デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
1節 海運
3款 日本郵船株式会社
■綱文

第8巻 p.151-168(DK080006k) ページ画像

明治26年11月7日(1893年)

是ヨリ先、栄一印度棉花輸入ニ関シ孟買定期航路開設ノ意アリ。印度タタ・エンド・サンス商会、大日本紡績聯合会、日本郵船会社ノ間ニ斡旋シテ契約ヲ了シ、是日第一船広島丸孟買ニ向ケ神戸港ヲ出港ス。


■資料

竜門雑誌 第八〇号 第一―八頁〔明治二八年一月〕 ○星か岡茶寮研究会集会席に於て(渋沢栄一君述)(DK080006k-0001)
第8巻 p.151-154 ページ画像

竜門雑誌  第八〇号 第一―八頁〔明治二八年一月〕
  左に掲くるは客秋貴族院議員有志者の請ひに応して先生か演説せられたるものなり

  ○星か岡茶寮研究会集会席に於て(渋沢栄一君述)
 - 第8巻 p.152 -ページ画像 
皆さむ今日は日本郵船会社か現に孟買の航路に於きまして彼阿会社との競争に相成て居る其元の起りから爾来の状況を一応御承知なされたるに因て、罷り出て顛末を陳述しろといふ清浦さむからの御指命で御ざゐました、元来郵船会社から吉川社長か出ますが当然で御座いますけれとも、此事の起りは私がまだ郵船会社の取締役に当選せぬ前から関係して自身の営業上に直接の関係では御座いませぬが、紡績営業等に付て間接の関係がありますので深く立入り居りますし、且其事実も或は吉川より詳に存して居るといふ次第で御座りましたで、夫で社長に代つて罷出で申上る事に御請を申上げて今日参上致した次第で御座ゐます、此事柄は会社自身が世間に向て皆さま御聞き下さゐと大道講釈を致すが如き有様は不肖ながらも一会社の体面に於て好みませぬ訳で御座います、併し幸に斯く政治上に関係の多ゐ且此に御集りの諸君の如き方々がどふぞ其事を聞きたゐと仰せらるれば、郵船会社は勿論其関係者たる紡績聯合会と申す者も実に此上も無い仕合で進で申上たゐと思ふ程の事柄で御座ゐます、先つ以て諸君が此処へ御着目下されまして、幸に今日御喚び立の上に其事を聞くと云ふ御好意を謝します扨其事の起りはどふ云ふ次第であつたかと申しますると、実は偶然の成立で御座ゐまして、決して斯様に貴顕なる皆様にまで御心配を掛るといふ程予期した事では御座ゐませなむだのであります、抑思ひ起しましたのは一昨年○明治二五年の事で御座いまして、印度にターターと申す商会が御座います、是はパーシー人であつて、孟買に居つて相当なる営業をなす商館である、此ターターは四五軒の同族で相集て営業をなし居ります、其中の重もなものがゼー、エン、ターターと申す人であります、併し一昨年日本へ参りましたはアール、デー、タータと申すもので、即ちゼー、エン、ターターの従弟に当る人であります、是が一昨年日本に漫遊を致したのであります、其時に渋沢は面会しまして丁度此航路の事で相談を致しましたのが抑航路を開く発端と相成りましたので御座いまする、話が少し前へ溯りますが、其アル、デー、ターターが日本へ漫遊したのはどういふ訳であつたかといふ事を一応申上ねばなりませぬ、夫れは漫遊では御坐りましたけれども、只日本の風景を見物に来たのではなくて日本に商売を開かうと云ふ為に来たのである、其日本へ商売を開かうといふは何から源因したかと云ふと、明治廿二年で御座いましが、日本に紡績事業が追々と進で参りましたに付て、是非原料たる綿花を印度から買取るといふ趣向もせねばならず、又一方に於ては孟買もしくは甲咯陀印度地方の紡績の事業といふものも充分に取調べねばならぬと云ふ必要を生じまして、其調査の為に紡績聯合会に於て其時外務省へ御勤であつた佐野常樹と云人を内々御頼みしまして、表面は官から印度に視察に行くといふ名にしまして、其実は聯合会が旅費其外も仕賄ひをいたし、更に二人の実業者を附属せしめて印度に差出しました、此の如く其差出す所以は紡績事業を充分調べ石炭はどういふ価でありませうか、職工の賃銀はどの位でありませうか、工事を行ふ時間はどの位であるか、会社の整理の仕方はどういふ有様であるか、どれ位の製造費が掛るであろふかといふ事の極く事実を調べたゐ企望と、又一つには其原料たる印度綿花の産出摸様又は其
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販売の実況をも調査したゐといふ望でありました、其訳は追々此紡績事業が日本に発達して往く以上は、迚も日本の綿花原料で間に合ふ抔とは思ひもよらぬ、日本の地面残らず植て作つたら格別、決して綿よりは畠方で申せば藍が徳だとか、他の作物が徳だとかいふ勘定が御座ゐますから、そんなに力をいれて綿を作りませぬ、然る上は此原料は矢張り廉く出来る地から買て差支なゐ、詰り工業が盛むになればよろしゐと自分等は厚く信して居ります、今日では綿花原料は支那・印度を専らとして、埃及・亜米利加あたりからも数々買入れる様な有様になりましたが、二十二年頃に自分等は、先づ第一印度は綿国であるから其実況を調べたゐと思ひまして、前に述べた如く工業の慣例を知ると同時に、綿花原料を買入れるには何処が一番重もであるか、又夫れはどういふ耕作法であるか、農家の工合はどんな風であるか、売買の有様はどういふ都合であるか、といふ事を併せ調べて、さうしてもしも試み得らるゝならば綿も買取るといふ道を開きたゐ、殊に一方の工業視察といふは、打出して申すと日本の紡績事業が追々進むで来るといふ有様は印度人も掛念して居るから、或は実況を知り難き恐れがあるが、綿を買ふといふ名目で行く以上は決してさういふ事は無ゐ、却て綿商人が能く話して呉れて事実を知るに便もあらふ、且綿の輸入が印度から充分に得られる様に成たならば、新原料地を見附た訳であるから日本の利益であらうといふ考を持ちまして、即ち前に述べたる人を出しました、然るに其調査も充分に行届きましたし、且当時は恰も好し印度の綿の相場が廉ゐ時であり、支那・日本の綿が甚だ相場が高かつた為に、出た者が各紡積会社あたりから段々注文を電信で申越される様な次第で、着手の初年から俄に商売が進むで、殆と五六十万円の金額の綿を其一時に買入れる様な有様に至りました、印度人は日本の紡績事業が大に進むだといふ事は其一時でも少し目を驚かした有様があつた様に見へます、其取引をしましたのは多くは今申上たターターの商店でありました故に、夫れでターターといふ名と日本人との間にひとつの商業が成立ちました、其以来或は三井物産会社の商店内外綿会社・日本綿花会社其他の商店で取引する場合にはなりましたけれども、今申すターター商会が重もに印度綿を日本に売る事を取扱ひました為に、一昨年此ターターが日本に商店を開かうといふ希望を持ちつゝ漫遊と号して出て参りましたのであります、前に申上た印度へ人を派遣する事に付て私が深く関係しましたのも、実は紡績聯合会といふものゝ直接なる会員でもなく、又別に依嘱を受けて例へば相談役とか何とかいふ名を受けた訳でも御座ゐませぬけれども、丁度大坂紡績会社と申し三重紡績会社と申し紡績事業に於ては私は重もなる会社の発起者て御座いました為めに、直接に其事業を取扱ふ事はありませぬが、事の経歴も能く存して居ります為に、紡績聯合会あたりでは憚り多ゐ事で御座ゐますが、渋沢に重きを置て始終相談を致して呉れるといふ有様で御座ゐました故に、派遣した佐野氏に附属したのは大坂紡績会社の一人と三重紡績会社の一人であつた、其両人は申さば私の児分の様な性質の者で御座ゐましたから、渋沢といふ名も自然印度のターターの耳にも入れたといふ様な事から、アール、デー、ターターが日
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本に参りますと、直きに先つ渋沢を尋ねて日本の状態を聞くといふ念を起して、大坂で夫々の用事を仕舞つて東京へ出て参りました時に早速私を尋ねて呉れました、其時に私から申しまするに、扨此二十二年から続て年々印度の綿が日本へ多量需用され、又一方に於ては印度糸の需要が年々に減却するは、要するに日本人は何時迄も手を袖にして印度の製品を買ふ事ばかりはせぬ、其原料を買ふて内地で製糸を為す故である、然る時は印度人は日本で製糸を買はぬとて日本人を讐敵の如く思ふてはいけぬ、勉て原料たる綿花を売ることに注意せられ、併せて印度人が尚御考へなさらねはならぬのは、綿を売るに付ては日本からどう云品物を買つて往たならば此綿が廉く売れるであらうかといふ考を持つのが必要であらふと思ふ、詰り綿の如き嵩高の荷物は運賃に大なる関係を為すものゆへ、往航に綿を搭載して復航に何を積むとかいふ様な好ゐ便宜を得たならば、強て他の計画をせぬでも自然と其原料が廉ゐ価を以て売り得られるといふ理に成行くものであらうと思ふ、何が印度に適するかといふ事は私にも申兼るが、銅は是まてカルカツタへ輸出して居る有様であるが、石炭は今印度はどう云ふものを用ゐますか、且孟買ではどの位石炭を使用しますか、もし日本の石炭が海路遥であるから運賃が高くて引合はぬといふか知れぬが、現在新嘉坡あたりまでは行て居ります、一歩進めて綿の戻り船に石炭を積むといふ様な工合に取引を附てやつたならば、或はカヂーフ石炭を使はずに日本産の石炭を使ふ事が出来よふと申しました

