デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
6節 製紙業
2款 四日市製紙株式会社
■綱文

第11巻 p.121-124(DK110020k) ページ画像

明治20年12月(1887年)

是月、三重県四日市浜町、四日市工業会社ノ紙質製造部ヲ独立セシメテ四日市製紙会社設立サル。栄一当社ノ株主タリシガ、設立以来援助スル所大ナリ。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第一三八頁 〔明治三三年六月〕(DK110020k-0001)
第11巻 p.121 ページ画像

青淵先生六十年史(再版) 第二巻・第一三八頁〔明治三三年六月〕
 ○第三十章 製紙業及印刷業
    第三節 四日市製紙会社
四日市製紙会社ハ同地工業会社ニ属スル紙質製造部ヲ分離シ、明治二十年十二月之ヲ設立シタルモノナリ、抑モ四日市工業会社ハ明治十九年十二月三重県下四日市浜町ニ設立シタルモノニシテ其目的ハ紙質製造並種油製造ノ工業ヲ専務トシ、此ノ工業ヨリ製作スル処ノ物品ヲ広ク内外ニ販売スルニアリシカ、明治二十年ニ至リ東京有恒社及京阪株主総代中井三郎兵衛並四日市工業会社ト協議シ、現在工業会社ニ属スル紙質製造部ヲ分離シ更ニ同製紙会社ヲ創立スルニ至リシナリ
同社ノ目的ハ専ラ洋紙及藁紙ヲ製造シ之ヲ販売スルニアリ、其資本額ハ七十五万円、現今其製紙高年々十八九万円ナリト云フ
同社ハ株式組織ニシテ青淵先生ハ同社株主ノ一人ナリ
   ○祭魚洞文庫所蔵図書中、右四日市製紙会社第六季(明治二三年七月―一二月)第七季(明治二四年一月―六月)考課状ノ存セルアリ。右ニヨレバ栄一ノ持株ハ四五株ニシテ、金額ハ四五〇〇円ナリ。


中外物価新報 第一六八四号〔明治二〇年一一月一一日〕 四日市製紙会社(DK110020k-0002)
第11巻 p.121 ページ画像

中外物価新報 第一六八四号〔明治二〇年一一月一一日〕
    四日市製紙会社
先頃より四日市地方へ出張中なる東京有恒社幹事高木要蔵氏は、今度同地の豪商にて工業会社(製紙の原料を製造する社なり)長なる水谷孫左衛門氏、並に同地紙商(王子製紙会社支店)中井三郎兵衛氏と相謀り、資本金十五万円を以て四日市に一大製紙会社を設立せんと計画中の処、東京其他各地方より株主たらんと申込むもの続々ありて、昨今は既に満株の好結果を得たるに付、近々の中四日市にて株主総会を開き、設立の手続等を協議する由、又製紙器械は本月中旬工業会社技術師玉木銀司、器械学士辻豹衛の二氏、米国に渡航して買入れる筈にて其器械据付の上は一ケ月の製紙高は廿二万四千封度に上るべき見込の由にて、開業は来年一月早々の筈なりと云ふ


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK110020k-0003)
第11巻 p.121 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三四年
六月六日 晴
○上略 大川平三郎来ル、四日市製紙会社ノコトヲ談ス○下略

 - 第11巻 p.122 -ページ画像 

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK110020k-0004)
第11巻 p.122 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三五年
二月六日 曇
○上略 十時大川平三郎来ル○中略四日市製紙会社・王子製紙会社ノ件ヲ談ス○下略
二月九日 晴
○上略 午前○中略大川平三郎来リ四日市製紙会社融通金ノコトヲ依頼セラル○下略


渋沢栄一 日記 明治三六年(DK110020k-0005)
第11巻 p.122 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三六年
六月十一日 雨
○上略 六時浜町常盤屋ニ抵リ、四日市製紙会社ノ招宴ニ出席ス、種々ノ余興アリ、夜十一時王子別荘ニ帰宿ス


渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK110020k-0006)
第11巻 p.122 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四〇年
三月十二日 曇暖 起床七時就蓐十一時三十分
起床後直ニ入浴シ畢テ朝飧ヲ為シ、食後四日市製紙会社ノ九鬼・重盛二氏来訪ニ接ス○下略


