デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
6節 製紙業
3款 中央製紙株式会社
■綱文

第11巻 p.125-128(DK110021k) ページ画像

明治39年5月10日(1906年)

栄一、大川平三郎・田中栄八郎等ト共ニ岐阜県恵那郡中津町ニ製紙会社ヲ設立センコトヲ計画シ、是日発起人会ヲ開ク。後起業ノ不利ナルヲ見テ一時其計画ヲ延期ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三九年(DK110021k-0001)
第11巻 p.125 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三九年
五月十日 半晴 暖 起床七時就蓐十二時
○上略 午飧後事務所ニ抵リ○中略又中津川製紙工場設立ノ発起人《(会脱カ)》ヲ開ク、名古屋人・中津川人及大川・田中・中井ノ諸氏来会ス○下略
六月四日 雨 暖 起床七時三十分就蓐十一時三十分
起床後、滝兵右衛門氏来リテ中津川製紙会社ノコトヲ談ス○下略


中津製紙組合契約書(DK110021k-0002)
第11巻 p.125-127 ページ画像

中津製紙組合契約書 (王子製紙株式会社中津工場所蔵)
玆ニ連署スル各員ハ岐阜県下美濃国恵那郡中津町(大字中津川)ニ製紙所ヲ設立スルノ目的ヲ以テ組合ヲ設ケ、契約ヲ締結スル左ノ如シ
第一条 当組合ハ中津製紙組合ト称シ、名古屋ヨリ多治見又ハ釜戸ニ至ル間ニ於ケル中央鉄道ノ開通スルヲ期トシ、株式会社ヲ設立シ木紙製造及ヒ販売ノ事業ヲ起スヲ以テ目的トス
第二条 当組合ハ間鷲郎・菅井蠖両人カ中津川町長市岡政香ヨリ買入レ、之ヲ大川平三郎・田中栄八郎ニ転買ノ契約ヲ為シタル中津川町共有林ノ立木ヲ譲受ケ、之ヲ製紙材料ニ供用スルニ付、大川平三郎・田中栄八郎ハ該契約ニ依リテ得タル権利ヲ悉皆組合ニ引継キ、組合ハ前条ノ会社ヲ設立シ、其ノ契約ヲ履行スルコト
第三条 当組合ハ間鷲郎・菅井蠖カ酒井周太郎ヨリ買受ノ契約ヲ為シタル中津町(大字中津川)字尾外岩ノ地所ヲ引受ケ、之ヲ製紙所設立地ト定ムルニ付、間鷲郎・菅井蠖ハ該契約ヲ其儘当組合ニ引継クヘシ、当組合ハ契約ノ土地代金ヲ支払ヒ、之ヲ買収スヘシ
第四条 当組合ハ中津川ノ水力ヲ利用シ、機械ヲ運転スルノ計画ナルニ付、間鷲郎・菅井蠖ハ水力利用共有地使用等ニ関シ、中津川町長市岡政香トノ間ニ締結セル契約ニ依リテ得タル諸権利ヲ悉皆組合ニ引渡シ、組合ヲシテ故障ナク目的ヲ達セシムヘシ、之ニ対シテ菅井蠖・間鷲郎ハ別ニ要償ヲ為サヽルヘシ
第五条 大川平三郎・田中栄八郎・間鷲郎・菅井蠖等ハ山内立木及土地ノ買収等ニ関シ、左記ノ証書ニ依リテ得タル一切ノ権利義務ヲ其儘当組合ニ引継クモノトス
  別紙第一号証書、中津川町長市岡政香ト菅井蠖・間鷲郎両人ノ間ニ取結タル中津川町共有林立木ノ内椴栂二種売買契約書(明治二十九年八月二十八日附)
 - 第11巻 p.126 -ページ画像 
  別紙第二号証書、中津川町共有林立木ノ内第一号証書ニ於テ除木タリシ明檜・草槙・姫子松ノ三種ノ売買ニ付、中津川町長市岡政香ト菅井蠖・間鷲郎両人ノ間ニ取結ヒタル契約書(明治三十年三月二十一日附)
  別紙第三号証書、間鷲郎・菅井蠖ヨリ第一号証書ノ契約山林立木ヲ大川平三郎・田中栄八郎ヘ転売スルニ付、双方ノ間ニ取結タル契約書(明治三十年三月三日附)
