デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
1節 海運
1款 東京風帆船会社
■綱文

第8巻 p.5-36(DK080001k) ページ画像

明治13年8月10日(1880年)

是ヨリ先栄一、益田孝等ト謀リ風帆船会社ノ設立ニ努ム。是日、遠武秀行ヲ社長トシテ創立ヲ出願シ、翌十四年一月営業ヲ開始ス。栄一陰ニ尽力スル所多シ。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第八七五―八七六頁 〔明治三三年六月〕(DK080001k-0001)
第8巻 p.5 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第八七五―八七六頁〔明治三三年六月〕
東京風帆船会社ハ、明治十三年ノ交、青淵先生・益田孝等相謀リ、資本金参拾万円ヲ以テ創立シタルモノニシテ、其目的ハ一般運輸ノ業ヲ営ムニアリ、海軍大佐遠武秀行社長タリ
同社ハ後チ共同運輸会社ノ組織成ルニ及テ解散セリ


竜門雑誌 第四八一号・第六一頁〔昭和三年一〇月〕 渋沢子爵と郵船会社(伊藤米治郎)(DK080001k-0002)
第8巻 p.5 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第六一頁〔昭和三年一〇月〕
  渋沢子爵と郵船会社(伊藤米治郎)
    日本郵船会社創立以前の関係
 渋沢子爵が我が国の海運事業に初めて関係されたのは、遠く半世紀前、即ち明治十三年であつた。当時我国の海運事業は三菱汽船会社に独占された形で、一人の起つて之れに対抗する者もなかつた。同会社は台湾征討の時にも、西南役の時にも軍隊及軍需品の輸送を一手に引受け、更らに又た、太平洋郵船会社及彼阿会社等の外国会社を圧倒して、我が近海航路の覇者となり、其の結果運賃率を意の儘に左右するの有様で、商人の不便不利を訴ふる者漸く多きを致すことゝなつた。
 運賃率の牽制 渋沢子は乃ち三菱会社の海運独占と其の輸送賃率が我が国の商業発達に累を及ぼすべき事に留意し、是れが牽制と緩和等を達成せんが為めに、先づ一帆船会社の設立を企画せられた。
 東京風帆船会社創立 乃ち三井系の益田孝氏を説き、同氏をして新潟の鍵富三作、桑名の諸戸清六及伏木の藤井純三等《(藤井能三)》の諸氏を説かしめ三十万円の資本金を以て東京風帆船会社を興し、休職海軍大佐遠武秀行氏を社長として明治十三年に其の創立手続を了した。此の事は実に風帆船の遅緩な航行力を以つてして猶ほ且つ荷客を集め得るの見込みありし事を語るものであり、当時の汽船運賃が如何に割高であつたかを物語るものである。従つて子爵の此の挙は純然たる経済的見地から三菱の最初の競争者として起たれたものと見るべきであらう。


自由新聞 明治一六年二月二五日(海運史料 中巻 第二七九―二八〇頁) 三菱会社ノ弊ヲ論ズ 第廿一(DK080001k-0003)
第8巻 p.5-6 ページ画像

自由新聞 明治一六年二月二五日
          (海運史料 中巻 第二七九―二八〇頁)
 - 第8巻 p.6 -ページ画像 
  三菱会社ノ弊ヲ論ズ 第廿一
○上略三菱会社カ此ノ風帆船会社ノ設立ヲ毀沮シタルモ亦タ誠ニ至レリト謂ハサルヘケン乎、左レハ渋沢栄一氏ノ如キ、若クハ益田孝氏ノ如キ、其人カ之レカ首唱トナリ、若クハ之レカ援タルニモ関ラス、殆ント其ノ設立ニ艱ミ、遠武秀行氏カ之レカ社長トナルニ及ンテ纔カニ乃チ三菱会社ノタメニ毀沮セラレテ遂ニ廃スルノ不幸ヲ免ルヽコトヲハ得タルナリ○下略


岩崎弥太郎 (民友社刊行) 第一三六―一三九頁〔明治三二年三月〕(DK080001k-0004)
第8巻 p.6-7 ページ画像

岩崎弥太郎 (民友社刊行) 第一三六―一三九頁〔明治三二年三月〕
    風帆船会社
於是、他の資本家は三菱会社の専制を憎み、如何にもして之を挫かんとの志ありと雖も、其根底牢固として抜くべからず、到底独力の得て敵しがたきを知り敢て手を出す者なく、偶々之が抵抗を試むる者あれば鶏卵を岩に投ずるが如く忽ちにして破砕す
今卵と為りて砕けたる重なる者は、筑前の人佐野某なるもの明治十三年其汽船高雄丸を以て回漕業を開始せし時の如き、三菱社は直ちに和歌浦丸を以て附船と為し、高雄丸の航行先を逐ふて之に至らしめ、非常低下の運賃或は賃銭なくして競争せしかば、佐野は之が為め遂に廃業したり、其外阿波の商人井上三千太が持船鳳翔丸の如きも同じく三菱社の競争に遇ひあはれ打倒されんとするに方り其船沈没して止みぬ今附船と称するは、他の船舶が出帆するに先きを逐ひ、其荷物の有無に係らず之に附航し、暴りに運賃を引下げて以て其荷主を誘ひ、他の船舶をして其利を失はしむるもの也、而して三菱会社は無事の日常に其収入金より附船費として積金を為したりと云ふ
小なる者は先づ倒れ、大なる者は更に起らんとす、三菱会社の不信切運賃の高貴、船員の傲慢等は一般人の憤る所となり、之が反抗の始るを見るや、機乗ずべしとなし、明治十三年東京に於ては益田孝之が主唱となり、越中伏木の藤井能三、越後新潟の鍵富三作及び伊勢の諸戸清六、下里貞吾等の豪商之に応じて、風帆船会社なるものを東京に設立し、以て海運業を営まんとするや、三菱会社は早くも之を察知して直ちに競争の籌策を案じ、一刻も猶予せす社員用達を四方に派遣し、新聞紙をして百方風帆船会社を抗撃せしめ、特に越中伏木へは当時前田氏の家扶たりし寺田成器(現三菱社員)を遣はし、藤井能三を説きて風帆船会社を離れて別に越中風帆船会社を設立せしめ、また越後新潟へは小野義真・川田小一郎を遣はし、同地の商人に勧めて徒らに望なき海運業を営まんよりは、寧ろ新潟物産会社を起すに如かず、若し物産会社を起さば本社よりは資本として一ケ年低利を以て貸付くべしと、終に物産会社を起さしめ、慶応義塾の出身なる西脇悌二郎を選んで之が社長とならしめたるに、不思議にも大蔵省常平局の御用米買入を申附けられ、越後米操縦の権此より全く悌二郎の手裡に帰し、屡巨万石の米を三菱会社の船に積込み東京に廻送せしために、西脇の名は米市場裡に轟きしと云ふ
一方には人を各地に派して風帆船会社を毀沮せしむると共に、東京に於ては東京株式取引所が多く益田等風帆船会社発起人の機関たるの観
 - 第8巻 p.7 -ページ画像 
ありたるを以て、私かに其資本を利用して風帆船会社を助けんことを恐れ、則ち三菱会社一味同志の名を以て多く株式取引所の株券を買収せしめ、其多数を得たるを料り、俄かに株主臨時会議を催さしめ、党派的投票法を用ひて渋沢・益田等風帆船会社発起人に干係ある役員は悉く之を一掃し、更らに三菱会社一派の徒をして之に代はらしめたり、此の如くして風帆船会社は未だ日光を見ず、暗黒の裡に堕胎し畢りぬ、三菱会社の対外硬亦た猛烈なりと云ふ可し


明治史第五編交通発達史(「太陽」臨時増刊)第二一五頁〔明治三九年一一月〕(DK080001k-0005)
第8巻 p.7 ページ画像

明治史第五編交通発達史(「太陽」臨時増刊)第二一五頁〔明治三九年一一月〕
    五 三菱の全盛
○上略
此気運に乗じ、先づ同業を以て其一角の独占権を奪はむと試みたるは、三井派の益田孝(渋沢栄一は其肝煎たり)なりき、彼れは伏木の藤井純三《(藤井能三)》、新潟の鍵富三作、伊勢の諸戸清六等の豪商と謀りて、明治十三年東京風帆船会社なるものを設立したり、其資本金は三十万円に過ぎざりしも、其意気込は可なりに見るべく海軍大佐遠武秀行を請ふて其社長となし、既に其創立業務を了はりたるが、三菱はたとひ小会社と雖も、之れを軽んぜず、殊に東京の膝許に於て海上異分子の躪入を受るを善ばず、隠に手を尽してこれが成立を妨害したりしかば、新会社の創業意の如くならず、其進行甚だ遷延し、後ち共同運輸会社の計画あるに当りて、未開業の儘解散したれば、三菱の先取権は依然として一毫だも動く所なかりき

明治運輸史 第三編 第二五頁(DK080001k-0006)
第8巻 p.7 ページ画像

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回議録 第二類会社明治一三年七月―九月分(DK080001k-0007)
第8巻 p.7-10 ページ画像

回議録 第二類会社明治一三年七月―九月分 (東京府庁所蔵)
  知事 書記官 勧業課
渋沢喜作《*》外十八名ヨリ風帆船会社創立之義、組織ノ要旨ヲ掲載シ、別紙之通願出候ニ付、取調候処、創立証書・定款等ハ許可之上可差出ト
 - 第8巻 p.8 -ページ画像 
ノ義ニ有之候得共、設立之方法ハ概ネ別紙ニ要領ヲ掲載有之、右之主義ニ依リ設立相成候上ハ何等差支無之、且ツ発起人ニ於テモ身元相応之者共ニ而、既ニ資本金ノ半額ハ発起人ヨリ差入候筈ニ付、不都合之廉モ有之間敷存候間、左之通御指令相成可然哉、此段伺申候
  書面会社設立之義ハ、追テ一般ノ会社条例制定相成候迄ハ、人民ノ相対ニ任セ候条、此旨可相心得事
 *欄外記事 八月十一日判決済
 (別紙)
   風帆船会社創立願書
私共申合、此度東京府下ニ於テ風帆船会社創立仕候ニ付、別紙創立要旨ヲ以テ具申仕候間、早々御許可可被下候、尤モ会社創立証書及定款等ハ右御許可ノ上ヘ上申可仕候、此段奉願候也
               右発起人
  明治十三年八月十日          渋沢喜作(印)
                     牧口徳太郎
                      代印 木村正幹
                     三井武之助(印)
                     益田孝
                     大倉喜八郎(印)
                     藤井能三
                      代印 益田孝
                     鍵富三作
                      代印 益田孝
                     戸塚貞輔
                      代印 渋沢喜作(印)
                     木村正幹
                     川崎正蔵(印)
                     平野富二
                      代印 木村正幹
                     諸戸清六(印)
                     赤井善平(印)
                     加藤治良七
                      代 渋沢喜作(印)
                     高田信清
                      代 渋沢喜作(印)
                     下里貞吉
                      代 木村正幹
                     高橋七十郎
                     宮路助三郎
                     小林重吉
                     右三名代 益田孝
   東京府知事 松田道之殿

