デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
3款 鐘淵紡績株式会社
■綱文

第10巻 p.194-206(DK100026k) ページ画像

明治24年1月(1891年)

明治二十三年ニ入リ経済界不況ノ影響ヲ受ケテ、業績著シク不振トナル。玆ニ於テ是月、首脳部ヲ一新ノ上三井銀行ヨリ融通ヲ受ケ、更ニ翌二十五年一月二十五日第十回定時株主総会ニ於テ中上川彦次郎・朝吹英二ヲ取締役トシテ就任セシメ、更生ニ努ム。コノ間栄一・益田孝ト共ニ顧問役トシテ改良整理ノ相談ニ与ル。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第一〇九〇頁 〔明治三三年六月〕(DK100026k-0001)
第10巻 p.195 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第一〇九〇頁 〔明治三三年六月〕
 ○第十九章 綿糸紡績及織布業
    第四節 鐘ケ淵紡績会社
鐘ケ淵紡績株式会社ハ明治二十年五月ノ交、朝吹英二・益田孝等ノ発起ニ係ル、東京鐘ケ淵ニ本工場ヲ有ス、現在資本金弐百五拾万円一箇年製糸高凡ソ八万梱、三井家ハ其大株主ナリ
同会社ハ創立後種々困難アリ、青淵先生ハ三井家ノ依頼ニヨリ一時其株主トナリ改良整理ノ相談ニ与ル、今日ハ業務頗ル盛大トナリ兵庫ニ分工場ヲ有セリ
  ○「半季実際報告」ニヨレバ、栄一ハ明治二十四年下半季ヨリ三〇〇株ノ株主トナリ、同二十五年下半季ニ及べリ。尚、益田孝・中上川彦次郎・朝吹英二モ同時ニ三〇〇株ノ株主タリ。
  ○右ノ「明治二十年五月」ハ東京綿商社鐘淵紡績所ノ設立免許ヲ受ケタル時ナリ。


本邦綿糸紡績史 (絹川太一編) 第四巻・第四五一―四六〇頁 〔昭和一四年二月〕(DK100026k-0002)
第10巻 p.195-197 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕鐘紡東京本店史 第七八―一二六頁 〔昭和九年四月タイプ版〕(DK100026k-0003)
第10巻 p.197-205 ページ画像

鐘紡東京本店史 第七八―一二六頁 〔昭和九年四月タイプ版〕
              (鐘淵紡績株式会社東京工場所蔵)
  第参章 明治二十三年の恐慌
    三 業績不振にて欠損を生づ
 創業第一年は業界稀に見る好況の波に乗りしが翌二十三年に入るや急転直下苦難の淵に沈淪するに至れり
 前年暮頃より糸価は一体に低落の一方に傾きたるも、兎に角二・三月の頃迄は相応に売行ありしが四月に入りてより販路頓に梗塞し製品は徒らに倉庫に堆積するの有様となれり、更に五・六月の候は例年需要の最も減少するの折柄なれば価格は益々低落を告げ遂に壱梱八拾円以下を以つて販売せり、然れども猶甚だ売行悪しく同業者の中には夜業を廃して昼業のみに従事するものあり、或は全部休業を為すものもありて遂に六月中同業聯合会に於て一般に製造高減少の為め期を定めて休業日を増加するの臨時約束を可決せり、以後聯合加盟者は総て之を遵守して競争の弊を予防し只管耐久の策を持したり、六月の末に至り稍買気を萌し値段を昇騰せしむる迄には到らざりしも徐々に注文ある有様を呈し七月初旬に至りて一時多数の注文を得、綿糸の値段も連日壱・弐円を進め、七・八月頃には八十七円迄に達したり、此の如き好況は独り我社のみにあらずして各所同一なりしを以つて六月の定時同業聯合会に於て議決せし生産制限の臨時約束も、各所より陸続請求してこれを取消すに至れり、蓋し俄然として此好況を呈したる所以は畢竟外国為替の昂低激しくして綿糸相場の定まらざりしと、春以来内地の糸価低落の一方にのみ傾き、却つて需要者の狐疑心を惹起して、孰れも買控へ居たるに一時実需筋の買気起りしより刺激せられ、競ふて