竜門雑誌 ○第八一号・第一―一一頁〔明治二八年二月〕 【ターターの其時の答は、…】(DK080006k-0002)
第8巻 p.154-158 ページ画像

 ○第八一号・第一―一一頁〔明治二八年二月〕
ターターの其時の答は、成程私も石炭は最も見込があるといふ考を持て居る、其外の物は煉瓦或は雑貨にも多少望のある品もありますけれども、私の店もさう色々やる訳にもいかぬから、石炭丈けは是非充分に望を置て参つたのであるから、どふぞ石炭商人に就て充分な話をして見たゐと思ふて居る、又印度人が製品丈けを日本へ売りたいといふ昔の考へばかりを持たづに、仮令原料であつても夫を成丈け廉く売る様に仕向ける事を務めるが印度の利益を謀るに必要だといふのは御尤千万、其望を達し様と思ふには、日本から丁度戻りに充分なる荷物を得ねばならぬから石炭といふ思ひ入りも至極尤だ、夫れでは私はひとつ試験の為に四五百噸石炭を買て往きたいと思ふが、石炭商人の好い向さへ紹介して呉れろ、価格も併せて照会して呉れろと申す様な話になりまして、夫れから丁度銅の商人とか石炭の商人とかもしくは其他の向き彼是十一二人の者へ案内して、此ターターに紹介し且饗応する為に拙宅で宴会を開きました、続ゐてアル、デー、ターターが再ひ大坂へ行て、丁度益田孝氏が三井物産会社の社長の時分で御座ゐまして、三池の石炭を試に三百噸丈けを引受て往かうといふ相談に及びましたさうで御座ゐます、処が石炭の価は相談が付きましたか、其石炭を積むといふには今の彼阿の船てあつて、其彼阿の船かどの位の運賃を申したかといふと、四弗とか四弗五十仙とかいふ事と申したさうてあります、夫れて石炭の元価か一噸三円てあつたが、運賃か四弗以上掛かるどうも七円以上ては迚も孟買へ持て行ても引合になるまゐ、其時分には銀貨も今日の如くに低落しませぬからカヂーフの石炭か印度へ参
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つての価は今日より大きに廉かつた、迚も此品では英吉利の石炭から見ると二弗以上は品か下たる、然るにかゝる価ては往かぬが困ると云て、アル、デー、ターターはとうとう石炭は持て行くことをやめて印度へ帰つて仕舞ました、基後其事を聞て、どうも印度の商人は気力が乏しゐと私は謗て話をして居つた、即ち此航路を開かうといふ夫れか第一の伏線てあります
然るに昨年○明治二六年の夏になりまして、更に其ターター一族の首領とも申すへきゼー、エン、ターターといふ人か又日本へ来遊致しました、丁度五月頃大坂へ参つて居りまして、用事済み次第お前の方へ往くからといふて書面も寄賦し又言伝もして参りました、大坂へ来着して以後日本人に面会した模様を聞きますと、前のアル、デーといふ人から見ると、年配でも御座ゐますし、又実力も余程ある様子て御座ゐます、経験もあり思慮もある人さうに聞へまするし一昨年のアル、デーは充分な相談か出来なむたか、今度のゼー、エンか来たならば真向徴塵にひとつ論してやらふと私は実は楽しみ居りました、果して丁度五月の月末て御座ゐましたが、大坂内外綿会社の渋谷といふ人と三重紡績会社の伊藤といふ者とが同行して拙宅へ尋ねて呉れました、面会をする劈頭第一に其話をしだしたのて御座ゐました、もう御互に名前は相知り合つて居るし、暑い寒いの挨拶は丁寧に言はぬても日本も多少暑ゐが印度は日本よりも暑くあるといふ位は分つて居る、御前も商売の為に来たのてあらうから商売の話から先にしませう、一昨年お前の従弟のアル、デーが来た時分に斯う々々いふ話をしたが、とうもアル、デーは三池の石炭を三百噸買ふ約束をしたか運賃の為に見込がないといふて買求めることをやめて仕舞つた様子てある、併し其以後印度綿の日本へ輸入することは尚相替らす盛てある、又日本の紡績事業も其以来進歩してある故に此原料は更に需用すへき有様てある、然るに一方に此運送の事業に於ては少しも之を改良する道が見へぬ、果して此改良の道が見へぬならば日本に取つても甚だ不利益、印度に取つても不利益、日本と印度との商売をして将来の繁盛を計るならば、強ちお前の方から物を売る気にばかりなつてもいかず、又日本人がお前の方の銭ばかり取らうといふ考でもいけるものではなゐ、且此運送の事は成るべく他の品物が廉くなると同様に合せて廉くなるといふ道を求めねば決して商売の繁栄を保つ訳にはならぬものと考へます、実は日本と印度との取引は重立つたものは紡績糸もしくは綿に依つて開かれて居るといふて宜ゐので、此品物は甚だ運送の重要なものであるから、運賃を廉くすることは両国の貿易をするに大に考慮すべきことであらうと思ふて、一昨年アル、デーに話をしたのであつたが、どうも其望がまだ充分熟せぬ、其望に対して相互は甚だ遺憾に思ふ、お前が日本へ来られるには定めて其事は充分考へて来たであらうと思ふが、其考に於てお前が施す手段は何れであるかと斯ういふ尋をしました、同人の答へて曰ふに、丁度当地へ来る前に皆様よりも其模様を段々聞き及むで居りますが、一昨年アル、デー、ターターが参つた時に貴君か常に其一事を言はれたといふことは詳に知つて居ります、又三池の石炭を一旦買はふとまで思ふたが運賃の為に妨げられて約束をせずに帰つたこと
 - 第8巻 p.156 -ページ画像 
も承知して居る、実に遺憾の事であつた、私は其国の商売を盛にしやうと思ふには製造を盛にするとか殖産を務めるとかいふことも勿論勉むべきことであるけれども、航海に於て便宜を得るといふことは前の二点よりも更に重要なことであるといふことも知て居る、然るに悲しゐかな、今印度との航海は御承知の通彼阿といふものが全権を持つてやつて居ります、彼阿の外に澳地利ロイド・伊太利会社と丁度三つの営業会社が此航海権を持て居りますから、相競ふて働て呉れる訳ならば宜しゐが、悲しゐかなさうでありませぬ、皆申合せてさうして運賃は何といふても決してまけませぬ、即ち一昨年アル、デーが日本の石炭を試に用ふるといふことに考を附けたれども、四弗以上の運賃を取られます為に夫れでは勘定が立たぬといふので廃めたと申す事実です其以来は私も始終心配して、どうしても是は新航路を開く外仕方がなゐ、自身はさうたゐした資力を持つて居る訳ではありませぬが、或は船を仕出して試験の為に営業する位の力