デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
3款 鐘淵紡績株式会社
■綱文

第10巻 p.181-194(DK100025k) ページ画像

明治20年9月17日(1887年)

明治十九年十一月、東京繰綿問屋組合中ノ所謂改革派ニヨリ、棉花ノ売買及其改良ヲ目的トシテ、資本金十万円ヲ以テ組織サレタル東京綿商社ハ其後紡績所ノ設立ヲ計画シ、是年四月十日資本金ヲ百万円ニ増加シタルガ、更ニ是日株主総会ニ於テ栄一ニ顧問役ヲ依嘱セントノ議起ル。後同社ハ棉花ノ売買ヲ廃シ、専ラ紡績業ヲ経営スルコトトシ、明治二十一年八月鐘淵紡績会社ト改称ス。


■資料

本邦綿糸紡績史 (絹川太一編) 第四巻・第四四〇―四四一頁 〔昭和一四年二月〕(DK100025k-0001)
第10巻 p.181 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

中外物価新報 第一六三九号 〔明治二〇年九月一六日〕 ○東京綿商社株主総会(DK100025k-0002)
第10巻 p.181-182 ページ画像

中外物価新報 第一六三九号 〔明治二〇年九月一六日〕
○東京綿商社株主総会
 - 第10巻 p.182 -ページ画像 
同会社にては定款第五十七条に拠り去る七月中株主定式総会を開くべき筈の処、目下鐘ケ淵紡績所設立に関する要務を帯ひて欧行中なる社員の許より、機械買入約定の始末及工場建築図面等の到達するを俟ち其事柄をも併て各株主へ報告せば、彼是好都合なるべしとの考より空しく今日迄定式会を延引せしも、未だ欧州より報道のあるべき日限も予定し難きに付、此上尚総会の延引に渉るときは各株主中或は不安心に思はるゝ方々もなきにあらざるべしと云ふ役員方の推察にて、先つ本年上半季間に於る会計上の決算及増株に対する払込金の処弁方を報告する為め、来十七日午後一時より東京商工会の会場を借受て株主定式総会を開き、引続き臨時会を開きて定款改正案に就て討議する筈なりと云ふ


中外物価新報 第一六四二号 〔明治二〇年九月二〇日〕 ○東京綿商社総会の決議(DK100025k-0003)
第10巻 p.182 ページ画像

中外物価新報 第一六四二号 〔明治二〇年九月二〇日〕
○東京綿商社総会の決議
前号の紙上に記載したる通り、去る十七日東京商工会場於て開きたる東京綿商社株主総会の模様を聞くに、同社頭取三越得右衛門氏後見人山岡正次氏は議長に、副頭取大村和吉郎氏は副議長に、取締役一同説明員に、幹事石井祐二郎氏は書記に各着席し、午後二時五十分より開議、先づ議長は書記をして本年上半季間に於る損益の決算書を朗読せしめたり、其要領は総収入金の内諸雑費及幹事書記以下の給料(正副社長取締役は無給無賞与金)等を引去り、残金三千三百五十余円即ち資本金十万円に対し年六分七厘の株主配当を為すべき処、何様創業以来日尚浅く利益金の甚だ僅少なるを以て株主配当を減じて六分五厘と為すの説に同意者多くして遂に此議に決した、夫より三十株以上の株主中より委員五名を選挙して一切の事務を監督せしめ、又時としては事務を補助せしむる事となり、株主一同より投票を以て選挙したる処、浅野彦兵衛・斎藤弁之助・野本伝七・藤波竜名・竹村謹吾の五氏が当選各承諾したり、然るに代とも云ふべき資格者の者なれば、其権限上の事に付多少議論ありたれど元来現行の定款は最初創立の際、繰綿の売買及其改良を為すを目的として編制したるに、其後前の資本金に十倍する増株を募りて鐘ケ淵紡績所を設立する事となりし故、到底現行の定款は今日に於て不適当なるに付更に適当の定款を編纂する為め取締役荒尾亀次郎、幹事石井祐二郎の両氏を該起草委員に選定し、不日草案の脱稿を俟ち更に株主総会の決議を経て其筋の認可を願出る都合となりたる由、又繰綿改良の主意と云ふは尾三州等の製産地へ社員を出張せしめ、製造者を勧告して実綿の摘取より繰上方法及荷造等に改良を加へしむる筈にて、現に今日同商人中にて売買を為し居る藁莚巻の繰綿は、運搬の際往々脱出する憂ありて目方の如きも一定せざれば、今度は必らず麻布製の嚢結とし目方は壱本を正味十二貫目入に取極めしむる見込なりと聞く


