デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
6節 製紙業
1款 抄紙会社・製紙会社・王子製紙株式会社
■綱文

第11巻 p.108-120(DK110018k) ページ画像

明治35年4月(1902年)

是月栄一、当会社善後策ニ関シテ井上馨・朝吹英二・早川千吉郎・益田孝・大川平三郎等ト謀ル所アリ。尋イデ七月ニ至リ、鈴木梅四郎専務取締役ニ就任シ、ソノ財政整理案ヲ翌三十六年一月ノ株主総会ニ提出セントシテ、先ヅ三井家ノ賛意ヲ得ントセシモ果サズ。仍ツテ該案ヲ栄一ニ示シテ援助ヲ請フ。栄一コレヲ認メテ尽力ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK110018k-0001)
第11巻 p.108-109 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三五年
二月六日 曇
昨日ヨリノ風邪快方セス、午前八時寝ヲ離レテ病褥ニ於テ静養ス、十時大川平三郎来ル、尾高次郎ノ身上ニ関シテ談話シ、且四日市製紙会社・王子製紙会社ノ件ヲ談ス○下略
四月八日 晴
午前八時朝飧ヲ畢ル、九時兜町事務所ニ抵リ朝吹英二ト大川平三郎ト共ニ王子製紙会社善後ノ策ヲ講究ス○下略
四月十六日 晴
○上略十一時銀行倶楽部ニ抵リ湖南汽船会社設立ノコトヲ談ス、畢テ早川・潮吹両氏ト王子製紙会社ノコトヲ協議ス、午後三時兜町ニ抵リ大川平三郎氏ト王子製紙会社ノコトヲ談シ○下略
四月十八日 陰夜雨
午前○中略大川平三郎来ル、王子製紙会社ノコトヲ談ス、十一時兜町事務所ニ抵ル、来訪人頗ル多シ、午後三時麻布井上伯邸ニ抵ル、早川千吉郎・益田孝二氏ト共ニ製紙会社善後策ヲ講ス○下略
四月廿七日 曇
午前○中略中井三郎兵衛来ル、王子製紙会社善後ノ策ニ付テ種々ノ談話ヲ為ス○下略
五月三日 晴
 - 第11巻 p.109 -ページ画像 
午前○中略大川平三郎来リ王子製紙会社ノコトヲ談ス○下略


渋沢栄一 書翰 井上馨宛(明治三五年)四月一九日(DK110018k-0002)
第11巻 p.109 ページ画像

渋沢栄一 書翰 井上馨宛(明治三五年)四月一九日
                    (井上侯爵家所蔵)
奉啓、昨夜之御心入之送別会御開被下、小生一身之光栄無此上次第ニて深く感謝仕候
王子製紙会社善後策ニ付而ハ今朝尚又大川ニ面会、種々申談候処、幸ニ閣下九州より之御帰途実地御一覧と申事ニ候ハヽ、其際ニ御共いたし向後改良之見込、又ハ営業上之手続まで詳細現場ニ就て申上度、就而ハ其都合相伺候旁、今一応拝眉相願度と申事ニて即電話ニて相伺、明日午前九時参上之筈ニ御坐候、御接見百事御示諭可被下候、昨夜御内示之事共も詳細ニ申示置候ニ付、是又御聞上可被下候
又朝吹とも右件ニ付面会候処、同人も昨夜小生等打合候方法ニ不同意ハ無之候得共、将来大川をして事業之担当為致候ニ付而ハ、其相手ニ相立候人ハ精々適当之もの撰定致度と申居候、是等も御熟考之程願上候
右之段不取敢一書申上候 匆々不一
  四月十九日
                     渋沢栄一
    井上老閣
       虎皮下
   ○明治三十五年五月十五日、栄一欧米視察ノ途ニ上ル、井上邸ニ於ケルソノ送別会ハ四月十八日ナリシナリ。「五時ヨリ桂総理大臣・芳川逓信・曾根大蔵・小林外務ノ各大臣等来会ス。日本銀行総裁・岩崎・大倉・園田・高橋・三崎等ノ諸氏モ来ル。蓋シ井上伯此日ヲ以テ余ノ旅行ヲ送別スル為メ諸友ヲ集メテ開宴セラルヽナリ云々」ト当日ノ日記ニ見ユ。一〇月三〇日帰朝ス。


渋沢栄一 書翰 井上馨宛(明治三五年)五月一一日(DK110018k-0003)
第11巻 p.109-110 ページ画像

渋沢栄一 書翰 井上馨宛(明治三五年)五月一一日
                    (井上侯爵家所蔵)
○上略
王子製紙会社営業改革之義ニ付而ハ、過日馬越恭平氏へ内話いたし、御旅行先ニて拝眉其段申上候由、昨日同氏拙宅へ被参詳細御伝語も拝承仕候、又早川千吉郎も過日出立ニ付一言申添置候、定而御聞上被下候義と存候、大川も本月末ニハ中部へ罷越、実地之模様篤と調査いたし且其前ニ王子も気田も一覧し、三工場共ニ改良之方案を可成慎重ニ取調、弥見込相立候ハヽ夫を老閣へ陳上し、其上之御指揮相待申上候心得ニ御坐候、尤も先頃重立たる株主五・六人拙宅へ会し、同会社将来営業改善ニ付相談候処ニてハ種々之意見も有之、統一も致兼候得共、詰りハ老閣ニ於て内々たりとも御心添被下候上ハ、夫々御依頼申上度といふハ異口同音ニ御坐候間、其辺御承引可被下候、只大川をして技術長として向後充分之手腕を尽さしめ候ニハ、会社重役之組織ニ余程御注意被下、行掛之感情全く打破いたし候様ニ無之てハ、或ハ中途ニ又種々之面倒可相生歟と懸念仕候、右等ニ付而ハ馬越氏ハ傍観者
