デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
2節 鉄道
8款 常磐炭礦鉄道株式会社
■綱文

第8巻 p.727-734(DK080064k) ページ画像

明治22年7月23日(1889年)

福島県郡長白井遠平同県平町ヨリ茨城県水戸町ニ至ル間ニ鉄道ヲ敷設シ磐城石炭運搬ノ便ヲ開カントシ、之ヲ栄一等数名ニ謀ル。栄一等之ニ賛シ、是日発起人会ヲ開ク。然ルニ翌年一月出願セントスルニ際シ、鉄道局長官井上勝其時機ニ非ラザルヲ以テ中止セシム。其後白井遠平等常磐炭礦鉄道期成同盟会ヲ組織シ、二十六年再ビ栄一等ニ其援助ヲ請ヒ、此事成ラントセシガ、日本鉄道会社ニ於テ該線ヲ敷設スルノ意アリ。仍テ之ヲ止ム。


■資料

日本鉄道株式会社沿革史草稿 第二篇・第五六―六二頁(DK080064k-0001)
第8巻 p.727-728 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

日本鉄道史 中篇・第二九二―二九五頁〔大正一〇年八月〕(DK080064k-0002)
第8巻 p.728-730 ページ画像

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有限責任 常磐炭礦鉄道会社創立規約(DK080064k-0003)
第8巻 p.730-731 ページ画像

有限責任 常磐炭礦鉄道会社創立規約
    有限責任 常磐炭礦鉄道会社創立規約
本会社ハ福島県下磐城平ヨリ茨城県下水戸市水戸鉄道会社線路ニ連絡スル鉄道布設、及ヒ両県下採炭事業ヲ創立スルニ当リ、規約ヲ定ムルコト左ノ如シ
第一条 本会社ハ常磐炭礦鉄道会社ト称シ、本社ヲ福島県下磐城平町ニ設置ス
第二条 本会社ハ福島県下磐城平ヨリ水戸鉄道会社水戸停車場ニ至ル鉄道ヲ布設シ、運輸ヲ営ミ、併テ福島茨城両県下諸山ヨリ石炭ヲ採掘販売スルモノトス
第三条 本会社ノ資本金総額ハ弐百五拾万円ニシテ、内金弐百万円ヲ鉄道部ノ資本金トシ、金五拾万円ヲ以テ炭礦部ノ資本金トス
第四条 本会社ノ株式ハ五万株ニ分チ、壱株ヲ五拾円トス
第五条 本会社ノ株式ハ其総株数弐割則金五拾万円ハ発起人負担シ、其余ハ広ク募集スヘシ
第六条 本会社ノ創立費用ハ各発起人平等ノ出金ヲ以テ一時立替支弁シ、追テ本会社創立許可ノ上、各発起人ノ引請タル株金ノ内ニ其金額ヲ組入ヘシ
第七条 本会社ノ炭礦部炭山ハ差向福島県下白水近傍炭山ノ採掘ニ着手シ、漸次他ノ炭山ニ着手スルモノトス
  但シ本文ノ炭山ハ其借区主ヨリ、壱坪金五銭ノ割合ヲ以テ、固定資本トシテ組入ベキ予算ナリ
第八条 本会社ノ定款ハ発起人ニ於テ制定シ、重役初期ノ撰挙ハ其定款ニヨリ、発起人ニ於テ撰定スルモノトス
第九条 本会社第二条ノ営業ヲ為スニ必要ナル官有物払下ケ、及各炭礦其地物品買受ケ、又ハ示談金ヲ以テ譲受ケ等ノ事ハ、発起人ニ於テ総テ取極メ執行スルモノトス
第拾条 発起人ハ発起人中ヨリ委員五名以内ヲ互撰シ、総テ創立事務ヲ委任スベシ
  但委員ハ無給ニシテ創立ノ上株主総会ニ於テ其報酬ヲ定ムヘシ
第拾壱条 本会社設立許可ノ上株式ヲ募集スルニ当リ、其申込高ニ超過スルトキハ之ヲ謝絶シ、又ハ各申込高ニ比例シテ其株数ヲ逓減スルコトアルベシ
 - 第8巻 p.731 -ページ画像 
第拾弐条 本会社ノ株式加入ヲ申込ム時ハ、壱株ニ付保証金壱円相添ヘ、左ノ雛形ニ依リ株式申込証書ヲ差出スベシ、但第一回払込期日ニ至リ払込ヲ為サヽルトキハ、該保証金ハ没収スヘシ
   印紙 株式申込証