中外物価新報 第一六四六号 〔明治二〇年九月二五日〕 ○東京綿商社顧問役を依嘱せんとす(DK100025k-0004)
第10巻 p.182-183 ページ画像

中外物価新報 第一六四六号 〔明治二〇年九月二五日〕
○東京綿商社顧問役を依嘱せんとす
東京綿商社にては去る十七日の株主総会に於て、定員の役員外に卅株
 - 第10巻 p.183 -ページ画像 
以上の株主中より五名の委員を選挙して商社全体の事務を監督せしめ又時としては社務を補助せしむることに定りたれど、何様同商社は最初の目的たる本業即ち繰綿の売買及其改良を謀るの外、更に進で紡績事業を開く事となりしかば現行の定款諸規則等は今度悉く之を改良せざるべからず、然るに現任の役員は是迄重に繰綿の売買に従事したるも紡績の事業には余り経験なきのみならず、一己人の商売上には熟練なるも会社法の事に悉しがらざれば、将来同商社の隆盛を望むには府下にて最も有望ある神商《(マヽ)》を顧問役に依嘱するに如かすとの議論、昨今同商社の株主中に起りたる由にて右顧問役には渋沢栄一氏こそ適当なるへく、同氏は曩に東京楽品会社《(薬)》の顧問役たることを承諾されたれば其例に拠りて依嘱せば多分承諾し呉らるべく、万一差支ありて不承知の時は近く欧洲より帰朝さるゝ益田孝氏に依嘱せん□《(欠字)》抔と目下重立たる株主中に於ては頻に此事に関して協議を為し居る由


中外物価新報 第一六八〇号 〔明治二〇年一一月六日〕 ○東京綿商社株主中の意見(DK100025k-0005)
第10巻 p.183 ページ画像

中外物価新報 第一六八〇号 〔明治二〇年一一月六日〕
○東京綿商社株主中の意見
同会社にては既に役員技師を欧洲に派遣し紡績器械の買入れにも着手せられたるに、何故か此頃に至り株主中別に意見を抱けるものある由にて最早頭取まで申出でたりとの事なり、今其要旨を聞くに今度鐘ケ淵に紡績所を設立せんとするは容易ならざる大事業にして、殊に東京に在ては第一原料の綿は和河泉尾参州地方よりの輸入を仰かさるを得ず、第二石炭の格価は大坂に比らべ一万斤に付金拾円以上高価なり、第三職工の雇賃其他一切の消耗品価格の大坂・三重よりも高き事なれば、設令ひ東京は諸物価共に高けれは其製造したる綿糸も又大坂・三重等に比して高価に売捌くべしと雖ども、是は畢竟するに仕上たる綿糸の運賃のみの相違にて、原料其他一切諸経費の高価なるを相償ふを得ざるやの恐れあり、又一方には伝馬町組の人々が発起にて資本金五拾万円を以て東京紡績所と云ふを設立せんとの計画あれば、勢ひ両所の間に競争を生じ両者の不利を招くの日あるべし、依て他年商工業に最も経験あり最も名望ある渋沢栄一氏を顧問役に依嘱し、従前の諸規則を改正し商社全体の事柄は総て同氏に諮詢して指揮監督を受け、又た相成べくは今日に於て東京紡績会社発起人と示談を遂げ、双方合併して一大紡績会社を設立すべし云々との主意にて、已に株主よりは過般総会に於て選定したる委員浅野彦兵衛氏外四名をして此の事を決行したき旨、現在頭取迄申込たる処何分重大の事件なれば即答は為し難きに付、尚ほ他の役員とも篤と相談の上何分の返答に及ふべき旨を以てしたりと云へば、何れ近日の内に何とか一相談あることならん
  ○右ノ顧問役依嘱ノ結果二就テハ明カナラズ。然シナガラ後、明治二十四・五年ノ整理二際シテ、益田孝ト共ニ顧問役トシテ相談ニ与リタル淵源ハ、コノ当時ニ存シタルモノノ如シ。



〔参考〕本邦綿糸紡績史(絹川太一編)第四巻・第一五―一八頁〔昭和一四年二月〕(DK100025k-0006)
第10巻 p.183-185 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕鐘紡東京本店史 第一―六七頁 〔昭和九年四月タイプ版〕(DK100025k-0007)
第10巻 p.185-194 ページ画像

