デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
3節 電話
1款 電話会社
■綱文

第9巻 p.695-705(DK090069k) ページ画像

明治18年5月15日(1885年)

栄一工部省電信局長石井忠亮ノ勧説ニ依リ、益田孝・大倉喜八郎外発起人十八名等ト共ニ民間ニ於ケル電話会社ノ創立ヲ企テ、是日工部卿佐々木高行ニ会社創立願書ヲ提出ス。同年十一月三十日却下セラル。


■資料

電話会社関係書類 (写)(DK090069k-0001)
第9巻 p.695-698 ページ画像

電話会社関係書類 (写) (渋沢子爵家所蔵)
    ○
各位益御清適奉敬賀候、陳ハ今般拙者共電話会社ヲ創設仕度ニ付、別冊之通リ定款並ニ損益予算書其外共取調候ニ付即チ其一部ヲ御送進仕候間、右設立ノ義御同意ニ被為在候ハヾ何卒発起人ニ御加名被下度候尤発起人一同株金引受方ノ義ハ、拙者共ニ於テハ金五万円丈引受可申事ニ予定仕候間、各位ニ於テモ御引受高御治定ノ上御示シ被下度候、此段別冊書類相添得貴意度如此御坐候也
  明治十八年一月五日
                     梅浦精一
                     川崎正蔵
                     米倉一平
                     森村市太郎
                     松尾儀助
                     原六郎
                     小室信夫
                     益田孝
                   右総代
                     渋沢栄一
   原善三郎殿
   茂木惣兵衛殿
   木村利右衛門殿
   平沼専三殿
   朝吹英二殿
追テ本文電話会社ノ義ハ一地方ニ於テ通信同盟者百五十名以上無之候テハ為メニ中央局相設候トモ損益計算難相立見込ニ御坐候間、愈此会社設立ノ御許可ヲ得候ハヾ差向先ヅ東京ニ於テ同盟者相募リ、満員ノ上ハ開業仕度見込ニ候、就テハ貴地ニ於テモ精々株主又ハ通信同盟者御勧誘被下、満員ノ見込相立候ハヾ其時々支社設立ノ事共御打合申上度候、此段モ併テ申上候
 - 第9巻 p.696 -ページ画像 
     (右ハ横浜分)
    五代友厚殿
    藤田伝三郎殿
    広瀬宰平殿
    外山修造殿
     (右ハ大阪分)
   ○定款及ビ損益予算書等別冊書類ヲ欠ク。
    ○
来廿九日電話会社発起人相会シ創立要務等御相談致度候間、何卒乍御苦労当日午後五時ヨリ木挽町東京商工会迄御来会被下度、此段御案内申上候也
  明治十八年四月廿三日
                     渋沢栄一
    渋沢栄一
    益田孝
    小室信夫
    原六郎
    松尾儀助
    梅浦精一殿
    森村市太郎
    川崎正蔵
    米倉一平
    大倉喜八郎
    丹羽雄九郎
    ○
今般電話会社創立ノ義ニ付別紙ノ通リ工部卿ヘ出願仕度、就テハ何卒右書面工部卿ヘ御進達被下度、此段奉願上候也
              電話会社創立発起人廿一名総代
  明治十八年五月十五日  京橋区采女町廿七番地寄留
              長崎県士族 松尾儀助
    東京府知事 芳川顕正殿
 前書ノ通リ願出ニ付致奥印候也
              東京府京橋区長 林厚徳
    ○
    電話会社創立ノ義ニ付願書
今般私共申合電話会社ヲ創立シ、資本金ヲ拾万円ト定メ、内金五万円ヲ左ニ連名スル発起人ニ於テ引受ケ、本社ヲ当府下京橋区銀坐二丁目七番地ニ置キ、別冊定款ニヨリ電話通信ノ業ヲ営ミ度候間、何卒御許可被下度、依テ別冊会社定款相添ヘ此段奉願上候也
  明治十八年五月十五日
                神田区通新石町廿一番地
                       丹羽雄九郎
                京橋区銀坐二丁目七番地
                    平民 大倉喜八郎
 - 第9巻 p.697 -ページ画像 
                深川区西元町一番地
                       米倉一平
                京橋区築地二丁目廿五番地
                       川崎正蔵
                京橋区銀坐四丁目壱番地
                       森村市太郎
                京橋区木挽町九丁目十一番地寄留