  (別紙)
   風帆船会社創立要旨
第一条 資本金ハ差向金三拾万円ト定メ、百円ヲ以テ一株トシ、株高集合ノ模様ニヨリテハ更ニ之ヲ増加スルコトアルヘシ
第二条 会社ノ責任ハ株高有限タルヘシ
 - 第8巻 p.9 -ページ画像 
第三条 資本金ノ集合方ハ創立ノ時ニ於テ株高ノ弐割ヲ出金セシメ他ノ八割ハ創立後十八ケ月間ノ見込ヲ以テ五回ニ割合出金セシムヘシ
第四条 会社ニ要スル船舶ハ弐千石ヨリ三千石積トス
第五条 右ノ船舶ハ必ス船体保険ヲ為スニ適シ得ヘキモノトシ、会社ノ都合ニ従テ之ヲ新造シ或ハ之ヲ買入ルヽモノトス
第六条 現在船舶所有ノ人ニテ其船ヲ以テ此会社ニ加入ヲ望ムモノアルトキハ、其船舶前条合格ノ者ニ限リ、協議ノ上相当ノ価額ヲ以テ之ヲ買入レ、其代金ヲ資本金ニ充テシムヘシ
  但シ、其船舶前条ニ合格セサル者ニテモ、所持人ノ望ニヨリテハ会社ノ附属船トシテ運用ヲ依頼スルトキハ、会社ハ相当ノ約束ニヨリテ之ヲ引受クルコトアルヘシ
第七条 会社ノ本店ハ東京ト定メ、差向支店ヲ大坂ニ置キ、其他ノ諸港ハ相当ノ代理店ヲ置クヘシ
第八条 会社ノ役員ハ重立タル株主中ヨリ総代四名ヲ撰任シ、其中ヨリ主任者一名ヲ立テ、会社ノ総務ヲ監理セシメ、外ニ支配人及社員ハ主任者及総代ノ評議ニヨリ相当ノ者ヲ撰任スヘシ
第九条 総代ヲ撰任スルノ方法ハ株主中ノ申合ヲ以テ衆望ノ帰スル人ヲ挙用スヘシ、而テ其在任ハ少クモ三ケ年間トスヘシ
第十条 株券ハ総代ノ承認ヲ受ルニアラザレハ売買スルヲ得ス
第十一条 現今発起人ニテ引受ル所ノ株高ハ左ノ通リタルヘシ
 株数     金額     住所                    姓名
 三百株    三万円    東京日本橋区本両替替町十三番地       三井武之助
 二百株    二万円    石川県下越中国伏木港            藤井能三
 百五拾株   壱万五千円  東京深川区深川万年町壱丁目五番地      渋沢喜作
 百五拾株   壱万五千円  東京府下荏原郡北品川宿百六十八番地     益田孝
 百株     壱万円    東京京橋区築地一丁目二十一番地       大倉喜八郎
 百株     壱万円    東京日本橋区箱崎町三丁目壱番地       赤井善平
 百株     壱万円    石川県下金沢区長町新建二十五番地      高田信清
 七拾株    七千円    東京深川区深川清住町十五番地        木村正幹
 五拾株    五千円    東京京橋区築地二丁目四十九番地       川崎正蔵
 五拾株    五千円    新潟県下新潟上大川前町三番地        鍵富三作
 五拾株    五千円    三重県下勢州桑名郡桑名船馬町        諸戸清六
 五拾株    五千円    右同所                   下里貞吉
 五拾株    五千円    開拓使管下北海道渡島国函館仲浜町      高橋七十郎
 三拾株    三千円    東京京橋区築地二丁目二十番地        平野富二
 三拾株    三千円    秋田県下羽後国秋田郡川反町三丁目七番地   瀬川安五郎
 三拾株    三千円    宮城県下陸前国牡鹿郡石ノ巻本町       戸塚貞輔
 三拾株    三千円    開拓使管下北海道後志国小樽郡小樽信番町   牧口徳太郎
 三拾株    三千円    三重県下勢州桑名片町            加藤次郎七
 三拾株    三千円    開拓使管下北海道渡島国函館東浜町七十八番地 宮路助三郎
 弐拾五株   弐千五百円  右同所会所町                小林重吉
                                     弐拾名
合計千六百弐拾五株
 右之通御座候也
 - 第8巻 p.10 -ページ画像 
      ○
    御届
今般蒙御許可候風帆船会社之義、当分之内東京日本橋区兜町四番地ニ於テ事務取扱候ニ付、此段御届申上候也
                    右発起人惣代
  明治十三年八月廿日          渋沢喜作(印)
                    同
                     益田孝(印)
    東京府知事 松田道之殿


廻議録 第二類諸会社明治一四年自一月至三月(DK080001k-0008)
第8巻 p.10 ページ画像

廻議録 第二類諸会社明治一四年自一月至三月 (東京府庁所蔵)
    御届
風帆船会社創立之儀、昨十三年八月中願済相成居候ニ付、今般該社定款取極、私義社長ニ相成、東京日本橋区小網町三丁目廿六番地ニ於テ開業仕候ニ付、則別紙定款相添、此段御届申上候也
                    風帆船会社長
  明治十四年一月廿四日         遠武秀行(印)
                    右家屋持主
                     赤井善平(印)
    東京府知事 松田道之殿
  前書届出ニ付奥印候也
             東京府日本橋区長 館興謙
   ○添付ノ別紙「定款」ハ渋沢子爵家所蔵ノ文書ニヨツテ創立要旨トトモニ次ニ掲グ。


風帆船会社創立要旨並定款(DK080001k-0009)
第8巻 p.10-15 ページ画像

風帆船会社創立要旨並定款        (渋沢子爵家所蔵)
  風帆船会社創立要旨
    第一条
一資本金ハ差向三十万円ト定メ、百円ヲ以テ壱株トシ、株高集合ノ模様ニヨリテハ更ニ之ヲ増加スルコトアルヘシ
    第二条
一会社ノ責任ハ株高有限タルヘシ
    第三条
一資本金ノ集合方ハ創立ノ時ニ於テ株高ノ弐割ヲ出金セシメ、他ノ八割ハ創立後十八ケ月間ノ見込ヲ以テ、五回ニ割合出金セシムヘシ
    第四条
一会社ニ要スル船舶ハ二千石ヨリ三千石積トス
    第五条
一右ノ船舶ハ必ス船体保険ヲ為スニ適シ得ヘキモノトシ、会社ノ都合ニ従テ之ヲ新造シ或ハ之ヲ買入ルヽモノトス
    第六条
一現在船舶所有ノ人ニテ其船ヲ以テ此会社ニ加入ヲ望モノアルトキハ、其船舶前条合格ノ者ニ限リ協議ノ上相当ノ価格ヲ以テ之ヲ買入レ、其代金ヲ資本金ニ充テシム可シ
 - 第8巻 p.11 -ページ画像 
  但シ、其船舶前条ニ合格セサル者ニテモ、所持人ノ望ミニヨリテハ会社ノ附属船トシテ運用ヲ依頼スルトキハ、会社ハ相当ノ約束ニヨリテ之ヲ引受クルコトアルヘシ
    第七条
一会社ノ本店ハ東京ト定メ、差向キ支店ヲ大坂ニ置キ、其他ノ諸港ハ相当ノ代理店ヲ置クヘシ
    第八条
一会社ノ役員ハ重立タル株主中ヨリ総代四名ヲ撰任シ、其中ヨリ主任者一名ヲ立会社ノ総務ヲ監理セシメ外ニ支配人及社員ハ主任者及総代ノ評議ニヨリ相当ノ者ヲ撰任スヘシ
    第九条
一総代ヲ撰任スルノ方法ハ株主中ノ申合ヲ以テ衆望ノ帰スル人ヲ挙用スヘシ而シテ其在任ハ少ナクモ三ケ年間トスヘシ
    第十条
一株券ハ総代ノ承認ヲ受クルニアラサレハ売買スルヲ得ス
    第十一条
一発起人姓名左ノ通リ
                東京    三井武之助
                越中伏木  藤井能三
                東京    渋沢喜作
                東京    益田孝
                東京    大倉喜八郎
                東京    赤井善平
                石川県金沢 高田信清
                東京    木村正幹
                東京    川崎正蔵
                新潟    鍵富三作
                桑名    諸戸清六
                桑名    下里貞吉
                函館    高橋七十郎
                東京    平野富二
                秋田    瀬川安五郎
                石ノ巻   戸塚貞輔
                小樽    牧口徳太郎
                桑名    加藤次郎七
                函館    宮路助三郎
                函館    小林重吉
右之通リニ御座候也
  定款
第一条 当会社ハ風帆船会社ト称スヘシ
第二条 要旨ノ各条及此以下ノ条款ハ総テ会社ノ規則ニシテ、後条ニ掲クル手続ヲ履ムニ非サレハ、之ヲ廃停シ或ハ変更増訂スルコトヲ得ス
第三条 会社ノ資本金ハ三拾万円トシテ、之ヲ三千株ニ分割シ、一株
 - 第8巻 p.12 -ページ画像 
ヲ百円ト定ムヘシ
第四条 会社ノ責任ハ株高限リナルヘシ
第五条 会社ハ二十ケ年ヲ以テ一期トス、然ト雖モ猶満期ニ至リ株主ノ協議ヲ以テ継続スルコトヲ得ヘシ
第六条 本社ハ東京ニ設置シ其余内地及海外支那・朝鮮等ノ要港ヘハ当分ノ内代理店ヲ設ケ、船舶及荷物取扱ヲ為サシム、而シテ支店ヲ要スルトキハ社長・取締役ニ於テ之ヲ決行シテ株主中ヘ報告スヘシ
第七条 当会社設立ノ目的ハ、西洋形風帆船ヲ以テ内外各港ヨリ貨主ノ依頼ヲ受ケ、諸物貨ノ運搬ヲ為スヲ営業トナスヘシ
第八条 会社ニ於テ自ラ売買主トナリ諸物価《(貨)》ノ売買ヲ為スハ勿論、何様ノ場合事故アリトモ買積等ハ一切為スヘカラス
第九条 会社ノ費用ハ勉メテ省略シ、質素ヲ旨トシ、専ラ貨主ノ便利ヲ計リ、運搬・荷物取扱方ノ粗漏ナキニ注意シ、漸次会社ノ盛大ニ達スルヲ目的トスヘシ
第十条 会社ハ時宜ニ応シ後条ニ記載スル手続ヲ以テ総会議ヲ開キ其議決ヲ経ルニ於テハ、有限責任ノ一条ヲ除クノ外、創立要旨及此定款中ニ掲ル処ノ諸条ヲ変更シ或ハ増訂スルヲ得ヘシ
第十一条 臨時総会議ハ其会日ヨリ少クモ三十日前ニ議案ヲ附シ招集ノ報告ヲ為スヘシ、而シテ其会議ニ於テ臨席シタル議員ノ同意多数ヲ以テ確定スルモノトス
  株式ノ事
第十二条 凡ソ会社ノ株主タラント欲スル者ハ其申込書ニ記名調印シ、之ヲ会社ノ本店ニ差出スヘシ、然ル時ハ創立要旨及定款ニ従テ株主タルコトヲ承諾シタルモノト認ムヘシ
第十三条 一会社ノ名ヲ以テ株式ヲ所有スルトキハ該社員中重立タル内ヨリ名前人ヲ定メ置クヘシ
第十四条 会社ノ株主タル者ハ其引受タル株式一個ニ付株券一通ヲ受領スルヲ得ヘシ
第十五条

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  株式雛形   有限風帆船会社株券  風帆船会社ノ定款ヲ確守シ明治十 年 月 日  ヨリ我風帆船会社株式ノ内百円即チ一株ノ株主  タルコト相違ナキ証拠トシテ此株式券状ニ当社  ノ印章ヲ押捺シ之ヲ付与スルモノ也  此株券譲渡ハ要旨第十条ニ準拠スヘシ   明治十 年 月 日  風帆船会社                 社長                   何之誰印              同                 支配人                   何之誰印            殿 



