デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
1款 大阪紡績株式会社
■綱文

第10巻 p.5-17(DK100001k) ページ画像

明治12年(1879年)

是ヨリ先、西南戦役後ノ輸入綿糸布ノ増大ヲ慮リ、コレヲ阻止センガタメニハ大規模紡織工場ノ設立ヲ急務ナリトシ、是年初メ栄一大阪藤田伝三郎・松本重太郎等ト謀リ紡績会社設立ヲ企図ス。其資金ハ当時前田利嗣以下二十一華族ノ積立テタル京浜鉄道払下ゲ資金ノ残余ヲ以テシ、更ニ東京綿商薩摩治兵衛以下数人ヲ発起人ニ加フ。


■資料

開国五十年史 (大隈重信撰) 下巻・第七〇五―七〇七頁 〔明治四一年二月〕(DK100001k-0001)
第10巻 p.5-6 ページ画像

開国五十年史 (大隈重信撰) 下巻・第七〇五―七〇七頁 〔明治四一年二月〕
  会社誌 (男爵 渋沢栄一)
 ○第三章 主要なる会社事業発達の状況
    第四節 紡績事業
 泰西式の紡績機械を始めて我国に輸入したるは、旧鹿児島藩主島津斉彬公にして、紡績事業の淵源は遠く慶応年間にありしが、其後明治十三・四年の頃政府に於ては深く該事業を奨励するの必要を感じ、其器械を購入して、参州・尾州・勢州等の各所に模範工場を起し、之を人民に貸付して運転を試みしめたることあり。而して当時余も亦農商務大輔品川弥二郎氏より協議を受けたれども、余は明治十二年より別に紡績会社の設立を計画しつゝありたれば、政府奨励の事業には関係する所あらざりき。蓋し維新以来棉糸・棉布の輸入頻に増加し、殊に西南事変後紙幣膨脹、物価騰貴の影響を受け、輸入益々増加して、外国貿易甚しく其均衡を失したるが故に、朝野共に其均衡を恢復するを急務と為し、就中棉糸・棉布の如きは日常の必需品にして、又輸入品の大部を占むるを以て、先づ此等物品の製造を起すを最も急務と為せり。是れ官民に論なく、重きを紡績事業に置きたる所以なり。而して余は深く玆に慮り、熱心尽瘁して一大紡績会社を起さんことを期し、藤田伝三郎氏・小室信夫氏等と相謀り、又夫の京浜間鉄道の払下に加盟したる華族諸氏は、海上保険会社に投じたる資金の外、尚余金ありしを以て、之を勧誘して株主たらしめ、遂に大阪紡績会社を創立するに至りたるものにして、此会社は明治十二年の発起以来四五箇年の久しきを費し、十六年七月漸く其工場の落成を告げ、始めて棉糸製造に着手するに至れり。是れ大規模なる紡績工場を起すは、我邦未だ経験あらざりし所なるが故に、先づ人を英国に派遣して、該事業の経営を細大調査研究せしめ、又初め水利に依るの計画を以て、参州・紀州・城州等の河川を実測したりと雖、其水量何れも用に適ぜ《(せ)》ざるにより、止むを得ず水力を棄てゝ汽力に依ることゝ為し、遂に職工募集及び物
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品運搬の便否を考へて、地を大阪に卜するに至りたる等、準備の為に日子を要すること甚だ多かりしを以てなり。且つ製造の原料に関しても、内国産棉花は到底適品にあらず、其量も亦足らざるが故に、支那印度其他東洋棉花産出地方の実況を調査して、原料輸入の道を講じ、其後更に米国産棉花をも輸入するに至れり。