買進みたるとの二点より来りし結果にして真正立直りの市況を見るに至らざりしなり、故に日ならずして再び低落の一方に向ひ、従つて漸次販売高を減却したり、此際会社の出来高は日一日と増加し来りたるを以つて、座して各問屋の注文を待たんより進んで販路を拡むるの捷敏なるに如かずとし、先づ名古屋地方に委托販売の方法を試みたれども不景気の趨勢は都鄙一般にして未だ遽かに充分なる販路を得るに至らず、爾来商業益々不振にして各所とも在荷庫中に堆積し業界稀に見る困難の極に達せり、加ふるに十一月より同業中販売競争の色あり、十二月上旬に至りては一層の下落を辿り、会社の十六手の如き遂に七拾円を昇降し殆んど底止する所を知らざる有様なりき、而かも工業会社に不似合なる鉄門又は庭園を設け偉容にのみ腐心したる為め、世間よりは紡績大学校と悪口を言はれ内憂外患一時に至れるの感あり、利益配当の如き思ひもよらず、同年末決算に於て実に拾弐万参千六百拾七円の損失を生じ、会社株券の如きは市価拾四・五円に下落せり
    四 三井家の助力を仰ぐ
 - 第10巻 p.198 -ページ画像 
 やがて百万円の資本金は殆んど費ひ果され、運転資金を欠くに至りて会社は容易ならぬ苦境に直面せり、玆に於て三井家の代理者山岡正治氏は折角会社の為めに苦心参劃せられたるにも拘はらず主家不首尾にて遂に閉門を申し附けられ、副社長西村虎四郎氏の命により松山仙右衛門氏代りて事に当られたるも、幾ばくもなく退隠せられたり、乃ち明治二十四年一月二十三日京橋区木挽町厚生館に於て開催せる第八回定時株主総会に於て役員改選の結果、新に北岡文兵衛氏取締役に就任せられ会社主脳部の陣容はこゝに全く一新せり、即ち左の如し
            社長   三井得右衛門氏
            副社長  西村虎四郎氏
            取締役  北岡文兵衛氏
            同    浜口吉右衛門氏
            同    佐羽吉右衛門氏
            監査役  稲延利兵衛氏
            同    鶴田助次郎氏
            同    上柳清助氏
            技師長  吉田朋吉氏
            副支配人 荒井泰治氏
 当時一部株主間には会社の解散を唱ふる者を生じ危急存亡の機に達したるが、前記諸氏就中監査役稲延利兵衛氏は最も強硬に解散論に反対し、時の大株主たりし三井家の助力を仰ぐより外途なきを提唱せられたり、玆に於て同氏は当時の三井家の顧問たりし井上侯に懇請せんとし、侯の眷寵を受け居たる三遊亭円朝を通じて侯に面接し、縷々苦衷を披瀝したるに幸に侯の容るゝ所となり、西村虎四郎氏の奔走にて三井銀行より無慮六・七拾万円の融通を受くるに至り会社は漸く更生の路を辿れり、後年井上侯が短冊に書して稲延氏に贈られたる和歌は当時稲延氏の会社整理に与りて力ありしを示すものなり
    もつれ糸履んで切らんかいなのベて
       宝の山に這入る鐘紡
○中略

  第四章 中上川・朝吹両氏整理に出馬
    一 操業改善の効生ず
 明治二十四年の操業日数は前年十二月中旬に於て、汽機破損の為めこれが修理に多くの日子を空費し、二月十七日より始めて昼夜業に復するに至りしを以て通計二百六十四昼夜半なりき、而して其の製糸総額は五百二十三万八千二百〇二斤二五にして平均番手十六番二に当れり、元来会社の製品は黒色目玉商標の一種を以つて出荷したるに逐次工場の進歩に伴ひ従来の製品に比し品質佳良のものを紡出するに至りしを以つて、更に赤色諌鼓鶏商標を製し其品級を黒標の上に置くことに定めらる、又創業以来需用原棉は専ら支那棉に依頼したりしが、同年に至り印棉の価格頓に下落したるが故に、初めてこれを本国に注文して数十種の見本を取寄せ各番手を試紡したるに、何れも好結果を得たるを以つて漸次印棉を原料として二十手を紡出し、能く市場の声価を博するを得たり、これ一には該棉花の良く機械に適応する所ありし