 - 第8巻 p.13 -ページ画像 
第十六条 右ノ株券磨耗スルカ或ハ紛失スルノ故ヲ以テ書換ヲ乞フトキハ、其事実ヲ調査シ、果シテ証明ナル事由アルニ於テハ、相当ノ手数料ヲ受取更ニ株券ヲ渡スヘシ
第十七条 凡ソ株式ノ所有主ハ本社社長及取締役ノ承諾ヲ受ルニ於テハ其株式ヲ譲渡スコトヲ得ヘシ
第十八条 会社ハ株帳ヲ製シ、株主ノ氏名・属籍・宿所・株式ノ員数及ヒ譲渡ノ年月ヲ登録シ、営業時間中望ミニ応シテ之ヲ株主ノ撿閲ニ供スヘシ
第十九条 株主其氏名ヲ変スルカ、或ハ属籍・宿所等ヲ転スルトキハ書面ヲ以テ其次第ヲ会社ニ届出ヘシ
第二十条 会社ハ臨時総会議ヲ開キ其決議ヲ得ルニ於テハ、新株ヲ発行シ資本高ヲ増加スルヲ得ヘシ、但新株ヲ在来ノ株主ニ分配スルカ或ハ之ヲ他エ募集スルカ若シクハ売渡スカノ方法ハ総テ其臨時総会議ニ於テ決定スヘシ
  船舶ノ事
第廿一条 船舶ハ西洋形帆船ニシテ大約二百噸ヨリ千噸積ノモノヲ備フヘシ
第廿二条 船舶堅牢ニシテ保険ヲ附スニ故障ナキモノトスヘシ
第廿三条 船舶ハ内地ニ於テ新製シ亦他ヨリ購求シテ、常ニ能ク修繕ヲ加ヘ、諸器械等必具備スヘキモノトス
 会社役員ノ事
第廿四条 会社取締役ハ三人ヨリ少ナカラス五人ヨリ多カラサルヘシ而シテ其内ヨリ社長一人ヲ推撰ス、但三十株以上所有スル株主ニ非サレハ取締役タルコトヲ得ス
第廿五条 社長・取締役ハ少クモ三年間ノ在任トシ、満期ニ至リ解任スルトモ其在来ノ内ヨリ二人ヲ残スヘシ、但撰挙ノ節在任ノ年限ヲ定メ置クヘシ
第廿六条 社長・取締役ハ在任中タリト雖モ衆議ニヨリテハ解任スルヲ得、但特別約定アルモノハ其約定ニ従フヘシ
第廿七条 社長・取締役ノ撰挙ニ当ル者ハ、当社ノ規則ヲ守リ正実ニ職務ヲ尽シ営業ニ注意スヘキ旨ヲ明記シタル誓詞文ヲ、会社ニ蔵置スヘシ
第廿八条 社長・取締役ハ其所有株式三拾株ヲ会社ニ預リ、在任中ハ売譲ヲ禁スヘシ
第廿九条 社長・取締役ノ月給及ヒ賞与等ハ株主協議ヲ以テ之ヲ定ムヘシ、其他役員・海員ノ月給及ヒ賞与ハ社長・取締役ニ於テ定ムヘシ
第三十条 社長ハ当会社ノ事務ヲ総轄シ、他ノ役員ヲ指揮シ一切ノ責ニ任ス
第三十一条 社長ハ新ニ事ヲ起シ或ハ既成ノ規程ヲ改正シ又ハ之ヲ廃起スル等ノ事ノ如キ、取締役ノ協議ニ由ラサレハ之ヲ専決スヘカラス
第三十二条 社長ハ支配人以下ノ役員及海員ヲ撰任シ、職務ヲ分課シ且給料並旅費ヲ定メ、進退黜陟ヲ司ル事
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第三十三条 海員ハ不得止ノ外必内国人ニシテ免状ヲ所持シ専ラ実業ニ熟練ナル者ヲ撰抜雇役スヘシ
第三十四条 船舶ヲ購求シ或ハ新造シ若クハ都合アリテ売却スルハ社長・取締役ニ専任スヘシ、但本条ノ事実ニ依リ或ハ破船等ノ為メ船舶ヲ増減セシトキハ必株主ニ報告スヘシ
第三十五条 社印ハ社長・取締役之ヲ監守シ、官衙上申書約定書ノ類ハ社印及社長取締役ノ実印ヲ用ヒ、金銭受領証書類ハ会計社印ヲ用ユヘシ
第三十六条 社員ニ於テ社名亦ハ社ノ役名ヲ以テ自他ノ為メ本務外ノ証書ヲ作リ、又ハ或人ノ為メ証書ニ調印シ、及ヒ保証人トナルヘカラス
第三十七条 本社所有金ヲ以テ本業外ノ商業ヲナシ、或ハ社員自他ノ為メ貸借スルハ厳禁トス
  計算ノ事
第三十八条 社長・取締役ハ総テ明細正実ナル計算簿ヲ製シ、以テ之ヲ会社ニ備フヘシ
第三十九条 総テ計算ノ諸帳簿ハ復記法ニ従テ之ヲ登録シ、会社ノ本店ニ備ヘ置キ、而シテ此帳簿ハ営業時間中望ミニ応シテ之ヲ株主ノ撿閲ニ供スヘシ
第四十条 本社損益計算ハ一ケ年一度トシ、毎年十二月ヲ以テ決算ヲ為スヘシ
第四十一条 各船毎航海概算ヲ立、収入運賃ノ内ヲ以テ船長以下水夫給料並積荷諸掛及航海諸費等ヲ引去リ、損益ヲ明記シ置ヘシ
第四十二条 社長ハ毎季総集会ニ於テ資産明細表及損益計算表ヲ報告シ、之ヲ印刷シテ株主ニ頒布スヘシ
第四十三条 運賃純益ノ内ヨリ資本金ノ十分ノ一ニ当ル金額ヲ引去リ船体保険ノ積金トナシ、而シテ銀行ニ預ケ利子ヲ付シテ増殖ヲ計ルカ又ハ新ニ増船ヲナスカハ、例式総会議ニ於テ株主ノ衆議ヲ以テ決スヘシ
第四十四条 会社一切ノ諸費及船体修繕費〔原価百分ノ三以上ニ当ル大修繕ハ積金ヨリ弁スルモノトス〕ヲ引去リ、残金ヲ以テ純益トス而シテ此純益金ヨリ前条ノ積金及役員賞与金ヲ引去リ、株高ニ割合配当スヘシ、但配当金額株金ノ一割五分以上ノ割合ニ至ルトキハ株主衆議ノ上適宜ノ積金ヲナシ、之ヲ第二ノ積金ト称シ、各船減価ノ補塡トナスヘシ
  総会議ノ事
第四十五条 例式総会議ハ社長・取締役ノ確定シタル日時場所ニ於テ毎年一月之ヲ開クヘシ
第四十六条 当会社ハ社長・取締役ノ見込ニ従ヒ、又ハ人員十名ニ下ラス或ハ其所持ノ株数五分ノ一ニ下ラサル株主ノ求メニ応シ、何時ニテモ臨時総会議ノ招集ヲナスヲ得ヘシ
第四十七条 株主ヨリ臨時総会議ヲ要求スルトキハ、其目的ヲ記シタル要求書ヲ会社ノ本店ニ差出スヘシ
第四十八条 社長・取締役ハ前条ノ要求書ヲ受取ルトキハ直チニ臨時
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総会議ノ招集ニ着手スヘシ、若シ社長・取締役ニ於テ其要求書ヲ受取タル日ヨリ十四日内ニ右招集ノ手続ニ着手セサルトキハ、右要求人等ハ勝手ニ招集ヲナスノ権アルヘシ
第四十九条 総会議ニ於テ事ヲ議スルニ当テハ、株数総額十分ノ五以上出席スルニ非サレハ何事ヲモ決定スルコトヲ得サルヘシ
第五十条 株主ノ要求ヲ以テ会議ノ招集ヲナシ、集会ノ刻限ヨリ、一時間ヲ過キテ定員〔即チ総株主十分ノ五〕臨席セサルトキハ、会議ヲ解散シ其議案ヲ廃案ト為スヘシ、然レトモ社長・取締役ノ見込ヲ以テ招集シタル場合ニ於テハ其会議ヲ延期シ、其日ヨリ一週間内ニ同場所同刻限ニ於テ再ヒ之ヲ開クヘシ、此会議ニ於テ定員臨席セサルトモ出席ノ株主丈ケニテ決議ヲ取ルコトヲ得ヘシ
第五十一条 凡ソ例式総会議ニ於テハ諸計算表ヲ報告シ、利益金分配ノ事其他諸般ノ議案ヲ議決シ、其余ノ議事ハ専ラ臨時総会議ヲ以テ之ヲ議決スヘシ
第五十二条 株主ハ社中ノ総会議ニ於テ発言投票ヲ為スニ当リ、其所有株数十株迄一株ニ付一説、十一株以上百株迄五株ニ付一説ヲ増加シ、百一株以上十株ニ付一説ヲ増加シ発言スルノ権アルヘシ
第五十三条 総会ノ決議ハ衆議ヲ採ル故ニ、病気其他已ムヲ得サル事故アリテ欠席スル人々ハ必委任状ヲ授ケタル代人ヲ出シ、而シテ此代人ハ社中ノ人ヲ用ユルヲ要ス、若シ代人ヲ出サス決議ノ後ニ至リ更ニ異論ヲ発スルモ一切採取セサルヘシ
第五十四条 株主遠隔ノ地方ニ住スルカ亦ハ旅行ヲ為シ議事招集ノ期ニ会シ難キ懸念アルトキハ、右二条ノ場合ニ於テ差出スヘキ代人ヲ予シメ之ヲ本社ニ届置ヘシ
第五十五条 総会ノ議長ハ社長之ニ当ルヲ常例ト為スト雖トモ、取締役又ハ株主ノ請求ニ依テハ別ニ之ヲ撰挙スルコトアルヘシ
右ノ条々発起人ノ衆議ヲ以テ相定タル証拠トシテ、一同左ニ捺印致候也
  明治十三年十一月
   ○右定款ハ第六条・第十条及ビ第二十条ノ各条文ニ「ソノ都度官庁ノ許可ヲ経ヘシ」ト追補サレ、十四年二月二日許可ヲ得タリ。
   ○上掲創立願書連署ノ発起人ハ渋沢喜作外十八名ニシテ創立要旨ニ記載サレタル発起人二十名中ノ瀬川安五郎ヲ欠ク、理由不明。
   ○社名東京風帆船会社ハ初メ東京ト冠セズ、十五年頃ヨリ東京ト冠セルガ如シ。蓋シ他地方ノ風帆船会社ト混同ヲ避クルタメナラン。


東京経済雑誌 第四〇号〔明治一三年一〇月五日〕 【風帆船会社は愈々三十万…】(DK080001k-0010)
第8巻 p.15-16 ページ画像

東京経済雑誌 第四〇号〔明治一三年一〇月五日〕
○風帆船会社は愈々三十万円の資本を以て設立し、北海道の航海に従事する由なり、最初には先つ十艘程の風帆船を造り、危険の平均を取りて営業する積なりと云ふ、従来北海道の航海は三菱滊船会社独占の姿なりしかは、箱館の豪商は其荷物運搬の不取扱なるを厭ひ、既に自ら一社を設立せんと奮発し居たりし処に、東京より三井物産会社の益田孝君彼地に行いて之を募られたりしかは、一面識なき人なるに船積問屋は大約之に応したりと云ふ、宮地助三郎君《(宮路助三郎)》は兼てより彼の地にありて手広く取引居られたりしが、断然其業を止めて東京に来たり、風
 - 第8巻 p.16 -ページ画像 
帆船会社の設立に従事せり、君は我社の親友なれは親しく其実況を語られたり、蓋し我北海道の物産は昆布・肥料等の類にして、蒸気船にて廻送すへき程のものにあらされは、風帆船会社の設立は実に我国の大益と云ふへし、宮地君は誇かに、吾にして箱館に在る、北海道の物産は悉く風帆船会社に積ましむべしと語られたり


中外物価新報 第三一一号〔明治一三年七月三日〕 【東京・大坂・桑名・新潟・伏木…】(DK080001k-0011)
第8巻 p.16 ページ画像

中外物価新報 第三一一号〔明治一三年七月三日〕
○東京・大坂・桑名・新潟・伏木・石の巻等の有名の人々数名発起にて、先づ差向き資本金三十万円を募集し、風帆船会社を設立せんと現に其筋へ上願せし由、聞く所に拠れば本店を東京に置き、大坂に支店を設け、其他枢要の各港には代理店を設け、積石二千石以上にして貨物保険に堪ふる堅牢の船を造《(新脱カ)》し或は買入れ、専ら商品沿海の運輸を拡張せんとの主趣にて、且其資本金も漸次増加すべき見込なりと、既に各地の有力者は追々株主加入の申込ある由なれば、遠からずして開業の順序にも運ぶべく、実に近来の一大美挙にして、我が海運の進歩も是よりして伸張し、彼の利己主義なる外国人をして沿海貿易の権を我に収むるの一項に辞柄を容るゝ所なきに至らしむるは期して待つべく吾々商人の最も賀すべき盛挙と云ふべし