山辺丈夫君小伝 (宇野米吉編) 附録・第一―四頁 〔大正七年九月〕(DK100001k-0002)
第10巻 p.6-7 ページ画像

山辺丈夫君小伝 (宇野米吉編) 附録・第一―四頁 〔大正七年九月〕
    山辺君と紡績創業時代 (男爵 渋沢栄一 氏談)
○上略
 自分が山辺君の談話をするに当つて、前提として其初期時代即ち大阪紡績会社の創立時代のことより外話することの出来ないのを辞はつて置く、又其の方が私が山辺君を語るに適当なばかりでなく、何人も夫れ以外を求めぬのを承知して居るからである。
 随分古い談で、今から三四十年前のことであるから、事実や年月に於ても全く正確を期することが出来ないかも知れぬが、それは読む人の寛容に俟つ次第である。
 山辺君を語る前に、私は先づ其の時代の趨勢と、それに私の紡績事業を志した所以を語らねばならぬことを容して貰ひたい。
 明治十年の戦役後、市況は沸騰して著しい物価騰貴を湧起した。その理由は種々あらうけれども、当時不換紙幣の発行多きを加へたのも其一であつたらう。為に今日の如き富の増加による物価騰貴でなく、徒に浮薄の傾向に押されたと云ふより仕方がない。諸物価就中日用品の暴騰は勿論、土地家屋の如き不動産に至るまで底止する処なき暴騰を続けたのであつた。
 殊に日用必需品たる綿製品の如きは著しく高騰して、外品の輸入を盛んならしめ、綿糸・金巾・キヤラコ・更紗等、年に千余万円の多きに上らうとする有様であつた。それが為め綿服常用の国民としては甚しき損害である。是非之れが輸入を防遏すべき木綿工業を起さねばならぬとは一般の意向で、自分等も多少考へざるを得なかつた。而して又他の一面に於ては、予て自分の主宰してゐた第一銀行の方で、当時大阪方面へ向けらるゝ荷為替の多かつたことも、紡績企業の動機に数へらるゝ一つであつた。
 当時日本の棉業状態と云へば、旧来伝はる処の方法のみで、それによつて始めて布を製織していたが、労力のいらない為め、老幼を問はず、何れの辺陬と云はず、常に生産せらる《(衍)》れてゐたが、その製品の不整斉は到底今日の推察を許さない程であつて、当時新鋭の輸入糸に比較すれば、其糸質の整斉、強力、光沢豊富なることは、到底今日の談でないので、製織業家が勃然として是に趨つたのも無理からない次第である。
 それで例へ物価が安くなり輪入糸の減少を来しても、単に綿糸布のみは依然として増加するとも減少することはあるまいとは、何人も相像《(想)》し得る処で、単に紡績事業を企図してゐた吾々に限らす、何人も亦紡績事業に就いて多少の考へを思ひ及ぼさゞるを得なかつた。
 私は大体銀行者で、而も大蔵省の役人を途中で止した中年商人であ
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つたが、二三工業に関する趣昧は絶えず持つてゐた。製糸業の如きも従来の座操式であつた為め、製糸家によつて糸の長短があり、径の大小等種々の不整斉なる欠点があつて、完全なる絹糸を得ることが出来なかつたので、伊太利及仏蘭西式のメカニツクを採用する様、当局者に進呈《(言)》した程であつた。而して綿業の方も右同様の有様であつたことは云ふまでもない。
 そこで痛切に綿業の必要を感じ、先づ今の大倉男爵と相談して、当時あつた薩摩の工場を引継がうかとも相談したが、何分遠距離ではあるし、機械も十年の戦役の後を承けて不揃の為め思ひ止まつたが、それより先き未だ農商務省が出来ない頃であつた。大蔵卿今の大隈侯爵の次官に、今の内大臣松方侯爵が居られて、欧洲へ洋行せられた土産に紡績機械を齎して、所謂二千錘紡績と称し、全国各所に二千錘宛を分与して紡績事業を奨励したことがあつた。当時も多少の産額は上つてゐたが、吾々は今一つ物足らなく思つてゐた矢先き、洋行した人の話を聞けば、英国では一つの工場で五万十万の錘数を持つて居つて、一万錘以下の紡績はないさうである。試験工場ならば兎に角、営利を目的とする会社としては到底駄目であるとのことで、是非大工場を成立したいと思つてゐたが、云ふまでもなく之には多額の資本が入るので、有力な発起人を求めねばならなかつた。
 先にも云ふた通り、当時私は大蔵省の役人を止した中年商人であつた為め、まだ多くの財力を運転し得るの信用も乏しかつたが、私が目を附けた金と云ふのは、曾而二十一軒の華族によつて、鉄道会社を計劃してゐた一団の組合の資金であつて、貯金七十方円を有してゐた。是は年々華族一軒一万円宛を積立した金で、先づ東京より青森までの奥羽鉄道を企劃したけれども、之は到底成功も覚束ないと云ふので、当時不完全なる京浜鉄道を払下げて貰ふことにしたが、これも政府の許諾が得られなかつたので、その積立金は宙に浮いてゐた訳である。尤も私は先づこの金に着目して、既に大部分を以て保険会社を成立せしめて、現在の東京海上保険の前身の創立を計つたのであつたが、尚数拾万円の余つた分があつたので、此の金を以て、紡績事業に注入することを勧説し、要領は得たけれども、華族だけでは物足りないので更に資本主に実業家をも入れたいと、当時日本橋に於ける棉業商人中薩摩治兵衛、其他十人ばかりを叫合《(糾)》して兎に角発起人を拵へ、弐拾六万円の大阪紡績会社を創立したのであつた。
○下略


