宇吉、関矢孫左衛門、山田権左衛門、山口万吉、青柳逸之助、遠藤亀太郎、渡辺良八、目黒十郎、谷利平、小川清松、木村儀平、志賀定七(外三名未詳)の十六氏で、皆長岡の振興に心血を濺がれた人々である。是等の諸氏に対しては、単に今日の六十九銀行が敬意を表さねばならぬばかりではなく、長岡市民として亦大に感謝せざるを得ぬことゝ思ふ。○中略
 - 第5巻 p.319 -ページ画像 
創立当時より銀行の事に就ては、福沢先生、松方大蔵大臣、渋沢第一国立銀行頭取等が誠心こめて援助されたが、翁も亦己を虚ふして是等諸名士の意見を叩き、其説を聴くことを怠らなかつた。然も得る所があれば、それは決して私せずに夫々関係者に伝へて自らを利し人をも利することに努められた。それ故、翁が東京から帰られると、其土産話が聞きたいとて訪問するものが多く、又翁も進んで話さるゝことに極つて居つた。○下略
 ○第一五〇―一六三頁
    故岸宇吉君
                  男爵 渋沢栄一氏談
      一
故岸宇吉君の伝記が編纂されるといふ事で、自分にも故人に関する感想を述べよとの御依頼である。自分と岸君とは永い年月の間、事業に於ても、私交上に於ても、非常に親密の交際を続けて来て、同君の事業、人格、性行に就て聊か知る所ある様に信じて居るので、折もあらば岸君の知己と共に、追懐の事を語り合はんなど思うて居た処、幸にも伝記編纂の挙あるを聞き、喜んで其求めに応じた訳である。
      二
自分が初めて岸君と交つた年月は大分久しい事で、いま確かり覚えて居らぬが、第六十九銀行創立の際であつたから、多分明治九年以後から十一年迄の間であつたと思ふ、其時岸君は三島億二郎君其他の人々と共に自分を訪問し、銀行創立に関して種々自分に相談された、之が自分と岸君と相交りし最初であつた。元来国立銀行に関する条例は、自分が大蔵省に於て取調べたもので、当時の自分はつまり、法律にも手続にも精通して居つた位置でもあり、且つ自分の主管する第一国立銀行は、其以前から設立されて営業して居た経験もあつた為め、岸君初め六十九銀行創立の諸君が、自分の処へ相談に来られた訳である。何分当時は銀行創始の時代で、簿記なども従来慣用の大福帳では駄目だから、貸借対照の一目に瞭然たるを得る複記式簿記に改正しなければならぬと言ふので、自分等が簿記の事迄手を執りて教ふると云ふ幼稚の時代であつたから、銀行の創立に就ては何れの地方からも大概自分に相談され、自分もまた出来得る限り尽したものである。併し三島君や岸君などには簿記の講釈をする必要はなかつたが、銀行業の性質国立銀行の主旨等に就て概略の御話をして、一面は政府の意の存する処を明かにし、一面には銀行の営業方針に就て注意をした処が、諸君も大に了解された様であつた。之が動機となり、岸君は大に自分を徳として接近せられ、自分はまた斯かる堅実の人に依て、地方の人士に銀行の主旨と実地を知らしむべしと信じ、爾来追々懇意の度を増し、岸君は出京さるれば必ず自分を訪問さるゝが例となつた位である。当時又越後に於て、北海道開懇事業の企もあるとて、岸君などから相談され、参考迄に卑見を述べた事もある。
      三
それから、之もいま年月を初め詳い事は確と記憶して居らぬが、越後地方に鉄道の連絡をつけたいと言ふ考へにて、岸君は他の有志の人々
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と共に来訪された事もあつた。自分は当時、国家は第一に運輸交通機関の発達に努め、産業開発の方法を講じなければならぬ、追ては我邦も工業国たらしめざるべからざるも、今日は未だ幼稚の時代にて、僅に農産物の余剰を輸出するに過ぎず、然るに交通機関完備せざれば多額の運賃を要し、従つて価格割高となり、延いては輸出の不振を招来するに至るべく、交通機関の発達は今日の急務であると云ふ持論であつた為め、岸君等の鉄道連絡の説には大に同情を表した。そこで岸君等は当時政府に於ても財政逼迫の折柄であるから、至急に事を運ぶと云ふには民業に依らねばならぬが、民業の経営は成効が覚束ないから工事費は地方人民より支出する故、政府は其金を以て敷設工事を為し連絡を図つて呉れと云ふ主旨で、自分は同君等の依頼に依り政府へ交渉の労を執つた、此時最も此事に尽力したのは岸君である。即ち岸君は越後の交通機関の為に、北越鉄道以前に於て此の如き心配をした事もあるのは、県民諸氏の大に記憶すべき事であらうと思ふ。此事は当時猶ほ機を得ずして好結果を見なかつた、また自分も詳細なる成行を記憶して居らぬが、併し当時其事を心配せし人の中には知つて居らるる方もあらうし、また記録に依て承知せらるゝ方もあらうが、岸君の伝記には見脱すべからざる資料であらうと思ふ。
