デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2023.3.3

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
1款 大阪紡績株式会社
■綱文

第10巻 p.34-52(DK100004k) ページ画像

明治14年10月(1881年)

是ヨリ先、山辺丈夫英国ヨリ帰朝スルニ及ビ、工場設立ノタメ先ヅソノ原動力ヲ水力ニ求メントシ、栄一等モ共二其ノ適当ナル水源地ヲ探討シタルモ得ズ。因リテ是月更ニ株主ノ会議ヲ経テ水工ヲ止メテ汽工トナシ、工場ノ地ヲ大阪二定ム。後大阪側重役松本重太郎等ノ斡旋ニヨリ其ノ地ヲ大阪府西成郡三軒家村ニ決定ス。


■資料

大阪紡績会社第一回半季考課状 自創業 至明治一六年一二月(DK100004k-0001)
第10巻 p.34 ページ画像

大阪紡績会社第一回半季考課状 自創業 至明治一六年一二月
○上略 十三年○明治十月資本ノ金額を決定シ会社ノ性格ヲ確定シ、水利ニ藉ツテ紡績工場ヲ設立センコトヲ謀リ、乃三州矢矧川ニ、紀州紀ノ川ニ、城州宇治川ニ水量ヲ実測セリ、然レドモ皆不利ニシテ他ニ求ムヘキ水ナク、遂ニ水工ノ望ヲ絶チ十四年十月更ニ株主ノ会議ヲ以テ水工ヲ止メテ滊工トナシ、且工場ノ地ヲ大阪ト定メ後其地ヲ三軒家村ニ卜定シ、十五年ノ夏ヨリ建築ヲ起シ十六年七月落成シ尋テ試業ニ従事セリ ○下略


(芝崎確次郎) 日記 明治一四年(DK100004k-0002)
第10巻 p.34 ページ画像

(芝崎確次郎) 日記 明治一四年 (芝崎猪根吉氏所蔵)
    第十月一日
午後一時ヨリ紡績会舎之集会有之三時退散《(社)》
   ○右ハ大阪紡績会社ノ株主会議ト思ハル。是日動力ニ関スル決定アリシモノナランカ。