中外物価新報 第三二九号〔明治一三年九月四日〕 【或る新聞紙に風帆船会社は…】(DK080001k-0012)
第8巻 p.16 ページ画像

中外物価新報 第三二九号〔明治一三年九月四日〕
○或る新聞紙に風帆船会社は十六万円以上の株を募り得て云々此程允許を得たれば来十四年一月より開業なす由記載しあれと、吾々の聞きし所は既に前号にも報せし如く、資本は三十万円と定め、其内十七万余円を発起人にて引受け、余を有志者に分つものとしたるにて、又願の允許を得たるも去月中旬なり、然れど其発起人も各地に懸隔し居るゆへ不日集会の上肝煎撰挙を為し、速かに業務に取掛る手順なりと


中外物価新報 第三五四号〔明治一三年一二月四日〕 【嘗て函館港へ向け出帆せし…】(DK080001k-0013)
第8巻 p.16 ページ画像

中外物価新報 第三五四号〔明治一三年一二月四日〕
○嘗て函館港へ向け出帆せし風帆船会社の神倉丸は、鮭・鱒・昆布等を積み、一昨日無事に帰航したり、今同船の該地に赴きし景況を聞くに、是迄風帆船にて保険を附し得る船は少きを以て、随て該地諸人の信用も厚く、積荷頗る多くありしゆゑ其過半は積残し来りたりと云ふ


中外物価新報 第三八三号〔明治一四年三月一九日〕 【風帆船会社の業務は日を逐…】(DK080001k-0014)
第8巻 p.16 ページ画像

中外物価新報 第三八三号〔明治一四年三月一九日〕
○風帆船会社の業務は日を逐て昌盛に赴むき、漸次船数も増加せるは誠に慶すべきことにて、既に本日〆切の同福丸は小笠原島へ航し爾後該島行きの風帆船積荷は同社にて取扱を為す由、又或る新聞にも見へしが同社の風帆船謙信丸は新燧社の摺附木其他雑貨数多を積、濠洲シドニー府へ出帆する積りの由、尤も昨今尚ほ少しく協議中にて未た確定はせさる様子なれと、弥出発せし上は帰り荷は該地の都合により彼の有名の石炭を積み、香港へ向け帰航する積りなりと聞けり、若し此事果して信ならば、我が国の風帆船が遠く海外(支那は格別)の運輸を負担するの嚆矢とも申すべし
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青淵先生伝初稿 第二五章・第一三―一六頁(DK080001k-0015)
第8巻 p.17 ページ画像

青淵先生伝初稿 第二五章・第一三―一六頁
    先生と岩崎弥太郎との軋轢
先生は三菱会社がかく暴慢なる態度を持続するに於ては、患害の及ぶ所測られず、原来同会社が箇人主義を取り、岩崎が専制の下に気儘に経営する時は、国利民福を沮害するに至るべしと思惟したり。先生は持論として商工業は合本組織によりて広く資本を公募し、之を集成して事業を為すことの公益なるを確信し、常に此主義を以て商工業者を指導し、自らも亦之によりて幾多の事業を創始経営したれば、三菱の箇人組織とは主義に於ても一致すること能はざりしなり。此に於て先生と岩崎と意見毎に相協はず、明治十三年八月、岩崎は一日先生を向島の酒楼柏屋に招きて饗応し、紅囲粉陣、頗る綺羅を張れり。宴酣なるに及び、岩崎徐ろに箇人経営の利益を述べ、所謂合本組織なるものが、事業を発展せしむるに足らざるを説きて、先生を同意せしめんとす。先生屈せず、資本を合同して事を為すは、国利民福を進むる所以なるを論じ、幾多の例証を挙げて弁難せしに、岩崎いかでか聴従すべき、口角沫を飛ばせて論駁し、時を移せども互に屈せず、双方共に激して宴席為に白けたれば、先生席を蹴つて去れり。続雨夜譚四ノ一二四かゝる事どもありて、先生と岩崎との交誼日に疎く、感情さへ加はりて、益益相反目せり。其結果にや此頃第一国立銀行破産に瀕し、渋沢之を患ひて自殺を企てたりなどいふ流言頻に行はれたり。近時評論二八九号。(十三年九月四日発行)同二九一号。(同年九月十八日発行又事実に於ても、岩崎は華族の組合が京浜鉄道払下の事業を中止し、其資金を第一国立銀行に定期預となせるを知り、其人人を説きて一時に引出さしめ、以て先生を苦しめんとせるが如き事あり。続雨夜譚四ノ四二。同六ノ一二三。同一二七大隈重信が先生の紙幣整理案に非常なる悪感を抱きたるも、第九章参照坊間には岩崎の讒誣に由れりとさへ伝へたりき。続雨夜譚四ノ一二三。同一二九


雨夜譚会談話筆記 上・第八四―八六頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕(DK080001k-0016)
第8巻 p.17-18 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上・第八四―八六頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
先生「左様、私が大蔵省をよした○明治六年五月ので銀行○第一国立銀行が早く出来たのも事実であらう。三井の三野村利左衛門と云ふ人は此の世の中は新知識が必要であるとして、自分の後任に私をしようとし、三井の紋服を呉れたりしたが、私は三井の相談相手にはなるが、番頭にはならぬ。然し三井の為めには尽してやらうと思つた。これが私と三井を親しくした原因である。三菱の方は岩崎弥太郎氏が、私の主張する会社組織は駄目だぞと云ひ、自分と二人でやれば、日本の実業の事は何事でもやれると共同を申込んで来た。或る時岩崎氏からお目にかゝり度い、舟遊びの用意がしてあるから、と云つて来た。私は増田屋へ行つて居り、早速行かずに居ると度々使を寄すので、岩崎の居る柏屋へ行くと、芸者を十四五人も呼んで居る。二人で舟を出し網打などした処、岩崎氏は「実は少し話し度いことがあるのだが、これからの実業はどうしたらよいだらうか」と云ふので私は「当然合本法でやらねばならぬ、今のやうではいけない」と云つた。それに対し岩崎は「合本法は成立せぬ。も少し専制主義で個
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人でやる必要がある」と唱へ、大体論として「合本法がよい」「いや合本法は悪い」と論じ合ひ、はては、結末がつかぬので、私は芸者を伴れて引上げた」
敬「それでは、岩崎弥太郎さんとは大激論をやつて険悪になつたと云ふ程ではないのですね」
先生「険悪になつたのではない。双方考へが異ふのだ。各々長ずる処でやらうといふ程度であつた。向ふは私を説得する積であつたらしいのであるが、説得出来なかつたから、ひどいと云つて怒つて居たとか云ふことであつた」
   ○栄一ト岩崎トノ主義主張ガ相異ナレルニヨリ事業上相反目スルニ到ルベシト雖モ、風帆船会社設立ヲ妨碍セントスル意ヨリ出デテカ当時巷間両者間ニ種々ノ噂ヲ生ゼリ。前掲中外物価新報ハ同社ニ好意的ナルモ次掲団々珍聞・近事評論・近事奇談内幕話等暗々裡或ハ露骨ニ同社ノ設立ニ絡リテ栄一・弥太郎ノ確執及ビ誹謗ヲ報ゼリ。参考トシテ次ニ掲グ。


団々珍聞 第一七三号〔明治一三年八月一四日〕 渋紙大穴の繕ひ(DK080001k-0017)
第8巻 p.18 ページ画像

団々珍聞 第一七三号〔明治一三年八月一四日〕
    ○渋紙大穴の繕ひ
「八木《はちぼく》の相場で損をした五十万円の金の重みで突破つた渋紙の穴を、此度新に婦迂繁会社《ふうはん》を取立《とりたて》、その株券の紙で埋《うめ》やうと思ふのだが、前に明《あけ》たのが大穴だから、内の機関《からくり》が見えすくかして、子供の鬼ごツこぢやアないが、株券を見せびらかし、向ふの伯母さん一寸おいでと招いても、乗《のり》が怖《こは》くて往《いか》れませんと抜《ぬか》しアがるからア、
「大坂でも神戸でも請風《うけかぜ》が無いなら、函館へ廻つて見たが矢張往《いか》ぬ、して見ると婦迂繁会社は下手な投書でシ《さんずゐ》。イヤ独身物の股の様に早く柱を押立《おつたて》たいぞ、
  ○挿絵略ス。


近事評論 第二八九号〔明治一三年九月八日〕 【在野有名ノ紳士渋沢・岩崎・…】(DK080001k-0018)
第8巻 p.18-19 ページ画像

近事評論 第二八九号〔明治一三年九月八日〕
  ○在野有名ノ紳士渋沢・岩崎・福沢等諸氏ノ葛藤ハ孰レカ其全局ノ勝利ヲ制スヘキ乎
○上略三井銀行ハ年々物品ヲ諸方ニ運送スル頗ル多キヲ以テ、三菱会社ニ仕払フベキ金員ハ常ニ絶ヘズ、曩ニ已ニ三十余万円ノ巨額ニ上リタリ、於是乎三井銀行ハ懇々船賃低減ノ事ヲ三菱会社ニ申入レタルニ、社長岩崎弥太郎氏、断然之ヲ拒絶ス、是ヨリ三井ト三菱トハ常ニ不和ノ勢ヲ為シタルガ、恰モ第一国立銀行頭取渋沢栄一氏ハ、米相場ニ洋銀売買ニ百事蹉跌シ、七十有余万円ノ金額ヲ損失シ、落胆狼狽ノ折柄三井銀行ト謀リ、福地源一郎・益田孝等諸氏ヲ顧問トシテ、大ニ風帆船会社ヲ起シ、一ニハ三菱跋扈ノ勢ヲ折キ、二ニハ其事業ヲ起スヲ名トシテ、巨万ノ金額ヲ四方ニ募リ、自家損失ノ塡草ニモ為サンコトヲ企テタリ。然ルニ三菱会社ニテハ早クモ此事ヲ臭ギ出シ、其役員朝吹英次氏《(マヽ)》ヲ以テ福沢諭吉氏ニ説キ、専ラ二氏ヲ顧問トナシテ、或ハ政府ノ助勢ヲ乞ヒ、或ハ各府県ノ有力者ニ通ジ、務メテ渋沢・福地・益田等ノ名望ヲ破リ、其事業ヲ妨ゲテ、勝ヲ争論ノ全局ニ制セント計リタレバ、左ナキダニ近来名声地ニ墜チタル渋沢以下、争デカ其目的ヲ十分ニ達スルヲ得ン、到ル処ニ同志ノ醵金ヲ得ル能ハズ、初ハ五十万円
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ノ資金ヲ募ルベキ胸算ナリシモ、減ジテ三十万円ト為シ猶成ラズ、遂ニ十八万円ノ資本ニ引下グルニ至レリ。五六日前ノ各社新聞紙ニ曰ク、渋沢氏等ノ企テタル風帆船会社ハ、十八万円ノ資本ニテ、愈々政府ノ許可ヲ得、近々其事業ニ著手スベシト、蓋シ其結果ナルベシ。斯ク渋沢氏等ハ期スル所常ニ支吾シテ十分ナラザレバ、多年交接スル某参議ノ尻推シヲ受ケタルカ、或ハ為メニスル所アルカ、明カラ様ニ政府ノ内情ヲ訐キ、堂々紙幣下落ノ原因ヲ論ジタル建白文ヲ起草シ、之ヲ政府ニ呈スルノ前ニ、先ヅ銀行者総体ノ賛成同意ヲ得ント欲シ、東京各行ノ頭取ニ示シ、次ギニ第十五華族銀行ニ廻送シタルニ、豈ニ図ラン第十五銀行ノ役員某ハ、私カニ其書ヲ持シテ会計部専任参議ノ邸ニ至リ、其閲覧ニ供シタレバ、密策忽チ暴白シテ、又タ奈何トモス可ラズ、第十五銀行ハ断然同意セザル旨ニテ其書ヲ却附シタリ。客月下旬ノ各社新聞ニ曰ク、東京・横浜ノ間ニ紳士社会ノ催シタル新雨会ハ其中ニ利害ヲ与ニスルノ約ヲ破リ、秘密事件ヲ漏シタル者アル由ニテ、以来其会ヲ廃止スルコトニ決セリト、蓋シ事実ニ前件ノ云々ニ因ルト云フ。於是乎会計部専任ノ某参議ハ大ニ立腹セラレ、最早渋沢・福地等ハ庇陰スベキ謂ハレナシトテ、第一国立銀行ヘ政府ヨリ貸下ゲノ金員等ヲモ、返償ヲ命ゼラルベキ勢アリ、東京日日新聞社ハ御用ノ二字ヲモ剥奪サルベキ姿ナレバ、渋沢・福地・二氏ハ愈々狼狽シ、斯上ハ断然念ヲ政府ニ絶ツベシト決心シタルカ、福地氏ハ其起草ノ建白案ヲ添削修正シテ、公然之ヲ東京日日新聞社説欄内ニ登載シタリ、数日前数号ヲ累ネタル夫ノ紙幣論一篇是ナリト云フ、事已ニ此ニ至リタレバ、三菱会社ハ殆ンド其勢ヲ得、猶民間ノ有力者ヲシテ、渋沢氏説ニ党セシメザランコトヲ計リ、頃者郵便報知新聞・東京横浜毎日新聞両社へ、一万五千円ツヽノ資本ヲ貸付スベキ趣ヲ申込ミタルノ風等アリ。又タ渋沢・福地二氏以下ノ党ハ已ニ政府ノ眷愛ヲ失ヒ、又民間ニ信用セラレズ、今ヤ孤立援ケナク、進退惟レ谷マルニ至リタレトモ猶ホ縁故アル某参議ノ全ク棄テザルアリ、且ツ此事已ニ上流人士ノ耳ニ入リタレトモ、未ダ広ク天下ニ流布シタルニモ非レバ、飽迄モ今ヨリ民権論者ヲ気取リテ、再ビ人望ヲ収メ、大ニ其対敵者ノ事業ヲ圧倒スベキ志ヲ決シタリト云フ。○下略


