デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
9節 麦酒醸造業
2款 札幌麦酒株式会社
■綱文

第11巻 p.347-362(DK110053k) ページ画像

明治20年12月28日(1887年)

是ヨリ先栄一、浅野総一郎等ト共ニ麦酒会社ヲ設立セントシ、是月二十四日札幌麦酒醸造所所有者大倉喜八郎ト同場譲渡ノ約定ヲ結ビ、北海道庁長官岩村通俊ニ会社設立ノ出願ヲ為ス。是日許可セラレ翌二十一年一月会社成立ス。栄一委員長タリ。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第一七一―一七三頁 〔明治三三年六月〕(DK110053k-0001)
第11巻 p.347-348 ページ画像

青淵先生六十年史(再版) 第二巻・第一七一―一七三頁〔明治三三年六月〕
 ○第三十七節 麦酒醸造業
    第一節 札幌麦酒会社
札幌麦酒株式会社事業ノ権輿ハ遠ク明治九年ニアリ、当時開拓使庁農業振興ノ為メニ大ニ農産製造業ヲ起サンコトヲ謀リ、大麦及ヒ葎草耕作ノ北海道ニ能ク適順セルヲ見テ麦酒ノ醸造ヲ企テ、久シク独逸ニ遊ンテ斯業ニ堪能ナル中川清兵衛ヲシテ業ニ当ラシム、九年九月醸造所ヲ札幌区北二条東四丁目ニ築営シ、米国種麦ヲ用ヒ独逸法ヲ以テ醞醸シ翌年製品ヲ東京ニ輸シテ声価ヲ博ス(永代橋傍ニ貯蔵庫アリ後チ日本銀行及日本勧業銀行ノ家屋ニ用ユ)爾来屡々種子ヲ独米両国ヨリ輸入シ、之ヲ官園ニ播下耕作シ、以テ材料ニ供シ、又タ広ク農家ニ配布シテ種子ノ改良ヲ計ル、葎草モ亦タ十年四月圃ヲ札幌ニ設ケテ之ヲ栽培シ、原料全ク北海道産ニヨラントス(後チ廿一年ニ至リ遂ニ同道産ヲ廃シテ外国産葎草ヲ用ユルコトヽナル)爾後年ヲ閲スルニ従ヒ技進ミ業整ヒ喫好ト販路ト両ナカラ拡カリ、初メ年額僅カニ二百石ヲ産スルニ止マリシモ十三年ノ比ニハ五百石ヲ醸造スルニ至ル、物産局工業局等ノ管轄ヲ経テ十九年北海道庁ノ所管ニ帰シ、同年十二月旧開拓使ノ遺業悉ク民間ニ移サルヽニ当リ大倉組ノ有トナル
二十一年青淵先生・大倉喜八郎・浅野総一郎等協議ノ上株式会社ヲ組成シテ之ヲ譲リ受ケ、先生委員長トナリテ社務ヲ総理シ、大倉・浅野委員タリ、鈴木恒吉ハ委員総代トナリ、札幌ニアリテ業務ヲ担当ス、是ヨリ先キ先生及ヒ浅野等麦酒醸造業ノ有望ナルヲ認メ、東京ニ於テ一大醸造所ヲ起スノ企画ヲナセシモ、当時麦酒ノ需用尚ホ未タ大ナラス、且ツ麦作ノ能ク北海道ニ適シテ原料麦芽ヲ自給シ得ルノ便アリ、創立ノ難多クシテ合併ノ却テ便ナルヲ見、遂ニ大倉ト力ヲ合セテ当醸造所ヲ用ヰ、之ヲ発達増大セシムルコトヽナリタルナリ
此ノ年九月嘗テ北海道庁ニ於テ雇入レタル醸造師独逸人マツキス、ポルマン来道ス、直ニ醸造改良ノ教師トシテ同社ニ貸与セラル(後チ廿五年満期トナリ会社ハ改メテ更ニ二年間雇入ル)
二十三年従来資本額ノ七万円ナリシヲ増シテ拾万円(二十七年九万千七百円ニ減少セリ)トナシ、内三万円ヲ以テ器械購入及ヒ工場修繕費トセシカ、諸種ノ事情ノ為メニ阻セラレテ遷延セシモ、遂ニ新式醸造器械・製氷器械等ヲ据付ケ、之ヲ容ルヘキ堅牢ナル煉瓦器械場ヲ新営ス(器械ノ据付ハ札幌製糖会社雇独逸人
 - 第11巻 p.348 -ページ画像 
機械師アトルフ、タビーレルニ委嘱シタリ)廿五年五月工ヲ起シ翌年三月竣ル、是ニ於テカ旧観全ク改マリ、規模漸ク廓大シテ諸般ノ設備大ニ整ヒ従来全力ヲ注クモ一年ノ醸造高千石ニ上ル能ハサリシモ、今ヤ二千五百石ヲ出スハ容易ノ事トナレリ、此ノ時醸造セル麦酒ハ「ラーガー」、輸出、黒ノ三種ニシテ共ニ品質優良殊ニ其ノ黒麦酒ハ今ニ至ル迄同社カ独リ名声ヲ擅ニスル所ナリ、販路ハ大ニ拡張シテ同道ハ勿論、青森・仙台・京浜ヨリ遠ク北国地方ニ亘ルニ至ル
○下略


