デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
2節 鉄道
27款 東京市ノ市街鉄道
■綱文

第9巻 p.403-410(DK090046k) ページ画像

明治28年7月6日(1895年)

藤山雷太等東京電車鉄道ヲ計画シテ複線式ヲ出願シ、是日発起人会ヲ開ク。栄一議長トシテ議事ヲ主宰ス。是ヨリ先明治二十六年十月、雨宮敬次郎等東京市内ニ電気鉄道ノ敷設ヲ出願ス。当時此ト前後シテ市街鉄道敷設ヲ出願シタル者ニ立川勇次郎・藤岡市助・草刈庄五郎等アリ、明治二十七年、雨宮ハ此等ヲ合併セシメテ東京電気鉄道ヲ計画出願セシモ市区改正委員会ハソノ出願ニカカル架空単線式ヲ許サズ。本年ニ至ツテ藤山等右複線式ヲ計画出願ス。ココニ競争ヲ生ジ、栄一、今村・渡辺(洪基)荘田・森村等ト共ニ調停ニ立チ、合併ヲ計リシモ不調ニ了ル。


■資料

新聞集成明治編年史 第八巻・第四六八頁〔昭和一〇年一二月〕(DK090046k-0001)
第9巻 p.403 ページ画像

新聞集成 明治編年史 第八巻・第四六八頁〔昭和一〇年一二月〕
 ○明治二十六年十月
    機熟したりと見て雨宮敬次郎再び
     東京市電気鉄道の計画発表
 〔一〇・一一、時事〕 去る二十年中雨宮敬次郎氏は小田川工学士に計り東京市に電気鉄道布設の計画を為したることありしも、其節は政府の許可を得ざりしかば其儘になり居りし所、此頃に至り気運一変して電気鉄道布設の気焔漸く盛ならんとし、既に京都神戸等は夫々同鉄道の計画ありて、将にその許可を得んとするの運びに至りしかば、既に此等の市府にして許可せらるれば、東京市中に於ても許可せられざる筈なかるべしと、爰に雨宮氏は再び布設の念を起し、大坂電灯会社の技師長谷川延氏を顧問として、爾来実地の踏査、定款の編成、事業の予算等を為し居りしが、此の頃に至り其準備出来上りたるを以て昨日に至り其の計画を発表せり。
 元来此事業は全市の利害に関する所尠なからざれば、成るべく市内の有力者と力を合せ協同して事を成就せしめんとの趣旨より、重立たる人々八十余名に通知して昨夜紅葉館に会合を求めて発起の主旨を述べ、直ちに其席にて発起人たるの諾否を定め本日其筋に出願する筈なるが、今その設計の大要を聞くに其の幹線は品川より起り三田の通りを過ぎ芝公園の前に出で、土橋(若しくは新し橋)より丸の内を貫きて神田橋に出で、万世橋を渡りて本郷大学の門前に達するものと、今一つは土橋より分岐して八丁堀鎧橋を経て両国に達するものを重なる路筋とし、之に支線を加へて其の延長は卅九哩五十鎖にして、資本金は百四十万円とし、一株を五十円と定め二万八千株に分ち、其中の半数一万四千株は発起人にて引受け、残株は市公債を募るが如く競売に附し、価格の最も高きものに交付する積りなりと云う。


中外商業新報 第四〇〇九号〔明治二八年七月七日〕 東京電車鉄道発起人総会(DK090046k-0002)
第9巻 p.403-404 ページ画像

中外商業新報  第四〇〇九号〔明治二八年七月七日〕
 - 第9巻 p.404 -ページ画像 
    東京電車鉄道発起人総会
 東京電車鉄道発起人会は昨日午後三時より銀行集会所に開会し、発起人賛成員等数十名の諸氏出席し、最初に藤山雷太氏挨拶を為し夫より渋沢栄一氏議長席に就きて左の各項を議決せり。
一、発起人及賛成員は一名金五円宛を醵出し創業費に充つる事、但醵出金は出願許可の上は株金払込額に振替へ、出願許可せられざる時は創業実費を引去り其残額を各自へ還付し、若し不足を生じたる時は発起人に於て負担するものとす。
二、東京電車鉄道は追つて東京市の共有に帰する方法を以て会社を設立すること。
三、東京電車鉄道株式会社設立の為会社設立委員七名を選挙すること
各案とも異議無く円満に議決し終りて創立委員を選挙せるに
 渋沢栄一・中上川彦次郎・今村清之助・山中隣之助・渡辺洪基・大江卓・荘田平五郎
当選し、之に発起人藤山雷太・福沢捨次郎・佐分利一嗣・潮田伝五郎四氏を加へ総て十一名を創立委員とすることゝなり、午後五時過散会せり。


