デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
6款 択善会・東京銀行集会所
■綱文

第7巻 p.5-15(DK070001k) ページ画像

明治40年1月22日(1907年)

銀行倶楽部第五十六回晩餐会開カレ、来賓トシテ文部大臣牧野伸顕等出席ス。栄一一場ノ挨拶ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK070001k-0001)
第7巻 p.5 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年
一月二十二日
午後五時銀行倶楽部ニ抵リ晩餐会ヲ開ク、牧野文部大臣其他学校長等数名来会ス、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、夜十一時散会帰宿ス


銀行通信録 第四三巻第二五六号・第二二六―二二七頁〔明治四〇年二月一五日〕 銀行倶楽部第五十六回晩餐会(DK070001k-0002)
第7巻 p.5 ページ画像

銀行通信録 第四三巻第二五六号・第二二六―二二七頁〔明治四〇年二月一五日〕
    ○銀行倶楽部第五十六回晩餐会
銀行倶楽部にては一月廿二日午後六時より牧野文部大臣、沢柳同次官、真野実業学務局長、浜尾帝国大学総長、渡辺工科大学長、新渡戸第一高等学校長、嘉納高等師範学校長、松崎高等商業学校長、手島高等工業学校長、鎌田慶応義塾長、鳩山早稲田大学長等を招待して第五十六回会員晩餐会を開きしに松崎、手島、鳩山三氏を除くの外何れも出席あり、会食後渋沢委員長の挨拶に引続き牧野文部大臣、新渡戸第一高等学校長及鎌田慶応義塾長の演説あり、夫より別室に於て歓談の上午後十時散会せり


銀行通信録 第四三巻第二五七号・第三六四―三七四頁〔明治四〇年三月一五日〕 銀行倶楽部教育家招待会演説(DK070001k-0003)
第7巻 p.5-15 ページ画像

銀行通信録 第四三巻第二五七号・第三六四―三七四頁〔明治四〇年三月一五日〕
  ○銀行倶楽部教育家招待会演説
    ○渋沢男爵の挨拶
閣下、諸君、今夕の当倶楽部の晩餐会には文部大臣閣下、文部次官、大学総長其他諸学校の管理なさる諸君の尊臨を請上げました次第でございまする、玆に会員を代表して臨場を辱ふ致しました大臣初め来賓の諸公に一言の謝辞を申上げます
吾々銀行者が教育家諸君と斯様に密接なる関係を惹起すと云ふことは是までもあつたか知れませぬが、蓋し此倶楽部に於て斯く教育家諸君多数の尊臨を請ふたのは未だ初めてと申して宜からうと思ふのでございます、殊に文部省と云ふ官辺のみならず、民間に於て最も有数な学校の諸君にも尊臨を請上げる積りで慶応義塾、早稲田大学等にも御案内を申上げましたが、生憎鳩山君は今日御差支で御出を戴き得ませぬが慶応義塾では鎌田君の御出席を辱ふしました、元来私共は平生錙銖の利を争ふ処の極めて俗人である、尊臨を辱ふしました方々は学者で
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ある、此学者と俗人と云ふものは一見縁の遠いやうな者である、昔は学問を始めるともう商業は止めるのだと云ふ如き時代もあつたのですあつたどころではない現に私抔は商業教育としては塵劫記と商売往来の外受けたことがない人間でございます、所が斯く文部大臣を始め大学総長其他各学校長の尊臨を請ふて斯の如く膝を交へて談話を換はすまでに至つたのは、商工業の位地の大いに進んだと云ふことを既に業に証拠立て得られるのでございますが、斯く申すと少し我田へ水を引くやうに聞えるか知らぬが、俗人には学問の必要がないと若し臨場の諸君が今日も尚さう思召すなら大なる間違です、学問ほど俗人に必要なものはない、それを誤つて学問と俗事とは縁の遠いものゝ如く考へたのは天保時代の教育法であつたと云ふことを私は断言して居るものでございます(ヒヤヒヤ)、而して今日は其縁が如何にも近く相成ましたが、併し日本の現況は此実際と学理とが極めて密接して居るかと云ふに悲しい哉欧米諸国に較べて見ると未だ満足とは申せぬかも知れませぬのです、想ふに此距離が極く密接する程其活動も充分に行はれて其国の進歩の度合も卜し得られ随つて富力も強力も是に伴ふものであると云ふことは蓋し私の妄断ではない、臨場の学者諸君も此言を変へることは御出来なさるまいと思ふ、果して然らば吾々が今夕斯様に両者を接近する企をしたことは決して奇異なる催しではなくて勿論相当なる事であつて何故是までに度々斯う云ふ御会合を願ふて学理に付いては斯う吾々は考へる、実際に付ては吾々は斯く企望する又吾々は将来養成する学生には斯う云ふ思想、斯う云ふ人格、斯う云ふ才能を持たせたいと注文もし教示を受けると云ふことをせなんだかと私は却て其遅きを憾むのでございます(拍手)、併し今夕幸に御打揃ひで尊臨を請ひ且つ大臣及び其他の諸君から教育に関することに就て吾々に御指導的の御話を承り得られることゝ考へますれば遅いとは申しながら前途遼遠の吾々の社会に大に公益を増すことであらうと洵に悦ばしい次第に考へます、玆に一同に代りまして大臣其他の諸君に御礼を申上げます――終に臨で臨場を辱ふしました閣下諸君の御健康を祝します
    ○牧野文部大臣の演説
臨場閣下、諸君、今夕此社会の活動の中心点とも云ふべき当倶楽部委員の決議に依て吾々教育事業に従事するものを御招待下さいましたのは、是は私の会ではない公の会と考へまして深く感謝する次第でございます、其御催しに付て特に御趣意の存する所を唯今渋沢男爵より承はりましたが之に依て吾々は一層感謝の意を強ふする次第でございます、吾々は有力なる同情を社会に得た如き心持が致します、兎角此教育の事は是迄動もすれば他の事業に先んぜられて例へば通信の事業とか或は殖産上の事業とか云ふ如きものに較べますると、其功果の聊か廻り遠いために少し冷視せらるゝ如き憂があつたと思ひまする、然るに今夕の如き御催のあるのは其平生吾々の憂へて居る所を除く訳であつて一層喜びに堪へぬ次第でございます
此日本の教育は御維新以来政府の当時者及民間の指導者並に教育社会の偉人等の経営に依りまして段々成績が挙つて居るやうでありまするが、近くは此戦争などに於きましても其成績が現はれて居る、又現今
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此事業の勃興の有様に就いても其他種々なる事業の上に教育の功果が現はれて居ると考へます、其点に於きましては是迄個人或は地方の団体或は政府に於て費して居る所の費用及び其労に対しては充分な結果があつて決して最初の予期を失望させる如き成績ではないと考へまする、外国人などに於きましては或は此日本の教育の事業は非常な成功であると云ふ位に評して居る者もある、今日迄は幸にして日本の境遇に於きましても先づ自分の手近な所或は勢力の及ぶ所に於て国際上の事又貿易の事も多くは行はれたと云ふ感じがあると思ひます、偖此先き新らしい舞台に於て乃ち日本の発展に相応する程の教育が出来るや否や、今日の有様を以て考へますると甚だ寒心に堪へぬ次第でございます、吾々は今後の教育上の経営に付ては朝夕苦心して居る次第でありまするが、それに就て簡単に御話をしたいと思ひます
今世界で成功して居る国々を申せば殊に最近に於て勃興した国と云へば独逸、亜米利加の如き国に指を屈するのであります、是は勿論御承知のことでありますが此両国と云ふものが今総ての方面に於て一頭地を抜かんとする有様であつて其国々が恰も此教育と云ふことに最も力を入れて居るやうに考へるのであります、それは目下の有様でなく百年以前より既に教育に重きを措て居ると云ふことを申して宜からうと思ひます、彼の普漏西が那破翁の為に征服され領土を蹂躪されて殆ど亡国の姿に陥り其回復を計り蘇生を計るには教育に信頼するが一番宜いと云ふ事で普漏西は教育に非常に重きを措いて研究を積みたる制度を布いた訳と聞いて居ります、又米国は建国早々共和政治の政体を成功させると云ふには、門地は無し君主も勿論のこと、平等の人民が即ち君主である、故に其君主たる国民を教育すると云ふことは共和政治の政体を成功させるに最も必要であると云ふ理由からして教育に非常な重きを措いたのであります、是等の事が百年前に溯つて既に着目のあつたことで今日其花を結んで吾々が見るが如き成功を致して居るのであります、此両国が経済上若しくは文化の上に於て今日の発達を致したと云ふことは世界の人が皆注目して居る所でございます、其大なる原因は教育であつたと云ふことも普通認めて居るやうな次第であります、それで他の国々も此両国に範を取つてそれぞれ此競争の舞台に於て其位地を維持しやうといふことに付て其制度を取捨して行つて居ると云ふやうな有様であります、さうして又此両国が近頃益々其既往の好成績に顧みて将来に又激甚なる競争を控へて居りますから一層教育に力を注いで居る実際であります、それで詰り是迄世界の成功者と云ふものは教育の分量と其品質に由て其目的を達したと申して宜からうと考へます、他に色々盛衰の理由はありますが一つの主なる理由として各国が教育の事業を数へて居ると断定して宜からうと思ひます