 一金 株式 株
   但壱株ニ付金五拾円
 右ハ、拙者儀貴社創立規約書並ニ定款ノ趣旨ニ従ヒ、頭書ノ株数引請度候、依テハ保証金トシテ一株ニ付金一円ヲ相添ヘ此段申込候也
                   住所
  年 月 日               何 某印
    常磐炭礦鉄道会社
        創立委員御中
第拾三条 本会社ハ営業中満十ケ年間日本鉄道会社及ヒ水戸鉄道会社ト特約ヲ結ヒ、本社線路ヲ出テ経過スル石炭運賃ハ最下低ヲ以テシ尚該運賃ノ両会社収入高百分ノ五割引補助ヲ受クルモノトス
第拾四条 本会社ノ元資金ハ鉄道・炭礦両部間彼是流用ナスコトヲ不得ト雖モ、収益金ハ両部合計ヲ以テ計算配当スルモノトス
第拾五条 本会社ノ収支計算ハ左ノ如クス
    鉄道部元資金弐百万円
一金              当部間収益金
一金              日本鉄道会社補助金
一金              水戸鉄道会社補助金
   内
  金             当部間営業一切ノ諸費
 差引
  金             総益金
    炭礦部元資金五拾万円
一金              当部間収益金
   内
  金             当部間営業一切ノ諸費
 差引
  金             総益金
右両部合計
  金             総益金
   内
  金             積立金 総益金百分ノ五ヨリ十ニ止ル
  金             役員賞与同断
  金             配当金
  金             繰越金
右之通リ
                       発起人

中外商業新報 第二三七五号〔明治二三年二月二三日〕 常磐炭礦鉄道会社の発起人会(DK080064k-0004)
第8巻 p.731-732 ページ画像

中外商業新報 第二三七五号〔明治二三年二月二三日〕
    常磐炭礦鉄道会社の発起人会
 - 第8巻 p.732 -ページ画像 
水戸鉄道線路に連続して、磐城国平町に至る五十七哩間に敷設すべき彼の常磐鉄道の計画に就ては、曩にも記載せし処ありしが、其後愈々敷線することに決したるにより、去る二十日を以て発起人奈良原繁・小野義真・渋沢栄一・平沼専蔵・川崎八右衛門・天野仙輔・長谷川清白井遠平・大倉喜八郎・浅野総一郎・塙裁・菊池示の諸氏枕橋八百松楼に会合して協議を遂げ、予算の報告等を為したり、今其組織を聞くに、社名は常磐炭礦鉄道会社とし、資本総額を二百五十万円とし、彼の北海道炭礦鉄道会社の例に傚ひ、資本を鉄道・採炭の両部に分ち、二百万円を以て鉄道資本とし、五十万円を以て採炭資本と為すことに決し、本月中には仮免状下附出願の筈にて、事務担任の創立委員を撰挙せしに、平沼専蔵・川崎八右衛門・長谷川清・天野仙輔・白井遠平の五氏当撰し、創立事務取扱員には菊池示氏に当撰したり、尚聞く処に拠れば、磐城に産する白水石炭は其質九州地方産出のものに比すれば稍劣る処あれども、会社が見積りたる処にては、東京着にて一万斤二十円以内には販売し得らるゝにより、昨今東京に於ける市価一万斤二十八九円の相場に比すれば、太したる懸隔なるべし、されば一ケ月に三千万余斤を消費する東京市場の需用に供すれば、価格の低廉なる点よりいふも、必ず過半は販路を得るに至るべきかといへり、又此鉄道にして竣工せば、水戸鉄道は元より、日本鉄道会社に対しても其れだけ貨物の搭載を増加すべきにより、右両会社と特別の契約を結び、常磐線より搭載して得たる収入金の百分の五を補給することとなし、已に其契約を結びたりといふ