大日本紡績聯合会月報 第三四九号・第三〇―三七頁 〔大正一〇年九月〕 ◎本邦紡績業の回顧(渋沢栄一君)(DK100001k-0003)
第10巻 p.7-12 ページ画像

大日本紡績聯合会月報 第三四九号・第三〇―三七頁 〔大正一〇年九月〕
    ◎本邦紡績業の回顧(渋沢栄一君)
  本篇は綿業研究会に於ける講演の大要なり
○上略 私の記憶に依りますと明治十二三年頃は木棉物輸入が俄に長足の進歩をなしたやうでございます、併し是も私が当業者でありませぬから、多少調査の届かぬ事もあらうし、心覚えでありますので間違つた所があるかも知れませぬが、是れより先きに欧羅巴の木綿の製造法を日本に移したいと考へて、ゴング式木綿製造法を工夫した御人は多少
 - 第10巻 p.8 -ページ画像 
ございます、鹿児島藩主の松平斉彬《(島津斉彬)》と云ふ、御維新の少し前に死なれた御人でありますけれども、此殿様が大分此事業に力を入れられて、鹿児島藩で欧羅巴式紡績の製造をされたが、是は何れの工場で、どの位の仕組であつたか、細かの事は知りませぬでも、確に此事業に寄与されたのである、それから東京に於ては鹿島万兵衛さんが王子で玉川の用水の水に依つて水車動力を以て小さい経営を始めた、私の存じて居る所では、是等が欧羅巴の仕組の紡績に着手された濫觴だと思ふのであります、それは寧ろ今御話しました明治十二・三年頃より前であつたと思ひます、明治十二・三年頃に棉物が何故左様に多く輸入されたかと云ふと、それは啻単に木綿ばかりではなかつたやうであります、或ひはメリンスも、羅紗も、総てさう云ふ織物が大いに輸入されたやうでありますが、其の輸入した原因は、明治十年の西南の戦争が其当時の経済界に採つては大なる変動を来して居る、種々なる方面に、数年前の欧羅巴戦乱の如くさう烈しい事ではありませぬけれども、直接係つた事柄故に中々異様な状況を起したのであります、船に対し、若くは普通の貨物に対し、総て戦争の影響で甚だしく及んで参り、且つ政府は別に沢山の準備を有つて居る訳ではなかつたからして、余儀なく不換紙幣、即ち太政官札を造り出したもので、丁度銀行紙幣を多く使つたやうなもので、さうして西南戦争の一時の急を凌いだ、そこで通貨がズツト膨脹した、是は経済の法則上、通貨が膨脹すれば諸物価は高くなるので、それは近頃新聞で頻に注意して居りますが、現大蔵大臣はさうでないと申しますけれども、是は大蔵大臣一個の想像で我我は信用しませぬ、通貨が膨脹すれば物価が騰るものと信じます、それは兎も角明治十年頃の歴史では、事実大変に物が騰つた、其騰つて参つたのが総ての物に影響を及ぼしたが、木棉に最も強く及ぼした、木棉物と申しても啻単に金巾ばかりでなかつたらうと思ひます、紡績糸も這入りましたらうし、更紗も這入りましたし種々なる木棉物が大分輸入せられました
 私がそれに気の付いたのは、丁度其当時には第一銀行の頭取をして居りまして、荷為替の事を私が取扱つた時代であつたからであります、後には貿易が多く神戸に移りましたけれども、まだ其頃は神戸よりは横浜の方で多く取扱つたのであります、横浜に這入つた荷物が上方に行くのには、多く荷為替でありました、さうして此取扱は総て第一銀行でやつたのではなかつたが、多くは第一銀行が取扱つた為に、是は木綿物が沢山来ると云ふことに就て、実際懸念せねばならぬ程度に見受けたのであります、段々其事情を調べて見ますと、日本の従来の姑息手段で拵へる品物よりは、向ふから来る物が品が宜くて、価が廉いから是は勢ひ段々入つて来るに相違ない、此に於て私一人でもありませぬが、其当時の経済の心得ある人々は、由々敷き大事だ、何うかせねばならぬと云ふ感じを惹起したのであります、軈て十四年に農商務省と云ふものが出来ましたが、其頃であつたか、それより後であつたか、其官辺の役所の有様がどんなものであつたか分りませぬが、多分其年だと思ひますが、品川弥二郎と云ふ人が、農商務次官になつて、農商務省の事に就いては大分力を御つくしになつたのであります
