デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
6款 択善会・東京銀行集会所
■綱文

第6巻 p.431-434(DK060128k) ページ画像

明治31年6月15日(1898年)

是ヨリ先、朝鮮旅行ヨリ無事帰朝ス。是日組合銀行会員等栄一ヲ両国亀清楼ニ招待ス。栄一出席シ一場ノ演説ヲナス。


■資料

銀行通信録 ○第一五二号・第一〇六五―一〇六六頁〔明治三一年七月一五日〕 渋沢栄一君朝鮮より帰朝に付招待会記事(DK060128k-0001)
第6巻 p.431 ページ画像

銀行通信録
 ○第一五二号・第一〇六五―一〇六六頁〔明治三一年七月一五日〕
  ○渋沢栄一君朝鮮より帰朝に付招待会記事
六月十五日午後五時より東京銀行集会所組合銀行会員は、此程朝鮮より無事帰朝せられたる渋沢栄一君を両国亀清楼に招待せり、是日会するもの七十二名、座定まりて豊川良平君は会員一同に代り開会の趣旨を陳へ、且つ今回渋沢君が朝鮮国旅行中見聞の談話を聴かんことを請ひしを以て、渋沢君は立て釜山、仁川、京城と順次見聞の状況を縷述し、併せて将来我々実業家の注意すべき一片の意見をも陳弁せられたり(其詳細は本号演説欄に掲載せり)
右了りて豊川君は立て之を謝し、且つ盃を挙げて列席諸君と共に渋沢君の健康を祝し、夫より賓主各歓を尽し、同十時散会せり
 - 第6巻 p.432 -ページ画像 

銀行通信録 ○第一五二号・第一〇一〇―一〇一四頁〔明治三一年七月一五日〕 韓国見聞談(第二回の演説)(DK060128k-0002)
第6巻 p.432-434 ページ画像

