デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
1款 大阪紡績株式会社
■綱文

第10巻 p.17-30(DK100002k) ページ画像

明治13年10月(1880年)

是ヨリ先、栄一津田束ノ紹介ニ依リ、当時英国滞留中ノ山辺丈夫ヲシテ紡績業ヲ研究セシム。是年七月山辺丈夫帰朝スルニ及ビ、是月資本金二十五万円ヲ以テ大阪紡績会社ノ創立ヲ決定シ、自ラ創立世話掛トナル。


■資料

大阪紡績会社第一回半季考課状 自創業 至明治一六年一二月(DK100002k-0001)
第10巻 p.17 ページ画像

大阪紡績会社第一回半季考課状 自創業 至明治一六年一二月
    創業由来之事
一、本社ハ明治十二年渋沢栄一氏外数名、我邦ニ一大紡績工場ヲ設置スヘキ方案ヲ発スルヲ以テ濫觴トナス、爾後数々相会同シテ其方法順序ヲ討議シ、遂ニ貸費生ヲ設ケ之ヲシテ英国ノ紡績工場ニ脩学セシメ、其外数名ノ生徒ヲ設ケ之ヲシテ内国諸方紡績所ノ工業ヲ巡習セシメ、準備稍々成ルニ至リ十三年十月資本ノ金額ヲ決定シ、会社ノ性格ヲ確定シ、水利ニ藉ツテ紡績工場ヲ設立センコトヲ謀リ、乃三州矢矧川ニ、紀州紀ノ川ニ、城州宇治川ニ水量ヲ実測セリ、然レドモ皆不利ニシテ他ニ求ムベキ水ナク、遂ニ水工ノ望ヲ絶チ、十四年十月更ニ株主ノ会議ヲ以テ水工ヲ止メテ滊工トナシ、且工場ノ地ヲ大阪ト定メ、後其地ヲ三軒屋村ニ卜定シ、十五年ノ夏ヨリ建築ヲ起シ十六年七月落成シ尋テ試業ニ従事セリ
  ○下略


(大阪紡績株式会社)創業二十五年沿革略史 〔明治四一年一〇月〕(DK100002k-0002)
第10巻 p.17 ページ画像

(大阪紡績株式会社)創業二十五年沿革略史 〔明治四一年一〇月〕
○明治十三年十月資本金額弐拾五万円ヲ以テ本会社ヲ組織スルニ決シ最初水利ニ藉ルベキ計画ヲ樹テ、各地ニ就キ水源ヲ求メシモ、水力運輸両ナガラ便利ノ地ニ乏シク、遂ニ水工ノ望ヲ絶チテ滊工ノ方針ヲ採リタリ


大阪紡績会杜第一回半季考課状 自創業 至明治一六年一二月(DK100002k-0003)
第10巻 p.17-18 ページ画像

大阪紡績会社第一回半季考課状 自創業 至明治一六年一二月
    株主集会議決之事
一、明治十三年十月ヨリ十六年三月十二日ニ至ルマデ、東京大阪ニ於テ株主ノ総会ヲ開キ、議決シタル事目ハ左ノ如シ
  渋沢栄一・蜂須賀茂韶・矢島作郎ヲ創立世話掛リトナス
  派出員給料其外要費ヲ支出スルガ為メニ、総株主ヲシテ世話掛ノ通知ニ随ヒ、株高百分ノ五ヲ支出セシム
  山辺丈夫ヲ採用シテ其月給ヲ支付シ、及世話掛ニ於テ会計員一名雇使スベキコトヲ世話掛ニ委任ス
 - 第10巻 p.18 -ページ画像 
  器械買入ノ為メ円銀ヲ以テ払込ムベキ価格ノ準度ヲ定ム、再ビ藤田伝三郎・松本重太郎ヲ世話掛トナス
  工事ヲ滊工ニ決シ、地ヲ大阪ニ定メ、其便宜ノ地ヲ卜スルコトヲ世話掛ニ委任ス
  器械ヲ外国ヘ注文スルニ当リ、銀貨ノ高低ヲ斟配《(酌)》シテ為替送リ金ヲ処理スルヲ渋沢栄一ニ委任シ、世話掛ノ協議ニ付セシム
  本社定款ヲ議定ス
  ○下略


(芝崎確次郎)日記 明治一四年(DK100002k-0004)
第10巻 p.18 ページ画像

(芝崎確次郎)日記 明治一四年 (芝崎猪根吉氏所蔵)
    第二月七日
本日午後一時より銀行楼上ニおゐて紡績所之件ニ付集会有之、主君○栄一ハ夜ニ入第八時御帰館被遊候事
  ○当時創立事務所ハ第一国立銀行内ニアリシモノヽ如ク、大川英太郎略譜ニヨレバ「明治十四年大阪紡績会社ノ新設セラレントスルヤ二月社員トシテ入社、其ノ創立ニ参与シ先ヅ東京国立第一銀行内ニ於テ紡績事務ノ実習ヲ為ス」(「故大川社長追悼録」)トアリ。


