デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
6款 択善会・東京銀行集会所
■綱文

第6巻 p.675-684(DK060175k) ページ画像

明治39年12月19日(1906年)

東京銀行集会所・東京交換所・銀行倶楽部連合シテ元帥陸軍大将大山巌、同伯爵野津道貫等ヲ招待シテ晩餐会ヲ開ク。栄一出席挨拶ヲ為ス。


■資料

銀行通信録 ○第四三巻・第二五五号・第七二―七三頁〔明治四〇年一月一五日〕 大山元帥以下招待会(DK060175k-0001)
第6巻 p.675 ページ画像

銀行通信録 ○第四三巻・第二五五号・第七二―七三頁〔明治四〇年一月一五日〕
    ○大山元帥以下招待会
東京銀行集会所、東京交換所及銀行倶楽部にては十二月十九日○明治三九年午後六時より大山元帥以下陸軍将校を招待の上連合晩饗会を開きたり
当日招待に応じて出席せる来賓氏名左の如し
   大山元帥   野津元帥    黒木大将
   奥大将    西大将     川村大将
   石本中将   小池軍医総監  中村中将
   福島中将   上原中将    村木中将
   宇佐川中将  一戸少将    大迫少将
   井口少将   大谷少将    藤井少将
   長岡少将   松川少将
斯くて一同食卓に着き宴闌なる頃「君が代」の奏楽に引続き銀行集会所会長渋沢男爵の発声にて 天皇陛下の万歳を三唱し、次で渋沢男爵より来賓に対し一場の挨拶を為し、之に対して大山元帥の答辞あり、終て交換所委員長豊川良平氏一場の演説を為し、夫より別室に於て一同撮影を為し各自歓談の上午後十時散会せり


銀行通信録 ○第四三巻第二五五号附録・第一―九頁〔明治四〇年一月一五日〕 ○大山元帥以下招待会に於ける演説(DK060175k-0002)
第6巻 p.675-685 ページ画像

○第四三巻第二五五号附録・第一―九頁〔明治四〇年一月一五日〕
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    ○大山元帥以下招待会に於ける演説
 昨年十二月十九日大山元帥以下招待会の景況は本号録事欄内に記する如くなるが、其席上に於ける銀行集会所会長渋沢男爵の挨拶、大山元帥の答辞及東京交換所委員長豊川良平氏の演説筆記左の如し
    渋沢男爵の挨拶
元帥、大将及諸将官閣下、今夕は当銀行集会所、東京交換所、銀行倶楽部の三団体が申合せまして元帥、大将及諸将官閣下の尊来を請ひ上げました処、歳末御繁忙の中を御繰合せ下されて玆に諸閣下の御尊臨を忝うしましたのは会員一同の此上もない光栄でございます依て私は会員を代表して一言謝辞を申上げます
私は玆に会員に代りまして此開宴の趣旨を申上げやうと考へまするが元来吾々銀行者は従来の習慣として軍務に御関係の方々とは頗る疎遠の嫌がございまして軍事と経済とは両者相待つて国の進歩を謀らねばならぬ必要がありながら、維新以前にありては殆んど呉越も啻ならぬといふ有様に打過ぎましたが、これは頗る遺憾千万と考ふるのでございます、然るに明治の聖代に移りましてから国民皆兵といふ制度となり、昔日の旧夢は全く覚めましたなれども習慣の久しき軍事と商工業とは兎角に親密を欠き、吾々から見ると軍人は何やらん多く国費を費やし不生産的の事業をのみ経営なさるが如き観察が生じます、又反対の軍事側の諸君から御覧なさると、商工業者特に銀行者抔は、ケチな考を以て始終卑屈に安んずるといふ感じを抱かれるであらうと僻み考へかは知れませぬが、思ひつゝ居りましたのでございます(ノウノウヒヤヒヤ)