斯くの如き有様に対して我帝国の国運発展の場合に於て此教育を一層力を注がなければならぬと云ふ場合でございまして尚ほ此教育の実質に就て如何なる方面に於て最も此両国などに於て発達したか、吾々が採つて以て参考とすべきは何処にあるかと云ふことを考へますると此普通教育と云ふことを非常に重く見て居るやうであります、両国共に此高等普通教育と云ふことを以て殆ど教育の骨子の如く考へて居るや
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うにあります、実業教育は是は近頃のものでありまして実業の上には最も必要と云ふことから段々盛になつて居りまするが、併しながら教育の中心は何処までも普通教育で、此普通教育を完全にして総て此人生天然に稟けて居る処の此脳力を出来るだけ発達させて而して後実業的の教育などを施す、普通教育は基礎である、実業教育其他専門教育は即ち仕上げである、其仕上げは基礎能く出来て居らなければいかぬと云ふことに殆ど議論がが《(衍)》一致して居るやうにあります、我国でも近頃実業教育は余程発達して参りまして今後益々多望と考へまするが、併しながら兎角この直ぐに間に合ふ――如何なる業に就ても其種々の実業教育を受けたものが其種類に依て成るべく直ぐ間に合ふ者を要する、故に此文部に対しても直ちに間に合ふ人間が欲しいと云ふ注文が往々あるやうであります、然るに教育と云ふものがさう実業専門的になりますると兎角技芸の人が多く出来て人間の品性と云ふ方が疎かになるやうな感があるのであります、芸の人が余計出来て品性の依頼するに足ると云ふこと、所謂人物と云ふ方が兎角次になつて間に合ふ人と云ふ方がどうも売口が宜いと云ふやうな傾があります、然るに近頃世間の人が教育上にも人物とか品性とか云ふことを漸く申すやうになりましたが、畢竟今日の教育が少し物質的に過ぎはせぬか、もう少し文事――純粋の文学歴史と云ふやうな品性を作る方の学科が少し疎かになつて居りはせぬかと云ふ意味があるかと思ひますのであります、それで夫等に対しては勿論吾々当局者の方で注意をしなければなりませぬが併しながら吾々の目的は成るべく社会の此事業を為す御方々に相当な人を拵へて提供すると云ふことが任務でありまするから成るべく其芸のある人と同時に少し人格の卑くない芸が有ると同時に人格も高い事に臨んでも信頼するに足ると云ふ所謂徳性の方に重きを措いて御注文を願へば、大に当局の吾々の参考にもなると思ふのでありますなかなか教育の事業は年月を要することでございます、殊に何を申しても金であるのであります、今日の教育は昔の教育とは違つて総て設備或は標本とか或は書籍とか教育に要する機関一として金を待たざるなしで、殊に教育に最も大切なる機関たる教員の相当な人を得るには矢張相当の報酬を与へなければなりませぬ、どの途から申しても金を要する次第であります、其点に於ては此先進国の例を見ますると非常な資力を費して居ります、前途挙国一致して教育の事に当るとしても尚ほ及ばざらんことを心配して居ると云ふやうな有様でございます、併し今夕の如き御催しがありますれば余程吾々も意を強ふする訳でございまして、感謝の意を述べますると同時に聊か意見を申述べたやうな次第でございます
私は終りに臨みまして当銀行倶楽部の御繁栄を祈ります(拍手)
    ○第一高等学校長新渡戸稲造君の演説
会長閣下、諸君、四五日前に銀行倶楽部より御招きを受けましたが、何のために吾々が御招待に与かるのやら更に理解致しませぬでございました、私は当時第一高等学校に職を奉じて居りまするが、高等学校の校長などが銀行倶楽部に御招きを受けることが例になつて居るかと言つて実は職員に尋ねました所が、どうもさう云ふことは今迄無かつ
