デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
2節 鉄道
18款 西成鉄道株式会社
■綱文

第9巻 p.193-198(DK090020k) ページ画像

明治29年2月8日(1896年)

是ヨリ先、大阪港付近ニ西成鉄道ヲ敷設スル計画進メラレ、二十七年十月仮免状下付セラレ、是日免許状下付セラル。栄一発起人タリ。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第九八四―九八七頁 〔明治三三年六月〕(DK090020k-0001)
第9巻 p.193-194 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第九八四―九八七頁〔明治三三年六月〕
    第十六節 西成鉄道会社
西成鉄道株式会社ハ、明治二十九年ヲ以テ設立シタルモノニシテ、其線路ハ大阪府下西成郡川北村大字南天保山対岸ヨリ、同郡下福島村・野田村・上福島村ヲ経テ、曾根崎村官線鉄道梅田駅ニ聯絡ス、其目的ハ専ラ旅客及貨物運輸ノ業ヲ営ムニアリ、而シテ其資本額ハ壱百拾万円タリ、今其創立趣意ヲ按スルニ、曰ク
 抑我カ日本国ハ東亜ニ於ル一大商業国ニシテ、我カ大阪ハ其中心ナリ、而シテ其繁栄ハ、維新以来、国富ノ膨脹ニ随伴シテ、年々歳々著シキ速力ヲ以テ増進セリ、最近五箇年間ノ統計ニ依ル時ハ、人口ノ増加スルコト毎年平均八千六百五十二人、輸出入貨物ノ増殖スルコト五百六拾三万余円トス、此ノ趨勢ニ依テ進昌スルトキハ、今後五十七年ノ後ニ於テ、其人口現在ニ倍蓰シテ百四十四万余人ノ員数ニ達セン、而シテ又其富力ノ膨脹ハ実ニ莫大ナルモノニシテ、輸出入貨物ハ大約三億万円ヲ下ラサルニ至ラン、豈盛ナリト謂ハサルヘケン哉、然ルニ其規模設計ハ、三百年前豊太閤ノ初メテ覇府ヲ此ノ地ニ建置セシ時ニ於テ画定シタルモノニ基キ、漸次発達シテ現時ノ盛況ヲ呈スルニ至レリ、故ニ今時文明ノ世運ニ際シ、汽船・鉄道・電信等ノ如キ運輸交通ノ機関整備シテ、旅客ノ往復、物貨ノ運送ハ多々益々便シ得ルノ時ニ於テ、独リ海陸連絡ノ要衝ニ当リ百貨集散ノ鍵鑰ヲ司ル所ノ我カ大阪ハ、未タ以テ大ニ其連絡ノ方便ヲ増補シテ之ヲ実施スルコト能ハス、専ラ旧馴ヲ襲用シ、単ニ運河ノ一大運搬力ニ依頼シテ、目前焦眉ノ急ニ応スル姑息ノ計画ヲ施スノミニ汲々タリ、数年来澱川改修・天保山築港ノ企図アリシト雖モ、未タ以テ此ノ公共事業ノ実行ヲ見ルニ至ラス、況ンヤ之ニ依テ生スル利便ニ於テオヤ、故ニ海陸ノ各地ヨリ輻輳スル所ノ大数ノ貨物及ヒ旅客ノ再ヒ各地