山辺丈夫君小伝 (宇野米吉編) 附録・第五―六頁 〔大正七年九月〕 【山辺君と紡績創業時代 (男爵 渋沢栄一 氏談)】(DK100002k-0005)
第10巻 p.18-19 ページ画像

山辺丈夫君小伝 (宇野米吉編) 附録・第五―六頁 〔大正七年九月〕
    山辺君と紡績創業時代 (男爵 渋沢栄一 氏談)
○上略
 そこで会社は出来たが、偖而事業を育成して行くものがない、西洋人の技術家を傭はうと思つたけれども、他の工場で何も知らぬ西洋人を使つて、随分滑稽なこともあつたので、今度は是非日本人をと云ふことになつて探して見たけれども、当時その技術家はありさうになく、止むなく斯業希望の人を得やうと力めたのであつたが、そこに端なくも山辺君を見出す動機が出来たのであつた。
 それといふのは私の銀行で津田と云ふ男がゐて、何かの機会に紡績技師が入ることを話してゐたのを聞いたと見えて、津田が云ふには、自分の友人で曾て沼津の西周先生の塾にゐたとき一緒に勉強した男で山辺丈夫と云ふものがをつた。思想堅実而も英語鍛練者で、石洲津和野の藩士であるが、今は藩主のお附で英国に行つてゐる、此男ならば紡績に志すべき性質を持つてゐるかも知れぬと云ふので、それでは其の人に頼んで見やうと、丁度私の極く知合の男で三井物産倫敦支店にゐた笹瀬元明君に手紙を遣つて、山辺君に当つて貰つた。処が二ケ月程して山辺君からの手紙があつた。それが私と山辺君とを連結した第一の連鎖であつたのである。
 手紙の要領は覚えてゐないけれども、承諾してくれたは勿論で、而も其後直に紡績機械の実際の操縦を見習ひたい、就ては工場に這入るのに金千五百円ほど入るからと云ふことであるから、直に送金して何分其道を励んで貰ひたいことを嘱して置いた。
 それで先づ責任者を見出すことは出来たけれども、一人だけでは到底完全なる事業は出来まいと思はれたので、私の計らいで四人の人々を各紡績工場に見習に派遣した。それは佐々木豊吉・門多顕敏《(門田顕敏)》・大川英太郎・岡村勝正等の諸君で、専ら紡績技術を習得せられたのであつ
 - 第10巻 p.19 -ページ画像 
た。
○下略
  ○佐々木豊吉以下四人ヲ技術員トシテ、大阪紡績会社ニ採用シタルハ十四年五月ニシテ、山辺丈夫帰朝後ナリ。山辺丈夫帰朝ハ十三年七月ニシテ、翌十四年七月山辺ガ引率シテコノ四人ヲ各紡績工場ニ派遣セルモノナリ。コノコトニ関シテハ明治十四年五月ノ項ヲ参照。