      四
其後程経て北越鉄道が出来た、自分は前からの関係もあつたので、北越鉄道の創立に就ても、多少の尽力をした。処が最初の中はどうも旨く行かない、第一会社の重役と新潟市の人士との間に沼垂停車場の問題にて、兎角衝突を生じ、為に新潟に於ては一騒動を起した程であつた、自分は此時にも北越鉄道の為に大に其中間に立つて斡旋したが、岸君も大に尽された。自分は北越鉄道が兎角東京株主と新潟の人との間に、意志の疏通を欠き、事毎に円満ならざるを慨し、此融和を計る為に、渡辺嘉一君を勧めて入社せしめ、自分も遂には責任を負うて監査役になつた。是等の場合に於ても、岸君は陰に陽に尽されたことは尠くない。
      五
自分が越後へ旅行したのは明治十九年で、岸君と知つてから七八年の後であつた。此時六十九銀行の実地をも拝見し、多少御注意もいたし別して岸君とは懇意になつた。自分が此時の越後行は第一銀行にて明治十六年頃新潟へ支店を設けたから、其視察の為に出掛けたので、序に長岡へも参つた訳である。第一銀行の新潟支店には当時親戚の尾高勝五郎と云ふ者が支店長となつて居つた、其頃長岡の六十九銀行は今の建物ではなかつた様に思ふ。六十九銀行は初めは三島億二郎氏等が先輩として牛耳を把つて居つたが、十九年頃には既に岸君や、山田権左衛門君等が主脳者であつたと思ふ。滞在中は款待を蒙つたが、特に岸君には一番心配をかけた、自分の往途《ゆき》に長岡では、諸君の待設にて山田権左衛門氏の別宅に宿泊した様である。当時はまだ鉄道のない時分で、長岡と新潟の間は川蒸汽であつて、新潟からの帰途《かへり》も同じく船で三条に立寄りて歓迎を受け、夜に入りて長岡へ着いたのである。
斯様の次第から自分と岸君との交際は、日を経るに従つて親密の度を
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加へて来た。嘗て岸君より六十九銀行の将来の為に、是非青年を一人教育して呉れとの依頼があつたから、自分も大に賛成し出来るだけ世話をしやうと承諾したので、岸君から託せられたのが小畔亀太郎氏であつた。そこで自分は時には自宅にも置いたり、また第一銀行の横浜支店へ事務練習にやつたりして十年間も出来得る限り世話したが、幸に小畔氏も凡ての点に於て発達して、今日では六十九銀行になくてはならぬ一人となつたのは、自分に於ても満足の至りである。即ち渋沢と小畔の間柄は、師弟の関係、主従の関係とも云ふべきものであつたので、畢竟自分が岸君の情誼に感じて尽した微志に外ならぬ。岸君は当時に於ても、常に切実の意見を懐抱し、単り六十九銀行の利益のみにあらず、長岡地方、北越地方の富力を増進せしむべき公共的精神を念となし、種々なる事柄に就て自分に相談された。
      六
爾来第一銀行と六十九銀行との取引は頻繁となり、延いては第一と越後との取引も一層盛んになつて来た。いま数字を掲げて説明する余裕はないが、取引の当初と現今とを比較せば非常の増加を呈して居る。而して自分と岸君との交誼も恰も此取引の増加と同様であつた。特に明治三十八年頃より一層親密となるべき新関係を生じた。当時第一銀行は、越後に於ける金融機関発達の現状に鑑み、支店を新潟に存置するの必要なきを覚り、之を閉鎖すべき議が起つた。折柄恰も岸君の出京されたのを幸に、自分は岸君を第一銀行に招じ、六十九銀行は此際第一銀行新潟支店の紹継者たらむ事を勧誘した。