デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 関係銀行諸資料 2. 横浜為替会社及ビ第二国立銀行
■綱文

第5巻 p.412-423(DK050087k) ページ画像

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■資料

渋沢栄一 書翰 井上馨宛 ○(明治六年)五月五日(DK050087k-0001)
第5巻 p.412 ページ画像

渋沢栄一 書翰 井上馨宛(井上侯爵家所蔵)
  ○(明治六年)五月五日
    ○本文略ス。
   五月五日 渋沢栄一
    世外老兄
   尚々横浜亀善今朝宅へ参り彼会社之義申聞候間、老台へ申上候様と相答置候、是ハ先日申上候通、年賦之方同人共之願望と被存候宜御賢考御指揮被下度候

渋沢栄一 書翰 井上馨宛 ○明治六年九月二日(DK050087k-0002)
第5巻 p.412-413 ページ画像

  ○明治六年九月二日
   明治六年九月二日             従東京
○上略
廟上も依然先月中ハ諸官省も休暇多にて事務ハ至閑之様子ニ御坐候、
 - 第5巻 p.413 -ページ画像 
諸会社始末之義此程御決定相成、東京商社へ三十四万円御下之積西京神戸大坂等にて先頃御貸渡之五十万円余之内十万円を上納せしめ、其余被下切、横浜ハ十五万円之内十壱万円被下切、四万円即金上納、外ニ弐拾万を大蔵より出し都合三十四万円を商社へ下附と申事ニ御坐候右等之決算相立候ハヽ各会社も解社又ハ転業等追々処置可相成と存候、京坂之方ハ右取始末之為メ陸奥・芳川・馬渡抔出張いたし候拾万円取立候為メにハ余リ大勢之御出張にて所謂鶏を割に牛刀を用ゆる比歟、将実ハ避暑之口実と相成候歟○中略
  九月二日
                       渋沢栄一
    世外老台下
○下略