東京市電気局十年略史 第五―八頁〔大正一〇年八月〕(DK090046k-0003)
第9巻 p.404-406 ページ画像

東京市電気局十年略史  第五―八頁〔大正一〇年八月〕
    東京市街鉄道株式会社
 東京市街鉄道株式会社は、明治二十六年十月十三日、雨宮敬次郎外四十一名が京橋区築地より深川・本所に亘りて架空単線式を以て電気鉄道の敷設を出願したるに淵源す、而して其の翌日二十三日先《(月)》に電気鉄道の出願をなして却下せられたる立川勇次郎外四名が、再び前の計劃を踏襲して、資本金十一万円を以て、芝愛宕下より品川に至る電気鉄道を出願したるものゝ其の翌年三月二十六日、藤岡市助外五名が、建設せられたる其当時の電灯柱によりて電気鉄道を敷設せんとして、出願し、及び翌二十八年四月二十七日、草苅躍翁等が東京中央電気と称して資本金七万円を以て敷設を出願せるものは合同して、東京電気鉄道の名称の下に、資本金を百四十万円と定め、明治二十八年六月、新に設立の認可を其の筋に出願せり、是の出願、並に先に電気を以て動力に代へんとする東京馬車鉄道会社の出願に付き、東京市の諮問に応じたる東京市区改正委員会は、単線式を否決し、複線式並に蓄電池式を採用すべきものとして、且つ市区改正の設計により既に改修を経たる部分に限り許可差支なしとの決議をなせしかば、兼ねて此の決議を予知したる藤山雷太・福沢捨次郎等は、同年六月十九日、資本金三百八十万円を以て、東京市内に線路延長八十五哩に、架空複線式電気鉄道を敷設し、認可を経たる暁、一割の配当以外に若干の資本を銷却し終れば東京市の共有に帰せしむべきとの趣意にして、東京電車鉄道を出願し、以て先願たるの特許を得んとしたり。
 此の東京電車鉄道《(脱アルカ)》とは、其の出願する所競争線に属するを以て、両派は対抗運動を開始し、之に加ふるに明治二十九年三月二日には、野中万助、利光鶴松等が東京市の大地主を発起人として、空気圧搾式による東京自働鉄道の出願ありしにより、其の競争一層の激烈を極め、
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内務省に於ても其の処分に苦慮し、時としては一切の私設を認可せずして、市の公有たらしめんとするの傾きありき、又東京市に於ても、市会は三十一年八月、資本金六百万円を以て市内に空気圧搾鉄道を敷設し、七朱の市公債を募集して財源に充つるの計劃をなし、同年十月内務省に出願するに至れり、然れども当時の市会及び市参事会は内実市営を好まず、而して又一方私営会社の競争は、徒に市内交通機関の整備を阻害し市民の便利を欠くを以て、内務省は各出願者に対して交渉を遂げ、一会社の下に合併するを得ば、直に出願を許可すべしとの内意を伝へしかば、三派の出願者は其の内意に基き、明治三十二年七月十八日より数回の協議を経たる後、合併に決し、会社を東京市街鉄道株式会社と称すること、資本金は千五百万円として、各派は各々金五百万円を負担すること、各派より十名宛の発起人を選み、東京市街鉄道創立委員を組織して、創立に関する一切の事項を処理せしむべし等の契約を締結し、同年八月十四日先に差出したる各社の願書を願下げて、更に内務大臣に向け東京市街鉄道布設特許請願書を提出し、又一方東京市に対しては、会社営業利益金中より相当の特別納金をなす事、東京市より相当の監督を受くる事、軌道内及び軌道外両側一尺宛道路の修繕及び掃除を負担する事の三条件を附し、又委員会に於て、会社は六ケ月を通算して平均一日一哩五十円以上の収入を得たる場合に至り、総収入金の割合により、総収入金百分の二以上百分の八以内の納金をなす事、架空単線式を以て原動力とし、必要の場合には取調べの上区劃を定め、圧搾空気蓄電其の他原動力を用ふることあるべき事、乗車賃銭は距離の長短に拘らず金五銭と定むる事、免許年限を向ふ七十五年と定め、免許年限満了の後は会社に於て継続するものとし若し東京市に於て必要の場合には、相当市価を以て市に買上ぐる事あるべし等の特別条件を附し、東京市長の許に請願書を差出したり。
 此の私営電気鉄道許可に関する諮問案の、同年十月の東京市会に提出せらるゝや、市営を主張する市会議員は、市会が曩に市に於て市街鉄道を敷設せざるべからずと決し、方式案まで可決して内務大臣に出願せしに、市会の決議を遂行すべき義務を有する市長が、本案の出願の未だ却下せられざる今日全然反対の意味を有する許可条件の如きものを提出するは何故なるかとの質問を発し、番外席にありし松田市長は之に答へて、「内務省は先に東京電車鉄道会社に対しては下町、東京電気鉄道会社に対しては山の手と、各区域を定めて許可すべきに付き、更めて出願すべしと内達せしことあるを以て、右二会社が今回東京自動鉄道会社と合同したる以上、右合同会社に許可するの至当にして又実際成効の上よりも便宜なるべく、東京市に許可することは大に困難なりとの内務次官の内諭ありて、内務大臣も亦同意見なれば已むを得ず、右の事情を市会議長に通知し協議会を開き、相当の条件を附して合同会社に許可するも差支なかるべしとの決議を得、種々調査の上、提出するに至りし」との説明あり、私営と市営とを主張する両派の議員は、互いに鎬を削りて論議ありたる後、原案に二三の修正を加へ、多数を以て可決し、私営は遂に確定するに至れり。
 是に於て東京市街鉄道会社は、其の設立の準備に着手し、明治三十
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五年四月六日、内務省の特許を得、同年東京電灯会社と協議を重ね、送電を受くべき契約を締結せり。