然るに維新以来段々に事物の進むと共に、已むを得ぬ勢からして或は支那と戦ひ、又此一両年以前の大国難、大戦役、是等に就て殊更に軍事、経済両者の間柄を磁石と鉄の如く密着せしめたといふのは、蓋し諸君の御力に由るものと存じますが又世の機運が大に之を助けたと申さねばならぬのでございます。今般の大国難に際しては実に御列席諸閣下の勇武絶倫なる勲功を以て幸に国威を発揚し、国光を煥発せしめたことは吾々国民として又銀行者として常に敬慕已まぬのでございます、昨年の冬から当春に掛けて追々の御凱旋に際しては其時々宴を設けて感謝の意を表し、且つ御慰労を申上げたいと考へ居りましたけれども折々の凱旋にあらせらるゝ為めに遂に恰好の時機を得ざりし故、実は今夕偶然に催ふす小宴の趣旨で御案内は申上げましたけれども甚だ粗末ながら多少御勤労を慰めたいといふ微意の存し居りますることは何卒御諒納を請ひ上げたいのでございます
想ひ起すと三十六年の秋頃からして密雲雨らず、段々に国交の紛糾して参りまするに就ては、吾々国民として如何に相成るであらうか、欧羅巴各国ですら眉を顰め頭を悩ます所の国柄と、勢ひ衝突を免かれぬとなつた日には殆んど国運を賭しての事である、最早此場合戦の一途あるのみ、既に戦の一途と決する以上は又勝たねばならぬといふ希望は生ぜざるを得ぬ、此に至つて始めて御列席の諸公閣下を仰ぎ上げまするは、殆んど病に臨んで神仏を祷ると同じやうに目の見えぬ吾々ではございますけれども、其際吾々が臨場諸公閣下を口にこそ出さね心では深く御信頼申上げたといふことは諸君も必ず御承知下さることゝ
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存じます、其の初め三十七年二月早々国交断絶といふことを承知しますると、忽ちに海軍の捷報を得て聊か喜の意を生じましたけれども、陸軍に於ては何れに相成るかと吾々素人の評判は素より取るに足らぬ言葉でございまするが、今般の戦争は海軍は先づ大丈夫であらうけれども陸軍は困難であらうといふことは、謂ゆる下馬評ながら吾々は殊に其の辺に杞憂を抱かぬでもなかつたのでございます、故に九連城の戦捷によりて鴨緑江の連絡が着く頃は、私は病中に居りましたけれども褥中に呻りつゝ心配をして居つたのでございます、定めし其時分此席に居る豊川氏及其他の同業者諸君も共に尚一層心配致したといふことは今日も想像するに足るのでございます、然るに其戦争は誠に満足な勝利を得て続いて追々に北進して参りまするといふことを喜びつゝ居りましたる処、同じく三十七年の七月頃と覚えまするが丁度浦塩の艦隊が出で種々日本海若くは大平洋に於て暴戻なる行動を逞しうするに就ては商工業界も余程憂慮を致しました、当初より制海権は十分に得たと思ひきや、多少の妨害を受けはせぬかといふことが其時分吾々の故も憂とする所でございました、続いて尚懸念を増しましたのは旅順陥落の延引といふことでございます、十月若くは天長節までには必ず陥落するであらうといふが如き風聞を耳にして居りましたのが天長節が過ぎても未だ落ちぬ、是に反して波羅的艦隊は追々に東に進んで参るといふことが屡々伝聞されまするので、此末は如何であらうかといふ事をば、丁度其頃は私も病が治して漸く事務を取り得るやうになりまして、銀行者間に数人相集る場合には各眉を顰めたことでございました、殊に十二月と覚えまする、私は第一銀行の関係から朝鮮に始終連絡を取つて居りまするので、或る筋からして内命で向後凡そ四五箇月間朝鮮に於ける国費を維持するには幾許の金額を要するかといふ下問を蒙つたので、若も是は制海権が破れもするかといふ憂慮を抱いて窃に暗涙を注ぎたこともございます、是は十二月末と記臆して居りまする、併しそれからの杞憂は全く素人の夢に過ぎませぬで、一月の二日には望の如く旅順開城となり、ステッセルは降参する、総て満足なる結果を得たといふのも皆是れ諸閣下の大