 - 第10巻 p.9 -ページ画像 
が、是が段々物の輸入に就て憂慮された、同時に今に大分御年寄であるが松方侯爵も其頃大蔵卿をして居られて、斉しく木棉物の輸入に付て憂慮されたのであります、民間に於ては私などが木棉に対して何とかせねばなるまいと憂慮した一人であります、当時今の大倉男爵も同じ考へを以て共に尽したことがあります、今日の如く木綿に就ての状態が明かになつて居なかつたものですから、何でも欧羅巴では其の動力の仕組が違ふさうだ、蒸気に依つて之れを動かせる方法があるさうだから、どうだ日本でもさう云ふ仕組をしたいと云ふ考へを有ちましたが、如何にしたら宜からうと云ふことに付ては、私共は其細かい方法を存じませなんだ、唯何とかしなければならぬと云ふ漠然たる考へに止まつたので、それが十三年から十四年に掛けてのことであつたと思ひます
 それから私が大阪の三軒家に大阪紡績会社と云ふものを起したのは多分十三年だと記憶しますが、是等も丁寧に取調べて罷出ると御話がはつきりとしますけれども、ツイ取込んだ為に詳しい調べもしませぬから、先づ多く記憶に委せて漠然たる申上げ方を致しますけれども、若しも是等の事を尚ほ丁寧に御取質しになると云ふ時であるならば、それそれの書類もある筈でありますから、それに就て言つたならば、どう云ふ事があつて、其時の有様はどんなであつた、資本はどれだけであつたか、会社が大凡斯う云ふ事であつただらうと云ふ、だらう話でなく、正確の御話も出来やうと思ひます、前に申す通り、日本の名宰相達が皆倹約を論じて木棉を以て衣服を作れと言つたのでありますが、其木棉が斯の如く海外から輸入すると云ふ有様は、どうも頗る危険の話である、どうかして日本で木棉の製造を為得るやうにしたいと考へました、けれども其時は棉が何処で出来るか、棉はどう云ふ種類に如何にするかと云ふ研究は付いて居りませず、先づ木棉だけは目に付きますが、其原料に付ては、どなたも是は知つて居る人はなかつたのであります、所謂鹿を追ふ猟師山を見ざる次第で、誠に空漠たる考へを付けたのは私共であつた、と申しても過言ではなからうと思ひます
 処で玆に大阪の三軒家に紡績会社を立てようと云ふことになつたのでありますが、其頃は中々資本を集めるのが骨が折れました、最早故人になりました柿沼谷蔵君が其頃からの懇意で御座いました、私よりも年若であつたが、已に故人になられました、此取引関係の交際をしましたのは、或は薩摩治兵衛さんとか、杉村甚兵衛さんとか、堀越角次郎さんとか云ふ様な方々でありましたが、さう云ふ方の中で柿沼さんは商業会議所の関係で御目に掛りましたが、どうしても木棉の事業を日本に起して見たい、是は会社にしなければならぬが、会社にする時はあなた方に幾分の株主になつて貰いたいと云ふことを交渉した所が、柿沼さん、薩摩治兵衛さんが御承諾になつて、始めたのであります、是ればかりでなく、一つの財源で《(が)》あつた、それは又面白いものであつた、多くは昔の御大名さん、即ち所謂華族さんの資本が十数万円加はつたのであります、なぜ華族さんの資本が加つたかと云ふことは別の問題でありますが、私が大蔵省を辞して銀行家になつたのが明治