孤山の片影 (石川安次郎著) 第一二一―一三二頁 〔大正一二年四月〕(DK100002k-0006)
第10巻 p.19-21 ページ画像

孤山の片影 (石川安次郎著) 第一二一―一三二頁 〔大正一二年四月〕
 ○第十五 紡績業の研究
    津田束氏の紹介
 凡そ何の事業でも金と人とが、其の成立の要素で有る、金ばかり出来ても、人物が無くては事業は成立しない、渋沢子爵が紡績業を起す企画に於ても資金は準備されたが、之を何人に委托する乎と云ふ問題が起つた、西洋人の技師を雇ふのは、必ずしも困難でないが、他の工場に於て、西洋人を聘して、種々の滑稽を演じ、遂に失敗を取つた例も有る、どうしても其の中堅となるべき人物は、日本人でなくてはならぬ、そこで渋沢子爵は頻りに其の人を求めて居られた、其の当時第一銀行に、津田束氏が務めて居た、而して渋沢子に向て、丈夫氏を推薦したので有る、渋沢子の談に曰く
 『其の時、津田が私に向て、自分の友人に山辺丈夫と申す者が御座います、現に亀井家の家令をして居る清水格亮氏と申す人の次男で御座います、自分は西周先生の家塾に於て、親しく交はりましたが思想の至て堅実なる人物で、英語も善く出来ます、今は藩主亀井公の若殿のお附きで、英国に参つて居りますが、此の男なら、紡績に志すべき性質を持つて居りますと申したので、それでは其の人に頼んで見ようと思ひ、丁度其の頃、三井物産会社の倫敦支店に、私の知つて居る笹瀬元明と云ふ人が居りましたので、笹瀬君に手紙を遣つて、交渉して貰らいました』
 津田束氏は西塾に於て、丈夫氏と親く交はり、其の定子夫人との婚儀の時にも、彼の祝文を寄せられたる程の仲で有つたが、遂に渋沢子爵と丈夫氏との連結者となつて、日本の紡績史に其の名を留むるに至つた
    マンチヱスター市に赴く
 渋沢子爵が笹瀬元明氏を以て、丈夫氏に交渉したのは、明治十二年の春の事で有つた渋沢子は笹瀬氏へ手紙を出して、丈夫氏へ交渉する前に、先づ父君の清水格亮氏と会見して、詳かに紡績事業を起すの計画を語られ、丈夫氏が其の中堅の人物となり得べきや否やを相談せられた所が、格亮氏も大に之を賛成せられ、其の次第を丈夫氏へ報道せられた、丈夫氏の明治十二年の日記を見ると、格亮氏が三月廿五日附を以て、此の渋沢子からの交渉に付て報告されたる書面は、四月二十九日に、丈夫氏の手に入つて居る、同じ時に津田氏からも此の事に付て手紙が往つた、そこで丈夫氏は笹瀬氏とも会見して、巨細の事情を聞き、更に熟考したる後、五月五日を以て、父君と津田氏へ承諾の返事を出された、而して渋沢子から初めて、懇切なる手紙か、丈夫氏の所へ着いたのは、六月十九日で有つた、それから丈夫氏はキング
 - 第10巻 p.20 -ページ画像 
ス、コレーヂに転じて、機械工学の研究を始められた、然かし紡績業の研究は、単に理論ばかりでは役に立たない、実際工場に入て、其の製造の実地に就て、研究しなくては分らないので、丈夫氏は倫敦を去て、紡績工業の本場たるマンチエスター市へ入り込んだ
○中略
丈夫氏が初めて、此の都市に入つたのは、明治十二年八月二日で有る、朝の十時に倫敦を出発し、晩の六時にマンチエスターに到着した、先づ宿所をクリフオード街十八番に定めて、倫敦の友人から紹介を得て居た、人々を訪問し、其の工場に入るの便宜を求められた、然かし何れも要領を得なかつたので、八月六日には、市役所に往て、市長グランデー氏を訪問し、其の希望を述べて、何れかの工場へ紹介せんことを依頼したが、其の時代の日本は、今日の日本とは違ひ、未だ能く英国人に知られて居らないので、市長は日本人に敬意を払はず、極めて冷淡に之を待遇し、一言の下に之を拒否した、そこで丈夫氏は止むを得ず、新聞紙に広告を出して、之を求めた、『プライメーヂ附きで、紡績工場へ入りたいが、之を入れて呉れる、所はないか』と云ふ広告を出したので有る、此の広告に対して、数通の書面が来たので、丈夫氏は其の中から選択して、数人に会し、其の工場をも訪問して見た、然かし相談が纏まらなかつた、八月二日にマンチエスター市へ入てから、凡そ三週間は、其の入るべき工場を求めて、奮闘を続けられたが、之を得ることが出来なかつた、エツギン、ボツトム氏と云ふ人の製造所では、一年百磅で相談が出来かけたが、八月九日の会見では、殆んど成立した様であつたのに、十二日に会見すると、出来なかつた、日記には『エツギン、ボツトムを訪ふ、大失望』とあり、十五日にはマクナル氏を訪問し、是れも『失望』と日記に書いて有る、此の時に、ブラツクバーン市のブリツグス氏と云ふ人が有つた、彼は紡績工場主で有るのみならず、英国の衆議院議員で、立派な紳士で有つた、日記に依ると、八月五日に初めて此紳士を訪問して居られる、それから八日には、ブラツクバーン市に往て、彼れの工場を一覧し、午餐を共にし、馬車にて諸処を見物せられた、ブリツグス氏が最初から、丈夫氏に厚意を有して居たことは、此の記事で分かるが、然かし此の時は、丈夫氏の心は、寧ろボツトム氏の方に傾いて居たので有る然るにボツトム氏もマクナル氏も、相談が纏まらなくなつたので、八月十五日にブリツグス氏へ書面を発せられた、之れには必ず熱心なる要求が書いて有つたに違いない、それに対する返事が二十二日に来た而して二十五日にブラツクバーン市に往て、ブリツグス氏に面会すると、快よく之を諾した、其の時のブリツグス氏の言葉が、日記に書いて有る
 He says "I have received another recommendation from my friend. The money is not matter of question. You can come to my mill from any time you like"
 彼れは曰く、『余は余の友人からも、別の紹介状を受取つた、金銭は問題ではない、君は君が望む通り、何時からでも、余の工場へ来たまへ』
 - 第10巻 p.21 -ページ画像 
 此の言葉には、如何にも英国紳士の面目が現はれて居る『金銭は問題ではない』と云ふ一語が、如何にも日本の武士の意気に合致して居る、プライメージはどうでも良い、君を引受けてやるから、何時でも君の都合の良い時に来たまへと云ふのは、如何にも立派な言で有る、丈夫氏はブラツクバーン市へ到着して、停車場でブリツグス氏に逢ふと、此の言を聞いたと、日記に書いて有る、彼れが丈夫氏を停車場に迎へて、之を告げた者で有らう、丈夫氏の日記には『大成功』と書いて有る、かゝる立派な人格の人の工場へ入り得たのは、如何にも大成功に違ひない、而して二十八日にはブラツクバーン市へ往き、ローズヒル工場に赴き、ブリツグス氏から工場の人々へ紹介された、三十日にはマンチエスター市を引払ひ、ブラツクバーン市の人となり、シモンス街五番を宿所と定め、九月一日からは、熱心に工場へ通ふた、時間は午前八時半に工場へ出で、午後十二時半迄勤務し、それから宿所へ帰て食事をなし、午後一時半に再び工場へ出で、午後五時半迄務めるのだ、正さに八時間の労働で有つた、金銭は固より問題でなかつたが、然かし工場の見習金として、ブリツグス氏へ、千五百円を払ふことに協定し、それは渋沢子爵が紡績会社創立費の中から支出され、十月十三日には其の半金七百五十円をブリツグス氏へ渡された
○中略
丈夫氏が、ブリツグス氏の工場へ入つたのは明治十二年九月一日からで、それから十三年五月には帰朝の途に上つたので有るから、丈夫氏の英国に於ける、紡績研究は一年に足らぬ歳月で有るが、熱心と云ふ者は、恐ろしい者で、此の短日月の間に、紡績事業を創設するに要する、大体の知織を得られた、其の活動の盛なることは、ブラツクバーン市ばかりでなく、ブラツト会社を初め諸処の工場を訪問して熱心に研究されたことは其の日記の簡単なる記事の間に能く現はれてゐる