孤山の片影 (石川安次郎著) 第一五一―一六三頁 〔大正一二年四月〕(DK100004k-0003)
第10巻 p.34-36 ページ画像

孤山の片影 (石川安次郎著) 第一五一―一六三頁 〔大正一二年四月〕
    第十七 紡績会社設立の準備
 丈夫氏が帰朝して、渋沢氏と面会され、いよいよ紡績会社を設立することになつたが、渋沢氏は丈夫氏を中心に立て、それに四人の人物
 - 第10巻 p.35 -ページ画像 
を協力せしむる為めに、各紡績工場へ見習に派遣された、それは佐々木豊吉・門多顕敏・大川英太郎・岡村勝正の四氏で、何れも各地の紡績所へ入て技術を習得せられた
    原動力の問題
 紡績工場を建つるに付て、第一に原動力を、何に求める乎と云ふ問題が起つた、それには水力に依る方が宜しからうと云ふことになつて、内務省の調査を基本として、各河川の情態を視察することになつた、丈夫氏の日記を見ると、帰京後直ちに活動を開始された者で有る、七月十三日に東京へ帰着されると、翌十四日は渋沢氏を訪問せられ、十九日には柳橋亀清楼で饗応を受け、二十日には渋沢氏と共に、諸製造所を巡覧して深夜王子より帰宅、八月二日には工部省を訪問し、同七日、同二十日、同二十五日にも、渋沢氏に面会されて居る、其の間には、益田孝氏や大倉喜八郎氏にも面会されて居る、何れ事業上の相談に違ひない、而して九月六日には、午前四時に東京を出発して、午後五時島村に着して、田島氏の邸に一泊し、七日に島村を発して、新町紡績所に至り、植木氏に面話、それより富岡町に赴き、午後六時に着し木村屋に一宿し、八日朝富岡工場を一覧し、並塚直次郎氏に面話、午前十一時、同所出発、同四時半前橋着、藤の屋に一泊、九日には三十九銀行にて須藤氏に面会、製糸会社に至り、午前十一時頃、同所出発午後五時半桐生に着し、金木屋に一泊、十日は四十銀行にて、笠原・荻野諸氏に会し、諸織物工場を巡覧し午後同所出発、足利に至り、諸織物工場を巡視して、同所に一宿し、十一日午前八時足利町発、川俣より川蒸汽にて、利根川を下り午後十一時に帰宅された、之れから又度々渋沢氏と会見あり、工部省や内務省へも出頭して、十二月七日には、いよいよ水源地探索の旅行に上られた
○中略
 此の明治十三年の日記帳は、英国にて求められ、一月一日より十二月三十一日迄、記して有るが、此の年は参河国岡崎町の桔梗屋にて暮れ、明治十四年からは日記が無いので、時日が分らないが、愛知・三重の両県間にて、矢矧川・紀の川等を探討せられた、此の時の旅行は、随分辛苦で有つた、三年間文明国に於て、便利なる都会の間に生活した人が汽車の無い東海道の村落を巡廻したのだから頗る苦しく感ぜられたが、維新前後、兵営生活で鍛錬して居られたので、能く其の艱難を突破せられた、其の頃東海道の交通機関は、駕籠と人力車で有つたが寒気が強いので、通行が少く、漸く人力車夫を発見しても『寒いから金銭はいくら呉れても働けぬ』とて動かず、雨や雪の中を歩行するのは、随分辛苦で有つたさうだ
    渋沢子の探討
 此の水源地の探討は、丈夫氏ばかりではなかつた、内務省の技師デレーケー氏○オランダ人土木技師に依頼して、三河の矢矧川の上流から、紀州の紀の川の上流をも探討したことも有り渋沢子爵も亦或る時、森氏と云ふ技師を連れて、尾州犬山に往かれた、此の地は動力は採れるが、水害が一年に一度は有ると云ふので、採用されず、宇治平へ往かれて、数日滞在して調査されたが、何れから動力を得るにしても、三万や五万
 - 第10巻 p.36 -ページ画像 
の金では到底満足な結果を得られないことが明かになつたので、終に蒸気を以て動力を得ることに決定し、それから工場地に付ても、種々の意見も有りしが、大阪の資本家、藤田氏・松本氏の斡旋で、三軒家に決定した


