デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
7節 製革業
4款 日本皮革株式会社
■綱文

第11巻 p.173-176(DK110034k) ページ画像

明治40年4月1日(1907年)

合名会社大倉組皮革製造所・東京製皮合資会社及ビ桜組合併シテ日本皮革株式会社ヲ創立ス。栄一相談役ト為ル。


■資料

竜門雑誌 第二二四号・第三九頁〔明治四〇年一月二五日〕 ○青淵先生と日本皮革会社(DK110034k-0001)
第11巻 p.173 ページ画像

竜門雑誌 第二二四号・第三九頁〔明治四〇年一月二五日〕
○青淵先生と日本皮革会社 今回大倉喜八郎・西村勝三、其他諸氏の主唱に係り、青淵先生も其発起人に加入せられたる日本皮革株式会社は、資本金五百万円にして陸海軍に要する皮革革具の製造又其製造に要する原料並に製品の売買を主たる目的とし、併せて一般の需要に応ぜんが為め現在の皮革製造工場を合同するの趣旨を以て、合名会社大倉組皮革製造所・東京製皮合資会社・株式会社桜組及旧合資会社今宮製革所・前福島合名会社が所有する土地・建物・機械器具・製品・原料及製造中の物品其他一切の設備を買収し、併せて其営業権を無償にて収得し、諸官衙に対する現在の売買契約を継承し、且つ清国及韓国に於ける軍隊及一般の需用品を、製造輸出するを以て営業と為すものなり


竜門雑誌 第二二七号・第三一頁〔明治四〇年四月二五日〕 ○日本皮革会社創立総会(DK110034k-0002)
第11巻 p.173 ページ画像

竜門雑誌 第二二七号・第三一頁〔明治四〇年四月二五日〕
○日本皮革会社創立総会 日本皮革会社創立総会は四月一日午後東京銀行集会所に開会、重役を選挙せる処左の如く当選せり
 取締役会長 大倉喜八郎  副会長 大沢省三
 取締役   賀田金三郎  高島小金治  町田豊千代
       伊藤琢磨   田畑健造
 監査役   浅田徳則   八十島親徳  後藤彦七
 相談役   渋沢栄一
而して新会社の営業は同日より開始せしが、其本店及工場左の如し
 一、本店 東京府南足立郡千住町大字千住中組千百九十番地
 一、東京工場 同上
 一、大阪工場 大阪市南区船出町千百三十七番屋敷
 一、製渋所 北海道胆振国勇払郡安平村早来駅


青淵先生公私履歴台帳(DK110034k-0003)
第11巻 p.173 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳 (渋沢子爵家所蔵)
  民間略歴(明治二十五年以後)
○上略
日本皮革株式会社相談役 四十年四月 四十二年六月六日辞
○下略
  以上明治四十二年六月七日迄ノ分調
 - 第11巻 p.174 -ページ画像 


(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK110034k-0004)
第11巻 p.174 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治三九年 (八十島親義氏所蔵)
    十二月二十五日
午後予ハ桜組重役会ニ列席ス、皮革三会社ヲ合併ノ件ハ略ボ話マトマリ、結局左ノ如ク処決セントノ相談ナリ
一日本皮革会社ナル一会社ヲ資本金五百万円ニテ起ス事
一発起人ハ大倉組・東京製皮・桜組三社ノ重立チタル人々ノミヲ以テ充タスコト
一旧三社各百万円ツヽ引受、百万円ハ賛成株トシテ福島組以下縁故者ニ分与ノコト
一残百万円ハ割増付ニテ公衆ヨリ募集ノコト
一新年ニ発表シ一月末第一回払込四月一日ヨリ新会社開業ノコト○新会社ハ一株三十円払込位ニテ当分充分ノ見込
一旧三社ノ地所家屋器械類ハ已ニ評価ヲ終ヘ桜組ノ分五十二三万円、大倉三十万円、東京製皮二十万円位トシ流動資本ハ三月末現在ノ評価ニテ引ツギ、クヅモノノ類ハ引ツガヌコト
一桜組ノ手前ニテハマヅ清算ノ結果分配財産ハ八十万円ノ払込額ヨリ下ルコトハナカルヘキ見込(積立金ト前季繰越位ハ失フコトトナル)
一新会社重役ハ三社ヨリ三名宛出スコトトシ、社長ヲ大倉、専務ヲ賀田・大沢、取締役ヲ町田・伊藤・田畑、監査役ヲ高島・西村及他一名(製皮側)トスル事○相談役ニ渋沢男内諾アリシ事
一桜組株主ガ新会社株数引受高ノ割合ハ現在持株ノ払込額ヲ五十円ニテ除シタル(三十円デナク)数トナス事、即解散ノ結果六割ハ株トナリ四割ハ現金分配トナル
一社長ヲ除ク外ノ発起人丈ハ三十円ニテ除シタル数ヲ引受高トスル事社長ハ現在新旧各一万円、払込四十万円、新会社引受株八千株、此払込廿四万円故ニ十六万円ハ現金ニテ受取ル訳トナル
大約右様ノ相談ニ一同同意ヲ表シ五時解散ス