(山辺丈夫) 日記 ○一八七九年(明治一二年)(DK100002k-0007)
第10巻 p.21-24 ページ画像

(山辺丈夫) 日記 (山辺清亮氏所蔵)
 ○一八七九年(明治一二年)
四月二十九日
 All at home
  to take lesson
  to go Okoshi and Mimami evening
  to receive home letter date
       25th March 79.
 此便ニ渋沢ヨリ之談伴《(判)》アリタリ
  ○英文大意「終日在宅、勉学、夕大越ト南ヲ訪フ、国元ヨリノ三月二十五日附手紙ヲ受取ル」
  ○日記余白覚書中ニ「十二年五月渋沢ヨリノ信書落手」トアリ。
五月五日
 All at home
  Send out letter adressed to
   Tuda Esq. in Japan
    and also to father
 - 第10巻 p.22 -ページ画像 
  ○右英文大意「終日在宅、日本津田氏及ビ父宛ノ手紙ヲ出ス」
六月四日
 津田○束ヘノ状ヲ出ス
七月十九日
 日本渋沢より特書ヲ落手
七月七日
 渋沢へ書状認メ送出ス
八月二日
 朝十時出立(アールスコルトより)夕方六時マンチエストル着
 Clifford st' 18 ニ下宿ス
八月五日
 午前Great Portland のシオン氏ヲ訪ヒ、午後Pall Mall 30 のブリツグス並ニPiccadilly 57のエバンス氏ヲ訪フ
八月六日
 午前十時市役所ニテ府知㕝Grundy君ヲ訪ヒ、午後Haworthの会社へ行キ午後四時半帰宅
八月七日
 午前ビクトリヤ停車場へ行遅シMoslyのleppoc《(Leppoc)》氏Peter Sqr.のウイントルボツトム氏ヲ訪ヒ、午後再度ボツトム氏ヲ訪ヒ同氏ノ友人三四のウエーヤハウスヲ訪フ
 〃○此日シユオン氏ヘ書状送ス
八月八日
 ビクトリヤ停車場より朝九時廿分
 午前出車Blarkburn《(c)》ノBriggsヲ訪ヒ工場一見の後、午飯ヲ御馳走ニナリ馬車ニテ諸処ヲ見巡リタル後夕刻帰宿
八月九日
 朝シユオン ハアーウオルスヲ訪ヒスシユトンノエツギンボツトム氏の製造所ヲ訪フ、殆ント相談ヲ付ク彼ノ要スル礼銀年々百磅
八月十一日
 午前シユオン氏ヘツギンボツトム《(エ)》新聞局ヲ訪ヒ帰ル
 此亀井杉浦《(日脱カ)》シユオンの手紙ヲ受取ル
八月十二日
 午前シユオン氏ヲ訪ヒ次キニエツギンボツトムヲ訪フ、大失望、午後ウインターボツトム氏ヲ訪フ
八月十三日
 午前ハム氏より書状亀井氏ヨリ新聞ヲ受取、十一時ニレポオツク氏の役所ヲ訪ヒ散歩帰宅
 此日リバアープールのハウスへ書状
  ○十四日ト前後ス。
八月十四日
 午前マンチユストル知事ヲ訪フ、被断、次キニウイントルボツトム氏ヲ訪フ次キマクナル氏ヲ訪フ
  ○十三日ト前後ス。
八月十五日
 - 第10巻 p.23 -ページ画像 
 マクナル氏ヲ訪フ失望、此日ブリツク《(ブリツグス)》君ヘ書状ヲ書ク
八月十八日
 ウインターボツトム氏並ニマセエー氏ヲ訪フ
  マセエー氏次キノサタデーニ会スルヲ約ス
八月二十日
 終日在宅
 レポツク氏より手紙ヲ受取ル
  同氏事今よりホルトナイト竜動○ロンドンニ止マル旨ヲ報ス
八月二十二日
 朝散歩
 此日フラツバルン《(ブラツクバルン)》 ブリツク《(ブリツグス)》氏より手状受取ル
八月二十三日
 朝マーセー氏ヲ訪、散歩
八月二十五日
 此《(日脱カ)》ブラツクバルンヘ行キ停車場ニテブリツグスニ逢フ、大成功
 He says "I have received another recommendation from my friend. The money is not matter of question. You can come to my mill from any time you like".
  ○右英文大意ハ石川安次郎著「孤山の片影」中ニアリ。(前出)
八月二十六日
 此日亀井君並国元よりの書状ヲ受取ル、七月十五日出ナリ、此日シユオン氏ヲ問フ
八月二十七日
 マアセー氏ヲ訪、留守
八月二十八日
 ブラツクバル《(ン脱)》ヘ行キブリツグスヲ訪ヒ、工人ヘ紹介ヲエ、後新宿所No.5 Simmons st. ヘ行キ相談ヲ極ム
 此日マーセー氏ヲ訪ヒ成功ヲ告ケ条約書ノ必要ナラサルヤヲ問ヒシニ、勿論夫レニ不及後日ブリツクスヲ見タトキハプレミアムノ高ヲ咄ス可シト云ヘリ
  此日ハム並ブリツクスより手状受取
八月三十日
 此日朝十一時廿五分マンチエストル出車、午後十二時半過ブラツクバルン着
  No.5 Simmons st. Blackburn
九月一日
 朝八字半工場出席午後十二時半食事ニ帰宅、午後壱時三十分再ヒ出席五時半帰宅
  以後日々同事ナルヲ以テ工場出席トノミ記ス
九月十七日
 工場行
 百六十五磅の為換落手
十月十三日
 此日紡績所役所ニテブリツグス氏へ百五拾磅の礼銀の内七拾五磅ヲ
 - 第10巻 p.24 -ページ画像 
払ヒ受取書ヲ受取リタリ
十月二十日
 工場行
  此日より紡糸室ニ入ル
十月三十日
 工場行
 此日怪我ニテ面手《(両カ)》ヲ傷ス
 病院ヘ行ク
十月三十一日
 工場ヘ行ク能ハス下宿ニテ保養ス
十一月一日
 在宿ニテ保養ス
十一月十一日
 此日十月十一月分ノ費金廿八磅ヲ笹瀬氏○三井物産倫敦支店笹瀬元明ヨリ受取
  ○日記附録金銭出納欄中ニ次ノ記事アリ
   「以上ニテ亀井君よりの御支給止ム
  十月一日
   本月本日より拝借金ニテ弁スル事トナレリ」
十一月二十一日
 工場行
  朝の間 Acclington Haward & Bullough Iron workヘ行キ器械の積書ヲ頼ミタリ
十二月三十一日
 工場行
 此日バーロームヨリ算用状来ル
  ○山辺丈夫日記、一八七九・一八八〇両年ノ分ハ英文日記ニテ、日附ハスベテ英文ナレドモ便宜日本文ニ改ム。内容ハ一八七九年五月十六日マデ英文、以後ハスベテ日本文ナリ。