はありますから、今度こちらへ来るに付ては日本人と御相談を仕合て、どうぞひとつ爰に航海でも開くといふ道はなゐかとまで熱心に考へて居るのであります、今の貴君の航海に付てどうとか道を開かねばいかぬぞといふは、必す言はれる如く、もし貴君が言はずとも私から申上るの所存で来たのである、私は爰に貴君に御勧めするが、もし貴君が許して呉れるならば二人で船を出して、さうして此間に彼阿とひとつ競争をやつて見るといふことにしたならば、少なくとも二割以上下げても此航海業は出来る、或は雇船をして営業を致しても損をする気遣ひはあるまゐと思はれますもし貴君が貴君の資力を以て私と組合つて新航路を開くとしては如何でござゐませうか、といふことをゼー、エン、ターターが答へました、夫れ程お前が決心するならば甚た面白ゐが併し私は直接に自身が商売するといふ身体でもなし、是までやりつけぬのであるから、其資力の有無は暫く措て、直ぐ様私が船を一艘仕出してお前と組合つて此航路を起すといふことは御同意が出来ない、併し日本にも相当な船を持て営業を致して居る会社があつて、其会社には私が能く知つて居る友人も多ゐのであり、又一方の紡績事業に付てはお前も知て居らるゝ通り私は或る二三重立た紡績会社の株主で相当資本も入れてある者であるから、殊に此紡績会社は打挙つて一の団体を為して居り、其団体からも時々相談相手になれといふて相談を求めらるゝ事もあるやうな訳であります、又船の方も相談に依ては随分新規な見込を起すといふことも果して無ではあるまゐと思ふから、暫くどういふ相談が成立つかは第二に措て、夫程の覚悟を以ての話であるならば、船の会社若くは紡績事業家或は石炭業の人達をアル、デー、ターターの来た時分にも御紹介申したが、今度お前の為に再ひ紹介して、且其席にて詳議して其話を聞きませうといふことで、丁度郵船会社の森岡氏・鐘淵紡績会社の朝吹氏其他十数名の人々に案内状を出して拙宅に案内し、ゼー、ヱン、ターターを紹介し、小宴を開ゐて其旅情を慰め、続て前述の話を致しました、其要旨は御互に商業者は多忙であるが相集つて唯外来の人に対してお目出度うござるとかお近つきとかいふ形容談ばかりでなしに極く着実な用向をお話致し申さうと思ふ、今諸君に紹介した此タータ
 - 第8巻 p.157 -ページ画像 
ーといふ人は実力のある人で、印度の商売には余程詳しゐといふ事は明言される、而して日本と印度との貿易に付て憂ふへきものは海運の事である、就而頃日同氏と面会の序でに段々話をして見た所が、同人も大に奮発し、且切実に其意見を申された事であるから、どうぞ此専業者同志で能く御話をして欲しゐ、私も其事柄と場合とに因りては充分微力を尽して御賛助申す様にしたゐと思ふ、といふ事を申述べました、夫れから続て雑談にも渉り、さて雇船を以て日孟の新航路を開れたらどむな都合であらう、彼阿会社の取て居る運賃は如何であらうといふ様な話を致したので、日本郵船会社の森岡氏も其席に参会せられし故、此問題は篤と御考へ下すつたら宜からふと思ふ、ターターはあれ位まで申して居ますから、貴君が之に力を入れる考であつたならば好ゐ機会も生するであらふと思はれる、といふ一言の私は御勧めをしたのであります、森岡氏の答は、今日は斯様の御話は無い事と思ふて招かれた訳でありますから、果して今郵船会社が愈々どうといふ事は確答は為し難きことなれとも、兎に角ターターといふ人を私も一遍招きたいと思ふて居るから、其時には貴君も来会せられ、再応引合つて見た上で丁寧に相談をして見たゐと考へる、又今日の話は他の重役の人々にも丁寧に伝言したゐと思ふといふて、其日の話は概略雑談に渉つて散会しまして、夫れから丁度一週間ばかり隔てまして、森岡氏の宅に又小宴を開きまして、私もそれへ招かれて参りますし、其日には前よりは少し下話があつたものですから、郵船会社に於てももし船を出すとしたらどれ位の費用が掛かるだらふ、又どれ位の船を出したら相当であらふ、而して収入はどう見込まれるであらふと申す様な算盤を立てゝ見たのであります、依て其取調たる計算上の見込を以て宴会の席上にてターターと少し話を試みて見ましたが、ターターの云ふには、船の見積りが高過きるとか、又収入の見込が違ふとか、或は碇舶日限もさうゆつくり見積りなさらぬでも宜しいといふ説があつて、郵船会社の人々も想像に苦しむで居りました、其中に宴会の事ですから或は芸人が来て手品をするといふ様な事で熟話する事が出来得ませなむだ、丁度宴会の散するに際して私がターターに申すに、貴君は真実に此事業の創設を企望するかと問ひ、又森岡氏に日本郵船会社では此計算が引合ふならば船を出すといふ見込ありやと問ふたれは、森岡氏はいや決してなゐでは御座らぬ、夫れ故に是丈けの調べもして居るのである、併し無暗に損が立つても構はぬ只試にやつて見るといふことは御答は出来ぬと思ふ、もしやるとしたらばどういふ手段があるであらふか、右等の事に付きて熟案中とのことなりし故、郵船会社が弥々船を出すといふならは私は勿論賛成し、朝吹氏も充分に尽力して紡績聯合会と謀りて相当の荷物高及直段等の約束をする事に致し、夫れから石炭は試験中であるけれども、成へく丈相当の人を見附けて、さうして往航には石炭を積み復航には綿を積む様にすれば、甚たしく勘定が立たぬ事ではなからふかと想像される、もしやるならばさういふ手段にやつたが宜いと思ふから、幸に此ターターが是丈けに望むで居るし、私共も郵船会社が一つ爰は気張て下すつたら宜からふと思ふ、併し果して利益があるか損が立つか分からぬから切に只御願するといふ
 - 第8巻 p.158 -ページ画像 
事はいへなゐ、充分御熟考下さゐ、詰り郵船会社の為に謀つても、内地の沿海航海に付て小さゐ会社様の者の相手になつて居るといふのは今日適当な務とは思はれませぬ、外国の航路を拡張する希望は郵船会社に於て務むへき時期と思ふのであると切に之を勧誘せしに、森岡氏もいや私も然う思ふから是は能く相談を詰めて見たいと思ふ、然らば斯く御馳走寄合で話をすると話が熟さぬから、又と云はずに明日自分の宅へ郵船会社の御方も寄て呉れぬか、ターターも呼ばう、石炭屋も寄て、さうして充分に話を詰めて見る工夫はなゐか、如何さま宜からう、夫れなれは明日お目に掛らふといふものて其日は別れました