(八十島親徳) 日録 明治四〇年(DK110034k-0005)
第11巻 p.174-175 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治四〇年 (八十島親義氏所蔵)
    一月二十五日
今朝ハ品川大人○西村勝三ヲ病床ニ見舞フ○中略今朝ハ丁度気分ノ宜シキ時ナリシカ不相変ニコニコシタル温顔ヲ以テ、予ガ皮革会社株二万株ノ公募ニ対シ価格以上ノ応募十五万株以上、最高ハ六十円ノプレミアムニシテ多分二十円以下ハ募入ハヅレトナル見込ナル由ヲ報告セシニ対シ、大ニ喜バレ引続キ種々ノ御物語アリ、大要ヲ録スレハ左ノ如シ
一其初予ノ一己ノ企業ヨリ起リタル皮革工場ガ終ニ発達シテ各社合同五百万円ノ大会社トナリ、社会ヨリ如此認メラルヽニ至リ、殊ニ帝室ノ御持株トサヘナラントスルノ報ヲ得タルハ、死ニ際ノ最大快事ニシテ実ニ無上ニ喜バシキ冥土みやげ也
○中略
一渋沢男爵ニ今一応、勝三ハ死ニ呉々感謝シテ死セント伝ヘラレヨ、予ハ旧主人堀田公、親ノ外ニハ渋沢男ノ外恩人無シ、予ニハヨキ友人モナク真ニ事業トシテ独立独行且時々男爵ヨリ忠告モ受ケタ
 - 第11巻 p.175 -ページ画像 
ル如ク、部下ニ碌デナキ人間アリテ却テ予ヲ妨ゲシ位也、カヽル間ニ渋沢男ハ終始予ノ為ニ懇切ナル指導者トナリ援助者トナリ厚恩筆紙ニ尽サズ、桜組ノ始ハ別ナルモ白煉瓦トイヒ硝子トイヒ皆男爵ニ謀リマーヤツテ見ヨト賛同ヲ得テヤリシ次第、又商業会議所ノ如キモ紛紜アリテ予モヌレ衣ヲ着ントシタル際、男爵ノ御纏メニヨリテ無事ニマトマリタル次第也、此カル永年ノ厚恩ハ終世忘レズ、何卒呉々モ宜シク願フ



〔参考〕西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第一一二―一一五頁〔大正一〇年一月〕(DK110034k-0006)
第11巻 p.175-176 ページ画像

