デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
7款 金融関係諸団体 2. 関東銀行会
■綱文

第7巻 p.193-202(DK070031k) ページ画像

明治35年12月9日(1902年)

是日第十回集会開カレシガ、栄一代理人トシテ第一銀行取締役兼支配人佐々木勇之助ヲ出席セシム。右集会終了後本会及ビ東京銀行集会所組合銀行連合懇親会開カレ、栄一出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK070031k-0001)
第7巻 p.193 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年
十二月九日 雨
○上略 九時○午後銀行集会所ニ抵リ関東銀行会ニ出席ス○下略


銀行通信録 第三四巻第二〇六号・附録第一―二頁〔明治三五年一二月一五日〕 第拾回関東銀行会(DK070031k-0002)
第7巻 p.193-194 ページ画像

銀行通信録  第三四巻第二〇六号・附録第一―二頁〔明治三五年一二月一五日〕
    ○第拾回関東銀行会
関東銀行会は明治三十五年十二月九日(火曜日)午後二時より東京銀行集会所に於て第拾回の集会を開けり、当日来会したる銀行は四十にして出席人員四十二名に上れり今之を列記すれば左の如し
  第一銀行取締役兼支配人 (幹事) 佐々木勇之助 ○外四一名氏名略
午後三時二十分一同着席、幹事第百銀行取締役池田謙三君議長席に着き先づ開会の辞を述べ夫より
 一株式会社九十五銀行退会申込許諾の件
 一株式会社百三十二銀行退会申込許諾の件
を議に附せしに全会一致異議なく許諾する事に決し次に
 一株式会社明治商業銀行入会申込許諾の件を議に附せしに、是亦満場一致異議なく許諾する事に決し次に規程第六条に依り
 一幹事銀行選挙の件
に移りしに全会の希望にて投票を用ひず再任することに決し幹事各銀行亦承諾を表せり
右終て議長は一同に向て動議の提出を促かしたるに飯島保作君(第十
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九銀行常務取締役)は本会に於て渋沢男爵歓迎会を開催するの発議を為し協議の結果、幹事銀行より男爵の都合を問合せ然る上にて開否を決することゝなり右にて議事を終り午後四時十分閉会せり
閉会後例に依り会員一同は東京銀行集会所庭内に整列して撮影せり


銀行通信録 第三四巻第二〇六号附録・第二―一〇頁〔明治三五年一二月一五日〕 関東銀行会及東京銀行集会所組合銀行連合懇親会(DK070031k-0003)
第7巻 p.194-202 ページ画像

銀行通信録  第三四巻第二〇六号附録・第二―一〇頁〔明治三五年一二月一五日〕
  ○関東銀行会及東京銀行集会所組合銀行連合懇親会
関東銀行会開会を機とし、同会及東京銀行集会所組合銀行は連合して十二月九日午後五時より銀行倶楽部に懇親会を開けり
当日は大蔵大臣、総務長官、官房長並各局長、日本銀行正副総裁、各理事並各局長を招待せしに事故の為め来臨せられざりし向もありしが曾根大蔵大臣、阪谷大蔵総務長官、松尾、目賀田の各局長、長森官房長、山本、高橋の日本銀行正副総裁、山口、首藤の各理事、中山、木村、伊藤、因藤の各局長、及土方秘書役の臨席あり、之に当日の来会者七十一名を加へ主客合して八十五名に及べり、来会者は前記関東銀行会列席の諸氏及左の諸氏なり
      麹町銀行取締役頭取      河合徳兵衛
      丁酉銀行           清水宜輝
      東京銀行支配人        草苅隆一
      加島銀行東京支店支配人    星野行則
      横浜正金銀行頭取       相馬永胤
      日本通商銀行         籾山半三郎
      住友銀行東京支店       滝沢吉三郎
      三十五銀行東京支店      松尾侃次郎
      明治商業銀行頭取       安田善弥
      森村銀行           諸葛小弥太
      第十九銀行東京支店      内藤尚