 - 第11巻 p.110 -ページ画像 
之位地ニ相立候人ニて、従来之事情も熟知し、大川之性行人物も心得居られ候義ニ付、詳細ニ愚考申談置候、何卒御聞上恰好之御配算奉祈候
右等内々申上置度、一書奉得芳意候、匆々拝具
  五月十一日              渋沢栄一
    井上老閣 待史


渋沢栄一 日記 明治三五年(DK110018k-0004)
第11巻 p.110 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三五年
十一月三日 曇
午前七時朝飧ヲ畢り、直ニ王子別荘ニ抵ル、大川平三郎来話ス、王子製紙会社麦酒会社等ノコトヲ詳話ス○下略
十一月三十日 晴
午前九時製紙会社ノ善後策ニ付、鈴木・郷・大橋・中井ノ諸氏来話ス法案ニ関スル条項ヲ協議ス、追テ三井銀行ニ請求ノ後尚細議スベキコトトス○下略
十二月十日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ、谷・中井両氏王子製紙会社ノコトニ関シテ来訪セラル○中略此日郵船会社ニ於テ三井銀行早川・朝吹両氏ニ面会ス・王子製紙会社ノ善後策ヲ協議ス
十二月十二日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ九時兜町ニ抵リテ大橋・郷・中井・沢田ノ諸氏ト王子製紙会社のコトヲ談ス○中略午後○中略三井銀行ニ抵リ、早川・朝吹両氏ト王子製紙会社ノコトヲ談ス○下略


渋沢栄一 日記 明治三六年(DK110018k-0005)
第11巻 p.110 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三六年
一月十一日 晴
○上略 王子製紙会社ノ要務ニ関シ筑紫三郎ナル者来ル、同会社ノ株主総会ヲ来ル三十一日開設スベキ協議ノ為ナリ○下略
一月廿七日 雨
○上略 午前○中略銀行集会所ニ抵リ王子製紙会社株主総会ニ出席ス○下略
二月十八日 晴
○上略 午後五時三井倶楽部ニ抵リ製紙会社ノコトヲ談ス、鈴木梅四郎・沢田俊三来会ス○下略


中上川彦次郎君伝記資料 補 第六七―八六頁〔昭和二年一〇月〕 【専務取締役鈴木梅四郎君之演説】(DK110018k-0006)
第11巻 p.110-115 ページ画像

中上川彦次郎君伝記資料 補 第六七―八六頁〔昭和二年一〇月〕
    専務取締役鈴木梅四郎君之演説
                明治四十二年十一月十三日 於王子製紙株式会社臨時株主総会議場
○上略
先つ事の順序と致しまして、専務取締役に就任の栄を汚すに至りました次第を申述へますると、明治三十五年初夏の頃であります、当会社の状態頗る悲運に傾きまして、事業の首脳たるべき専務者は、既に辞して他へ転したと申す様な次第でありまして、多忙なる朝吹氏に於かれまして、不取敢是れが摂理中でありましたけれとも、這は全く一時の事でありまして、此際専ら後任者の選択に苦心せられました結果、
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朝吹英二氏は当会社側を代表され、早川千吉郎氏は当会社の大株主及ひ大債権者たる三井家を代表されまして、共に懇切に私に向つて就任を勧誘せられたのであります、然るに当時私は、三井銀行の神戸支店長でありまして工業の事は全く門外漢であります、学校を出ましてから八年間新聞事業に従事し、後八年間銀行業に従事致しました経験があるのみであります、故に若し経験上得る所が有つたとすれは私は新聞事業か、銀行業の事のみで、外には何物も会得したる所はない、夫れ故に全く無経験なる殊に困難多き製紙事業に関しましては、実際に何等の智識も無い私が、之に従事すると云ふ自信は如何に考へても起らぬ、夫れで折角懇切なる御勧誘でありましたけれとも、一旦之を御断り致しました、然るに両君より尚も重ねて懇篤なる勧誘を受け其他三井部内の知己、先輩等よりも懇切なる勧誘がありましたに依て、無経験なる私に、斯く迄其就任を勧めらるゝは誠に信頼の厚い事と、深く其芳意を謝しまして、然らば書類に就て一通り会社の状態を調査し、其上にて諾否の御答へを致しませうと云ふ事に約束しまして、即ち同年七月初めより約壱ケ月間調査致しました後、大株主たると同時に大債権者たる三井家が、私の提案条件(事業経営上の全権、道理ある要求の承諾、直接間接の後援)を承諾せらるゝならば就任致しませうと決答致しました、然るに三井家の代表者早川千吉郎氏も之を快諾せられ、又特に同家顧問の井上侯は年来当会社の事に心配せられましたから、早川千吉郎氏の紹介にて侯に面会し、右提案条件を以て親しく侯の御意見を伺ひました処、侯も之に賛成して下されまして、侯よりも切に私の就任を勧誘せられたのであります、併し玆に私が此決心を致しましたのは、当時此会社の事業に対して望みのありました訳ではありませぬ、一