鐘紡東京本店史 第一―六七頁 〔昭和九年四月タイプ版〕
             (鐘淵紡績株式会社東京工場所蔵)
 ○第壱章 東京綿商社の創立
    一 創立の動機
 明治の初期、企画せられし事業会社は其の数枚挙に遑あらずと雖も遡つて其創立の沿革を考ふるに、概ね官閥と結託せる紳商か、否らざれば投機的の事業家によりて経営せられたるなり、独り我が鐘淵紡績株式会社に至りては則ち然らず、所謂明治の紳商事業家とは其の素質気風を異にし、其の性情にも亦甚しき逕庭ある守旧的番頭連の脳髄より絞り出されたる会社なり、換言すれば三越呉服店の前身、越後屋の店頭の茶話より端なくも算盤珠に弾き出されしものが即ち我社創立の発端なり、今や我国業界の王座に位し、燦として斯界に君臨する我社も嘗つては紅塵深き市井の店隅より描き出されたるものなりとせば真に感慨無量に堪えざるなり、然れども当初必ずしも紡績事業を起すの意ありしにあらず、唯専ら棉花の売買を営まんとしたるなり
 今を去る約五十年前、即ち明治十八年の頃には東京にて綿問屋と称せらるゝもの僅かに九軒に過ぎざりき、而して其の重なるものは今日の三越・白木屋・大丸等の前身なり、当時国内の棉花相場は、是等九軒の問屋によりて壟断せられ、殆んど各地の棉花は此中央相場に左右されたるを以つて、仮令ひ如何程棉花の生産を見るも、是等問屋の手を経ざれば購入するを得ざりしなり、然れども時勢の進運に伴ひ斯る偏習は次第に薄らぎ、加ふるに漸次支那棉を輸入するの傾向を生じ所謂唐糸の如きも非常の勢を以つて国内に流入するに至れり
 此の趨勢に促されたる結果、問屋間に一大破綻を生じ、物論囂々として遂に改革派、保守派の二派を生ぜり、乃ち改革派は内国産棉のみの売買を以つてしては利益次第に減少し時代に即せざる嫌ありとて、支那棉をも輸入し、定期売買を開始せんとするものにして越後屋・白木屋・大丸等五店之に属し、保守派は飽くまで在来の方針を踏襲せんとしたるものにして小津・長谷川・川喜多・西川の四店之に属せり、是等改革派は取りあへず資本金拾万円を以つて東京綿商社を創立し、広く同業者間に株式を募集して、予ての主張通り棉花の定期売買を開始するに決せり、是実に明治十九年十一月の事なり
    二 いよいよ開業
 斯くて創立準備も順調に進み、翌二十年一月十一日日本橋区長経由東京府庁に対し、これが創立認可を申請したるに、十四日附許可ありたる以つて、二月十三日日本橋区本町四丁目十六番地に於て、愈々株式会社東京綿商社の開業式を執行せり、社長には三井得右衛門氏(三
 - 第10巻 p.186 -ページ画像 
越呉服店主)副社長には大村和吉氏(白木屋主)を推し、取締役として山本三四郎・鋤形豊三郎・奥田小三郎・荒尾邦寛の四氏を選出し、石井祐二郎氏を幹事に任ぜり
 斯くて一同力を勠せて業績の発展を期せり、乃ち当時最も世評に上りし棉種改良の為め、先づ取締役鋤形豊三郎・荒尾邦寛の両氏は東組広瀬新平氏を帯同し、東京府庁よりの添翰を携帯して愛知県下へ出張せり、両氏は具さに棉作地を視察し且つ営業人とも隔意なき意見の交換をして帰京し、直ちに愛知県庁に対し調査の結果を報告すると共に速かに県下営業者に棉作並にこれが営業方法につき改善方懇諭せられん事を理由書を附し詳細請願せり、両氏帰京後間もなく会社は三州碧海郡知立駅前に於て三綿社を創立し率先改良に従事したるが、一方尾州に於ても綿成組及一宮綿会社を初めとして数名の棉花仲買人と特約を結び鋭意指導に努めたるを以つて、爾後改良棉頻々として着荷せり其改良の主点を挙ぐれば品等正しく量目確実にして塵芥の混和を見ず荷造に亦一大改良を加へたる為め啻に体裁の美麗なるのみならず、取扱上最も便利にして運賃随つて低減し頗る好結果を得たり
    三 紡績業兼営に決す
 棉花品質の改善漸く其緒につきたりと雖も其需要に至りては極めて微々たるものあり、支那より輸入せられたる棉花の如き到る処堆高く積み置かるゝのみにて更に消化せられざりき、玆に於て種々研究の結果綿糸として販売せば幾分其の需要も広からんとて紡績業をも兼営するに一決せり