      伊藤銀行東京支店       岸田常三郎
      三十九銀行東京支店      森村藤八
      第四十一銀行東京支店     金子右馬助
      八王子第七十八銀行東京支店  松尾謙次
      中井銀行           菅沼慶蔵
      東海銀行           笹井慎次郎
      帝国商業銀行         島甲子二
      両羽銀行東京支店       今清水乾三
      商業銀行           高羽惣兵衛
      土浦五十銀行東京支店支配人  黒川金之助
      左右田銀行          左右田金作
      横浜正金銀行東京支店     高道竹雄
      七十七銀行東京支店      成沢武之
      第一銀行頭取(遅参)   男爵渋沢栄一
      東京銀行集会所書記長     戸田宇八
      東京交換所監事        山中譲三
      東京興信所長         森下岩楠
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      同 理事           堀井卯之助
午後六時五十分饗宴を開き、宴酣なる頃幹事豊川良平君本会を代表して左の挨拶を為したり
 会員を代表しまして私より御挨拶を申上げます、今日は関東銀行会第十回目の会でございます、今年も漸く年末に迫りましたる今日会を開くも如何かとは存じましたが、海外巡遊中の渋沢男爵も御帰りになつたことでもあり、且つ経済界も昨年から今年に掛けて段々変化して参りましたから例年の如く玆に此会を開くことになつた訳であります、然るに此お忙しい時にも拘らず、大蔵大臣及総務長官並に大蔵省の御方々の御来会下され、又山本日本銀行総裁、高橋副総裁其他の方々にも御出席下されましたは会員一同の感謝する所でございます、殊更に御挨拶を申して置かなければならんのは、今日渋沢男爵が出られて皆さんに御挨拶をする筈でございましたが、帰朝後間もないことで今晩は拠ない用事の為に出席が遅れるから来賓諸君及会員諸君に宜しく御断りをして置て呉れ、と云ふことでございましたから、先づ此段を申上げて置きます
 扨先刻も一寸申上げましたが、一昨年の関東銀行会の時と昨年の関東銀行会の時と本年の今日とは経済界も大変様子を異にして居ります、且つ此銀行会は十一月に開いたこともあり、十二月に開いたこともありましたが、どう云ふものか此会は金利と妙な関係を有つて居りまして今回も亦金利の引下がありました。就きましては、今回も亦経済界未来の趨勢並に過去に関し、我々の戒となるべき御話を願ひたいと存じまして、其事を曾禰大蔵大臣及山本日本銀行総裁に願ひました処、御両君共快く御承諾下さいました。夫から阪谷総務長官及高橋副総裁も多分御話を何かして下さるやうにも思ひます、或は御話が長くなつて嫌な人はお帰りなさいましと云ふことを前以て申上げて置きますが、併し御客様に対する敬礼として成るべく静に御聞きを願ひます
 終に臨で私は重ねて今日お忙しいにも拘らず御来臨下されたことを御客様に向て御礼を申上げます
    曾禰蔵相の演説
 私は実は立遅れての御話ではございまするが、先刻今日の御主人公の豊川さんに御相談を致しましたら、少し変則ではあるが晩餐を喰べた後に挨拶をして呉れといふことでございました、主人の命に従ふは客の義務でございますから其通りに致します
 今何か話をして呉れといふことでございましたが別段に御話する程の事はございませぬ、唯昨年の会合の時にも此処に出ませうと思ひましたが、其時に申上げた通り拠ろない事故が御ざいまして、出席することが出来ませぬでしたが今年は幸に余暇がございまして此席に出て皆さんと会合するの栄を得ましたのは、誠に光栄とする所でございます
 而して御話申さうと云ふは昨年――モウ少し前から申しますると一昨年から胚胎して居りまして、昨年の春頃には随分困つた金融界の景況でございましたが、幸ひに爾後諸君の御勉強と相待て稍々歩調
 - 第7巻 p.196 -ページ画像 