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六年で、其前年即ち明治五年頃から前島密さんが華族さんからの相談を受けて、奥州に向つて、鉄道を敷きたいと云ふことを計画して、頻に準備をされて居つた、其主なる御方は毛利さん、伊達さん、越前さん、雲州さん、蜂須賀さんなど丁度□《(二)》十三軒ばかりの華族さんでありました、是等の連中が打揃つて其計画をされつゝあつたが、到底是は奥州までそれらの人々の力で鉄道を敷くなどと云ふことは、議論にばかり上つて、実際運びやうがないものでありますから、遂に前島君が困つて、私を一名之に入れて参謀役にせられた、私が尚ほ段々見渡した所が、是等の連中で奥州まで鉄道を引張るまでの金の集りやうはない、此際私が斯の如き計画を立てゝ居つても中々出来やうはない、それよりも差向き出来るやうな相談をなさるが宜いぢやないか、横浜にある鉄道を政府より払下げて貰つて、華族さんが寄つて追々に鉄道を敷くやうにしたら宜からう、それは面白いが、出来るだらうかと云ふことで御座いましたが、私は出来ぬことはなからうと云ふので、当時工部卿であつた伊藤さんに御話し致しましたところ、それは面白いから払下げやうと云ふことになつて、三百万円で払下げることになりました、今日なら三百万円では廉いものであるから、買つて置いたら儲かること勿論で御座いますが、まだ其時分には日本の財政が償はぬ時であつたから、之をすつかり完全に拵へて、三百万円に買ふことを約束をしたのでありますが、其約束をしたのは一時に払はずに、半期に二十一万円宛七年の間に年賦納と云ふことに致しまして、其間の経営は政府でやつて、愈々此代金を納め切つた後は民間で経営することで引受けやうと云ふので受合ひました、其受合つたに就きましても何でも明治七年から九年頃までズツト其金を納めて参りました所が、九年であつたか、十年であつたか、多分十年でありましたらうか、岩倉さんが頻に十五銀行を立てると云ふことを主張せられたに就て、是の鉄道問題が破れました、それは十五銀行の資本を華族が出さなければならぬと云ふのである、鉄道にも出して十五銀行にも出すと云ふのですが、さうは金がありません、処が岩倉さんの説は、鉄道の説よりも勢ひが強かつたので、岩倉さんの説が成立つて、愈十五銀行を造ることとなり、横浜の方は破れたので御座います、丁度四年間七回払込んで百四十幾万円かを政府に納めて、其契約は破れたので此払込んだ金を政府から取戻すと云ふことになりました、そこで私はあなた方は皇室の藩屏と云ふ所から大に事業を企てゝやらうと云ふのであつたが、折角の横浜の鉄道が破れた以上は、何か皇室の藩屏たる事業に就て経済界を援けて行く事があるではありませぬかと云つて、明治十一年頃海上保険会社の設立を御勧めした所が、皆さんが同意をされて、右の資本の一部を此方に入れられましたので、其の残つた一部分を紡績に御入れを願つたのであります、即ち大阪の三軒家の紡績会社に華族さんの資本が這入つたのは是であります、それに柿沼さん達の賛成があつて紡績会社が成立ちました、丁度資本金は二十八万円と紀憶して居ります、是も多少間違ひがあるかも知れませぬが、漸くそれに依つて一つの事業を起さうと云ふのでありますが、是れからどうしたら宜いか、途が付けば宜いので、動力は何に採るかと云ふことになりましたが、
 - 第10巻 p.11 -ページ画像 
そこで心配なのは此事業を発起するのは宜いが、会社を造つても紡績が出来ぬやうでは満足な仕事は出来ぬのでありますから、今申した薩摩治兵衛さんや柿沼さんに、色々錘数などを伺つたのでありますが、一万錘なければ計算が採れぬと云ふのであります、然る所前に申しました鹿島さんの御経営に就て山辺丈夫さんと云ふ人が倫敦に参りました時の友達に津田と云ふ人がありましたが、この津田さんは英語のよく出来る人でありましたから、前に申上げました海上保険会社の外国係の方に働かれて居つた一人である、津田さんは是まで会社の事には経営がない、普通の学問でやつて来て居るけれども、中々に気象のしつかりした