 - 第10巻 p.199 -ページ画像 
に因ると雖も、亦作業進歩の一斑を窺ふに足れり、又工場消耗品及び工銀等に就ても皆節約の著しきものあり、即ち前年末に比し一日平均工銀に於て二十円九十銭を減し石炭に於て三十一円一銭四厘を減じ、油類に於て十五円九銭六厘を節減せり、随つて壱梱当工費は拾円五拾銭壱厘にしてこれを前年末現在の拾参円七拾四銭七厘に比すれば、実に参円弐拾四銭六厘の低減なり
    二 販路に曙光見ゆ
 一方取引方面を観るに前年の不振を承けて在荷の繰越したるもの三千余梱を算し、一・二両月の如き価格依然として沈滞せるを以つて販売上の困雖尠からず、然れども当局者は此の困難に在て能く百方販路を開き、漸次在荷を減少し次いで三月下旬より気配稍々引立ちたりと雖も、実際の価格に至りては著しき昂膳を見る事なかりき、同年夏吉田技師長は関東各地の機業地を巡回して親しく其の需要する糸質を調査し、爾来着々改良を加ふる事多かりしが十二月頃に至り世上大いに活気を呈し、殊に製品の改良は大いに需要地の賞賛を博し在荷は大低これを売尽くすに至れり、而も価格は案外昂騰せざりしも幸にして原料棉花が幾分低廉を見たるが為に、年末決算に於て五万弐千余円の収益を挙げ年四朱の株主配当を行ひたり、新役員諸氏の努力も漸く酬いられたるものと言ふを得ベし
 此年十二月七日技師長吉田朋吉氏は暴漢の為めに工場内に於て傷づ《(つ)》けらる、是れ氏が職工中の無頼漢を解雇したるに因るものなり、傷は頗る重く縫合十二針に及び、病院に送られしが幸にして治療効を奏し翌二十五年に至りて全く癒えたり
    三 中上川・朝吹両氏の入社
 廿四年末頃より稍活気を呈し来りたる市況は其後一張一弛にして、将来に亘り永続的好況を期待し得る材料は毫もこれを見出す能はず前途容易に楽観を許さざるものありき、玆に於て三井家にては今にして整理を徹底的に断行し其の基礎を鞏固ならしめずんば、遠からず会社の破綻を招来せんことを慮られ、中上川彦次郎・朝吹英二の両氏をして、入つて大いに革新せしむベく斡旋せられたり、乃ち明治廿五年一月廿五日第十回定時株主総会に於て中上川・朝吹二氏は西村虎四郎・北岡文兵衛の両氏に代り初めて取締役に就任し、社長三井得右衛門氏を援けて拮据経営大いに社運の挽回に努められたり、爾来会社の資本は殆んど挙げて三井一家の有となれり
    四 明治二十五年の景況
 当時の我国紡績業は恰も発育期に際会し全国の錘数僅かに三十二万錘に過ぎず、今日の一会社の錘数にも及ばざる有様にして、而かも保全技術甚だ幼稚なりしを以つて、此歳吉田技師長を欧米に派遣し具さに各国の工場を視察せしめたり、斯くて経営・技術両方面に亘り、一大努力を傾注したる結果、工場成績は漸次向上し出来高亦随つて逓増せり、即ち同年上期の運転日数百五十一昼夜半、出来高三百十五万〇五百二十四斤七五、平均番手十七番八三、即ち一昼夜平均出来高二万〇七百九十五斤なりしが、下期に至り運転日数百六十八昼夜半、出来高三百七十九万七千〇七十一斤、平均番手十七番四二五、即ち一昼夜
 - 第10巻 p.200 -ページ画像 
平均出来高二万二千五百三十四斤を得、実に一千七百三十九斤の激増を見るに至れり
 時、恰も原棉の騰貴を見、且つ為替相場下落により輸入綿糸の昂騰するありて糸価は為めに漸次昂騰し、黒標十六手の建値最高七十七円五拾銭、最低七拾円五拾銭を唱へり、会社は十六手最高八十四円、最低七拾参円五拾銭、二十手最高九拾円、最低七拾四円を以つて需要に応じたるも、日々の出荷に急にして殆んど荷物の停滞を見ず、資金の運用亦極めて円滑なるを得たり、随つて上期に於て五万八千余円の利益を挙げて年六分の配当を為し、下期に於ては実に拾壱万壱千余円の利益を生じ、年壱割の配当を行ふの好成績を得たり
    五 会社将来に対する悲観論
