デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
2節 鉄道
15款 掛川鉄道株式会社
■綱文

第9巻 p.147-151(DK090016k) ページ画像

明治28年12月27日(1895年)

掛川鉄道株式会社創立発起人ノ一員トシテ、是日山崎千三郎・藤山雷太等ト共ニ出願ス。許可サレズシテ会社解散ス。


■資料

(掛川鉄道株式会社) 創立願・起業目論見書・貨物旅客取調表・仮定款(DK090016k-0001)
第9巻 p.147-149 ページ画像

(掛川鉄道株式会社)
創立願・起業目論見書・貨物旅客取調表・仮定款
    掛川鉄道株式会社創立願
今般、静岡県遠江国佐野郡掛川町ヨリ、同国周知郡森町ヲ経テ、同国豊田郡二俣町ニ達スル軽便汽鑵鉄道ヲ敷設シ、以テ旅客貨物運輸ノ業ヲ経営仕度、其理由ヲ左ニ開陳仕候、遠江国ノ地勢タル、中央以北ハ山脈重畳、為ニ交通ノ便ヲ欠キ候ヘトモ、巨木良材ヲ出シ、製茶業ノ最モ盛ナル、其他椎茸・薪炭・石灰等ノ物産ニ富ムハ、実ニ此ノ地方ニ有之候、而シテ二俣町ハ、天竜川ノ東岸ニ位シテ、同川沿岸ノ物産殊ニ材木ノ輻湊スル所、又森町ハ北部山間地方ニ入ルノ咽喉ニシテ製茶等匯集ノ地ニ御座候ヘハ、人口ノ数、繁栄ノ度、東海道ノ旧宿駅ニ拮抗仕候、然レトモ其位置僻遠ナルヲ以テ、遂ニ東海道ノ利沢ニ浴スルコト甚タ薄ク、二俣町ハ天竜川ヲ利用仕候ヘトモ、激流ヲ遡ルニ至ラバ運輸ノ遅滞蓋シ酷シキモノ有之候、又森町ハ現今僅ニ県道及私道ヲ以テ、東海道鉄道ノ停車場地タル袋井町・掛川町ニ通スル而已、交通ノ不便決シテ尠少ナラス候、是実ニ国運日進ノ今日ニ当テ、概歎ニ堪ヘサル情況ニ御座候ヘハ、今般発起人等相謀リ、二俣・森町及掛川間ニ鉄道ヲ敷設シ、遠州北部ノ人民物産ノ為ニ、交通運輸ノ便ヲ開始仕度、玆ニ出願ニ及ヒ候次第ニ御座候、森町・袋井間ノ道路、森町掛川間ノ道路ニ比シテ稍々平坦ナルヲ見テ、寧ロ袋井町ニ連絡スルノ利ヲ説クモノ有之候ヘトモ、是一ヲ知テ二ヲ知ラサルノ徒ニ御座候、抑モ天竜川沿岸ヨリ伐出スル材木、及森町近傍ヨリ生産スル製茶・椎茸等ハ其数巨万、而シテ多クハ東京・横浜ニ向テ輸送スルモノニ候ヘハ之ヲ東方ノ掛川停車場ニ致スハ、西方ノ袋井停車場ニ送ルノ迂ナルニ勝ルハ明瞭ノ儀ニ御座候、又森・二俣及其近傍地方カ他ニ仰クノ物品ハ、多ク東方ヨリ来ルモノニ御座候、加之、掛川町ハ遠州ニ在テハ浜松ニ亜クノ都会ニシテ、近来米穀取引所ヲ設置シ又静岡県私立銀行ノ巨擘タル掛川銀行本店ノ所在地ニ候、是ヲ以テ鉄道一タビ其間ニ敷設セハ、二俣町・森町トノ交通ハ今日ニ倍蓰シ、彼我ノ利益決シテ尠少ナラスト存候、又掛川町ノ南方ニ位セル城東郡ハ、山林ニ乏シタ米田ニ富ミ、北部地方ト全ク需要供給ノ道ヲ異ニシ候ヘバ、今般発起ノ鉄道落成ノ後ニ於テハ、過剰ノ米穀ヲ北部地方ニ送リ、以テ不足ノ材木薪炭等ヲ同地方ニ仰クハ、自然ノ勢ニシテ、双方経済上ノ便益之ニ過
 - 第9巻 p.148 -ページ画像 
クル者ナシト存候、城東郡ハ広袤大ニシテ人口多ク、今般発起ノ鉄道成功ノ日ヲ待テ、之ヲ同郡ノ中央ニ延長センコト、是亦発起人等ノ予メ冀望仕候処ニ御座候
地方現今ノ情況実ニ前陳ノ如ク、是ヲ以テ発起人等今回諸般ノ調査ヲ遂ケ、明治廿年勅令第十二号私設鉄道条例第一条・第二条ニ基キ、別紙書類相添ヘ、具状仕候間、軽便汽鑵鉄道敷設ノ儀、御認可被成下度此段奉願上候也
  明治二十八年十二月廿七日    掛川鉄道株式会社
                      創立発起人連署
    逓信大臣 白根専一殿

