公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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明治20年4月(1887年)
浅野総一郎浅野回漕部ヲ創立ス。栄一之ヲ援助ス。
青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第九〇七─九〇八頁 〔明治三三年六月〕(DK080013k-0001)
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青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第九〇七─九〇八頁〔明治三三年六月〕
浅野回漕部ハ明治二十年四月浅野総一郎ノ創立ニ係リ、専ラ貨物ノ運輸回漕ヲ以テ営業トスルモノニシテ、資本金二十万円ナリ
同回漕部所有ノ船舶ハ万国丸・金沢丸・日ノ出丸・鶴丸・竜丸等ニシテ、其噸数ハ左ノ如シ
船名 総噸数 登簿噸数
万国丸 二、三三六、六六 一、四四八、七三
金沢丸 一、二三五、九一 八九五、二五
日ノ出丸 一、一三六、六五 六六七、六五
鶴丸 四〇八、六四 二五三、三六
竜丸 一〇六、〇三 五七、二六
青淵先生ハ回漕部ノ為メニ資ヲ給シ、其経営ノ方針ニ付テハ常ニ相談ニ与レリ、浅野ハ非常ノ勉強家ニシテ、回漕部ノ規模小ナルニモ拘ハラス、海運上一般荷主ニ便益ヲ与ヘタルコト少ナカラス、明治二十九年四月四日回漕部ハ解散シ、浅野ハ先生ノ助力ニヨリ更ニ東洋汽船株式会社ヲ組織セリ
浅野総一郎 (浅野泰治郎 浅野良三 著) 第四四一―四五四頁〔大正一四年二月〕(DK080013k-0002)
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浅野総一郎 (浅野泰治郎 浅野良三 著) 第四四一―四五四頁〔大正一四年二月〕
○上略日本郵船会社の態度に注目を怠らなかつた惣一郎は、合併後の独占振り、漸く顕著なるに及んで、奮然独力蹶起の意を又々渋沢さんに訴へた、共同運輸会社が日本郵船会社となつて間も無い明治十九年の夏七月であつた。
『頭下げて高い運賃を払ふのは余りに馬鹿気てゐますから、自分の使ふ石炭とセメントだけは、せめて自分の船で運びたい、高い運賃は、時に産業を破壊します、私は是非とも自分で運賃の安い運送会社を設立したいと思ひますから、二十万許り出す賛成者を求めて頂きたい、私も二万や三万は出します。』
と言ふと、渋沢さんは気軽に、
『さう云ふ訳なら、其出資者を勧誘してみようが、俺は日本郵船の重役関係があるから、公然といふ訳には行かぬ。』
と言はれた、結局渋沢さんは自分の外に、渋沢喜作と今一人郵船会社の某幹部(名前は出せなかつた)とを出資者に、勧誘して下さつたので、忽ち組織成り、浅野回漕店の名目の下に明治十九年十一月開店して、惣一郎は希望を実現した。
最初に手に入れたは、独逸人所有の古船『ベロナ』号であつた、『ベロナ』号は積載量千弐百噸船価四万円の古船であつた、横須賀の船渠に
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廻航して、船底の検査をして貰つた、『ベロナ』号を日の出丸と改名した、次いで金沢丸・鶴丸・万国丸等数隻の汽船を購入し、運賃は精々安く、顧客に対しては飽く迄懇切叮寧を旨とした、此時の資力は十四万円であつた。
○中略
二十八年から二十九年に亘つて土佐汽船会社なるものが土佐人の間に組織されて、浅野回漕店の所有船買入れの希望申出でがあつたので、二十万円で所有の古船四隻を売却した。
○中略
勇ましかつた浅野回漕部の名は、其後京浜間の艀船経営によつて存続されて、大正の御代に至つたが、大正八年七月三十一日百五十万円《(九)》の株式会社となり、名称を関東運輸株式会社と付け、百三十艘の艀船を京浜間の貨物輸送に提供してゐる。