が順調となつたといふ現象が今日顕れて来たといふのはお互に大にお喜び申す次第である、又将来の方向も過らんやうに今日より考へ置かなければならんことゝ思ひまする、而して此先随分経済上財政上の聯絡並びに其円滑を図る為めには種々な計画を要しますることではございまするが、其事たるや一両日を待たん中に議会へも提出することでございまするから此処に喋々するの必要はないと思ひます、それでモウ二三日お待ち下さいましたならば大抵政府の意嚮といふものも解ることだらうと思ひます、詳細にお解りになることだらうと思ひます、其大体に就きましては是まで段々と新聞紙若くは論客が多少嗅ぎ付けて話もして居ることがございますやうでございますが、其方針は今日御話することだけは私は慎みます、一両日御待ち下されて能く御覧になれば一両日中に御注意なすつて、御覧下さいましたならば経済上財政上の聯絡も分り、且つ将来の計画も先づ私の考では確めたといふ積でございます、就中公債支弁計画の如きは当分は今日の処に於てはせぬといふ決心を有つて居りまして其通り予算を組んで居ります、モウ一両日の所御待ち下されてさうして充分御研究なすつて将来の為めに悪いことがあればドンドン議会にも……此中には議員の御方も一人二人居らつしやるが如く、又関係のある御方もあるだらうと思ひますから、政府の計画に就ての欠点は指摘されて攻撃なり賛成なり為さるとも一向構ひませぬから、腹蔵なしに議員に注意なすつて下されても宜し、尻押をなすつて下されても宜い、どうぞ其のお積りで御深省の上賛成なり攻撃なり断然遣つて下さいましたら国家将来の為めに幸福を得ることだらうと思ひます、此段は一言御礼旁々申述べて置きまする(拍手喝采)
    山本日本銀行総裁の演説
 諸君今夕は私も此の関東銀行会の御招に預つて難有存じます、昨年の関東銀行会の時には私は丁度京阪地方を巡回して居りまして御招待に応ずる事が出来ませんでしたが、其当時大阪に於て矢張銀行者諸君の宴会に招かれて一場の演説を致した、其の大意は民間の仕事は追々縮かんで来て整理の緒に就いて来た、加ふるに政府も借債談を中止せられて其結果として追々事業の繰延べが行はれ又財政の整理が行はれて来て、民間の事業の縮少と政府の財政の整理と相俟て来るから、是から後の経済社会は追々順境に復する有様になるであらうと云ふ事を当時申述べました、爾来今日までの有様を見ますると其当時欠乏して居つた資金が此度は反対に追々充実する事になつて参りました、成程商売は相変らず沈滞沈静の有様になつては居りますが、資金は追々充実する趨勢を執つて居るのである、試に之を外国貿易に就て見ると此十一月迄に既に輸出は二億二千八百万円余になつて居つて、昨年の当時に較べますと百五六十万円増加して居ると云ふ有様であり、又金銀の出入に就て見るに金が二千四百万円から輸入超過になつて居ります、三十年は御承知の如く日本銀行の正貨が一時減少した時には六千万円になつたのである、然るにだんだん増加の趨勢をなして今日では九千六百万円余の正貨準備を持つ事になりました、今の勢を以て見ますると尚多少の増加を見る事で
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あらうと思ふ。
 其れから亦此の東京を始めとして全国の有力なる銀行の預金の増減が如何になつて居るかと云ふに、日本銀行で毎月調べて居る全国有力の銀行の統計に拠ると、昨年の十一月の預金が参億四千五百六十一万円ありました、所が今年の十月末には四億百五十三万円になつて其差引増加が五千六百万円になつて居ります、それから亦貸出はどうかと云ひますと、昨年の十一月は四億百八十六万円であつたものが、今日は四億二千五百九十三万円になつて差引貸出の増加が二千四百万円程になつて居る、此の有力の銀行と申しますと全国の銀行の中で大凡六割程の割合になつて居りますが、其れで以て銀行全体の預金の数を推して見ましたならば殆ど一億近くの預金が増加して居るのであると思はれる、それから貸附を見ると四千万円或は五千万円近く増加して居ると云ふ有様であつて、預金増加の割合に貸出しは増加しない其上我日本銀行は御承知の如く今日二千万円前後の発行余力を持つて居ります、こう云ふ様にだんだん資金が増して参る傾を持ち現に余程資金の増加を示して居るのであります、斯く資金が増加致