ニ向ツテ輸出スルモノハ尽ク艀舟ニ転載シ、或ハ馬車・人力車ニ依テ、汽車・汽船ノ連絡ヲ計ラサル可ラス、其不利不便実ニ尠少ナラサルコト、識者ノ夙トニ識認スル所ニシテ、築港ノ計画アルニ至ルモ亦大ニ理由ノ存スルモノアリト雖トモ、之カ実行ノ期ハ未タ以テ確知スルコト能ハス、然ルニ本市ノ商業ハ日ニ月ニ駸々トシテ繁栄シ、百貨ノ集散ハ癒々頻繁ニ趣キ、安治川富島町繋船所ハ常ニ数十ノ汽船輻輳シテ、貨物積卸旅客乗降ノ為メ徒ラニ貴重ノ
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時間ヲ空費シ、梅田・難波等ノ停車場ハ貨物充溢シテ、屡々運輸ノ時期ヲ愆リ、而シテ又之ニ通スル運河ハ、時ニ或ハ艀舟ヲ以テ充満スルカ故ニ、水路梗塞シテ運送ノ渋滞スルコトアルハ現時ノ状態ナリ、故ニ今ニシテ海陸ノ連絡ヲ径捷ニシテ、百貨集散ノ敏速ヲ計ルニ非ラスンハ、滔々トシテ輻輳スル所ノ貨物ハ、漸次渋滞シテ代謝スルコト愈々遅緩ナルニ至リ、其反応ニ依テ、侵々トシテ進歩スル本市ノ繁栄ハ頓ニ活気ヲ失ヒ、其充溢スル所ノ貨物ハ終ニ神戸港ヲ経テ集散スルニ至ランコト、火ヲ見ルヨリ炳明タリ、如此現時ノ状態ヲ観察シ、将来ノ繁栄ヲ考究スルトキハ、海陸連絡ノ捷路ヲ開キ百貨集散ノ敏速ヲ計ルコト、目下ノ最大急務ニシテ、一日モ忽カセニスヘカラサルコトヲ自覚スルニ足ラン、此ニ於テ吾輩同志者相謀リ、川北村大字南天保山対岸ト官設鉄道梅田駅ノ間ニ複線鉄道ヲ布設シ、川北村大字南ノ河岸ニ接シ一大停車場ヲ設置シ、船渠及ヒ汽船繋留所ヲ造築シ、又大ニ倉庫ヲ造営シテ、毎日二万噸ノ貨物ヲ容易ニ集散シ、又瞬時間ニ数千ノ旅客ヲシテ安全ニ汽車・汽船ノ間ニ移乗セシメントスルノ目的ヲ以テ、予メ規模ヲ定メ、一昨年十一月其筋ニ向ツテ鉄道布設ノ免許ヲ請願シ、昨年十月ニ至リ其仮免状ヲ下附セラレタルヲ以テ、実地測量ヲ施シ、工事ヲ設計シ、工費ヲ予算シ、又営業収支ニ関スル精密ナル調査ヲ遂ケ、本事業ニ伴フ直接ノ経済ヲ詳カニセリ、之ヲ要スルニ、本事業タルヤ、個人的単独事業トシテ最モ有利ナル企業タルノミナラス、公共ニ対シ間接ノ利益ハ更ニ是ヨリ大ナルヘシ、実ニ一挙両全ノ計画ニシテ、其竣功ノ日ニ於テ、百貨集散ノ利便ニ随伴スル所ノ結果ハ、大ニ本市繁栄ノ程度ヲ高進シ、商業ノ面目ヲ革新シ、漸次社会ノ必要ニ促カサレテ、更ニ規模ヲ拡張シ、数年来本府ノ一大問題タル天保山築港ノ実施ヲ見ルニ至ルコト期シテ待ツヘシ云々
青淵先生ハ同会社ノ発起人ニシテ、線路ハ落成ヲ告ケ開業セリ、然シナカラ大阪築港未タ落成セサルヲ以テ、今日ニ於テハ未タ充分ノ利益ヲ見ルニ至ラサルナリ