札幌麦酒会社約定書(DK110053k-0002)
第11巻 p.348 ページ画像

札幌麦酒会社約定書
    約定書
今般大倉喜八郎所有石狩国札幌区北二条東四丁目番外地、札幌麦酒醸造場ヲ札幌麦酒会社ヘ譲受、其地所建物器械諸物品等都テ同氏ガ北海道庁ヨリ年賦ヲ以テ払受ケタルモノヲ其儘ニテ同会社ノ所有トナシ、且右ニ附帯シタル同氏ノ権利義務共一切同会社ニ於テ承継負担スルコトヲ約定ス
此約定ハ北海道庁ヘ対シ一同連印ノ願書ヲ出シ、其認可受タル日ヲ以テ権利義務ノ移転ヲ証スベシ
北海道庁ヨリ年賦払受物件ノ内、建物若クハ器械ノ部分ニ於テ其都度政府ノ許可ヲ受ケ、変更シタルモノハ其認可書ヲ証トシ、双方ノ授受ヲ為スベシ
  但シ認可ヲ受ケタル事ト雖モ、目下着手中若クハ未ダニ着手セザルモノハ総テ当会社ニ於テ其工費ヲ負担スベシ
此約定ヲ為スニ就キ、創業資金ノ償却トシテ金壱万円ヲ右認可ヲ受ケタル日ヨリ三十日以内ニ札幌麦酒会社ヨリ大倉喜八郎ヘ仕払フベシ、年賦払受物件ノ外、同醸造場ニ関シ大倉喜八郎ニ於テ買入目下使用中ノ家屋器具材料及醸造酒等ハ、来ル明治二十一年一月中札幌ニ於テ協議ヲ遂ゲ相当代価ヲ定メ札幌麦酒会社ヘ買取ルベシ
  但シ代金ハ現品受渡シ済ノ日ヨリ三十日以内ニ札幌ニ於テ授受スベシ
右確約遵守ノ証トシテ本書弐通ヲ作リ各壱通ヲ蔵ス
  明治二十年十二月廿四日  東京ニ於テ
               札幌麦酒会社創立発起人
               総代
                    渋沢栄一
                    浅野総一郎
                    西川虎之助(印)
                    土田政次郎(印)
                譲渡人 大倉喜八郎(印)


(札幌麦酒株式会社)政府関係書類(DK110053k-0003)
第11巻 p.348-349 ページ画像

(札幌麦酒株式会社)政府関係書類
            (大日本麦酒株式会社札幌支店所蔵)
                           私共儀
今般熟談之上、大倉喜八郎所有石狩国札幌区北二条東四丁目番外地、札幌麦酒醸造場ノ地所建物機械類一切ヲ譲リ受ケ、更ニ同所ニ於テ別
 - 第11巻 p.349 -ページ画像 
冊ノ定款ニ因リ、札幌麦酒会社ヲ創立シ、麦酒醸造及販売ノ営業仕リ度、尤従来同醸造場ノ儀ニ付、大倉喜八郎ニ於テ御受仕置候御命令ノ趣者一切当会社ニ於テ引受遵奉仕リ右ニ関スル権利義務共悉皆無相違負担履行仕候間何卒御認可被成下置度、依テ一同連署此段奉願上候也
         札幌麦酒会社創立発起人
           総代
           東京府深川区福住町四番地
                    渋沢栄一
           東京府深川区清住町壱番地
                    浅野総一郎
           東京府麹町区五番町十四番地
                    西川虎之助(印)
           北海道札幌区南二条西二丁目十三番地
                    土田政次郎(印)
         原所有者
           東京府京橋区銀坐三丁目三番地
                    大倉喜八郎(印)
    北海道庁長官 岩村通俊殿