して参つたのは此数年の間一時膨脹の反動で、即ち銀行では過度の貸出しをして居たのが大に警戒を加へ事業家は唯進暢一方になつて居たのが退嬰の道を取り、又奢侈に流れて居つた国民が追々勤倹貯蓄の気風を養成してさうして消費力が大に減少したと云ふ結果である、其間には銀行中にも破綻を来たし商売人にも破産せしもの少なしとせず実に容易ならん困難を経たのであるが、兎に角此の困難から生み出されて今申した様の趨勢になつて来たのである、して見ると之から後はどうである、もう既に困難の難関を切り抜けて縮まるものは縮め、整理すべきものは整理し、節すべきものは節して来たと云ふのであるから、之からは追々に順潮に向つて進んで行く時代になつて居るものと見て敢て差支はあるまいと存じます、而して此の逐々進暢して参るのに就ての回復の期は早晩来るのには相違ないが、又俄に種々の事業が勃興して数年来の過を再ひする事がありはせんかと云ふ論になつて来ますと、我々は諸君と共に随分数年間にいろいろ苦しい経験をしたものであつて、是迄の商売と云ひ工業と云ひ玉石混淆であつたものが、数年の困難の間に玉石を大に分つことが出来而已ならず、今日の不景気は是までの如く都会のみにあらずして全国を通じて一体に廻つて居つて、即ち全国民が不景気を感ずる有様になつて居るから、一朝にして又直ぐに勃興すると云ふ様な事は容易にない事で、先づ薄紙を剥ぐ様に徐々と云ふ姿で来るであらうと推察する、只私の推察許りでなくどうかさうなつて之から後進むには徐々と秩序的に進で貰ひたい、こう云ふ事を希望するのである
 其れから我日本銀行の立場から申しますると、御存知の如く日本銀行は両様の大なる責務がありまして、即第一に金貨準備の維持を鞏固にすると云ふ事が最も重なる責任で、而して其の準備の維持を努むる傍成るべく金融の疏通を計り低利の資金を商工業者に供給すると云ふ公益上の任務がある、併し乍ら準備の維持を図ると云ふ事と
 - 第7巻 p.198 -ページ画像 
それから低利なる資金を供給すると云ふ事とは場合により相衝突する事がある、金利を安くすれば遂に物価が騰貴し輸入が超過し随て金貨の流出を来して即ち肝腎なる自身の責任を尽くす事が出来なくなる、其の場合には我日本銀行は不本意ながら低利なる資金の供給と云ふ事よりも、寧ろ準備の維持と云ふ事に努めなければならん事になる、其処で此数年は如何であるかと云ふに、即ち贅沢は増長し事業は勃興し輸入は超過し物価は騰貴し金貨は流出すると云ふ現象であつた故に、どうしても低利の資金を供給する事が出来なくなつて、遂に利子が騰貴する――此の利子の騰貴なるものが商工業者に不便不利を与へると云ふ事になるのであるけれども之は致方がない己れの本職たる準備の維持を図つて行かなければならんと云ふ事で此の数年をやつて来たのである、所が前申す通り社会の形勢は大に変つて来て今度は資金の充実と云ふ事が出来て参りました、それ故春来我日本銀行も時宜に応じて数度利子を下げて既に昨日も担保附を二厘商業手形を一厘引下げた次第であります、即ち今日は九千六百万円と云ふ準備が出来て稍々鞏固になりましたから一方で資金の成るべく低率なる事を望むと云ふ此自然の大勢に棹して参る事になつたのである、其処で利子は下りました、扨其の下つた利率はいくらである、担保附が一銭九厘商業手形の割引が一銭七厘と云ふ事で之を年利に直すと一方は年七朱一方は六朱二厘となる、之を前数年の利率に比しますとだんだん下つて日本銀行の従前の利率平均より稍々下つた度合になつて来ました、併し之を欧洲先進国の利子に比べて見まするとまだまだなかなかの差があるのである、既に我日本銀行が明治十五年に創立せられて以来今年は丁度二十箇年に当りまするが其の創業以来の利子がどうなつて居るか、又欧羅巴あたりの同時期間の利子と較べてどう云ふものであるか、と云ふ事を先づ調べて見ました所が先づ第一に英吉利の中央銀行では其の間の平均が年三朱二厘である、それから仏蘭西の中央銀行は二朱八厘、独逸の中央銀行は三朱九厘一毛と云ふ事になつて居る、所で日本銀行の平均はどうかと云ふと年七朱四厘五毛になるのである、現在の利率は此の創業以来の平均より少しく安くなつたと云ふ有様で随分下つたのではあるが、併し彼の三朱