 斯る好況の時代なりしに拘らず当時一部株主間には他社に比し収益の尠きを訴ふるものあり、更に経営の合理化を図らんには半期少くとも弐拾五万円の利益ありとなし、会社当局の経営に不満を抱くもの多かりしは事実なり、今、此の点に関する当時の世論を要約すれば
(一)会社の規模大に過ぎたり、会社に至りて宏大なる建築物と精巧なる機械を一見する時は、我国工業の長足なる進歩を確認するを得べきも、亦同時に如何に創業費を損失し如何に機械の買入運転の方法に失敗したるかを察知し得らるべし、創業発起人は何故先づ壱万錘より始め徐々に経験を積んで今日の参万錘に至らざりしや、工場の位置、石炭の割合、賃銀の高低等一々其の当時に於て充分考究したるや、酷評すれば一時の工業熱に浮かされ前後の思慮を廻らす違《(遑カ)》あらずして設立したりと云ふも過言にあらざるべし
(二)工場の位置不適当なり、現今の所在地は工業を起すべき適当の場所にあらず、同地は水利の便あるも工業に要する総ての費用に於て、多額の冗費を要するを以て、他社との競争上最も困難なる地位に在り、物品の出入運搬料の如き市内の同業と争ふこと能はざるべし
(三)職工の賃銀高価なり、会社は人口稠密の場所に接近せざるを以つて職工をして通勤せしむるの便を有せず、加ふるに土地不便なるが故に応募者割合に尠く、勢ひ高価なる賃銀を払はざればこれを雇入るる事能はず、又要なき寄宿舎をも設けざるべからざるなり、試みに全国同業の一日平均工銀を見るに男拾八銭八厘六毛、女七銭八厘五毛にして、現に東京紡績も男拾四銭、女八・九銭内外なり、然るに会社の賃銀表によれば男拾九銭、女拾弐銭の割合なれば他社と比較し男女合して一日平均一人四銭内外の相違なり、一日平均一人四銭の差額は職工総数二千九十一人に対し一日八十三円、一ケ月弐千五百円にして一ケ年には実に参万円の尠定《(勘)》となるべし、況んや寄宿料の如き会社が職工より徴収する処は賄料として日に六銭に過ぎず、如何なる食料を供するにもせよ昨今の米価にて一日六銭にて充分収支の償ふの謂れなく、寝具・点灯料・畳表替・其他寄宿舎修繕等に於て、会社が幾多の損失を甘んじて為しつゝあるは明かなり、是等の損失を合算する時は、会社は一日少くとも百円を下らさる負担を荷ひ居るべく、此の点に於て既に会社は他社に比し甚しき不利の地位に在るものと言はざるべからず
 - 第10巻 p.201 -ページ画像 
(四)石炭高価なり、工業に最も必要なるは石炭なり、従つて如何なる国、如何なる時とを問はず、事業会社の興起する所は、石炭に富める地方に接近するを得策とすべし、然るに会社の使用する石炭は、昨今多少幌内炭を使用するに至りたるも主として唐津又は三池炭なれば、石炭に要する運搬費も亦関西中京の同業に比し幾分割高たるを免れず
   試みに東京大阪両者の万斤当相場を対照せん
          大阪(二月二日)     東京(同)
            円            円
    唐津炭   二二、六〇        三一、五〇
    筑前炭   一八、〇〇―二四、〇〇  二九、〇〇―三〇、〇〇
    三池粉炭  二三、四〇        三四、〇〇―三五、〇〇
   即ち東京大阪両者の差は万斤当拾円乃至拾壱・弐円なれば、会社が一昼夜に消費する高四万斤とせば一日四拾円乃至四拾四・五円の差額を生ぜん、これを平均四拾弐円とする時は、一年壱万五千余円の差を生じ資本総額壱百万円に対し、一朱五厘強の不利益を生ずる計算なり
(五)工費高価なり、石炭の価格及び職工の賃銀既に不廉なる上は、此の影響の延いて生産工費の価格に及ぼすべきは当然の事柄なり
