デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
4節 保険
1款 東京海上保険株式会社
■綱文

第7巻 p.662-666(DK070083k) ページ画像

明治42年6月6日(1909年)

是年古稀ニ渉ルヲ以テ第一銀行他少数ノ関係ヲ除キ諸事業ヨリノ引退ヲ決意シ、是日同会社取締役ヲ辞ス。翌四十三年四月八日開カレタル株主総会ニ臨ミ、栄一取締役辞任ノ挨拶ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第二五三号・第四八頁〔明治四二年六月二五日〕 辞任書(DK070083k-0001)
第7巻 p.662 ページ画像

竜門雑誌 第二五三号・第四八頁〔明治四二年六月二五日〕
    辞任書
拙者儀頽齢に及び事務節約致度と存候間貴社「何何役」辞任仕候此段申上候也
  明治四十二年六月六日 渋沢栄一
      職任
    東京海上保険株式会社取締役
    書状
拝啓、時下向暑の候益々御清泰奉賀候、陳は小生儀追々老年に及ひ候に付ては関係事務を減省致度と存し、今回愈々第一銀行及東京貯蓄銀行を除くの外一切の職任を辞退致候事に取極候に付、別紙辞任書差出候間事情御了察の上可然御取計被下度候、尤も右様役名は相辞し候へ共、向後とて従来の御交誼上必要に臨み御相談に与り候事は敢て辞する処に無之候間、其辺御承知置被下度候、此段申添候 敬具
  明治四十二年六月六日          渋沢栄一


渋沢栄一 日記 明治四三年(DK070083k-0002)
第7巻 p.662 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四三年
四月八日 曇 軽寒
午前七時起床入浴シテ後朝飧ヲ食ス、又来人ニ接見ス、九時半自働車ニテ本郷ニ立寄リ十一時兜町ニ抵リ事務ヲ処理ス、十二時海上保険会社ニ抵リ株主総会ニ出席シテ取締役辞任ノ理由及会社創立当時ノ事情ヲ演説ス○下略