○浅野回漕部ハ「青淵先生六十年史」ニヨレバ解散サレタリトサレ、「浅野総一郎」ニヨレバ存続シテ関東運輸株式会社トナレリトサルヽガ、コノ点ニツキ本編纂室ノ問合セニ対シ、関東運輸株式会社ヨリ左ノ如キ回答ヲ得タリ。
『浅野総一郎』に浅野回漕部は後、関東運輸株式会社となつたとあるがこの浅野回漕部と明治二十年創立のそれとは、名称こそ同じであるが、必ずしも前者は後者の継承ではない。即ち、浅野回漕部は一たん解散し後東洋汽船の外に浅野系の京浜運輸株式会社、並びに尾城汽船株式会社が、夫々、阿部吾市、尾城満友両氏により設立され、後者は後自然消滅の形となり、前者は後再び浅野同族株式会社の手に回収され、再び同社浅野回漕部なる名称の下に営業を続行した。この浅野回漕部が大正九年に関東運輸株式会社と改称されたのである、従つて当社には明治二十年創立の浅野回漕部に関する資料はない。東洋汽船か浅野同族会社にでも行つたらあるかもしれない。○問合セ若クハ採訪ノ結果、資料ナシ
なにしろ、古いことだから間違ひがあるかもしれないが、とにかく、当社が明治時代の浅野回漕部の継続後身でないことは、たしかである。その点『浅野総一郎』の記述よりも、回漕部が解散したとする『青淵先生六十年史』の記述の方が正しいと思ふ。
(八十島親徳) 日記 明治三三年(DK080013k-0003)
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(八十島親徳) 日記 明治三三年 (八十島親義氏所蔵)
九月廿五日 晴
九時出勤、浅の惣一郎氏ピーオー会社ノロセラ其他一艘買入レ渋沢翁原六郎両氏ト共ニ匿名組合ヲ設ケ、浅の回漕部ヲ再興スルノ企アリ
九月廿九日 晴
午後五時ヨリ兜町邸ニテ同族会アリ、浅の回漕部組合設立ニ付加入、七万円出資ノ事○下略
関東運輸株式会社沿革(DK080013k-0004)
第8巻 p.256 ページ画像
関東運輸株式会社沿革 (関東運輸株式会社所蔵)
当社ハ其前身浅野同族株式会社回漕部ト称シ、東洋汽船株式会社ヨリ一部出資ヲ得、同社ノ船内荷役ト在来ノ艀トヲ併合シテ、大正九年七月三十一日、玆ニ資本金百五十万円(払込済資本金百二十万円)ノ関東運輸株式会社創立セラル。大正十二年九月一日大震災ニ遭遇シ、艀・水蒸汽船・什器等ノ焼失並ニ附帯ノ損害金莫大ニ上リタル為、大
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関東運輸株式会社創立に関する書類(DK080013k-0005)
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関東運輸株式会社創立に関する書類 (関東運輸株式会社所蔵)
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正十二年十二月廿五日定期株主総会ニ於テ資本金百五十万円ヲ百万円ニ減資セリ(其ノ方法トシテ一株額面五十円内四十円払込済三株ヲ併合シテ一株額面五十円内三十円払込済二株トス)
現在艀数九十八隻(積載噸数一〇、七二一噸)小蒸汽船六隻
東京本社 東京市芝区海岸通リ三丁目二番地
横浜営業所 横浜市中区海岸通リ五丁目廿六番地
新宿営業所 東京市渋谷区千駄ケ谷町五丁目九九三
西多摩出張所 東京府西多摩郡大久野村新井二、四六九
川崎出張所 川崎市扇町三五ノ三
営業課目ハ海陸運送業ノ外ニ、税関貨物取扱人・船舶代理店ランヂングエゼント・船内人夫請負業・倉庫業等ナリ
社長浅野総一郎
東京市芝区海岸通三丁目二
関東運輸株式会社
○欄外ニ「浅野良三氏実業団代表トシテシヤムニ行カレルニ就テ堤芳雄氏ノ依頼ニ依ツテ提出セル書類(昭和十一年二月十九日)」トアリ。