(山辺丈夫) 日記 ○一八八〇年(明治一三年)(DK100002k-0008)
第10巻 p.24-26 ページ画像

 ○一八八〇年(明治一三年)
一月一日
 工場休業 渋沢 バウス ハム 亀井 笹瀬ヨリ手紙ヲ受取ル
一月十二日
 午前笹瀬君ト竜動○ロンドン勇須頓○ユーストンヲ発シ、午後四時満智徳○マンチエスターニ達シ女王ホテルニ宿ス
一月十三日
 午前笹瀬君トヘセリントンノ製糸機製造所ニ至リ、午後ヂユーハルストヲ訪ヒ、夕石松氏高松氏ヲ訪フ、シヨオン氏ヲ訪フ
一月十四日
 午前笹瀬君ジユーハルストトゴルトンノ紡糸場ヲ訪フ
一月十五日
 午前 ストツクボルトの紡糸社ヲ訪、午後 ボルトンのバルロウヲ訪フ
  バウスより書状来ル
一月十六日
 - 第10巻 p.25 -ページ画像 
 午前 オルハムノプラツト社ヲ訪ヒ、午後 アージクリフトの染布場ニ至ル
  シヨオン氏ヲ訪フ
一月十七日
 午前 満智徳ヲ発シ利発波留○リバプールニ至リ諸所ヲ見巡リ、夕 バウス氏の宅ニ至ル
一月二十七日
 朝工場行、ロルドトグードフヘルロウの製造所ヘ行キ夫より支配人ト三ケ所ノミルヘ至ル
 午後工場行
  笹瀬氏より手紙来ル
一月二十九日
 午前 グリン並ニフヒシユ氏の水車ミルヘ行キ、午後クリグロウのガルネツト氏水車工場ヘ行ク
二月十二日
 工場行、訳書《甲印》、報告《戌印》(水力)差出ス
二月十三日
 工場行
 笹瀬ヨリ綿糸見本来ル
二月十七日
 工場行
 笹瀬ヘ状並乙丙之訳草積書ヲ送ル
三月十日
 工場行
 笹瀬より渋沢の状来ル
三月十一日
 工場ヘ朝行キアルモンドト蒸機製造所(エーツ社)ヘ行キ午後書用
  此日プラツトより積書来ル
三月十二日
 朝 工場ヘ行キ又エツツ《(エーツ)》ヘ行ク、午後ブリツグスヘ器械之相談ヲナシ帰リ書用
三月十五日
 朝工場エーツヘ行キ帰リ書用
  此日エーツより二積書受取ル
三月三十一日
 此日三月分費用受取
 此日百五十磅ヲ笹瀬より借ル
四月五日
 工場行
 此日ブリツグス氏ヘ残高七十五磅ヲ渡シ皆払込之受書ヲウ
四月七日
 工場行
 此日アメリカメエルニテ清水ヘ渋沢ヘ遣シタル状ノ写シヲ送ル、並ニ道中期日表ヲ送ル
 - 第10巻 p.26 -ページ画像 
四月十六日
 朝工場行
 午後 タイトラート共ニプレストンヘ機場見物ニ行ク
五月八日
 朝工場行
 ブリツグスはじめ工夫工婦へ別ヲ告ケ金ヲ与ヘ、午後アストニート共ニブラクプールヘ行ク
五月十日
 朝 ブラツクバルンヲ去リ竜動五時五十分ニ着ス
 伊賀ヲ訪フ No.32 Gloucester st. Gloucester gate Regent Park
五月十五日
 朝イカ《(伊賀)》氏ヲ訪ヒ諸用事ヲ終リ笹瀬ト相談帰朝ニ決ス
五月二十七日
 朝諸用事済シ
 夕九時二十五分竜動出立
 日本ヘ電報出ス
五月二十八日
 朝六時半ハリス○パリ着八時卅分同所出立ス
五月二十九日
 朝六時半マルセエイル港ヘ着、グランドホテルノアダイルヘ宿ス
五月三十日
 朝九時郵船ニ搭ス
  ○右日記ハ以下明治十四年十月ノ条ニ続ク。
  ○明治十三年日記ハ石川安次郎著「孤山の片形」遺稿第三九頁以下ニ収録。