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たが多分それはあなたは台湾に御出でになつたからして台湾の関係か何かで近頃台湾に事業が大層勃興するから其為めであらうと云ふことでございました(笑) 兎に角に渋沢男爵の御名前を以て御招待を受けたことであれば自分に取りましては頗る名誉のことゝ心得まして何の為めかは存じませぬが必らず御馳走はあるに違ひないと存じまして罷越しました、所が豈図らんや何か話をしろと言ふ、頻りに御辞退を致しましたけれども是非とのことでございます、御馳走は遠慮なく戴きながら一方の方だけ御辞退することは甚だ済まぬやうにも思ひました故に立ちましたけれども、実は明説も愚論も何もないのであつて誠に当惑を致しまする、とは申しながら今日の御招待を得たのを決して御恨の申す訳ではないのであります(笑)
私は此銀行倶楽部の立派な建物を拝見しまして異様な感を起したのであります、銀行の建築は東京は言ふに及ばず各地に往きましても市町の一の美観となつて居りまする、銀行なるものは立派な建築物であると云ふことは承知して居りますが、銀行倶楽部まで斯の如き立派な建築で且又此処に御集まりになる諸君が斯の如き歴々の方が御揃になると云ふことは御招待を得まして初めて今夕私が発明した次第であります誠にそれを思ひますると妙な感を私は懐くのであります、何故妙な感を懐くかとなれば先達て私は京都から東京に移りまして書斎の古本を整理しました、其中に慶応四年と心得て居りまするが、古い字引の英和辞書があつた、是は面白いものだと思ひまして――無論活版でない、木版でさうして美濃紙に刷つたものであります、其頃どう云ふ訳語を用ゐて居るだらうか、兎に角四十年前の字引であるから今とは大分言葉が違つて居るだらうと思ひまして少し覗いて見ました、此字引の中で殊に目に付いた字は第一に此「バンク」と云ふ字でした、どんな訳をしてあるかと見ますると河岸、両替屋、金を預る所抔と書いてある(笑)銀行などと云ふことはちつとも書いてない、銀の字も書いてない、無論行の字などはない、成程斯んなに違つたものであるか、四十年前には銀行と云ふ名も実もないのであるなと思ひました、それに聯想して起りました事は或る先生が私に話をして呉れたことがございましたが其人は文久時代に英語を学んだ人であります、唯今申上げた字引も未だ出来て居ない時であります、然るに其当時もう既に何か字引の類があつたさうでございますが、ヨウヨウ不完全な字典のやうなものを用ゐて英語をば学んだ、其人が英吉利の歴史を読む時に斯う云ふ文句が一つあつたと云ふことでございます、It was necessary to found a bank in London 何か英蘭銀行の歴史でも述べたものと見ゆる、そこで「バンク」と云ふ字が第一分らぬから字引を引いて見る所が河岸、土手、堤防などと書いてある(笑)、さすれば(著者の意は「倫敦に於て河岸==土手を築くことの其事が必要だ」と云ふぢやろうか、それでは意味が取れん、それから段々人に質して見ると是はテームスと云ふ河がある、それが汎濫するので予防の為めであらうと云ふ議論も出たと云ふことである(大笑)、然るにどうもさうではない様だ堤防の如き設備は文明国で既に整頓して居るに違いないので前後を見ても何か他の意味のやうだ、是は河とは関係のない文章であると云ふ
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ので段々議論をしたさうでありますが、如何とも解し難いが為それでは「ネセサリー」と云ふ字が怪いと云ふので、今度は此字の翻訳を研究し始めました、此字は「必要」と訳と元は考へたれども必要と云ふ訳でないのだらう、外の意味であらうと云ふので「ネセサリー」と云ふ字を引いて見た、ところが形容詞としては肝要、緊要、必要などゝ書いてあるが名詞《ナウン》でも同字がある、それは食卓で御話するは如何はしうございますが私は農業の方の関係から詰り「ネセサリー」と云ふのは人工と云ふか人造と云ふか肥料の製造場であることが分つた(大笑)、雪隠とか便所とか書いてある、それでどう云ふことだらうと云ふので又皆集つて詮議をしたさうでございますが結局が「倫敦に於て土手が便所にある」(笑)、斯う云ふ訳に止めたとのことであります(拍手)、併しそれでは未だ意味が不明だとの説が起