(山辺丈夫) 日記 一八八〇年(明治一三年)(DK100004k-0004)
第10巻 p.36-38 ページ画像

(山辺丈夫) 日記 一八八〇年(明治一三年) (山辺清亮氏所蔵)
七月十二日
 朝四時横浜港着七時ニ上陸ス
  西村屋ヘ行キ後富貴楼ニ至ル、同所ニ一宿
七月十三日
 東京着
七月十四日
 夕 渋沢並ニ津田ヲ訪フ
七月十九日
 銀行ヘ行キ渋沢君ト亀清ニ到リ、石河君ニ面謁シ、後福羽ニ至ル
七月二十日
 渋沢君ト諸製造所ヲ巡リ、深夜王子より帰ル
  此日大倉ニ逢フ
八月二日
 五位君○亀井玆明 ト工部省ヘ行キ後、物産社三菱ヘ行キ、後又従三位君○亀井玆監ヲ訪ヒ夜ニ入リ帰ル
八月七日
 朝渋沢氏ヲ訪ヒ、帰路益田ヲ訪フ
八月二十日
 朝渋沢ヲ銀行ヲ《(ニ)》訪ヒ ○下略
八月二十五日
 津田渋沢行
九月六日
 東京出発(午前四時)午後第五時嶋村着、田島氏之邸ニ一宿ス
九月七日
 午前第九時嶋村出発新町紡績所ニ至リ、植木氏ニ面話、夫より富岡町ニ午後六時着木村屋ニ一宿ス
九月八日
 富岡工場ヲ一覧シ、並塚直次郎ニ面話シ、夫より午前十一時同所出発、同四時半前橋着藤の屋ニ一宿ス
九月九日
 午前十時卅九銀行ニテ須藤君ニ面会シ、精糸会社ニ至リ、午前十一時頃同所出発、午後五時半桐生ニ着、金木屋ニ一宿
九月十日
 四十銀行ニテ笠原荻の君ニ面会シ諸織場ヲ巡覧シ、午後同所出発ニテ足利ニ至リ諸織場ヲ巡見シ、同所ニ一宿ス
九月十一日
 午前第八時足利発、川俣より川蒸汽ニテ利根川ヲ下リ、午後第十一時帰宅
 - 第10巻 p.37 -ページ画像 
九月二十一日
 朝工部省行
九月三十日
 渋沢氏深川之邸ニ行キ、津田ニ立寄ル
十月八日
 銀行集会行《(所脱カ)》
 此日五拾円渋沢より受取ル
十月二十五日
 渋沢・保険社・佐々木・小藤・馬場・橋元岩手銀行・津田行、夜第二時帰宅
十一月十五日
 銀行・渋沢・津田・保生ヘ行ク
十一月十九日
 渋沢ヲ銀行ニ訪フ
十二月六日
 銀行・渋沢行
十二月七日
 午前十時新橋発車、午後八時大磯宿着
十二月八日
 午前四時大磯発 午後五時原宿着
十二月九日
 午前五時原宿発 午後六時金谷宿ニ着
十二月十日
 午前五時金谷発 午後五時新関着
十二月十一日
 午前五時新関発 午後一時岡崎着、大平工場石河並ニ平埜ヲ問フ
  ○「山辺氏の最初に目懸けた水利は三州矢矧川であつたらしい。故に先づ大平紡績に岡田令髙・石河正竜諸氏を訪問して居るのは、水利の相談でありしが如く思はれる。」(絹川太一編「本邦綿糸紡績史」第二巻第三八〇頁)
十二月十二日
 大平工場行、宿状並渋沢ヘ報告状
十二月十三日
 午前九時岡崎発、挙母ニテ郡長ニ会シ、午後四時平井村ニ至リ築山源一郎氏宅ニ止宿、同行ハ佐野・桑原両子ナリ
十二月十四日
 午前九時 矢作川、右側岸の巡見ニ出テ、午後三時半帰宿、渋沢・宿元ヘ状出ス
十二月十五日
 佐埜・桑原両君ト地所探討ニ終日従事ス
十二月十六日
 桑原君ト各線ノ距離ヲ量ル、午後田中郡長・篠田君様子ヲ見ニ来ル、田中君ハ明日より名古屋ニ行キ、四五日滞在ノ旨咄ス、県令帰県
十二月十七日
 - 第10巻 p.38 -ページ画像 
 終日在宿午後篠田氏場所ヲ巡見シ、夫より村ノ戸長ヲ訪フ、桑原氏帰ル
十二月十八日
 終日在宿、図面ヲ写ス、十七日と十八日之両日ハ、佐埜君場所測量ニ従事ス
十二月十九日
 終日在宿、曳図ニ従㕝ス、夕戸長躬善三郎子来ル
十二月二十日
 朝九時平井村出立、帰路挙母郡庁ニ立ヨリ、郡長代ニ面会ス、午後二時岡崎着、桔梗屋ニ宿ス、昼飯共
十二月二十一日
 朝 大平行 午後三時帰宿、外ニテ昼飯此日宿元ヘ状出ス
十二月二十二日
 終日在宿 渋沢氏ヘ状出ス
十二月二十三日
 大平行 沫雪行 渋沢よりの状来ル
十二月二十六日
 在宅 石河より状来ル、七日めの宿払ヲナス
十二月二十七日
 石河氏ヲ訪
十二月二十九日
 大平村行 歩行
十二月三十一日
 大平行


(山辺丈夫) 手帖 明治一四年(DK100004k-0005)
第10巻 p.38-39 ページ画像

(山辺丈夫) 手帖 明治一四年 (山辺清亮氏所蔵)
十四年 三月十六日
午前八時ナラバラ《(奈良原)》・南・伊藤勝三氏ト共ニ新橋ヲ発シ金川より馬車ニテ
午後八時湯本ニ着一泊ス
 此日ノ会計総テ伊藤ニ托ス
〃○三月   十七日
午前六時湯本発午後二時沼津元問屋ニ一泊、松方内務卿ニ面会
〃      十八日
午前五時沼津出立、午後六時嶋田宿ヘ着
〃      十九日
午前五時しまた駅出立、午後六時白須賀着
 浜松より挙母行、電信出ス
〃      廿日
午前六時白須賀出立、午前十二時大平工場並石河氏ヲ訪ヒ午後三時挙母叶乃沢屋着
〃      廿一日
午前九時実地巡回、午後三時帰宿
 水路線ヲ定ム
〃      廿二日
 - 第10巻 p.39 -ページ画像 
午前十時奈良原君一行出立
 渋沢より平のへの書状、佐の君ニ托ス
 樫原ヘ状出ス
〃      廿三日
午前九時挙母出発、午後一時岡崎着
 此夕平埜氏ヲ訪フ
〃      廿四日
午時奈良原一行岡崎着、夫より大平行石河平の出、佐のヲ訪フ
〃      廿五日
午前五時岡崎出立十時名古屋着、黒川治愿県令ニ拝謁
 夜書状認メ
〃      廿六日
午前渋沢へ郵便出し、午前六時名古屋出立、午後四時半とよはし着
〃      廿七日
午前五時とよはし出立、午後六時日坂着
〃      廿八日
午前五時日坂出立、午後六時原宿着