若くは高くて四朱と云ふ国から見るとまだ中々高い、所で何故日本が斯の如く利子が高いか云ふ迄もなく日本は貧乏の国である資金の少ない国である、彼は富有の国である資本の多い国である、其故に斯の如く資金の上に於て差がある、併し乍ら資金が多い少ないと云ふ事は之は唯比較上の言葉で、資金が少なくても夫れ相応の仕事をして居れば其れで足り、資金がいくら多くても夫れより大なる仕事をすれば資金は不足する、十万円の資本を二十万円に遣へば足らず、十万円を以て十万円の仕事をすれば資金は必ず裕である、して見ると資金の多い少ないは其資金の割合に応じて仕事が多い少ないと云ふ比較上から起る言葉に相違ない、然らば日本が斯く資金が高いと云ふ事は即ち仕事と資金との割合で仕事が大層多いと云ふ事になる、然り日本は誠に後進の国で文明の仕事を始めかゝつたのは僅かに三四十年に過ぎない、そこであれも
 - 第7巻 p.199 -ページ画像 
これもと云つてすべき仕事が沢山にある、其故に常に資本に比して仕事が多い其の結果金利が高いと云ふ事に帰着するのである、併し乍ら又此の資金なるものが、遣ひ様に依ては強ちに只今申す如く然りと断言する事は出来ない、例へば一の商売人が十万円の金を常に運転して三度も四度も回転させて遣へば、十万円の資金が三十万円にも四十万円にも遣へる、併し其れを回転させず固定をさせたならば、十万円の資本はそれ丈けで一回使へば金が固定して資金の不足となるのである、して見ると資金の足不足は其運転の如何に於て大に差異を生ずるものである、勿論日本は彼に比して資金は少ないが巧に運転すれば今日の如く欠乏を感ずることはないのである、即ち此の運転の法に就て或は遺憾の事がありはせんかと云ふ事を私は疑ふのである、そこで此資本を有益に使用し成るべく固定を避けて行くと云ふ事をしなければいくら金があつても足らない、是れは宛も人が身体の健全を図る為に牛肉が滋養物であるからと云つて、沢山食するも之を充分に消化しなければ徒に脂肪質計り富むとか、或は腹を損じて下痢を来たす様のわけで、資金も其の使用の道宜きを得なければ、何程沢山あつても遂に脂肪の如き不用物が富み或は下痢を来たす様なことになる、此の数年間我日本は外債償金と云ふものに就て凡五億円足らずの金を順次に収容したが、此内多くは脂肪を富ましたり或は下痢をしてしまつたので無きやを疑います、其処で此の資金を能く利用して遣ふと云ふ事は固より商工業者の運用の巧拙にあることは勿論でありますが、抑も亦資金の供給を図る所の我我同業者のやり方如何によつて大に其の辺の差異がある事と心得ます、諸君は既に此の数年間大なる経験を積まれて放資上大に其の玉石を分つ事になりさうして今日亦其秩序を追ふて進まなければならぬと云ふ時に際して居りますから、之から後資本を利用する上に就ては成るべく其の性質を吟味し、又担保品に就ても成るべく撰択をし、預金に対しては準備を裕にしてさあと云つたら一寸引締めると直ぐ帰ると云ふ事に大に御注意になる事を希望するのであります
 是は諸君に向つて希望するのみならず我々も亦成るべく其の精神でやりたいと思ふのである、今日日本銀行が利子を下げたのも唯々金が遊で居るから利子を下げて、成るべく金を遣つて貰はなければならぬと云ふ精神では決してない、先刻申す通り準備の維持が充分に出来る傍に於ては、低利なる資金の供給を図ると云ふ事が我々の商工業者に対する責任であると云ふ事から、今日斯の如く資金充実の場合自然の趨勢に依て利子を引下げたまでのことである、申すまでもないが利子の高低は決して人為で出来るものではない、日本銀行は始終大勢に注意して社会に過度の資金の需要が起れば、已むを得ず金利を引上げて警戒を示すか、又今日の如く資金が充実すれば本旨に従つて之を引下げると云ふまでのことで、畢竟金利の高低は社会から誘ふのである、して今日は大勢に従つて斯く利子は引下げたが、併し之を貸附けるには矢張り忙しい時と同様に成るべく手形担保及取引者の信用と云ふことに就ては十分撰択して、さうして徐々に進みたいと云ふ考である、斯様に利子は引下げ取引は精撰すると