偉勲よりして斯る安心を吾々にお与へ下すつたと喜び上げねばならぬのでございます、其前後或は南山に得利寺に遼陽に沙河に奉天に数度の大戦争も着々其戦機を誤らず遂に今日あるに至りましたのは、吾々は何と謝辞を申上げて宜しいか其言葉を知らぬのであります、但し私素人の記臆でございまするから、前に申上けましたることも、一向順序は立ちませぬが今玆に其の当時を追想して見ますると、膚に粟を生ずるの感が起りまする、それ故今日此場合に吾々の懐抱する感情を諸閣下の面前に陳状して吾吾は左様にまで深く肝銘して居るといふ事を証明仕りたいのに過ぎませぬのでございます
蓋し前にも申しまする通り、戦争と経済とは相離るゝといふ理はございませぬけれども、必ず又相伴ふとのみ申されませぬのは、元来一方は消費を専らにするもの、一方は生産を務むるものでございますから、戦争の必要から軍備にのみ力を入れるといふことは国家の経済に甚だ困難だといふことを始終経済方面のものは申しまする、又反対に
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軍事経営の方法は、すわ事ある場合に其準備がなければ之に応ずることは出来ぬと言はるゝことは何時の時代にも生ずべき議論で、決して今日にのみと申すではなからうかと考へます、而して其間に戦争は国家に害を与へるものだ、戦争は国の繁盛を妨げるものだといふ判断を下し、又或は戦争は国の気運を一新するものだ、国の事物を拡張するものだといふ判断も与へられる、是は両方に説がございまするやうに考へられるのでございます、唯今お待請け申上げ居りまする席で上原閣下へ申上げましたのでございますが、丁度一昨年の晩秋と覚えます
第三回の公債を募集しまする頃ひに、私の病も僅に癒えましたので其公債募集の事に就て国民後援会というものが大に一般の人気を鼓吹する為めに演説会を開いてやらう、それには演説家のみが出て談話するのは甚だ面白くないから、実業家からも出るが宜がらうといふので私も其一人に選まれて歌舞伎座に出て所謂檜舞台の演説を始めて致したことがございます、其時に私は斯様な演説を致しました、之を此席で申上げますれば定めて御臨席の諸閣下は貴様の言ふ通りだと両手をお挙げ下さるだらうと考へまするで御礼心に陳状致します、それは「戦争と経済」といふ演題であつたのでございます、前に申上げまする通り戦争は国の経済を妨害するものだ、故に昔から俗諺に「地所持や金持や疝気持はあたり近所に事なかれ」と云ふて居る、畢竟是は悪く申せばシミツタレなる貨殖を努むる者は成るべく近所に騒動の無いことを望むといふの意味で、即ち銀行者抔は国家に戦争の事柄などの無かれと思ふ如き心を意味したものと察せられる、然るに斯く申す渋沢も経済界の一人であるが私は反対に戦争は経済上に大なる裨益を与へるものだと断案して玆に申上げるのである、試みに戦争の国家の経済に裨益致した例を挙げて申さう、先づ欧羅巴の有様を見ても決して戦争が経済に妨害をしては居らぬといふことは数多の例があらうが先づ第一に英仏の戦、二十一年も戦争をして居つて困難をしたと云ふけれども英吉利の商工業は拿破崙戦争の後に大に発達したではないか、又七十三年の普仏の戦争も勝つた独逸が発達したばかりでなしに負けた仏蘭西すら尚経済が大に拡張したといふことは経済家が十分証する所ではないか、さすれば外国の例に依つて見ても戦争は強ち経済を妨害するものでないといふ事は十分言ひ得られるやうである、私は欧羅巴の歴史に暗いから尚細かい例を玆に挙ることは出来ぬけれども日本で御覧なさい総て戦争の後に経済が発達したといふ事は着々其例がある、遠く神后皇后の三韓征伐の如き、必ず其時分の国家の機運は大に進んで其事物が拡張したに相違ない、其以後と雖ども足利の末あたりの小競合は或は如何であつたか判りませぬけれども、既に徳川氏の戦勝後が大に国運を発達せしめた、豊臣秀吉亦然り、維新以後に於て極く近い例が即ち日清戦争の後を御覧なさい、二十八年、九年、三十年、此間に我国の進歩と云ふものは容易なものではない、而して三十一年頃には余り進み過ぎて大に困難した(笑)、少し食事を過ごして後で腹工合を悪くしたといふことはあつたけれども、それが為め大腸加答児を起して身体を虚弱にしたといふ程には無うて矢張相当なる進歩拡張を見た、畢竟其戦争があつたから三十七八年の今日に至つたではない
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か、果して然らば戦争は総て経済に対しては大に裨補するものである、然るに玆に一つ不思議な話がある、私が露西亜の経済学者而も軍事学者で頗る有力の人―私は欧羅巴の事は知らぬ、況んや露西亜の事などは尚更知らぬ、知らぬけれども彼の有名なるブルーグとか云ふ人の著はした「近時の戦争と経済」といふ書籍がある、其翻訳書に依つて見ると此人の論旨は全く戦争は経済の妨害者で殊に野蛮的戦争はまだしも宜しいが文明的戦争程金の沢山掛るものはない、迚も国家は文明的戦争を無闇に遣られた日には堪る者ではない、故にどうしても平和会議を起すが必要だと言つて露西亜帝を勧めて平和会議を起させたのみならず其「戦争と経済」といふ書物は、数字を挙げて種々なる調査よりして戦争が経済を妨害する理由を証明してある、其一としては工業商売の繁昌する国ほど戦争に堪へぬ、是に反して農業国は戦争に余程維持が出来る、例へば精神遅鈍の種類の者は排気鐘で空気を除かれても余程命を保つ、蝦蟇は三十分保つけれども人は五分間で死ぬといふやうな差がある、工業又は商業国は農業国に比べては戦争に際して其困難の度が強いといふ事を種々なる例証を挙げて論じて居る、要するに戦争は経済の大妨害ものと断案をして居る、故に露西亜の経済学者のブルーグの説と日本の経済学者(笑)―とまでは言へませぬが日本の経済家の渋沢の説は正反対である、そこで如何なる判断をして宜いかといふ疑が生ずる、所が私は之を一言に判断することが出来る、併し是は私一己の説で聴衆諸君が残らず此説に同意して呉れるかどうかは判らぬ、而して私は之を何と判断するかと云ふと其戦が仁義の戦王者の戦であつたならば戦後其国が必ず繁昌する(拍手)、若し其反対に暴戻なる不義の戦であつたならば戦後必ず其国は衰微する(拍手)、言換へれば戦後国の衰微する戦争は暴戻の戦である、不義の戦である戦後国の繁昌するのは君子の戦である、王者の戦である、然らば今日日本の露西亜と戦ふのは暴戻の戦であるか仁義の戦であるかと云ふことは直に諸君の判断が着くではないか、果して然らば戦争後必ず国が繁昌する、国が繁昌するならば此国庫債券の募集に応ずる位は何でもないではないか、故に諸君大に奮発して公債募集に応じなさいといふ事を申しましてございます、是は既往の演説で今日価値のないお話でございますが、私の戦争に対する解釈は今申す如く考へて居りまするのでございますから、若し臨場の諸閣下が銀行者は戦争は嫌ひだと思召すならば不義の戦争を嫌ひ仁義の戦争は大に歓迎するといふことに御解釈を願ひたいと思ふのでございます(拍手)
更に一つ玆に申上げて諸閣下の高評を請ひたいと思ひまする事は、吾吾共其方面こそ異なれ是非諸閣下の統率せらるゝ軍人状態に我経済界をも進めて行きたいと常に希望して居りまするのでございます、それは如何とならば元来吾々の管理する経済界は維新以後新たに改造されたと申して宜しいのです、経済社会の現況が、幕府以前にあつた有様とは全く形が変つて居ります、又御列席諸閣下の統率せらるゝ軍事界も幕府時代のものとは全く面目が変つて居ることは明かであらうと思ふ、果して然らば維新の大改革後軍事といひ経済といひ全く新規に改造されたるものであつて而して此改造されるに就ては双方の部類に新