過去六十年事蹟 (雨宮敬次郎述) 第二九五―三〇〇頁〔明治四〇年七月〕(DK090046k-0004)
第9巻 p.406-407 ページ画像

過去六十年事蹟 (雨宮敬次郎述)  第二九五―三〇〇頁〔明治四〇年七月〕
 「私の云ふのは外でない、此の東京市に電気鉄道を架ければ必ず儲かる、之を株式にして其株を有つて居て売れば直ぐに一万円位は儲かる、併し此の儲を僅の人で占めて仕舞つては申訳がないから発起人には一人に付二百株より多く持せない。私も矢張りそれだけ持つ、それで皆様一つ発起人になつてやつては何様だろう」と云ふと、皆も賛成して玆に市街鉄道と云ふものを政府に願を出した、それと同時に京浜鉄道も同じく発起人で願を出した、其れ迄東京には誰一人電気鉄道を願出したものがない、私が全く卒先者であつたのである。
 私達が願を出すと暫くして、立川勇次郎氏や大倉喜八郎氏其れから本所の方で草苅と云ふ人などが電気鉄道を願出した。両方で争ふてもいかぬ、吾々共と一緒にならぬか、併し二百株より外有つことは出来ぬと云つた所が、色々の話のあつた末、それではと云ふので二十七年に雨宮・大倉・立川とそれから草苅の四派は合同して仕舞つた。
 すると今度は福沢派と云ふものが出来た、福沢捨次郎氏外四名と云ふのが二十七年に願を出した。所が福沢捨次郎氏外四名では権利がないので、追加発起と云ふものを中上川氏が作つた、三井の倶楽部に東京の金持ばかりを招んで、其の判を取つて出願した、其処で合同派と福沢派の競争が初つた、此の外単に願書を差出しただけのものは百何十と云ふ程あつたが、有力なのは福沢派だけだつたから、競争は勢ひ此の二つの間に行はるゝ事であつた。
 其の時今村・渡辺(洪基)・渋沢・荘田・森村さんなどが双方の中へ立つて仲裁したが、私はどうでも宜しいが、然かし私の方では一人二百株を限度として居る。それより余計には有たせぬ、それで宜いなら一緒にならう、斯ふ云ふと、向ふでは「それはいかぬ」と云ふから「一人の重役で五百株も千株も有つやうなことはいかぬ」と刎付けて仕舞つた、然かし福沢派の勢力は中々侮り難く、樺山さんが内務大臣として居た時、既に山の手を福沢派に、下町を雨宮派に許さうと云ふ事に定められた。
 処が二十八年になると云ふと、私が牢に入れられて、二十九年に出て来て見ると、星・利光氏等が東京の大地主を発起人として七十何名で空気圧窄で自動車をやると云ふ願を出して居た。之れが中々勢がよくて、先願者の私共を追のけて自分等の方を成立させやうとした。其処で私も一生懸命之れと争ふて居ると、其中に向ふから一緒にならうと云つて来たけれども、此方には此方の規約がある、一人二百株以上は持たせないと云ふ規約がある、此の規約に従はない以上はと云ふので断つて仕舞つた。
 そこで三十年か三十一年だつたかに星さんが態々宅へ来て、「貴様が何日までも頑張つて居ると東京へ電車が架けられぬから、喧嘩せずに一緒にならぬか」と云ふた。其中に利光さんも亦私の宅に来て「何日までもそれでは困るから……………」と云ふ、私も私一人が頑張つ
 - 第9巻 p.407 -ページ画像 
て居るために、東京市民に文明の利器を与ふる事が出来ないと云ふのは申訳がない、私が自分の意見を擲て、一人が二百株以上持つと云ふ事を承諾しさへすれば、直ぐにでも電車をかける事が出来る。之れは寧ろ之れを捨てゝ彼を取る方が市民の為めだと思つたから、自説を固執するのをやめて、利光さんと話を纏めた。而して私の方が五百万円福沢派が五百万円、星派が五百万円、合計千五百万円で会社を起そふと云ふ約束が成り立つた。其れが明治三十二年の事で、当時市有がいいとか民有がいゝとか、色々の議論も起つたが、結局一派から五人つつ都合十五人、雨宮派から小野金六・岩田作兵衛・立川勇次郎・藤岡市助・福沢派から藤山雷太・手塚猛猖・佐分利一嗣・潮田伝五郎・岡本貞烋、星派から野中万助・青木正太郎・吉田耕作・利光鶴松・藤田重道の委員で、兎に角千五百万円の会社を組織する事に決定した。
 処が愈々本業に取り掛らうとすると、経済界が非常の悲境に陥つて居て、新に会社を起す処ではない、自分の持つて居るものまで危くなつて来た。それに千五百万円の四分の一乃ち三百七十五万円を、今一時に払込ませると云ふやうな事は出来なくなつた。其処で仕方がないから、一時資本を五分の一に切り下けて、内務省にも嘆願した末、参百万円の会社にした、卅六年一抔には千五百万円にするが、其れまで参百万円でやれるだけやつて行かうと云ふ事に決定した。
 市街鉄道が内務省の特許状を得たのは、三十五年四月六日の事で、卅六年の六月十九日に創立総会を開いた。


東京経済雑誌 第四五巻第一一二四号・第五一九―五二〇頁〔明治三五年三月二二日〕 ○市街鉄道の沿革 【雨宮敬次郎】(DK090046k-0005)
第9巻 p.407-409 ページ画像