 ○第一五二号・第一〇一〇―一〇一四頁〔明治三一年七月一五日〕
    韓国見聞談 (第二回の演説)
  前回には刻印附円銀の事に関し申上る所ありたり、故に今回は右と重複せざる様、沿道の見聞及卑見を述ふべしとて左の演説あり
○釜山 は恰も日本の如くにして特に長崎に酷似し、其市街と謂ひ家屋と云ひ将た日本商人の商業に従事する有様と謂ひ殆んど日本に異ることなきなり、同地に竜頭山と謂ふ小邱あり、松樹鬱葱として眺望佳麗なり、山を廻りて市街あり、是れ即ち日本街なり、第一銀行の支店も此所にあり、一見日本と異るところなしと雖も、唯日本の市街と異れる所は、白衣を着けて優然と歩行する人及籠子を背負ひたる人足躰の者多く来往する点に於て僅に異るのみ、商業上の摸様を見るに従来差したる変化なきものゝ如し、穀物は釜山より一里を隔りたる下端と云ふ地より輸送さるゝものなり
○下端 は釜山より西南に位し、有名なる洛東江の海に注く所にあり余は帰途の際同所に立寄りたるに此所も亦頗る日本に似たり、然ども其河港は或は広く或は狭く頗る不規則なり、又其深浅も一ならず到底良港と云ふべからざるなり、洛東江は渺茫たる大河にて水浅けれども其域極て闊し、下端の市外なる小邱に登りて一望すれば江は群山を縈廻して各所に蘆田の青々たるを見る、実に山紫水明の地なり、街区は汚穢なれども船舶を碇泊せしむる為めに作れる粗末なる船渠あり、即ち海水の干満に依りて船舶の出入に充るものなり、下端の商業は日本人が専ら取引の衝に当り穀物の輸出入を為すものも亦概ね日本商人なりといふ、釜山附近に於る耕作の方法も我邦と異ることなし住民の気風は京城の人よりは少しく勉強心ありと思はる
○仁川 は釜山と大に其趣を異にし、其港は潮の干満強く満潮の時は二十五六尺に及ぶといふ、月尾島は大小二ありて港面に並立す、月尾島の内を内港と唱へ、外なるを外港と云ふ、大船は多く外港に碇泊す同所は新開の地なるが故に釜山に比して整頓を欠けるが如し、山多くして平地少なき為め来往共に便ならず、従て非常に狭隘なる処に輸出入の荷物を揚卸するを以て、穀物の運送其他の貿易品に取りては極て不便なり、同所には西洋人及支那人の居宅あり、又日本の領事館も日本公園もあり、日本人の居住せる者多きこと釜山の如く、全然日本市街の観を為す能はず、月尾島のみならず港の附近には小島参差せるが故に其眺望甚だ佳なり、雑貨及穀物等の取引夥多なるを以て釜山よりは一層繁華なりとす、仁川には韓人の商業に従ふもの少からず多くは穀物を取扱ひ又は日本人より輸入せる商品を売買するなり、仁川港の貿易高は未た以て巨額なりとすべからす、勿論僅に十数年此方の開港としては寧ろ長足の進歩なりと云はざるべからず、日本町に隣て朝鮮町あり、釜山より一層市街に規律なき様なり、従て混雑甚しく汚穢の点も驚くに堪へたり
○京仁鉄道 は殆んど落成せんとす、余は仁川より京城への旅行に於ては輿に乗り一行十数人程なりき、韓人は肩の力甚だ弱けれども、物を背負ふ力に於ては頗る強壮にして荷物は皆背にて運搬するなり、余が京城に至る迄の間は都て鉄道線路に沿ふて進行せり、其中にて工事
 - 第6巻 p.433 -ページ画像 
の最も困難なる所は漢江の架橋工事なり、漢江の源は何処より発せるやを知らざれども、鉄道の敷設橋梁の架設に困難なる箇所と云ふは河原一面に小砂利ありて一里余に連続せり、是を以て見れば該河は時々汎濫するものと知るべし、漢江の鉄道橋梁は鷺梁津といふ所に架設する都合なり、橋を渡りて竜山といふ所に至る、夫より三哩許にて京城に達するなり、鉄道工事未だ充分に竣功せざれども漢江の橋梁を除く時は概ね出来せりといふべし、軌道はスタンダートゲージの方式を採用せるものにして日本にも未だ見ざる所の広軌鉄道なり
○京城 に入りたるは五月三日なり、京城は流石は韓国の首府丈に立派なり、汚穢は免がれざれども城内の家屋稍規矩正しく城門及外囲の様子は恰も仏国のホルチヒケーシヨンの如し、城の内外に聯絡して各種の門あり、南大門は仁川街道に通し西大門は義州街道に通す、其他東大門北大門等あり、又其外に数個の小門あり、此等の門は皆石畳を積重ねて門を為せり、城中の家屋は仁川釜山と異り瓦葺のもの多し、皇宮は特に立派なり、三百年以前に建設せられたるを昌徳宮といふ、京城東北の方に在り其規模構造共に見るべきもの多し、宮内に数多の門を通し門には扉なきものあり、宮殿内部屋の数は非常に多し、然れども悉く狭隘なり、昌徳宮の外に景福宮あり、今