日本鉄道史 中篇・第五五二―五五五頁〔大正一〇年八月〕(DK090020k-0002)
第9巻 p.194-195 ページ画像

日本鉄道史  中篇・第五五二―五五五頁〔大正一〇年八月〕
    第十八 西成鉄道
明治八年鉄道寮ハ、大阪停車場ヨリ安治川北岸ニ達スル一哩六十鎖許ノ支線ヲ竣工シ、五月一日以来之ヲ営業ニ使用シタリシカ、十年大阪停車場ヨリ曾根崎川ニ至ル間ニ水路ヲ開鑿シ、十一月十六日之カ使用ヲ開始シタルヲ以テ、同月二十四日該支線ヲ廃シタリ、爾来十数年間貨物ノ運輸ハ専ラ該水路ニ依リシモ、大阪築港問題ノ起ルニ及ヒ、鉄道計画ハ再興シタリ、当時、安治河口ハ汽船碇泊スルモ積卸ノ設備ナク、貨物ハ徒ニ充溢シ、而モ水路ハ艀舟ヲ以テ閉塞セラルルノ状態ナルヲ以テ、運輸遅緩ヲ来シ、商機ヲ愆ルコト尠カラザリシカハ、地方有志者等之ヲ遺憾トシ、相謀リテ水陸連絡ノ設備ヲ開カントセシモ未タ果サザリキ、然ルニ大阪築港ノ挙アルニ際シ、之ニ用ヰル石材ハ海路ニ由リ運搬スルノ計画ナリト聞キ、安治川附近ノ住民等ハ、天保山沖ノ風浪険悪ナルヲ冒サンヨリハ、陸ニ鉄道ヲ架シテ、摂河泉地方ヨ
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リ材料ヲ得ルニ若カズトノ説ヲ建テ、有志者ノ一派之ヲ賛シ、大阪市ニ鉄道敷設ノ意ナキヤ否ヲ質シタリシカ、他ノ一派ハ川口鉄道ノ計画ヲ立テ、二十六年十月堺市食満藤平等発起人ト為リ、資本金二十一万円ヲ以テ、大阪停車場附近ヨリ西成郡川北村大字南川口ニ達スル三哩四十五鎖ノ軽便鉄道ヲ敷設センコトヲ申請シタリ、是ニ於テ有志者ノ一派ハ大阪市トノ交渉ヲ絶チ、新ニ西成鉄道ヲ計画シ、其資本金ヲ二十万円トシ、同月西成郡下福島村江川常太郎外二十六名ノ連署ヲ以テ其免許ヲ申請シ、十二月複線敷設ニ差支ナキ設計ヲ施ス為資本金ヲ三十万円ニ増加セリ、而シテ川口鉄道亦資本金ヲ三十五万円トシ、軽便鉄道ヲ普通鉄道ニ改メタリ、然ルニ当時政府ニ於テ、安治川線ヲ官線トシテ敷設セントスルノ議アリシカハ、川口・西成両派中ニハ鬩牆ノ争ヲ不利トスルモノアリ、之カ為両派合併ノ端緒ヲ開キタリシモ、不幸ニシテ協商不調ニ帰シタリ、其後双方ノ願書却下セラレントスルヲ聞クニ及ヒ合併説再興シ、桜井義起ハ双方ノ間ニ斡旋シ、遂ニ両派合併ノ約成リ、川口鉄道ノ発起人等ハ西成鉄道事業ニ加ハリ、二十七年一月十八日願書ヲ撤回シ、而シテ西成鉄道ノ申請ハ同年六月二十五日鉄道会議ニ於テ可決セラレタリ、其申請ノ要旨ハ川北村大字南新田ヨリ福島ヲ経テ曾根崎ニ至リ、大阪停車場ニ連絡スル鉄道ヲ敷設シ、河口ニ船渠及繋船所ヲ築設シ、倉庫ヲ建造シ、以テ貨物ノ集散ヲ容易ニシ、併セテ旅客ヲシテ安全ニ船車間ニ移乗セシムルヲ目的トスルモノニシテ、鉄道会議ニ於テハ、東海道線ノ支線トシテ当然官設トスヘキ必要ヲ認ムルモ、線路敷地附近ハ工場其他建設物続々起リ、敷設一日ヲ緩フスル能ハザルモ、官設トシテ速ニ著手シ得ザルカ故ニ、暫ク之ヲ私設ニ委スルヲ可トストシ、二十七年十月仮免状下付セラレシカ、二十八年二月設計ヲ変更シ、之ニ伴ヒ資本金ヲ一百十万円トシ、十月免許状ヲ申請シ、二十九年二月八日之ヲ下付セラレタリ
明治二十九年二月、会社ノ位置ヲ西成郡上福島村ニ定メ、業務上便宜ノ為大阪停車場前ニ仮事務所ヲ設ケ、小川資源ヲ技師長トシ、五月五日工事ヲ起シ、船渠ハ十月二十日ヨリ開鑿ニ著手シ、倉庫ハ十二月二十五日ヨリ建造ニ著手シタリ、三十一年三月工事ノ大半ヲ竣リ、軌道ハ単線ヲ敷設シ、大阪停車場トノ連絡ハ仮設ヲ以テ施工シ、同月南新田停車場ヲ安治川口ト改称シ、四月三日仮事務所ヲ廃シ、同月五日ヲ以テ大阪安治川口間三哩五十二鎖〔三十八年度ニ於テ訂正シ之ヨリ五鎖ヲ減ス〕ヲ開業シ、貨物列車ヲ運転シ、福島・安治川口間ニ限リ旅客列車ヲ通シタリ、爾来大阪商船株式会社及共同曳船株式会社ト、安治川口ニ於テ船積及陸揚スヘキコトヲ契約シ、之カ為五月二十八日以降大阪商船株式会社ハ西成鉄道株式会社本店ニ出張員ヲ派出セリ、翌三十二年三月大阪停車場トノ連絡工事完成シ、四月一日ヨリ福島・大阪間ニ旅客列車ヲ通シ、同月五日関西同盟各汽船ト旅客連帯運輸ヲ開キタリ、三十三年四月二十五日ヨリ安治川口・京都間ニ一日一回ノ直通貨物列車ヲ往復シタリ
  ○西成鉄道ハ明治三十七年十二月一日鉄道作業局ガ其ノ線及ビ附帯設備ヲ借受ケ(日本鉄道史中篇第二二〇・一九二頁)、三十九年十二月一日ニ至リ国有ニ帰ス。(同上第九六・二二一・八五七頁)