 - 第6巻 p.680 -ページ画像 
しい分子が混入して来たといふ事も御了解であらうと思ふ、事を分けて申しますると御列席の諸閣下は大低旧藩の士族といふ御方で在らしやる、兵制で申すならば昔は武門武士といふ一種類がちやんと出来て居つた、然るに今日の兵制は豆腐屋の丁稚も小間物屋の小僧も皆軍人になつて居る、故に此階級の混同から申しますると今日の軍人は下級の者を上へ引上げて交ぜたといふ改造法になつて居る、之に反して商工業者の改造はどうであるかと云ふと昔は士農工商といふて商は四番目の最下級に居つた、士は一番の上級に居つた、此上級の士が商に交つて来た、即ち下級の者へ上級から這入つて来たから若し比較論で其優劣を判断すれば軍人のお仲間より吾々の方が余程上進して宜しい訳である、何となれば善いものへ悪いものが交つたよりは悪いものへ善いものが交つて来たのだから――そこで吾々は其当時は大に自慢をして居つた、今に御覧なさい、吾々商売人は軍人より立派な事をして見せる、と斯う考へて居つたのです、然るに二十七八年若しくは三十七八年の大戦役のあるに際して着々其実際を拝見しますると実に軍人の勇武絶倫にして死を見ること帰するが如く、独り戦闘に強いのみならず総ての方面例へば兵站の処置より運送の事柄まで総て十分に行届いて居るといふことは是は如何なる理由であるか、是に反して吾々商売人は頻々と種々なる誹謗を受ける、イヤ商業道徳が進まぬ、商売人の契約は堅くない、商売人は甚だ不品行だ、一致をせぬ、約束が守れぬ、などゝいふやうなことを常に耳にします、単に商売人に資力が足らぬとか力が乏しいとか云ふならば未だ国が新しいからといふ理由もございませうが、不道徳の誹謗には甚だ吾々の弁解に苦む所であります、詰り諸閣下の御高配の行届く所からでもございませうが軍人の働きに比較して見ますると吾々商売人は実に三舎を避くるどころではございませぬ、赤面千万、額に汗するやうな有様でございます、是は何から原因するであらうかと云ふことは種々考案して見まするが、到底吾々の智恵では発明が出来ませぬけれども私は之を一言に断案して軍人は至誡《(誠)》といふことを以て第一の根本となさる、商売人は誠を以て根本とするといふことが十分に整ふて居らぬ、此誠の足ると足らぬのが即ち両者の著しき差別の生ずる所である、甚だ口広い言分ではございますけれども吾々も同じ日本人である、軍人にのみ智恵が余計あつて吾々に智恵が少ないといふことには解釈が出来ぬ、さすれば別に何か一つ欠点があるであらう、其欠点は即ち至誠を厚く遵奉せしむると然らざるとに原因するのであらうと始終感じて居りまする、斯る御席に於て敢て諸閣下に諛言を呈する意でも何でもございませぬ、真に左様に考慮して居りますので、一言申上げて幸に諸閣下に於ても此事に就て御注意ありて商売人も斯く心得よといふ御示教を乞ひたいと考へまするのでございます
長口上を申上げて恐入りましたが、今夕此会を企てまして諸閣下の臨場を煩はしましたのは斯る意味であるといふことを会員に代つて陳述致した次第でございます(拍手)

    大山元帥の答辞
 - 第6巻 p.681 -ページ画像 
諸君、今晩は渋沢男爵始め銀行家諸君から、御丁寧なる晩餐の御招に預りまして、吾々は誠に感佩に堪へませぬ、戦後既に一年余を経過して世上は最早殆んど戦事を忘れたやうでございますが、諸君は決してさうでない、吾々を玆に御招き下すつたのは、誠に感謝に堪へませぬのでございます、又戦争中に於きましては、諸君が直接に間接に吾々を助けて、後援を為して下すつたことは、是は幾重にも謝しまするでございます、今晩は諸君と御一同に斯ういふ席に列なることを得たるを幸に、諸君に向つて深く感謝の意を表します