(六)職工過多なり、地利不便なる為め職工の雇入れ急速の間に合はざることあるを以て、職工の過多ならざるやの疑なきを得ず、蓋し全国の錘数はリング弐拾壱万参千七百弐拾九錘、ミユール拾万参千参百六拾六錘にして合計参拾壱万七千〇九拾五錘なるに男工四千六百参拾壱人、女工壱万参千四百二十六人にして合計壱万八千五拾七人なり、故に職工一人につき十七錘の割合なるに、会社は錘数参万にして職工弐千九十一人なれば、其の割合は一人十四錘に過ぎず、畢竟地利の不便は職工雇人の不便を来し遂に此に至らしめしものなり
(七)職工の出入多し、貯金の制、賞励の途を設けざるにあらずと雖も未だ職工をして其処に安んじ技術の練達に専念する能はざりき、岩手女工の一時に七十人袖を払ふて決然会社を去りしが如き、又大阪地方より雇聘せし不熟練の職工が機械を破損したるが如き、実例は一一枚挙に遑あらず、明治二十四年一ケ年間の出入表を見れば平均一ケ月百人以上の出入にて、斯くの如くんば到底製品の善良と出来高の増加を望み得られざるなり
          入社        退社      増減
               人        人
      男     二一三      二二四    一一減
      女   一、〇〇一    一、〇六四    六三減
      計   一、二一四    一、二八八    七四減
(八)販路不充分なり、会社は製品の売込みにつき如何なる手段を講じたるか、試みに上野・武州の各地に至りて会社の綿糸が如何に需要せられ、又如何なる地歩を占むるかを見よ、同地方は元来全国中にても二子織・白木綿の産地としては屈指の地なれば、当社の綿糸を多額に見るべき筈なれども、更に其の痕跡だに見る能はず、是畢竟会社当局の販路の方策に関して、更に無頓着なりし証左と言はざるべからず、斯く販路の開拓を努めざりし結果は、売捌に窮し僅かに名
 - 第10巻 p.202 -ページ画像 
古屋近傍及び地廻りの問屋に対し、価格の高廉を顧るの暇あらずして売込みしも亦止むを得ざる事柄なり
(九)需要に投合せず、我綿糸の売口をして殷盛ならしめんとせば、世間一般の嗜好を察し之に適応せざるべからず、然るに我社は世間一般が二十手を需要するや十六手のみを紡出せり、支那棉は綿糸として外形美麗にして純白なるを以つて我社は盛んに之を使用せしも、当時既に各織物地に於ては支那棉の嗜好衰へて、印棉又は米棉の紡糸を要求したる頃なり、我社は世間一般が撚の強くして且剛きを排斥したりしに猶平然としてこれを紡出したり、斯くては我紡糸は多く世情と背馳す、厳冬に氷を鬻くが如し、顧客の日に去る固より恠しむに足らず
(十)工場の敷地は水面より僅かに六尺に過ぎず、斯る低地盤を卜し、宏壮尨大の工場を建設するが如き、思慮不周到にして果して能く汎濫其他の患害に堪ゆべきや、会社が妄りに干渉して会社の土地を貸与し二・三の商店を開かしめしは果して工場接近の土地をして人口稠密に至らしむべき適当なる方法なるか、或は日曜休業の利害及びこれに伴なふ職工問題の如き時勢に適応したるものなりや、大いに考慮の余地あるべし、等々
以上甲論乙難世評囂々たりき
○中略
  第五章 工場増設の為め資本金増加
    一 五拾万円の第二次増資可決
 要するに明治二十五年頃の当社の世評は一部悲観的観察を下すものありしと雖も、其の声望に至りては猶都下事業会社中屈指のものたりしなり、同年下期頃より石炭の相場は漸次低廉の模様を呈し、原料棉花の価格亦割合に高からず、生産費に於て充分節し得べき機会に際会せるのみならず、地方に於ては米穀の豊作によりて購買力を高め、綿糸の需要も漸く増加せり、而かも達識手腕に富める中上川・朝吹両氏の奮闘は渋沢・益田同顧問の智略と相待て、会社は漸次多幸なる時代を迎へんとするに至れり
 左れば明治二十六年の初頭欧米視察中なりし技師長吉田朋吉氏帰朝せられたるを以て、同年二月十五日臨時株主総会を開き、愈々拡張の第一歩として資本金五拾万円の増募を行ひ、新工場を増設するに決せり、其の増募すべき株式は、同年五月一日現在の株主に於て所有の株数に平等に割当て、これを引受けしむる事とせり、即ち五月一日を以つて増募資本金五拾万円に対する株式券状壱万株を発行し、同日を以つて第一回払込金壱株につき金五円を徴し、六月十五日を以つて第二回払込金壱株につき金五円を募り、六月末迄に於て新株壱株につき金拾円を徴収したり