  別紙第四号証書、第二号証書ノ三種立木売渡契約締結ノ後、菅井蠖・間鷲郎ト大川平三郎・田中栄八郎間ヘ取結タル副契約書(明治三十年四月一日附)
  別紙第五号証書、間鷲郎・菅井蠖ヨリ第一号証書ノ契約山林立木ヲ大川平三郎・田中栄八郎ヘ転売スルニ付、双方ノ間ニ取結タル契約書(明治三十一年一月二十三日附)
  別紙第六号証書、水利使用水路用地等ノ件ニ関シ、中津川町長市岡政香ト菅井蠖・間鷲郎ノ間ニ取結タル契約書(明治三十年七月十九日附)
  別紙第七号証書、工場敷地売買ニ付土地所有者酒井周太郎ト菅井蠖・間鷲郎ノ間ニ取結タル契約書(明治三十年八月二十八日附)
  別紙第八号証書、水路用地売買ニ付、土地所有者原亀吉ヨリ菅井蠖・間鷲郎ヘ差出シタル請書(明治三十年十月)
第六条 製紙所設立ニ要スル資本金ハ金参拾五万円ニシテ、其内当組合員ノ引受クヘキ金額割合左ノ如シ
    金五万円  大川平三郎
    金三万円  田中栄八郎
    金三万円  小西安兵衛
    金三万円  間鷲郎
    金三万円  菅井蠖
    金三万円  渋沢篤二
     合計金弐拾万円也
第七条 資本総額ノ内ヨリ第六条ノ組合員負担額ヲ控除シタル残高ハ起業ノ際ニ至リ、他ヨリ之ヲ募集ス
第八条 当組合ハ第六条ノ出資割合ニ準シテ金六千円ヲ醵出シ、山林工場敷地ノ買収其他一切ノ費用ニ充ツ
第九条 第八条ノ醵出金ニテ不足ヲ告クルノ場合ニハ、組合員協議ノ上、第六条ノ出資額ニ割合、更ニ出資ヲ為スコトアルヘシ
第十条 本契約第一条及第二条ニ従ヒ、株式組織ト改ムル場合ニ於テハ、其時迄ノ各員出資額ニ対シテ、新会社ヲシテ相当ノ利子ヲ支払ハシムヘシ
第十一条 当組合員ノ中ヨリ委員三名ヲ選挙シ、組合ノ財産保管及全体ノ事務ヲ委託ス
第十二条 委員ハ必要ナル事務員若ハ技術者ヲ雇入レ、工場設立ニ必要ナル準備ヲ為スヘシ
第十三条 委員ハ一月、七月ノ両度総会ヲ招集シ、各季間取扱タル事務ノ要領及計算ノ報告ヲ為スヘシ
 - 第11巻 p.127 -ページ画像 
第十四条 当組合ハ委員ノ必要ト認ムルトキ、又ハ組合員三名以上ノ請求アルトキ、総会ヲ開クモノトス
第十五条 総会ノ決議ハ出席員ノ過半数ニヨル、而シテ組合員ハ一名ニ付一個ノ議決権ヲ有ス
第十六条 当組合ノ損益共分ハ第六条出資額ノ割合ニ準スルモノトス
第十七条 此契約ハ組合員過半数ノ決議ニ依リ変更スルコトヲ得
第十八条 当組合ハ組合員過半数ノ決議ニ依リテ解散スルコトヲ得
右之通契約セシ事ヲ証スル為メ、各自記名調印スルモノ也
              東京市北豊島郡王子村十五番地
                      大川平三郎
              東京市北豊島郡王子村十五番地
                      田中栄八郎
              岐阜県恵那郡中津町大字中津川
                      菅井蠖
              同
                      間鷲郎
              東京市深川区福住町四番地
                      渋沢篤二
              東京市日本橋区伊勢町十六番地
                      小西安兵衛