の国王が即位の際大院君摂政の時に建設されたるものにして頗る宏大なり、勤政殿廃会楼[慶会楼]なとの建物は尤も荘厳華麗なり、其奥まりたる所に坤寧殿といふ一室あり、是れ明治廿八年の乱に王妃の暗殺されたる処にして今に尚当時の儘なり、同所に留守番として宦官三人を置けり、南大門西大門等に接続する道路は甚た立派なれども通常の道路は至て狭隘なり、韓人は日本人より身の丈長大にして彼等の家屋及道路の狭隘なる事斯の如く而して其汚穢なるは彼等に於ては何等の感覚なきものゝ如し、特に吾人の注目を惹くは市街路次の隘少なるにありき、余は韓人の躯幹長大を以てして何故に斯く隘少なる道路に安ずるやを疑ひ、我駐韓公使加藤氏に語るに此事を以てしたるに、氏曰く、狭隘なるは人民の通行すべき道にして、広大なるは国王の道路なりと、余は之を聞き戯れに云へり、果して然らは他日京仁鉄道落成開業の日には外国人の道路と化し去らんも亦知るべからざると、京城の小売商業は甚た盛なり、店は中店の如く大道の両側に開くあり、近在より馬にて荷物を送付し来りて店頭に於て売買す、就中雑貨商の如きは大に昌繁せり、近来日本の宗教家にして同地に布教を為す者あり、又日語学校を開きて韓人の子弟を教育するものあり、其入学生徒は常に七十人程なりといふ、我公使館は南山にあり、日本市街は泥峴街といふて南山に近く少しく高低ある所にあり、家屋は余り立派ならず、仁川の商人多く支店を此処に置けり、同地は寧ろ小売市場といふべし、其商業取引も漸次進歩の見込なきにあらざれども目今の処余り広大といふを得す
○村落 釜山、仁川、京城各其見る所を異にすれども都府と田舎とは殊に其趣きを異にするものあり、暫く田舎に就て一言せんに、韓国の土地の開けさるには実に驚きたり、日本なりせば如何に辺郷僻邑と雖とも幾何か道路家屋等形を為し甚しき錯雑はなきなり、然るに韓国の村落に至りては其不規律にして錯雑せること言語に堪へたり、各種の
 - 第6巻 p.434 -ページ画像 
荷物を運搬するには馬を使用し田地の耕作には牛を用ふれとも、其使用法甚た緩縵なり、但し馬と牛とは其性質頗る良好と思はる、京城の人も田舎の人も悉く居宅の床下に火を焚きて暖気を取る、之をオンドルといふ、此一事を以て見るも彼等の怠惰なるを知るに足らん、而も其他総て不規則なるに至つては驚くの外なきなり、地方の農業に於ては日本の如く鍬を用ひす、鋤の如きものを以て僅に耕耘するのみなり
○結論 要するに韓国は全く農業時代の国にして、未た工業経済若くは商業経済の時代に達せさる者なり、而して韓人の性質は従順にして特に労力に堪るの質あり、然れども惜むらくは彼等は敢為の気、堪忍の念なきなり、是れ余か有形無形の上より観察せる所なり、顧みて日本との関係を見るに、其交通は二千年以上に亘り上代に在りては彼等か寧ろ我国に対して侵略を逞ふせしことありしやも知るへからす、然れども神功皇后の三韓征伐より以後、我国は引続き彼国に対し進取的政略を採り来り、近来特に盛なりといふべし、而して向後如何なる方針を以て之に処すべきや、是れ吾人の最も注意すべき要点なりとす、余を以て之を見れは、我邦の対韓政略は将来勉て侵略意念を止め、誘導的開発を事とし、彼国の耕作方法及養蚕を進歩せしめ、其生産物を我に購取し、我国の製造物を輸送して彼れに売拡くるを得策とせん、然らは侵略的時代を経過せる今日に於て、我国人か通商上充分に行働するは吾人商業家の任なるべし、実に明治廿七年以来韓国の風雲は種種なる変化を為せり、今後又如何なる成行を見るや知るべからざれども、彼等は今日我邦に依頼するの最も便なるを知るものゝ如し、朝令暮改漂々然たる彼等のことなれば元より今日の状態を以て将来を推すべからず、自今以後彼我商業上の関係愈々拡大なるを得ば、是れ両国の利益を鞏固にするものといふを得べきなり、要するに吾人商業に従事する者は我国家の利益と併馳せしむる様、個人の業に於て勉て進取を謀りたきなり、果して然らは吾人が韓国に対する経営は、小にしては個人の利益を進むるのみならず、大にしては実に我国力を振張するものといふべし、上述の如く同国は陋隘汚穢の土地なるも、余は英仏の如き文明国に至れるより大に愉快を感じたりき、何となれは韓国は我国人民が誘導開発すべき土地にして、諸種の事物を我に依頼するもの多きが故に、恰も我は彼の母国の如き感あるを以てなり
  ○第一回刻印附円銀ニツイテノ演説ハ「韓国ニ於ケル第一銀行」明治三十一年五月七日ノ項ニ収ム。