辻純市書翰案(渋沢栄一筆)金子(平兵衛)・吉田(幸兵衛)宛 年月日不詳(DK050087k-0003)
第5巻 p.413-415 ページ画像

辻純市書翰案(渋沢栄一筆)金子(平兵衛)・吉田(幸兵衛)宛 年月日不詳
                     (渋沢子爵家所蔵)
東京横浜両会社より新潟出張先ニ於て之損金御割合之義ハ、昨年已来度々両方之間ニ於て御引合有之候末既ニ当五月中御両処様横浜為替会社之惣代として拙宅へ御越被成右御出金之義御示談およひ候得共、兎角延引いたし示談行届兼候ニ付、兼而御役前之節大蔵御省ニ於て御説諭被下候因縁も有之候旁、引続き両会社之義ニ付而ハ別段御厄介にも相成且ハ両方之情態も篤と御承知被下候ニ付、渋沢様へも御依頼申上六月中両三度も第一国立銀行ニ於ても御両所様並永田・行岡、下拙義も罷出御面談いたし、且渋沢様にも御立会相願、厚く両方へ御示諭も被下候得共、詰り貴方ニ於てハ差向右出金之御手配ニ御困却之由にて右談判も相整兼、其後原善三郎殿御出京之序下拙義第一国立銀行にて御面会御引合申候処、夫迄御両処様と御引合之手続とは御申聞之趣意相異り候に付、下拙義も殆当惑いたし、尚永田・行岡へ右原氏之御申分を相通し候処、両氏にも大に打驚き侯に付、尚又月日をのへし、下拙より書面を以御掛合申候処、其御回答として当月七日附之御書面御遣し被成、一応拝見いたし、且永田、行岡へも相廻し申候、右御回答之趣にては先日原氏より下拙へ御申聞之旨と同様之事にて、元来横浜会社にては新潟出張之事に合併乗合等は可被成に付、其損分は御引受被成兼候得共、大蔵省より御諭も有之候に付、東京会社へ御助力之御心得にて右損分割合も御承知被成、且又新潟表損金決算始末等下拙へ御依願被成候も、右割合十分之三御受持の義は同所之諸勘定結末精算之上にて御出金被成候御見込にて其証書も御差出相成候義に有之、然処此際紙幣御寮より右結末之義厳重御沙汰有之候より右出金方御懸合およひ候は更に御会得難被成云々御申越之趣旨は実に驚入候御同答にて、永田・行岡に於ても只々迷惑の至に候旨被申聞候、元来此御出金之義に付而は東京為替会社に於ては今日まて御延引と承知仕候訳には無之候筈に候得共、兎角貴方之御引合向何か違却等し、既に先頃以来度々御様子も相替り、殊更御両処様御出京之上御引合申上候も又は下拙共貴地へ罷出御示談申候も時に御答振に違却有之、只々時日のみ相延候様相成候に付、夫々筋合を以御懸合も申上度候得共、詰り御互之都合を押張り、御論判いたし候様相成候はゝ其末は右始末其御筋へも申上候様之次第にて、成行は必定にて、然時は当方とて貴方とても此会社損分始末に付而は不容易御寛典をも蒙り候を、尚又右損分割合に
 - 第5巻 p.414 -ページ画像 
て示談不相届して御厄介相願候様にては重々不体裁之至にて、如何にも恐多き義と存候に付、成丈御協議相成候様心掛居候処候得共、前段御回答之御趣旨は如何にも反対之事にて、殊に御両処様には是迄度々御引合之節も右等之御議論は聊も無之、全く右出金候御手配へ差支候より遷延およひ候との御申聞に有之候を、今日に至り書面にて御回答被成候には、御面話之趣旨と相反し候は如何之次第に候哉、更に了解不仕、就而愚案候には右御回答之御文意は敢而御両処之御意見には無之、全原氏より先頃下拙へ御申聞之廉々を其儘御答書被成候様被存、頗る今日迄御引合之事実と相反し、敢而丁寧に御弁解申候迄も無之候得共、第一右御紙面中新潟会社之義は貴方には合併乗合等之趣意一切無之との事は、尤も御不都合と存候、右は是迄も度々御引合申候通り最初東京両社とて貴方とても敢而見込有之出張候訳には無之、全其節通商御司より両処両会社へ御達にて、双方申合出張いたし、既に新潟に於て之取扱は、貴方より出張之者重立取計居、是は諸帳記又は文通等にも合併出張候義は判然といたし候は、御両処様も能々御承知と存候、然時は貴方にて合併乗合無之と御申張に候はゝ、東京両社も矢張同様合併乗合は不致事に有之候、右に付一昨年中新潟県参事様御出京之節大蔵省にて御説得之趣も双方同様干責《(に)》を受可然事にて、別に区別は難相立候に付、共に其損分を引受償弁可致、尤も其割合は両方共に私を去り、篤と御考之上株金引受可申との御諭にて、其損分割合十分之三を貴方之御引受と御結約被成、既に其証書も御差入之儀に有之候然るを貴方にては合併乗合は不致に付只大蔵省之御諭に付東京之方へ御助合被成候御心得に有之候とは、如何にも案外の事に御座候、東京両社とても全く貴方御関係無之を絶而其損分を御助合可相願訳は決而無之、又大蔵省とても敢而右様御不条理之御説得被下候義は万々無之事と存候、又右様東京両会社へ御助力之御心得に候を、先般右損分決末之取計を三会社同意趣意に拠り、損分引受割合をも相定め、一紙御調印之上下拙へ御依頼被成候は何等之訳柄に候哉、既に御申越之御書面中にても于其趣意大に齬齬《(マヽ)》いたし更に条理は無之候、将又右御引受之損分御出金之義は決末精算来書中之上にて申越候はゝ至当云々との御文言も聊以不得其意事に候、畢竟先頃右決末を三会社一紙調印にて下拙へ御依頼有之候に付、下拙義は東京両会之惣代を兼、貴方よりは樋口・前原之両人を代理として御遣し被下、同様新潟迄罷越、夫々取調候に付全く精算相立候義は前書樋口・前原にも承知之事に有之候、然時は今日下拙義御依頼之趣意に依り其御出金を御促申候は素より至当之事にて、最前三会社一紙調印之証書及其時々東京会社及貴方より之御依頼を相遂候筋に有之候、もし又右精算之文字を貴方にては新潟損金取纏方一厘一毛迄も受取済相成候を以て期限と御心得被成候哉、是は実に意外之事にて不条理之至と存候、其訳は既に前段にも申述候通り、右損分割合は三会社承諭之上相定候ものにて、即其部分丈を各引受有之候ものに有之、夫故一昨年已来貴方よりも追々御出金も被成殊に月中三会社申合一紙調印之証書取結候節も新潟表出張決末取纏之義を下拙へ御依頼被成、況して貴方よりは代理人とも御遣しの上下拙同行同所出張篤と取調相付、其損分之次第を明了にいたし精算相立候
 - 第5巻 p.415 -ページ画像 
義に付、此処に於て三会社共各其引受之部分丈出金いたし置、尚其損金取調之中追而受取方にも相成候分有之候はゝ、是又同様受持之部分に応し割戻し候は何れ之精算勘定にても当然之事に有之候、元来此一条《〔行間書入〕》に付而は永田・行岡も兼而申談有之、実に示談不行届より其筋へも相伺候様成行に付而は、貴方は兎も角も東京両社に於ては何共無面目之至に付、可成丈我方之条理は不相論精々御示談相遂候心得にて、五月以来御両処様にも御引合いたし、追々日延相成候も、其実は貴方にも御引受の部分御出金之義は聊御異論無之只々右御出金之御手配に於て御困難との御申聞有之候より、貴方之情実も御推察いたし候に付御示談によりては前書引受之割合に不拘御打切之都合にも可致哉と、永田・行岡よりも其辺御打合およひ候義に有之候得共、今日に至り右様趣意反対之御回答有之、殊更御助力之御心得にて御出金可被成等之義は如何にも御不都之至と存候間、最早各其条理を御論究候より外無之候間、勿論損金打切等之義は御回答難及候に付、篤と別段陳述之趣旨御再案被成、御両処様にも言論反覆等は無之候様再御回答有之度候乍去当方に於ては下拙申迄も無之、永田・行岡も素より此不折合を以其筋へ相伺候等之義は無之、飽迄御示談之決局を相期居候義に付、幸に貴方於て前件申述候趣意御了解被成、只御答之御手配被成、尚又御打切を御望之御義に候はゝ、聊御隔意なく御懇談も可仕候、何卒前件之次第御一同へも御熟議之上早々再御回答有之度候也
                            辻純市
 金子
 吉田
  尚々御来書之通御打切之御示談と相成候て御両処様にて五百円宛を別段御出金相成金千円は増金可致趣御深切之御事と存候、乍去右は本文に御答申上候通り敢而東京に於て貴方之御助力を受候理は無之候に付、御趣意明亮御回答およひ候訳に有之候条、能々条理之御熟考被下度存候也
  〔行間書入〕
   既ニ右様決末取納之義も判然といたし取調諸帳記も有之候上ハ素より尚又両会社にて新潟出張云々抔ハ実ニ了解不致事ニ有之候