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云ふことは、日本銀行の本務即ち国家と云ふ方の側から来た所であるが、営業上の方から利害を計つて見ると今日節季でもう師走には見せ金なども入る、其の際に利子を安くすると云ふ事は単に株主の利益から云ふと甚迷惑な話しである、或は諸君に於ても今少し日本銀行がこたえて利子を据て置て貰ひたい抔と云ふ論もあるかも知らぬが、併し何しろ商工業に対し公益を目的とする本行の立場から言ふと止むを得ない訳である、世間では利子を下げても資金は直ぐに出ないとか、今に出るとか種々に申す様であるが、我々は金が余るからそれを直ぐに出さうの出さないのと云ふ精神からやつて居るのではない、唯々大勢の趣く処に依り自然に金利が低落すれば商工業も自然によつて徐に低利の資金を有益に使用するの時期が早晩来るであらうと云ふことを待つのみであります
 余り長くなるか知らぬが序ながら諸君に向て一応弁解して置きたいことがある、それは本月四日憲政本党の大会に於て総理大隈伯のせられました演説中、三十二年の財政に説き及び其飛沫として日本銀行に関す事を論しられた一項である、其の演説筆記の内に斯の如きことが載せてあります
  当時の日本銀行は准官吏である其の日本銀行の総裁は到る所に演説して曰く、日本の金は余つて困る金はいくらでも貸す利子は安くして貸すと云ふ所謂開放主義を執つてどしどし金を貸附けたのである、そうすると亦大蔵大臣の壮快なる演説で是々金が有り余つて居るから遣つて呉れ利子は割引をするから遣つて呉れと云ふ事を云つてゐる中に貸下げを罷めたのである、評判が直く悪くなつたそれで銀行は心配になつて来た、借る方では実は必要はないけれども安い利子で遣へと云つたから借りた、然るに之から貸さん貸した金は直ぐ払へと云ふ事になつた、之は無理な話しである
 こふ云ふ事が出て居るが是は私の方に於てはなかなかの関係を有する事である、一個人が宴会の席で云つたとか、或は新聞に載せた事なら別に弁解の必要はないが、併し大政治家たる人が而も党の大会に於て斯の如きことを云れた以上は、私は諸君の面前に於て聊之を弁解して置きたいと思ふ、之は三十二年の事であるが少し其以前に溯て金融界の大勢を御話致すと、三十一年五六月の頃は非常の逼迫で世間では頻に救済を求めて止まない、其処で時の大蔵大臣は公債の買上なり勧業債券の応募なりにて凡四千万円を支出して経済社会を救済したのである、其結果で三十一年の下半季になつては追々と金融が緩慢になつたと云ふ事は諸君も十分記憶せられてゐることゝ信じます、さうして其年は米が四千六百万石も取れると云ふなかなかの豊作であつた為に人心が緩まつて来た、其れから議会では通貨が少いから日本銀行の兌換券発行高を増加しなければならぬと云ふので、遂に発行権を三千五百万円丈増加することになつてそれが三十二年三月に実施された、其上に亦六月に至つて政府財政の都合に由り四分利附の外債を一億円募つた斯の如く頻りと金融社会を緩和せしむる材料が重なつて来たから金融は緩まざるを得ない、そこで日本銀行は二月三月四月と大勢に依つて利子を引下げたのである、
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併ながら我々は此処で大に警戒を加へたと申すのは、此緩慢の時に当て余計の資金を持つて居ると、前々来の例としてどうしても資金の需要が殖へ、事業が濫興し従て経済社会が紊れるの恐があるから、其金は成るべく日本に余して置かず、他日正貨の流出する時に正貨準備になる様なものに卸して置きたいと云ふ考で其三月に――許された当時に――正金銀行の頭取たる相馬君にも相談して倫敦で公債を買ふ事の話をして置いた所が、其間に政府が一億円の公債を募ることになつて大蔵大臣から日本銀行でも其内を持つてはどうかと云ふ話であつたから、これならいつでも金貨と換つて兌換の準備となると云ふので、即ち其時此二百万磅の公債を持つたのである、これは全く貸出の劇増を避ける所の処置をして来たのである、それから又到る処で演説したと云ふことであるが、成程私は其年五月頃大阪京都名古屋北陸地方を巡回して何処でも演説を致した、其時自分の演説為したる筆記は口から出た事を玆に集めて所持して居りますが、大阪に於てどういふ事を云つたか大体を摘んで申すと「我々は金の固定しないやうに手形の発達を図ることにしようじやないか大阪では無造作に手形を日本銀行に持て来るから、大抵五割方も拒絶される、それでは困るから十分撰択して良質の手形の融通を図ることをしたい、今は金融緩慢であるがこれから後に又事業勃興の時が来るのであらう、それ故に諸君は今日より其積りで成るべく貸附金を撰択して秩序的に進んで貰ひたい」といふ事を話したのである