(石河正竜) 日記 明治一二―一四年(DK100004k-0006)
第10巻 p.39-40 ページ画像

(石河正竜) 日記 明治一二―一四年 (谷沢一氏所蔵)
明治十二年
五月五日
 工作分局ニ和田氏ニ面シ、第一国立銀行ニ渋沢栄一ニ見ユ、共ニ請ハルヽナリ、橋本氏ニ之ク不在
四月十日
 渋沢栄一ニ之ク、㕝議罷テ酒飯ヲ設ケラル
明治十三年
四月三十日
 暮前渋沢栄一来ル、栄一線駝一万本ノ紡機ヲ建立スルノ構意アリ、因テ来リ水ト地トヲ撿視スルナリ、官ヨリ命アリ、渋沢ノ為メニ地ト水トヲ撿査セシム、明日共ニ行カムコトヲ約ス
五月一日
 朝渋沢来ル、余電信官ニ請テ平野氏○誠一郎モ共ニ行ク、出デヽ矢作川ヲ沂リ挙母ニ午食シ、越戸平井ノ両村ニ水ト地トヲ検視シ挙母ニ帰リ宿ス、是日是地ノ郡長田中正幅共ニ行ク
  二日
 愛知ニ至リ旅舎ニ投ズ、渡辺平四郎ニ之ク
  三日
 早発稲置ニ至リ午食シ、船木曾川ヲ下リツヽ各処ニ水ト地トヲ撿シ笠松ニ至リ船ヲ下ル、渋沢コレヨリ大阪ニ行キ余等ハ乃愛知ニ帰ル夜十字
六月十四日
 渋沢氏ニ第一国立銀行ニ面ス、紡機建設ノコトヲ議スルナリ
  廿二日
 横浜ヨリ帰ル、渋沢栄一ノ請ニ応ズ
 - 第10巻 p.40 -ページ画像 
七日二日
 橋本氏ト共ニ渋沢栄一ノ王子ノ宅ニ請ハルヽニ応ズ、抄紙場製糸場ヲ観ル、紡機ノコトヲ相議シ酒飯畢リテ家ニ帰ル時夜十一字
十二月十二日
 渋沢栄一・山辺丈夫ヲ遣ハシテ紡機建設ノコトヲ議セシム
   廿七日
 渋沢栄一ノ代トシテ山辺子来リ紡事ヲ議ス
   三十一日
 百四十馬力「トルビン」ニ須ツ所ノ水量ヲ算シテ山辺子ニ伝ス
明治十四年
一月四日
 平野誠来ル、明日平井村等ニ巡廻セムコトヲ約ス、渋沢栄一ノ線駝一万本ノ紡機建立ノ為メナリ
  五日
 朝八時家ヲ発シ平野・山辺ノ両氏ニ岡崎ニ会シ、挙母ニ午食シ平井村ノ旅舎ニ投シ茶一喫、直チニ出デテ紡機建設ニ適セル地三処ヲ撿視シ了リ、旅舎ニ帰リ宿ス
  六日
 朝船ヲ賃シ挙母ニ至リ船ヲ下リ午食ス、コレヨリ平野・山辺ニ別カレ平針村ニ紡機ニ所用ノ磨砂ヲ点検シ名古屋ニ宿ス、岡谷惣助ヲ召ス偶不在家
  廿三日
 線駝一万本紡機据付入費大凡積書ヲ山辺丈夫ニ付シテ渋沢栄一ニ与フ
  三月廿一日
 是日渋沢栄一紡機ノ為メニ山辺丈夫ヲ遣ハセリ
  ○石河確太郎正竜ハ文政八年十二月十九日大和畝傍町字石川村ニ生ル。弘化三年江戸ニ出デ杉田成卿ノ門ニ就キ漢学ヲ修メ、更ニ長崎ニ遊ビ蘭学ヲ修ム。安政三年薩摩藩ニ召抱ラレ、鹿児島紡績所・堺紡績所ノ建設ニ尽力ス。明治五年、政府ニ於テ堺紡績所ヲ買上グルニ際シ大蔵省勧農寮八等出仕ヲ申付ラレ、租税寮雇・勧業寮雇・勧農局雇ヲ経テ同十四年工務局雇トナル。ソノ間堺県製糸場器械方、富岡製糸場在勤、或ハ模範紡績工場用紡機ノ注文ヲ命ゼラレ、更ニ官立愛知紡績所・広嶋紡績所ノ敷地選定工場設計ニ従事ス。又政府ノ奨励方針ニ従ヒ、下村紡績・大阪紡績、三重紡績ヲ始メ全国紡績ヨリノ請求ニ応ジ、各地ニ出張、工場ノ設計建立ニ奔走ス。明治二十年退職後モ有力紡績工場中、正竜ノ助力ニ俟ツモノ数者ニ及ベリ。(絹川太一編「本邦綿糸紡績史」第一巻ニヨル)