 然れども肝心の紡績機械を得る途なく苦慮の日を続けたり、偶々当時下野国籠谷村に野沢某の経営せる紡績工場(後の下野紡績)あり、此工場に据付けられたる機械は、嘗て松方伯が洋行に際し参考品として購入せられ初めて我国へ舶来したるものにして、暫く農商務省に陳列したるを、其後払下げを受けて移設したるものなれば(当時関東には此外東京滝野川に鹿島氏の紡績工場ありたり)機構粗悪にして其製品は恰も毛糸の如き太き糸なりしに拘らず、当時の幼稚なる社会の嗜好に適応し売行極めて良好なりき、玆に於て此機械を買入れて職工の養成場となし、追つては東京に一大工場を設立せんと、鋤形・山本両取締役及石井幹事の三氏は態々下野へ出張する事となれり
 三氏は先方へ赴き種々交渉したるが、売価拾万円との事にて、会社の意図七・八万円を距ること遠く、容易に調談し得ざりし為め一行は一先づ宇都宮へ引返せり、宇都宮に引返してより三氏は更に篤と協議したるが何分当時他に機械を求むる途なかりしを以つて、不本意ながらも先方の申出通り拾万円にて買収する事に決意し、再度籠谷村に引返し要求通りの価格にて譲渡を受けたき旨申込みたる処、意外にも先方にては足許を附け込みたるものか前言を翻し、拾弐万円にあらずんば応ずる能はずとの無法なる返答なり、元来江戸つ子調子の人達とて激怒止まず、遂に断然袂を払つて帰京せり、帰京後一同は如何にもして此の鬱念を霽さんと悲憤の涙に暮れたるが、殊に当時三井得右衛門氏の代理として終始会社の枢機に参劃し居たる三越呉服店の主宰者山岡正次氏は烈火の如く憤激せり
 - 第10巻 p.187 -ページ画像 
    四 事業拡張の為第小次増資
 時恰も曩に分離したる四軒の保守派が他に紡績会社(後の東京紡績)を創立するとの風評あり、負けず嫌ひの気性は愈々彼等をして万難を排して当初の目的を達成せしむるの決意を抱かしめたり、玆に於て勢ひ東京綿商社の拡張を余儀なくせしむるに至れり、即ち明治二十年四月十日臨時株主総会に於て資本金拾万円を壱百万円に増額するの件を可決し増額九拾万円の半額は取締役に於て引受け、半額はこれを東京綿商社の株主に割り当つる事となれり
 当時の我国経済界は、所謂会社熱勃興の時代にして殆んど収支の予算を立つる能はざる事業も、一時の狂熱的社会風潮に駆られ、前途の見込、将来の希望如何は顧みる所にあらず、唯競うて資金を集め株券を募るの情勢にして、徒らに皮ありて肉なく幾多の泡沫的会社は雨後の筍の如く続出せり、是れ実に明治二十三年の恐慌の素因を為せるものなり、而して当時に於ける我国紡績工場は全国に二十二ケ所、七万壱千六百余錘を擁したりしが其の業績亦驚くべき事相にして綿糸の如き当時にありては品質の粗良未だ今日の如くならざるに実に九十五・六円乃至百四・五円の高価を保ち、而も需要日に急にして各社の倉庫には殆んど一梱の貯蔵なき勢なりしを以つて、業者は空前の得色を露はし利益配当の如き二割乃至三割の上に出で、一時弐拾五円の払込株券にして弐百五拾円乃至参百円の高値を呼ぶものありき
 大勢斯の如し、従つて九拾万円の増資も忽ちにして満株に達し中には割当の尠きを訴ふるものさへありたり
    五 工場敷地の選定
 斯くて現在の隅田町鐘ケ淵に敷地を選定し、四月二十九日東京府庁に対し工場の設立を出願したるに、五月六日付認可ありたるを以つて愈々敷地の買収に着手せり、然るに図らずも土地の風評を聞くに工場を建設するは表面の理由に過ぎず、事実は火葬場にするならんとて容易に売却するものなかりしを、役員一同は火葬場を設くるが如き思ひもよらず、事実紡績工場を建設するものなる事を辞を極めて説示したるも、何分智識の程度低く殊に紡績業の如何なるものなりやを解する者なかりし時代なりしを以つて真に必死の諒解運動を試みたる結果、漸くにして工場建設の納得を得たり、然るに間もなく斯かる個所にて無暗に煙を出さるゝは衛生上頗る迷惑なりとの苦情出で、故障百出、到底当局の力を以てしては之を緩和する能はざりしを以て、時の村長小山源右衛門氏其他土地の有力者を煩はし兎に角諒解せしむるを得たり、一時竹槍騒ぎを演じ再三仮事務所を襲はれたる事もありて役員一同はピストルを携帯せりと云へり、斯る情勢下にて安きは坪五拾銭、高きは坪弐円位にて現在の堤外敷地約三万坪を一万八千弐百七拾六円を以つて買収せり