竜門雑誌 ○第八二号・第一―一一頁〔明治二八年三月〕 【夫れからして其翌日…】(DK080006k-0003)
第8巻 p.158-161 ページ画像

 ○第八二号・第一―一一頁〔明治二八年三月〕
夫れからして其翌日午後一時に一同兜町の私の宅へ打寄りまして、此日には宴会で無くつて真の商売談合なれば色々の勘定抔をも御互にそこへ持出して談合をしました、而してその会同中私より鐘淵紡績会社を代表して居る所の朝吹氏に問ふたには、どうであらうか大坂の紡績聯合会は、もし爰で郵船会社が引受けて船を出すといふ事に成たならば、相当の契約をして積荷をするといふ事が請合はれるであらうかといふ事に成つて、朝吹氏の申すのに、貴君の尽力で大坂紡績会社と三重紡績会社を此方に傾けて呉れたならば鐘淵は無論応ずるといふ事である、夫れから跡は綿屋の方で内外綿会社といふものは中々力も強し是も大抵相談が附くだらうと思ふ、日本綿花会社も同意するであらう此綿の取引をする二会社と紡績事業を直接やる三会社と、是等が聯合会では随分力の強ゐ方であるから、此等の会社が同意といふ事なれは話が組立られるから大抵届きさうなものだ、只運賃をどの位迄に引下け呉れるかといふ問題となり余り引下けては郵船会社が勘定が立たぬといふであらう、又ちつとばかりまけたならば紡績会社が新奇にさういう企をして夫れに契約をする必要は無ゐといふであらう、夫等が至つて六ケ敷所であるが、併しさうばかり云ては到底出来ぬ事であらうと思ふ、もし郵船会社が愈々船を出さうといふ覚悟が貴君方の心配から出来得るやうであつたならは、紡績聯合会へも間接に力を添へて呉れ、私が直接に聯合会を開かせて相談を纏める様に尽力して見やうと、朝吹氏の発言にて大に其談話の歩を進め、且外に海運業をやつて居る或る人が私に申し出るには、郵船会社はそむなに高く見積らぬでも此位の計算で往れる抔といふ説を出した者も御座ゐました、夫れで今日爰に同席して居ります近藤氏抔は、全体君達が悪い、自分ばかり儲けたゐといふ考から高ゐ見積りをしては往かぬ、といふて攻撃しても困る抔といふ問答もありましたれとも、詰り今彼阿の定めて居る運賃よりは大に低下しても之に対して計算が立たぬと申す程でもなからうといふ想像が生じて参りました、夫れから日本へ来る荷物に付て印度の景況はどうであるか、是はターター氏に於て尽力するものとし、且其船舶も一艘はターター氏で急度確保して出すか、又出すに付ては此事柄は其根元が日本に於て成立て居るから此二艘の船は聯絡船として働くとも日本の裁判を受くる事とし、又ターター氏はどれ程の荷物を印度に於て約束する事が出来やうと思ふか、何れ此事が成立つて往つたならば必彼阿は憎ゐといふ意思を以て競争して来ることは予め期
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して居らねばならぬ、もし然ういう場合には日本人は別段英吉利人に遠慮せぬでも宜しゐけれども、印度人にしてはさう往くまゐと思ふ、然ういふ場合に印度人と日本人か直きに方針が変るといふ事は面白くなゐ、ターター氏はそれまで覚悟してやる事が出来るかといふ事を厳しく切込むで尋ねました、其時にターターといふ人はひどく弱つて居りましてどうぞ此処で今私は斯様申すけれども、此事はターターが口外したといふ事を新聞抔に出す事は切に御止め申す、さうされるとターターの一身が迷惑しますから、併しターターばかりでは御座ゐませぬ、印度の商人は慨べて、今英吉利商人の全体に印度商売に対して処置して居る事は決して満足して居りませぬ、例へは孟買の此パーシイ人とか或は印度人とか云ふ種類の人の取扱ふ高と英吉利人の取扱ふ高とを比較すると、英吉利人の方は殆と四分の一もしくは十分の二といふて宜ゐ位で、却て土人の方か余計に取扱ひます、所が商売の上の意見とか法立とかいふものは何時でも皆英吉利人の思ふ通りに取極められて仕舞ふのです、殊に海運の事業に付ては其処置が甚だ酷で御座ゐます、現に今の澳地利ロイドでも伊太利の会社でも其初は彼阿に抵抗して航路を開きたれども、今日は皆申合を詐つてやつて居るので御座ゐます、夫故に印度人が斯くいふ企をしたといふと必憎まれるに相違なゐが、私は印度の為には憎まれるのを敢て恐れるのでも無いけれども、奈何せむ印度の今日の国の勢では英吉利に向つてさう抵抗説を持つ訳にゆきませぬから、そこは事態を能く御察し下すつて御諒察を願ふとて、真実に胸中を吐露しました、夫故私か申すには夫れは御察し申すが、然るにどの位までの荷物は見込が附くと思ふかと問ひしに、綿糸六万俵位は大抵約束し得られ様と思ふ、且自分が日本との約束に従つて一艘の船を聯絡船として出す事は決して少しも厭ひませぬ、必やる積りで御座ゐますといふ意見を確言されました、是では話が殆と纏りさうな摸様であるから、郵船会社ではもうひとつ勘定を密に御調べなされて、さうしてターター氏の日本を出立する前に大抵聯合話が纏りさうならば之を極める様にして見たゐ、然らば一方には朝吹氏が大坂で聯合会を開ゐて契約上是丈けの荷物を積むといふ事を取極める様にしたゐものである、さうしたら新航路が開けるから其方の着手をするが宜ゐ、如何にも然うしやうといふので爰に始て船を出すと云下話の纏りが附きましたので御座ゐます、其附きましたのは昨年の六月の事です、一方には郵船会社及ターターは当英吉利の雇船の相場を調へるといふ事で手続は附けて居りますし、一方には紡績の聯合会を開ゐて其相談をするといふので朝吹氏は大坂へ参りました、私は又二三の関係ある会社へは殊に詳しい手紙をやつて、是非聯合会では此事を取纏めるが日本の為に必要である、己の会社の利益のみではなくして国家の利益であるから充分力を尽くして下さゐと云つてやつた、所が殆と四十幾つといふ会社の聯合会でありますから、臨時会を開ゐた所が、いや私は夫程の資格を以て出たので無ゐとか、夫丈けの権利は持たぬとかいふ説を為す人もあり、又然うしてもし競争する場合に、どうあるかといふ推察が出来兼るから抔と、申さば誰も彼も尻込みの有様であつて、やつて見た摸様で宜かつたら同意したゐといふ