山辺定子氏談話(DK100004k-0007)
第10巻 p.40-41 ページ画像

山辺定子氏談話
                    昭和十四年三月五日
                    須磨同氏邸 石川正義筆記
○上略
 東京に帰りましてからも、私の処には一晩位ゆつくりしました位ひ、亀井家にもゆつくりした御挨拶にも参らず、殆ど毎日渋沢さんと御会ひになつて会社の設立について御相談しておりました。
 一番先に大切な問題は、工場を建てる場所と機械を動かす動力であ
 - 第10巻 p.41 -ページ画像 
りました。
 それで、十三年の冬より山辺はあちこちと水利の便を探しに参つた様です。
 然し間もなく水力では到底駄目だとなつて、帰朝して一年も立つか立たないうちに、汽力でやると話がきまつたらしく、三軒家に工場を建てると云ふことも一年立たぬうちにきまつた様におぼえてゐます。そうして私共は十五年の七月に東京向島より大阪三軒家に移つて参りました。
 移つて間もなく、岡村さんとか佐々木さんとか云ふ山辺の輩下になつて働いておられた方々が、近所の紡績所に色々研究に参られて、三軒家に帰られる毎に、私の許に参りまして、奥さん散々苦労したのですから御馳走して下さいと言つてどやどやとやつて来られました。
 こう云ふ方々に御馳走する丈でも大変でした。これは十六年一年間位続いたと思ひます。
 その間が一番騒々しい時で又一番張りもあつた時代です。
 山辺が大変新しがりやで、まあ進取の気象に富んでゐたとでも申しますか、そうした気風でありましたことは、明治七・八年に北梅道開拓吏の試験をうけて北海道に行つて働くとか申しておつたことや、又二度目の洋行から帰りました時は、メリヤスの機械を英国より三千円程出して買つて参りまして、これを使つて仕事をしろと私に申したこと等にもあらはれておる様に思ひます。
 骨董趣味など全くなく、死ぬ迄、精一杯働きたいと常々申しておりました。
 まあ御維新当時では新しい事をいつも考へてゐた一人だつたと思はれます。


山辺丈夫君小伝 (宇野米吉編) 附録・第六―九頁 〔大正七年九月〕 【山辺君と紡績創業時代 (男爵 渋沢栄一氏談)】(DK100004k-0008)
第10巻 p.41-42 ページ画像