人である、之れに勧めて紡績をやらしたら如何でしようかと、此山辺と云ふ人から薦められました、私はまだ会はぬ人ではありますけれども、学友の推薦に依つて同意をしまして、少し乱暴でありましたが電報に依つて当人の意嚮を聞いて見た所が、異存はないと云ふことでありましたから、英吉利に居る者を雇入れて、さうして当業者に就て学ぶ所の研究費として千五百円を出すことにしました、今ではあなたがたは何でもないように思はれませうが、其当時の千五百円は大したもので、清水の舞台から飛降りたやうに思はれるのですが、束脩を百五十磅出して勉強して会社の方に帰つて来た、此に於て本当に大阪の紡績会社と云ふものが成立つたのであります、それから開業致したのが十五年でございましたか、十六年であつたか、是等も甚だ朧気に申上げる結果になるのは甚だ御恥しうございますけれども丁寧に取調べましたら是等の時日は明瞭に分つて居りますが、大凡十五六年の頃に日本に前になかつた所の会社的の紡績事業が成立つたものと御覧下すつて宜しうございます、但し其前に、政府で紡績事業を奨励すると云ふので、二千錘づつ政府の費用で機業家にやらせたことがある、四日市の伊藤伝七と云ふ人が川島に居りますが、此人が堺で一箇所、川島で三箇所、会社を造りましたが、是れは余り小さいものであつたから、大きな事業にはならなかつたやうであります、現に他の場所は私関係しませぬが、唯今御話しました二千錘上げられた伊藤伝七と云ふ人は、其後にそれらのものを合併して三重紡績会社と云ふものにした、其時に私が御世話をして一万四五千錘の会社に引直して、それから段々進んで其後に大阪紡績と三重紡績と合併して東洋紡績となりましたので、今日は五十万錘、織機台も三万台でございますが、日本の紡績事業の最初の起りは左様な有様であります
  ○資本金ハ最初二十五万円ニシテ、後明治十五年十二月二十八万円ニ増加シタルモノナリ。又操業開始ハ十六年七月ナリ。
  ○華族資本ニヨル東京横浜間鉄道払下計画及ビ東京海上保険会社設立ノ経緯ニ就テハ、本資料第八巻所収「東京鉄道組合」及ビ第七巻所収「東京海上保険株式会社」ノ項ヲ参照。
  ○右ニ拠レバ東京横浜間鉄道払下計画ニ関係セル華族ハ左ノ二十八名ナリ。蜂須賀茂韶・毛利元徳・徳川慶勝・松平頼聡・池田慶徳・池田輝知・池田茂政・池田章政・山内豊範・松平慶永・松平茂昭・伊達宗城・伊達宗徳・久松勝成・久松定謨・前田利嗣・井伊直憲・大村純熙・亀井玆監・毛利元敏・前田利同・榊原政敬・池田徳潤・毛利元忠・九条道孝・井伊直安・徳川義宜・徳川茂承
 - 第10巻 p.12 -ページ画像 
而シテ右ノ中、大阪紡績会社ニ出資セル者左ノ十七名ニシテ、ソノ出資金額合計十万六千五百円ナリ。(第一回半季考課状ニ拠ル。括弧内ハ出資金額ナリ)
   前田利嗣(一八、〇〇〇)      蜂須賀茂韶(一六、二〇〇)
   毛利元徳(一五、〇〇〇)      徳川義礼○慶勝嗣子(八、九〇〇)
   亀井玆監( 八、八〇〇)      伊達宗徳(六、四〇〇)
   伊達宗城( 六、三〇〇)      松平頼聡(五、四〇〇)
   松平茂昭( 五、一〇〇)      久松定謨(四、二〇〇)
   池田輝知( 三、七〇〇)      井伊直憲(三、三〇〇)
   大村純雄○純熙嗣子(三、〇〇〇)  榊原政敬(  七〇〇)
   毛利元敏(   七〇〇)      毛利元忠(  六〇〇)
   九条道孝(   二〇〇)
  ○「大阪紡績会社を計画する頃渋沢栄一氏は大倉喜八郎氏と謀り、鹿児島紡績所を利用してものにせんと企てた。然るに、其の荒廃の甚しき事情を耳にするに及び、救済の到底困難なるを知りて中止した。」(絹川太一編「本邦綿糸紡績史」第一巻第一三八―一三九頁)