願之趣認可ス
 但追テ命令書下付スル迄、明治十九年十一月三十日及二十年十二月十五日大倉喜八郎ヘ下付セシ命令書之通リ遵守スベシ
  明治廿年十二月廿八日
           北海道庁長官 岩村通俊 
   ○右明治十九年十一月三十日附及ビ二十年十二月十五日附命令書ハ後掲北海道庁第一回・第二回勧業年報ヲ見ヨ。
   ○右会社設立出願書ノ日附不明ナリ。


北海道庁第一回勧業年報(明治十九年度) 命令書(DK110053k-0004)
第11巻 p.349-350 ページ画像

北海道庁第一回勧業年報(明治十九年度)
   命令書
            東京府京橋区銀座二丁目七番地
              大倉商会
                 頭取 大倉喜八郎
今般札幌麦酒醸造地所建物其他ノ物件悉皆払下候ニ付左ノ条項遵守スヘシ
  明治十九年十一月三十日
            北海道庁長官 岩村通俊
第一条 札幌麦酒醸造場地所代金、参百九拾八円参拾銭五厘、建物代金壱万七千五百七拾弐円九拾五銭弐厘、器具代金八千五拾参円六拾壱銭六厘、備品代金六百四拾七円参拾六銭、通計金弐万六千六百七拾弐円弐拾参銭参厘ハ本年十二月ヨリ明治二十一年十一月迄据置、明治二十一年十二月ヨリ明治二十九年十一月迄、向八ケ年賦ヲ以テ毎年十月二十日限リ上納スヘシ
第二条 第一条ノ金額完納ニ至ル迄ハ、払下建物器具備品トモ悉皆抵当トシテ当庁ヘ差出スヘク、地所ハ年賦金完納ノ上地券ヲ交附スヘシ
 但地所ニ係ル一切ノ義務ハ工場ノ受授ノ日ヨリ払受人ニ於テ負担ス
 - 第11巻 p.350 -ページ画像 
ヘシ
第三条 現在ノ麦酒及原料品代価ハ、追ツテ正算金額指示ノ日ヨリ三十日以内ニ完納スヘシ
第四条 麦酒醸造改良ノタメ外国ヨリ醸造名雇入方照会中《(人)》ニ付、別紙条約大要ニ拠リ三ケ年間当庁雇トシテ其事業ニ従事セシムヘシ、尤モ往復旅費及一ケ年分ノ給料ハ特別保護ノタメ当庁ヨリ支給ス、爾後二ケ年間給料雑費ハ、都テ払受人ニ於テ負担スヘシ
第五条 醸造改良ノタメ、工場模様替若シクハ器械新調等ニ要スル費用ハ、総テ払受人ノ自弁タルベシ
第六条 麦酒醸造場ハ当道農産消流ノ目的ヲ以テ設置セシ工場ナルカ故、其醸造原料大麦ハ、可成他地方産ノモノヲ用ヒス、毎年醸造高ハ七万石ヲ減スヘカラス
第七条 原料大麦買入値段ハ該年東京・大阪・宮城ノ三ケ所平均相場ヲ以テ低減スヘカラス
第八条 第一条ノ金額完納ニ至ル迄ハ、臨時監査員ヲ派遣シ、事業ノ実況及抵当現品等ヲ調査セシムルコトアルヘシ
 但工場ノ会計ニ属スル帳簿ハ別ニ設置キ臨時監査ノ便ニ供スヘシ
第九条 第一条ノ金額完納ニ至ル迄、工場ノ模様替ハ其時々ノ当庁ノ許可ヲ受クヘシ
第十条 此ノ命令ニ違背スルトキハ、詮議ノ上払下ヲ取消スヘシ、其節払下品紛失破損等ヲ生セシ分ハ、其代償又ハ修繕費ヲ弁償セシムルハ勿論、既ニ上納シタル年賦金ハ一切之ヲ下戻サヽルモノトス