ケ月間昼夜兼行にて調査致しました其状態は、予て噂に聞きしよりも又想像せしよりも尚一層不良でありまして、全く手の付け様もない有様なので会社としての存立は到底絶望の悲境に陥て居りまして、不良・危険・悲運の状態が殆んど共に極点に達して居り、此見地から申すと正に絶対無二の標本でありまして、他に類例のないものを観取しました、そこで私の平正の性癖でありまする「人の六ケ敷と云ふものならば何でも一つ遣つて見様」と云ふ、一種の気性に投合しました結果、壮年の鋭気ムラムラと起りまして、提案条件さへ聴かるればと云ふ、一種の動機に基きましたもので、其当時は敢て前途に何等成功の見込を持ていたのではありませぬ、全く運を天に任せ唯心身の全力を尽しまして、此難物の標本である事業の整理に当つて見ようと云ふ、好奇心に外なかつたのであります、夫れから今一つの動機は若し整理の結果相当の成績を挙ぐることを得たならば、早川千吉郎氏が私に説かれました言句中に所謂製紙業の為めにも、将た国家産業発展の為めにも微功を立て得らるゝであらうと云ふ空想を懐いて居つたのに過ぎませぬ、然らば不良危険・悲運の極点に達して、所謂難物の標本的として始めて私の眼に映じたる会社の状態は果して如何でありましたかと申すに、今簡単に其の要点を挙げますると
第一、資本金は弐百万円の払込済でありまするけれども、営業上の損失打続き弐拾余年間光栄ある歴史と共に積立てられました積立金の全
 - 第11巻 p.112 -ページ画像 
部を損失の償却に補足しても、尚不足致しまして繰越損失金が拾八万余円あります、それから借入金は無担保の融通手形にて金壱百参拾余万円の外、勧業銀行・保険会社其他にて四拾余万円合計約壱百八拾参万円ありまして、殆んと資本と同額に達して居るのであります
第二、製造品は停滞して居りまして其金額五拾余万円已上而かも其品質は市場の排斤を受けて売行頗る面白くありませぬ、現に五年越の製品、即ち中部工場開業当時の創製品や、気田工場の売行遠き雑紙類も其中に沢山ありまして、事業発展の上に最も肝要である製品の販路は斯様に光景惨憺たるものでありました
第三、会社の信用程度はと申せば一銭の金も最早や信用を以て借入るる事は出来ませず、当会社とは兄弟以上の関係ある三井銀行すら会社存立の運命を支配しまする月々支弁の営業費に付て金談を致しましても聞入れて呉れませず、百方懇請の上ヤツト承諾を得まして製品を三井倉庫に入れ、之を抵当にしまして日歩三銭四五厘の高利を支払て借入致しました様な始末で、それも金高には勿論制限がありまして四五万円以上は駄目なのであります、是等の借金は、倉敷料とを加算しますと、慥か日歩四銭近くの利息に当つて居る計算を記憶致します
第四、工場及ひ機械は如何と申しますに、是さへ成功すれは会社は百事面目を改め得へしと期待されました中部工場は、家屋機械共に最新のものでありまするけれども、工事竣功開業後三ケ年を経まして尚毎期に操業上損失を免れないのであります、年々の水害に原料材を流失しまするのみならず、工場の運転停止頻々相続きまして、現に私の取調中でありました三十五年の七月中は停止又停止の報告を重ねまして一ケ月僅かに五六日の操業を致したに過きませぬ、当時金百四拾万円と云ふ大資本を投じました右の新工場は開業以後三年の実験を経まして、操業は弥々損失を重ねるのみと云ふ断定を下すの已むなき有様となり、社中株主は勿論社外の人までも中部は閉鎖して他に移す方が得策であるなどとさへ申しました様の次第であります、次に気田工場はと申せば此工場は元来王子工場創業の際に買入れました、老機械を移したものでありまするから製造力は已に全く衰へまして、数年前より最早営業に役立つものではありませぬ、木樋の水路も既に腐朽しまして、余命旦夕に迫り少くとも金参拾四五万円を投じませねば、略ぼ完全なる工場にならぬと云ふ状況でありました
夫れから王子工場の方は建物及ひ機械とも、相当でありまするけれども、四五年来会社の全力は中部に注がれまして他の工場は省みられなんだ結果、修繕の手後れとなりました所が沢山に出来ましたのみならず、第一工場の滊機は其当時既に三十年前の買入れに係る老朽のものでありまして、動力大に欠乏して居りまするし又第二工場の滊機及ひ抄紙機は何れも土台腐朽の為めに傾斜しまして、据替の手遅れとなつて居ると云ふ有様であり、且つ滊缶の如きも警視庁検査の結果危険であると云つて、或は使用を差止められ、或は使用を制限せらるゝと云ふ始末で、専門家は日々の操業すら危険であると申した位ゐであります
第五、偖又会社事業の第一要素でありまする職員・職工等の状態は如
 - 第11巻 p.113 -ページ画像 