西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第一一二―一一五頁〔大正一〇年一月〕
    第九章 製靴及製革業ノ成功
○上略
かくて三十八年には桜組の資本金を増して五十万円と為す。此時日露戦役の為めに靴・革の需用大なりしかば、技師野口弥太雄を米・墨二国に派遣し多額の原料を購入せしむ。然るに軍靴の供給は急を要するが故に、既に閉鎖せる製靴業をも再興し、日本製靴会社と提携して事に当り、且また戦地に於ける軍用天幕をも請負ひ、監督者・技手・職工等数十名を満州に派遣せしが、其製靴部は戦役の終局と同時に予定の如く之を廃止せり。此年十一月更に組織を更めて資本金百万円の株式会社と為し、翁は社長に、大沢省三は副社長に、町田豊千代は専務取締役に、藤村義苗・八十島親徳は取締役に、神戸寅次郎は監査役に就任せり。想ふ昔、翁が始めて製革工場を築地入舟町に起すや、殆んど児戯に等しき手細工を試みしに過ぎざりしもの、今や堂々たる百万円の大会社となり、機械力を使用して多額の生産を為すに至る、翁が奮闘の歴史は即ち製革事業発達の歴史たり、翁は此際往時を回顧して無限の感慨に堪へざるものありけん。
是より先製靴業者が合同して日本製靴株式会社を設立するや、製革業者もまた之に傚はんとするの議ありしが、翁の如き先覚の士率先して其議を唱ふるに及び衆皆賛成し、同業者の合同将に成らんとする際、翁は四十年一月を以て逝き、生前遂に其成功を見る能はざりき。然れども計画は予定の如くに進みて、同年四月資本金二百五十万円初め五百万円にて成立したれども数年の後二百五十万円に変更せりの日本皮革株式会社設立せられ、桜組及び大倉組皮革製造所・東京製皮合資会社・今宮皮革製造所の動産並に不動産を買収して直に其業務を開きたり。乃ち其本社を旧桜組の所在地たりし千住に置き、大沢省三は取締役副会長に、町田豊千代は取締役に、八十島親徳は監査役に就任せり。嗚呼翁は逝きてまた帰らずといへども其遺業は東洋第一の製革会社と称せられ製靴株式会社も亦今や資本金六十万円の大会社となりて覇を斯界に唱ふ、翁以て瞑すべきなり。それ桜組の事業の成功を告げて工業界の重鎮たるや、人其名を聞けば直に翁を連想し、翁を説けば必ず桜組に及ぶ、翁と桜組とは異名同体にして分つべからず、故に製靴事業を日本製靴株式会社に譲り、尋でまた製革事業をも日本皮革株式会社に譲らんとするに及び、翁は桜組の名称の消失を惜しむの情切なるものあり。されば其病革るや同人・門下を枕頭に招き告げて曰く、「桜組は余が奮闘の歴史にして、心血
 - 第11巻 p.176 -ページ画像 
の濺ぐ所精神の宿る所なり、然るに今や合同の計画漸く進歩し、桜組の名は是より亡びんとす、事業の発達は歓喜措く能はざる所なれども桜組の名もまた、愛惜の念に堪へず、宜しく従来の信用を基礎とし、適当の業を創めて其保存を図るべし」と。是に於て翁の歿後、大沢省三・町田豊千代・浦辺襄夫・佐藤治之輔・滝富之・平沢喜三郎・藤村義苗・八十島親徳・関戸重太郎等は、翁の嗣子西村直と共に、十万円の資本を以て新に合資会社桜組を設立して、輸出入貿易・雑貨代弁仲買業及び鉄道鉱山用諸品、其他陸海軍に要する皮革以外の軍需品の販売に従ひ、以て其名称を存続せり。


〔参考〕竜門雑誌 第二四〇号・第一四―一五頁〔明治四一年五月二五日〕 ○青淵先生と故西村勝三翁(DK110034k-0007)
第11巻 p.176 ページ画像

竜門雑誌 第二四〇号・第一四―一五頁〔明治四一年五月二五日〕
    ○青淵先生と故西村勝三翁
  此一篇は本年四月十日発行「実業の日本」臨時増刊「処生の金科玉条」中に掲けられしものなり
渋沢男と故西村勝三翁との交際は明治の初年瓦斯局時代からで、両者の交誼は終始一貫些も変らなかつた、夫で翁が常に男に教を承け男も亦翁の為に利益なことは何でも遠慮なく忠告したらしい、男は或る時翁に向ひ「人は総て一定の自説がなくてはならぬ、少しは頑固と云はれても信ずる所を通さなくてはならぬ、世上の事柄の善悪を弁別するは智力であるが此の智力で善いと信じたことは不屈不撓貫徹する決心がなくてはならぬ、甲が云々と云へば直に其説に感心し乙が巧に説けば夫に味方する、夫では自分を失てしまう、説を容るゝは善いことであるが自分には動かすべからざる自信を有たなければならぬ」といひ翁も深く男の厚意と苦言を感佩した。
其後製革事業のことに就て翁と大倉喜八郎氏との間に争が起りどうしても纏まらぬ、結局仲裁を渋沢男に依頼することになつた、其時翁は男に向て「品川の何楼とかの遊女は容貌も美かつたが、何故か客が続かぬ、主人が或る時其女を招び、お前は容貌美であるが愛嬌が足らない、一度来た客は二度来ない、も少し愛嬌をよくしたらよからう、客を送るとき捩つたり噛みついたりするのも、亦愛嬌の一ツになるのだからと諭した、此女翌日客を送り出すとき、突然客の指に噛み付いたので、客はビツクリして梯子から転げ落ちて大騒をしたと聞いたが、私も渋沢さんから自身力を持つやうに勧められ夫を正直に守つたゝめこんな争で御厄介をかけるようになつて誠にお気の毒です」といつて笑つたことがあるさうな。
此一笑話は男が如何に友誼に厚き翁が如何に男の親切に感激せしかを見ることが出来る、男は其人の利益と信すれば遠慮なく諄々として理のある所を説て整然たる論理で心服せしめざれば止まぬ、赤心を人の腹中に推すもの、聞く人皆其誠愛に感激す。