    二 定款改正と三井氏辞任
 次いで五月二十六日日本橋区坂本町銀行集会所に於て再度臨時株主総会を開き、定款の改正及取締役・監査役の改選を附議し、過半数を以つて可決せり、取締役・監査役は孰れも再選重任せられたるも、三井得右衛門氏は都合により辞任申出られたるを以て、改正定款に遵ひ
 - 第10巻 p.203 -ページ画像 
取締役中に於て互選を行ひたる結果、中上川氏新たに三井氏の後を襲ひて取締役会長に、朝吹氏専務取締役に、夫々当選就任せられ、玆に全く陣容の一新を見、会社は頓に生気を加ふるに至れり
    三 朝吹専務自己の所信を枉げず
 新工場は錘数壱万四百錘、平均番手三十手の紡出を目的とし、専務取締役朝吹英二氏主としてこれが建設に関する指揮監督に任ぜり、恰も好し、当時英国ブラツト社技師エンリー氏社用を帯びて来朝中なりしを以て、朝吹専務は社員西川氏其他二・三を随へ、新工場設計図面を携帯して、エンリー氏を客舎帝国ホテルに訪ひ、具さに其の計画の内容を語り、之に適当なる紡機の注文をなせり、此の時エンリー氏は紡機は注文により如何なるものにても製造すべきも、貴国現時の経済事情にては平均三十手以上のみを紡出するは決して策の得たるものにあらざるべければ、須く三十手以下の太糸をも併せて紡出する様なされては如何と、百方其の理を尽して説得大いに努めたり、然れども朝吹氏は中上川会長の旨を受け胸中亦自ら深く信ずる所ありしを以つて頑として固く自説を執りて下らず論戦遂に朝より夕に亘り、食事の饗応に与る事二回、エンリー氏は漸くにして朝吹氏の説に服したりと云へり、朝吹氏が其の所信を貫徹せずんば止まざるの概は大いに後人の範となすに足るべし、エンリー氏は其後当時の模様を知人に語りて、一工場の設計に十三時間に亘る討論をなせるは、之を以つて最初にして且つ最後とすべしと、呵々大笑せりと
    四 新工場運転開始
 増設新工場は建坪壱千参百四十五坪五合三勺、旧工場と同じく清水満之助氏これを請負ひ、明治二十六年三月三十日起工、同年末に於て略其の竣成を告げたり、猶これに附帯して寄宿舎一棟百三十七坪を新築せり、増設工場に据付くべき機械は三月八日リング弐拾六台壱万四百錘其他をブラツト社へ、其のエンジンをジヨン、マスグレーブ商会へ夫々注文を発したれども、年末迄に到着したるは汽缶及びこれに附属せしもの数種に過ぎず、従つて同年に於て据付に着手せしは僅かに汽缶の一部に止れり、其後間もなく注文の紡機続々着荷したるを以て、全員昼夜兼行にて据付に努めたる結果、翌二十七年三月に至り漸く運転開始を見るを得たり
 これ即ち今日の第弐工場なり(明治三十三年二月九日藤工場長時代に亘り旧工場を第壱工場と、新工場を第弐工場と改称す)
    五 明治二十六年の景況
 明治二十六年上期の操業日数は百五十四昼夜にして、製糸の総額は三百十七万六千九百四十一英斤二五、其の番手は平均十八手九〇二余に当れり、而してこれに要したる原棉は三百九十三万八千五百九十五英斤五四と、前季繰越工場仕掛物十四万六千九百二十七英斤二五とにして、合計四百〇八万五千五百二十二英斤七九なれども、此内二十二万四千四百四十一英斤二五は後季へ繰越したる工場仕掛物及再用綿に属するを以つて、差引半季に於て実際消費したる原棉は三百八十六万千〇八十一英斤五四なり、今此の製造額を繰業日数に割当つれば一昼夜の製造高平均二万〇六百二十九英斤四八強に当れり
 - 第10巻 p.204 -ページ画像 