何なりしかと申すに、其任用及び配合等、宜きを得さるものがありました上に、営業の成績方の如く年々歳々不良であり、且又会社の首脳者である専務者の浮足、次で其欠員久しきに亘りました為めに、人心の沮喪其極に達しまして誠実なる者は勇気を損して徒らに会社の為めに嘆息するのみでありまするし、機敏なる者は他に転じて身の方向を改め不良なる者は所在奸を為すと云ふ始末でありまして、何れの点から見ましても亡社の社中たるを免れぬと云ふ有様でありまして、此重要なる使用人の状態亦実に不良の極点に達して居つたのであります
以上の如き次第でありまして如何に克く見ましても会社生存の見込は無かつたのであります、昨今日糖会社の如き評判の難物でありますけれども新聞紙の所報に大差なしと致しますれば、当時の我社に比べますれば其悪さ加減は遥かに後輩でありまして、遠く及ばない位であります
斯様な状態である会社へ入りまして専務取締役となりましたのは、実に三十五年七月二十六日であります、いよいよ入社致しまして第一に何れの処に手を着けましたかと申すに、抑も事業の成功は主として社員の協力勉強に待たねばならぬと信じましたるに因り、先づ此点に向つて工夫を凝らしました、而して其手段と致しまして社規の振粛を謀り、人心の鼓舞に勗め内視を改正し、各工場及ひ本社共に主任者の更迭を行ひまして人心を新に致し、社規を励行しまして、賞罰を明かにし、上は支配人より下は職工人夫に至りまする迄上下心を一にして社務に服せしむるの希望でありまして、是れが為めには隔月に自ら草鞋掛にて各工場を巡回致し、親しく職員、工頭等に面接しまして意見を吐露致し、各主任者は勿論職員一般へ通達致しまして社務改革の意見を徴する抔あらゆる方法を尽くしました
偖て工場の有様は前に申述へました様な次第でありまするから、如何に修繕を加へ如何に改良を施すへきかと云ふ事は最も大切な問題でありましたに因て、会社の顧問技師である高辻奈良造・吉川三次郎両氏を始め、社員の重もなるものを挙けて委員と致しまして、各工場に就て精細の取調を致しました、即ち約四ケ月の後に得ました所の成按は次に述へまする通りであります
先づ第一に中部工場 は天竜川の水量十五尺に達しますると、即ち水路を閉ぢて操業を休止せねばならぬ始末でありますから、水量十七尺迄操業し得られまする様に水路の隧道口を改修して鉄板を張り、同時に水の流通を便利ならしむる為めに隧道内左右の壁を煉瓦に致し其底を混凝土に改め、隧道と工場との間の水路は木樋でありますから両三年毎に取替ねばならぬと云ふ不利益がありますに因て、之を堅固なる開渠と致しまして永久的の水路と致し、又此工事の期間二ケ月中に工場内の機械其他一切の修繕を施す事としまして、此工費予算金八万円を要するの計算となりました
次に気田工場は「ハーパーマシン」一台を購入新設の上、水路及ひ工場一切の面目を改むるの計画に致しました、其訳は現状の儘にして置きましては到底営業の成績見込なしと云ふ事に決しました次第で、此工費は約参拾五万円の予算であります
 - 第11巻 p.114 -ページ画像 
最後に王子工場 は如何と申すに修繕最も困難である、殊に第一工場の如きは動力の設備全く老朽して滊機・滊缶の新設を要しまする等工費約参拾余万円を要する計算でありますけれども、資金を始めと致しまして営業上の都合もありまするから、完全の改修工事は中部・気田両工場の修繕を終りまして、社業一通り緒に着きました上の事と致しまして、第二工場の機械並に滊機の据替のみを急速に実行する事と致しまして、此工費八千円の予算となりました
以上三工場の修繕費予算は右の如くして実に約四拾五万円を要するの計算となりました
偖て又同時に着手したる財政整理の方は如何と云ふに、三工場に就きまして精細の調査を遂けました所、種々の事情に因りまして会社の資産勘定は実価以上非常に膨張して居りまするし、其他原料・薪材・貯蔵品等の損耗も少なくないのであります、結局三工場の固定資産は金壱百拾万八千百四拾六円八拾壱銭、貯蔵品は金拾万参千七百拾六円七拾九銭、営業上の損失当期の分を併せて金弐拾八万八千六百拾四円参拾壱銭合計金壱百五拾万四百九拾七円九拾壱銭の欠損である事を発見致しましたに因て、財政の整理案は左の如く立案致しました
 一 資本金金弐百万円の中、壱百五拾万円を切捨てゝ金五拾万円とする事
 二 右施行の上は新に金壱百五拾万円の増資を為して融通手形及ひ其他至急を要する借入金の返済を為す事、併し是れは三井からの借金を株金に振替へる考なのでありました
 三 新に金参拾五万円を三井銀行より借入れ、三工場改修の資金と為す事(総工費四拾五万円の内拾万円は製品を売却して得る見込みにて差引金参拾五万円となるのであります)