つた所がそれは君等は欧羅巴の文明を知らぬのだ倫敦と云ふ所は世界に最も人口の稠密な所で衛生――と云ふ字は無論無かつたでせうけれども身体に大変用心しなければ大勢集まつて居る処であるから、臭気などがあつてはいかぬから便所に土手を築いて臭気の漏れないやうにするのであると云ふことで、成程さう云ふ意味であらうと衆議一決致したと云ふ話を聞いて居ります是は僅か五十年前のことである、其話を聯想して今夕此倶楽部の建築やら倶楽部に御集りになつた歴々の方々に御目に懸ると云ふのは、僅か半世期に斯る進歩を我邦が為したのであるかと云ふことを思へば、転々異様な感を起すのでございます
で、斯くの如き変化を為したのは私は想ふに昔の両替屋が発達して銀行に成つたではないやうに思ふ、或はスペンサーならばそのやうな解釈をするでありませう、両替屋が段々整理整頓して今日の銀行になつたと云ふことはまんざら暴論でない、又今日の銀行家の中には両替屋の子息さんやら丁稚さんもあらう、けれども私の信ずる所では寧ろさう云ふ方は少なからうと思ひます、先刻渋沢男爵の御話にもございましたが商人の教育は商売往来と三字経とやらに過ぎなかつたと云う御話でございましたけれども男爵御自身の御受けになつた教育は恐らく商売往来じやなかつたらうと思ふのであります(ひやひや)、恐らく此両替屋だの金貸以外の方面から西洋の学問をして其学理を謂はゞ応用して斯う云ふ盛んな五十年の内に文字も無かつた制度が日本の各地に起ることになつたのではないか、今日の銀行其他の経済的制度は昔日単に算盤をせゝり来りし輩の立案でも構造でもない、洋学者の思案に出たものである、是は即ち学理と実地とが二つ相合して生れた花ではないかと思ふのでございます(拍手)、先刻も渋沢男爵の御話に吾々は俗人である今日招んだ客は学者であると云はれました、成程学者、而かも歴々の学者も此席に御出になるやうに見受けまするが、学者は実業家を見て一口に俗物だと弄り実業家は学者を見るとあれは学者であつて仙人だと嘲けることを能く聞く(笑)、成程俗人と仙人とは文字から考へても反対になつて居ります、仙の字は人扁に山を書いて山の人の意俗は人偏に谷を書き此の両者の間は山と谷の差であるから成程地理学から考へても反対の訳であります(大笑)、然るに私は先達てちと柄にはないことながら古今集を一寸覗いて見た中に大層感じた歌があつた、
 - 第7巻 p.11 -ページ画像 
其歌に修正を加へて申上げます(笑)、原文から申上げますと「吹く風と谷の流れのなかりせば深山隠れの花を見ましや」と云ふ歌で私は歌などを知らないから大変珍らしく見た、あー良い歌だと思ひましたが一寸玆に修正を加へたいと云ふのは吹く風と云ふのは即ち山風である「山風と谷の流れのなかりせば深山隠れの花を見ましや」と読んでも歌としては山と云ふ字が二度あつて不都合だが意味は全々同じことだ、斯うしますると山の風即ち仙人の風谷の流即ち俗人の流れです即ち山と谷の而も風と流れ所謂風流です、此仙人と俗人が心を一にして力を協はせ風流となつてそれで始めて深山隠れの花を見るのである(拍手)、恐らく今後の日本の発達も仙人たる学者と俗人たる実業家とが一層風流になつて、共に働いてそれで始めて日本に隠れて居る所の未開富源を啓発し、深山隠れの花を見るやうになるかと思ひます(拍手)
そこで私はもう一ツ望むことは山と谷は全然反対とは言ふけれども、どの地図を見ましても山ある所には必ず谷がある、谷と云ふことは即ち山があればこそ起る言葉で、謂はゞ「レラチーブ」即ち比較的文字であらうと思ひます、此の二ツのものは一ツ一ツ独立して存在出来ぬ、両者相結ぶ共通の道がなくてはならぬのである、如何なる所で是が会ふか、其会ふ所の道を誤るととんでもない間違を起すのであります、私は斯う云ふことを聞いて居ります、是は私共より諸君の方が遥に御承知でありませうが、彼の有名なる日本でも神の如くに思うて居る墺太利維也納の碩学のスタイン先生が何年の頃でございましたか、何でも五十年ばかり前かと思ひますが経済学を深く研究した結果一ツの理想的銀行を設計し、自分が大学の教授の職を辞して銀行を建てた所が二三年の内に美事に失敗したと云ふことを聞いた、其後五年ばかり経つてから同じ主義で同じ組織と方法で或人が立てた所が大層繁盛した、それから他の銀行も同じ方法で営業するやうになつたと申します、是は確かな書物で読んだのではありませぬ、維也納に行つた時一寸聞いたのでありますから或は誤つて居るかも知れませぬがそれで世人の評に少し面白い学理があると云ふて仙人が銀行などの俗間へ出るからそんな失敗をしたのだと悪口を言ひましたが之に対しての説にスタインを賞めて先生は流石ゑらい、現今の事情よりも先きが見えて五年先きのことを実行せんとしたから自分は失敗したけれども、五年後に先生の真似をやつた者は成功したではないか(拍手)、何れ山と谷の出会す所が私は必ず有るだらうと思ふのです、それが無ければ学問する甲斐がない、それで会ふ点が一にして足らず数多あるでせう、彼処の高き岡、此処の低き窪と云ふ様に所々で山と谷を結び付ける道路があるでせうけれども、私は今夕望む出会点は只今文部大臣閣下の御話のございました所の、人格と云ふ処で一ツ会はせることを希望するのであります(拍手)、と云ふのは即ち此仙人でもなし俗人でもなし、否な仙俗相合して作り出だす風流なる「ゼントルメン」と云ふ所で会ひたいと思ひます(拍手)、英吉利で「ゼントルメン」と云ふ字は昔は地主でなければ使はぬ、或は学者とか役人とか医師とか所謂自由業の「プロフエツシヨン」に従事する者に限つて此「ゼントルメン」なる称号を用ひました、商工だの銀行家などはどれ程金が有らうが、どれ
 - 第7巻 p.12 -ページ画像 
程品格が高からうが「ゼントルメン」と言ふ言葉を自ら用ゐることが出来ない、是に反して田舎の地主が僅かの土地を持つて居れば則ち「カントリー、スクワイヤ」郷士と云ふので、即ち「ゼントルメン」と称し得たと云ふことである、所が或る商人が「ゼントルメン」と自称したがために彼は尊称を濫用したと云ふので訴訟事件までも起つたことがある、裁判官が遂に此商人を有罪と言渡したことさへあつたさうです、此事は曾て確かな本で見たことがある、然るに今日はどうかと申すと「ゼントルメン」なる字は寧ろ商人とか銀行家に余計にある位で寧ろ英吉利でも農家などに「ゼントルメン」が少いと云ふやうに位地が全然転倒した有様になつた、何故かと云へばそれは外にも理由があるかも知れませぬが主なる理由は商人の方の道徳が進んで田舎の方の道徳が依然として居つて、即ち市街に居る商業家とか工業家の徳義が段々進んで所謂商業道徳が進んで商人の方に人格の善い人が余計に殖えたから、遂に「ゼントルメン」と云ふ称号まで商人が殆ど専有する有様になつたのだらうと思ひます、それで私が想ふに昔は士とか武士とか言つて威張つて居つた、近頃も未だ戦の熱が冷めぬから武士軍人だとか武士道だとか言つて豪いやうに聞ゆるが、此武の字を取り除いて唯士道紳士の道と称すべき一線の道路を山の谷の間に作つて仙俗の――交通を計りたい、此紳士と云ふ資格を学者の一番尊ぶ所とし彼は学者だと言はれるよりも彼は「ゼントルメン」である、人格の高き人だと社会に重きを為し、商人も金を何万円持つて居るとか何所の権利株で旨く儲けたと云ふ所で尊きを為さず人格の高きに由つて尊敬せらるゝと云ふやうになりたい、即ち士道なる通行道路を以て山と谷との出会道となすことを切に希望する次第でございます(拍手喝采)
    ○慶応義塾長鎌田栄吉君の演説
会長閣下及び諸君、今夕は私共に至るまで御招待の光栄を得、それに対する謝辞は牧野文部大臣及び新渡戸博士より御述べ下さいました通りで別段申述べませぬ、而して只今御話のありました通り私も今夕の御招待は実は少しく意外でした、当銀行倶楽部に於ては一昨年以来度度御客を招待して宴会を御開きになるが、其は多くは赫々たる功名を奏せられた海陸軍将校、又は廟堂に居らるゝ元老大臣で皆軍事政治に尽瘁せらるゝところの人々である、これは至極結構のことで如何にも実業家が斯の如き軍事政治の後援となると言ふことを示されてこそ即ち強国とも戦ふことも出来た次第であらうと私かに思ふて居りました然るに此度は今新渡戸君の言はれた人扁に山の字を書く吾々に迄御案内状が飛んで来た、そこで私は思ひました、失敬ながら銀行倶楽部も最早御客の種が尽きたな(笑)、もう吾々まで御鉢が廻つて来た、嗚呼長命はせねばならぬものだ、牡丹餅は棚から落ちて来るものだと感じました(大笑)、此機会を逃がさず是非にと思つて出ましたところ、渋沢会長に何か話せと言はれ一寸頓挫を来しました(笑)、そこで只今も主客双方より段々御話のありました通り、教育と実業との関係が益々親密になると言ふことは事実であります、今日では余程迂遠の人であらざる限りは学校は商売を離れたものである、商売は学問外のものであるなどいふ考を懐く人はありますまい、若しあれば非常なる時勢後れ