 敷地には「東京綿商社鐘淵紡績所敷地」と記したる大標杭(一尺五寸角、長七・八間余)を建立する事となり、其文字の揮毫も当時の名家に請はんと欲し、遂に巌谷一六氏に嘱することゝせり、乃ち氏を日本橋福井楼に招請し、酒間興に乗じ落墨一揮標木の文字忽ち成る、此標木を中村楼より数十人の人足に舁かしめ、木遣りの声も勇ましく工
 - 第10巻 p.188 -ページ画像 
場敷地に持込みしと云ふ、蓋し新企業の発途を壮ならしめんが為に気勢を揚げて之を世上に誇耀せんとしたるものなるべし、時に明治二十年五月十日、細雨煙りて新緑の露滴るの日、一同は雨降りて地固るとて其前途を祝福せり
    六 谷口博士紡機購入に渡英
 敷地、標杭共に満足に出来したるが出来ざるは肝心の技師なり、素より紡績業の何たるかを知るもの尠かりし当時の事とて、直ちに適当の技術家を得ること能はず、諸処手を廻して探したる結果当時農商務省三等技師兼大学教授たりし工学博士谷口直貞氏を在官の儘嘱托として招聘するに決せり、即ち当時谷口博士は既に二回英国に航し機械工学につきては比類なき権威者なりしを以つて、氏に紡機購入を委任せるなり
 これより先き彼の保守派によりて設立せられたる東京紡績は三井物産の手を経てブラツト、ブラザー社より機械を購入するとの噂あり、又当時既に事業を開始せる大阪三軒家紡績会社(一時は大阪紡績と称したるが後の大日本紡績○東洋紡績ノ誤カ)に於てもブラツト社の機械を使用して居り、且つ増設の計劃にて技師山辺丈夫氏を遠く欧米に派遣し種々調査中なりとの情報あり、会社としても勢ひ対抗上ブラツト社以上の優秀なる機械を設置せざるべからず、況んや頑迷なる保守派には意地づくにても負くる能はずとて、会社も亦遠く人を海外に派し篤と調査したる上、より卓越せる機械の購入を為す事となれり、玆に於て先づ谷口氏を英国へ派し、これが任務を托する事に一決したれども氏一人丈けを派遣する訳にも行かず、さりとて随行の適任者もなく一同困窮せり、当時海外への渡航は今日の如く簡易なるものにあらず殆んど水盃にて訣別したる程にて、命にかゝわると聞いては誰一人希望する者なかりき、此の時取締役奥田小三郎氏は年歯僅かに十八歳、素より係累なく極めて身軽の境遇なりしを以つて一斉に随行を勧められ遂に氏は自家営業を棄てゝ社長三井得右衛門氏代理大井信吉氏と共に谷口博士に随行する事となれり、即ち明治二十年六月二十日株主の送別会を受け同月二十五日午後四時新橋駅発、同日横浜解纜一路マルセーユに向へり、奥田・大井の二氏は船に馴れぬ事故恐怖に襲はれ終始船室の一隅に蹲まりたるが八月十一日兎に角恙なく英京倫敦に到着せり
    七 東京綿商社第一回考課状
 這般の事情は当時の記録に散見し得らるゝ所なれども、特に明治二十年九月十七日付東京綿商社第一回半季実際報告書は、東京本店史上歴史的価値を有する貴重なる文献なるを以つて左に其の全文を摘録すべし
     第壱回半季実際報告
            東京日本橋区本町四丁目十六番地
                      東京綿商社
 明治二十年二月十四日ヨリ六月三十日ニ至ル迄五ケ月間当商社庶務ノ要領並創立ノ事由及ビ諸勘定ヲ提録シテ以テ株主各位ニ報告スルコト左ノ如シ
     ○商社創立ノ事
 - 第10巻 p.189 -ページ画像 
一、明治十九年十一月二十四日山本三四郎・鋤形豊三郎・石井祐二郎等相会シテ東京日本橋区本町四丁目十六番地二於テ東京綿商社ヲ創立スルコトヲ相詢リ、其ノ決議スル所ノ発起人三名ニシテ、資本金拾万円ト定メ即チ其ノ旨ヲ発起人連署シ、一月十一日日本橋区長ノ奥書鈐印ヲ受ケ東京府庁ニ請願シ、同十四日願旨ノ如ク允准ヲ蒙リ二月十三日開業式執行、同日開店セリ
     ○株主総会決議ノ事
一、明治二十年二月六日ヲ以テ株主初総会ヲ催スベキ事ヲ報告シ同日ノ集会二於テ頭取・取締役・幹事ノ投票選挙ヲ施行シ、亜デ役員ノ月俸及ビ定款中ノ要件等ヲ決議セリ