右の方法を立つるが為めに約半年を費しまして三十五年の下期を送るに至りました、仍て翌年一月の株主総会に提出致しまして之を決行致さうと思ひまして、先つ大株主兼大債権者たる、三井家に提按しまして、百方勧説に努めましたけれども、元来が困難なる問題でありまするから容易に談が纏りませぬ、尤も三井の立場から見ますると其当時所有の当社株金約壱百弐拾万円は其四分の一即ち参拾万円に減じて欠損九拾万円となりまする上に、約束手形で一時的に融通しました金壱百参拾余万円と、他の担保附の貸金をも加へまして新に金壱百五拾万円の新株を持たねばならぬのでありますから、其容易に承諾を与へて呉れませぬのは当然の事であります、併し三井家にして之を承諾して呉れませねば会社の整理は玆に断念せねばなりませぬ、夫れでありますから百方交渉しましたが、中々の難問とて容易に要領を得ませぬから、遂に当社の創立者として永く社長でありました渋沢男爵に事の次第を申述べて其援助を乞ひ、共に三井家を勧説すると同時に又他の株主にも説かれん事を願ひました、男爵は右の整理按と共に工場の改修按を熟覧せられました後、ドーモ此按の外に途なしと云はれて、幸に同意せられ尚御多忙中に不拘、充分の援助を与へらるゝことを快諾せられました、斯くの如く三井の方面は内外両面より勧説に尽力しました末、宏量であり且産業の発達に熱心なる三井銀行の専務理事早川千吉郎氏は「日本製紙業の為めに将た又国家産業の発展の為めに、銀行
 - 第11巻 p.115 -ページ画像 
業者としては承諾をする事の出来ない要求を承諾する」と申されまして、漸く一道の光明を見る事を得るに至りました、併し「参拾五万円の工場改修費は貸出す訳に参らぬ」と申す事でありました、斯様にして渋沢男爵の尽力に依りまして三井の方は纏りしも此案は同僚中にも非常の不服者がありましたから、是亦男爵が主として百方勧説を致されまして漸く渋々の賛成を得ましたけれ共、玆に同僚の一人(今は故人である沢田君であります)は容易に承諾しませぬ、併し一人の不同意の為めに提出の時機を失する訳には参りませぬから、其儘一月の総会に提出致しました処、他の株主中にも随分八ケ間敷異論者がありました為めに、総会は非常の紛擾を来たし、会議を継続すること能はず、休会して懇談を重ねました結果、漸く多数決にて之を可決しました、実際此の財政整理按は世に稀なる荒療治であるに不拘見事に成立する事となりました(併し二名の株主は不服を唱へて訴訟を提起しましたけれども暫くにして落着致しました)
右の如くは財政の整理は私の理想通り成功しましたけれども、改修参拾五万円の借入は不成功でありましたに因て、頗る工事費の工夫に困却しました、然るに玆に愉快なる一の出来事は現状の儘では到底営業の見込なしと断定されました気田工場が、年末迄僅々二ケ月でありますけれ共、是れ迄に無い好成績を表はしまして、啻に損失の無いのみでなく、多少の利益を見るに至つた事であります、蓋し是は主任者を更迭し人心を鼓舞しまして熱心に操業せしめました結果であると信じます
それで此分ならば或は改修を急ぐに及ばず、尚今後数ケ月の成績を見ての後に致しても宜しいと云ふ感念を与ふるに至りました、前に述べました通り気田の機械は実に老朽であります、夫れにも不拘、製造高大に増加しまして従来未曾有である一ケ月四十万听の声を聞きます事二回でありまして、実に人心の鼓舞・振作、早く既に実務に顕はれて功果著しきものがありました、而して這は気田工場のみでなく中部も王子も、同一の傾向を来たしまして、改革の第一着手たる人心の鼓舞、上下一致の服務たる一要素は大に有望なることを示して非常に愉快に感じたのであります、右の次第でありましたから、比較的改修費の少ない中部工場と王子工場とに改修を加ふる事と致しまして、三十六年一月末先つ中部工場に着手しまして同五月中旬に落成しました、王子工場は中部の落成と同時に着手しまして、一ケ月を要しました、尤も工費は両方共多少予算は超過しまして中部が金九万余円(八万円の予算)王子が金壱万壱千余円(八千二百円の予算)此合計金拾万余円となりました、但其資金は予期の通り貯蔵製品の売却整理に依て得たものでありましたが、幸にして改修後の成績は予想の如く良好でありまして、製品も改良せられ市場の評価も少しく回復するに至りました、殊に愉快でありましたのは予て疑問として注目した気田工場も現状の儘で多少の利益を見得へき事がいよいよ確実となりまして、三十六年上半期の決算を致しました事であります、即入社後満一ケ年で三工場共多少の利益を得るに至りましたのは全く予想外の事でありました


中上川彦次郎君伝記資料 補 第八六―一〇二頁〔昭和二年一〇月〕 【専務取締役鈴木梅四郎君之演説】(DK110018k-0007)
第11巻 p.115-120 ページ画像

中上川彦次郎君伝記資料 補 第八六―一〇二頁〔昭和二年一〇月〕
 - 第11巻 p.116 -ページ画像 
    専務取締役鈴木梅四郎君之演説
                明治四十二年十一月十三日 於王子製紙株式会社臨時株主総会議場
○上略