竜門雑誌 第三六一号・第七二頁〔大正七年六月二五日〕 渋沢男と四日市(DK110020k-0007)
第11巻 p.122 ページ画像

竜門雑誌 第三六一号・第七二頁〔大正七年六月二五日〕
    渋沢男と四日市
○上略
 此の外、四日市港に於ける事業として男爵の援護を蒙れるものに四日市製紙会社、四日市製油場あり、前者は明治十九年設立したる四日市工業会社より分離し、明治二十年十二月設立したるものにて、漸次発展し資本金二百五十万円に達して全国屈指の製紙会社となれるが、本会社の今日ある、蓋し男爵に負ふ所大なるが○下略
   ○右ハ五月七日「勢州毎日新聞」ニ掲載サレタルモノナリ。


大川平三郎君伝 (竹越与三郎編) 第二五九―二六八頁〔昭和一一年九月〕(DK110020k-0008)
第11巻 p.122-124 ページ画像

大川平三郎君伝 (竹越与三郎編) 第二五九―二六八頁〔昭和一一年九月〕
    第十二、四日市製紙と中央製紙
 大川君が猶ほ王子製紙会社に関係のあつた頃、四日市製紙会社の面倒を見て遺りつゝあつたことがある。四日市製紙会社は伊勢の四日市にあり、多額納税議員の木村誓太郎君が中心となつて八巻・九鬼・中井等いふ人々と共に資本金十五万円で明治二十年の暮設立したものであるが、工場の事が思ふやうに行かぬので大川君に依頼して工場を整理して貰つて居つた。それは大川君が第二回のアメリカ旅行から帰つて来た頃からである。大川君は一回二晩泊りで四日市へ出張すれば一回の報酬七十五円であつたが、当時の七十五円は今日の四五百円に当るほどの報酬である。当時は四日市に鉄道の便がなく名古屋から下車して小さい艀船に乗り、熱田の沖で百噸位の小蒸汽に乗りかへて四日市に行くのであつたから必ずしも過多の報酬ではなかつた。それのみならず大川医師が毎月一回来診する結果として四日市製紙会社は其の健康を回復して暫時の後に利益を生み出すやうになつたからである。かゝる関係から三十年の八月、大川君は四日市製紙会社の取締役の一
 - 第11巻 p.123 -ページ画像 
人となつた。そこで四日市製紙会社は愈々其の事業を拡張せんとして静岡県の富士川に近き芝川に分工場を建てることゝなつて、重役会議で其の事を決定した時、四日市の本社は自ら火災を起し、丸焼となつてしまつた。此の製紙会社は九万円の保険を附けて保険証書に判を捺す以前に火災が起り、一文の保険金も取り得なかつたから其処に財政の困難があるので、四日市の本社は之を再興せず分工場の予定地である芝川に工場を建設することゝなつた。
○中略
 大川君が明治三十一年王子製紙会社の本社と遠州の工場とを来往して三面六臂の働きをしてゐる間に王子製紙会社に革命が起つて、大川君は其処を去らねばならなくなつたことは已に前項に記したが、此の間大川君に四日市製紙会社に於ける関係は益々深くなり、初は工場の病気を診断し治療する医師として時々招聘せられる位の関係であつたものが、今や四日市製紙会社の工場全部、殆んど大川君の命令の下に動くやうになり其の勢力は社長以上に強盛となつた。そして王子製紙会社で同盟罷工の故に運命を共にした新井・両鈴木以下一党四十余人は、大川君の傘の下に入つて此の工場で働くことゝなつた。彼等は皆腕利きの連中であるから其の事業はメキメキと進行した。そして大川君は王子製紙に居つた時考案したるセメント張の竈三本を其処に築き上げたのであるが、其の竈の内張が出来上るまで大川君は自身で仕事を引受け、竈の中に二日間入り込んで居り食物の如きも上部より縄をつけて卸すといふほどの努力をした。之ぞ真に血の出るやうな働きであつた。斯くて此の工場が完全に出来上つたのは明治三十一年十二月であるが、大川君は程なく専務取締役となつた。