    掛川鉄道起業目論見書
第一 当会社ハ株式組織トス
第二 当会社ハ鉄道ヲ敷設シ、荷物及旅客運輸ノ業ヲ営ムヲ以テ目的トス
第三 当会社ハ掛川鉄道株式会社ト称シ、本社ヲ静岡県遠江国佐野郡掛川町ニ設置ス
第四 当会社ノ敷設スヘキ線路ハ、静岡県佐野郡掛川町ヨリ、同郡西南郷村・同郡大池村・同郡垂木村・同郡原谷村・同県周智郡飯田村・同郡森町・同郡園田村・同郡一ノ宮村・同県豊田郡三川村・同郡広瀬村・同郡野部村ヲ経テ、同郡二俣町ニ至ル、即別紙略図ノ如シ、其哩数ハ拾六哩ニシテ、軌道幅員ハ三呎六吋トス
第五 当会社ノ資本金ハ五拾万円トシ、之ヲ壱万株ニ分チ、壱株ノ金額ヲ五拾円トス
第六 当会社鉄道ノ敷設費及運輸営業ノ収支概算ハ左ノ如シ
 一金五拾万円         総額 ○内訳略
 一金六万〇四百拾四円     収入総額
    内訳
   金参万弐千七百四拾九円  貨物収入
   金弐万七千六百六拾五円  乗客収入
 一金弐万四千弐百五拾壱円   営業費総額
 一金四千円          準備積立金
    収支差引
 一金参万弐千百六拾参円    純益金
   但資本金五拾万円ニ対スル年六朱四厘三毛余ニ当ル
第七 当会社ノ存立期限ヲ予定セズ
第八 発起人ノ氏名住所及発起人各自ノ引受株数ハ左ノ如シ
          静岡県遠江国小笠郡掛川町元南西郷八十七番地
          平民農
一六百株                  山崎千三郎
          同県同国同郡同町掛川五百七十四番地平民農
一四百株                  松本義一郎
          同県同国同郡掛川町元南西郷八十七番地平民
一壱百株                  山崎覚次郎
 - 第9巻 p.149 -ページ画像 
          東京市深川区福住町四番地
一弐百株                  渋沢栄一
          同市同区清住町一番地
一壱百株                  浅野総一郎
          東京府北豊島郡王子村十五番地
一壱百株                  大川平三郎
          東京市芝区金杉新浜町一番地
一五百株                  藤山雷太
                         ○外七十名略
 合計九千五百五拾株
  此金四拾七万七千五百円
右之通
  明治二十八年十二月二十七日       発起人連署
   逓信大臣 白根専一殿
    掛川鉄道貨物旅客取調及収支明細表○略ス
    掛川鉄道株式会社仮定款○略ス
    掛川鉄道線路図○略ス


青淵先生六十年史 第一巻・第九七八―九八一頁 〔明治三三年二月〕(DK090016k-0002)
第9巻 p.149 ページ画像

青淵先生六十年史  第一巻・第九七八―九八一頁〔明治三三年二月〕
掛川鉄道株式会社ハ、明治二十八年頃ノ創立ニ係リ、青淵先生其発起人タリ、其目的ハ、静岡県遠江国佐野郡掛川町ヨリ、同国二俣町ニ達スル、軽便汽鑵鉄道ヲ布設シ、以テ旅客及貨物ノ運輸ヲ営ムニアリ、而シテ其資本金ハ三十万円《(五)》ナリトス、今左ニ同社創立願書ヲ掲ク
○中略
同会社ノ出願ハ政府ニ於テ許可セス、他ノ会社ニ敷設ノ許可ヲ与ヘタルヲ以テ、終ニ中止解散セリ
  ○敷設許可ヲ与ヘラレタル会社ハ遠参鉄道ナリ。(後掲ノ山崎覚次郎「鉄道小話」ニヨル)