東京経済雑誌  第四五巻第一一二四号・第五一九―五二〇頁〔明治三五年三月二二日〕
    ○市街鉄道の沿革
                      雨宮敬次郎
記者一日雨宮敬次郎氏を築地館の邸に訪ふや、例の六角形の大火鉢の傍らに胡座し、大形の銀煙管に刻煙草をつめ盛に之を吹かしつゝ快談せらる、今記臆に従ふて其一端を録すと云ふ、雨宮氏先づ市街鉄道の発端より説き起して曰く
 街鉄の発端は、実に今より十七年以前の明治十九年のことでしたよ当時は流石の鉄道国合衆国でも、電気鉄道の延長は、僅か何百哩と云ふ位の有様で、此電気を鉄道に利用すると云ふ事は、極く近頃の発明だそうです、其の時分私が大阪の大三輪長兵衛や藤田伝三郎と会して、どうだアメリカの電気鉄道を輸入して、東京、大阪、京都の三都に市街鉄道を興こそうじやないかと云ふ相談をした事がある、で此事を工学士の小田川全之、長谷川延の二人に話して見積をやらせた、之が抑々日本に於て街鉄が呱々の声を挙げ始めた時で、当時の政府は、電気に関しては何等の調査も研究もして居らない、全くの暗黒時代で在た
と意気軒昂、更に進んで市街鉄道の発起に及び
 明治十九年頃に、漸々何百哩と云ふ小距離に過ぎなかつた合衆国の電気鉄道が、明治廿四年になると既に一万哩近くに延長した、どうです其進歩の迅速なるのは誠に驚き入るじやないか、是を聞いた私は、世人が此有利なる事業を放抛して顧みないのを密に嘆息した、
 - 第9巻 p.408 -ページ画像 
が斯る有望の事業を吾々数人の手に収めて仕舞ふのは如何にも罪の深い事と信じたので、世間に智識が在て而して資本に乏しい人を集めて此事業をやらしたなら、世の裨益になるであろうと考へ、廿六年十月に成て、稍之に近い様な人物を紅葉館に招待して会社組織の相談をした、処が其処へ集た百何十人と云ふ人数の中七十何人は発起人に成ることになり、会社の資本金は総計百五十万円とし、発起人は五十円券を百株宛引受け、残余は一般から募集することにした
玆に及んで、君の三角形の禿頭よりは幽に蒸発気の上るを見たり
 之より先き京都には、既に高木文平等の人々の手で電気鉄道が敷設せられて、私共が先年計画した一部分は実際となつた、京都は三都に卒先して街鉄が出来、其上東京では私共の計画が現はるゝに至たものですから、廿六年には大倉組も出で、立川勇次郎、それから草苅庄五郎などの連中に依て、何れも発起せられたので、遂に此四派の間に合同談が起て廿七年に一処になりましたが、其鉄道は架空単線式で在たのです、然るに同年の三月頃の市区改正委員会で、架空単線式は電気が漏洩して鉄管を腐蝕する虞があると云ふ処より不許可に成て仕舞た、すると三井一派の益