                       梅浦精一
                京橋区采女町二十七番地寄留
                 長崎県士族 松尾儀助
                京橋区築地三丁目八番地
                    平民 原六郎
                南葛飾郡小梅村七十七番地
                       小室信夫
                    代印 益田孝
                荏原郡北品川宿二百六十番地
                       益田孝
                深川区福住町四番地
                       渋沢栄一
                芝区浜松町二十七番地
                       子安峻
                京橋区大鋸町六番地
                    平民 喜谷市郎右衛門
                京橋区南伝馬町一丁目十七番地
                    平民 山中隣之助
                麻布区三河台町二十八番地
                       矢島作郎
                本所区千歳町四十六番地
                       川崎八右衛門
                日本橋区小網町四丁目八番地
                       安田善次郎
                北豊島郡金杉村二百六十九番地
                       今村清之助
                京橋区南新堀一丁目四番地
                    平民 中沢彦吉
                京橋区築地二丁目十六番地
                    平民 平野富二
                日本橋区本材木町二丁目二番地
                       久原庄三郎
    工部卿 佐々木高行殿
   ○別冊定款ヲ欠ク。
    ○
     副願
別紙創立御許可奉願候電話会社之義ハ、元来同盟中相互ノ間交話通信
 - 第9巻 p.698 -ページ画像 
ノ便益ヲ図リ候義ニシテ、一般公共ノ頼信ニ弁達スベキ趣意ニ無之ニ付、彼ノ郵便電信等ニ比スレハ其区域甚ダ狭小ニハ御座候得共、方今世上通信ノ迅速ヲ貴フノ気運ニ当リ実ニ其一進歩ヲ致スベキ義ト奉存候ニ付、日漸《(マヽ)》ク公衆ニ於テ其便益ヲ感スルノ日ニ至ラハ果シテ其盛大ヲ期スルハ必然ノ義ニ奉存候得共、新創之際ニ在テハ同盟加入者其数乏シク、目下東京ニ於テ銀行諸会社其他繁劇ノ商工業ヲ営ミ居候者ニテ加盟見込ノ者ヲ算スルモ其数百名ニ相達シ不申、然ル処別冊定款ニ定ムルカ如ク一地方ニ於テ同盟加入者百五拾名ニ満タザレバ損益計算難相立見込ニ付、到底此数ニ達セザレバ開業無覚束義ト奉存候、就テハ右会社ノ義ハ普通会社ト其性質同シカラザル義ニモ御坐候間、何卒特別之御詮議ヲ以右会社設立ノ上ハ諸官衙ニ於テ通信御加入ノ義御結約被成度候、電話技手ノ義ハ会社ニ於テ相当ノ者雇使可仕義ハ勿論ニ御坐候得共、前陳ノ如ク諸官衙ニ於テ御加盟ノ義御結約被成降候上ハ公信取扱向等充分ノ取締方ヲ要スベキ義ト奉存候ニ付、右電話取扱向等ノ義ハ総テ其御筋ニ於テ御管理相成、当《(マヽ)》ノ御命約ニ拠リテ所理致度候、此段副テ奉願上候也
  明治十八年五月十五日
願之趣難聞届候事
  明治十八年十一月三十日
           工部卿 伯爵 佐々木高行
   ○右「電話会社関係書類写」ハ渋沢事務所員岡田純夫カ昭和三年頃、東京商業会議所所蔵ニカヽル「電話会社創立定款」「電話会社創立関係往復文書綴」「電話会社会計書類綴」ノ三冊中ヨリ写セルモノト推定セラル。原本ハ今同会議所図書室ニ目録カードニ名ノミ存シ実物紛失シテナシ。
   ○電話ノ発明ハ一八七六年(明治九年)米人グラハム・ベルノ創意ニ成リ、本邦ヘハ翌明治十年十一月初メテ移入セラレ、東京横浜間ニ試用シ、次テ工部・宮内両省ノ間ニ装置シテ通話ニ供セラル、コレ本邦電話機使用ノ濫觴ニシテ、爾来工部省ニ於テ之ガ模造ニ着手シ、又各種電話機輸入セラレシモ、概ネ官庁ニ於ケル試験的使用ニ過ギズ、明治十六年工部省ヨリ電話交換ノ新設ニ関シ、閣議稟請書提出セラレテヨリ、官民共ニソノ事業ニ注目スルニ至レリ(通信事業五十年史第二二五―第二二七頁ニ拠ル)、ソノ稟請書ハ後掲参考ヲ見ヨ。