山崎覚次郎談話筆記(DK090016k-0003)
第9巻 p.149 ページ画像

山崎覚次郎談話筆記
             昭和九年十二月六日小石川区原町一二六番地
             山崎氏邸ニテ談
◇青淵先生六十年史に出てゐる掛川鉄道の創立願は、私が書いたものです。どうして私が書かされたかと云へば、あれは私の郷里だつたからです。渋沢子爵がどうしてあの鉄道に関係せられたかと云へば、それは当時の王子製紙会社の工場が天竜川の上にあつた、それで掛川鉄道を会社が利用するといふ関係から、大川さん○大川平三郎などから云はれて関係せられたので、あれは明治二十九年の事です。


帝大新聞[帝国大学新聞] 第六三二号〔昭和一一年六月二五日〕 鉄道小話(山崎覚次郎)(DK090016k-0004)
第9巻 p.149-151 ページ画像

帝大新聞[帝国大学新聞]  第六三二号〔昭和一一年六月二五日〕
    鉄道小話(山崎覚次郎)
○民間有志者の提案で線路変更の官設鉄道
 東海道鉄道の完成したのは明治二十二年であるが、其線路の一部が最初の設計とは大分違つて出来上がつたのである。其一部とは焼津駅から中泉駅までの間で、最初の設計に依れば、大崩隧道から海岸に沿ふ
 - 第9巻 p.150 -ページ画像 
て大井川の河口に出て、そこから遠州に入り、川崎・相良・横須賀を経て中泉に通ずるのである。従つて藤枝・島田・金谷・日坂・掛川及び袋井の旧宿駅は遠く鉄道から離れねばならなかつた。世人一般は何等の関心を有たなかつたが、之を知つて捨て置き難き大事と気附いたのは、掛川町の河井重蔵氏と山崎千三郎の二氏であつた。直に線路変更の運動に着手し、先づ上記の六宿駅並に其附近の諸村に説いて、其住民多数の調印した請願書を作製し、之を携へて鉄道局に陳情した。
既に設計が決定して居るので、当局が容易に聴き入れなかつたのは当然である。そこで、二氏は実地踏査を行ひ、其結果金谷辺から隧道を穿てば線路の著るしく短縮することを発見したので、之を理由として直に請願を重ねた。当局も其の合理的なることを認めたから、翻然従来の設計を捨て、大体に於て民間側の提案を採用し、而して其の実現したのが現在の線路で、実に五十キロメートル余の距離である。
  一停車場の位置でさへも激烈な争奪戦が行はれる今日から見れば、上述の如く相当大きな設計変更は嘘のやうに思はれるが、全く事実である。而して其の容易に行はれ得た主因は、当時世間が鉄道の効能を知らなかつたのみでなく、却て之を忌避する傾向さへあつたことに存する。東海道の停車場には、従来の都市から可なり遠く離れて居るものが往々見当るが、其理由の一は玆に在ると思ふ。上述の線路変更の際に、遠州南部の人々が之を雲烟過眼視して、何等の対抗運動を起さなかつたのも原因は同じである。大きな音響を立てゝ列車が通過すると、其度毎に線路の両側で働いて居る農夫が之を眺めて時間を浪費するから、鉄道は敷設されない方がよろしいと唱へた人もあつたと聞く。併しながら此等の人々を嗤ふのは酷である。
 鉄道に対する認識不足は我国に於てのみではなかつた。第十九世紀の三十年代から四十年代にかけ、欧洲諸国に於て鉄道の敷設され始めたときは、英国や仏蘭西でも、鉄道の将来を悲観した政治家が多かつたと云はれる。