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〔参考〕今村清之助君事歴 (足立栗園著) 第四一一―四一七頁〔明治三九年九月〕(DK090020k-0003)
第9巻 p.196-198 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕岩下清周伝 (故岩下清周君伝記編纂会編) 第二編・第二六―二七頁〔昭和六年五月〕(DK090020k-0004)
第9巻 p.198 ページ画像

岩下清周伝 (故岩下清周君伝記編纂会編) 第二編・第二六―二七頁〔昭和六年五月〕
    四 西南鉄道株式会社の事
 明治三十五年の事である、西成鉄道株式会社重役は所有地十万坪を処分しやうとしたが、之に反対する株主ありて、臨時総会は重役案を否決して了つた。君が西成に関与したのは此の時からである。而して君の懇請に依り渡辺千代三郎氏が社長となり、行詰つた社運の挽回に努力する事になつたのである。
 当時の西成鉄道はふしだらを極めてゐたもので、所有貨車二百六十輛(客車約三十輛)もあるのに、毎日運転せらるゝは僅に八九輛に過ぎなかつたから、新に社長となつた渡辺氏も驚いた事であらう。そこで種々研究調査の結果、各地へ石炭輸送に利用する事としたのが当り十一月(三十五年)には一日平均七十八輛の運転を見るに至り、翌年同月には更に進んで一日平均八十二三輛を運転するに至り、社運は漸次挽回されたのである。
 三十六年の五六月頃松本作業局長の視察があつて、政府に於いて買収する内議があり、同年十二月渡辺社長は逓信省へ出頭し、松本作業局長、芳川逓信大臣に面会したるに、買収価格に就いて内談があつた。然るに帝国議会開院式後衆議院の奉答文恒例に反せるものあつたが故に遽に議会は解散となり、買収は沙汰止みとなつた。斯くて整理一段落を告げたるを機会に渡辺社長は翌三十七年一月辞任して帰東したので、君代りて社長となり同社を引受けたのであるが、明治三十九年三月十一日法律第十七号を以て鉄道国有法公布され、西成も買収十七鉄道中に加へられ、翌四十年に買収せられた。
 更に溯つて記すなら、君と西成鉄道会社との夤縁は明治三十二年に初まつてゐるのである。その頃から鉄道国有問題が喧しく人口に上り大阪株式市場に於いて西成鉄道の買上説が唱へられた際、北浜銀行重役の鷲尾久太郎氏は姻戚や一二仲買人と結託して、同社株式を買占め其の持株一万以上に及んだ。然るに之が資金の調達意の如くならず、受渡に迫つて株式代金を仕払ふことができなかつた。そこで北浜銀行では、磯野大株理事長の懇談により鷲尾氏を救済する事に決し、鷲尾家所有の動産不動産全部を抵当として一時に巨額の資金を貸出した。
その貸金八拾四万余円を明治三十五年に至り整理した結果、西成鉄道株一万五千株(参拾弐円替、金額四拾八万円)を銀行に引取つたのである。随つて銀行の自衛と云ふ点からも、渡辺社長辞任帰東後、君は自ら進んで社長となつたのである。