 一つも世の中をおだてる様なことは話して居ない京都、名古屋、福井、金沢、富山と所々廻つて見たが、其演説は地方々々に付ての話を重にしたので別に一々お話する必要もないが、其大体の精神は矢張り大阪で致したのと同様用心して行かうではないかと云ふことに止まつて居る、それから春はそれで終つて冬になつて参ると御承知の通り、輸出品は生糸を始め石炭も銅も非常に売れる、さうして相場も騰貴して遂に生糸が千三百円といふ高直《(値)》になつた、さうなると一般に景気が付いて金がいる様になつて来た、其処で日本銀行は大勢已むべからざるを察して十一月に二回まで利子を上げたのである、丁度其頃此関東銀行会の開設がありまして、私は時の大蔵大臣松方伯と共に参つて一場の演説を致しました、其の時どういふたか「今日は預金も増加して来るし商売も活溌であるが、預金が殖えたのに付ては諸君の責任が重くなる、一朝経済界に変が起ると引出すといふことが来るかも知れぬから、今の内に十分準備金を用意して真逆の時の用意をなさるが必要であらう」とかう云ふことを御話した次第である、是は諸君の中にも御記憶ある方もあらうと思ふ、それと前後して利子を上げたのであるがさうすると翌日は株式が暴落を致す、又種々の説も出てゝ日本銀行が急に利子を引上げたのは狼狽したのであると云ふ様な説も一二の新聞で見ましたけれども、我我に於ては一向に右様の次第ではなく唯々金融界の大勢に従て相当の処置を致したことゝ自信してゐた、其れは当時貸出金の有様が何よりの証拠で私が貸出開放の演説をして、盛に貸出したと評せられた時の貸出高がどうであるかと云ふと、四月が五千八百万円、五月
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が四千九百万円、六月が六千六百万円に過ぎなかつた、而して金を頻に絞り上げたと評せられた頃の十月は既に八千二百万円も出て居たが、十一月には一億二百万円十二月になると更に一億二千百万円といふ様に非常に増加して事実は全く世評と反対であつた、さういふ次第で私は言葉の上にも、実行の上にも、大隈伯の云はれたやうなことは少しも為て居ない心得である、諸君には取引上の関係が最多いが誰に向て金が余るから遣つて貰ひたいと云ふ様なことを云つたことがあるか、これは決して無いのである、諸君に向て個様なことを申すは筋が違ふかも知らぬが前申す通り唯々其会が会で、又大政治家が斯の如きことを云はれて見ると、信用を以て立つ所の実業家としては一言之を弁明しなければならぬ、幸今夕諸君の御集会に付き之を弁明する機会を得たのは本懐の至りであります、甚だ長くなりまして御迷惑を掛けました
右終て豊川総裁《(マヽ)》は左の如く謝辞を述べられたり
 会員を代表致して大蔵大臣閣下日本銀行総裁閣下及来賓御一同に対し御礼を申上げます、今日は御忙しい中を大蔵大臣初め、総務長官及各局長とも御来臨下され、又日本銀行総裁、副総裁、各理事、各局長揃つて此会に御望み下されたのは会員一同の感謝する所でございます、特に大蔵大臣には両三日の間に書いたものが出る、新聞にも出るであらうから善いと思つたら賛成せよ悪いと思つたら攻撃せよと云ふ仰せである、夫から大蔵大臣は是から先は公債支弁を以て事業はしないと云ふ御話でございますから、公債償還は必ず予算に現はれた通り抽籤にて償還さるゝ事であらうと思ひます、就きましては我々は篤と其書いた物を拝見した上で大蔵大臣の望まるゝ通り賛成すべきものは賛成し攻撃すべきものは攻撃せらるが宜からうと思ひます
 又山本総裁の我々同業者に対しての御注意を此会に於て御話し下されましたのは会員一同の大に謝する所でございます、一同に代つて御礼を申上げます
午後九時四十分より賓主共に別室に移り懇談に時を移し午後十時三十分散会せり