 然るに此喜は全く一時の喜に過ぎなんだのであります、即ち今も尚ほ記憶して忘れませぬのは三十六年七月の初に、一ケ年間の成績と今後の見込を調へました好望なる資料を齎らしまして三井銀行社長三井高保殿に御目に掛り、事の次第を報告して帰りました其翌日即ち七月九日気田工場より来電、気田川の上流山崩の為めに水路の木樋七分通り流失、工場の浸水甚だしと報じて来た時の事であります、前日に三井高保殿に御目に掛つて好成績の御話を申上げたばかりでありますに乍ち此損害の報告が参りましたので実に慨然と嗟嘆致しました、但一刻も善後策が後れてはなりませぬから直ちに技師を率へまして同地へ出張致し詳細取調へました結果、水路の改修費及び工場の復旧費に約七万円を要する予算となりました。又工事も着手後約三ケ月を要する予定でありますから帰りまして其資金の調達を三井銀行に頼みましたが容易に要領を得ず結局拒絶せられました、そこで特に気田工場過去の成績を基礎としまして詳細の取調を致し七万円の放資は一ケ年半で回復すべき提按を具して、三井の首脳者である益田孝氏に訴へました処、同氏は其書類を一見もせずして之を投出され「製紙事業には懲り懲りしました、貴下の取調書は在つても書類は手加減で如何様にも出来るものであります、如何に熱心に御説きになつても此話は駄目である」と云はれまして剣もホロロの御返事実に失望を重ねました、蓋し私の入社後種々当惑の問題も沢山起りましたが此時程苦心致したことはありませぬ、云はゞ兄弟同様である三井銀行及び三井家から此改修費を借入るゝ事が出来ねば、気田工場は最早廃物とするの外ありませぬ、殊に其時は恰も一ケ年の営業成績に拠りまして同工場の有望である事を確信致しました際でありましたから、いよいよ会社の為めに改修着手を神速にせねばならぬと云ふ事を感じました際であり、それに社中の人心漸く奮起して事業に熱心勉強し来りたるもの是が為め挫折すべき恐あるは明白につき再三再四熟考の上、専務取締役としてはどうしても此儘に出来難しと覚悟しチト乱暴なりしも此際は独断を以て改修工事を決行し、資金は如何なる手段にても後にて工夫する事に決心しまして、大胆ではありましたけれども直ちに改修の用意を命じまして諸般の取調を致し、十月初旬工事を請負に付しました、後にて聞けば三井家にても王子の事業には克く克く此時愛想が尽きたと見へまして、気田工場を破壊の儘他に売却の議が起り、益田氏は現に其主張者であつて資金貸出の拒絶も実際是が為めであつたと云ふ事であります、然るに其後拒絶に次ぐ拒絶を以てせられましたに拘らず、幾度となく懇請しまして殆んど哀訴的に嘆願しま《(し脱カ)》た結果、益田・朝吹・団の元老三氏が親しく気田工場巡視と云ふ事になり、私は其同伴をして種種説明を致しました処、今迄とは少しく模様が変て来て夫れでは余儀ない事情であるから貸さうと云ふ御話になり、漸く三井家から借入の承諾を得まして同年十二月末無事工事を竣功せしめました、併しながら気田工場は此水害の為めに損失金実に二万七千余円を算するに至り
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ました蓋し此水害復旧は私が在職中最も苦心しました所で御座ります其処で三工場とも修繕出来上りまして始めて揃つて操業を為し得ましたのは実に明治三十七年一月以来の事であります、此に於きまして本年こそは相当の成績を挙げ絶へて久しき純益金を得て株主諸君にも若干の配当を致さうと思ひ、又社中の人心も大に元気附き上下一致して精励事に当りましたに因て、上期に於ては前期繰越の損失を償ひ下期には慥かに相当の目的を達すべき見込が立ちました処、何ぞ図らん同年七月九日中部より来電、天竜川増水五十八尺工場全部浸水床上十一尺であるとの報であります、夫れのみならず尚後報に多数の紙材及び薪材を流水したとあるに加へて気田工場も同月十日復々大出水がありまして、工場の建物、貯材池、堤塘大破損、又天竜川出張所も洪水の為めに製品の多量を濡らしました、其損害、中部弐万壱千余円、気田四万四千四百余円、天竜川壱万弐千四百余円合計七万八千余円でありまして、遂に折角の希望を空しくするに至りました
右の如く明治三十七年も亦水害の為めに大損害を受けましたけれ共、其期の利益に依て其損失を補塡し得る迄に工場の成績良好となりましたに因て、三十八年の上半期は多分相当の配当を為し得る事と堅く信じて居りました処、如何なる悪運か同年三月九日其筋の検査を受けました処、王子工場の滊缶八本は全部使用を禁ぜられ第一・第二両工場とも運転休止の不幸を見るに至りました、是れは当時恰も日露戦争中で陸軍の板橋火薬製造所に於きまして盛に火薬を製造致し、而して其設備不充分の為めに製造用の硫酸をドシドシ当会社の用水路へ放流致しました結果、其酸性の為めに右の滊缶は全部腐蝕されて仕舞つたのであります、併し斯くて止むべきでありませぬから直ちに復旧工事の設計を立て、滊缶の取替に着争致しますると同時に予て宿題であつた第一工場の動力工事をも併せて着手する事に決定しまして、工費金参拾壱万六千余円を投ずることにしまして酸害復旧工事は同年十月下旬を以て全く落成して操業を開始し得るに至りました、又動力工場の新設工事は翌三十九年一月十一日に竣功致しました、尤も此工事費は如何にして得たかと申すに蓋し改革後の会社事業は幾度かの水害に遭遇しましたけれども、営業の成績は次第に好調を呈して参りまして製品の改良も其功を奏して販路の信用大に増加しましたと同時に、会社の信用も亦大に回復して来ましたに由て、此工事費は随分巨額でありましたに拘らず、従来の如く数度の拒絶に会はず両三度の交渉で三井家から低利を以て其過半額を借入るゝ事を得ました、併し此期も以上の次第で亦無配当に決するの已むを得ざる事となりました、玆に至りまして無配当を継続する事満三ケ年六期に及びました