山辺定子氏談話(DK100002k-0009)
第10巻 p.26-30 ページ画像

山辺定子氏談話
                    昭和十四年三月五日
                    須磨同氏邸 石川正義筆記
 明治十年の春でしたか、私が山辺に嫁いで来て翌年の春でした。向島の小梅村と云ふところに家内総出で梅見に行きましたが、その途に田舎の百姓家の庭で婆さんが手廻車で糸繰をやつてゐるのをみて、山辺が日本がいつまでもこんなことをして糸を紡いでゐたのでは、国が亡びてしまふ。一日も早く何とかしなければならぬ、と申したのを聞きました。その頃から紡績と云ふことには関心をもつたものと思はれます。
 山辺は幼い時より官途で出世するのを嫌つて、御維新となつてからは独立して身を立てるこそ、男子の本懐だと云ふ様なことを考へておりました様で、こんな気持は御維新の時の渋沢老公の御気持とも近いものではないかと考へます。
 そのことに就きましては次の様な話があります。明治元年に、十八歳の時でしたか、山辺が石州津和野の藩から、亀井公の藩命で、当時京都を守護しておられた有栖川宮の御親兵として出仕しました。門衛頭とでも言ふのですか、藩でも若い時より仲々優れた男として、殿様よりも目を附けられておりましたので抜擢されたものゝやうです。
 こゝで、二年程も御つとめしておりまして、そのまゝ行けば官途に
 - 第10巻 p.27 -ページ画像 
ついて出世も出来たやうでしたが、独立した仕事をしたいと言ふ希望で、有栖川宮のおつとめを辞めたいと申出た様です。
 それで、廿歳の時、有栖川宮の仕官を辞して、更に藩命で撰ばれた六七名の青年と共に、洋学の勉強に東京に出ました。明治三年の三月です。
 当時東京には福沢先生その他の塾がありまして、暫くそんな処に通つてゐた様です。ところが御存知でせうが西周と申すのが、これは私の義理の伯父に当りますが、丁度沼津の兵学校が閉校になつて、そこの校長をしておりましたのが、大村益次郎さんの御すゝめで上京しました。
 西も津和野の藩士ですが、医者もしておりましたので、私の父の相沢湛庵と申しますのも松平公の家臣で医者でありました関係から、とりわけて大層親しくしておりました。
 この西周が、沼津兵学校で教へておりましたが、明治三年になつて兵学校が廃止になります時、大村益次郎さんが、今度兵制が新しくなつて東京に新しく兵学校をつくるから、お前に是非そちらをやつてもらひたいと申して上京されました。
 それで西は廃藩置県と共に東京に移りまして、漢洋の学塾を設けました。神田の西小川町でしたか、そこに旧諸大名の息子さん達が塾生となつて多勢住みこんでおられた様です。
 西がこうして、東京に塾を開きましたので山辺も同藩の関係より早速この塾に通ふことになりまして、西の教を受ける様になりました。
 その頃一緒に通つておりました塾生に、佐々木勇之助さんの兄さんの慎思郎さんや、津田束《つかね》さんがおられたのです。津田さんは越前の人でしたが、山辺はこの方と大変親しくなりまして、私が嫁いで参りましてからも三日に一度は訪ねて参りました。
 渋沢老公と西ですか。この御二人は、大変早くより御知合であつた様です。それと申しますのも、御二人とも明治の初め暫く新政府に仕へてゐましたし、又渋沢さんは論語に深く、丁度西が論語の学者でありました関係より、御維新来早くよりどうした機会からか御二人はよく御一緒に論語について御話になつたこと等あつて、親しくなつておられた御様子でした。
 私は明治七年十五歳の正月、父に伴はれて上京し、先に御話しました西小川町の西周の屋敷に参りました。それ以来其処でずつと西の許で勉強することになりました。こんな訳で西の門下でありました山辺と知り、西の御世話で山辺に嫁ぐことになつたのです。
 九年の秋結婚しまして、十年の八月、山辺は旧藩主の亀井玆明公に随つて英国に参りました。
 山辺の洋行中、東京で渋沢さんが、紡績会社を計画されましたが、それを任せる人がゐなくて困つておられた様です。先程御話しました様に、西と渋沢老公とは古くよりの御知合でしたので、西の門下で渋沢老公の御世話で就職するものも多かつた様ですが、先の津田束さんも又渋沢さんの御世話で東京の保険会社に入られました。それで渋沢さんが何かの機会でございませう、津田に誰か紡績をまかせる人を知
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らないか、大事な仕事だ、本当に信頼の出来る人がほしいと言はれました。
 津田さんは山辺の親友で、山辺は渋沢さんに一度も御面識はありませんでしたが、津田は私の友達に山辺と言ふのがゐる、同じ西先生の門下で、非常によく出来る物事に緻密な、真面目な男で、丁度今英国に行つてゐるから此の者にやらせてはどうかと老公に極力すゝめた様で御座います。