今から百年前に、ナポレオン一世の言はれたことに、戦争をするならば金が必要である、又も金が必要である、又も、又も、又も、金が必要であるといふ事を言はれたことがある、今より百年前の蒸汽船もなければ蒸汽車もない、まだ人が歩んで、丸い弾の鉄砲などを撃つ時勢でさへも、金のそれだけ必要なことを有名なる「ゼネラル」否な皇帝が言はれて居りまする、今日の戦争は全く機械の戦争であつて、金が無ければどうも戦争は出来ませぬ、如何に軍人が奮発しても、武器糧食等皆金が先立でございまして、其金が無ければどうも戦争は出来ませぬのでございます、殊に運送などの事になりましては、是非とも金が必要で、もう今日は金ばかりの世の中と云ふて宜しうございますが、それを諸君が非常の熱心で後援を為されたのは、吾々の幾重にも感佩に堪へませぬのでございます、全く吾々は戦時に於きましても、始終そんなに、有名なるナポレオンの言はれたやうに、心配はいたしませなかつた、それは何故かと云ふならば、此席に在つしやる有名なる、殊に敏腕なる諸君が後に居る、殊に此戦争は一人や二人の企てたのでなく、国民の企てた戦争で、自然と已むを得ず企てた戦争でございますから、是は諸君が後援を為さるであらうと信じて居りましたからして、そんなに心配は致さなかつたのでございます、又或は世間の風説を聴きますと、諸君は戦争の紛れに大変な金儲けを為さつたとか何とかいふ評判もございますが、それは決して何でございまして、此位ひ騒いだ時に当つて、金儲けの出来ぬ位の銀行家諸君では、是は一向頼みになりませぬので、吾々は誠に感服を致します、少し厭味のやうでございますが、さういふ訳ではございませぬから、それはお宥しなすつて下さい
玆に諸君に御礼を申上げますると共に、諸君の御健康を祝します
                      (一同起立乾盃)

    豊川良平君の演説
今晩は会長渋沢男爵が大山元帥を始め来賓諸公へ対せられて十分なる御挨拶がございましたから、もう起つことは止さうと思ひましたが、六十以上になられる渋沢男爵の御挨拶に対して、同じく六十以上の大山元帥より御言葉がございましたから、聊か年の若い人間が起ちましたら是に対して多分中将、少将等のお方から御挨拶があらうと思ひまして起ちました(笑声)、今晩は満洲軍の総参謀長児玉閣下も御一緒にお迎へ申す積りでございましたが、不幸にしてお亡くなりなさつたのは誠に残念でございます、又今日は寺内陸軍大臣、乃木大将も必ず御
 - 第6巻 p.682 -ページ画像 
出になる筈で、殊に陸軍大臣は大山元帥と御相談の上是非一緒に行くといふ御言葉でございましたが、急に「インフルエンザ」の為めに御出がない、又乃木大将は二三日前馬から落ちられた為めに誠に残念なことだが御出がありませぬ、何せえ当席は渋沢男爵が会長で、それに原(六郎)さんが六十以上、安田(善次郎)さんが七十以上になられると云ふ此等年長者の前で年下の私が起つた以上は、多分中将、少将等の御方で私に御挨拶があらうと思ひます
日露戦争に就ては我々共も勿論大に心配をしましたがそれと同時に喜びも多かつた、長岡少将は参謀次長でお留守に大変御心配をされましたが、私も参謀長のお部屋へは二度も飛込んで行きまして三鞭を頂戴致しました(笑声)、勝つたといふと何せえ堪らぬから飛込で行く、マア三鞭を飲まうといふのです、それも其筈で彼得大帝以来露西亜の一顰一笑は実に世界を動かした、其露西亜とトツ組合をしなければならぬと云ふことが起つて来た、何故に起つて来たかといふと、時勢が然らしめた、是は露西亜の皇帝陛下及び内閣も嫌やと思つたに相違ない日本の 