 次に下期の操業日教を見るに百六十六昼夜にして平均番手十七手八九、製糸総額三百六十一万八千七百七十六英斤半なり、而して下半期中に消費したる原棉は前季繰越工場仕掛物及び再用棉二十二万四千四百四十一英斤二五と、工場送り高四百二十二万千三百四十八英斤四四とにして此の内十六万四斤二五は後季へ繰越したる工場仕掛物及び再用棉に属するを以て、実際下期に於て消費したる原棉は四百二十八万五千七百八十五英斤四四とす、而して下期に於て工場に送りたる原棉を種別すれば左の如し
  一、八二〇、三三九英斤 八六    支那棉
  二、一七七、五七〇英斤 四二    印度棉
    一九六、七七一、  五〇    米国棉
     二六、六六六、  六六    日本棉
  四、二二一、三四八、  四四     合計
 同年一・二月の交に於ては頗る好気配の状況なりしが、漸次沈静して価格引立たず、原棉はこれに反し価格次第に昂騰するを以つて前年の如き好況を見る事能はず、十六手最高八拾五円五拾銭、最低七拾五円、二十手最高九拾参円、最低八拾円を以つて売却せり、同年に於て始めて試売の為め上海及び香港へ輸出したる製糸は壱梱四百英斤入三百五十一梱にして其の売上価格は十手最高七拾六円五拾銭、最低六拾五円弐拾銭、十四手七拾九円六拾銭なりき
 同年末に於ける職工数は男四百十六人、女千八百三十六人、総計二千二百五十二人なり、猶前季に於て年七分、後季に於て年九分の株主配当を行ひたり
    六 兵庫支店創設の為第三次増資
 明治二十七年一月八日午後一時より、会社に於て定時株主総会を開く、出席株主六十一名、即ち前季の決算及利益配当案を可決したる後、取締役会長中上川彦次郎氏重役一同を代表して株主に増錘の事を協議し、賛成を得たるを以て、増錘に関する諸費取調べたる上、追つて臨時総会を開催する事に決議せり、次いで二月八日午後二時半より日本橋区坂本町銀行集会所に於て臨時総会を開き、(出席株主六十二名、委任状八十名此株数二万六千七百五十五株)同年一月の定時総会に於て賛成を得たる増錘の件を議し、而して此増錘資本として壱百万円の新株金を募る事に決して新株引受は五月一日現在の株主に割渡す事に決議せり、乃ち定款第六条を改正、総資本金を弐百五拾万円とし二月十五日本所区裁判所小松川出張所に於て登記済の上同十六日東京府庁を経て農商務省へ届書を提出したり
 新設工場は、東京以外の運搬最も便利にして工費の廉なる地処を選定するに決し、種々調査研究の結果、兵庫県下摂津八部郡林田村字東尻池に定め、坪平均壱円四拾銭を以つて合計参万八千四百弐拾参坪を買収せり、これ今の兵庫支店なり
    七 業態悪化に傾く
 同年に於ける操業日数は三百二十四昼夜、平均番手十八手にして其の消費原棉総量は一〇、〇二九、六六七斤〇六八なり、而して工場に送りたる原棉の種別は左の如し
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  四、二六〇、四一九斤六六六    支那棉
  四、七八八・三三三、二三五    印度棉
     九五、〇九一、四一七    米国、西貢、安南、スミルナ棉
  九、九九九、六六七、〇七一    合計
 同年に於て販売したる製品総額は四万〇弐百五拾八梱余にして、此金額百七拾四万七千弐百七拾五円なり、其相場は十六手最高九拾円最低七拾八円、二十手最高九拾八円五拾銭、最低七拾九円にして試売の為め上海へ輸出したるは一梱平均八拾参円七拾九銭にて、合計壱千四百四拾八梱なりき、同年夏頃より世上の商勢俄かに一変し就中絹糸の如きは漸次下落の一方にのみ傾きし折柄、米国の棉花非常豊作との唱へより、米棉は勿論印棉支那棉共下落に傾き、遂に十六手七拾七・八円、二十手七拾八・九円の低価を現はせしのみならず、製造の荷物は日々過半停滞せり、加ふるに会社所有の棉花は重に前年に仕入れたるものにして、原料の高価は言ふ迄もなく金利は愈々騰貴し運輸は日々梗塞し、為めに石炭の如きは殆んど四・五割の暴騰を来し営業上頗る困難を極めたり、年末に至りて稍々人気恢復したれども価格の点に至りては、未だ著しき上進を見ず不振の時代なりき