原善三郎 書翰 渋沢栄一宛(年未詳)九月一六日(DK050087k-0004)
第5巻 p.415 ページ画像

原善三郎 書翰 渋沢栄一宛(年未詳)九月一六日  (渋沢子爵家所蔵)
倍御安康被為入御坐欣喜雀躍不斜奉存候、陳者高崎枝店扱方規則拙策下案仕候間、加封別冊草稿奉入尊覧候ニ付而は、近日昇堂仕候間、何卒御閑暇も候ハヽ御加筆被成下置度、御繁忙中毎度恐縮之至奉存候得共、此段御許容偏奉願上候、右御願迄、余は不日拝謁万謝可申上候
                           匆々敬白
   九月十六日
                         原善三郎
 渋沢様

金子平兵衛 原善三郎連署 書翰 渋沢栄一宛 (明治七年カ)九月一九日(DK050087k-0005)
第5巻 p.415-416 ページ画像

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原善三郎 書翰 渋沢栄一宛 ○(明治七年カ)九月一日(DK050087k-0006)
第5巻 p.416 ページ画像

原善三郎 書翰 渋沢栄一宛 (渋沢子爵家所蔵)
 ○(明治七年カ)九月一日
一昨烏御達し之御状辱奉拝見候、陳者被仰聞候件々具ニ拝承、当社精算一両日之内全ク決算相成申候ニ付、其刻持参出京可仕候、且大隈様江御譲地所家作代価其節取究メ可申上候、頃日御含相願置候弐三拾万円入用之義、未タ不可治定不仕尤弥入用之刻《(マヽ)》は確実之証拠もの差出し候筈ニ御坐候、乍併追々遅延ニ茂相成候間先不用之御所分を以御取計御坐候様御含置被成下度奉願候、右御請迄申上度如此御坐候
                           匆々敬白
   九月一日
                         原善三郎
渋沢様
  ○「金港、第二銀行」ト印刷セル罫紙ヲ使用ス。