偖て右の如く天災に天災を重ねました上、更に人為の災害を受けましたに因て、改革に着手しましてから、満三ケ年半の第七期に至りまして、始めて整理の功を奏しまして六朱の配当を致しました、此時には三工場とも最初に予期しました通り、改修工事を遂行しまして何れも現在の事情としましては稍完全に成りまして此上手入の必要なき迄に改良せしめました(工費通計五十万円余)、又職員職工の技術も大に増進致しました為めに、多少の災害は最早容易に回復するの力が出来まして、
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其後幾度か水害もあり又四十年の春には中部工場失火の為めに抄紙室外数室を烏有に帰せしめましたけれども、毎期的確に相当の純益を得るに至りまして、爾後拾万円内外の繰越金を為しつゝ次第に配当率を高め、六朱より進むで七朱、八朱となり、之を三期間継続するの盛況(其後配当率を引下げて六朱とし四朱としたるは北海道工事毎期に進捗して新株の払込高次第に増加したるが為めにて、旧三工場の利益を以て旧資本に配当するものとすれば八朱の継続は勿論積立金も相当に為し得たるは明白なり)に至りましたのは、全く望外の事でありまして整理革新の事業玆に至て全く堅実に成功したものと云てよろしからうと思ひます、然し此の永き間に株主諸君の忍耐と、事に当りました多数職員の辛労とに対しましては、深く厚く謝するところであります
偖て改革整理の事業は株主諸君の忍耐と多数職員の苦辛とに依り、玆に成功しましたけれども、当局者として実際の形勢事情を看察しますと、此成功に依りて、会社の生命は前途長久に安全であるとは申し難ひ、否長久の安全どころではない会社の大弱点は其生命に限り在るので、到底永久に今日の盛況を持続することは出来ないのであります、何となれば気田・中部の両工場は右の如く水害頻々たる事実のあるのみならず、其原料材に限りがありまして実は安全なる土台を以てすれば、両工場の生命は十ケ年の上に出でざる次第にて永く有利の営業を為し得ないのは明白の事理であるからであります、夫れで今に於て適当の地を卜し永久に有望なる新工場を設立せんければ、会社の生命をして五十年百年以上に保たしむる事は出来ないのであります、又斯くせねば永く苦心に苦心を重ねたる改革整理の功も、実は其半に過ぎずと云はねばなりませぬ、此に於きまして明治三十六年以来新工場地に就て内地の諸所を調査研究しましたが容易に適当なる所を発見致しませぬ、仍て遂に三十七年九月北海道に渡りまして、其六ケ国を跋渉致し、幾多の候補地を探検しまして始めて理想に近き土地を発見する事を得ましたから、会社の為め窃に大に喜びました事であります、如此幾多の苦辛によりまして玆に理想に近き場所を得ましたけれども、之を実行しまするのは中々の困難事業であります、併しながら会社に永く生命を与へて永遠の大計を立る上に於きましては、困難の事業であるからと云て此儘に止むべきではありませぬ、仍て直ちに苫小牧工場建設の計画を企てました処、三十七年の末、日露戦争の最中其設計大略出来まして工費約四百万円を投じますれば新設し得べき見込が立ましたに由て、按を具して又々三井の益田孝氏に面会しまして其賛成を乞ひました、然るに予て覚悟は致せしものゝ益田氏は案の大体を一覧して、直ちに断按を下され「四百万円は三井にとりても非常の大金である、貴下如何に熱心に主張せらるゝも容易に承諾は出来ませぬ、断然此義を思ひ止りて再び提議せない事を乞ふ」と申されまして、最早取付くべき術もなく其儘に引取りました、然しながら先年気田事件已来の実験もありますし殊に益田氏は頭脳明晰なる方でありまして、利害得失には殊更に鋭敏なると同時に時運来ればサツサと前説を改むるに吝ならざる人でありますから、此排斥に会ひましても此度は左程失望も致さず、時機を得て是非三井家を説落して本意を達したひと思て居りました、蓋し此新工事の大計画に関し斯様に深く決心致し、万難