一、当商社三越得右衛門外六名等相謀リ、本社附属綿糸紡績所ヲ設立、資本金拾万円ヲ壱百万円トシ四月十日株主臨時総会ヲ開キ稟議セシ処一同異存ナク設立ノ可決ヲ得、亜デ工場用地買入方並ニ建築委員及洋行員選挙等逐条衆員ノ意見ヲ問ヒシニ、是等ノ議ハ総テ創立委員(前七名ヲ言フ)ヲシテ委任セシメタキ旨発言ニヨリ衆議異同ナク決了セリ、因テ工場用地ハ南葛飾郡隅田村字鐘ケ淵地面凡三万坪ヲ購求シ鐘淵紡績所ト号ケ、即チ前定款ヲ更正シ設立願書ヲ添ヘ発起人連署シテ、四月二十九日東京府庁ヘ出願シ、五月六日認可ヲ蒙リタリ
     ○紡績所設立事務ノ事
一、紡績所設立認可ノ報告及ビ鐘ケ淵用地ヘ建標ノ為メ該所ヘ臨場アラン事ヲ五月九日株主各位ヘ通報シ、即チ其十日建標式ヲ執行セリ
一、紡績所創業監督トシテ農商務省三等技師兼大学教授従六位谷口直貞君ヲ聘シ、尚機械購求トシテ在官ノ儘欧洲ヘ航行嘱托セシニヨリ其会計兼紡績材料綿花買入条約ノ為メ、頭取三越得右衛門代理大井信吉、取締役奥田小三郎等随行セシメン事ニ決シ、其通知旁六月二十日株主諸君ノ送別会ヲ開キ、其二十五日午後四時新橋発ノ滊車ニ搭ジ出程ノ途ニ就キタリ
     ○諸御達ノ事
一、五月九日農商務省商務局ヨリ東京ニ於テ綿売買受渡手続等承知致置度件有之候ニ付、明十日午前局員宇多良温差出候間、同人ヨリ発問ノ廉々親シク説話可致旨達セラレ、翌十日同君御来車アリ繰綿売買上手続等詳細ノ御質問ニ対シ親シク弁明、尚定款帳簿及諸手形等閲覧ニ供シタリ
一、六月七日東京府庁農商課ヨリ綿花鑑定巧者ナル者両名明八日出頭可致旨達セラレ、社員両名出頭セシ所小笠原産棉鑑定ノ上引取方命ゼラレタリ
     ○商況ノ事
一、明治二十年二月十三日ヨリ六月三十日ニ至ル迄繰棉売買ノ額左ノ如シ
       買入ノ部
一、四千八百三十本         三州上銘大入
    此代金  六万四千八百参円拾七銭六厘
 - 第10巻 p.190 -ページ画像 
一、六拾九本            尾州玉司大入
    此代金  九百七拾六円七拾六銭
一、六拾九本            坂上金大入
    此代金  千拾六円八拾八銭九厘
       売渡ノ部
一、四千八百三拾本         三州上銘大入
    此代金  六万四千七百六円四拾壱銭壱厘
       委托入札販売ノ部
一、四拾参本            三州文庫繰綿
    此代金  四百五拾円参拾八銭弐厘
     ○総勘定ノ事
       商社負債ニ属スル分
一、金弐万五千円也         株金
   但資本金拾万円ニ対スル第一回徴集額
一、金六百拾六円也         預リ金
一、金千弐百参拾弐円也       売渡手附金
一、金千弐百参拾弐円也       買入信認金
一、金弐百拾弐円四拾七銭参厘    売買手数料
一、金七拾弐円参拾銭        株券書換手数料
一、金拾九円弐銭六厘        蔵敷料
一、金弐円五拾五銭         撿査料
一、金参百八拾六円八拾参銭     利子収入分
一、金八円也            雑益金
合計   弐万八千七百八拾壱円拾七銭九厘
       商社資産ニ属スル分
一、金一万五千八百六拾九円也    預ケ金
一、金千九百九拾参円六拾四銭九厘  繰棉現在品
一、金千百五拾七円七拾六銭五厘   貸付金
一、金参百五円也          当座預ケ金
一、金八千参百六円五拾五銭参厘   営業用家屋什器及創業入費等
一、金参百七拾七円四拾参銭四厘   営業諸経費
一、金四百四拾八円参銭参厘     準備現金
一、金参百弐拾参円七拾四銭五厘   純益金
合計   弐万八千七百八拾壱円拾七銭九厘
       紡績業増株申込金勘定ノ部
一、金四万五千円也         九千株二対スル申込金壱株ニ付金五円宛
       内
   金壱万八千弐百七拾六円拾壱銭弐厘 鐘ケ淵地所買入代
   金九百八拾弐円四拾七銭九厘    創業ニ係ル諸経費
   金弐千円也            洋行員英貨渡
   金五千円也            同正金銀行竜動為替振込
 - 第10巻 p.191 -ページ画像 
   金壱万八千七百四拾壱円四拾銭九厘 預ケ金
       小計   金四万五千円也
      差引残金ナシ
       紡績業増株第一回払込金予算ノ部