原六郎翁伝 (原邦造編) 中巻・第四一一―四一五頁〔昭和一二年一一月日〕(DK090069k-0002)
第9巻 p.698-699 ページ画像

原六郎翁伝(原邦造編) 中巻・第四一一―四一五頁〔昭和一二年一一月日〕
 ○第十章
    第十節 翁の関係せる其他の諸事業
○中略
 伝話会社 米国人エヂソンが電話機を発明したのは西暦千八百七十七年即ち我が明治十年で翁○原六郎が海外留学から帰朝した年に当る。この文明の新利器は直ちに世界各国に普及し、この発明あつて数年後我国でも翁をはじめ渋沢栄一氏、益田孝氏の様な人々は「伝話」事業を民間経営に移さうと計画した。その頃の翁の日記に次のやうな記事がある。
 「明治十七年十一月六日 日本橋柏木に会す。伝話会社設置願の件につき発起人渋沢栄一・益田孝・川崎正蔵・森村市左衛門・松尾儀
 - 第9巻 p.699 -ページ画像 
助・原六郎の六人集会し、定約・予算書を決す。尚発起人へ東京・大阪・横浜の有力者十名許りを加入せしめる事に決す。」
 当時電信は官設と定まつてゐたが、電話については未だ何等の規定がなかつたため、政府もその私設を許し「伝話会社」の設立を援けようとする意向があつた。そこで明治二十年発起人達は理学士沢田廉氏を米国に派遣し、親しくエヂソンについて電話を研究せしめた。しかるにその中政府は電話を官設の方針に変へ、翁等発起人に前約取消を通じて来たので、この伝話会社の計画は遂に実現を見るに至らなかつた。技術を修めて帰朝した沢田技師は逓信省に入り電話敷設に尽力し我国電話事業の基礎を築いた。