原善三郎 書翰 渋沢栄一宛 ○(明治七年カ)一〇月三〇日(DK050087k-0007)
第5巻 p.416 ページ画像

○(明治七年カ)一〇月三〇日
○上略
一先頃借用之金貨五万円之内半高一昨廿八日御支店へ返納仕候、跡半高之儀者近日御入用ニも候哉、当方ニも手都合之次第も御座候ニ付、御席《(序カ)》ニ御申越置被下度候
一洋銀券抵当之儀も近日上納之積リニ手配致候間、尊君御手許より御回被下候公債証書追而出京之節御渡シ相成候様仕度、尤御預リ証書下案明日ニも御回シ被下候ハヽ其節持参為致度候、抵当ハ元為替会社取持之地券其他者下名取持之地券而已ニ而間ニ合可申候事ニ付搆主集儀等者見合申候、右御回答如斯ニ御座候也
   十月卅日
                      原善三郎
 渋沢君

原善三郎 書翰 渋沢栄一宛 ○(明治七年カ)一一月七日(DK050087k-0008)
第5巻 p.416 ページ画像

 ○(明治七年カ)一一月七日
昨日御達之趣公債証書上納之儀者近日御達も可有之候付、其節相伺可申候、三野村氏江御談判被成下候趣是又承知仕候、追而御氏より御答可有之儀万一遅延候節ハ尚打合、埒明候様取計可申候
○下略
   十一月七日午後二時
                         原拝
 渋沢尊君
 - 第5巻 p.417 -ページ画像 

銀行課第一次報告 自明治六年七月 至明治一二年六月 第二二頁(DK050087k-0009)
第5巻 p.417 ページ画像

銀行課第一次報告 自明治六年七月 至明治一二年六月 第二二頁
 第四款 国立銀行創立ノ事

図表を画像で表示--

 国立銀行名称   開業免状下付年月日   資本金高          開業日         発行紙幣高 横浜第二     七年七月十八日     二五〇、〇〇〇          七年八月十五日     一五〇、〇〇〇 




(第二国立銀行頭取)書翰 渋沢栄一宛 (明治九年)一月一三日(DK050087k-0010)
第5巻 p.417 ページ画像

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(第二国立銀行)書翰 渋沢栄一宛 (明治一〇年)一月三一日(DK050087k-0011)
第5巻 p.417 ページ画像

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渋沢栄一 書翰 井口新三郎・熊谷辰太郎宛(明治一二年)四月二三日(DK050087k-0012)
第5巻 p.417-418 ページ画像

渋沢栄一 書翰 井口新三郎・熊谷辰太郎宛(明治一二年)四月二三日
                     (株式会社第一銀行所蔵)
  神戸支店支配人長谷川一彦帰店ニ付相托シ候要務廉書
○中略
一神戸支店ニ於て追而第二銀行之洋銀発行之義其他同店事務ニ付而ハ長谷川へ申談候廉々篤と御聞取可被成候
○中略
  明治十二年四月廿三日
 - 第5巻 p.418 -ページ画像 
                      渋沢栄一
   井口新三郎殿
   熊谷辰太郎殿


(吉田幸兵衛)書翰 渋沢栄一宛(明治一三年カ)三月三一日(DK050087k-0013)
第5巻 p.418 ページ画像

(吉田幸兵衛)書翰 渋沢栄一宛(明治一三年カ)三月三一日
                     (渋沢子爵家所蔵)
御尊書忝奉拝誦候、然者岩崎弥太郎一条過日早速同人迄出京御伺可申様申聞候処、于今御伺不申由、尚早速御伺可申上候様申入候、尤も同人より茅場町御主人迄何程歟金子も差上置候由ニ御坐候、併此砌リ御厚配ヲ蒙リ精算相成候様致度候間、篤と本人江も可申聞候間、左様御承引可被下候
一過日御出浜之砌リ一寸申上置候為替方入金之義、一昨日より今日迄ニ都合五万円御支店方江御入金仕候間、此段左様御承引可被下候
一生糸景況も過日より別段相替も無之候へども、洋銀意外之相場故相手次第荷主も売気ニ相成居候間、一両日も相立候へば少々宛売込出来可申歟とも愚案罷在候
右申上度頓首
 三月                 吉田幸兵衛(印)
   三十一日
     渋沢御主人様
          貴下