田さんなどが委員で在たので、藤山雷太外四名の名義で早速複線式にして出願したから、私共に取ては実に寝耳に水で在た、で不得已方式を改めて更に出願しますと、渋沢・米倉・森村等の人々から合同の仲裁が這入り色々と交渉したが、談判は遂に不調に帰しました、そうすると間もなく、又市会議員の仲間に依て発起されたけれども、夫れは電気を遣はないで確か瓦斯エンジンを用ふると云ふのであつた、斯様に幾つも起たものですから、政府も何れに許可して宜いか大に迷て、暫くは其儘と成て形がつかないで居る内、例の鉄管事件で私は入牢すると云ふ始末、いや其時は独り思ひましたな、私がこんな不幸に遭ふのは半ば鉄管事件であるが、半ば街鉄事件であると、と云ふ者は、何にしろ街鉄に就ては雨宮派は誰れよりも先願権を以て居ましやう、だから如何に外の派のものが騒いでも、雨宮派を差措て許す訳けには行かない、私も亦頑張て動かない、それ故嘸瓦斯エンジンの一派などは、私を目の上の瘤の様に厄介視したろうと思ひます、で在たから鉄管事件なども、殊更一方の打撃が強かつたに相違ない
と其不思議なる禿頭を左右に揮り、湯気を立てつゝ壮に談ぜしが、玆に至つて君は懐旧の感に堪へざるものゝ如くなりき、斯くて氏は更に元気を鼓し
 で其後も続々出願はありましたが、三派に叶ふ奴は一ツもない、三派の内でも雨宮派と福沢派が最も勢力が在ツた、ソコデ樺山内相時代に一旦指令書が出て、将に許され様としたが、内閣の更迭の為に妨げられてなかなか目的を達し得ない、夫れと云ふのも前内閣の時代に雨宮・福沢の二派に許可するに決し様とした為に自由党連の組織した瓦斯派の運動が盛で在たからです、けれども後には却て自由派から交渉を他の両派に持懸る様に成た、之れが所謂三派合同です、併し始の内は私が色々強情を張たので、容易に談が成立なかつた、其筈じやありませんか、三派合同と云ふのは雨宮派へのみ目を着け
 - 第9巻 p.409 -ページ画像 
て、福沢派へは更に相談をしないのじやから、で私がそう云ツて叱り飛ばしてやると、今度は向ふをも仲間にして来ての相談じや、其処で私も考直して、とうとう承諾をした、まー考ても御覧じろ、私一人の強情の為に、此大都会に市街鉄道が出来ないと云ふのでは済まないじやないか、恰度其時私に相談を懸けたのが星で、星も頻りに其事を説たのでソンナ気には成たが、後で又々株の分配に就て面倒が起き、結局五百万円宛の寄合即ち千五百万円と云ふ事で納た、何ンでも其相談は星から手紙を出して、花屋敷の常盤屋へ三派の委員を呼んでの事でしたよ
と語り終て、氏は更に近時の問題たる街鉄の内訌事件に入りしも、会会来客の刺を通ずるありしかば、記者は辞して帰りぬ