近事評論 第二九一号〔明治一三年九月一八日〕 渋沢・福地、二君ノ名声地ニ墜チタルヲ憐ム(DK080001k-0019)
第8巻 p.19-20 ページ画像

近事評論 第二九一号〔明治一三年九月一八日〕
    渋沢・福地、二君ノ名声地ニ墜チタルヲ憐ム
平氏ノ盛時、清盛ノ暴威ヲ六波羅ニ振フヤ、皆ナ人之ヲ憎ミ、其一旦威権衰ヘ、壇浦ノ一敗、一門海底ニ沈ミ魚腹ニ葬ラルヽニ至ルヤ、人又タ之ヲ憐ム。項羽ノ一タビ起リテ、無情降ヲ乞フノ秦軍ヲ坑ニシ、義帝ヲ殺シテ覇ヲ彭城ニ称スルヤ、人尽ク其酷虐ヲ悪ムト雖モ、楚歌四面騅復タ逝カズ、虞兮一関別ヲ惜ミ、烏江自刎ノ時ニ至レバ、人又タ之ヲ恤マザルハナシ。蓋シ強ヲ折キ弱ヲ助ケントスルハ人ノ常情ナリ。吾人亦豈ニ斯心ナキヲ得ンヤ、是レ吾人ガ平素如何ニ其議論ヲ異ニシ、如何ニ其主義ヲ反対ニスルモ、其人已ニ死スル乎、或ハ衰ヘテ又タ抗論ノ力ナキニ至レバ、甚ダ其人ヲ苛責スルヲ好マザル所以ナリ。
 - 第8巻 p.20 -ページ画像 
渋沢栄一君ノ数万金ヲ政府ヨリ借入レ、之レヲ自己ノ資産ト合セテ、投機商売ニ、工業ニ、製造ニ、其手ヲ出サヾルナク、其利ヲ貪ラザルナク、得意ニ得意ヲ極メ、福地源一郎君ノ其驥尾ニ附シ、御用ノ二字ヲ社門ニ冠シテ、螺ノ大ナルヲ厭ハズ、威張リニ威張リタル前日ニ於テハ兎モ角モ、今日ハ二君与ニ政府ノ恩寵ヲ失ヒ、其「ポツケツト」ハ秋風ト共ニ寒カラントシ、百事皆ナ支吾シテ、周章狼狽、其計ノ出ヅル所ナキ時ニ方リ、其一事一行ニ向テ酷烈ナル論議ヲ下シ、其人ヲ苦メントスルハ、吾人ノ衷情太ダ忍ビザル者ナキ能ハズ。故ニ渋沢君等ガ風帆船会社設立ノ挙アラントスルヲ聞ケバ、其事ノ如何ナル内情アリ、秘密謀計アルニ拘ハラズ、直ニ其挙ヲ賛成シ、其事業ノ成就センコトヲ願フテ、深ク其心術ヲ訐クヲ為サズ、福地君ノ妙ナ失策アルモ、無情直チニ之ヲ公ケニシテ、其人ノ栄誉ヲ毀傷スルヲ好マズ、飽迄モ其人ノ私心ヲ去リ公理ニ就キ、我自由社会ノ先導者ヲ以テ任スルアランコトヲ冀望スル所ナリキ。何ゾ図ラン世ノ論者中、只ダ其失敗ノ有ルコトヲ有リト云フニ止マラズ、併セテ其無キ失敗ヲ有リト誣ヒ徒ラニ其人ノ栄誉ヲ損シ、平氏ヲ六波羅ノ盛時ニ責メズシテ、之ヲ壇浦ノ衰時ニ苦マシムルヲ快トスルガ如キノ無情者流アラントハ、吾人豈ニ之ヲ憐察セサルヲ得ンヤ。
某ノ新聞ニ曰ク、渋沢栄一君ハ百事失敗嘆息ノ余、自殺セントスルニ至リタルガ、幸ニ人ノ止ムルニ逢ヒ、一ト先ツ其生命ヲ保チタリト。此報ノ一タビ伝播スルヤ、渋沢君之ヲ或人ニ語リ、僕近来事業殆ンド蹉跌シ、讒毀誹謗百方ヨリ蝟集シ来ルヲ以テ、新聞紙上ノ悪口ノ如キハ屁トモ思ハヌ心持ニナリタリ、然シ或ル新聞ニ僕ガ自殺セントシタリト言ヒタルハ、マダマダ僕ヲ武士ノ魂アリト認メテ想像シタルコトナルベレバ、今ニ取リテハ甚ダ喜バシキコトニ存ズルナリト言ハレタリト。又タ福地君ノ如キハ、些々タル失策モ蔽ヘル丈ケ之ヲ蔽ヒ、飽迄モ其栄誉ヲ新聞紙上ニ保タントスルノ心アリ、其再ビ今日ノ衰態ヲ挽回シテ、大ニ為スアラントスルノ精神ハ寔ニ喜ブベシ。二君ノ如キ固ヨリ之ヲ世ノ一敗落胆喪心シテ、復タ一事ヲ為スノ気力ナキモノト同一視スベカラザルナリ。吾人今其志ノ猶ホ未ダ全ク屈セザルヲ憐ミ玆ニ世ノ無根ノ風説ヲ作為シテ人ヲ溝壑ニ擠シ、又タ従ツテ石ヲ投ゼントスルノ無情者流ヲ一撃スルヤ如斯。語ニ曰ク、窮鳥入懐弋者不取ト、蓋シ強ヲ憎ミ弱ヲ憐ムハ人ノ常情ナルノミ。


近事奇談内幕話 (渡井新之介編)(明治文化全集 第二二巻歴史編[雑史編]・第二六九―二七二頁〔昭和四年一〇月〕)(DK080001k-0020)
第8巻 p.20-24 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

財界太平記 (白柳秀湖著) 第七七―八一頁〔昭和四年一月〕(DK080001k-0021)
第8巻 p.24-25 ページ画像

財界太平記(白柳秀湖著) 第七七―八一頁〔昭和四年一月〕
    五 益田渋沢両氏提携して三菱に当る
 品川農商務大輔の声明によつても知られる如く、三井物産が三菱の独占に苦しめられて、外国汽船を雇つて、纔にその用に充てゝ居たことは事実であるが、それと同時に、貨物を三菱の船に託し泣く泣く高い運賃を払つて居たといふことも事実である。
 或る人の話によると、此頃、三井物産の三菱に支払つて居た運賃は一ケ年に七十万円以上にも上つて居たとのことである。それで社長の益田孝氏も、三菱の運賃が余りに高いので、屡人を以て三菱に運賃の割引を交渉させたが、三菱は頑としてその要求に応じなかつたとのことである。
 三井家が呉服店から起つて金融業を主とするやうになり、明治五年には早くも呉服店を荷厄介にする傾向の現はれ始めたことは前に述べた通りであるが、金融業と船舶業との間には何等利害の衝突がなく、三井としては三菱の急激な発展を憎悪嫉視すべき何等の理由もなかつた。但だ三井家は王政維持の大号令が換発されると同時に、明治政府の金穀御用達となり、事実上の大蔵省であつた関係上、明治元年から地租改正が実施されて、新政府の財政上の基礎の定まつた明治六七年頃までに、政府の手によつて施設された諸般の事実には、大なり小なり三井家の息のかゝつて居たことは、争ひ難き事実である。例へば、明治政府には初め廻漕・千里・明光・有効・万里などいふ数隻の汽船があり、三井の手代にして通商司権正であつた吹田久則は、之等の汽船を本として廻漕取扱所を創設したのであるが、此廻漕取扱所が明治
 - 第8巻 p.25 -ページ画像 
四年に至り半官半民組織の郵便蒸汽船会社となつて、三菱会社の第一の競争者となつたことも既に述べた通りである。かやうに三井家の金力は、明治政府を通じて早くから三菱の事業と相接触して居たのであるが、其関係は何処までも間接的であつて直接的ではなかつた。従つて三井家の重役の中に、意識して三菱の急激な発展とその海運事業の独占的傾向とに注意の眼を光らせるものはなかつた筈であるが、三井家の国産方が井上の先収会社を引うけて三井物産会社を創立するに至つては、モウ其関係が間接的でなくなつた。玆に至つて三井・三菱両巨頭の資本主義的尖鋭は、日本の財界に於いて初めて正面衝突をすることとなつた。
 其処で三井物産の益田孝氏はその親友にして当時既に第一銀行の頭取であり、東京株式所の首脳であつた渋沢栄一氏と謀り平素三菱の横暴に苦められて居る地方の富豪(荷主・問屋若しくは船舶業者)を糾合して一大海運会社を起し、之を以て三菱会社の独占権を覆へし、自他の便益を計らうとするに至つた。之が明治十三年中のことで、越中伏木の藤井能三、新潟の鍵富三作、伊勢の諸戸清六・下里貞吉などいふ人々が此の挙に加はり、資本金を三十万円とし、海軍大佐遠武秀行を社長に聘して、間もなく東京風帆船会社の創立を了へた。
 然るに、三菱では之を聞くと社長の弥太郎を始め、川田小一郎・石川七財等の幕僚が大に驚き額をあつめて、東京風帆船会社の成立を妨害し、之を暗に葬らうと取かゝつた。弥太郎は先づ其社員や会社の用達業者を四方に派し、有らゆる方法を以て東京風帆船会社を中傷させた。又、会社と関係の深い大隈系の新聞紙を利用して、盛に東京風帆船会社に対する不利益な記事を掲載させた、例へば第一銀行の渋沢が最近船舶業に手を伸し、三井物産の益田と結託して、東京風帆船会社を経営しようとして居るのは、彼が頃来米相場に手を出し、又、洋銀の売買に失敗して第一銀行に七十万円の大穴をあけたのを塡めようとして焦つてゐるのである、と報道した如きがそれである。
 かやうにして三菱は、一方に間謀を放ち新聞紙に捏造記事を掲げて東京風帆船会社の成立を妨害すると同時に、寺田成器といふものを越中の伏木に派遣し、同地の藤井能三に説き、別に越中風帆船会社を創立させて先づ敵の勢力を割いた。又新潟へは川田小一郎・小野義真等を派遣して同地の商人を説き、漫りに人の為に乗ぜられて経営の困難な海運事業などに投資するよりも、寧ろ物産会社でも起して三菱と提携し、三菱の船舶を利用して利益を収めた方が得策であらう、若し諸君にして物産会社を起さうとするに意があるならば、三菱は低利を以て資本を融通することを辞するものでない、と説かせ、到頭新潟物産会社といふものを設立して、慶応義塾と深い関係のある西脇悌次郎を社長とした。かやうにして、三菱は巧に東京風帆会社の成立を妨害すると同時に、新潟地方の荷主・問屋商人及び資産家を結束して三井物産に反逆を企てさせる一石二鳥主義の作戦に成功した。