 それに就きましては、かねて山辺が津田さんに日本の紡績業と云ふものが、もつと振はなければ駄目だ、今までの様な古いやり方ではどうにもならないと兼々申しておつた事を思ひ出してすゝめられたものと思ひます。
 山辺が英国に参りまして、勉強しておりましたのは保険の方とか申しておりますが、これは津田さんが保険会社に入つておられましたので、山辺に英国に行つたら保険を勉強して、帰朝したらそちらを専門にやつてくれと言ふ様なことを申した結果ではないかと考へます。こうした訳で、山辺も津田さんとは色々なことで、深い関係があつたと考へられます。
 渋沢さんは此の津田束さんの話を聞いて、大体大丈夫だと云ふことを信ぜられましたが、これを大阪に来られて、松本重太郎さんや藤田伝三郎さんに相談されました。渋沢さんが信ぜられるのですから大体間違ひはなからうと云ふことで、早速山辺に紡績の研究をたのむと云ふことにきまりこの事を津田さんを通して先づ英国の山辺に御話下さいました。
 又三井物産の方でロンドンにおられる笹瀬さんと云ふ方からも山辺に御話がありましたそうで、これも渋沢さんの方よりの御指図と思ひます。
 山辺は前申しました様に、将来は何か独立して仕事をしたいと考へておりましたし、渋沢さんの御名は以前より存じておりましたことですから、それに又、紡績業には全く無関心ではありませんでしたから早速承諾して、話はとんとん運びました。
 当時山辺は英国で余り学資が豊かでありませんでした。亀井公に御つきして参つたのですが、たとへ主家とは云へ、昔と違つて御借りした金は返さねばならぬと云ひ、もし今亀井公より金銭上で御世話になると、将来自分が一かどの者になつた時、困ると言つて余計な金は一文も御借りしませんでした。
 それで、当時リヴアプールの日本名誉領事で日本の陶器を研究しておられた方がありましたが、この人が日本人の助手を使つて陶器の研究書を出版すると云ふので、山辺もロンドン領事館の方で南さんとか三井物産の笹瀬さんとか数人の方と御一緒で助手となりました。
 この助手の仕事に思ひかけない程多額の報酬をもらひまして、これで紡績研究のためのマンチエスター行の旅費にしたと申します。
 勿論渋沢さんよりも御送金はあつたのでせうが、これは亦別に使ふつもりであつたのかもしれません。こうしてマンチエスターに参りまして、仲々日本人を入れて呉れませんのを、無理に頼んでやつと一工
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場に入れてもらひましたが、そこで思ひ切つて一職工に身を落して勉強しました。
 渋沢さんがこのことを聞かれて、それまでにしなくてもと仰言つたそうですが、山辺は職工になつてやらねば本当の研究は出来ぬと申して働いたそうです。
 十二年の冬でしたかカードで手の甲をそいでひどく怪我をしたことがありました。
 その時山辺より手紙が参りまして、大したことはないが、少し治療費にかゝるからお前の手でいくらでもよいから金をつくつて送つてくれと言つて来ました。但し亀井公や渋沢さんの方に頼むやうなことはしないでくれと言ふことでした。
 それで私はまだ年も若く家には貯へもありませず本当にどうしやうかと思ひましたが、遂に金をつくりました。それはこんな次第です。私が子供の時父の藩主三州西尾の松平公の御息女の御対手として、御国の御殿に奉公したことが御座います。それが廃藩置県となりまして御屋敷引払ひとなりましたので私も引下ることになりました。その時おつとめの報酬として、少いがと云はれて、慶長小判や二分金・三分金など合せて幾干の御金を頂戴しました。ところが父は、これはお前が働いて御屋数より頂戴したものだからどんなことがあつても私等が使へるものではない。何時迄もお前が大切にしてもつてゐてくれ、そしてもし一大事のある時にお前のために使ふがよいと申されました。
 そして山辺に嫁ぐ時も、父はそれをもつて行け減多なことに使つてはならぬと諭されました。
 この御金のことを思ひ出しまして、今こそ山辺のために使ふ時だと考へ、母と相談しまして、山辺の御懇意にしておりました三井銀行の手島さんと云ふ方にそのことを話して御願ひすることにしました。
 今でもおぼえておりますが、それはたしか十二年の冬でひどく寒い晩でしたが、母と二人で向島より手島さんの御宅まで歩いて参りました。ところが手島さんが不在で長いこと御待ちしておりましたが母は寒い寒いと申して本当に困りました。近処の御そば屋に母を案内して入口で番をし乍ら母にそばを喰べてもらつたりしました。然しやつと夜おそくにお会ひ出来まして用向を話しましたところ、それは殊勝なことだと早速御承諾下さいまして、三井からでもいくらでも用立てられるが、奥さんの御志としてそれをお金にして山辺さんにお送りしませうと申して、私のもつて参りました慶長小判やその他の古いお金をみな御受取り下さいました。そうこうして山辺も一心に紡績を勉強し十三年の七月に帰朝し、十一月に紡績組合員となりました。