渋沢栄一 書翰 菅井蠖・間鷲郎宛(明治三二年)六月四日(DK110021k-0003)
第11巻 p.127-128 ページ画像

渋沢栄一 書翰 菅井蠖・間鷲郎宛(明治三二年)六月四日(菅井大作氏所蔵)
各位益御清適御坐可被成奉賀候、然者過日御細書を以御申越相成候貴地製紙工場創設時期之事ハ、此程大川も帰京ニ付篤と面談仕候処、同人ニ於ても決而慢然と抛擲致候所存ハ無之、適当之時機ニ至らハ速ニ着手可仕と申居候、而して目下之現況ハ実ニ競争濫売之有様ニ付、此趨勢ニ抗して強而其起業を早候而、却而当初ニ失敗候様相成候而ハ不相成次第ニ付、其辺ニハ熟慮を要し候事と存候、兎ニ角来示ニ従ひ、尚時々注意いたし可申候間、御承引被下度候、右乍延引拝答如此御坐候 匆々不備
  六月四日               渋沢栄一
    菅井蠖様
    間鷲郎様
   ○次ノ一文ハ右ノ書翰ニツキ当時ノ事情ヲ説明シタルモノナリ。
(朱印)

是青淵渋沢先生之真蹟也。回顧明治卅一年予与管井《(菅井)》・間・小西・田中四兄議中津製紙工場創設之事。約待鉄道開通而起業。再後数年鉄道既成。而予説時機未到不肯起業。管井《(菅井)》・間両兄頗憤懣為以予頑牢怯懦不足与論。詰責太酷。蓋当時業界萎靡物価低落在起業不利之極。然両兄不顧之持速進説不止。而予亦不譲。已而瀕交情劈裂之危険。於是乎予訴之渋沢先生乞講事態緩和之策。先生具聴予之所釈明黙考久之。遂裁一書而致於之菅井・間両兄者即是也。当時先生之身辺要務輻輳繁劇絶言語。然一旦当執筆挙止端正不苟一字一句。先生之意蓋在対朋友不忘表信敬也。而所成文字悉皆臭厳正之体使見者偲先生謹正温雅之風丰。
 - 第11巻 p.128 -ページ画像 
真是可謂絶好紀念也。后数年工場告成業蹟亦頗佳。与者鼓腹。独間兄未見工場完成而先逝。同友小西君亦亡矣。逐懐往事感慨何堪焉
                 (朱印)
  中央製紙株式会社      大川平之印 桜塘
  創立後十八年
  大正乙丑孟春       大川平三郎謹識
   ○右書翰及ビ「中津製紙組合契約書」ニヨレバ、中央製紙株式会社ノ設立ハ栄一並ニ大川平三郎ノ王子製紙株式会社辞職直後ニ計劃セラレタルモ、一般経済界、特ニ製紙業ノ不況襲来シタルタメ延期シタルモノナリ。



〔参考〕大川平三郎君伝 (竹越与三郎編) 第二六一頁〔昭和一一年九月〕(DK110021k-0004)
第11巻 p.128 ページ画像

大川平三郎君伝 (竹越与三郎編) 第二六一頁〔昭和一一年九月〕
    第十二、四日市製紙と中央製紙
○上略
 話頭一転此の頃は大川君が王子製紙の為めに苦心焦慮してゐる最中であつたが、王子製紙会社の為めに遠州の中部に工場を建設すべく数数山中に入つた時、岐阜県と信州の境の中津といふ処を経過したが此処に相当の山林があることを発見した。臆測では木材が五十万石もあるべく計算せられ、また他に水力をも利用し得らるゝ便宜もあり附近に官林があつて拡張の余地もある。そこで大川君は中山道に鉄道が通ずるやうのことがあらば、玆に工場を起すの望があると見て、山林・敷地・水利権を合して一万二千円で買ひ取り田中栄八郎・小西安兵衛の二君と大川君の私有事業として他日に備へて居つた。これが明治三十年のことであつた。此の山林が後日の中央製紙会社の本体である。