山辺丈夫君小伝 (宇野米吉編) 附録・第六―九頁 〔大正七年九月〕
    山辺君と紡績創業時代 (男爵 渋沢栄一氏談)
○上略 其内○明治十三年山辺君も帰朝したが、工場は何処に建てたらよいかと云ふことになつて、水力を利用するとして山辺君に奔走して貰ひ、私も森と云ふ技師と二人で、尾州犬山に行つて見たが、動力は採れても水害が一年に一度はあると云ふので、宇治平に行き、二人で二三日止まつて調査したけれども、動力を得べく三万五万の金では到底満足に出来ないので、最後に蒸気を以て動力を得ると云ふことに決定したのであつた。それで工場地に関しては大阪方の重役たる松本氏・藤田男の斡旋で、大阪三軒家と云ふことになつて、工場の建築に掛つたのであつた。
 当時の建築と云つても貧弱な智識しかないことであるから、随分苦心もし、又機械据付とても同じこと、その苦情《(労)》の程は蓋し今人の想像も及ばない処であつたらう。然し夫等は他に語る人もあらうから差控へて置かう。
 兎に角山辺君は当今稀に見る純朴な紳士で思つたことを率直に行ふと云ふ点は優れた力を持つた人で、曾て斯う云ふことがあつた。それは松島の工場の織布を陸軍省に納入させてゐたが、糊の具合がわるい
 - 第10巻 p.42 -ページ画像 
と見えて、ロールが利かず艶が出ない。陸軍省から苦情が出る度煩憫《(悶)》してゐたが、遂に断然意を決し糊の研究のみに人を英国に派してこの研究を完成し、故障なき製品を上げるに至つた如き、飽く迄も其の真相を徹底せしめやうと云ふ意気のあつたことを推賞せねばならぬ。
 然し社運が旺盛であれば弱率《(卒)》も能く支へ得るけれども、事業の上に困難のみ加はるの時は何んな偉人も悩みなきを保し難い。何時頃であつたかよく覚えてはゐないが紡績業が非運に陥つて、大阪紡績会社も其例に洩れず悲観の極に達したことがあつた。為に山辺君も堪へ難くなつたものか、或る日東京に尋ねて来て、飛鳥山の屋敷で逢つて見ると、堅忍不抜の君から意外にも紡績を止めて退きたいと云ふて来たので、私は内心、当時の経済事情から紡績事業の悲況を察せぬでもなかつたが、そんな事では折角今日迄の努力を水泡に帰するも同然であるから、詰として其の非を説き、飽迄激励の言葉を残し与へた。当日私は商業会議所に会議があつて、定刻に出席する為め馬車を駆つて丸の内に行く途中、君と共に同乗して益々其志を翻すべく説いて、会議所に着くと同時に、山辺君を残して階上会議室に行つたが、出て来て見ると、最早君の姿を見出さぬので、上京すれば飛鳥山に泊るか、事務所に行くか、銀行の方を訪ねるかする例になつてゐるので、それぞれ電話を掛けさしたが、宅からは帰つて来ないと云ふし、銀行及事務所からはまだ見えないと云ふので、心配せぬでもなかつたが、感奮した君は直に帰阪せられて、翻然更新の勇気を奮つて事業に就いたと云ふことで、蔭ながら君の成功を祈つてゐたが幾干もなく棉業の勃興、斯業の隆昌期は来り、同社の成績も、随而好況となつて来たのであつた。が若し其時止めたならば、今日尚未成品として君の生涯は恐らく無意義なものとなつたであらう。
 而も三重紡績が創業の際は私も多少関係して、大阪方の重役から叱られたこともあつたが、其の何れも私の最初に関係した同業会社が大合同を行つて、日本随一の大会社となり、而も其の第一次の首脳者に撰まれたことは、氏の過去の閲歴及努力に対して至当のことであつたばかりでなく、私一個人にとつても思出深く、極めて順調な幸福な生活であつたと思惟するのである。今や職を退いて老後の余生を、風光明媚な地に養つてゐるが、兎に角清廉、潔白、且つ純朴、質実、稀に見る人で、朝廷に於ても其功を認められ、今日実業家の到底企及すべからざる表彰、位階、令旨等を賜はつたことは、亦君の効績を語るものであらう。


(芝崎確次郎) 日記 明治一三年(DK100004k-0009)
第10巻 p.42 ページ画像

(芝崎確次郎) 日記 明治一三年 (芝崎猪根吉氏所蔵)
    第十二月六日
主君○栄一より用件被命候左ニ
○中略
    金弐百円     山辺丈夫殿へ相渡候三州行旅費之分
   〆右之三口 明日出頭之上受渡方被命候事


岡村勝正氏談話(DK100004k-0010)
第10巻 p.42-52 ページ画像

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