北海道庁第二回勧業年報(明治二十年度) 札幌麦酒醸造場(DK110053k-0005)
第11巻 p.350 ページ画像

北海道庁第二回勧業年報(明治二十年度)
    札幌麦酒醸造場
 本場払下ノ事ハ第一回年報ニ之ヲ報ゼリ、去年十二月ヨリ本年十月ニ至ル営業ノ概略ハ、麦酒醸造高五百七拾六石ニシテ此代価九千二百十六円、但シ営業創始ナルヲ以テ、諸経費一万四千五百十二円余ヲ費シ、収支差引五千二百九拾六円余ヲ損失セリ
販売地方ハ札幌・小樽・函館・釧路・根室及青森・石ノ巻・仙台・酒田・秋田等トス、本年ニ至リ曩ニ大倉喜八郎ニ命令セシ条項ニ基キ、九月醸造師独逸人「マツクスポールマン」ヲ雇入レ、之ヲ本場ニ貸シ以テ醸造ノ事ヲ督セシム
十二月喜八郎ヨリ年賦上納金二ケ年据置ヲ五ケ年ニ、醸造師旅費給料補給ハ一ケ年ヲ五ケ年ニ改メラレン事ヲ出願シ、其十五日本庁左ノ通リ命令セラル
 一、年賦上納金ハ当初命令ノ年ヨリ満五ケ年間据置ノ義聞届ク
 一、醸造師ポールマンニ関スル旅費給料ハ同上命令ノ年ヨリ満三ケ年間、特別ヲ以テ当庁ヨリ補給スベシ
尋テ喜八郎本場ノ組織ヲ改メ、札幌麦酒会社設立ヲ東京府平民渋沢栄一外三名ト共ニ出願シ、其二十八日本庁之ヲ認可シ、追テ命令書ヲ下附スル迄ハ十九年十一月三十日及二十年十二月十五日大倉喜八郎ニ下附セシ命令書ノ通リ遵守スベキ旨ヲ令セラル
 - 第11巻 p.351 -ページ画像 