第二国立銀行通知状 渋沢栄一宛(明治一四年)一月五日(DK050087k-0014)
第5巻 p.418 ページ画像

第二国立銀行通知状 渋沢栄一宛(明治一四年)一月五日
(全文印刷)
新禧慶賀奉祝詞候、陳ハ旧臘類焼後家屋倉庫等建築ノ件ニ付各位ノ御集会ヲ乞ヒ御異見可承之処、歳尾及歳且之際ニ拠リ不得止御協議モ不遂、不取敢建築ニ着手致候間、此段以寸楮御報道仕候也
  追テ本月集会ノ刻詳細御協議可致侯事
 明治十四年一月五日      第二国立銀行
                  頭取
                    原善三郎
                  取締役
                    樋日登久次郎
                  取締役兼支配人
                    下田善次郎
 (墨記)
  渋沢栄一様


渋沢栄一 書翰 小栗尚三宛(明治二九年)一一月三日(DK050087k-0015)
第5巻 p.418-419 ページ画像

渋沢栄一 書翰 小栗尚三宛(明治二九年)一一月三日(渋沢秀雄家所蔵)
益御清適奉賀候、然者別紙御報告申上侯如く、第二銀行株式売却及第一銀行株式買入之件ハいつれも御家産増殖之為利益ある事と存候ニ付取扱申候間、御承引可被下候、従来之手続ハ右等之事ハ其時々平岡準蔵ニ申談し置候得共、故人と相成侯ニ付特ニ貴台へ申上候義ニ御座候尤も向後御家産ニ対する計算ハ千駄ケ谷御住居滝村氏ニ於て取扱候筈ニ付、其中同人へも相示可申と存候
時下向寒之候
 - 第5巻 p.419 -ページ画像 
一位様愈御健勝可被為渉奉抃賀候、前段ハ御序ニ可然御執奏可被下候
                            不宣
  十一月三日当賀             渋沢栄一
    小栗尚三様
  駿河国静岡市 徳川一位様御邸内 小栗尚三殿 御直展
  東京日本橋区兜町 渋沢栄一 「廿九年十一月四日来ル入御覧六日返書出ス」 「猶十一月十七日書状出ス」


(原善三郎)書翰 渋沢栄一宛 (年未詳)七月二〇日(DK050087k-0016)
第5巻 p.419 ページ画像

(原善三郎)書翰 渋沢栄一宛 (年未詳)七月二〇日(渋沢子爵家所蔵)
当十七日御発状相達シ奉拝閲候、陳者御敷物其他之代価御操替洋銀弐百五弗金拾四円也御封入御贈リ越シ被成下正ニ落手、則別帋御受書加封仕候、御落掌可被下候
新潟損失事件之義ニ付委曲被仰聞拝承仕候、尚其内尊顔万事可申上奉存候、乍此上偏御懇配被成下置度奉仰願候、銀行割賦金之義御叮嚀被仰下遂一拝承仕候、右不取敢御請迄申上度如此御坐候 匆々頓首
   七月廿日             原善三郎
 渋沢様
   閣下
  ○「金港、第二銀行」ト印刷セル罫紙ヲ使用ス。


(渋沢喜作)書翰 渋沢栄一宛(年不詳)三月一〇日(DK050087k-0017)
第5巻 p.419 ページ画像

(渋沢喜作)書翰 渋沢栄一宛(年不詳)三月一〇日(渋沢子爵家所蔵)
○上略
一当年分奉還之者江着手之摸容は追々書面ヲ以テ得高慮、若シ第二銀行と乗合ニ有之候て証書類は総而小子之一名ニ取扱、内実第二銀行と申談之約定証書ヲいたし置候積ニ有之候、右要件而已申述置候、宜敷御許容奉祈候 以上
   三月十日
  青淵盟台                  蘆陰拝
     御直披


(原善三郎)書翰 渋沢栄一宛 ○(年未詳)九月二八日(DK050087k-0018)
第5巻 p.419 ページ画像

(原善三郎)書翰 渋沢栄一宛       (渋沢子爵家所蔵)
 ○(年未詳)九月二八日
本日御発状相達辱奉拝閲候、陳は御繁忙之際を茂不顧過日高崎支店取扱規則書之義ニ付、御尊慮奉伺候処、右懇々御教諭之趣逸々拝承至当之義と奉感伏候、熟れ《(マヽ)》近日出京昇堂之上委細可奉伺候、右御報迄如此御坐候 匆々敬白
  九月廿八日
                    原善三郎
 渋沢様
  ○「金港、第二銀行」ト印刷セル罫紙ヲ使用ス。

