デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
2節 鉄道
7款 北海道炭礦鉄道株式会社
■綱文

第8巻 p.721-726(DK080063k) ページ画像

明治26年9月27日(1893年)

栄一同会社常議員ヲ辞ス。


■資料

東京経済雑誌 第二七巻第六六九号・第五〇〇―五〇一頁〔明治二六年四月八日〕 ○炭礦鉄道会社の官選社長を公選に改む(DK080063k-0001)
第8巻 p.721 ページ画像

東京経済雑誌 第二七巻第六六九号・第五〇〇―五〇一頁〔明治二六年四月八日〕
    ○炭礦鉄道会社の官選社長を公選に改む
北海道庁長官北垣国道氏は今回北海道炭礦鉄道会社へ下付せる命令書第二条を改正し、社長の官選を公選に改め、去月廿九日を以て之を同社に達せり、今其達書及び命令書第二条の新旧両文を示せば左の如し
 其社命令書第二条の官撰を廃し公撰を命す
  但し命令書の改正により定款中改正を要する条項は、株主総会の決議を経て願出づべし、且官撰に係る現任重役は後任者の就職に至る迄在職者と認む
   明治廿六年三月廿九日
               北海道庁長官 北垣国道
   命令書第二条(改正)
 正副社長及理事の任免は、利子補給の年限間は、北海道庁長官の認可を請ふべし
 正副社長及理事にして其職務に堪へざるか、又は不当の所為ありと認めたるときは、北海道長官は時日を期して臨時改撰を命することあるべし
    同(旧)
 正副社長及び理事は、利子補給年限間は、北海道庁長官之を任免するものとす
故に改正に拠れば、正副社長及び理事は株主に於て公選し、北海道庁長官の認可を請ふこととなり、而して其社長には多分前農商務次官西村捨三氏が公選せらるべしと云ふ


北海道炭礦鉄道会社第八回報告 〔明治二六年一一月〕(DK080063k-0002)
第8巻 p.721-722 ページ画像

北海道炭礦鉄道会社第八回報告 〔明治二六年一一月〕
○総会決議 本年五月十五日東京々橋区木挽町厚生館ニ於テ株主定式総会ヲ開キ、二十五年度下半季間社務実際ノ報告ヲナシ、同季間利益配当ノ割合ヲ議決シ、続テ臨時総会ヲ開キ、定款第二十条・第二十一条但書並ニ第二十四条・第三十二条ヲ改正シ、且ツ命令書第二条ニ依リ社長理事ノ公撰ニ付、更ニ予定常議員撰挙ヲ行ヒ、田中平八・渋沢栄一・園田実徳・高島嘉右衛門・井上角五郎・雨宮敬次郎・北村英一郎・森重固・田中新七ノ九氏当撰、尚又二十七年度社債募集金弐拾万円ヲ二十六年度ニ繰上クルノ件ヲ議定セリ
○定款改正ノ認可 定款第二十条・第二十一条但書・第二十四条・第三十二条改正ノ件、本年五月二十三日政府ノ認可ヲ得タリ
○重役ノ更迭 定款ノ改正認可ニ付、予定常議員中互撰投票ヲ以テ高島嘉右衛門氏ハ社長ニ、園田実徳・井上角五郎・北村英一郎ノ三氏ハ理事ニ、田中平八・渋沢栄一・雨宮敬次郎・森重固・田中新七ノ五氏
 - 第8巻 p.722 -ページ画像 
ハ常議員ニ撰定シ、直ニ社長・理事ノ撰任ハ本年五月二十三日北海道庁長官ノ認可ヲ得、何レモ上任、同時ニ理事二木彦七・同平井晴二郎常議員湯地定基・同東条頼介・同西園寺公成ノ五氏ハ退職、検査役北村英一郎氏ハ辞職セリ、但常議員渋沢栄一氏ハ本年九月二十七日其職ヲ辞シタリ
   ○右定款改正ノ眼目ハ従来ノ社長理事官選ヲ会社株主ノ公選ニヨルコトニ改メタルナリ。


青淵先生六十年史 第一巻・第九五四頁 〔明治三三年二月〕(DK080063k-0003)
第8巻 p.722 ページ画像

青淵先生六十年史 第一巻・第九五四頁〔明治三三年二月〕
同廿六年五月十五日同会社重役改選ニ方リ、又常議員ニ挙ラレ、同年九月二十七日先生同会社常議員ヲ辞ス、又所有ノ株ヲ尽ク売却ス、人アリ其留任ヲ請フ、先生曰ク、今ヤ会社予定ノ線路全ク布設ヲ了シ、炭山モ亦悉ク開採ス、既定ノ目的ヲ達シタリト云フヘク、且社業ノ隆盛亦昔日ノ比ニアラサルナリ、何ソ余ヲ要センヤト、又以テ先生抱負ノ如何ヲ知ルヘシ