  ○右談話ハ以下明治十四年十月ノ項ニ続ク。
  ○山辺丈夫ハ嘉永四年十二月八日ヲ以テ石州津和野ニ生ル。同藩士清水格亮ノ次男ニシテ、幼名ハ虎槌ト称シ、後丈夫ト改ム。安政元年同藩士山辺善蔵ノ養子トナル。慶応二年養父ノ後ヲ襲ヒ、同年七月軍法操練第一番隊騎士ヲ命ゼラレ、尋デ先鋒隊嚮導ヲ命ゼラル。明治戊辰ニ際シ徴兵トシテ上洛シ、二年帰休ヲ命ゼラレテ帰郷ス。三年藩ノ命ニ依り文学修学ノ目的ヲ以テ東京ニ遊学シ、福羽美静ノ国文学塾ニ入リシモ、後西周ノ塾ニ遊ビテ洋学ヲ修ム。廃藩ト共ニ公費修学ノ停止ニ遭ヒ、五年一旦帰郷シタルモ、
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幾干モナク上京シ、更ニ横浜・大阪ニ於テ洋学ヲ修ム。七年家禄奉還ニヨル金禄公債ノ下賜アリタルニヨリ、再ビ居ヲ東京ニ転ジ、西周ノ家塾ニ入ル。傍ラ同人社ニ於テ英学ヲ教授シ、又旧藩主ノ養嗣子亀井玆明ニ英語ヲ指南ス。九年十月定子ヲ娶ル。十年八月玆明渡英ノ途ニ上ラントスルニ際シ、選バレテ随行シ、十一月倫敦ニ到着ス。当初ヨリ保険事業ノ研究ニ志シ、渡英後モ倫敦大学ニ入ルヤ経済学ヲ専攻シタリシガ、十二年栄一ノ請ヲ入レ、従来ノ方針ヲ一転シテ、紡績業研究ニ従事スルニ至ル。
                     (「山辺丈夫君小伝」「孤山の片影」ニ拠ル)