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を排しても成功させたいと思ひましたのは、単に我会社に新生命を与へたいと云ふ会社本位のみから出た理由ではありませぬ、抑日本の製紙事業は頗る幼稚であつて、常に海外の圧迫を受け何れの会社も薄利にして事業振はず、頗る不利の地位に立ちて居りますから、国家の産業上より観察しまして是非とも之を隆盛にせねばならぬ必要があるに其事業が実際困難が多くて利益の少いものであつて、而かも国家の産業に関する此種の工業は三井家の如き大富豪の手に於て計画する事が実際必要であると信じました為めであります、即ち此公私の感念に駈られまして素志いよいよ堅く、是非遂行の確信を以て事に当りまして彼の最も必要である工場用動力の水利権と原料材払下の請願とは、時の同僚に賛成を乞ひまして兎も角各自個人の名義にて官庁の認可を受け、広大なる工場敷地の如きも変則的に個人の名を用いて払下を受け又は買収を為した次第であります、そうして是れと同時に更に工場の設計に対する精細なる調書を作りまして、再三再四例の拒絶を受けながら屈せずして説明勧誘を致しました(同僚中の有力者中には三井の同意を得ること容易ならされば全く別会社にして事業に着手すべし、と熱心に主張せらるる人ありて其案も具体的にて、当時小生さへ同意せば容易に成立せしと雖も、当会社に永久の生命を与へて社業永遠の基礎を立つること年来の宿志なりしを以て、其次第を説明したるに然らば成立後必らず王子と合併の条件にて経営すべしと迄勧誘せられたり、然れども余は必ず遠からず三井をして同意せしむべきにつき当分御任せありたし、若し、いよいよ三井の同意を得るの見込なき時は貴説に従ふべしとて、深く其好意を謝し、同時に更に三井の当局者を説くことに全力を尽したるなり)
然るに恰も好し、三十九年の夏即ち提議後三年目に至り経済界の順潮と世上景気回復の時運に会しまして、此重大なる提議も幾多の曲折を経て遂に三井家に採用せらるゝ事となり、始めは反対でありました益田氏の如きも此時には最も賛成の熱心家となられまして、当初個人の名義にて獲得しました水利権、官林払下権の如きも、無償にて迅速に之を会社名義に改め早く新工事に着手せよとの厳促をせらるる迄に至りました(益田氏の此厳重なる申出ありしは其理由なきにあらず、当時同志者の獲得せる水利権と木材払下権とは、実際有望のものたること証明せられ、現に同志の一人たる当時の三井物産会社札幌支店長小田良治氏は水力権のみにて外国人中壱百万円位にて引受くる人ありと主唱したればなり、余は今日に於てもアノ水利権、アノ広大なる土地、アノ木材払下権を具備せる事業に対し、米国抔の同業者に加盟を談せば必ず実際投資已上弐百万円已上の権利を承認すべきを疑はず三井家を代表したる益田氏の申出決して謂れなきにあらざるなり)仍て同年十月臨時株主総会を開きまして四百万円増資の決議を得ました、そこで予て得置きました右の水利権、及び山林払下等の請願権並に広大なる工場敷地、其他の買収地、諸権利等一切無償にて会社名義に移し玆に初めて素志を貫徹致し、会社をして永久の生命あらしむるの基礎を建つることを得ました、此時の愉快は実に言語に絶する程でありました(此無償譲渡に関しても同志者中に種々の説あり、相当の代価を定めて会社より出金せしめ、功労に比例して同志者に分つこと至当なりとの論最も有力なりしが余は最初より会社の為めにせしものにつき、此際は無償にて譲渡し報償問題は追て事業成功の上にすることに一任せられたしと主張して遂に其承諾を得たる次第なり)
偖て永年の希望を達しまして、増資の決議を得ますると同時に直ちに技師長高田直屹及び顧問技師岸敬二郎氏を米国に派遣致し、水力事業及び製紙事業最新の実況を調査せしめました結果、最新式の建設と致しまする為めに当初の設計に変更を加へまして、其規模を大にし且つ其建築物も永久保全の為めに鉄骨煉瓦と致しました等に因り、工費が大分に増加致しました、併し是れは総ての設計総ての工事何れも会社の永遠の為めを図りました為めで、是れが為めに殆んど理想に近き工場が出来る事となりまして着手以来已に四ケ年此間当局役員の苦心、社
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員の奮闘、容易ならぬ難問題もありましたけれども、一々之を排して工事を進捗せしめ、特に資金の如きも先刻申上げたる如く大不足を来して居りますけれども、一切是れは三井家筋より臨時又は定期にて已に借入れまして、其高今は金参百弐拾余万円に達し居る程でありますが、幸に今や其工事も九分通り成功しまして、残るは機械据付の一部分に過ぎないので、近く明年早々には「パルプ」の製造を開始し抄紙機の運転も来年の五六月頃には開始し得らるゝ見込であります、此に於て会社は初めて日本一の製紙会社たるのみならずスエズ以東に無いのは勿論欧羅巴にも数多くない、完全にして宏大なる工場を有すると同時に、日本製紙界に大革命を起し、一方には外国紙の輸入を防圧し他方には内地市場の大勢を制御しまして、玆に光輝ある事業の発展を確実にすることを得るに至り年来の宿志全く玆に成就したと申して差支なしと存じます○下略