其時岸君は、単に越後の銀行と云ふ小さい立場より言へば、第一の如き有力なる他地方の銀行が県下に在るのは聊か地方銀行の勢力範囲を侵さるゝ如き観あれば、第一の支店閉鎖は悦ぶべきであるかも知れぬが、自分は越後の金融上より見て甚だ遺憾だと思ふ、成程平時に在ては、越後だけにて差支ないが、一朝荷為替、大取引等嵩み、金融一時に繁劇となる時には越後の銀行だけの元資金にては不足を感ずる場合がないとも限らぬ、さすれば此場合是非とも大銀行の力を借らなければならないと思ふ、此点に於て第一銀行が新潟支店を閉鎖する事は望ましき事に非ずと云ふ意見であつた。そこで自分は岸君に、今日は新潟にも長岡にも有力なる銀行ありて、東京の各大銀行とも取引の関係あるに、第一銀行が猶ほ且支店を置くが如きは畢竟邪魔にならぬ迄も何等の必要もない、殊に幸にして六十九銀行にて継承を承諾さるれば、取りも直さず第一と六十九とは是迄の交誼に加へて更に親類の間柄となるものであるから、君の心配される様な事は万々ないと述べた処が、岸君も大に了解されて、六十九銀行にて第一銀行新潟支店を継承することに同意されたが、偖て六十九銀行が左様に事業を増しても今後の経営者に困却すると云ふ第二の問題を生じて、終に第一銀行新潟支店長松井吉太郎氏を六十九銀行に譲る事となつた。此事が第一の為にも六十九の為にも如何に相互の好都合であつたかは今改めて言ふ迄もなく、両行が全く事実の上に於て認めて居る処である、しかも此事も全く自分と岸君とが衷情を披瀝して相談した結果に外ならぬ。
      七
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此の如くして第一と六十九とは更に多大なる新関係を生じた、左なきだに六十九は、明治の初年から、第一を師匠銀行、親銀行として取引をやつて居つたのに、今また此の如き新関係も生じたので、自分と岸君、銀行と銀行との親睦は年を重ぬる程加つて来た、殊に六十九も久しく岸君の全権時代であつたから、其関係の親密なるべきは勿論である。
処が近年に至り、岸君は大に健康を害し、其の為め幾分か感情が昂ぶる様になつて来て、時々松井氏などから、近頃は病気の為に少し機嫌が悪いなどと云つて来た。岸君の年齢は確か本年在世であつたら七十三歳の筈である、即ち自分よりは一年の長者ではあるが、銀行の関係やら何やらにて、常に自分に師事兄事して居られたので、松井氏などから前の様な手簡でも来ると、直に岸君へ宛てゝ、何うも君は一図に思ひ過ごして、或は世を果敢みたり、怨んだりしては宜しくない、凡て気を大きく心を宏く持ち給へ、といふ様な事を忠告してやつた事も度々あつたが、自分の言ふ事はよく聴いて呉れて、其度に御小言に依つて大に悟つたから安心して呉れ、などゝ云ふ返事が来た。凡て岸君は何事に依らず自分の言は知己の言として聴いて呉れたので、自分も亦胸襟を披いて交際した訳である。
 また自分の推挙した松井氏も、六十九銀行の専務となつてから、岸君を能く尊敬し、銀行の為め、将た岸家の為に尽力したので、岸君も世を終はる迄喜んで居られた。
以上は、自分が岸君と初めて交りを結んだ時より、三十年間の径路である。
      八
最後に岸君の人格、性行等に就て聊か自分の知れる所を述べて、故人に関する感想談を終らうと思ふ。
自分の見る所を以てすれば岸君は至つて正直であつて、且つ自己本位の人にあらずして、公共的国家的観念深き、忠孝博愛の人であつたと深く信じて居る。岸君の仕事は常に己の利益都合のみにあらず、少くとも長岡、若くば越後の利益と云ふ点を眼目として経営した、是は実に得易からざる人格と謂はねばならぬ。併しまた一面に於ては、岸君は感情の人であつたから、此の為め或場合には局量狭く、感情に走らるゝ嫌もあつた様である。此感情性が岸君の長所にしてまた短所であつたかも知れぬ、乍去一体に情の厚い人で、其言行は死後猶人をして余顔遺蘊あるを覚えしむるものがある。岸君は学問や知識や手腕に於て傑出した才能を有せる人ではないが、忠孝信義の念に富み、人と交つて愛情滴るが如き人であつた。六十九銀行の今日あるは、固より他の重役の補佐宜しきを得たる原因もあらうが、岸君が献身的に尽力された功が第一に居ると言ふて差支ないと思ふ。
憾くば其人既に亡く、幽明途を異にし、再び共に語るべき機会なき事を。会々岸君の伝記編纂の企あるに際し、聊か自分の感想を述べた次第である。