雨夜譚会談話筆記 上・第四七―四九頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕(DK090069k-0003)
第9巻 p.699 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上・第四七―四九頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
    第三回大正十五年十一月十三日於飛鳥山邸
  出席者、渋沢敬三氏・増田氏・高田氏・岡田(白石氏は事務所の要務ありて欠席)
敬三「電話の私設計画の中止と官設に決した事情に就てお話をお願ひ致します」
先生「電話私設計画当時の逓信大臣が榎本武揚氏とあるが、私設計画から官設になつた成行に就て交渉した人は、次官の野村靖氏であつた。電気局長であつた石井忠亮と云ふ人は肥前の人で、私とはさまで親しくはして居らなかつたけれど、一通りの知人である。直接而も突然ではなく何かの話の時、「電話が米国で旺んに利用されてゐるに就ては、日本でも用ひたらよからう、今の場合官設は困難であるから、民設として三百人位の仲間が出来れば架設出来る、電柱は政府の電信のものを用ひるならば、費用は五万円か十万円程度で足りよう」と云ふことであつたから、電気局で実費を以て工事の心配をしてもらう手筈にして、私達の方で三百人の仲間と、五万円の資金と技術家としての専任者を一人見つけ、交換局を設けることにして、新橋の、名前は忘れたが料理屋で、遊びでなく、二三度も石井と会つて相談したが、其時分から私はそんな事の世話役をして居つたのである。然し又斯様な新しい便利な施設は追々やらねばならぬことであるから、大倉(喜八郎)益田(孝)其他二十人ばかりの相手があつて色々相談し、兎に角実行するに決した。
   ○工部省ハ明治十八年十二月二十二日廃止セラレ同日逓信省創置サル。榎本武揚初代逓信大臣トナリ、同二十二年三月廿二日ニ至リ後藤象二郎ト更迭ス。野村靖ハ同省設置ト共ニ逓信大輔心得トナリ、同十九年三月三日次官ニ任ゼラレ同二十一年十一月十九日ニ至ル。石井忠亮ハ明治五年七月工部省ニ入リ電信掛ヲ命ゼラレ、翌年一月電信権頭ニ昇進、同十年電信寮廃セラルヽヤ工部省小書記官ニ任ゼラレ、十三年権大書記トナリ電信局長ヲ命ゼラル。同十八年工部省ヲ廃シ逓信省ヲ置クヤ逓信大書記官ニ任ゼラレ、十九年三月万国電信会議ヨリ帰朝電信局長ヲ命ゼラル。爾来二十二年和歌山県知事ニ任ゼラルヽマデ電信事業ヲ鞅掌セリ。