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意念の人ばかり多くて、何分速かに事が纏りませぬ、朝吹氏及三重の会社とか大坂の会社とかいふ様な人達が躍起となつて相談しましたが中々話が纏まらぬ、しかし聯合会は其案を擯斥はしませぬか、夫丈けの権利があるか無ゐか一夜株主総会ても開くといふもあり、夫丈けの権利は取締役が持て居さうな者だといふ人もあり、或はさうかも知らぬが法律上から喧ましく云はれると困るからといふ掛念を以て、暫く跡廻しになるといふ事を聯合会の多数は希望した有様であります、一方に於て郵船会社が愈々やるといふ以上は何時からやるかといへば、十月中には諸般の事を準備して十一月には必船を出すといふ丈けの手配にせねばならぬ、さう遅延されては困ると申す事にて、聯合会の話の半ばにして確と纏りの附かぬ間に、是では迚も仕方が無ゐからして聯合会中の最も有力なる四五会社でひとつ充分な担保を供して相談を纏めるといふ事にしやうといふ別問題が起きて参りました、聯合会の話はそつち退けにして、前に申上げました鐘淵・大坂・三重の三紡績会社、内外綿会社・日本綿花会社二会社ては少なくとも一会社毎に印度綿一万俵位を取扱ふは雑作も無ゐ事であらうと思ふから、此会社丈けが五万俵丈けを程度として郵船会社へ契約するといふ事にしやうといふ事に相談が転じまして、其五会社の連中が東京に来りて郵船会社へ協議して、最初は聯合会といふたけれども聯合会もまだ充分に熟議に至らさるゆへ、聯合会中の五会社が御約束をするから印度へ航路を開く事を契約して呉れといふ話になりまして私も其出張の人々と共に郵船会社へ言葉を添へて御話をいたしました、郵船会社に於ては詰り俵数を担保する事が必要であるから果して聯合会が応しなくても出来ぬといふ事は御座ゐませぬ、然らは夫れで契約しやうといふ事でやつと其約定をしましたのは九月で御座ゐました、九月に五会社との間に仮契約が成立ちましたので御座ゐます、是より先にターターはもう大抵此契約は成立ちさうだといふ所で、神戸に支店も出してありますから其支店の支配人に委細の事は相談してあとは電信もしくは書状で通知するといふ事にして日本をば立たれました、右の如く五会社との契約をします時に郵船会社に於ても又私共に於ても思惟しましたのは、弥此航路を開く時は必ず彼阿が強て競争をして来るであらう、もし競争された場合には五会社のみにて之を維持して往く事は覚束なゐ、願くは聯合会を取纏めて此契約者たらしむる事が競争の起た時に之を維持するに大に必要で有といふ事を深く思ひました、依て五会社の人達とも種々と其事を相談しまして、事を急く為に斯う約束は締結したれとも、実は聯合会か別々になつて仕舞ふといふと将来の維持が覚束なゐ、もし彼阿が競争して廉い運賃で積むといふ事になると、五会社の原料と他の紡績会社の原料との価が直ぐ違つて来る有様が生する、夫れが違つて来たならば高ゐ原料の会社は廉ゐ原料の会社に負かされる事は明かである、到底五会社の維持が立たぬ訳になつて来る、国家的の考で云へば夫れもひとつの愛国の義務といひ得るか知らぬが、営業の立たぬ様になつて来る恐が無いとも云はれぬから、其時に五会社が味噌を附けて仕舞ふのも残念だから、とうしても同一位地に居る様にせねばならぬ、所謂同舟の人にせねばならぬ、夫れで此聯合会を纏め
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る様の心配が必要である、私も充分間接に力を尽さうといふて、夫れから諸方へ手紙抔を出しまして、五会社のみの契約になつた事は一時已むを得ぬ取扱ひなれとも、是非此事は遂に国家の重要な事件にもなると思ふから、聯合会は早々其議を決して本契約をなさるが宜からうといふ事を心附かせる様に仕向けたのであつた、夫れで聯合会も五会社が契約する様なものたから善事であるといふ思入れを持つて居つたから、中には尻込む意思の人も翻つていや宜からうやろうといふ考になつて大抵同意するといふ事になり、終に聯合会の委員が更に東京に出張して、更に聯合会との契約を(担保俵数五万俵外に二万五千俵の運搬を約せしものなり)締約する様になりました、是に於て私共も初て望を達した訳で、郵船会社も喜びました、五会社も大に安心しました、其契約は五万俵の担保は前の通りで、更に聯合会といふ処からして尚其上二万五千俵までは引取る、其時には同じ直で運賃を払ほふ、又郵船会社も夫れは急度積む、尤も前の五万俵は受合ふ高なれは積むでも積まぬでも運賃を払ふ約束にして、他の二万五千俵は積むだら払ふ、即ち七万五千俵といふものが詰り契約の高になつて、契約文は前の通りで約束致しました、夫れで紡績事業の団体が残らずひとつものに成て参りましたのであります
前にも申上げました通りターターといふ者は取も直さず郵船会社の附属で、ターターの船は矢張郵船会社の附属船で扱ひは同し事にしますけれとも、権利は郵船会社にありて支配はこちらでする、斯ふゆう契約で現在やつて居るのて御座ゐます、故に運賃の定めするといふても何処へ寄港するといふても向ふが支店でこちらが本店で、こちらの指図によつてターターは働く、而して其勘定はターターの船と日本の船の計算は矢張り双方がひと纏めにします勘定になるので御座ゐます、印度の船に損があると郵船会社の損に帰するし、郵船会社の方に損があるとターターの方へも損を及ぼすといふ都合に成りますので御座ゐます、詰り其船を扱ふ制度は日本が持つて居るといふ契約に成て居ります、又郵船会社と紡績聯合会との契約は前申す五万俵丈けを担保し更に増加して二万五千俵丈けを契約部内に入れ、其他は随意といふ契約に相成て居るので御座ゐます
  ○栄一ノ此ノ演説ノ後半ハ、本款明治二十七年三月六日ノ項(本巻第一八五頁)ニ載ス。