北海道庁第三回勧業年報 (明治二十一年度) 札幌麦酒醸造会社(DK110053k-0006)
第11巻 p.351-352 ページ画像

北海道庁第三回勧業年報 (明治二十一年度)
    札幌麦酒醸造会社
客歳十二月札幌麦酒醸造場主大倉喜八郎、其場ノ組織ヲ改メ、渋沢栄一外三名ト共ニ本庁ノ許可ヲ得テ札幌麦酒醸造会社ヲ設立シ、及其年賦上納金五箇年据置醸造師給料三年間補給ノ請ヲ許可セシ事ハ、第二回年報ニ之ヲ報ゼリ、廿一年三月ニ至リ従前下附ノ命令書ヲ更正シテ更ニ会社ニ命令セリ、会社ハ去歳ヨリ家屋ヲ増築シ醸造器械ヲ独逸国ヨリ購入シテ醞醸ニ改良ヲ加ヘリ、本年麦酒醸造高三百九十五石販売高二百四十三石余此代価壱万二百拾六円ナリト言フ、命令書左ノ如シ
    命令書
         札幌麦酒会社創立発起人総代
           東京府下深川区福住町四番地
                      渋沢栄一
           東京府下深川区清住町一番地
                      浅野総一郎
           東京府下麹町区五番町十四番地
                      西川虎之助
           北海道庁下札幌区南二条西二丁目十三番地
                      土田政次郎
           東京府下京橋区銀座三丁目三番地
                      大倉喜八郎
明治二十年十二月二十八日附ヲ以テ、曩ニ東京府京橋区銀座三丁目三番地大倉喜八郎ニ払下タル札幌麦酒醸造場ノ場所建物器械其他一切ノ物件譲受ケヲ許可シタルニ付、右払下代年賦金完納ニ至ル迄ハ此命令ヲ遵守スベシ
第一条 札幌麦酒醸造場地所代金参百九拾八円参拾銭五厘、建物代金壱万七千五百七拾弐円九拾五銭弐厘、器具代金八千〇五拾参円六拾壱銭六厘、備品代金六百四拾七円参拾六銭、通計金弐万六千六百七拾弐円弐拾参銭参厘ハ明治十九年十二月ヨリ明治二十四年十一月迄据置、明治二十四年十二月ヨリ明治三十二年十一月迄、向八ケ年賦左ノ割合ヲ以テ毎年十月二十日限上納スベシ
 一、麦酒醸造場地所代金参百九拾八円参拾銭五厘ハ毎年金四拾九円七拾八銭八厘、末年ハ金四拾九円七拾八銭九厘
 一、建物代金壱万七千五百七拾弐円九拾五銭弐厘ハ毎年金弐千百九拾六円六拾壱銭九厘宛
 一、器具代金八千五百拾参円六拾壱銭六厘ハ毎年金千六円七拾銭弐厘宛
 一、備品代金六百四拾七円参拾六銭ハ毎年金八拾円九拾弐銭宛
第二条 第一条金額完納ニ至ル迄ハ、払下タル地所建物器械其他ノ物品ハ一切抵当トシテ当庁ヘ差出スベシ
第三条 麦酒醸造改良ノ為メ別紙条約大要ニ依リ雇入タル醸造師ノ、独国伯林府ヨリ札幌ニ至ル旅費ト同上帰国旅費及就任ノ月ヨリ向フ満三ケ年間ノ給料ハ当庁ヨリ交付スベシ
第四条 醸造上ニ関シ醸造師ヨリ当庁ニ向ヒ申出ツル事件ハ、総テ其
 - 第11巻 p.352 -ページ画像 
社ニ於テ採否ヲ決シ、然ル上申出ズベシ
第五条 麦酒醸造場ハ当道農産消流ノ目的ヲ以テ設置セシ工場ナルガ故、其醸造ノ原料タル大麦ハ必ズ当道産ノモノヲ用ヒ、毎年醸造高ハ七百石ヲ減ズベカラズ
 但当道産ノモノ買入レ難キ事由アルカ、又ハ醸造高ヲ減ゼザルヲ得ザル場合ニ於テハ、予メ当道庁ノ指揮ヲ受クベシ
第六条 前条当道産大麦買入値段ハ該年東京・大阪及宮城三ケ所ノ相場ヲ標準トシ其価格ヲ定ムベシ
第七条 事業ノ実況、及抵当現品、其他会計ニ属スル帳簿等ハ臨時係員ヲ派出シ検査セシムル事アルベシ
第八条 工場其他建物ノ模様替ヘ、及器械ノ交替等ヲ為サントスル時ハ、其都度当庁ノ許可ヲ受クベシ
第九条 此命令ニ違背スルトキハ払下ヲ取消スベシ、此場合ニ於テハ払下タル地所建物器械其他一切ノ物件ハ現形ノ儘返納セシム、但既納ノ年賦金ハ一切下戻サヾルモノトス
 右命令ス
  明治二十一年三月十六日
                北海道庁長官
                    岩村通俊


中外物価新報 第一九七五号〔明治二一年一〇月二七日〕 札幌麦酒会社(DK110053k-0007)
第11巻 p.352 ページ画像

中外物価新報 第一九七五号〔明治二一年一〇月二七日〕
    札幌麦酒会社
北海道札幌区北二条東四丁目に在る札幌麦酒会社ハ、追々事務整頓せしを以て有名なる独逸帝国醸造教師マツクスホルマン氏の尽力に依りて、改良ラガビール新醸の功を告け去月より之を売出したるが、一体北海道に産する麦ハ其質不適当を以て、是を他の地方に仰かざるを得ず、是を買入るにハ其質の如何を鑑定するハ最も必要なりとて、先頃より全国各地産する処の大麦を取り寄せ、一々其質を検査せし由なるが、此程箱崎町荒清より収めたる上州館林近傍に産せし大麦は最も醸造に適当なる様なれば之を試みんとて、先つ五十石程を買入れ北海道へ向け積送りたりといふ