逓信協会雑誌 第二九号〔明治四三年一二月〕 電話創業の回顧(元逓信省電務局長若宮正音)(DK090069k-0004)
第9巻 p.699-701 ページ画像

逓信協会雑誌 第二九号〔明治四三年一二月〕
    電話創業の回顧(元逓信省電務局長 若宮正音)
 - 第9巻 p.700 -ページ画像 
○上略明治十六年五月に於て時の工部省電信局長石井忠亮氏、釜山海底電信線路測定として清国上海を経、釜山浦へ出張の官命を享け、偶ま上海に於て電話交換局の実況を目撃して、電話機関の文明社会に欠くへからさることを知覚するや、帰朝後復命書の一部に左の一章を附記し、電話開設の急要なることを工部省に提議したり
 大北部会社家屋中に設けある上海電話機中央局を一覧するに、此局に装置するものは顕微電話機と交換機となり、各伝話依頼人の線は此中央局に集合せしむるものとす、此局に於ては甲乙或は甲丙と伝話せんとするとき其求に応じ、交換局にて自在に接続し、伝話の首尾に電鈴を鳴らし以て信号を為す、市中の電話線は英国ビー・ダブリウ・ジー第十一号線を用ゆ、其中央局に入れたる数は百二十余線なりと云ふ、故に上海の重なる会社旅店其他交際の繁多なる者は、必ず此器を利用して日常水火の如く欠くへからさるものとなすが如し、我東京、大阪其他都会の地に之を設置せば、商業の便は言を待たず、府下経済の点に至りて大に利する所あるべし云々
当時上下一般電話に関する知識の如何に幼稚なりしかは、当局局長が当局省卿に向ひ電話依頼人の線は此中央局に集合せしむることより、伝話の首尾に電鈴を鳴らし以て信号をなすことまで、仔細に記載具陳するの必要ありしに依りて察知すべきなり、然りと雖此一道《(通)》の復命書は実に我邦に此事業を開始すべき最初の動機を起したる重要のものなることを疑ふべからず、乃ち同じき十六年九月に至り工部卿は太政大臣に対し電話交換新設の申請書を提出したり、是れ此事業に関する発程第一の閣議請求書にして、帝国日本電話歴史に特筆大書すべき要件として、吾人電話事業に心身を委したるものの実に遺忘すべからざるものなれば、左に其要を摘録すべし
 電話の義は石井電信局長過般上海に於て目撃の景況復命書に開陳の如く、海外に於て其使用実に盛大にして日用水火の如く欠くへからさる要具と相成、我国に於ては未た一般該線の設なく、商業は勿論其他事務繁多の今日依然旧慣を固守し、使を奔らせ用弁を為し、往返に消費する時間僅少ならず迂遠極まれり、今玆に之を布設し、府下各所の人に談話し得ることに致さは、公私一般の便益と相成候に付、先つ東京に布設し、漸く西京・大阪其他輻輳の地に及ほし度候其設置の法は適宜の場所に中央局を置き、依頼人の区劃を定めて架設し、其区中の依頼人は各自在に談話し、其線の接続は皆中央局にて取扱ふ義に有之、線路新築保守の費用は総て官に於て負担し、依頼者は一年若干円を賦課することに相定め度、右費用差向五万円御下渡相成度、尤も即今費途御多端の際に付金額御下渡難相成候はゝ其半額は人民より募集の運に致し可申哉、或は官設御詮議難相成候はゝ都て私会社に創立せしむへきや、御指令を仰く云々
蓋し当時工部省は勿論官設を希望するものなりと雖、財政上之を許さざるものとせは、私設会社をして之を経営せしめんとするに在り、必ずしも私設を排せんとする意向之あらず、乃ち同年十二月太政官の指令は
 伺之趣民設之積ヲ以テ方按取調更ニ可申出事
 - 第9巻 p.701 -ページ画像 
とあり、官設の途玆に一絶の止むなきことゝなれり、主務省既に私設経営を非認せず、太政官亦民設に傾きたれば、遂に民間有力者の電話会社創立発起を催《(促)》がしたり、亦勢の自から止むべからざるものなり
然るに工部省に於ては爾後漸く私設の不可なるを知り、翌十七年再び官設の義を太政官に呈したれども、又「目今難及詮議」旨の指令に接したるに拘はらず、越えて十八年三び《(マヽ)》書を太政官に提出して官設論を主張したり、其要旨左の如し
 伝話線新設の義去る十六年申請に対し、民設を以て方按取調可申出旨御指令相成、其後十七年再び官設の義相伺候処、自今難及詮議旨御指令相成候に付、爾後熟考候処、近来伝話の効用大に進歩し、官庁の急務は勿論警察上に於ても必要の具に有之、人民往々其便益を知覚し、頃日数人相謀り伝話会社設立を企つるもの有之、然処伝話器は微妙の機関にして電気の感応甚だ敏捷なるを以て、通常電信線多数ある柱木を《(にカ)》兼架致候ときは、電気流通の際甲乙の音響相感触し伝話混淆聞取り難きに至るものに付、別に線条を架設せさるべからず、且つ一線にては其用に応じ難く、是非二線を要すべく、其費用も巨額を要し候故、少額の株金にては維持無覚束と相考へ候、現に民間企業者に於ても一地方加入者百五十名に満たざれば損益難相償とのことにて、官庁に於ても通信に加入相成、其公信も亦会社の線にて取扱度旨申出居候得共、果して如斯するときは官庁の機密は勿論警察上の要件等民間に伝漏するに至り、其弊害挙て言ふべからざるに付、会社の線と接続通信の義は決して許すべからず、且其架線の見込は一線の積に可有之、二線を架する時は更に其費額を増すは当然にて、彼是民間企業者の目的に齟齬を生じ可申、況や伝話線は之を官設として線路の保守、器械の適度等十分に行届候様致さゞる時は、其効用を全ふする能はず、殊に電信条例にある法規に違背し治安を害し風俗を壊乱するものと認むる私報は其伝送を止め、又擾乱等の際線路地方或は語辞を限り私報を停止すること有之、伝話器に於ても同様のことにて、其伝話を止むることあるべきは当然に候処、官設に候へは厳密に取締相成候も、私設にては検束難出来に付弊害を生じ可申、右等の事由有之、到底民設にては実行難被行ものに有之、然るに官設は前指令の次第も有之候得共、伝話器の便利日に益相進み商業其他急用のものは皆其利を享受せんとするを以て、人民に於ても設置せんとする勢に及び候に付、一日も速かに設置して其費用に供すべきは目下の急務に候間、費用御多端の際に候得共官設設置相成度候云々
然り而して太政官は同年十一月を以て依然
 「伺之趣即今難及詮儀《(議)》」
と指令せられたり
   ○逓信省大臣官房秘書課編纂掛ニ問合セシニ同省所蔵公文書類ハ関東大震火災ノ折全部烏有ニ帰シ爾来補フヲ得ズト。右若宮正音ノ回顧談ニ引用セル復命書及ビ禀議書等今原文ヲ求ムルヲ得ズ。大正十年逓信省編纂刊行ニカカハル通信事業五十年史亦コノ条右回顧談ノマヽ引用セリ。
   ○上掲書中伝話電話混用セルモ原文ニ従フ。