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の人と申して宜しいと信じます
併し乍ら今日の処兎角学校出の青年は唯理屈を並べたり六ケ敷イ言葉を使ふ位の事で実地の仕事には一向役に立たぬ実際の処高等の教育を受けた者よりも中等教育、中等教育よりも下等の教育を受けた者の方が手取り早く間に合ふ、尚ほ一歩進めて言へば小僧上りの方が仕事も出来従順であつて寧ろ優つて居ると言ふ御説を吾々が度々耳にする所であります、吾々は商売のことは知りませぬからさふ仰せらるゝならば左様で御座いますかと申上げるより外はありませぬ、が併し内実は決して左様でなからふかと思ひます、商工業界に働くには是非共相当技芸上の教育を受けた者でなければならぬのみならず、先刻来の御説の如く所謂人格、品性の修養と言ふことが甚だ大切のことゝ思ひます爰に其証拠を挙げて申しますと世にも名高き政府官省の繁文褥礼にも劣らぬ位の銀行の繁褥であります、吾々仙人には滅多に行く必要もありませぬが大抵の銀行は区役所と少しも変りはありませぬ、玆に御列席方々の銀行にはさういふことはありますまいが、半時間も一時間も待たせられた上呼付けられて何んとか言ふ口に行く、さうすると隣りの口に行けと言ふ、それが又間違つて其又隣の口へ行く、何の事はないからくり眼鏡も同然だ(笑)、銀行は区役所、郵便局にも負けない形式三昧、滅多に行かぬ貧乏人はよいが金のある人は随分厄介なことだらうと思ふ、一寸為換を組みに行くにも預金を取りに行くにも途方もないおつくうだ、此次に行く時の為めに能く其順序を覚えて居ようと思ふけれども、次に行つた時にはもう忘れて居ますから又々まごつく如何にも仙人は迂遠であります(笑)
斯くの如く顧客に向つて種々の手数を掛け種々面倒な目をさせると言ふには是れは正しく何か事情のあることゝ考へる、「人を見れば泥棒だと思へ」と言ふ諺がありますが、銀行の内部にはそれが営業の方針を支配して居るかと思ふ、と言ふのは一つの事を処理するに数多の人の手を通して一々認印を捺す、官府の繁文褥礼は今更言ふ迄もないが銀行会社と雖も皆繁文褥礼ならざるなしだ、其丈けなら未だよいが同書類の手形とか同種類の書付が沢山集つた上で、始めて煙草を下に置いて仕事に取り懸ると言ふ様な洵に呑気な事さへやつて居る、此の浅ましい有様は全く教育の不行届に帰せねばならぬ、人格の欠乏に基因せねばならぬ、若し銀行員の多数が奉公人根性を脱して職務に忠実に監督せざるも不正を働くことがないようになれば一々認印を捺すとか下らぬ手続を履むとか言ふことは要らぬ話であります、さつさと事務を処理して諸事敏活に運ぶ、確実と言ふ事は銀行に於て大切なる要件であるが、又之と同時に敏活と言ふ事が欠けてはならぬ、例へば吾吾が電信為替を取りに行くと先づ電報の着信紙の裏に「表書の金額正に受取申候也」と書いた上に別に受取書を書いて印紙を貼つて判を捺すと言ふのが日本の銀行の習慣である、之を欧羅巴の人が見たならば二重に受取を出すと思ひませう、千円の金に対して二千円の受取を出すと言ふ事になる何故なれば彼等は電報紙の裏に単に記名《サイン》さへすれば其外に何にも入らぬ、直に金を呉れるからです、這麼な類例は殆んど枚挙に遑あらずである、と言ふ訳は畢竟使用人の人格の養成が充分至
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らぬこと、広く社会の商業道徳が進まぬ為めに客を泥棒視し、使用人を泥棒視することが行はれ其結果斯くの如く繁文褥礼、惜む可き時間を空費することが起つて来るのであります、是に由つて観ますると学校出の青年に対しては主として気が利かない、間に合はない、と言ふ不平があるけれどそれは唯一時的の故障である、ほんの最初一二箇月間の事である、苟も頭脳を練磨し学芸を修めた者ならば必ず銀行の仕事――相当の教育を受けた者ならば直に其境遇に順応して行く事も出来、それさへ出来たらば無教育の者に幾倍の価はある、決して実業の邪魔にならぬのみか大に其効能を発揮する事になる、欧羅巴各国に於ても商業教育、商業学