デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
1節 海運
5款 日清汽船株式会社
■綱文

第8巻 p.286-289(DK080017k) ページ画像

明治40年2月13日(1907年)

栄一外十一名、政府ヨリ日清汽船株式会社創立委員ニ依嘱サレ、是日第一回創立委員会ヲ開ク。栄一委員長ニ推サル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK080017k-0001)
第8巻 p.286 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四〇年
二月十三日 晴 軽暖
○上略五時銀行倶楽部ニ於テ内田管船局長其他ト清国長江筋汽船会社ノコトヲ協議ス○下略
   ○栄一日記二月十六日ノ記事ヲ欠ク。此日第二回創立委員会開カル。


竜門雑誌 第二二五号・第四二―四三頁〔明治四〇年二月二五日〕 ○長江航路各汽船会社合同の計画(DK080017k-0002)
第8巻 p.286 ページ画像

竜門雑誌 第二二五号・第四二―四三頁〔明治四〇年二月二五日〕
○長江航路各汽船会社合同の計画 長江航路に於ける帝国の汽船会社は大東・湖南・大阪商船及日本郵船の四会社にして其船舶十一隻、一万七千噸あり、之に新造中のものを加ふれば約三万噸に達する由なるが、兼て其間に合同の計画ありて、今般新汽船会社を創立することゝなり、本月十三日日本橋区坂本町東京銀行集会所に其協議会を開かれたり、当日の出席者は先生を始め、益田孝氏・荘田平五郎氏・日本郵船会社の近藤廉平・岩永省一両氏、大阪商船会社の中橋徳五郎・竹内直哉両氏、大東汽船会社の田辺為三郎氏、湖南汽船会社の白岩竜平・土佐孝太郎両氏にして、合同に関し夫々打合を為されたり


竜門雑誌 第二二六号・第四四―五頁〔明治四〇年三月二五日〕 ○日清汽船会社創立の計画(DK080017k-0003)
第8巻 p.286-287 ページ画像

竜門雑誌 第二二六号・第四四―五頁〔明治四〇年三月二五日〕
○日清汽船会社創立の計画 長江航路各汽船会社合同のことは前号に記せしが、其議熟して今般日清汽船会社創立目論見書の発表を見るに至れり、其目論見書左の如し
 一、本会社の資本金は八百拾万円とし、之を十六万二千株に分ち、一株の金額を五拾円とす
 二、資本金の内八百万円此株十六万株は、大阪商船株式会社・日本郵船株式会社・湖南汽船株式会社・大東汽船株式会社に於て引受け、左の財産を提供して出資に充つること
  大阪商船株式会社財産種類 船舶・地所・建物 ○財産価格 参百七拾万円 ○株式の数 七万四千株
  日本郵船株式会社財産種類 船舶・地所・建物 ○財産価格 参百弐拾九万円 ○株式の数 六万五千八百株
  湖南汽船株式会社財産種類 船舶・地所・建物・什器 ○財産価格 八拾壱万円 ○株式の数 一万六千二百株
  大東汽船株式会社財産種類 船舶・地所・建物・什器 ○財産価格弐拾万円 ○株式の数 四千株
 - 第8巻 p.287 -ページ画像 
 三、資本金の内拾万円此株数二千株は、発起人其他にて引受くるものとす、前項の資本金に対する払込は一株に付全額、即ち金五拾円を一時に払込むものとす
 四、本会社は、清国の内河・沿海並に之に関聯する航路に於て水運業を営むを目的とし、必要に依り倉庫業及代理業を営むことあるべきこと
 五、本会社は先以て汽船総噸数二万七千噸以上を備へ、左に掲ぐる航路の航運に従事し、漸次船舶を増加し、南北清其他の航路を開始すること
  一、上海漢口線 二、漢口宜昌線 三、上海蘇州線 四、上海杭州線 五、蘇州杭州線 六、鎮江清江浦線 七、漢口湘潭線 八、漢口常徳線 九、鄱陽湖線
 六、本会社は大阪商船株式会社・日本郵船株式会社・湖南汽船株式会社・大東汽船株式会社との協約に依り、揚子江航路・湖南航路上海蘇州杭州航路・鎮江清江浦航路に於ける使用汽船・躉船・水陸設備等を譲受け、其営業を継承すること
  前記四会社は、将来揚子江本支流の航路のみを目的とする水運業を営まざるものとす
 七、本会社は、大阪商船株式会社及日本郵船株式会社と聯絡輸送の契約を締結し、双方輸出入旅客貨物の優先接続を為し、互に必要なる利便を図ること
 八、本会社は政府の発せらるゝ命令条款及将来之に基て発せらるゝ時々の命令を遵奉し、定款の制定変更は政府の認可を経て之を施行し、営業並会計に関し政府の監督を受くること
猶ほ営業開始の上は、資本金参百九拾万円を増加して千弐百万円と為す筈にて、又資本金の五分の一以内に限り、清国人をして所有せしむるを得ることゝせる由なり、而して航路は現在各会社の経営しつゝあるものゝ外、右目論書見中に記する如く、新に鎮江清江浦線、漢口常徳線及び鄱陽湖線を開始する筈なり
又創立委員は左の如く決定せり
  岩永省一   土佐孝太郎  加藤正義
  田中市兵衛  田辺為三郎  竹内直哉
  荘田平五郎  中橋徳五郎  益田孝
  藤田平太郎  近藤廉平   渋沢栄一
  白岩竜平
猶創立委員長には各委員の推薦に依り先生之に当らるゝことゝなりたり