〔参考〕回議録 第二類諸会社明治一四年従七月至九月(DK080001k-0022)
第8巻 p.25-26 ページ画像

回議録 第二類諸会社明治一四年従七月至九月 (東京府庁所蔵)
 - 第8巻 p.26 -ページ画像 
    御届
昨十三年八月中当風帆船会社資本金三拾万円ヲ以テ創立之義許可相成候処、既ニ株数該額ニ相満チ候ニ付、今般更ニ資本金ヲ百万円ト定メ差向弐拾万円ヲ増株シ、別紙方法ヲ以テ募集仕候ニ付、此段御届奉申上候也
  但シ定款改正ノ義ハ追テ出願可仕候
                  日本橋区小網町三丁目廿六番地
  明治十四年八月十日
                     風帆船会社会社之印
                     社長
                     遠武秀行(印)
   東京府知事 松田道之殿

(別紙)
明治十四年八月一日株主臨時総会議ノ上決議ノケ条如左
   第一条
一 当会社ノ資本ハ更ニ百万円ト定メ、従前ノ資本額三拾万円ハ既ニ満株相成候ニ付、爰ニ弐拾万円ヲ募集シ五拾万円トナシ、而シテ余ノ五拾万円ノ募集方法ハ其際総会議ノ上之ヲ議定スヘキ事
   第二条
一 新株加入ノ者ハ申込ノ時必ス二割ヲ払込ムヘシ
   第三条
一 新旧株式共利益割合ハ払込金額ト月額トヲ以テ計算シ、其配当ヲ為スヘシ
   第四条
一 新旧共株主ノ都合ニ依リ割払募集ノ通知ヲ待タス総金額モシクハ其幾分ヲ増払込ヲ為セシ者ヱハ其金高及月割ヲ以テ計算シ、利益ノ配当ヲナスヘシ
  但株金総額払込ノ者ヱハ直チニ株券ヲ附与スヘシ
   第五条
一 株金割払期限ハ、社長・取締役ノ協議ニ任スルニ付、便宜期限ヲ定メ株主ヱ通知スヘシ、此通知ヲ得ハ株主ハ無延滞入金ヲナスヘシ
右之通決議候事
                      風帆船会社


〔参考〕回議録 第二類諸会社明治一六年自一月至三月(DK080001k-0023)
第8巻 p.26-27 ページ画像

回議録 第二類諸会社明治一六年自一月至三月 (東京府庁所蔵)
    御届
一当風帆船会社之儀ハ明治十六年一月一日ヲ以共同運輸会社江合併シ、所有之船舶事業共該社ヘ引継、当社ハ廃業仕候、尤現在各地航海中之船舶帰港之上悉皆引渡シ候上ハ残務有之ニ付、右取扱中ハ在来之通営業看板ハ差出シ申候、此段御届申上候也
                日本橋区小網町三丁目弐拾六番地
  明治十五年十二月三十一日     風帆船会社
                支配人
                   赤井善平(印)
 - 第8巻 p.27 -ページ画像 
    東京府知事 芳川顕正殿


〔参考〕中外物価新報 第四二三号〔明治一四年八月六日〕 【又同社○風帆船会社は…】(DK080001k-0024)
第8巻 p.27 ページ画像

中外物価新報 第四二三号〔明治一四年八月六日〕
○又同社○風帆船会社は去る一日株主の臨時総集会を開き、是迄卅万円の株金を以て営業を試みし□《(にカ)》利益もあり、弥々将来の見込も充分に立ちしことなれば、今回二十万円を増し五十万円の株金とせんことを役員より発議ありしに、衆議も亦実際運輸の不充分なるは役員の言を竢すして明かなることなれは、孰れとも此事業は拡暢せさるへからさる事なりとて、大体の資金を百万円と定め、此際は先つ役員の発議の如く二十万円の増株をなし、尚ほ追々時機により其余を募集することに決したりと云ふ、且同社の利益配当の如きは旧新株式とも結局同一の割合にて、払入金高に月割を以て其年の損益勘定を割付配当する由、吾々は斯る会社の益す盛大に至らんことを祈るなり、夫は仮令何程の有力者ありて殖産を計るも、到底運輸の業盛大ならされば其功は大ならされはなり、此一事に就ては少々申度事もあれは重ねて論ふことあるべし


〔参考〕中外物価新報 第四六九号〔明治一五年一月二一日〕 【風帆船会社は創立以来…】(DK080001k-0025)
第8巻 p.27 ページ画像

中外物価新報 第四六九号〔明治一五年一月二一日〕
○風帆船会社は創立以来未た年も経されと、目今海運の便を要するの劇しきと社員の勉励とに依りて業務日に益々盛んになり、最早三十万円の資本にて開きしも昨年八月に於て将来百万円の資本と定め、先つ其内廿万円増加することに決し、取扱船数も大に増加し、就中謙信丸を以て濠洲シドニーへ航海せし如きは実に我が風帆船の絶域に航せし嚆矢にして、商業歴史に特書すへき績しなり、斯る尽力の功は空しからず、昨年一季の勘定は海員賞与・積立金等を引去株主への配当二割以上の割合に至るへしと云ふ


〔参考〕中外物価新報 第五三九号〔明治一五年八月三一日〕 風帆船会社所有船;北海道運輸会社所有;北海道運輸会社所有(DK080001k-0026)
第8巻 p.27-28 ページ画像

中外物価新報 第五三九号〔明治一五年八月三一日〕
風帆船会社所有船
     船名   買入年月日     買入元価
                        円
    神倉丸  明治十四年三月  三〇、〇〇〇・〇〇〇
    義経丸  同    七月  二四、二〇〇・〇〇〇
    謙信丸  同    四月  二三、七〇〇・〇〇〇
    信玄丸  同   十二月  一九、〇〇〇・〇〇〇
    秀郷丸  同 十五年三月  一九、五〇〇・〇〇〇
    為朝丸  同    四月  三九、〇〇〇・〇〇〇
    正成丸  同    四月  四三、〇〇〇・〇〇〇
    義家丸  同    八月  三三、〇〇〇・〇〇〇
    沖縄丸  同    八月  二六、八〇〇・〇〇〇
    港川丸  同    八月  二〇、〇〇〇・〇〇〇
          合計船数拾艘 二七八、二〇〇・〇〇〇

北海道運輸会社所有
     船名    買入年月     買入元価
                        円
    玄武丸   明治六年五月 一八二、九二二・〇三五
    矯竜丸   同   八月洋銀八一、二六七・二〇〇
 - 第8巻 p.28 -ページ画像 
    千嶋丸   同 八年八月    二、五四四・〇三二
    函館丸   同   三月   五五、〇〇〇・〇〇〇
    乗風丸   同 九年三月   二一、〇〇〇・〇〇〇
    沖鷹丸   同 十年二月   雷電丸と交換に付不詳
    第一石狩丸 同十二年六月    二、七九四・一七四
    第二石狩丸 同         二、七九三・六八二
    第三石狩丸 同十二月      一、八三九・一八五
    第四石狩丸 同         一、八三七・二五七
    清風丸   同十四年三月   一九、〇〇〇・〇〇〇
    西別丸   同   六月   二二、三一四・六二三
    単冠丸   同   六月   一九、〇〇九・六七六
           合計拾三艘  四一二、三二一・八六四

運漕社所有船
     船名   買入年月   買入元価
    通済丸  明治六年三月 六六、〇〇〇・〇〇〇
    全済丸  同 八年二月 二八、〇〇〇・〇〇〇
           合計二艘 九四、〇〇〇・〇〇〇


〔参考〕日本郵船会社創設記 第一六―一八丁(DK080001k-0027)
第8巻 p.28-29 ページ画像

日本郵船会社創設記 第一六―一八丁
               (日本郵船株式会社所蔵)
左ニ明治十五年八月十五日東京風帆船会社臨時総会決議書ヲ抜載ス
○中略
 八月十五日午後三時築地精養軒ニテ臨時株主総会ヲ開ク、社長ハ先ツ各株主ニ当日総会ヲ開クノ所以ヲ告ケ、且ツ曰ク、余輩カ諸君ノ委托ヲ受ケ職ニ就キシ以来、主トシテ本社営業ノ旺盛ヲ図リ専ラ其職務ニ力ヲ尽シ、已ニ昨年中各位ヘ御相談ノ上在来株高ノ外更ニ二十万円ノ増株ヲ募リシニ、之ニ応スル者案外ニ寡ク、其申込高僅ニ五万円ニ過キス、是畢竟世上一般金融壅塞利子激昂ニ際シ、彼ノ公債証書ノ如キ安全無比ノモノニテモ容易ニ一割ノ利子ヲ得ラルヽ如キモノアルヲ以テナラン、而シテ爾来ハ兎角ニ営業上モ充分活溌ナル能ハサルヲ以テ、自然株高ニ対スル費用重キヲ加フルニ至ラン、若シ何時迄モ此ノ如クニシテ措ク時ハ、各株主ノ利益モ随テ減少スルコトモアランカト、彼此心配ノ余リ種々考慮シテ、政府ヨリ低利ノ資金ヲ借リテ営業ヲ拡張セハ或ハ株主ノ満足ヲ得ルコトアルヘシト思惟シタルニ付、余輩役員協議ヲ遂ケ、当春本社営業保護トシテ資金貸シ下ケノ事ヲ請願シタルニ、当時恰モ北海道運輸会社及越中伏木風帆船会社ヨリモ略ホ同様ナル主意ヲ以テ政府ニ請願スルニ会シタリ、然ルニ政府ニ於テハ予テ海運拡張ノ主義ヲ執ラレタルコトナレトモ、国庫有限ノ資ヲ以テ如此区々数多ノ海漕営業者ヲ漫然保護スルコトハ固ヨリ難ク、良シヤ強テ之ヲ保護スルモ害アツテ益尠カラントノ掛念モ在ラセラレ、遂ニ三会社区々ノ願ハ採聴セラレス、三会社ノ出願人ニ向テ更ニ共同ノ一社ヲ創起センコトヲ勧諭セラレ、即チ去月十四日各社ノ出願人ヲ呼出シ、共同運輸会社創立ノ命令書ヲ下付セラレタリ、其命令書ハ既ニ新聞紙上ニテ各位御詳知
 - 第8巻 p.29 -ページ画像 
ノコトナルヘシト雖トモ、猶之ヲ御通シ申サントテ書記ヲシテ之ヲ朗読セシム、其全文左ノ如シ
○中略
 合併ヲ可トスル者ニ向テ起立ヲ問ヒシニ、非合併説主張ノ株主両名ヲ除クノ外起立ナリシ、右終テ猶衆議ノ上左ノ条々ヲ議決セリ
 一風帆船会社ハ本年中ハ是迄ノ通リ営業シ、来明治十六年一月ヨリ共同運輸会社へ合併スル事
 一前記合併ノ事ニ関シテハ当任ノ役員其取扱委員トナリ、其景況ハ時々是ヲ各株主ニ報告シ、事柄ニヨリテハ更ニ臨時総集会ヲ開テ相談スヘキ事
 一株主中合併ニ不同意者ハ(即チ起立セサルモノ)来明治十六年一月ニ至リ取扱委員ニ於テ其株式ヲ引受ケ、既ニ払込タル金額ヲ払戻スヘキ事
 一当日欠席無通告ヲ云フノ株主ヘハ書面ヲ以テ決議ノ要件ヲ通知シ、合併ノ諾否ヲ問ヘキ事
   ○共同運輸会社ヘノ命令書ニツイテハ第二款共同運輸会社明治十五年七月十四日ノ項(本巻第三七頁)参照。