日本郵船株式会社五十年史 第一一三―一一六頁〔昭和一〇年一二月〕(DK080006k-0004)
第8巻 p.161-163 ページ画像

日本郵船株式会社五十年史  第一一三―一一六頁〔昭和一〇年一二月〕
 孟買航路開始の由来 当社が創業後八年を経て、明治二十六年十一月孟買航路を開始するに至りし端緒は、実に明治二十四年孟買の棉花豪商アール・ディ・タタ氏来朝し、当社に対して日本・孟買間に新航路開設の緊要なるを説きたるに始まる。而かも当時機未だ熟せざるものありてタタ氏は空しく帰印せり。越えて二十六年五月に至り、同氏の意を承けて其従弟ジャムセット・ヂー・エヌ・タタ氏渡来し、渋沢栄一氏・浅野総一郎氏・並に当社社長森岡昌純氏等と相会し、英国彼阿・墺国ロイド・伊国郵船の三社が印度・支那・及び日本間の航業権を壟断する結果、啻に孟買の棉花商を苦しむるのみならず、当時専
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ら印度棉花を使用せる日本紡績にも少なからざる不利を与ふるを以て此際進んで日・印人の手に於て日孟航路を開始し、共同して「彼阿」等三社独占の弊害を除去せんことを力説せり。
 「彼阿」外二社は、数年来聯合して鞏固なる地歩を此航路に確保せるを以て、唯漫然として其間に割込むときは不測の敗を見るの虞あり、依て先づ其段取として当社は本邦に於ける紡績会社の意嚮を確め新航路開設の場合幾許の積荷保証を得べきかを定め、一方タタ氏は孟買に帰り荷主を説き、同様積荷の保証を得ることに努め、斯くして両者議熟せば当社は先づ汽船一艘を配し、タタ商会亦同じく一艘を配して六週一回の日孟定期航路を開始すべしとの要旨を取極めたるは七月十三日の事なり。斯くてタタ氏は帰印し、爾後本邦に於ける本件の交渉は、在神戸タタ商会支配人ラルカカ氏之を担任せり。又当社はタタ・エンド・サンス商会に孟買代理店を委託したり。
 紡績業者の決議 一方本邦紡績業者は、従来「彼阿」其他外国船の高率運賃に苦しみ来れるを以て、当社及びタタ氏の決意明白となるや、之が実現促進に関し八月五日大阪商業会議所に臨時大会を開催し次の議案を討議せり(当社理事近藤廉平氏招請に依り列席す)。
  一、日本郵船をして孟買へ三千噸以上の汽船二隻を航海せしむること
  二、日本郵船に委託すべき棉花運賃を一噸十三留比に一定すること
  三、現在の運賃一噸十七留比を十三留比にて日本郵船に引受けしむる以上、日本紡績聯合会会員は、同社船に積込むは勿論、或は同社が「彼阿」其他と競争する結果、約定運賃以下にて積取らざるを得ざる場合に至りし時は、約定運賃との差額をも支払ふ可き義務を有すること
 審議数日を経て八月十日漸く左の案を得たり。
  一、日本郵船との契約期間は一ケ年と定むること
  二、総て孟買より買入るる棉花の運賃は一噸十七留比を支払ふこと、但し内四留比は日本郵船より特別割引を為さしむること
  三、聯盟棉花商以外一切孟買棉花を買入れざること
  四、聯盟棉花商は聯合会以外へ孟買棉花を売渡さざること
 聯合会に於ては議論百出せしも、当社との間に数回の折衝を遂げたる結果、遂に当社と聯合会中の有志団体との間に九月九日を以て仮契約に調印を了せり。其後紡績業者間の意嚮一致し、十月二十八日に至り第一回印棉運送契約の調印を見たり。
 開航と配船増加の議 孟買に帰りたるタタ氏は彼地荷主を説く所ありしに、六週一回の定期にては荷主は積荷の保証を肯ぜず。是れ航海度数少なき船会社と結ぶは、却て「彼阿」外二社の敵視する所となり、某積出貨物に妨害を受け非常の迷惑を蒙る虞あるに由るといふ。此時恰も好し我紡績聯合会は当社船二艘使用の決議を為し、一面タタ商会亦彼地荷主の意嚮を遺憾とし、更に一艘を加ふることとなり、結局配船を倍増し当社汽船二艘タタ汽船二艘合せて四艘を似て、愈々十月より三週一回の定期航路を開始することに決したり。
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 タタ氏が尽力したる印度荷主の綿花積出保証に関しては、当時印度商人の多くは日印貿易の将来に関し予想し得るものなき為め明確なる俵数の約束を肯ぜず、依て結局復航棉花五万俵の積出をタタ商会の責任を以て当社に保証することとし、孟買に於ける各荷主との約定はタタ商会に一任することと為したり。
 斯かる経緯の下に当社は明治二十六年十一月七日を以て、第一船として広島丸(第二)(船長ジョン・バスゲート・マクミラン氏)を孟買向け神戸を解纜せしめたり。是れ実に我国遠洋定期航路の嚆矢なり。