 - 第9巻 p.702 -ページ画像 

東京経済雑誌 第二六六号〔明治一八年五月二三日〕 ○電話会社創立の企(DK090069k-0005)
第9巻 p.702 ページ画像

東京経済雑誌 第二六六号〔明治一八年五月二三日〕
    ○電話会社創立の企
欧米諸国には電話機大に行はれ、商売の駈引より政治上の事に至るまで皆な之を用ひ、坐して応答を為し、其便利少なからずと聞けり、今度渋沢栄一・益田孝・大倉喜八郎其他廿余名の有志者か発起人となりて府下に電話会社を創立し、資本金を拾万円とし、五万円を発起人の負担とし、其他広く株主を募りて其残額に充つるよしにて、既に其計画も斉ひ、得意先きも百五十名に満ちたれは、不日開業すると云ふ、又電話機装置の費用及ひ通信料等の予算は左の如し
   電話機装置費用保証金          一ケ年通信料
                円           円
 半里未満         一二〇          四五
 半里以上一里未満     一五〇          五五
 壱里以上二里未満     一八〇          六五
右保証金は電線設置費用の保証金なり、尤も五ケ年を過れは返付するものなり、又た右通信料は一日五回の通信を許し、其以上は一回に付三銭の増賃を払ふべきものとす、其電話依頼者の定約年限は五ケ年とし、若し其期限内に解約を望む時は、解約者より線路建築費用として左の金額を領収するの予算なり
       一年未満  二年未満  三年未満  四年未満
          円     円     円     円
 半里未満   一二五    九〇    七〇    三〇
 壱里未満   一五〇   一二〇   一〇〇    五〇
 弐里未満   一八〇   一五〇   一四〇    七〇