〔参考〕市電気事業検査資料 電灯編・第一―二頁(DK090046k-0006)
第9巻 p.409-410 ページ画像

市電気事業検査資料 電灯編・第一―二頁
    第一節 電灯事業営業権ノ沿革
     一、営業区域
東京市電灯事業ノ沿革ヲ尋ヌルニ、初メ川崎電気鉄道株式会社ナルモノアリ、明治二十九年四谷区信濃町ヨリ麻布区池上村ヲ経テ川崎町ニ至ル間ノ電気鉄道ノ敷設ヲ出願シ、特許ヲ得タル後、三十三年五月会社ヲ設立シテ東京電気鉄道株式会社ト称セリ、当社ハ電気鉄道ノ外電気供給ノ事業ヲ目的トスルヲ以テ、三十三年六月二十五日電灯電力事業経営ノ願書ヲ主務大臣ニ提出シ、三十三年九月十七日初メテ別記地域ヲ限リテ之カ許可ヲ得 三十六年八月十日目論見書事項ヲ変更シ、同十二月ニ許可セラル(本節添附第一号書参照)、其後同社ハ三十九年二月十六日営業区域拡張ノ出願ヲ為シ(本節添附第二号書)、三十九年九月東京電車・東京市街ノ両鉄道会社ト合併シ、東京鉄道株式会社トナリ、電灯ノ営業権ハ新設会社ニ承継セラレタリ(添附第三号書参照)、顧ルニ東京電気時代ニ於ケル電灯供給事業ハ、其ノ計画タルヤ、主トシテ電車沿線区域ニ於テ電車経済補助ノ目的ヲ以テ副業トシテ経営シタルニ依リ、其供給電灯数亦約十万灯内外ノ小規模ナリシ也然ルニ合同後東鉄会社ハ、電灯ヲ兼営事業トシテ供給区域ヲ拡張シ、全市及附近郡部ニ及ホサントノ計画ヲ立テ、四十年三月五日之カ出願ヲ為シ(本節添附第四号書参照)、更ニ同六月十日之カ変更ヲ出願シ(添附五号書参照)、四十年八月二十七日ニ至リ右三種ニ対スル特許ヲ得(添附六号書参照)、続イテ同年十月二十一日(添附第七号書)郡部拡張ノ出願ヲ為シタルニ、三十九年二月出願ニ係ルモノト一括シテ、四十年十二月十二日千駄ケ谷村・大井村・品川町ノ四ケ町村ノ特許ヲ得(添附第八号書)、四十二年七月拡張願ヲ為シタルニ対シ四十三年三月七日之カ認可ヲ得(添附第九号書参照)
斯クテ四十四年八月ニ至リ、之等ハ其儘市ニ承継セラレタルモノナリ左ニ便宜上申請及特許対照表ヲ示シテ特許ニ伴フ関係憑書ヲ採録ス
    申請及特許対照表