一、金拾八万円也          九千株二対スル払込金壱株ニ付金弐拾円
       内
   金拾弐万円也         紡績器械三万錘代組金三十六万円ノ三分一約定金トノ竜動正金銀行支店ニ於テ逆為替払込準備
   金四万円也          紡績蒸汽缶及荷揚器械購求代前同断
   金弐万円也          前預ケ金ト合シテ土工金及欧洲ヨリ建築図面到着前諸材料買入及其建築費用ニ充ル目算
       小計  金拾八万円也
       損益勘定ノ部
一、金七百壱円拾七銭九厘      総益金
       内
   金参百七拾七円四拾参銭四厘  役員月給及諸経費高
      差引   金参百弐拾参円七拾四銭五厘
                  純益金
   金四拾円也          役員賞与金
   金弐百七拾円也        資本金弐万五千円ニ対スル割賦金年六分五厘
   金拾参円七拾四銭五厘     後半期繰越高
右明治二十年二月ヨリ六月ニ至ル迄、当商社実際所務ノ要領ノ通相違無之候也
 明治二十年九月十七日
                幹事   石井祐二郎
                取締役  鋤形豊三郎
                同    奥田小三郎
                同    山本三四郎
                同    荒尾邦寛
                副頭取  大村和吉
                頭取   三越得右衛門
   株主各位御中
    八 ブルークス社のリングを選定す
 谷口博士等の出発前重役会議を開きたる結果は先づ能ふ丈外観の壮麗なる工場を設置するに在りたり、蓋し大に威容を張り他を威嚇せんとの方針より割り出されたる底意なり、錘数は約参万錘、附属機械一
 - 第10巻 p.192 -ページ画像 
式にて予算参拾六万円の見積なりき、会社より斯かる命令を受けたる谷口氏等は着英匆々工場の建築調査に着手したれども予期する設備の工場を見出す能はず、当時に於ける英国紡績工場の構造は何れも四階又は五階建にして、皆重箱の如き外容なり、而かも外観に何等の装飾を施さず意外の感に打たれたり、更に其道の専門家等に尋ねたるにベルシヤムの硝子工場が模範的なりとの事なりし故早速建築家に依頼して其図面を取寄せたる処、聞きしに優る美事なる工場にて屋上には会社功労者の肖像を掲げ、四方には搭ありて実に華麗なるものなりき、一行は肖像を並ぶるが如き贅飾は省略するとして、兎に角見積らしめたるに四隅の塔一つにて四万円を要すると聞き、会社の予算を以つてしては能はざりしを以つて外観内容の華美なる工場の建築はこれを思ひ止るの外なしとて肝心の機械の選定に取り掛る事となれり、時恰も英国女皇即位五十年祭挙行せられ、マンチエスターにては紀念工業博覧会開催中なりき、谷口博士は此の好機を逸せず幾度も同博覧会に赴かれ、種々取調べられたる結果サミユエル、ブルークス社の機械を選定せり
 谷口博士は此の機械選定につき曩きに三軒家紡績より出張し居たる山辺丈夫氏と一日倫敦の客舎に会し、種々議論を闘はせられたる事あり、山辺氏は昨今使用するリング機は支那棉には不適当なりとて極力在来のミユール機を推奨したるが、谷口氏は飽く迄もこれを拒否し終始リング機を主張せり、是恐らく山辺氏一流の懸引にして同業競争上故意に之を構陥せんとしたるものゝ如し、蓋し現にミユール機を主張したる山辺氏も谷口氏の意見に服したるものか、或は自らリング機の効用を認識したるものか、事実はリング機を購入して帰朝したればなり、尤も谷口博士としてもリング機の回転速力が日本又は支那棉にて故障なきや疑問なきにあらざりしを以つて、我が内地産棉を初め小笠原・支那等の棉花を取り寄せ試験したるが更に支障を認めず、極めて好結果を得たるのみならず、錘数を二万五千に減ずるも出来高はミユール機参万錘に匹敵したるを以つて、愈々此リング機を購入する事に決意せるなり
 谷口博士のリング機購入前後の事情につき明治二十七年三月十三日付「郵便報告」は左の如く報ぜり
 谷口氏は八月上旬英京に着せしに時恰もビクトリヤ女皇即位五十年祭に際し、マンチエスター府に於て博覧会の開設ありしを以つて工業的の機械悉く集つて一堂の中にあり、幾多の紡績機械も座ながら之を点検し、優劣得失の如何は詳かに之を実験するを得、頗る機械購入上の便利を得たりと云ふ。聞く当時在英谷口氏より電信を発てし問ふて曰く、ミユールにすべきか将たリングにすべきか、前者は廉にして後者は貴しと、然るに領電者たる発起人諸氏は未だミユール、リングの区別効用を審にせず、殆んど返電の術に窮せしも蓋し価貴くして物の粗なるはなかるベし、如かず寧ろ高価なるリングを採りてミユールを捨てんと僅かに価を標準として返電を発せしに、幸にして其の図に当りしを以つて更に齟齬蹉跌の憂なかりしと雖も堂々たる一会社の精髄を購ふに当り、斯の如き事態なりしとせば計
 - 第10巻 p.193 -ページ画像 
画当時の形勢又以つて其の一斑を推すに足らん