(東京海上保険株式会社)総会議事録 二(DK070083k-0003)
第7巻 p.662-665 ページ画像

(東京海上保険株式会社)総会議事録 二
             (東京海上火災保険株式会社所蔵)
  東京海上保険株式会社定時株主総会決議録
明治四十三年四月八日当会社ニ於テ定時株主総会ヲ開ク
  株主百九拾人 此権利数六万個ノ内
   出席株主               弐拾五人  此権利数壱万四千九百七個
   委任状ヲ以テ代理ヲ委任セラレタルモノ 七拾五人  此権利数参万参千五百九拾八個
    合計                百人    此権利数四万八千五百五個
 - 第7巻 p.663 -ページ画像 
午前十一時三十分開会
取締役会長末延道成氏議長席ニ着キ開会ノ旨ヲ述フ○中略
満場賛成配当案等可決ス
議長(起立)原案可決ノ上ハ一事大切ナル件ニ付御協議致シタシ既ニ御承知ナランガ、取締役渋沢栄一男ハ取締役ヲ辞任セラレタル処、同男ハ我国ニ於ケル数多会社事業ニ関係セラレタル中ニモ、第一銀行ハ最モ古ク最モ深ク関係セラレ同男ノ設立セラレシモノニシテ、之ニ次キテハ当会社ノ事業ナリ、故ニ第一銀行ヲ惣領トセバ当社ハ之ニ次男ノ位置ニアリ、故ニ今回当社ノ取締役ノ職ハ辞セラレタルモ親子ノ関係ハ依然タルモノニシテ、又同男ニ於テモ今後総テノ事項ニ付相談ニハ応スベキ旨ナラバ、此義了承アリタシ
渋沢栄一男 起立ノ上取締役辞任ニ関スル趣旨ヲ左之通リ述ヘラル
    明治四十三年四月八日東京海上保険株式会社第五十季
    定時株主総会ニ於テ渋沢男爵取締役辞任ノ挨拶要領
余カ今回該会社ノ取締役ヲ辞任スルニ至リタルハ他ニ其理由アルニアラズ、唯年漸ク老ヒ多クノ事業ニ従事スルノ懶クナリタル為メ、従来関係ノ諸会社ニ対シ凡テ辞任ノ決心ヲナシタルニ外ナラズ、爰ニ株主諸君ニ対シ、余カ役員トシテノ関係ヲ離ルヽニ当リ、一言ヲ費シタキハ該会社出生以来ノ来歴ナリトス
明治七年ノ頃ト覚ユ、蜂須賀侯ヘ英国在留ノ同族某氏ヨリ書面ヲ寄セテ日本ニ鉄道ノ布設ヲ勧メタルコトアリ、之カ因トナリテ華族諸氏ノ間ニ東京青森間鉄道布設ノ計画ヲ生シ、当時前島密男・高島嘉右衛門氏等之ニ加ハリ、余モ亦同氏等ノ招待ヲ受ケ、浅草池田邸ニ於テ其計画ノ会合ニ与リタルヲ始メトシ、其後屡会議ノ開カルヽ毎ニ列席シテ其議ニ参シタリシ、而モ時機未タ熟セス遂ニ何等ノ結果ヲ見ルニ至ラザリシ、余ハ之ヲ遺憾トシ華族ヲシテ国家有益ノ事業ニ放資セシムルハ当時ノ急務ト信ジ、井上侯ニ謀リテ華族ノ為メニ京浜鉄道払下ノ議ヲ発案セリ、蓋シ余ハ当時ヨリ民業将励ノ意見ヲ有スルモノニシテ、京浜鉄道ノ如キモ適当ノ継承者ヲ求メテ民有トスルノ至当タル意見ナリシ故ニ今日ニ於テモ同一ノ主張ヲ有シ、鉄道国有ハ鉄道ヲ発達セシムル所以ニアラサルコトヲ信スルモノナリ
余ハ京浜鉄道払下ノ議ヲ以テ時ノ工部卿タリシ故伊藤公ニ賛成ヲ求メタルニ公モ大ニ之ヲ可トシ、漸次其歩ヲ進メテ明治八年ト記憶ス、政府ノ建設ニ成レル京浜鉄道ハ当時川崎ノ鉄橋未設タリシニ依リ、政府ハ之ヲ完成ノ上金参百万円七ケ年賦トシ、年賦金皆済ノ上鉄道全部ヲ引渡スヘキ条件ヲ以テ華族諸氏ニ払下クルコトニ決定セラレタリ、然ルニ明治九年金禄公債発行セラレ、之ヲ華士族ニ分配セラレタルニ当リ、当時政事ノ中心ニシテ華族公卿ノ領袖タリシ故岩倉公ハ録制定マリテ之ニ依テ衣食スルコトトナリタル同族ニ対シ其財産擁護及放資ノ方向ヲ指導スルノ意タリシ如ク、同公考案ノ結果曾テ前年ノ議ニ上リタル東京青森間ノ鉄道布設ニ華族諸氏ノ全力ヲ尽シテ当ラシムルノ意見ヲ保持セラレ、為メニ京浜鉄道ノ払下ハ已ニ其約成リテ一部ノ年賦金払込アリタルニ拘ハラス之ヲ解クヘキコトヲ主張セラレタリ、余ハ両者ヲ経営セシムヘキ意見タリシモ遂ニ行ハルヽ能ハズ、京浜鉄道払
 - 第7巻 p.664 -ページ画像 
下ハ見合セトナリ、已ニ払込ミタル年賦金ハ払戻サルヽニ至レリ、是レ明治九年末カ十年ノ始ト記憶ス