植村澄三郎談話(DK080063k-0004)
第8巻 p.722-723 ページ画像

植村澄三郎談話 (竜門社所蔵)
    北海道炭礦鉄道会社に関聯しての青淵先生と私
○上略
 扨て事件解決後井上馨氏が内務大臣に就任せられたので、此の会社は井上さんの監督を受けることになつた、青淵先生は井上さんとはもとから懇親であられたから「会社のことは十分頼んでやる。社長にはどう云ふ人がよいか」などゝ頻りに心配して下さつて居たのに、井上さんはあゝ云ふ人であるから、其の一流の筆法で先生に無断で以て、社長専務の配置をしてしまつた。専務に井上角五郎氏を据ゑ、雨宮敬次郎氏などが重役となり、少し後に内務省土木局長であつた西村捨三氏を社長に据ゑると云ふ風であつた。そして平重役も更迭があると云はれたに際し、まつ先に先生は辞表を提出された、何分此の重役選任が突然であつたことが、先生の此の会社と関係を絶たれた原因であつたやうに思ふ。兎に角その年の秋であつたか暮になつてからか、先生は罷めてしまはれたし、私としては会計の検査騒ぎも済んで新重役も定つたとすれば、前途甚だ面白くなかつたので、同じく辞表を、まだ其時は社長であつた高島嘉右衛門氏に提出して会社を去らうとした。且又私を此の会社へ推薦してくれた恩人松本荘一郎氏も、内務省の処置に憤慨され、私に対し「君も再び官吏にならぬか、井上局長(勝)も君のことはよく知つて居るから、書記官に任用してもらつてやる」と云はれるので、私としては渡りに舟と考へ「お願ひします」と云つて置いた。青淵先生は最早会社の重役ではないが、今までに何かの場合の救世主であつたから、私は何事も一応報告して置かねばならぬと考へ、もとの第一銀行の建物へ或る日の午後三時頃お訪ねして、つぶさに会社の成行なり私個人のことなりを申上げた処、先生は私の辞職に不同意を唱へられ「君は会社の創立宴会の時芝の紅葉館で矢野二郎に何と云はれた。よもやあの時の言葉は忘れないであらう、私は堀社長には縁故はない、たゞ会社の事業が国家に有益なものであるから従
 - 第8巻 p.723 -ページ画像 
事するのだ、と答へたではないか。社長が代つても事業は変らぬ筈だ。今辞職するのは心得違ひだ、且つ官吏にもどるとは是亦心得違ひだ。君は旧幕臣の子であると聞く。明治維新後既に二十年も経つのに官辺に於ては維新当時の余弊が残つて居て、旧幕臣と云へば亡国の臣の如く考へ、可愛さうだから使つてやると云ふ風がある。私ももと僅かではあるが、慶喜公の下に幕臣となつて居たこともあるから同情に堪へぬ、であるのに再び官吏になると云ふのは残念と思はぬか、どうしても炭礦鉄道が嫌なら他に実業界に道を求める方法もある、吉川(郵船副社長)の如きも、此度の炭礦鉄道の改革で植村が若し解職にでもなるなら、俺の方にも使ひ道はあると云うて居られたから、郵船へ行くことも出来、又他の事業方面へ従事することも出来よう、然し自分としては現在の炭礦鉄道会社の為にも君は必要な人物と思ふ、私が同社の重役を退いたからとて君も辞さねばならぬ筈はない、君が誠実に勉励するならば、天下は広いから自然に認められて、己の志を達することも出来るだらう、そんな再び官吏にもどらうと云ふやうな、いくぢのない考へは起さない方がよい」と、懇々利害得失を説かれ、遂に点灯時刻に至るも尚ほ私の辞職に同意されなかつたので、私は先生の好意に感涙を催し「誠に私の心得違ひでした。では閣下の御申聞に従ひませう。然し辞表を既に高島社長の手許に提出してありますから、今更取戻す事も男子として出来難い所です。故によし官吏になることは中止しても辞職のみは已むを得ないとして御承認を願ひます」と答へた処、「高島社長に対することは心配に及ばぬ、私が必ず其の処置はするから安心して居た方がよい」との御言葉であつたので、ここに私は其辞表を撤回する考へになり、社長にも軽卒を詫びることになつたのである。誠に青淵先生は斯くまで親切な方であつて、普通の人とは異ふと感じながら、点灯後退出したのであつた。
それから私は明治二十六年になつて、炭礦鉄道の常務監査役となり宇野鶴太と云ふ人に経理部長の職を譲つた。○下略
   ○明治二十五年八月五日伊藤博文組閣、井上馨内務大臣トナル。