〔参考〕中上川彦次郎君伝記資料 第一八―二二頁 〔昭和二年一〇月〕(DK100026k-0004)
第10巻 p.205-206 ページ画像

中上川彦次郎君伝記資料 第一八―二二頁 〔昭和二年一〇月〕
  中上川彦次郎氏伝記(武藤山治氏寄)
○上略
    鐘淵紡績時代
 鐘淵紡績株式会社は其前身を東京綿商社と言ひ明治十九年十一月の創立にかゝり、専ら三井呉服店を中心とせる綿糸・棉花及び木綿問屋等の衆団によりて設立せられたるものにして、当時の資本僅金《(に金)》に拾万円の一小会社なりき。然るに越えて同二十年五月に至り資本金を増加して百万円となすと共に、東京府下隅田村鐘淵に紡績工場を設置し、創めて綿糸紡績業を開始せり、是れ即ち今日の東京本店第一工場なり。
 斯くして新に無経験なる紡績業を開始せる東京綿商社は、之れが経営に苦心惨澹日も亦足らざるの有様なりしかば従来営み来りたる定期売買の如き、其振はざる事甚しく、到底事業の両立を図る事覚束なかりしを以て終に同社は二十一年上半期を限りとして之を解散し後ち三井家重役を出資者に仰ぐに及んで二十二年八月鐘淵紡績会社と改称せり。是れ実に現在鐘淵紡績株式会社の濫觴にして当時の同社は資本金僅かに百万円、二万八千余錘を有する一小会社に過ぎざりき。
 然かも当時の我国紡績業は猶ほ幼稚にして、其進歩も亦遅々たりしかば、社運甚だ振はず、株式の如きも日々下落を告ぐるのみにて二十三年には十二万三千六百余円の損失を見るに至り形勢益々非なりしかば、経営者も終に坐視するに忍びず、井上侯に嘆願して救済の道を仰ぐに至れり。
 是に於てか同社が三井家関係事業の一として夙に整理の要あるを知れる侯は直ちに快諾を与へ、中上川氏をして入つて大に革新せしむ可く斡旋したりしかば氏は終に二十五年一月二十五日同社第十回定時株
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主総会に於て朝吹氏と共に初めて取締役に就任し、当時の社長三越得右衛門氏を援けて一大整理を断行して、拮据経営大に社運の挽回に努め、二十六年一月社長三越氏の退社するに及び、其後を襲ひて取締役社長に就任せり。
 新に中上川氏を社長に戴ける鐘淵紡績会社は、生気頓に加はり明治二十六年には拡張の第一着手として資本金五拾万円の増資を行ひ、第二工場の増設を企つるに至れり。第二工場は錘数を一万とし、平均三十番手の紡出に充つる予定にて、専務取締役朝吹英二氏主として之が建設に関する指揮監督に任ぜり。
○中略
 斯くて第二工場の建築も漸く竣工するに及び、近々機械の据付に着手せんとするに至りしが、夙に紡績業の将来有望なるに嘱目し、斯業に対し遠大なる抱負を有せる中上川氏は到底斯る小規模のものを以て甘ずる能はず。更に朝吹氏等と謀りて第二次の拡張を断行するに至れり。然るに東京工場所在地の地盤は充分強固ならずして、工場建設地としては適当ならざるのみならず、将来紡績業の発達す可き天地は当さに関西にあるべきを観破せる同氏は、之れが敷地を山陽鉄道の沿線に求めんとし、頻りに同地方に於て諸所を詮索せるに、偶々兵庫和田岬の附近に吉田新田と称する土地あるを聞き、直ちに地質学の泰斗巨智部博士をして該地の地質につき詳密なる取調をなさしめたるに、其取調の結果同地の地質は頻る堅固にして、斯くの如き良好なる地盤は我国中唯九州の一部に之を見るのみにして工場建設地としては蓋し最も理想的のものなる可きを信ずとの報告を得たるを以て、愈実地踏査の上、海陸運輸交通の便否及び職工事情等に関し、詳細の調査を為したるに、是亦紡績工場建設地として頗る適当なるを認め、玆に始めて該地を相し、工場の建築に着手する事とはなれり。是れ実に現在兵庫第一工場の濫觴なり。
○下略