雨夜譚会談話筆記 下・第一―二頁〔昭和二年一一月―五年七月〕(DK110053k-0008)
第11巻 p.352-353 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第一―二頁〔昭和二年一一月―五年七月〕
    雨夜譚会(第十五回)
一、大日本麦酒株式会社成立に就て
先生「大日本麦酒会社の成立は余程以前の事で、記憶が鮮かでありません。会社の創立には重大な意義があつたとも思ひません。私の関係した麦酒会社の抑々の起りと云ふのは西川虎之助氏が氷の製造を計画したのを、私が種々心配してやつたのが、中途から麦酒会社計画に変つた。丁度此頃大倉さんが北海道開拓使から麦酒醸造場の払下を受けたので、此処に大倉と一処に、麦酒会社を経営する事になつた。之れが札幌麦酒会社でありました。○下略
   ○第十五回雨夜譚会ハ昭和二年十一月十五日午後五時半飛鳥山邸ニ開カレ出席者ハ栄一・同夫人・穂積歌子・武之助夫人・正雄夫人・敬三・増田・渡
 - 第11巻 p.353 -ページ画像 
辺・白石・小畑・高田、係員岡田・泉。


竜門雑誌 第四八一号・第七七―七八頁〔昭和三年一〇月二五日〕 一、札幌麦酒株式会社と先生(DK110053k-0009)
第11巻 p.353 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第七七―七八頁〔昭和三年一〇月二五日〕
一、札幌麦酒株式会社と先生
 札幌麦酒株式会社の権輿は遠く明治九年に在り。当時開拓使庁は農業振興の一策として大麦及忽布を栽培して麦酒の醸造を企図せり。
 先づ多年独逸に於て醸造術を研究せし中川清兵衛氏を業務担当者となし、米国種大麦を用ひ独逸法に依りて之を醞醸せり。其の醸造高僅に二百石に過ぎざりしが成績良好なりしを以て漸次之が改良をなし、次で札幌区内に一万四千坪の忽布園を設け、十三年には八百五十石を醸造するに至り初めて之を東京に送り、札幌麦酒の名漸く世に知らるるに至れり。
 明治十五年開拓使の廃止と共に一時農商務省の管下に属し、或は物産局又は工業局等の管理を受けしが、明治十九年に新に北海道庁の設立せらるゝや同庁の所管に帰し、次いで同年開拓使の遺業悉く民間に移さるゝに際して該業も亦一時大倉組の有に帰せり。当時本邦に於ける麦酒の要求は未だ甚だ大なりと謂ふを得ざりしが、輸入は漸次増加の趨勢を示し年額三四十万円に達し麦酒業の前途頗る有望なりき。此処に於て明治二十一年青淵先生は大倉喜八郎・浅野総一郎の諸氏と図り、前記大倉組の麦酒醸造所を基礎として資本金七万円の株式会社を設立し先生自ら会長となられ、鈴木恒吉氏をして事務を、中川清兵衛氏をして醸造を担任せしめ、更に独逸人マツキスホルマン氏を聘して其の改良を図れり。是に於て規模益々拡大し諸般の設備面目を一新せり。


渋沢栄一翁 (白石喜太郎著) 第三四五頁〔昭和八年一二月〕(DK110053k-0010)
第11巻 p.353 ページ画像

渋沢栄一翁(白石喜太郎著) 第三四五頁〔昭和八年一二月〕
 ○三 実業界の基礎工事
    その十二 大日本麦酒会社
○上略
当時子爵も麦酒醸造のことを考へて居た。それは事業慾に燃ゆる浅野総一郎の主張によつてゞあつた。浅野は麦酒醸造の前途多望なるべきを思ひ、東京に大規模の醸造所を建設せんとして種々研究したが、当時麦酒の需要さして多くなかつたので別に会社を設立せず、大倉組経営の醸造所に合流するの賢明なるを思ひ、明治二十一年子爵並に浅野等は大倉組の主宰者大倉喜八郎と協議し、札幌麦酒会社を組織した。子爵は委員長となつて社務を総理し、大倉・浅野は委員として経営に参与し、札幌醸造所の常務は委員総代鈴木恒吉が担当した。斯く更生の手続順調に進みつゝある折柄、同年九月曩に北海道庁が雇入れた独逸人マツキス・ホルマンが赴任したので、醸造改良の指導者として嘱託した。○下略