〔参考〕井上角五郎君略伝 〔大正八年一一月〕 ○第七一―七四頁(DK080063k-0005)
第8巻 p.723-724 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕井上角五郎君略伝 〔大正八年一一月〕 ○第一九一―一九四頁(DK080063k-0006)
第8巻 p.724-725 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕過去六十年事蹟 (雨宮敬次郎述) 第一七〇―一七五頁〔明治四〇年七月〕(DK080063k-0007)
第8巻 p.725-726 ページ画像

過去六十年事蹟 (雨宮敬次郎述) 第一七〇―一七五頁〔明治四〇年七月〕
    炭鉱鉄道の整理
 最初私は炭鉱会社と関係がなかつた、所が田中平八と云ふ人が炭鉱株を沢山持つて居た、持つて居た所が段々下つて仕舞つて、五十円払込の株金か四十円、三十五円に下つて仕舞つた。会社の資本総額は六百五十万円であつた、所で日本銀行へ一株四十五円で抵当に入つて居た、纏つて二百万円から抵当に入つて居たが、段々調べて見ると云ふと、其株は日本銀行が早晩処分して仕舞ふと云ふ話。そこで二百万円を出して救済してやらねば、田中の家が滅びて仕舞ふ、田中の家と私とは特別の関係があるから、私が義侠心を出して、華族銀行に金を出して貰ふ為めに、松方さんに手紙を書いて貰つて、柏村さんの所に夫れを持つて行つた。
 所が二三百万円なら都合が出来るだろうと云ふて、会議を開いて呉
 - 第8巻 p.726 -ページ画像 
れた所が否決せられて仕舞つた。「会議には一体どふ云ふ人達が入つて居るのですか」と私が聞くと「是々の華族の御家令達が入つて居る」と云はれたから、私は見ず知らずの重なる人々の処に廻つて、其有益なることを説いた、説いた所が、山本直成さんが先づ「さふ云ふ訳ならばどうかしても宜い」と云ふような話になつて来て、兎に角視に行ての上にしやうと云ふことになつた。
 其処で日本銀行に交渉して、田中の処分を三ケ月待つて貰つた、それから華族銀行から三輪信次郎さん其他の重役が七八人視に行つた所が、是は非常に良いと云ふので、直ぐ金を二百万円出して呉れて、日本銀行へ入つてる炭鉱株を受戻す事になつた、而して愈受戻す事に定つたから、其の以前に銀行に勧めて株を買はせ、自分も三四万株払込以内に買つて、其上で受戻しにかゝつた、そうすると、日本銀行では吃驚して仕舞つた。真逆都合は付きはしまいと思つて居つた所なんだから……。そこで忽ち炭鉱株も十円騰つて六十円になつて、三十何万と云ふものが儲つた、自分は其時一万株ばかり有つて居つた。
 所で華族銀行も儲かつたから其株を手離した。それを私が買つたり何かして都合五万株を有つことになつて仕舞つた、其時に会社の方には誰が入つて居つたかと云ふと、高島さんが社長で、渋沢さん、浅野総一郎さんなどが役員で居たが、株主の顔が一変したので、社長が辞すると云ふことになつた。所が会社を受取るべき人がない、そこで此処に井上角五郎さんが出て来た、あの人を見出したのは松方さんで、二三年ばかり前に、松方さんの紹介で、私の処へ事業上の話をしに来た事があつた、段々交際つて見ると可なり話せる人である。
 そこで炭鉱会社に入てはどうか、併し唯入つてはだめだ、株を買つて入んなさいと言ふた、所が井上さんの云ふには「御親切有難いが私には一文も無い」「なに五万円ばかり借金をして千株買つたら宜いでせう」と云ふと井上さん驚いて「自分はそんな借金をした事はない」と云ふ、「抵当を入れゝば少しも恥ではない、儲かるのだからいゝぢやないか」と言ふのでとうとう井上さんを勧めて入れることになつた。
 そうすると云ふと、書生上りだから憎まれて居る、あんな者を入れてはいかぬと云ふて、攻撃の手紙、無名の手紙が私の手許にどしどしやつて来る、其時分役員は田中新七さんに森重固さんと井上さんとであつた。其の三人と私とで、北海道へ炭鉱を視察に行つた、新規な者ばかり四人で行つて、片端から社員を免職して仕舞つた、そうして北海道《アチラ》の改革を行つた。其時私共四人は草鞋履きで、向ふの者は立派な車に乗つて居ると云ふやうな有様であつた、それから六月になつて東京に帰つて来たが、今に至るまで、井上さんは実際炭鉱会社の事務に当り、とうとう今の繁栄をした、それで世の中の者は嫉妬を起して、之を攻撃をして来る、其矢面には私が立つて、働かせるから、井上さんは充分に働けた。それであるから、今では炭鉱鉄道は大変に発達して、日本随一の会社となつた、年一千万円の収入、即ち日本政府の二十五分の一の歳入がある、これを井上さん一人が自由に切り盛りして居る、之れを見ると井上さん一人に日本政府の財政を任かせても大丈夫だらうと自分は思つて居る。