〔参考〕日本電気事業発達史 前編・第三一三―三二七頁〔大正五年一二月三一日〕(DK090069k-0006)
第9巻 p.702-705 ページ画像

日本電気事業発達史 前編・第三一三―三二七頁〔大正五年一二月三一日〕
 ○第二編電話事業
    第二章 揺籃時代
 電話機の甫めて本邦に到来したるは明治十年にして米国に於てアレキサンダー・グラハム・ベル氏が之を発明したる翌年なりとす、該機の送話器は長さ六寸許なる馬蹄磁石の磁極に軟鉄心を有せる二個の円形捲線を取り付け其前面に方形の薄鉄板を装置したるものにして、受話器は長さ凡そ三寸八分なる磁石杆の一端に円形捲線を嵌入し其前面に磁石を少しく離れて薄き円形軟鉄板を装置せるものにして、大体の原理に於ては送受話両器共同様にして所謂磁石電話機と称するものなりき、工部省は明治十年十一月東京及横浜間に於て之を試験したるに高声を以てせば通話し得るを以て同年十二月より試験的に使用することゝなれり。
○中略
 斯くて同省は海外に於ける電話制度を研究すると共に其機械製作に全力を傾倒し、明治十一年六月工部省電信局製機所(現今の逓信省構内にありたり)に於て初めて磁石電話機二個を模造せり、是れ本邦に於ける電話機製造の嚆矢なりとす、然れども該機は音声微弱にして使用者を満足せしむること能はざりしかば、更に研究の結果、明治十六年米人エヂソンの発明せる電話機を製造使用することゝなれり、エヂソン電話機の構造はベル形電話機と全く異り、其送話器には炭素を用
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ひ、其回線中に誘導捲線及電池《インダクシヨンコイル》を装置したるものにして、所謂炭素電話機《カーボンテレホン》と称するものなり。
 同年時の工部省電信局長石井忠亮氏清国へ出張の際、上海に於て電話交換局を視察するに及びて、電話業務開設の急要なることを覚知し帰朝後工部卿に復命して曰く
   ○前掲ニツキ復命書略ス。
該復命書の提出せらるや工部卿(佐々木高行氏)亦電話機関の文明社会に欠くべからざるを知り、同年九月太政大臣三条実美氏に対して左の電話交換事業開始の申請書を提出したり。
   ○前掲ニツキ申請書略ス。
 該申請書は実に本邦電話事業に関する発程第一の閣議申請書なり、然るに同年十二月太政官は「民設の積を以て方案取調更に申請すべきこと」と指令したりしかば遂に民間有力者の渋沢栄一氏其他の電話会社創立発起を促がすに至れり、而も工部省は其後私設の不可なるを知り、同十七年再び官設を請願したるも又「目今難及詮議」の指令に接し、翌十八年三たび官設を申請したりしも依然聴許せられざりき、蓋し政府は当時費途頗る多端にして財政上官設を許可し得ざりしなり、同年官制改革に依り工部省を廃して逓信省を置くに当り、初代の逓信大臣榎本武揚及次官野村靖の両氏電話官設論を主張して官営の歩武漸く進めり、而して逓信省の技術官は益々電話機の研究に熱中し、工学博士志田林三郎・吉田正秀・工学士大井才太郎・加藤木重教・川口市太郎等の諸氏全力を傾注して其改善を図り同年十二月一種新形の電話機を製造したり、該器はエヂソン送話器と米国人ブレキー《(マヽ)》(Blake)の発明に係る送話器とを折衷せるものにして、エヂソン、ブレーキ電話機又は其形状巾着に似たるを以て巾着形電話機と称せり、該機並に従来製造せるエヂソン電話機は最初のベル磁石電話機に比すれば高声を発すと雖も、調度の変化多く実用上満足の結果を得ざりしに依り、更に工夫考按して既製二百数十座の送話機を仏国のベルトン(Berthon)形のものとし、其他は従前の儘にて使用したり、ベルトン形送話器と称するは直径凡そ一寸八分五厘、厚さ七厘の炭素板二枚より成り、一枚には其中心に径七分なるエボナイト製の輪を取り附け、輪中に炭素粒を充たし、其上に他の炭素板を置き、其炭素板に向て送話するの構造を有せり、該ベルトン電話機は其調度善良なるときは頗る高声を発すと雖も尚ほ調度の変化多く、巾着形電話機も亦時々調度を要することありて、何れも使用者を満足せしむること能はざりき。