余ハ右ノ結果ニヨリ折角華族諸氏ノ醵出シタル年賦金ヲ再ヒ自家筐底ニ収メ、国家有益ノ事業ニ放資スルノ機会ヲ失ハシムルヲ頗ル遺憾トシ、華族諸氏ヲ説キテ将来ニ希望ヲ嘱スヘキ事業ヲ択ヒテ此年賦金ヲ投資スヘキヲ勧メタリ、時恰モ余ノ経営シタル銀行ノ荷為替事業ニ関聯シテ海上保険事業ノ必要ヲ認メタルト、嘗テ肝付兼行氏ノ調査シタル保険歴史ナルモノニ英仏戦争時代ノ海上保険料ガ非常ニ高率ナリシ云々等ノ記事ヲ散見シ、日本ノ如キ海国ニアリテハ殊ニ其必要ヲ感スルノ時機到来スヘク、啻ニ戦争ノ時ニ於テノミナラズ平時ニアリテモ海上保険ナル機関ニヨリテ海上運送ノ危険ヲ保障スルハ貿易ノ発達ヲ助クルコト甚大ナルベキヲ感シタルヲ以テ、特ニ此事業ヲ創始スルノ可ナルヲ説キ華族諸氏ノ考慮ヲ促セリ、偶々大隈伯邸ニ於テ故岩崎弥太郎氏ニ面会シタルヲ機トシ、如上ノ説ヲ述ヘテ同氏ト意見ヲ交換セシニ、同氏ハ其経営セル海運業ニ密接ノ関係ヲ認メ、海上保険機関ノ創始ヲ必要トスルノ点ニ於テハ全然一致ノ意見ナリシモ、智識ノ進歩セザル当時ニアリテ其経営ノ頗ル困難ナルヲ慮リ、時機尚早シトセラレタルガ、大隅伯ノ助言スル所モアリテ結局新事業ノ困難ハ之ヲ期待セサル可ラサルモノトシテ寧ロ実行スルニ如カズト決シ、爰ニ岩崎弥太郎氏及嚮ニ京浜鉄道払下ニ加盟シタル華族二十余名ヨリノ出資ヲ以テ東京海上保険株式会社ノ設立ヲ見ルニ至レリ、此華族出資ハ京浜鉄道払下年賦金払戻ノ大部分ニシテ其一部約二十万円ハ余ノ勧誘ノ下ニ大阪紡績株式会社ヲ設立シ之ニ投資セラレタリ
斯クテ東京海上保険株式会社ハ明治十二年八月ヲ以テ本邦各種保険業ノ犒矢《(嚆)》トシテ営業ヲ開始シタルガ、爾来連綿三十年波瀾曲折ノ歴史ハ実ニ回顧ニ余リアリヽ其間大困難大挫折ニ遭遇セシコト一再ニ止マラス、嘗テハ数年間無配当ヲ継続シ遂ニ払込株金ノ一半ヲ切捨ツルノ悲運ニ陥リタルコトアリキ、当時余ハ取締役ノ一員トシテ同僚ト共ニ株主諸君ニ陳謝シ、一同責ヲ引キテ辞職ヲ申出テタルニ拘ハラズ諸君ハ余等ノ職責ヲ寛仮シ、留職ノ上機運挽回ヲ将来ニ期スルヲ以テ嘱望セラレタリ、斯ル株主諸君ノ忍耐ト幸ニ適任ナル当事者各務、平生氏等ヲ得タルトニヨリ苦心経営ノ効空シカラズ、明治三十三年以来連年好成績ヲ収メ、今ヤ多大ノ資産ヲ積ミ鞏固ナル基礎ノ上ニ世界的営業ヲ行ヒ、年々ノ株主配当金モ決シテ尠ナカラサルニ至リタルハ余ノ衷心愉快ニ堪ヘサル所ナリ、蓋シ積善ノ家必ス余慶アリ、株主諸君ガ本業創設ニ当リ前途ノ困難カ逆睹セラレタルニ拘ハラズ之ガ出資ヲ敢テシ国家ノ為メ有力ナル商業機関ヲ具備セシムルノ目的ヲ以テ堅忍不抜幾多ノ財産ヲ犠牲トシテ辞セザリシ善事ハ数多ノ星霜ヲ経テ其余慶ヲ享クルニ至リタルモノニアラズヤ、先刻末延会長ハ余カ過去数十年商界ニアリテ幾多ノ事業ニ関係シ、若クハ創設シタリシモ其中ニ就キ第一銀行ヲ長男トセバ該会社ハ次男ナリト曰ハレタルガ、余ノ該会社ニ於ケル因縁ハ実ニ前述ノ如ク浅カラザルモノアリ、従テ之ヲ軫念スルノ情モ深カラサルヲ得ズ、昨年第一銀行以外ノ諸会社関係ヲ離ルヽノ決心ヲナスニ当リテモ該会社ニ対シ惜惋ノ感ナキ能ハサリシ、然レト
 - 第7巻 p.665 -ページ画像 
モ今ヤ羽翼全ク成リ、内外各地ニ盛大ノ営業ヲナスニ至リタレバ何等憂フヘキモノナシ、是レ余ノ大ニ心ヲ安ンスル所ニシテ将来益々発展スヘキヲ信スルナリ、但シ余ハ職任ヲ辞シタリト雖モ該会社トノ因縁ハ従来ト異ナルコトナシ、何事タリトモ相談ヲ受クル事アラバ喜テ意見ヲ披瀝スルヲ辞セサルベク、余ノ生涯ハ決シテ該会社ト離レサルベキコトヲ爰ニ明言スルモノナリ
余ハ今日ノ総会ニ於テ取締役辞任ノ挨拶ニ兼ネ該会社ノ来歴ヲ述フルノ機会ヲ得タルヲ謝ス
池内久親氏 当社創立ノ頃ヨリ男爵ニハ御話ヲモ受ケタレトモ何分新設事業ナレバ一切男爵ヲ信シテ一切ノコトヲ御依頼シ、延テ今日迄永ク御世話ニナリタルコトハ実ニ感謝ニ堪ヘズ、今回取締役御辞任之コトハ甚タ遺憾トスル処ナルモ、コハ拠ロナキコトナレバ従来ノ歴史上尚飽迄モ御見捨ナキ様願度、又報酬等ハ之ト申ス案ハナキモ格外ノ御計ヒアランコトヲ切望シ、取締役ニ御一任スル旨ヲ述ラル
議長 渋沢男ハ取締役ハ辞任セラレ、法律上ノ手続ハ終リタルモ只今モ申述タル通リ当社トノ関係ハ依然タルモノナレバ、取締役会ハ此時ニ於テ報酬ハナサズ、只感謝ノ意ヲ表スルニ止メ度尤モ会社モ今日ハ払込資本ニ拾弐、参倍ノ財産ヲ有スルヲ以テ充分ニ感謝ノ意ラ表スベキ考ヘナル旨ヲ述フ
荘田取締役渋沢男爵ニ対スル感謝ハ株主総会ノ決議トシテ感謝ヲ表シ度キ旨ヲ述フ
満場一致総起立ヲ以テ同意ス○下略