(原善三郎)書翰 渋沢栄一宛 ○(年未詳)一〇月一日(DK050087k-0019)
第5巻 p.419-420 ページ画像

 ○(年未詳)一〇月一日
 - 第5巻 p.420 -ページ画像 
本日御発状相達辱奉拝見候、陳は洋銀券規則御制定御下附相成候段、新聞紙ニ而御承知之趣委曲奉拝承候、然ル処右は当社ニおいても今朝報知新聞紙ニ而承知致し候迄ニ而、未タ紙幣寮御達も無御坐候間、右御達至着次第早速上梓之上株主一同《(マヽ)》へも配達可仕奉存候、尚御達至着次第早速御左右可申上奉存候、右不取敢御報如此御坐候 恐々敬白
   十月一日午後一時半          原善三郎
 渋沢様
  ○「金港、第二銀行」ト印刷セル罫紙ヲ使用ス。


第二国立銀行通知状 渋沢栄一宛(DK050087k-0020)
第5巻 p.420 ページ画像

第二国立銀行通知状 渋沢栄一宛 (渋沢子爵家所蔵)
 ○(明治八年)一月八日
改年之吉兆御同慶ニ存候、陳者当銀行本年初集会之儀条例之通本月十一日を以執行可仕候処、本年者高崎支店並熊谷出張旁繁忙ニ付、本月十六日を以初集会本年商業之見込ハ勿論其他諸事御協議等仕度、午後第一時延刻無之様御出頭可被下候、右申入度報告如此御座候、書外得貴顔万緒可申述候也
          (朱印)
    一月八日 横浜第弐国立銀行章
                             第二国立銀行
 渋沢栄一様
  ○「金港、第二銀行」ト印刷セル罫紙ヲ使用ス。
 ○(明治八年)一月一四日
予而以郵信申上候通、本月十六日初集会同日御出頭剋別紙割賦金請取書呈上仕候間、第一類御印紙御帳用且御姓名下江御実印押捺御持参被成下候ハヽ、右割賦金ハ請取証書と交換即日御渡可申、此段得尊慮度郵信如此御坐候也
            (朱印)
  明治八年一月十四日 横浜第弐国立銀行章
                            第二国立銀行
   渋沢栄一様
  二白本月十六日者種々御協議等願度候間、御用務御差操被成下午前十時頃迄御港着相成候様奉希上候、尤本日丹羽健蔵を以委曲申上候得共、猶乍序此段申上候也
  ○「金港、第二銀行」ト印刷セル罫紙ヲ使用ス。


(原善三郎)書翰 渋沢栄一宛(年不詳)三月八日(DK050087k-0021)
第5巻 p.420-421 ページ画像

(原善三郎)書翰 渋沢栄一宛(年不詳)三月八日 (渋沢子爵家所蔵)
倍御勇剛被為入抃喜奉雀躍候、陳は過日出張之際御馳走御懇命被成下奉多謝候、且其後相伺不申候得共御風邪如何被為在候哉、拙義も昨夜まて風気ニ而引籠罷在候、就而は新潟結末勘定意外恐縮之至奉存候、因而明日は金子並証書為持差上申候間、此段宜鋪御了承被成下度奉願候、先ハ右可得尊意ため如此御坐候也
   三月八日              原善三郎
 渋沢様
    閣下
 - 第5巻 p.421 -ページ画像 
  二白申上候、過日御協議御坐候銀行帋幣建言書御廻しニ付早速調印御支店江御返却申上候、右は急速之御沙汰ニ相成候様之御運ヒニ至リ候様幾重にも御尊配被成下置度奉願候也
  ○「金港、第二銀行」ト印刷セル罫紙ヲ使用ス。


(茂木惣兵衛)書翰 渋沢栄一宛(明治八年)三月二〇日(DK050087k-0022)
第5巻 p.421 ページ画像

(茂木惣兵衛)書翰 渋沢栄一宛(明治八年)三月二〇日 (渋沢子爵家所蔵)
昨烏御発尊翰相達拝見仕候、倍御健勝被為入欣喜此事ニ奉存候、陳者此程ハ御年回ニ付御郷家江御発途、去ル十六日御帰館被遊候段拝承奉慶賀候、扨兼々御懇配被成下置候新潟一条出金之義、両人分其他とも乍延引御留主中永田御氏江御委托願置候処、夫々御落掌被成下候趣承知仕候、就而は吉田、増田・田中共二月分月賦且金子分不都合之次第逐一被仰聞御尤千万奉存候、何れニも精々及厳談可申候、尤本日ハ原義も他行中ニ御坐候間、帰宅次第篤と打合可申候、先ハ右不取敢御報迄申上度如此御坐候 匆々敬白
   八年三月廿日
                      茂木惣兵衛
 渋沢様
    閣下