 大川君が四日市製紙の工場敷地として買ひ入れた芝川の土地は、芝川の支流が本流富士川にそゝぐ地点にあつて、水力を得るに絶好のものであつた。富士製紙は此方面にも拡張の準備として点々多数の土地を買ひ入れて居つたのであるが、大川君は左様な事は全然知らず、其の中心の地と水力を占領してしまつた。そこで富士製紙の連中は大に怒つて、之に報復すべく富士派は四日市側の買ひ入れた水路の敷地の中で、代金支払は済んで居るがまだ登記未了のものゝ持主二・三人を籠絡して二重売買を為さしめ、先んじて登記を了した。登記を先にしたものが土地の権利の先取権があるといふ法律の為めに四日市側は富士派に水路を遮断せられ、工事施行が不可能となつたが、四日市側は勿論之を承知しない。一旦代金支払済と知りつゝ、無智貪慾の輩を誘惑し、二重売買をしたのは他人の事業妨害の悪事なりと反抗し、ドシドシ工事を進行せしめ一時は百姓一揆の騒動を惹起し、不穏極まる事態に陥つたが、係争三年、遂に四日市製紙の全勝に帰したのである。此の事件から大川君の身にまた一個の災禍が纏絡して来た。
 当時富士製紙会社は河瀬秀治・村田一郎・色川誠一などの人々によつて経営されて居たが、其の中でも色川氏は所謂闘士的の人物で此の事に就いて大川君を憤怨して、何事に就いてか其の憤怨の情を洩らさんとして居る時、大川君は四日市製紙会社に対して新案を提出した。此の会社は火災以来財政は頗る豊でないので、大川君は節倹を勉めた
 - 第11巻 p.124 -ページ画像 
が、製産能力を増加するために四日市の本社で火災に罹つた機械を修繕して芝川工場に使用すれば、生産能力が増加して利益を得るであらう、それには七万円の財源を必要とするから増資したいといふのである。当時財政困難である会社の重役が之に就いて苦心してゐる内に富士製紙会社から誘惑の魔手が伸びて来た。大川君に対して深酷なる憤怨の情を畜ふる富士製紙の色川氏は、四日市の専務松岡忠四郎氏に対し四日市製紙と富士製紙は互に相競争してゐるが、其の工場は両者相隣接してゐる。此の際両者相合併するを利益とすることは明白である故に貴下の努力によりて両者相合併することが出来るならば、十五万円や二十万円の資金は富士製紙から支出しても可いふといふのである。此の間また重盛信近なる人が新たに専務となりたいといふ野心もあつて、社長以上の勢力を揮ふ大川一党を放逐したいといふ陰謀もあり、田中栄八郎君が山下亀三郎商店から石炭を買ひ入れてゐるのは怪しからん、山下は評判の男であり此の間に必ず不正の事があるに相違ないといふ事実無限《(根)》の捏造説を株主中に流布して攻撃したものであつた。
 斯くて七万五千円の増資問題は一転して大川放逐問題となり、重役が交交大川君に已めて貰ひたいといひ出した。大川君はかゝる陰謀の行はるゝを知らずに平然として居つた処へ、会社を已めて貰ひたいと言ひ出されて愕然としたが、静かに考ふる中に原因も略ぼ想像が着いた。此の会社が富士製紙会社に対して脅威となるのは大川君一党が居るからである。大川と放逐すれば工場能力を減退するであらう。工場能力が減退して会社の死活が問題となるとき安く買ひ取るつもりであらう。斯く原因の想定がつけば自ら之に処するの道がある。大川君は会社の重役に対して貴下等の要求通り会社は退くであらうから御安心を乞ふ。併しながら仕かけた仕事を中途にして放任して去ることは自分の良心が許さぬから、無報酬で働いても此の工場の設備を完備せねばならぬといつて、翌日から何事もなかつたが如く莞爾として笑つて工場へ出て、諸般の作業を進行せしめたのである。此の事は重役から社員職工に至る迄、総ての人々を驚嘆せしめてしまつた。
 斯く親切と誠意の火の塊を頭上から澆ぎかけられては如何に氷塊の如き心胸も暖まらざるを得なかつた。前項に記したる重盛氏は明治四十二年に至り、自ら専務となり、熊沢一衛君を誘引して書記長となし、程なく支配人とし更に専務となし、其の他其の党派を集めて中心勢力を造つたのであるが、重盛氏に引卒せられ新たに会計課長となりしもの、工務課長となりしもの皆な大川君の傘の下に随従してしまつたので、流石の重盛氏も遂に兜を脱ぎ、大川君が社長となるにあらずんば此の会社の破滅であると感じ、大川君に請うて社長たらしめたのである。斯くて四日市製紙会社は完全に大川君の統制に帰し相当の利益を生んで来た。