中外商業新報 第二三八二号〔明治二三年三月四日〕 ○常磐炭礦鉄道会社(DK080064k-0005)
第8巻 p.732 ページ画像

中外商業新報 第二三八二号〔明治二三年三月四日〕
    ○常磐炭礦鉄道会社
同会社にては愈々去一日仮免状の下附を出願したる由



〔参考〕浅野総一郎 (浅野泰治郎浅野良三著) 第三七二―三七六頁〔大正一二年六月〕(DK080064k-0006)
第8巻 p.732-734 ページ画像

浅野総一郎 (浅野泰治郎浅野良三著) 第三七二―三七六頁〔大正一二年六月〕
○上略 愈々着手された磐城炭山は、炭脈豊富にして、掘られた炭は、日に日に山積されたが、運輸は寧ろ原始時代のように、馬と牛との力を借りる外に智慧の無い拙劣な方法で、小野浜《(小名浜)》といふ処に運搬され、そこから帆船積して、京浜に輸送された、此不完全な運輸方法が、途上のロスと賃金とで、高価な石炭をドンドン喰つた、利益を目的とした折角の炭礦も、最初は決算毎にマイナスを計上する苦境が続いた、これでは諾かぬといふので、其頃出来た許りの鉄道敷設の議が出て、渋沢さん同道、小野浜から山へと視察に出掛けた結果が、時の鉄道庁長井上勝氏の智恵を借用しようといふ事となつて、帰京早々、渋沢さんと惣一郎《ちち》とが井上氏を訪づれた、そして事情を具して意見を叩くと
『今日は余程面白い日だ、銀行屋さんとセメント屋さんとが、鉄道を敷くなんテ、それは商売違ひではありませんか。』
 と快活な井上氏は、仰山らしくとでも思つたか、声を挙げて嗤はれた。此一言が、躍如たる当時の面目だ。
 結局、三十封度の軌条を十哩敷いて、山から小野浜迄の牛馬運搬の
 - 第8巻 p.733 -ページ画像 
不便丈けは除かれた、これが明治二十年五月である。
 小野浜からは、依然帆船の便を藉つたが、海の上の仕事、況んや自然の風と天候とのみに、船足を走らせてゐる帆船の回漕である、商機に臨んで敏な惣一郎も、大自然を相手に相撲はとれなかつた、炭山経営の算盤玉は、馬車運搬当時程ではなかつたが、依然として弾き切れなかつた、為めに大期待を持つて望んだ磐城炭礦も、前後七ケ年といふものは、無配当の悲境にあつたので、同志の人達も一人去り二人去つた、悪い時には悪い事の重むもので、坑内に水が出て、再挙難しとせられた時、惣一郎は自分一個の責任に於いて、再起を企てた、工業界の将来を思ふ時、渋沢さんと惣一郎とは、此上の艱難嵩むとも、初志の貫徹を期せずば止まぬ決心を、相顧みては、暗黙の裡に、互の眼と眼に語つたことも一再に止まらぬ、時は進んで明治二十一年となつた、日本鉄道会社が、上野から宇都宮・白河・郡山・福島を経て仙台に通ずる現在の東北線を完成して、山国の交通を一変せしめ、物資の有無を相通ぜしめた此快挙に慣つて、磐城炭礦山麓の湯本より、上野に通ずる海岸線を敷設して、石炭輸送の便と、一般交通の開拓を、計劃するに至つた、足立太郎氏を招いて、踏査計劃せしめた処が、弐百万円の資金を得ば、平・上野間に鉄路を完備する事が出来るといふ予算を得た、今日掘つた石炭を、明日東京の市場に売るといふことは、船足の遅い回漕よりも、遥かに有利であるといふので、一夕兜町の渋沢事務所に、海岸線敷設の相談会を催すことゝなつた、小野日本鉄道会社長・佐々木通運会社長代間中忠直氏・川崎八右衛門氏の三人を招きそれに渋沢さんと惣一郎とが加はつての会議の結果、弐百万円を、日本鉄道会社で五十万円、通運会社で五十万円、川崎八右衛門氏が五十万円、残りの五十万円を渋沢さんと惣一郎とに於いて分担出資し、即刻敷設に着手する手筈が定まつた
 鉄道敷設の出願書は、軈て、鉄道庁長井上勝氏の手許に提出された時に公務あり、磐城地方を巡回して帰京された井上氏は、惣一郎等一派の出願に係る海岸線の使命の大なるに、実地視察の結果、今更の如くに驚かれ
『海岸線を敷設されては、日本鉄道の東北本線は、宛も筧の水の洩れるやうなものだ、其線路は、日本鉄道が、設計全部を譲受けて、日本鉄道会社一個の手に於いて、敷設せなければならぬ。』
 といふ非常な意気込みで、日本鉄道の小野社長へ鉄道庁長から急使が立つた。
 それから間も無い日、渋沢事務所へ、小野社長から、設計譲受交渉の第一回の手紙が投げ込まれた、此手紙は、渋沢事務所に保管されてある筈である、其書翰の文言中に、敷設を譲つて貰ふ代償として、磐城炭礦の石炭は、特別の運賃で運搬するといふ交換条件が認められてあつたので、協議の結果、磐城炭礦会社は、石炭を掘るのが主なる目的であるから、鉄道経営は、日本鉄道に委ねようではないかといふことになつて、其方から手を引いた、日本鉄道の努力で、海岸線は、比較的速かに完成した、これが明治三十年三月である、磐城炭礦の、此鉄道によつて受けた恩恵は、口に尽せない、無配当が前後七ケ年の長
 - 第8巻 p.734 -ページ画像 
きに亘つた会社が、一二割の好配当を持続しつゝ、然かも豊富なる炭脈と相俟つて、遂に今日の磐石の基礎の立つに至つたのは、皆是れ海岸線の齎らした恩恵として、長く記憶に残す必要があらう。と同時に海岸線の竣成により、同地方の開発さるゝ時期を早めた功績を尋ぬるの機ありとせば、渋沢さんと惣一郎とは、正に其功史中に録さるべきであらう。
   ○右磐城線工事ハ明治二十八年二月起工、三十一年八月水戸岩沼間全通シ、従ツテ土浦線ヲ経テ上野青森間ニ直通列車ヲ運転スルニ至レリ。而シテ明治三十四年以降、磐城線ハ水戸線・土浦線・隈田川線ト共ニ、総括シテ海岸線ト称セラル。(日本鉄道史中篇・第二九五―二九六頁ニ拠ル)