日清汽船株式会社三十年史及追補 第三四―三六頁〔昭和一六年四月〕(DK080017k-0004)
第8巻 p.287-289 ページ画像

日清汽船株式会社三十年史及追補 第三四―三六頁〔昭和一六年四月〕
南京条約締結以後六十年、今や支那沿岸航運は著しき発達を見るに至つたが、其中に於て最も顕著なる事実は、外国勢力の伸張甚しきこと、並に其の舞台として揚子江航路が中心たるの観を呈したことであつた。揚子江が支那富源の中枢たる以上固より当然の現象であるが、此処に羽翼を伸さんと試みた汽船会社は、既述の主要会社以外に中小
 - 第8巻 p.288 -ページ画像 
数十社を数ふるのであつて、長日月の間に在りては興亡隆替常ならぬ状を繰返した結果、日露戦争直後に於ける揚子江航運は、英国二社、独逸二社、仏国一社、支那二社、及び日本四社に略ぼ淘汰され、揚子江航運は五国、十一社、合計十万噸を超ゆる船舶が入乱れて角逐是れ力むるに至つて居た。
 我国の大東汽船・大阪商船・湖南汽船・日本郵船の四社が、相踵いで進出せるの経緯は前章記述の如く、既に其間動かすべからざる勢力を扶植し得たけれども、各国間或は各社間の競争は年と共に激成され経営素より容易なりとは称し難かつた。明治三十八年五月、時の政友会総裁西園寺公望公は親しく揚子江各地を巡遊視察した結果、敏くも現状革新の要を先見し、之を政府に進言せられたるが如きは此間の消息を伝ふるものである。間も無く日露戦争中急激なる発展を遂げた我国海運は、明治三十九年には早くも全般的の景気反動に見舞はれ、各社経営の合理化を要するもの尠しとせなかつた。玆に於て、揚子江上に分立して競争又競争の渦中に在つた前記四社の航路は、朝野識者の注目する所となり、之を打つて一丸と為し、兄弟牆に鬩ぐの力を合して以て外国に対抗せしむべしとの議大に起るに至つた。
 即ち我が政府当局者は、同年中時の逓信省管船局長内田嘉吉氏をして此の問題に当らしめ、関係四会社に対して熱心に勧誘する所があつた。四社も亦た其の必要を覚知せる際とて、直に熟議を重ぬるに至り合同に関する諸般の調査を遂げ、之が具体案を復申するに及んで諒解全く成り、政府は新会社に下附すべき航路補助金額を定めて、之を明治四十年度政府総予算案中に編入して議会に提出し、同年二月予算案の議事進行に伴ひ、新会社創立委員を依嘱するに至つた
 政府の依嘱を受けたる創立委員は、男爵渋沢栄一・荘田平五郎・益田孝・田中市兵衛・藤田平太郎・近藤廉平・岩永省一・中橋徳五郎・竹内直哉・田辺為三郎・白岩竜平・土佐孝太郎氏の十二氏であつて、明治四十年二月十三日東京市日本橋区阪本町東京銀行集会所に相会し一同新会社創立委員たることを承諾の上、第一回創立委員会を開き、左記の事項を議決した。
 一、男爵渋沢栄一氏を創立委員長に、岩永省一・田辺為三郎・竹内直哉・白岩竜平・土佐孝太郎の五氏を常務委員とすること。
 二、会社創立に関する方法は来る十六日の会合に於て決すること。
 超えて二月十六日、日本郵船会社楼上に於て第二回創立委員会を開催し、協議を進めたが、当初政府の慫慂による新会社の資本金は壱千弐百万円と定められ、委員一同異議無かつたけれども、政府命令書の関係上新会社は四月一日より開業する必要あるに対し、既に時日切迫して多額の資本を公募の手続を経る遑なく、此点を当日の主要議題として種々考究の末、左記の如くに決定した。
 一、社名を日清汽船株式会社と定む。
 二、日清汽船株式会社の資本金を八百拾万円とす。
  此株数十六万二千株(額面五拾円、全額払込済)
   内   十六万株 大阪商船会社・日本郵船会社・湖南汽船会社・大東汽船会社にて財産出資引受
       二千株  発起人其他にて引受
 - 第8巻 p.289 -ページ画像 
 三、営業開始後参百九拾万円を増資し、資本総額を壱千弐万百円となすこと。
 四、創立委員は一同発起人たること。
 此他新会社の定款・目論見書・対四会社契約書等、創立に必要なる事項を議決した。
 三月九日に至り、明治四十年度政府総予算案成立したるを以て、即日必要書類を逓信省に提出し、同時に創立委員一同(之より先、加藤正義氏欧米漫遊を終つて帰朝に付、創立委員を委嘱)発起人となりて創立のことを発表し、同十一日株金全額の払込を完了した。
   ○湖南汽株式会社ニツイテハ第六章対外事業第四節「支那」ノ項ニアリ。