〔参考〕中外物価新報 第五三三号〔明治一五年八月一七日〕 風帆船会社(DK080001k-0028)
第8巻 p.29-30 ページ画像

中外物価新報 第五三三号〔明治一五年八月一七日〕
○風帆船会社 一昨十五日、築地精養軒に於て該社株主の臨時総集会を開きたり、今其概況伝聞の儘を記すれば、先つ社長遠武氏ハ衆株主に向ひ、本日諸君の議決を乞ふは、今回新設の共同運輸会社へ合併するの可否を議決せん為めなるが、抑も一体の手続を申さば、既に昨年中各位へ御相談の上二十万円の増株を募集せしも、世上一般金利の騰貴、其他種々の原因ありて応募の者甚少く、啻に事業拡張の目途なきのみならず、船の修繕其外漸次失費相嵩み、株主の利益減少するに至らんと心配の末、他に良策なきを以て、政府に資本の保助を請ひしに、恰も同時に於て北海道運輸会社・伏木風帆船会社よりも稍同様なる請願を為せりと、然るに政府に於てハ是等区々の願ひ、一々採用相成へくもあらす、左れハ迚海運の事業は到底放擲して隆盛を望むへからさるを焦慮せられ、終に区々の願意は採用なく、特に共同の運輸大会社を新設すへきを奨諭せられ、扨こそは共同運輸会社創設の命令書を下附せられたり(命令書は本紙第五百二十六号に記載したれは今略す)然るに本社が此一大会社に合併することは、将来の利益如何あらんかを十分に討究するを要することなれは、役員に於ては深く此得失を考量せしに、本社が初年及昨年に於て二割以上の利益を株主に配当し得たるハ、業務の好都合なりしは勿論なれとも、要するに船体に大したる修繕等を要すること無かりしもの与て力あることにして、今後は年増しに此入費嵩むへく、然る時は是れのみにても余程利益上に関係を及ほす事なるに、既に本年の如きは諸物価下落商業不振等にて、我か得る所の運賃も従て低下せさるを得す、加ふるに其運輸も前両年の如く活溌ならさるを以て、迚も前両年の如き好報を為す能ハさるへく、況や今後に於て他に一の大会社出現して、為めに我か営業の区域を縮小するか如きことあらハ、益々本社の旺盛は望むへからさるに至
 - 第8巻 p.30 -ページ画像 
らんか、顧て其一方の大会社へ合併する如何を考ふるに、凡そ事ハ十分の資本を以て広く活溌なる経営に至れハ、一株に対する費用は小身代の割合よりハ、軽減すること普通の事なれは、是れ一の利益なり、又政府入株の資本百三十万円は低利なれハ、此働きより生する利益を他の百七十万円の株主に割当つるに付、亦許多の利益あること甚だ見易きものなり、旁合併するを利益なりと認め、此総会を起せし旨を演へ、其れより命令書其外に就き種々質議ありて社長及取締役にて答弁し、詰り合併を非とする株主二三名ありて、合併を賛成する株主と弁難駁撃、一時は余程議論も盛なりしか、合併に同意者を起立に問ひしに、非合併主張者沼間守一・須藤時一郎の両氏を除くの外は総起立なりしかは、遂に、風帆船会社は本年中は依然営業し、来十五年一月より新設の共同運輸会社へ合併する事に決し、合併の事務取扱は当任の役員、即ち社長遠武氏・取締役益田・渋沢○喜作氏等へ委任することと成り、又合併不同意の両氏には合併の時に際して、其依頼に依り其株高を委員に引受け、買受人を周旋して其金額を払戻すことに決せりと云ふ


〔参考〕中外物価新報 第五三八号〔明治一五年八月二九日〕 風帆船会社(DK080001k-0029)
第8巻 p.30 ページ画像

中外物価新報 第五三八号〔明治一五年八月二九日〕
○風帆船会社 過般同会社が共同運輸会社へ合併の事を議する為め株主臨時惣会を開きし時の模様は、前号の紙上へ記載せしが、其決議書ハ左の如くなりと
○決議書ハ前掲日本郵船創設記所収ノモノト同ジニツキ略ス。


〔参考〕中外物価新報 第五三九号〔明治一五年八月三一日〕 風帆船会社(前号の続き)(DK080001k-0030)
第8巻 p.30-31 ページ画像

中外物価新報 第五三九号〔明治一五年八月三一日〕
  ○風帆船会社(前号の続き)
右終て、社長ハ更に曰く、此命令書ハ固より風帆船会社に下付せられし者に非らす、又本社が更に新設の共同運輸会社へ合併するが如きハ余輩が諸君より委托を受けし権外の事なれハ、追て本社株主諸君に協議を尽し、其決議を以て答申すへしと上稟し置きたり、依て今日各位に御協議を要する件は、本社に於て右共同運輸会社へ合併するの可否を決するに在り、但し此可否を決する前に於て、十分其利害の討究を要すること勿論なれは、今余輩か本社実際の経歴上に就て見込を申述んに抑も本社創業即ち一昨年に於てハ、全く募集し得たる実額僅かに三万八千円に過きすして、此資金を以て購入したる船舶ハ実に謙信丸一艘あるのみ、然るに同時内務省より神倉丸を五ケ年賦にて払下けを願ひ、允許を得て之を運転せしかは、此船ハ恰も資本なくして働き得たるか如き状況ありき、是れ蓋し同年に於て多分の利益を見たる所以なり、扨昨年に於ても亦十分の配当を為し得たるものは、爾後購入の船舶は務めて近く修繕を要せさるものを撰ひしを以て、一も大なる修繕を要せさりし等の理由に因るものなり、然れとも風帆船外板に用ふる真鍮板の如きは大約五ケ年目に修復するを常とす、其他臨時発顕する腐朽箇所の修復もありとすれハ、是よりは大に修繕を要するの場合あらん、且昨年来諸物価低落し全般の商勢大に不景気となりし為め、勢ひ運賃も亦低下せさるを得す、単に是等のみを以て推考するも、今後
 - 第8巻 p.31 -ページ画像 
従前の如き利益を見ることは随分至難の事ならん、加之是迄は他に三菱会社の如き大会社あるも、固より彼れに拮抗するの力なきを以て、全く幼稚視せられ、別に障碍を蒙りし事なかりしも、爾後又一の大会社設立し、其間に本社が介立して区々の資力を以て之と対立せんことハ万々及ハさるのみならす、漸次他の盛大なるに従て其反響を受け、営業上の利益自ら其割合を減すること自然の傾向なれハ、今日国庫助成の共同運輸会社へ合併するの利害ハ蓋し甚だ視易きものと云へし
(以下次号)


〔参考〕中外物価新報 第五四二号〔明治一五年九月七日〕 風帆船会社(前号の続き)(DK080001k-0031)
第8巻 p.31 ページ画像

中外物価新報 第五四二号〔明治一五年九月七日〕
  ○風帆船会社(前号の続き)
於是、一の合併を非とする株主起り、本社是迄の繁盛は全く当社役員の尽力に由るものにして、我々の大に満足し居りし所なり、然るを今に至て其組織を変更するに当りてハ、之が株主たるものは将来利益の如何に注意せざるへからず、今国庫より百三十万円の入株し、其利益二歩を限り領収せらるとすれば、一目利益あるが如しと雖も、政府の株金を以て未た必ずしも会社の利益を期すべからず、政府の干渉を受たる会社必らす利あるが如しと雖とも、往々失敗する例少からさる旨を弁し、一二非合併説を□《(賛カ)》成する株主ありて、更に役員に向て交々質議を発したれは、社長及取締役にて夫々答弁せり
其要領左の如し
問 政府が共同運輸会社を保護すること実に厚きが如しと云とも、命令書に拠れば汽船帆船を問ハず之を新造し、若くハ現製のものを購入する時ハ其船体構造に関し総て政府の許可を受けざるべからず、例へば政府が非常の為め速力十分なる船舶を造らしめんか、平生多分の石炭を消費して多分の費を要すべし、此場合の如き常費は政府にて之を弁ずるか
答 斯ハ容易に答弁し難けれど、強て怖るゝには足らざるべし、例へば六鑵装置の汽船にして速力を強むること□□する時ハ尽く六鑵を使用し、平時は只四鑵を使用して足ることあるが如し、されば今船体構造によりて船積の広狭に多少の関係あるも、必しも必要外に許多の石炭を消費せざるを得ざるが如き不便ハなかるべしと信ず(以下次号)


〔参考〕東京経済雑誌 第一二七号・第一一五九―一一六一頁〔明治一五年九月二日〕 共同運輸会社開社に運ぶ(DK080001k-0032)
第8巻 p.31-33 ページ画像

東京経済雑誌 第一二七号・第一一五九―一一六一頁〔明治一五年九月二日〕
    ○共同運輸会社開社に運ぶ
世論の囂々も喧しからずして耳に入らず、志士数行の熱血も沸騰散一杯の泡となりて蒸発し、あとに残りし酸き水に因みのある彼の共同運輸会社は、其筋にて何れ奥深き御意見ありて設立せられたるが、追々開社の手続きを為し、程なく諸県の発起人を東京に招集して定款を議定し、然る後ち株主の募集を広告するよし、又た同社の社長は予て噂ありし如く、弥よ仁礼海軍少将にて、同氏か朝鮮より帰国せられし上は直ちに其任を帯ひらるゝならんと云へど、仁礼氏は先きに此ことを聞き辞退せられしやの風聞もあれは、如何にや信疑ハ知れず、併し副社長は既に去月二十五日農商務卿西郷従道代理山田顕義公は命令書第
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十一条に依り該社発起人の一人なる遠武秀行氏に命せられたり、尤も遠武氏は現在風帆船会社の社長にて、同会社は本年中従前の如く営業し、来年一月より共同運輸会社へ合併する筈なれは同氏も夫れまでは両方を兼らるゝなりと云ふ、蓋し先きに風帆船会社の合併せんとするや、社長遠武氏は其株主を集会して曰く「我風帆船会社は一昨十三年より業務に従ひ殆んと満二ケ年に達せんとす、而して其利益は多く両期純益配当のごときも各々二割以上に達し、恰も最幸の業に従事せるが如しといへども、其実大に然らざるものあり、先づ第一期は執務の間僅々二三ケ月に過きず、而して其募集し得たる株金の額は三万円有余なるのみ、此ときに際し二隻の風帆船あり、即ち一隻の風帆船は株主にて購求せしも、他の一隻ハ政府の所有にて、神倉と称する風帆船を年賦上納の約を以て払下げたるなれば、之を少額の株金に対するときは多額の直打ある船舶を使用するを得たり、去れハ第一期の利益を看て以て本社業務の有益なることを保証し能ハざるべし、第二期の如きも亦之に類することなきにあらず、彼の海軍省附属の船舶を使用せし如き、為めに幾分の利を獲るを得たり、又た爾来買入れたる船舶の修繕を要するは明なり、又物価低落して運賃に影響す、若し然らんには所得往年に均からすして費す所漸く増すの傾あり、且つ金利非常に高くして、株金を得るに難し、故に到底本社の隆盛を謀るの道他なし低利の金円を得て以て此業に従事するの一途あるのみ、是れ予が政府に保護を乞ふの止むを得ざるに出る所以にして、政府も亦百三十万円の資本を共同運輸会社に下附せられん事を許容せらるゝに至りし順序なり、今本社を此儘にして維持せん歟、予ハ畏る、将来の利益年一割に過きざらん事を、之れを如何んぞ百万円の資本となすことを得ん、若かず本社を挙て運輸会社に合併するの利なるにハ、諸君宜く熟慮あられよ」と、是に於て乎、株主の一人之に不同意を唱へて社長特選の故なきを説き、商業の事たる官吏輩の能く洞察し得べきにあらず、何ぞ厚顔の甚しきや、若し社長其人を得ざりせば我会社の運命旦夕に迫るを知る、又た百三十万円を出すとせば都合よきに似たれども、利息を一割とせば十三万円、一割五歩とするも十九万五千円に過ぎず、況んや政府は今日共同運輸会社を保護するも明日之に反するの事なきやも計られず、今一歩を譲りて合併するとするも、社長は政府の特選たらざらんとを望む」と述べ、又た諸株主中多数に由て、一旦風帆船会社を挙けて共同運輸会社に合併して後ち社長公選の事を政府に請願せんなど云ふ人々もありしかは、前反対者は言く、元来会社と云へる無形人は謂れなきに死没すへきにあらず、然るに諸君は之を為さんとするなり、況んや他社に合併せんと言ふに至ては誰れが之を命するものぞ、此等の事能く多数を以て決し得べき事なる乎、余少しく疑ふ、凡そ本社多数決なるものは其事務に於て効ありと雖も、他事に於ては効あらす、而して此合併は本社の事務にあらず、故に其効なし、思ふに諸君の合併せんと謂は、政府か彼の社に百三十万円の株金を出し、其配当金は年二朱に過ぎざるを見て、倉皇其利多からんことを思はるゝならんが、甚た大早計なり、看よ某銀行の如きは、政府の特遇を蒙りたるに遂に破産せるにあらずや、商業は資本の巨大なるを以て利益多
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く、利息の低廉なるが故に安全ならざる、是を見て知る可し」と、又政府か共同運輸会社を設立するの謂れなきを説き、次て政府の保護を蒙る会社の多く存立せざる所以等精細に合併の不可を論せられ一場騒然たりしか、終に須藤時一郎・沼間守一・肥塚竜の三氏は徹頭徹尾合併説に不同意なれば本年十二月限り風帆船会社を脱し、其余の株主は総べて明年より共同運輸会社へ合併することに決したり、我輩之を聞きて慨然たり、彼の三氏は常に自由主義を抱き干渉の弊あるを説かるるもの、是合併を非とする固より当に然るべしと雖も我輩豈に其挙の潔白なるを称せざるを得んや」我輩は共同運輸会社創立の時に当り斯の如き紛紜ありしことを後世に遺さんか為め姑く玆に記すなり、嗚呼我政府が今日に至るまで国庫の金を出だして以て保護せられしもの数千万円に達すと雖ども、常に好結果あるを見ず、而して明治十五年の今日に当り中央銀行の起るあり、共同運輸会社の興るあり、我輩は其真意の厚きに感佩するの《(と)》同時に我政府の病癖とせざるを得ず、是れ之を濫恵と云ふて可なり、濫恵は則ち財政紊乱の基なり、我輩敢て弁を好んで非理を言ふにあらず、正理に照し実験に鑑み以て我政府の邪路に陥らざらんことを願ふ、知らず一片の丹心雲上に達するや否や


〔参考〕毎日新聞[横浜毎日新聞] 明治一六年六月二九日(海運史料 中巻・第六九三―六九四頁) 【上略先キニ共同運輸会社…】(DK080001k-0033)
第8巻 p.33 ページ画像

毎日新聞 明治一六年六月二九日
           (海運史料 中巻・第六九三―六九四頁)
○上略先キニ共同運輸会社ニ合併シタル風帆船会社ノ一昨年ノ報告ニヨルニ其利益ハ二割二三分ニ当ルノ計算ナリ(此社ハ政府ノ船舶ヲ無代価ニ借用シタル者アリシナレハ、之ヲ通常独立ノ会社ニ比スレハ幾分カ利益多キ割合ナルヘシ、而シテ昨年ハ沖縄丸ノ難破アリシカ為メニ前年ニ比スルニ利益少クシテ僅カニ二分五厘ナリキ)○下略


〔参考〕逓信事業史 第六巻・第九二六―九三〇頁〔昭和一六年二月一一日〕(DK080001k-0034)
第8巻 p.33-36 ページ画像

逓信事業史 第六巻・第九二六―九三〇頁〔昭和一六年二月一一日〕
    第三款 三菱会社の活躍
 政府の保護会社が斯くの如き経過を辿りつゝある間に於いても、一旦萌芽を生じた我海運事業は漸次生育の機運に在り、民間に於いて汽船運航に精進する者相次ぎ、就中土佐藩の岩崎、薩摩藩の有川氏等が嘱目さるゝに至つた。岩崎氏は一度九十九商会閉鎖の憂目を見たが、明治四年他の藩士数名と聯合して三川商会を興し、藩有船六隻を捨値にて譲り受け、再び海運経営を始めた。而も時未だ到らずして、再び事業中止の止むなきに至つた。
 然るに岩崎の海運業に対する執著去らず、三度奮起して同年七月独力を以て三菱商会を設立し、三川商会の業務一切を譲受け、本店を大阪に支店を東京に置き、又精進を新たにした。三菱の徽章は藩主山内家の定紋三柏に模倣したるものと伝へられるが、蓋し岩崎氏の期するところ小ならざりしものを暗示するものであらう。
 明治六年に至り、当時太平洋の覇者たる米国パシフイツク・メール会社は横浜支店を設置し、我沿海の航権掌握に努むること切なるに至つたが、之がために揺籃時代に在る我海運事業は圧迫を受くること尠からず、就中郵便蒸気船会社は既に頽勢にあつたため打撃甚しかつた
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偶々明治七年二月佐賀の乱起るや、遂に無能を暴露するに至つたに反し、純民業の立場に在つた三菱商会は却つて輸送上功有つたので、世評何時しか両者を甲乙するに至り、同時に岩崎の手腕が漸く認られ始めた。
 次で明治七年四月征台の役起るや、政府は軍用のため外国船十三隻を購入して急務に応ぜんとしたが、之等船舶の運用は遂に三菱商会の手中に帰したので、同社の名声大に揚ると共に、その得る所の利尠からざるものあり、岩崎の苦心経営漸く報いられんとするに至つた。
 此の征台の役が我海運事業に及ぼしたる影響は甚だ大であつた。凡そ我海運事業は、前後数回の戦争に伴つて飛躍的発展を遂げたること海運史上極めて顕著なる現象であるが、征台の役は実に其の最初のものであつた。
 試に明治三年以降の我汽船の増加を見るに、明治三年に三十五隻、二万四千九百九十七噸のものが、明治八年には百四十九隻、六万八千二百三十二噸に飛躍を演じてゐるのである。
 征台の役了るや、明治八年二月三菱商会は政府委託船を以て、新たに横浜上海航路を開始した。之我国最初の外国航路である。当時此の航路はパシフイツク・メール会社が独占的偉力を揮へる所であつて、未だ揺籃時代を脱せざる我海運事業の、対外第一矢が勇敢にも太平洋の覇者に向つて放たれたことは、快事であらう。
 征台の役を転機として、我政府の新しき海運政策樹立を見たることは別項(第三章第一節)記述の如く、民営補助主義の根本の下に、三菱商会は郵便蒸気船会社に代つて政府の保護会社となり、征台の役の際の委託船を無償交附され、更に同年六月郵便蒸気船会社の解散を断行し、其の所属船十八隻も亦三菱商会に無償交附さるゝに至つた。
 此の郵便蒸気船会社の引継船は、何れも千噸未満の老朽船で、実質的には云ふに足らなかつたが、征台役関係のものは八百噸乃至二千噸の積量を有し(内二千噸以上三隻)合計総噸数約一万七千噸に上り、当時の我国海運にとつては尠らざる船腹であつた。此のため三菱商会は俄然勢力増大して海内敵無きに至り、(同年九月郵便汽船三菱会社と改称)愈々海運独占時代の第一歩を踏んだが、然も対外的には尚多事多難の日が続いた。曩に開始したる上海航路は、パシフイツク・メール会社との競争逐日猛烈となり来り、双方運賃の大低減を以て対抗を続け、其の結果遂に横浜上海間下等船客運賃三十円を八円に、横浜神戸間上等運賃二十円を五円に、同下等運賃十円を三円にまで引下ぐるに至つた。之がために流石のパシフイツク・メール会社も倦色を生じ、密に妥協を望むに至つたので、三菱会社は政府の貸下金を得、之を以て明治八年十月、パシフイツク・メール会社の横浜上海航路権及使用汽船四隻を横浜上海の支店倉庫其の他の陸上設備一切と共に買収し、玆に上海航路の航権を完全に掌握するに至つた。此の一戦は幸にして我勝利に帰し、三菱会社は七千余噸の船舶を手中に収め、更に勢力を増大したけれども、此の戦に因つて醸したる同社の損害も亦尠少でなかつた。然るに翌明治九年二月に至るや、英国彼阿汽船会社が又横浜上海航路を開始し、三菱会社は休養の遑も無く再び対外競争に捲込まれた。彼
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阿会社は人も知る如く東洋方面に於ける英国代表会社なれば、瘡痍尚ほ新たなる三菱会社が之に対抗する苦痛は一方でなかつたが、豪気の社長岩崎は敢然として之に応じた。此の競争も約八箇月続いたが、競争の結果横浜神戸間下等船客運賃は一円五十銭まで引下げられ前回にも増したる悪戦となつた。之に処して岩崎は苦心惨憺を極めたが、遂に彼阿会社の該航路撤退となつて終局した。玆に到つて三菱会社の基礎内外航路に亘りて鞏固となつた。
 明治十年二月西南の役起るに及び、船舶不足するに至つたので、三菱会社は政府の国庫金支出を仰ぎ、之に会社自らの出資を加へ、新たに和歌浦丸以下十隻の汽船を購入し、以て輸送任務に当つた。之等の汽船は大部分二千噸前後のもので、三菱会社は更に約一万二千噸の新勢力を加へた。斯くの如く戦乱の起ると共に我国船舶は飛躍的に増加を示すが、此の頃に於ける我海運業は換言すれば三菱会社の事業に他ならぬこと、記述の示す所である。従つて三菱会社の社運隆々たるものがあり、漸く世の視聴を集むるに至つたが、特に西南の役に於いて同社の収得したる運賃は頗る多額に上り、之を以て同社の基礎は磐石の固きを示すに至つた。玆に於いて反乱平定後、三菱会社は航路拡張を図り、北清各港に航路を開いたが、明治十三年開始した神戸・浦潮航路は、航権露領に及び、上海航路に次ぐ対外勢力の伸長であつた。
 斯くして三菱会社の勢力逐年巨大となるに従ひ、世上兎角の声漸く起るに至つたが、同社長岩崎は尚ほ足れりとせず、更に為換・海上保険・倉庫等の附帯事業に怪腕を伸ばし、一度荷為換を取組みたる者は其の貨物は必ず三菱会社の船舶に積ましめ、三菱会社の船舶に託したる貨物は必ず其の海上保険に附せしむるの策に出で、海上運送に関する利益は挙げて其の手中に収めんとしたのみならず、偶々当時紙幣の暴落に際し運賃を弗建にて収むる等の挙あり、輿論次第に其の横暴を称ふるに至つた。
    第四款 共同運輸会社の出現及両社の併合
 三菱怨嗟の声と共に反三菱の汽船会社が漸く現はるゝに至つた。明治十二、三年頃より、灘地方の酒造家が其の製造品運搬のために西洋形船(初めは帆船なりしも後汽船を使用す)を購入したるが如き、東京の三井、渡島の楢原、大阪の名越・五百井・住友等の商家が自家商品の運搬のために航運を始めた如き、孰れも此の反映に外ならぬが、之等が所謂「社外船」の先駆であつた。
 併し、反三菱の最大なるものは、東京風帆船会社で、三井の益田孝、伏木の藤井純三《(藤井能三)》、新潟の鍵富三作、伊勢の諸戸清六等の諸氏相謀り、明治十三年資本金三十万円を以て、東京風帆船会社を組織し、海軍大佐遠武秀行を社長に推し立て、三菱会社対抗の巨声を挙げたのであつた。次で北海道運輸会社及越中風帆船会社設立され、三菱会社の独占漸く揺がんとするに至つた。併し之等の諸会社箇々の勢力は微々たるものにて、到底敵陣を脅すこと不可能であつたので、如上の三会社を合併して資本金三百万円の共同輸運会社を設立し、以て三菱会社に当らんとするに至つた。
   ○三菱会社ハ明治十三年度ヨリ運賃規則ヲ改メ船賃ヲ円価ヲ以テセス洋銀ヲ
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以テ算シタレハ当時銀紙ノ開キ六割以上ニ達セルヲ以テ是ハ運賃六割ノ騰貴トナリ世人ノ攻撃スルトコロトナリタリ。
    ナホ政府ノ三菱会社保護政策ニ関シテハ東京経済雄誌(明治十四年十一月十九日―十二月十七日)所載「三菱会社ノ助成金ヲ論ス」、明治文化全集(第二二巻)所収「無類保護三菱会社内幕秘聞」等参照。