天皇陛下、内閣大臣、陸海軍将校等も嫌やと思つたに相違ない、然るにそれが行掛上勢ひトツ組合をせぬければならぬと云ふことになつて来た、こう云ふ次第で双方の事情が段々迫つて来て三十六年の末頃になると吾々は愈々堪らぬやうに感じた、何故がといふと日本の整理公債が九十三円したものが十二月の二十日前後になりますと八十円内外といふことになつた、郵船会社の株が六十円内外、鐘紡が三十円台、或は其以下にも下らうといふのである、中にも郵船会社の株は其事業が運輸交通の衝に当つて居る丈に一番下つた、之は仕方がない、其郵船会社の株は誰が一番多く持つて居るかと云ふと、帝室が一番多く持つて居られる、公債証書はどうかと云ふと、大蔵省、日本銀行、其他各銀行皆持つて居る、それから銀行者は第一銀行、第三銀行十五銀行、第百銀行を始め其他三菱、三井、安田、川崎等何れも多額の預金を持つて居る、少くて数十万円、多くて四千万、五千万の預金を持つて居る、又銀行に依つては随分外国人の金も預つて居る、第一は正金銀行、次は三井、第百、第一銀行は朝鮮の金を預つて居る、私共の関係して居る三菱銀行でも二三百万円外国人の金を預つて居る、銀行といふものは上は恐れながら皇族を始め下は車夫、馬丁に至るまでの金を預つて、其預金に対して日歩五厘とか六厘とかいふものを払つて居る、預つて居る金は払はなければならぬ、一時に取付けられると閉店する外はない、こう云ふ所へ持つて来て日露交渉事件が起つたのであるから銀行者は大に困つた、大に困つたからして金が泣きました(笑声)、実に泣かざるを得ない、もう斯うなれば仕方がない最後の決心をせねばならぬと思ひながらもどうも心配で堪らぬ、それから時の内閣大臣、陸海軍の御方々の様子を見ると、何か頻りと準備をされて居る、是は様子が訝しい、どうも遣りさうだ、仕方がないと云ふて居る中に愈々已むを得ないといふので、三十七年の一月二十八日に総理大臣官舎で引導を渡されました、すると二月九日にはトウトウ遣つてしまつた、二月十日には宣戦の詔勅が出てしまつた、併し第一着に我軍が勝つたといふのであるから銀行者は其時此席へ寄つて皆喜んで
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飲みました、それから二月の十日から四月の二十日頃まで海軍は宜からうが陸軍はどうだらうと皆心配して居つた、所が五月一日に、鴨緑江を黒木大将が全勝を以て渡つたといふ報知を得た、其時の愉快なること何とも言へない、まるで狂気です、さうかうして居ると倫敦で高橋是清氏が運動して居た一億円の外債が出来た、実に幸福の次第である、所が暫くすると五月二十日には初瀬と吉野が沈没した、困つたものだと誰も顔も顰めないものはない、それに続いて、イヤ金州丸が沈んだ、佐渡丸がどうした、常陸丸がどうしたと云ふのでこちらに居るものは皆心配でならぬ、さうかうして居ると知事や市長から今に旅順が陥落するから大に祝捷を遣れと云ふので、道の真中へコンナ大きな棒を立てました(笑)、所が一向旅順が陥落しない、七月末まで置いたけれども何の報知もないからトウトウ準備を引上げると云ふ始末です、其中に遼陽占領の報知が来た、負けたか勝つたか充分に分らぬが何でも宜いから飲め飲めといふので、それから間もなく大勝と云ふことが知れたから其処にも此処にも祝捷行列が行はれる、之が為めに三菱の原では人死が出来たと云ふ騒ぎ、其嬉しさは何とも言へぬです、実に嬉しかつた、それが済んで次に起つた問題は一向旅順が陥落しない、九月になつても十月になつても陥落しない、其中に毛布が要るといふので、皆んな寄つて毛布を集めました、それから天長節には旅順が落るといふ評判でありましたが一向落ちない、どうなるか心配でならぬ、さう斯うして居ると第三回国庫債券八千万円の募集と来た、八千万円は宜いが旅順はどうしますといふ問題になつて来た、十二月の二十五日までにはどうしてもヤルと言ふ評判であつたが一向いかない、もう世の中がシミツタレて仕舞つた、渋沢さんは先刻金持と仙気持云々と言はれましたけれども、ソンナものではなかつた、さて年が明けまして三十八年となり、吾々は未だ床の中に居りますと、或る逓信省の人から電話が来ました、旅順が落ちたといふ、それから出掛けて見ました、所が号外々々と来居る、何枚買ふて見たか(笑声)、其嬉しかつたことは天に昇るか地に落るか何とも言へない、号外々々、どの号外を買ふて見ても旅順陥落、私等は其日に或る処へ行きまして大に飲んだ、実に飲まざるを得ない(笑声)、こんな嬉しいことはない、其明る日になると第三の皇孫が御誕生あらせられたと云ふ話、もう三十八年は大丈夫と極めてしまつたです、それから段々行きまして三月初旬になると奉天の大勝、実に何とも斯とも言はれぬ、其時の事と覚えて居るが紅帽隊の如きは剣尖背に及ぶ云々と云ふことが戦報の中にあつて、私はそれを見て大に感じた、こう云ふことゝ云ふものは忘れやうとしても忘れ能はぬ、実に嬉しかつた、すると五月下旬には対馬海峡の大勝と来た、英国のネルソンは戦争には勝つたが自分も死んだ、然るに我東郷大将は御健全で而かも敵の二大将を捕虜にした、前に奉天の大勝、後に対馬海峡の大勝、此二大勝利が実に我日本の国家をして九鼎大呂よりも重からしめたものと私は思ひます、此の如く戦争中は我々も大分心配を致しましたが、其戦争も無上の好結果を以て了り、今夕大山元帥を始め、野津元帥、黒木大将、奥大将、川村大将西大将、其他諸将官閣下が御出で下されましたと云ふことは実に此銀
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行集会所、東京交換所及銀行倶楽部の光栄これに過ぎないのでございます
扨我日本も維新以来最早三十九年でございまして此間には実に種々なる困難な事を経て発達し来つた、明治四年の廃藩置県、明治七年の台湾征伐、明治十年の西南戦争は申すに及ばず明治二十七八年には支那と戦つて大勝利を得た、それから十年後の三十七年には露西亜といふ大国とトツ組合をしなければならぬといふことになつて、世界は迚も日本は勝てまいと思つたものが同じく大勝を得た、之は畢竟するに文武両道、言換へれば軍事と経済とが始終相調和して来たから斯かる発達を遂げたものと思ひます、一昨日の経済雑誌を見ますと王安石の新法の事が書いてある、それに拠ると唐の時代には朝廷が功臣を各地の節度使に拝《(配カ)》したから、其結果藩鎮と云ふものが勢力を増して来て唐はそれが為めに亡びた、所が宋の太祖が天下を取るやうになつて其制度を改め、即ち藩鎮の勢力を収めて所謂中央集権にした、サアこうなると又反対に文弱の弊を来して夏とか遼とか云ふ外夷の侵入を受けて、如何とも仕様がなくなつた、そこで王安石が出て来て青苗の法とか保甲の法とかいふやうな制度を設けて軍事と財政とを調和せしめやうとした、然るに之には当時非常の反対があつて、所謂極端と極端との衝突から遂に王安石の政略は破れて宋は再び文弱に復へつた、こう云ふ次第で宋は段々弱くなつて始は遼に苛められ、後には金に苛められ、続いて徽欽両帝の北狩となり、高宗の南渡となり、終に元の為めに亡されて、文天祥が空しく正気の歌を作つて泣くと云ふやうなハメになり、漢族の勢力は玆に全く滅亡した、此の如く軍事と云ひ、経済と云ひ、兎角両極端に走ると云ふことは、国家の為めに宜しくないと思ひますから、我国もどうか是迄の通り軍事と経済とが相伴ふて、国家を保つやうに往きたいと思ひます、今晩の御挨拶は先刻渋沢会長から済みましたが、諸閣下の御光来を得ました喜びの余り一言失礼を申上げました(拍手)

渋沢栄一伝記資料 第六巻 終