デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
4節 保険
8款 明教保険株式会社
■綱文

第7巻 p.763-765(DK070097k) ページ画像

明治30年8月(1897年)

是ヨリ先、明教保険株式会社重役間ニ紛議生シ、栄一及浜岡光哲ニソノ仲裁ヲ委嘱ス。是月其仲裁判断書ヲ下ストトモニ、株式売譲ニヨル解決ヲ示唆ス。


■資料

報知新聞 第七三〇六号 〔明治三〇年三月六日〕 明教保険会社長排斥の運動(DK070097k-0001)
第7巻 p.763 ページ画像

報知新聞 第七三〇六号〔明治三〇年三月六日〕
    明教保険会社長排斥の運動
明教保険会社京都支社長膳平兵衛外数名が、同社長の告訴に依りて拘引せられたることは既に報じたるが、元来同社長宏仏海、支配人宏虎童の二氏は京都及び大阪両支社の信用甚だ薄くして、両支社は此の如き人物をして業務を担任せしむるは会社の不利なれはとて、宏氏父子を排斥せんと計画し、此頃其機漸く熟したるを以て、来る三十日臨時総会を開きて其希望を貫達せんとせしかは、宏氏父子は先んすれは人を制するの本文に倣ひ斯く膳平兵衛等を告訴したるものなるが、両支社は勿論同地方の株主は是が為めに大に激昂、宏氏父子を排斥して東京本社を改革せんとして百方運動し居る由


中外商業新報 第四六二七号〔明治三〇年七月一八日〕 明教保険会社内訌の調停(DK070097k-0002)
第7巻 p.763 ページ画像

中外商業新報 第四六二七号〔明治三〇年七月一八日〕
    明教保険会社内訌の調停
明教保険会社東京重役と京阪重役との間に久しく結んで解けざりし内訌は、渋沢栄一・浜岡光哲両氏の調停に依りて、東京重役派に属する総ての株券三千余株を払込価格即ち十二円五十銭を以て京阪重役に譲与する事に決し、双方の重なる重役数名は本社に会合して、右決議書に記名調印せし由なり


中外商業新報 第四六七一号〔明治三〇年九月八日〕 明教保険会社の仲裁成る(DK070097k-0003)
第7巻 p.763-764 ページ画像

中外商業新報 第四六七一号〔明治三〇年九月八日〕
    明教保険会社の仲裁成る
明教保険会社の内訌に付ては、渋沢栄一・浜岡光哲両氏が専ら調停に尽力中なりしが、東京・大阪及京都に於ける重立たる重役は此程東京に於て屡々会合し熟議を遂けたる末、渋沢・浜岡両氏の仲裁判断の趣旨に従ひ、現今東京重役派に於て所有せる株式三千余株(同社の総株数一万株)を十二円五十銭の払込元価を以て京坂方に買受け、本社を京都に移し、東京・大坂に各支社を設ることゝなり、現任重役一同辞職することゝなりしに付、同会社に於ては来る二十日京橋区地学協会に於て株主臨時総会を開き、定款の改正を為し重役を選挙する由なるが、今其仲裁裁断書を掲くれは左の如し
      仲裁判断書
 - 第7巻 p.764 -ページ画像 
 明教保険株式会社重役間に生じたる紛議を調停する為め、同会社重役一同より其仲裁判断を拙者共に委任せられたるに付、拙者共は友誼上敢て之を承諾し、公平無私の意念を以て其任務を尽さんとす、抑々保険の事業たる独り被保人をして其生を安んせしむるのみならず、自ら国家の安寧を裨補するものにして、実に重要有益の業務とす、故に之を処する宜く厳正確実にして、広く世上の信用を博することを勉めざるべからず、苟も処務の秩序内に紊乱し、担当の職員外に相鬩くの弊あらんか、終に会社の業務を衰頽して一大破綻を見るに至らんも亦知るべからず、蓋し明教保険株式会社は創立の時より其株主東京・京都及大坂の三府に分在し、各相鼎立して業務を執るの勢あるを以て、重役の意見常に相離隔し、会社の主権帰する所なきが如し、斯の如きは決して会社の慶事にあらざるなり、依て拙者共は将来会社業務の鞏固と繁盛とを企図して、玆に其断案を下すこと左の如し
 一、取締役の人員を五名となすこと
 一、監査役の人員を三名となすこと
 一、取締役会規程を設け重役間の意見を統一せしむること
 一、会社の主権は本社所在地に帰せしむへき事
 一、此仲裁判断は明治三十年 月を以て執行すること
  明治三十年 月        仲裁人 渋沢栄一
                 同   浜岡光哲
 拝啓陳者貴会社重役間の紛議調停の為には別紙判断書を以て拙生共の愚見開陳致候得共、倩従前より行掛の状情を承り、更に将来を審案致候時は、右仲裁判断にて果して向後円滑に業務執行致候様相成るべく哉聊か懸念の点も有之、依て再案候に、寧ろ三府の重立たる株主に於て共に相譲歩するの意念を以て其株式売譲の示談を為し、可成は一地方の所有に帰せしめ、其重役選挙の如きも各地分任の弊無之様相成候方可然歟と被存候、右は表面申上候次第には無之候得共、婆心一応申添候 匆々不備
  明治三十年八月 日          渋沢栄一
                     浜岡光哲
   ○東京経済雑誌第八九四号第六九〇頁(明治三〇年九月一八日発行)ニモ同様ノ記事アリ。