川村利兵衛翁小伝 (大谷登編) 第七〇―七五頁〔大正一五年四月〕(DK080006k-0005)
第8巻 p.163-165 ページ画像

川村利兵衛翁小伝 (大谷登編) 第七〇―七五頁〔大正一五年四月〕
    約定書
 「ボンベー」棉花運送ノ事ニ関シ、日本郵船会社ト大阪紡績株式会社・鐘淵紡績株式会社・三重紡績会社・内外綿会社及日本棉花株式会社トノ間ニ協議約定スル所左ノ如シ
第一条 日本郵船会社ハ此約定ノ条件ニ依リ、大阪紡績株式会社・鐘淵紡績株式会社・三重紡績会社・内外綿会社及日本棉花株式会社ガ印度「ボンベー」ヨリ輸入スル棉花ヲ運送スベシ
 前項大阪紡績株式会社外四会社ヲ併称シ、以下各条之ヲ組合会社ト謂フ
第二条 日本郵船会社ハ英国ロイド会社ノ登記ヲ経、第一等ニ該当スル汽船ヲ使用スベシ
第三条 前条ノ航海ハ、天災其他不時ノ出来事ニテ航海ニ堪ヘサル場合ヲ除キ、通常毎三週一回ヲ目的トシ、少ナクトモ毎四週一回「ボンベー」ヨリ出船シ、適宜ノ港津ヲ経テ相当ノ期間ニ神戸ヘ到達スベシ
 日本郵船会社ハ其便宜ニ依リ「ホンコン」又ハ他ノ港津ニ於テ積替ヲナス事アルベシ
第四条 日本郵船会社ニ於テ前両条ノ約束ヲ履行セズ、組合会社ノ輸入棉花五万俵ヲ一ケ年ノ期間ニ運送シ得ザル場合ニ於テハ、其運送不足俵数ニ相当スル噸数ニ対シ、毎噸四「ルーピー」ノ割合ヲ以テ日本郵船会社ヨリ組合会社ヘ補償金ヲ支払フベシ
第五条 組合会社ニ於テ、棉花運送ノ為メ「シンガポール」「ホンコン」「シヤンハイ」ノ外、更ニ他ノ港津ヘ寄船ヲ要シ、其積荷一港ニ付千俵以上アリテ、本船「ボンベー」出船前相当ノ期間ニ於テ通知スル時ハ、毎三週一回ノ航海ニ差支ナキ限リハ、日本郵船会社ハ其請求ニ応ズベシ
第六条 組合会社ガ「ボンベー」ヨリ積入ルヽ棉花ノ運賃ハ、荷物本船受渡シニテ長崎神戸又ハ横浜ニ至ルマデ、一噸(四拾立方尺)ニ付印度貨十七「ルーピー」ト定メ、日本郵船会社ハ其内四「ルーピー」ヲ割引スベシ、沿道寄港ノ地ヨリ積入ルヽ棉花ハ、現今普通ノ運賃ヲ標準トシ、二割五分ヲ割引スベシ
第七条 組合会社ハ一ケ年少ナクトモ壱会社壱万俵即チ通計五万俵ノ棉花積荷ヲ担保シ、万一積荷ノ高通計五万俵ニ上ラザルトキハ、組合会社ハ一噸十三「ルーピー」ノ割合ヲ以テ、五万俵ニ対スル不足
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俵数ノ運賃ヲ日本郵船会社ニ補充スベシ
 前項補充ノ金額ハ、組合会社中其積荷一会社一万俵ニ上ラザルモノ其不足俵数ノ多少ニ割合セテ之ヲ支出スルモノナレドモ、日本郵船会社ニ対シテハ組合会社連帯ニテ其責ニ任ズベシ
第八条 日本郵船会社ハ、組合会社外ノ棉花ヲ日本ヘ運送スルトキハ総テ壱噸ニ付十七「ルーピー」ノ割合ヲ以テ運賃ヲ収入シ、其内四「ルーピー」ヲ組合会社ニ譲与スベシ、但約定外ノ棉花運賃十七「ルーピー」以下十三「ルーピー」以上ナル時ハ、其差金ヲ譲与スベシ十三「ルーピー」以下ニ降リ船腹ニ空虚ヲ生ズル場合ニ於テハ、日本郵船会社ハ及ブベキ限リ棉花以外ノ荷物ヲ以テ之ヲ充タス事ヲ勉ムベシ、而シテ尚荷物不足スルトキニ限リ棉花ヲ積入ルヽコトヲ得
第九条 組合会社ニ於テ棉花ニアラザル他ノ貨物ヲ印度地方ヨリ輸入スルトキハ、日本郵船会社ハ、其種類ニ依リ、積入当時普通ノ運賃ヨリ相当ノ割引ヲナスベシ
第十条 内外国汽船会社ニ於テ棉花ノ運賃ヲ十三「ルーピー」以下ニ引下グルモノアルトキハ、日本郵船会社モ第七条ニ掲グル担保ノ俵数ニ超過スル積荷ニ対シテハ、同一ノ割合ヲ以テ運賃ヲ引下グベシ
第十一条 日本郵船会社ハ此約定荷物ト「ボンベー」約定荷物ト輻輳スル時ト雖モ、常ニ公平ヲ旨トシ、本船容量ノ半数マデハ組合会社ノ荷物ヲ積入ルベシ、其公平ヲ維持スルガ為メ、組合会社ガ其取引先ノ綿商ヲシテ、「ボンベー」ニ於ケル回漕事務ニ参与セシムル事ヲ要スルトキハ、日本郵船会社ハ其請求ニ応ズベシ
第十二条 日本郵船会社ハ組合会社ノ積荷ヲ差措キ、他人ノ荷物ヲ積入ルベカラズ
第十三条 日本郵船会社ハ、一ケ年組合各会社ノ社員二名ヲ限リ、食卓料自弁ヲ以テ往復乗船ヲ許スベシ
第十四条 組合会社ノ積荷多キニ随ヒ、船舶ノ更替又ハ航海回数ノ増加ヲ要シ、其得失相償フベキ見込アルトキハ、日本郵船会社ハ其請求ニ応ズベシ
第十五条 日本郵船会社ニ於テ、若シ日本政府ヨリ「ボンベー」航海ニ対シ特別ノ保護ヲ受クル事アル場合ニ於テハ、該会社ハ組合会社ニ相当ノ譲与ヲナスベシ
第十六条 日本郵船会社ニ於テ、其便宜ニ依リ他ノ運送者ヲシテ、此約定運送ノ事ニ参加シ、若クハ連合セシメント欲スルトキハ、組合会社ハ之ヲ承諾スベシ
第十七条 本邦又ハ印度ニ於テ、天災若クハ人事上予期スベカラザル異変ヲ生ジ、棉花ヲ輸入シ又ハ輸出シ能ハザルニ至リタルトキハ、協議ノ上此約定ノ一部若クハ全部ノ施行ヲ中止シ、若クハ廃止スルコトアルベシ
第十八条 紡績業者及綿商業者ニ於テ此約定ニ加名セント欲スル者アルトキハ、此契約者双方協議ノ上其許否ヲ決スベシ
第十九条 組合会社ハ日本郵船会社ニ対シ、第七条補充金連帯責任ノ場合及分ツコトヲ得ベカラザル条件ヲ除クノ外、此約定ニ依リ各自権利ヲ得、義務ヲ負フベシ
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第二十条 此約定ハ一ケ年ヲ以テ期限トス、但シ契約者ノ一方ガ約定期間ニ其義務ヲ完クシ、尚向フ一ケ年約定継続ヲ申出ル時ハ、他ノ一方ハ之ニ応ズベシ
右ノ通約定シタル証拠トシテ正本六通ヲ作リ、双方記名調印シ、各一通ヲ分有スルモノ也
  明治二十六年九月九日
                 日本郵船会社
                     内田耕作
                     浅田正文
                     加藤正義
                 大阪紡績株式会社
                     川村利兵衛
                 三重紡績会社
                     伊藤伝七
                 内外綿会社
                     渋谷正十郎
                 日本棉花株式会社
                     佐野常樹
                 鐘ケ淵紡績株式会社
                     朝吹英二
  ○右約定書ハ、大阪・三重・鐘紡・内外綿・日本棉花ノ五会社ヨリ成ル日本紡績聯合会中ノ有志団体ト同会社ト交渉数回ノ後、明治廿六年九月両者間ニ成立シタル第一回印棉運送契約ナリ。而シテ交渉員等ノ集合地ハ凡テ灘万ナリシニヨリ、世ニ之ヲ称シテ灘万会議ト云ヒ、綿業界ニ喧伝セラル。右五会社ト同会社トノ契約成立後、聯合会中ノ他会社ハ其ノ頗ル有利ナルヲ感ジ、皆之ニ合流セントスルノ意向ヲ示セリ。五会社モ亦快ク合流ヲ承諾シ、我紡績業者打ツテ一丸トナス鞏固ナル対外的地歩ヲ固ムルニ到ル。玆ニ栄一其宿志ヲ遂ゲ、対彼阿外二外国汽船会社トノ間ニ将来スベキ競争ニ耐ヘ得ルコトヽナレリ。聯合会五十会社ト同会社トノ契約書ハ略々前掲「約定書」ト同様ナリ。只単ニ組合会社トアリシヲ聯合会社ト改メタル外殆ド異ル所ナシ。


日本郵船会社報告 第八回 〔明治二六年一二月〕(DK080006k-0006)
第8巻 p.165 ページ画像

日本郵船会社報告  第八回 〔明治二六年一二月〕
一海外航路ノ拡張ハ当社ノ一日モ怠ラサル所ナリ、然リト雖トモ、元来此事タル国家公益ノ大事業ニシテ、素ヨリ一会社独力ノ及フ所ニアラス、乃チ為シ能フ限リノ範囲ニ於テ、及フヘキ限リノ方法ヲ講シ、既ニ定期航海ヲ開始シタル馬尼刺線ハ勿論、香港、新嘉坡、瓜哇、濠洲其他南洋諸島ニ向テ臨時船ノ試航モ勉メテ伸張ヲ図リ、当期ノ末ニ至リ、尚進ンテ全国ノ棉糸棉花業者ト協議締約シテ新タニ神戸孟買間ニ定期航路ヲ開設セリ、蓋シ競争モ起ルヘク困難モ来ルヘシ、其結果如何ハ予シメ期スヘカラスト雖トモ、素ヨリ百折不撓ノ覚悟ヲ以テ開始シタルモノナレハ、飽マテ之ヲ継続セサルヘカラス、果シテ之ヲ継続スルニ於テハ、数年ニシテ本邦航権ノ一進歩トシテ視ルコトヲ得ルニ至ルハ信シテ疑ハサル所ナリ、成蹟ノ一端及実際ノ状況ハ次年度ニ於テ詳細報告スヘシ
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日本郵船株式会社事業報告書 第九回 〔明治二七年一一月〕(DK080006k-0007)
第8巻 p.166 ページ画像