長岡市史 第六八〇頁 〔昭和六年八月〕(DK050069k-0002)
第5巻 p.322-323 ページ画像

長岡市史 第六八〇頁 〔昭和六年八月〕
 - 第5巻 p.323 -ページ画像 
    六十九銀行の設立
明治八・九年頃、政府が金禄公債を発行して、士族に交付する内議があると云ふので、当時大蔵省に出仕して居た小林雄七郎から、三島億二郎に宛て、下附の公債を利用して長岡に銀行を設立してはどうかと勧めて来た。依て三島は先づ之を岸宇吉に諮り、共に上京して、福沢諭吉・渋沢栄一等の意見を叩き、且充分に調査研究の上設立の決意を定め、両氏の外に関矢孫左衛門、山田権左衛門、山口万吉、青柳逸之助、遠藤亀太郎、渡辺良八、目黒十郎、谷利平、小川清松、木村儀平、志賀定七等が発企の下に、資本金十万円で第六十九国立銀行が創設され、同十一年十二月二十日から開業したのである。
  ○大蔵省編「銀行課第一次報告」ニヨレバ、第六十九国立銀行ノ創業時ノ状況ハ左ノ如シ。

図表を画像で表示--

   名 称       開業免状下付年月日  資本金高      資本金現高             開業日        発行紙幣高     発行紙幣現高 長岡第六十九国立銀行  十一年十一月二日   一〇〇、〇〇〇   一〇〇、〇〇〇             十一年十二月廿日    八〇、〇〇〇    八〇、〇〇〇 



   寺部鉄治著「銀行発達史」(昭和二十八年八月刊)ニヨレバ、第六十九銀行ハ明治三十年株式会社六十九銀行トナリ、昭和十七年長岡銀行ト合併、長岡六十九銀行ヲ新立シ、昭和二十八年北越銀行ト改称シタリ。



〔参考〕渋沢栄一 日記 昭和三年(DK050069k-0003)
第5巻 p.323 ページ画像

渋沢栄一 日記 昭和三年
二月十三日 晴 寒気強カラス
○上略 長岡六十九銀行長部松三郎氏来訪、久濶ヲ叙シ、近々日本銀行ノ斡旋ニテ長岡銀行ト合併シ得ヘキ近状ヲ内話セラル ○下略