校と言ふことに付ては最初は矢張り議論はあつた、商人には学問は不必要である、学問をする為めに却て商人の資格を失ふなどゝ申しました、極々賛成の人でも学校に行くのは只知人を多くし社会の人に聯絡を付けて後日実業の為めにするのであるなどゝ言つて居つたが、最早今日では商人はどうしても相当の教育を受けた者でなければならぬと言ふことになりました、又英国の如き技芸教育に余り重きを置かなかつた所でも近年彼のマンチヱスター大学と言ふ様な純粋の商業大学を設け、所謂商売社会の将校的人物を養成し、そして同じ簿記を修養せしむるにも只の帳番ではなく「バランス、シート」の批判其他の事をさせて人を使ふ人物を養成することゝなつて居ります、是は畢竟充分なる薫陶を加へて品性の養成と言ふことに重きを措て居るのである、これは私も至極結構のことゝ感じて居ります
右は吾々の如き所謂仙人を御招待になつたに就て聊か所感を述べた次第でありますが(笑)、それに付けて当銀行倶楽部に於ても単に政治家、軍人、教育家を御招待なさるのみならず時々各種の商売人を御招ぎになり、酒屋なり、塩屋なり、米屋なり、各種類の人を御招待になり、而して御馳走なされる(笑)、お金のある銀行家諸君のなさることであるから至極結構である(大笑)、そして吾々も御相伴をして(笑)、相互の所感を交換して見たいと考へます、即ち商業道徳といつても其起る基は銀行だらうと思ふ、模範商人と言はるゝ英国商人と雖も金を払ふと言ふことになるとなかなか汚いことがある、違約にならぬ以上は成可く後れて払ふて日歩を失はぬ算段するのが、銀行に対しては最も記帳面に払ふ、実に銀行には其人の商業道徳の最上点を発揮して居ると言ふ話、又支那人の商業道徳に付ても種々の説もありますが、少くとも上海、香港辺で商売をして居る者は正確の遣り方をして居るといつて宜い、彼等は商業に大胆なる上に正直である為めに成功する、尤も支那人は宴会其他交際上の事に就ては時間が不正確で如何にも不規律である、けれども商業上殊に銀行に対しては時間を正確にし、約束を守ることは非常のものであります、是れ全く経済的道徳にして損徳上の関係から起るのであつて、孔孟の道は彼等に何の効能もない、それ等の議論は兎も角もとして我国今日の最大急務たる商業道徳を喚起するには満場の銀行家諸君等が中心となりて之に当らねばならぬ、之が又最も効力のあることは只今申上げた通り、外国の例を見ても明白である、詰り商業社会に向つて最も勢力の有る所謂活殺の権を握るものは此銀行者であるから、其制裁に依て商業界を刷新することが最も有効
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である
それで私迄が学校の世話を致す為めにえらい学者の様に仰せられたが是は実は難有い話であるが実に学問も何んにもない、今後学校も追々独立経営をすることになると、社会の剰財を集めて独立維持をする様になると、其経営者は唯学問をした丈けではいかない、即ち亜米利加の大学――独立大学の如きは最初は坊主が管理して居つた、それが一変して学者が管理する様になつた、それが再変して今日では行政経営の才に長けた者が管理することになつた、我日本では吾々の如き学問の力も無い実地の才もない者が仕様事なしに、社会の隅つこの学校に隠れて居るのであるが、学校も到底吾々の如き人物では経営の出来ない様な場合に至らなければ本統でないと思つて居ります、そこで終りに一言致すが仏蘭西の哲学者「コント」の説に社会を支配するには一種の階級制度を以てする、そして其階級は一般的広汎なる性質のものが上位に置かれ、特種的性質の階級が下位に置かれて其支配を受くるが自然の道理である、即ち精神界に於て最も広き権能を有するものは教育者にして之と同時に実業界に於て最も共通的性質のものは銀行者であるから、精神界を支配する者は教育者、実業界を支配するものは銀行家であると言つて居る、要するに一般的性質を帯びた者が特殊的性質のものを支配する、是が天然の道理であると申して居ります、此説の当否は兎に角、今夕の賓客なる教育者と主人側たる銀行者と一致協力して教育者が人材を作りて実業界に供給し、銀行家が之を使用して商業道徳の発動機とならば旧来の陋習を破り、文明の実業界を見る事が出来ませう、今日御招待を蒙つた御厚意に対して聊か謝辞に代へた次第で有ます(拍手喝采)