 玆に於て谷口氏は返電を発してリングを購ひ直ちに帰途に上れり、蓋しリングは英国最近の発明機にして七十手以上の細糸紡ぐには不適当なりと雖も其れ以下に至つては寧ろミユールに優ること数等なり、今やミユールの運命極めて微々にして其の廃滅に帰するは遠きにあらざるベし、而してミユールは一分時間の回転数僅かに六千に過ぎずと雖もリングに至りては遠く壱万二・三千の回転を為す、素より製品額の多少は運転工手の巧拙によるも彼の明治十年政府に於て七万錘の紡績機を購入し、以つて全国に頒与せしものに比すれば概して倍数の働きをなし、彼は一匁を製すれば我は二匁を製するを得る最も精良なる機械なりしも当時未だ我が紡績会社一として用ゆる者なく、其の之を本邦に輸入し改良紡績機械の標本を示せし者は実に鐘淵紡績会社を以つて嚆矢となす
    九 紡績業専営に改む
 斯くてリング機購入値段を算出したるに総額四拾弐万五千円と云ふ予算超過の額に達したるを以つて已むを得ず電報にて発起人に問ひ合はせたり、然るに我国にては当初の景気もいつしか失せて株式は非常の暴落を来し、払込の如き到底覚束なき状態となれり、斯かる財界の沈衰時に際し、棉花の売買と紡績事業とは素より其の執る所自ら相容れず、然るを一社にしてこれを兼営するが如き策の得たるものにあらざるを以て、自今棉花の売買を廃止し単に紡績業を以て専務となすベしとの説を生じ、谷口博士の洋行中東京綿商社は遂に其の本来の目的を放棄し一路紡績業経営に向つて邁進する事に一決せり、此の時山岡正次氏は英断にも未払込の分は全部三井家にて引受くる故機械購入代金総額四拾弐万五千円応諾の旨在英谷口氏に架電せらる、谷口氏は此の吉報を受けて大いに喜び早速正金銀行倫敦支店より逆為替にて金を引出し機械其他の買入を約束せり、而して建築図面は途中万一の紛失を慮かり米国便と仏蘭西便との二者により本国へ廻送せり
○中略
  第弐章 操業開始と社名の改称
    一 鐘淵紡績会社の濫觴
 前記の如く機械の据付を完了したるは明治二十二年十二月廿三日なりと雖も、諸般の準備整ひて一部試運転を開始せるは同年四月十二日なり、此の日役員以下一同工場に集りて酒盃を挙げ前途を祝福せり、尋いで翌五月十二日工場所在地の古蹟に因み社名を鐘淵紡績株式会社と改称せり、是実に吾社創建の濫觴にして資本金僅かに壱百万円、錘数弐万八千九百弐拾錘に過ぎざりき
  ○同社「半季実際報告」ニ於テハ第四回(明治二十一年八月―十二月)ヨリ鐘淵紡績会社ト改称シ、同報告ニヨレバ、八月二十五日改称ノ旨東京府庁ヘ上申シタリ。又、株式会社商業登記ハ明治二十六年十一月一日受ケタルモノナリ。(「第十四回半季報告」)尚、同社所蔵ノ登記書類ニ於テハ、明治二十二年五月十二日ヲ開社開業ノ年月日トセリ。
○中略
    三 太糸の需要多し
 創業第一期即ち明治二十二年上期末現在の職工数は合計二百九十五
 - 第10巻 p.194 -ページ画像 
人にして此内男工手百七十三名、女工手二百二十二名なり、而して一日の就業時間は凡そ十時間、其の運転する所の一部精紡機より生じたる出来高は一日平均壱千五百英斤なり、先づ試みに十四手、十五手、十六手の三種を製し順を追ふて細糸の紡出を期せり、即ち当初の設計は製品の種類全部の半額は平均十八手他は平均三十二手の目的にて初紡・精紡の各機を配合したるものなり、然るに実地の経験によれば常に太糸の方に需要多く、而かも開業以来最も需要の急なる十六手以下の太糸のみを紡出するには混打棉機・梳棉機・綛機等諸機械の不足を感ずるに至りたれば、之を増設し需要の緩急に応じ細太孰れにても紡出し得る様谷口博士の設計により英国及内地製造所に向つて前紡機数台の注文を発せり
○中略
    五 創立以来の初配当
 同年○廿二年八月一日に於て十六手の価格八十七円建を以つて初めて発売を試みしに、其以前東京洋糸問屋組合諸氏の品評鑑査を乞ひ品位精良なりとの佳評を得たるを以て、発売後注文は続々殺到し貯蔵の綿糸は悉く出払ひたるも、猶その需用を充たすに足らず且九月上旬風雨の災害より原棉の昂騰に従ひ糸価も漸次上進し、遂に十月初旬に至りて百円に達し需要最も急迫を告ぐるの形勢なりしが、十一月中旬より原棉市場稍静穏に帰し、価格亦随つて低落に傾きたれども、発売の当初貯糸の多からざりしと価格の昂騰に伴れ需要甚だ急なりしとにより、十二月初めは倉庫に一糸の貯蔵を見ず随つて製造すれば随つて発送するの好況を呈せり、爾来十二月中旬少しく沈静したれども其の下旬二たび価位を回復したるにより、続々注文あり年末に至りては貯蔵のものも殆んど売尽したるの盛況なりき
 斯の如く一時昂騰の末二度低落の傾きありしは、却つて販路を拡張するの機に投じ販売上毫も渋滞の憂ひなく、爾後一・二年間に見る能はざりし最も多幸の時代なりき。乃ち同年末決算に於て純益二万八千〇五十弐円弐拾弐銭弐厘を挙げたるを以つて、積立金弐千五百円、創業費弐千五百円を差引き株主配当金として年五分一株壱円拾弐銭五厘の割にて弐万弐千五百円を支出し、残額五百五拾弐円弐拾弐銭弐厘を翌年度へ繰越したり、これ実に東京綿商社創立以来今回を以つて嚆矢とすべし、此年一月四日より会社株式は東京株式取引所に於て定期市場に上場さるゝ事となれり