第二国立銀行通知状 渋沢栄一宛(明治八年)四月五日(DK050087k-0023)
第5巻 p.421 ページ画像

第二国立銀行通知状 渋沢栄一宛(明治八年)四月五日(渋沢子爵家所蔵)
各様倍御安康奉欣然候、陳者今般取締役金子平兵衛殿儀退役被願出候ニ付、本年一月初集会之刻御撰挙ニ拠リ西村喜三郎殿新取締役ニ相定其筋江御届ケ申上候、此段御承知被下度候也
   明治八年四月五日
                        (朱印)
                 第二国立銀行 第弐国立銀行之印
                  頭取
                    原善三郎
 渋沢栄一様
  ○「金港、第二国立銀行」ト印刷セル罫紙ヲ使用ス。


(原善三郎)書翰 渋沢栄一宛(年不詳)八月一八日(DK050087k-0024)
第5巻 p.421 ページ画像

(原善三郎)書翰 渋沢栄一宛(年不詳)八月一八日(渋沢子爵家所蔵)
  換口
昨烏御発状相達辱奉拝見候、陳は過日者残炎之折柄御遠路御出港被成下置
御懇情感佩奉厚謝候、扨、株敷御入金受取之証書弐枚御加封正ニ落手仕候
株券状裁制出来申候間、不日持参拝呈可仕候
御敷もの代金拾壱円御加封是亦正ニ落手仕候、右品五ヤル半、昨日紙包ニいたし、鉄道局江相渡し申候、着日御落掌可被下候、代金之義ハ相訳り次第差引算勘可仕候末迄御預り申置候、右御報旁申上度如斯御坐候 匆々頓首
   八月十八日            原善三郎
  渋沢様
  ○「金港、第二銀行」ト印刷セル罫紙ヲ使用ス。
 - 第5巻 p.422 -ページ画像 


〔参考〕横浜開港五十年史(横浜商業会議所編)下巻・第八二九―八三三頁〔明治四二年五月一五日〕(DK050087k-0025)
第5巻 p.422-423 ページ画像