図表を画像で表示申請及特許対照表

 添附書番号  申請事項      出願日付          出願者        添附書番号   特許日付  一イハ  電灯供給区域    明治三十三年六月二十五日  東京電気鉄道株式会社  一ロニ    明治三十三年九月十七日                 同三十六年八月十日                        同三十六年十二月三日  以下p.410 ページ画像   二    三社合併事業承継  同三十九年九月一日     三社          二      同三十九年九月八日  三    電灯供給区域    同年二月十六日       東京電気鉄道株式会社  四    同(全市)     同四十年三月五日      東京鉄道株式会社    六      同四十年八月二十一日  五    同上        同六月十月   同上  三    同上        同三十九年二月十六日    東京電気鉄道株式会社  七    同上        同四十年十月二十一日    東京鉄道株式会社    八      同四十年十二月十二日  九    同上        同四十二年七月十六日    同上          十      同四十三年三月七日 十一    同上        同四十四年六月十五日    同上 




〔参考〕東京市電気局十年略史 第八―九頁(DK090046k-0007)
第9巻 p.410 ページ画像

東京市電気局十年略史  第八―九頁
    東京電気鉄道株式会社
 是より先き、岡田治兵衛武等の特許を得たる四谷信濃町より青山目黒池上を経て川崎に至り、又池上より分岐して大森に至る川崎電気鉄道会社は、明治三十三年の春、資本金八十万円を以て成立し、後ち社名を東京電気鉄道株式会社と改め、三十四年四月に至り、曩に出願せる会社の支線、即ち麻布広尾橋西畔を起点とし、河流に沿ひて、一ノ橋を渡り、赤羽町、芝園橋を経て金杉橋南詰に至る線路は、特許の指令に接し、更に宮城外濠に沿ひて円形を作る外濠線に付きては、甲武鉄道株式会社と東京市街鉄道株式会社との競争出願ありしも、東京電気鉄道会社は先願者たるの故を以て該特許命令書を下附せられたり、同社は予て外濠線の為めに二百万円を増資し、尚ほ芝線の為めに別に百万円を増資することに決し、従来の八十万円を加へて其資本総額三百八十万円となすの計劃を樹てしが、認可確定後は、事業の発展上、益々線路の延長を計劃するに便ならしむる為め更に総資本額を六百万円に増資し、以て他の会社に対抗せんとして、徐に経営の歩を進めたり、是れより先同社と東京鉄道会社との間に合併談あり、電気会社の株を四十円払込とし、其の二株を以て電車会社の株五十円払込のもの一株と交換すべしとの案につき協議せし事あれども不調に終れり。


〔参考〕日本鉄道史 下篇・第七一九頁〔大正一〇年八月〕(DK090046k-0008)
第9巻 p.410 ページ画像

日本鉄道史  下篇・第七一九頁〔大正一〇年八月〕
東京電気鉄道は、初め川崎電気鉄道と称し、二十九年四月東京市森岡昌純外九名発起人となり、資本金五拾五万円を以て電気鉄道を経営せんとし、三十年八月渋谷村広尾橋より目黒馬込を経て池上に至り、岐れて一は矢口を経て御幸に達し、一は入新井を経て東海道線大森に至る線を特許せられ、三十二年一月甲武鉄道線信濃町より広尾橋に至る間を、三十四年四月広尾橋より一ノ橋を経て芝金杉橋に至る線を特許せらる。是より先、三十三年五月社名を東京電気鉄道と改称して八拾万円に増資し、三十五年二月十九日及び三十七年六月六日を以て外濠線の特許を受け、更に尚ほ資本金を増加して六百万円となし、三十七年十二月より三十八年十一月二十三日に亘り、外濠線全線開通し、三十九年三月三日信濃町天現寺橋間亦開通したり。