東京海上保険株式会社営業報告 第五〇季明治四三年四月八日(DK070083k-0004)
第7巻 p.665 ページ画像

東京海上保険株式会社営業報告 第五〇季明治四三年四月八日
一取締役渋沢栄一男ヨリ明治四十二年六月六日付ヲ以テ取締役辞任ノ申出デアリタルニヨリ、法規上ノ解職手続ヲナセリ、同男ハ当会社ノ創立者ニシテ明治十二年一月発起人ノ総代理人トシテ創立事務ヲ弁理セラレタル以来三十余年ノ久シキ当会社ノ相談役及取締役トシテ終始尽力セラレタルハ株主諸君ノ知了セラルヽ所ナリ、然ルニ同男ハ第一銀行及東京貯蓄銀行ヲ除キ他ノ一切ノ職任ヲ辞退セラルヽノ決定ヲ以テ、当会社ノ取締役ヲ辞任セラレタルハ甚ダ遺憾ニ堪ヘザルガ、蓋シ同男ト当会社トノ浅カラヌ関係ハ役名ノ有無ニ拘ハラズ依然当会社ノ柱石トシテ従来ト変ラザル援助ヲ辞セラレザルハ取締役会ノ深ク信頼スル所ナリ
一前項渋沢男ノ功労ニ対シ特ニ感謝ノ意志ヲ表示セントス



〔其他ノ資料〕渋沢栄一 日記(DK070083k-0005)
第7巻 p.665-666 ページ画像

渋沢栄一 日記
 ○明治三二年
一月廿四日 曇 寒甚シ
○上略午後二時逓信省ニ抵リ芳川大臣ニ面会シテ海上保険会社ヘノ下付金○中略ノコトヲ頼願ス
 - 第7巻 p.666 -ページ画像 
二月十日 晴
午後二時貴族院ニ至リテ芳川逓相ニ東上海上保険会社《(京)》ヘ下付金ノコトヲ請願ス
二月十二日 晴
大川平三郎来、斎藤峯三郎来、保険会社ノコトヲ話ス
   ○右保険会社トハ東京海上ヲ指スカ又ハ他ヲ示スカ決定シ得ザレドモ、姑クココニ収ム。
三月十一日 曇
午後四時海上保険会社ニ於テ倫敦ヨリ来着セル各務謙吉《(各務鎌吉)》ノ来書及会社支店存廃ニ関スル竟見書ヲ一読シ、来ル十四日ヲ以テ重役会ヲ開クコトヲ約ス
十月六日 晴
午前十時海上保険会社ニ於テ重役会ヲ開クニ列ス、平生氏英国ヨリ帰京セシニヨリテ其報告ヲ聞ク
 ○明治三五年
八月十二日 曇
十一時市原盛宏ヲ伴ヒ地中電気車ニテシチーニ抵リ、三井物産会社ニ於テ渡辺専次郎氏ヲ訪ヒ同伴シテウエルスヘーバー保険組合ニ抵リ、スヘンサー氏ニ面会シ東京海上保険会社ヨリノ伝言ヲ述ヘ、且保険ニ関スル事ヲ談ス、次テロヤルエキスチンジニ於テロイド保険同盟ノ事務取扱方ヲ一覧ス
 ○明治三六年
四月十一日 晴
十時逓信省ニ抵リ浅田徳則氏ト海上保険会社ノコトヲ談ス