 ニユルンベルグ・フユルト間の鉄道が計画されたとき、汽車は乗客並に目撃者に脳症を起させるであらうと考へたバイエルン国の医師会は、少くとも目撃者を保護する為に、線路の両側に高い板塀を建てることを国王に請願したと云ふことである。他にも類似したことが必ずあつたであらう。彼のフリードリツヒ・リストは米国に於て鉄道の効力の顕著なることを実験し、母国に帰つて其必要を疾呼したのであるが、初めは其共鳴者は甚だ少なかつたやうである。而も其功績が漸く認められて其生地ロイトリンゲン市に銅像の建設せられたのは、一八四六年に非業な最後を遂げてから十七年を経た一八六三年である。私も先年南独に遊んだ際、此像を仰ぎ観て不遇な愛国者の当時の心情を偲び、転た感慨深きを覚えた。
  曩に其名を掲げた河井重蔵氏は現今宮内省の帝室会計審査局長官である河井弥八氏の父で三回も衆議院議員になつたこともあり、大正十四年に歿した。山崎千三郎氏は私の叔父で掛川町長を勤めたこともあつたが、明治二十九年に早世した。此両氏は親密な友人で、
 - 第9巻 p.151 -ページ画像 
種々な事業に於て常に協力したが次節に述べる他の鉄道問題では全く対立することになつた。各自己の所信に従つて行動したので洵に已むを得なかつたのである。
○鉄道建設不許可が幸に転じた話
 日清戦争が本邦の大勝利を以つて終りを告げたことは、遼東還附と云ふ屈辱的事件もあつたが、兎に角世人に安心を与へ、それが一原因で企業熱が勃興し、鉄道の建設も諸処で計画された。丁度其時、即ち明治二十八年の末に外国から帰つて見ると、私の郷里掛川に於ても、同町から二俣町に到る極めて短距離の鉄道を造らうと云ふ目論見があり、前節に述べた山崎千三郎氏などが主たる発起人であつた為に、私も之に関係することになつた。
  天竜川上流の気田村に王子製紙会社の工場があつた因縁で、当時同会社の専務取締役であつた大川平三郎氏、次で同氏に代つた藤山雷太氏が此「掛川鉄道」の為に東京方面で専ら尽力し、故渋沢子爵も遂に発起人に其名を列した。青淵先生六十年史に「掛川鉄道株式会社創立願」が載つて居るのは之が為めである。
 競争線として現れたのが、「遠参鉄道」と称するもので、前節に記述した河井重蔵氏などが其主唱者であつた。此鉄道も掛川町を起点とするが、二俣町で天竜川を超え、更に進んで参河に入り、御油に於て東海道線に接続するのである。「掛川鉄道」に比して其線路の長いことが其長所と認められて鉄道会議は之を許可することに決し、従つて「掛川鉄道」は其競争に敗れたのである。其直後に於ては私などは非常に残念に感じたが、後日になつて、此敗北は却て幸ひであつたことに気附いたのである。若し許可されて敷設を完了し、汽車が愈運転した暁には、其成績は果して如何であつたらうか。収支相償はずして会社は遂に破産に瀕するに至つたであらうと想像する。而して此の厄運を免れたのは全く会社の設立が認可されなかつた為である。
  「遠参鉄道」は上記の如く許可を得たが、之も建設に着手せずして終つたのは、関係者に取つては仕合せであつたと思ふ。数年前に掛川町から森町まで東海道鉄道の分岐線が出来て「掛川鉄道」や「遠参鉄道」の三十余年前の夢が実現したのであるが、此線路の会計は赤字を示して居るのであらう。
 上述の如き小鉄道で、而も敷設されなかつたものに就いて喋々するのは、全く無意義だと云はれるであらうが、私としては多少理由がないでもない。即ち曩に述べた「掛川鉄道株式会社創立願」は実は私が執筆したので、此鉄道に依つて運搬される貨物の種類数量や旅客の員数等の予測が附録として記載されて居る。此等の数字は如何にも正確なやうに見えるが、甚だ粗雑な調査に基いた杜撰な統計に過ぎなかつた。それ故に、鉄道会議の議員などを歴訪して之を説明するとき、初めには兎角躊躇し勝であつたが、度重なるに従て、自分でも十分正確であるやうな感が生じて大胆に力説するやうになつた。即ち、十分な根拠のない一種の信仰のやうなものが無意識的に発生したのである。
○下略