東京日日新聞 第七七八三号〔明治三〇年九月二六日〕 明教保険社長及顧問相談役(DK070097k-0004)
第7巻 p.764 ページ画像

東京日日新聞 第七七八三号〔明治三〇年九月二六日〕
    明教保険社長及顧問相談役
去る廿日臨時総会に於て、本社を京都に置き、是迄の東京本社を支社と為すことに決定し、本社々長には取締役小畑寅造氏を互選し、同氏も承諾したるにより、愈一昨日を以て事務の引継ぎを完結し、新に渋沢栄一・浜岡光哲・梅浦精一の三氏を顧問役に選定し、上田省吾・田村英二・五十嵐光彰・宏虎童の四氏を相談役に選定する事に内定したりと云ふ



〔参考〕本邦生命保険業史 会社及統計篇 第二一四―二一五頁〔昭和八年九月〕(DK070097k-0005)
第7巻 p.764-765 ページ画像

本邦生命保険業史 会社及統計篇 第二一四―二一五頁〔昭和八年九月〕
 - 第7巻 p.765 -ページ画像 
    明教生命保険株式会社 整理命令後大阪生命と合併し三十九年任意解散をなす
 明教生命は明教保険の後身である、当社は元々宗教界を根城として僧侶の生命保険、神社仏閣の火災保険を営むことを以てその本務とし明治二十七年三月二十八日創立されたものだが、資本金五十万円で東京市京橋区三十間堀一丁目二番地に開業したのは同年五月十五日であつた。開業と同時に宏仏海氏専務取締役社長となり、東京側の取締役佐久間真一・山中隣之助・梅浦精一・井田武雄・高松喜六・宏虎童、京都側の取締役古畑宙造・鳴戸喜七の諸氏就任したが、かゝる多数では船頭多くして船山に登ると一般で、三十年の夏には東西両派対峙して勢力争ひの紛擾起り、鼎の沸くが如き騒ぎであつたが、渋沢栄一・浜岡光哲の両雄出でゝ両派を取鎮め、結果は関西派に凱歌が挙つた。勝を制した関西派は、直に臨時総会召集に着手、三十年九月二十日総会を開き、役員改選をなして専務取締役社長に古畑寅造、常務に山田定七を据えて関東派を駆逐し、更に本社を京都府下京区三条通寺町西入に移し、東京・大阪に支社を設置することに決した。斯くして三十年には新契約百五十六万円を挙げたが一ケ年と続かず、翌年には早や落凋の色を見せた。偶々三十二年新商法の施行により生命火災の兼営を許可せぬ事になつたので、火災保険を分離して生命保険専業となし名称も明教生命保険株式会社と改めた。併し内容刷新はおろか、三十三年十一月十四日には責任準備金の不足を告げて当局より整理命令が下り三十四年六月二十日には取締役古畑寅造(社長)、山田定七、監査役河合太兵衛、増田又七郎等辞任し、之に代つて本多副元男社長に、岡部広氏取締役に夫々就任したが、大株主たる青木庄太郎氏より当選無効の訴訟を起され一時不測の境地に立つたが、相手は岡部と云ふ怪傑少しも動ぜぬのみか、万世生命の一室に大合同の図譜をゑがき、虎視眈々たる岡部は、早くも万世との間に合併計画をめぐらし、同十一月三日には東京市京橋区三十間堀に本社を移し、同時に大東生命と結び、更に三十五年二月には大阪生命と合併成るに及んで大阪市東区本町二丁目六十一番地なる大阪生命内に移転した。而して三十九年十一月終に日本共同・海国の二社と共に任意解散するに至つたのである。