(大阪紡績株式会社)創業二十五年沿革略史 第一頁 〔明治四一年一〇月〕(DK100001k-0004)
第10巻 p.12-13 ページ画像

(大阪紡績株式会社)創業二十五年沿革略史 第一頁 〔明治四一年一〇月〕
    第一 会社之起原沿革
本邦ニ於ケル洋式紡織ノ工業タルヤ維新前後ノ創設ニ係ルモノナキニ非ザルモ、其業素ヨリ微ニシテ振ハズ以テ記スルニ足ルナシ、明治十二年ニ迨ビ官民倶ニ漸ク斯業振作ノ要ヲ感ジ、官設又ハ官府ノ勧誘保護ニ係ル紡績所ノ各地ニ創設セラルヽヲ見ルニ至レリ、然レドモ其規模孰レモ狭小ニシテ未ダ以テ斯業ノ発達ヲ計ルニ足ラズ、於玆渋沢栄一男其他二三ノ有志者胥ヒ謀リテ完全ナル一大紡績工場ヲ設立セントシ、其方法順序ヲ討議スルコト屡次、遂ニ当時英国滞在中ナル山辺丈夫(現任社長)ヲシテ英国紡績業ノ実況ヲ研究セシムルコトニ決シ準備成ルニ及ベリ
○中略
左ニ創立発起人並ニ其当時ノ株主ニシテ、今尚当社ノ株主タル諸君ノ姓名ヲ掲グ
  渋沢栄一    藤田伝三郎   松本重太郎
  矢島作郎    藤本文策    蜂須賀茂韶
  九条道実    熊谷辰太郎   亀井玆常
  毛利元敏    榊原政敬    原新七
  黒川幸七    西田永助    山辺丈夫
  田中栄秀    渋谷正十郎   岡村勝正
  蒲田政次郎   清水格之亮   小室信夫
  辻川平助
○下略
  ○「政府の奨励時代、即ち明治十一年頃から十九年頃までに計画された紡績は、その規模総て二千錘の個人所有のものゝみ多く成績も余り香ばしくなかつた。それは又皆直接間接に政府の力を仮つたものゝみだ。独り大阪紡績会社は民間最有力者を株主とし資本金二十五万円、錘数一万〇五百の大規模で営業も技術も優位を占め、而して最良の成績を挙げた最初の株式会社なのであつた。全く此時代に於ける注目の焦点であつた。本邦紡績が明治二十年前後から本格的に企業計画を試みられたのも、実は大阪紡績が手
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本を示して安心を与へたからだ。称して真正の模範紡績工場ともいうべきか、称して紡績中興の祖ともいふべきか、大紡あるが故に、政府の奨励時代をして後世に意義あらしめたのである。」(絹川太一編「本邦綿糸紡績史」第二巻第三六九頁)


柿沼谷雄翁 第一九八―二〇〇頁 〔大正一一年一〇月〕(DK100001k-0005)
第10巻 p.13 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

岡村勝正氏談話(DK100001k-0006)
第10巻 p.13-14 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕藤田翁言行録 第四七―四九頁 〔大正二年三月〕(DK100001k-0007)
第10巻 p.14-15 ページ画像

藤田翁言行録 第四七―四九頁 〔大正二年三月〕
    其四 大阪紡績会社の発起創立
明治十二三年の交に於る我邦綿糸の輸入は、非常の額に達し、輸入品総額に対し、十分の六、五を占め、而して綿糸は殆ど其半ばに居れり、左れば政府は紡績業振興の必要を感じ、洋式紡績の器械を購入し、全国数個所の棉花産地に、官設又は其保護に係る紡績所を置きたりと雖其規模狭小にして、発達思はしからざりき、然るに本邦に於る斯業の前途は、独り此等綿糸及綿布の輸入を防遏するに止まらず、顧客として清韓両国を控え、東洋に大発展を試むべき運命を有し、我工業界に最も適当なる事業なるを看破したる翁は、明治十二年中に渋沢栄一・
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松本重太郎其他二三氏と共に、完全なる一大紡績工場を起すべきを発起し、当時英国滞在中なりし山辺丈夫氏をして、彼地紡績事業の実況を研究せしめ、同十三年十月に至り、諸般の準備略成りたるを以て、資本金二十五万円の会社を組織するに決し、翌十四年十月発起人会を開き、水利に依らずして火力を用ゐることゝし、其工場地を大阪と定め、十五年四月に至り、其筋へ会社設立の出願をなし、翌五月認可を得て、此に其創立を見るに至れり、是れ本邦に於る紡績会社設立の嚆矢なり、斯くて翁は同会社創立以来、引続き頭取役に当選し其間幾たびか工場の拡張並に増資を決行し、而して事業の成績極めて良好にして、以て後進の会社に好箇の模範を示し、翁当初の目的之にて達せられたるを以て、二十二年一月頭取役《(二十)》を辞し、後進の進路を開きたり。