 此時に至りて私設電話会社の準備着々と進行し、有志者側より理学士沢井廉氏を米国に派遣して大に斯業を調査せしめ、其雄飛将に実現を見んとしたりしが、当局者の電話官営論は已にして燎原の勢を呈し、遂に明治二十一年官営のことに廟議一決す、於是乎政府は私設企業者の発起取消を交渉すると共に、米国滞留中の沢井氏を政府の嘱託と為し、更に同年逓信技師工学士大井才太郎氏を欧米に派遣して電話事業を調査研究せしめたり、当時(明治二十二年)加藤木重教氏は私費を以て渡米し、紐育市ウエスターン電気会社に入りて電話家カーチー氏に就き電話交換方式を研究したり、先是、逓信省の製機所にて仏国の
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アデル(Ader)形電話機を製造したるが、同機は調度を要するの手数なしと雖も、低声にして実用に適せざりき、次で英国郵政庁に於て使用する所のガワベル(Gower-Bell)電話機二個英国より来着したるに依り、之を試験したるに頗る良好なる成績を得たり、時恰も電信電話双信用として往復二条の十二番硬銅線を交叉法に依り加設したる東京大阪線中の東京・熱海間六十六哩の線路竣工したりしかば、同線に依りて各種電話機の優劣を試験したるに、ガワベル電話機最も実用に適するを認め、之を模造したるに舶来品と匹敵し得る優良品を製造し得たり。
 明治二十二年十二月大井逓信技師海外より帰朝するや、逓信省は直ちに同技師が欧米に於て調査研究せる制度を標的とし、我が国状を参酌して電話交換規則其他之に関する規程の編成に着手し、翌二十三年四月逓信省令第七号を以て電話交換規則十八条を公布したり、次で東京及横浜両市に於ける電話交換加入者使用料、市内電話料、東京・横浜間通話料等を制定し、又東京日本橋電信支局内に東京電話交換事務所を設け、電話交換局事務章程を設定して其職員を主管・電話技手・電話書記に分つ等順次開業の準備を整へ、東京・横浜両局に単式交換機を装置して架空単線式に依り十八番硬銅線を架設し、加入者にはガワベル電話機を使用して廿三年十二月十六日東京(交換局は麹町永楽町二丁目に設置せり)又横浜(居留地二百三十三番館に置けり)両市に電話交換業務を開始すると同時に両市間の通話をも公開したり、之れを我邦に於ける電話事業の権輿とす、(当時使用せし交換機、電話機、電線及電池等悉く日本製なりき)然れども当時世人の電話に対し懐抱したる感想は極めて幼稚なりしかば、其開始に先ち銀行集会所・株式取引所等に於て電話交換機を仮設し、三日間に渉り市民に之が利用を実地観覧せしめ大に加入の誘導に努め、時の逓信大臣後藤象次郎氏《(後藤象二郎)》は東京に於ける知名の商工業家を其官邸に招き電話交換の利便を説きて加入を勧誘し、更に又電話加入の勧誘状を貴顕紳士及商工業家等に送り、加入申込を承諾したる者の住所氏名を新聞紙上に掲載する等百方加入勧誘の方法を講じたりしと雖も、開業に際して其加入者は東京二三七人(内開通一七九人)横浜四八人(内開通四五人)合計二百八十五名の申込ありしに過ぎざりしのみならず、時恰もコレラ病流行の後なりしかば電話機が明瞭に談話を媒介するが如く流行病をも媒介伝播するならんとて恐怖するものありしといふ、以て当時世人の電話に対する思想の一班《(斑)》を想像するに足るべし。
 明治二十四年電話交換局官制を定め之に依りて従来逓信省電務局に属せし電話事業の経営を独立せしめ、又同年中東京・横浜両市に於ける加入者増設工事を施行し同廿五年三月更に大阪及神戸両市に電話交換を開始したるが、大阪局に於ける加入者百四十一名、神戸局加入者七十四名に過ぎざりき、然れども其利便を漸次認知せらるゝと共に加入者逐年増加し、遂に東京局に於ては単式交換機を以てしては加入者の収容困難なるに至りしかば同二十六年直列複式交換機に変更したり是を本邦に於ける複式交換機採用の嚆矢と為す、間もなく日清戦争の開始に際し一時その拡張を中止するに止むなきに至りしが、同廿八年
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度未加入者数は約七千の多きに達し、内開通せるもの二千八百五十八名、未開通は四千百名を算し、同年度中の総収入十四万二千六百十六円(投入資本に対し約二割七分)総支出九万千五百四十九円差引純益金五万千六十七円、即ち資金に対し九分三厘強の利益を見るに至れり。