横浜開港五十年史(横浜商業会議所編)下巻・第八二九―八三三頁〔明治四二年五月一五日〕
  第三十七章 商業会議所会社及銀行
    横浜為替会社の設立
維新の始、政府は通商司なるものを設置し、大に内外商業の振作を計りしが、基の際主として三府五港の富家を勧誘し、為替会社を開業せしめたり、此勧誘に応じて現はれたるを東京、新潟、西京、大阪、神戸、大津、敦賀、横浜の八箇会社とす、政府は是等会社に太政官札を下付して、資本を補助したり、是れ一面には会社を保護して之を成立せしめ、他方には当時太政官札世に信ぜられずして、流通円滑ならざるより、会社に下付して、之が流通を計るの意に出でしものなりと云ふ、斯くして設立せられたる横浜為替会社は、現に本町三丁目に宏大の洋館を構へ、盛んに業務を営みつゝある、株式会社第二銀行の前身なり、此開業は明治二年七月にして、頭取は官選を以て三井八郎右衛門任命せられ、頭取並(副頭取の地位)は原善三郎外十名選任せられ、設立当時の営業資金は不詳なるも、頭取は壱万円、頭取並は各々五千円出資したりと
    為替会社金銀券の発行
以上八箇の為替会社に対しては通商司より金券の発行を許可し、横浜為替会社には特に洋銀券の発行をも併せ許可したり、是より先き横浜には、洋銀券盛んに流通しつゝありて、何れも外国銀行の発行に係るもの、我商人は之れが使用に甚しき不便を感じたるのみならず、中には贋造物さへありて、鑑識容易ならず、左りとて洋銀を使用せんか、尚其不便を免れず、是に於てか、寧ろ此洋銀券は我に於て之れを発行し、内外人の用に供するの便なるに如かずとなし、横浜為替会社は其発行を出願したるに、政府は明治三年四月を以て、千弗、五百弗、百弗、五十弗、二十弗、十弗、五弗の七種洋銀券を製し、横浜為替会社に下付したり
    銀券の不遇と最終の勝利
然るに是に其流通上大難関に遭遇したる一事あり、他なしオリヱンタル、バンク以外の外国銀行が障害を与へたること是なり、横浜為替会社が洋銀券を発行するや、外国人の間に流通を容易ならしめん為、居留地オリエンタル、バンク支店に予め五万円を預入して保証に当たるも、他の外国銀行へは此保証物を提供せざりし、之れに依り此提供に洩れたる外国銀行は、忽ち其授受に故障を唱へ、或時は各銀行の門前に洋銀券取引拒絶の旨を掲示する等の事ありて、流通上一方ならざる障害を惹起し、洋銀券は此障害と闘ひつつ数年を送り、明治九年に至れば生糸は暴騰して、提糸八王子物千三百八十弗の珍価に上り詰め、輸出は此珍価に拘らず、益々増加するの勢を示し、外国銀行は在金忽ち欠乏を来し、上海、香港諸地の諸銀行に依りて手の届かん限り資金の吸収を試みたれど、容易に其空乏を補ふ能はず、此経済界の窮迫は外国銀行をして、数年の感情を捨て、兜を脱て為替会社に降を請はざる可らざるの究状に到達せしめ、彼等は遂に延金古金銀の類までも提
 - 第5巻 p.423 -ページ画像 
供して、為替会社に融通を求むるの余儀なきに至れり、此時よりして我洋銀券は広く内外人の間に流通するに至れるも、過去数年間不融通の為、横浜の経済界が蒙りたる不便一方ならざりし
    為替会社の解散
明治三年十一月、政府は銀行事業視察として、伊藤大蔵少輔以下を米国に差遣し、横浜為替会社よりも、増田嘉兵衛、吉田幸兵衛、鈴木保兵衛、橋本弁蔵並に通弁出島松蔵を同伴せしめ、其調査したる結果として、明治五年国立銀行条例の発布あり、為に為替会社は解散せらるべき運命に到著したる際、他の七会社には巨額の負債ありて俄に解散するを得ず、左りとて新条例の出るありて、存続する事も亦不可能となり、進退谷りて官借金返納免除を受け、別に官貸を仰ぎて、辛ふじて解散の手続を了したるに、横浜為替会社は独り能く善後策を講じ、更に田中平八、増田嘉兵衛、茂木総兵衛、吉田幸兵衛、金子平兵衛、原善三郎の六名発起人と為りて国立銀行条例に準じ、従来の為替会社を銀行に改造すべく出願したるは、明治五年十月なりき
    第二銀行創立と銀券処分
資本金は百万円と定め、差向き四十万円を以て第二銀行と称する銀行営業開始の許可を得たるは、同六年一月なりし、然るに此銀行が他の銀行と趣を異にし、処置に苦しみたるは洋銀券にして、金券は為替会社の廃止と共に引揚ぐべきは勿論なれども、洋銀券に至りては、外国銀行に在て、諸種の洋銀札を発行し、盛んに流通しつつある際なれば俄然之れを回収するは、横浜の経済市場を攪乱するの虞あり、之れが為め外国銀券通用の間は、依然流通せしむべく政府に請願し、其許可を得、十七年五月兌換銀行券条例の発布あるに及んで、廃止を命ぜられ、而して同券全部の回収を了りしは、二十三年十二月なりき、左れば正金銀行が、海外貿易の機関として顕はるる以前は勿論、同銀行設立の後と雖も、洋銀券廃止に至るまでは、相並んで、内外商人の金融を掌りしは此第二銀行なりし
    第二銀行の今昔
銀行設立の当時、発起者中には海外に渡航して、親しく銀行界の事情を目睹したるものあり、然らざるも銀行の利益ある事は夙に知得したる人人なれば、百万円の株金は容易に得らるべしと思惟したるなるべきも、事実は然らずして、当時其業の前途を疑ふもの多く、発起者一年余の奔定は、僅かに二十一名の株主と此総株金二十一万余円を得たるに過きず、百万円に愚か四十万円すらも名義に止まりて、実際に調達する能はず、遂に二十五万円に減資して、其成立を見たるは明治七年七月なりき、此時頭取となりしは原善三郎、副頭取は茂木惣兵衛、支配人は下田善次郎、副支配人は樋口登久次郎にして、是等の人人は明治十年僅かに五万円の資本を増し、困難と闘ひつつ行務を処理し来りしに、十一年十二月類焼の厄に罹り、一層の困難を加へたり、然れども時勢は漸く進歩し、銀行業の安全漸く社会に認められ、十一年、十三年、二十九年其他時時資本を増加して、今は百五十万円の資本を以て裕かに行務を営むに至れり
○下略