〔参考〕双軒松本重太郎翁伝(松本翁銅像建設会編) 第三八―四〇頁 〔大正一一年一二月〕(DK100001k-0008)
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〔参考〕実業之世界 第八巻・第一号 〔明治四四年一月〕 明治の産業界政治界に遺せる品川弥二郎氏の猪突邁進の足跡(男爵渋沢栄一)(DK100001k-0009)
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実業之世界 第八巻・第一号 〔明治四四年一月〕
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  明治の産業界政治界に遺せる
    品川弥二郎氏の猪突邁進の足跡 (男爵 渋沢栄一)
○上略
△大胆なる紡績業奨励 第一は、子が我邦の紡績事業に対して採られた猪突的行動である。丁度十年戦役の後の事である。世間一般通貨が多くなつたものだから、従つて物価が騰貴して、景気がよくなつた結果、輸入が非常に多くなつた。是れは何時でもさうであるが、好景気に連れて輸入が多くなる場合には、先づ贅沢品、化粧品、雑貨類が第一番にはいつて来る。これのみならば、一向憂ふるに足らぬが、日用品が盛に輸入される事になるとこれは大なる問題である。処が当時は一般綿物が盛に輸入された。当時品川子は、内務省に居られたが、早くも此事に着目された。我邦は由来、綿布を常用として居る、然るに今外国の綿物が輸入されて、内地の農民が織るものよりは安いとなると、国家経済上の大問題である。輸入防止には、内地で外国物と同じ綿類を作るの外はない。と云ふ意見で紡績会社の設立を奨励された。当時は予も品川子の意見に賛成したが、其手段に対しては、賛成するわけには行かなかつた。つまり品川子と予とは精神に於て一致したが方法を異にしたのである。然し品川子は方法の穏当不穏当、適切不適切を問はない、兎も角も或る手段に依つて奨励しやうと思ひ立つて決して初一念を翻さない。非常な熱心を以てドシドシ決行して行つた。
△猪突主義に由れる大成功 品川子の採つた方法は、農商務省が外国から紡績機械を買ひ入れて、地方の機業家の安全と認められる向に二千錘宛を貸与すると云ふのであつた。そして農商務省の元工場即ち模範工場を、三河の土平《(大)》に作つた。然し当時の実際は、第一紡績機械工場としては、二千錘ばかりの小規模のもので立ち行く筈が無い。その上機械を貸した機業家を監督指導する技師連は、其道の事に暗く、到底斯業を完全に発達させて行く任に堪えなかつた。外国の工場の視察書物の調査位で紡績の事がわかるものでない。縦令、外国の方法が一通りわかつたとした処が、日本では日本に適応した物を作らなければならぬ。外国の物を其まゝ当てはめやうとしても、迚もうまく行くものでない。細太の差違もあり、価格の相違もあり、その折合のつく筈が無いのだ。
で、予も政府の機械で起業して見ないかと幾度も相談を受けたが、竟にお断りをして了つた。そして十五年に大阪紡績会社を起して、当時倫敦に居た山辺武雄君《(山辺丈夫)》に、直接マンチエスターの工場にはいつて専心数月間研究して貰ひ、此人の監督の下に業務を開始した。予は最初から機械を用ひるならば、少なくとも一万五千錘位はと云ふ考であつたので、品川子とは別様の方針をとつたのだ。幸にして民間の事業としては、予の大阪紡績が先づ第一に好成績を挙げた。大阪紡績が現に十二万錘を有して好成績を挙げて居るのは、既に人の知る所だ。それは兎に角、当時予の見解からすれば、少し無謀な計画であつたが品川子は非常な熱心を以て奨励されたので、斯界に浅からぬ功績を残して居る。今日二十万錘を有して居る三重紡績などは、当時政府の貸与機械に依つて、伊藤伝七君が始業したのが基をなして居る。今日尾勢の間
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に斯業の隆盛を見るのは、当年品川子の猪突的奨励の賜である。独り尾勢の間のみならず、子が全国に斯業の普及を計られた熱心は、常人の真似の出来ない処だ。方法は当を得なかつたにしても、今日になつて見れば子の偉大なる猪突邁進の功は歴然として見る事が出来る。
○下略