日本郵船株式会社事業報告書 第九回 〔明治二七年一一月〕
抑モ本社ニ於テ昨冬始メテ孟買航路ヲ開クニ至リシ起因ヲ由ヌレハ、事、数年ノ前ニ胚胎セリト雖トモ、実ニ去年大日本綿糸紡績同業聯合会ト訂結シタル契約之カ主要ノ近因タラズンハアラス、夫レ紡績業者ハ其原料ノ棉花ヲ印度ノ市場ニ需ム、然ルニ其之ヲ日本ニ運送シ来ルニハ、彼阿其他ノ外国船ニ頼ラサル可ラサルヲ以テ、自ラ高キ運賃ヲ払ヒ、結局需要者ト供給者ト共ニ其不利ヲ蒙ルノ勢アリ、及ホス所我綿糸紡績業ノ発達ヲ害スル尠カラサルニ依リ、本社ニ望ムニ此航路ノ開通ヲ以テセリ、本社ハ素ト常ニ外航ノ拡張ヲ以テ其志トナスモノ、乃チ再三熟慮、遂ニ多少ノ困難ハ予メ之ヲ覚悟シ、意ヲ決シテ其需ニ応スルコトトシ、直ニ予テ孟買棉花ノ輸出者タル「タタ、エンド、サンス」商会ト連合シテ、我ハ我カ紡績業者ニ約シ、彼ハ彼ノ棉花綿糸ノ輸出者ニ約シ、遂ニ此航路ヲ開クニ至レリ、其船舶ハ我二艘、彼二艘合計四艘ト外ニ臨時船一艘トヲ以テ、昨年十一月七日神戸出帆ノ広島丸ヲ初航トシ、本年九月末ニ至ル迄航海ノ度数ヲ重ヌルコト九回、此間彼阿会社其他外国船ノ劇烈ナル競争アリ、而レトモ今日ニ於テハ先ツ彼等外国船ヲ以テ棉花ヲ我国ニ輸入スル途ヲ絶チ、此一面ニ於テハ且ラク我当初ノ目的ヲ達シ得タルカ如シト雖トモ、我モ亦之カ為メ連合者タル「タタ、エンド、サンス」商会ト共ニ、各々巨万ノ損失ヲ蒙ルノ止ムヲ得サルニ会セリ、然リト雖トモ今ヤ事既ニ騎虎ノ勢アリ、而シテ顧ミテ紡績業者ノ利害ハ勿論、本社ノ体面ト国家商権ノ之ニ繋リテ関スル所甚タ大ナルモノアルヲ思ヘハ、此創始当時ノ損失ヲ以テ、直ニ此航路ヲ閉止スルカ如キハ、啻ニ本社ノ欲セサルノミナラス、蓋シ国家公衆ノ斉シク之ヲ欲セサル所ナルヲ知ルヘシ、而シテ此航路ノ発達ハ我外航拡張ノ前駆ニシテ、今日多少ノ犠牲、他日必ズ直接間接ニ其報償ヲ我邦ニ向テ生シ来ルヘキハ、既ニ之ヲ開航以来我物産ノ漸ク其販路ヲ印度地方ニ開カントスル傾向アルニ徴シテモ卜知スルニ難カラス、況ンヤ一般ノ大勢ニ就テ之ヲ鑑ミルモ、孟買ノ地タル、商業ノ要枢ニシテ、勢ヒ我ヨリシテ我商権ヲ張リ及ホスヘキ範囲内ニ在リト謂フモ不可ナキモノナルニ於テヲヤ、故ニ本社ハ株主一同ニ於テモ深ク此趨勢ヲ察シ、此航路ノ持続拡張ニ向テ熱心ノ同意ヲ表セラレ、国家公衆亦必スヤ傍観坐視セス、進ンテ此事業ヲ賛助シ、公益ノ為メニ此素志ヲ貫徹セシムルニ躊躇セサルヘキモノタルヲ信シテ疑ハサル所ナリ
○中略
一当期中各航路及船舶配用ノ有様左ノ如シ、但本年六月以降多数ノ御用船ヲ命セラレタルニ依リ、各航路中或ハ其航海ノ回数ヲ減シ、或ハ一時其航海ヲ中止シタルモノアリ
 神戸孟買線
  社船弐艘及聯合船(孟買「タタ、エンド、サンス」商会汽船)弐艘ヲ以テ毎三週間一回両港ヲ発船シ、往航ハ下関、香港、新嘉坡「コロムボ」寄港、復航ハ此外、上海ニ寄港ス、尚臨時「チユチコリン」「ペナン」ニ寄港スルコトアリ、又横浜迄延長スルコトアリ
 - 第8巻 p.167 -ページ画像 

本邦綿糸紡績史 (絹川太一著) 第四巻・第四三四―四三六頁〔昭和一四年二月〕(DK080006k-0008)
第8巻 p.167 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕東京日日新聞 〔明治二六年六月二二日〕 郵船の孟買航路 紡績業者の態度一つで(DK080006k-0009)
第8巻 p.167-168 ページ画像

東京日日新聞  〔明治二六年六月二二日〕
    郵船の孟買航路
      紡績業者の態度一つで
 孟買棉を低廉に輸入せんが為めに郵船会社の直航を開かしむべしとの計画、紡績会社中に之れある由は已に報道せし処なるが、郵船会社の意向なりと云ふを聞くに、直航を開くは遠洋航海を発達せしむるに於て固より利益あれば、会社の利害は兎も角進んで之れに応ずべき筈
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なれども、右に対しては外国汽船の競争を生ずるは必然の数なれば、予め之れに当るの覚悟なかるべからず、然るに内外棉会社の如きは、今日に於てさへ外国汽船の運賃を低減する場合は、之れに搭載せざれば内地の販売は神戸居留地商の為めに占領せられんと云へり。如何様棉会社の云ふ所も一理あれども、斯くては会社は折角の航路を開くも再び閉ぢざるべからざるに至らん、去れば始めより之れを開かざるの優れるに若かずと云ふにある由なれど、真に全国の紡績会社が聯合して、内外棉会社及び三井物産会社の外孟買棉を買入れざるの契約を結び、飽まで国利を増進し内商を保護するの目的を達したらんには、棉会社に損する所なく、郵船会社も又安心して此要求に応ぜざるべき道理なければ、其筋の認可をも受け承諾するに至るならんと云へり。


〔参考〕朝野新聞 〔明治二六年九月一四日〕 日本郵船の孟買新航路開通(DK080006k-0010)
第8巻 p.168 ページ画像

朝野新聞 〔明治二六年九月一四日〕
    日本郵船の孟買新航路開通
 先頃来頻りに交渉中なりし孟買新航路は、愈々日本郵船会社と鐘淵・三重・大阪の各紡績、内外棉・日本棉花の各会社との間に協議纏り、去九日を以て約定書の取替迄を決了せしが、右に就き郵船会社に於ては、差当り三菱会社の汽船朝顔丸を買入れ、此の航路の通ひ船に充る筈にて、既に其契約成りたり。尤も同汽船は目下三菱会社に於て修繕中に付、修繕を終りたる上は、直に受授の手続をなす事となり居れる由、而して航海を始むる場合には、一航海に付、綿糸業者より代表者として、二名宛を渡航せしむる筈なりと云ふ。
  ○尚此孟買航路ニ関シテハ、本書第二編第一部第三章商工業中ノ大日本紡績聯合会明治二十六年五月ノ項及ビ同年八月五日ノ項(本書第一〇巻)参照