〔参考〕開拓使事業報告 第三編 (麦酒沿革誌)(DK110053k-0011)
第11巻 p.353-354 ページ画像

開拓使事業報告 第三編 (大日本麦酒株式会社札幌支店所蔵)
     (麦酒沿革誌)
 - 第11巻 p.354 -ページ画像 
    ◎冷製麦酒
「明治九年」九月本場ヲ札幌雁来通ニ築ク、其醸法普国製ニ倣フ、命テ冷製麦酒ト曰フ、札幌官園及同地方播種ノ大麦概ネ皆外国種子ニ係リ、収穫頗ル饒ニ、品位最美ナリ、之ヲ買得シテ麦酒ヲ醸スモ、草創諸事未ダ整ハズ、醸額僅ニ弐百石ニ過ス
「十年」七月物置一棟ヲ建築ス
    八月桶細工場ヲ築ク
「十二年」二月醸造人居所一棟ヲ建築ス
    三月高島郡手宮埠頭ノ側ニ於テ一ノ岩窟ヲ鑿チ、屈曲シテ光線ノ透入ヲ防ギ、麦酒缶詰等各輸出ノ際一時貯蔵ノ所トス、其構造浦塩斯徳地方ノ法ニ倣フ、曩ニ独国醸造学士「オコルセツト」ニ品評ヲ請シニ、札幌冷製麦酒ハ実ニ良好ニシテ、日本醸造ノ麦酒ニシテハ一ノ欠点ナク、透明ニシテ沈澱物ナク、充分ニ炭酸ヲ含有セリ、余嘗テ味ヒタルモノニ比スレバ大ニ改良スト雖モ、其色合ニ於ル未ダ充分ナラザル所アリ、因テ其改良法ヲ書シテ中川○清兵衛氏ニ贈レリ、余曾テ醴ノ煮方及麦酒醗酵等ニ就キ、中川氏ニ忠告セシニ、同氏善ク余ガ言ヲ用ヒ、麦酒ハ醇良ノ飲料トナリ、浸剤ヲ含ム亦百分ノ六四ノ多キニ至レバ、久ク酸敗ノ憂ナカレ《(ル)》ベク、此冷製麦酒ハ横浜醸造ノ麦酒ニ勝ル事遠シト、醸造用葎花初メハ米国ヨリ購入スレトモ、当地栽植ノ外国種葎草年一年ヨク繁茂シ、其花粉香気トモ敢テ輸入品ニ譲ラズ、大麦ハ当別村ノ産最麦酒ニ適ス、然レトモ本年ハ不幸ニシテ粒子ニ黴ヲ生シタルヲ以テ、更ニ東京青山試験場ニ仰ゲリ


〔参考〕北海道事業管理局沿革誌(麦酒沿革誌)(DK110053k-0012)
第11巻 p.354-356 ページ画像

北海道事業管理局沿革誌
     (麦酒沿革誌)
            (大日本麦酒株式会社札幌支店所蔵)
札幌麦酒醸造ハ明治十五年二月開拓使ヨリ農商務省工務局ノ所管トナリ、曩ニ作業費条例ニ準拠シテ営業資本八千六百参拾六円ナリシヲ、増額シテ弐万五千八百九拾壱円トナス、次テ八千弐百拾九円弐拾六銭七厘ヲ増加シテ参万四千百拾円弐拾六銭七厘トナル、其販路年ヲ逐テ盛大ニ及ヒ、之ヲ創業ノ際ニ比スレハ殆ント五倍ノ多キニ至ル、唯方今ノ景況ハ、当道ノ需要多量ニシテ、東京其他ノ需要ニ応スルニ足ラス、然ルニ大阪・西京・神戸・越前・加賀・新潟等ヨリ続々註文シ来ルヲ以テ、十六年試ニ七百余ダースヲ送リ試売セシメシニ、最モ好況ニシテ同地方売捌予想高一ケ年凡五六千ダースヲ下ラサルベシ
初メ本場創設ノ際ハ、専ラ本道ノ農産ヲ消流スルニアルヲ以テ規模小ニシテ一ケ年醸造高五百石ニ過キサリシガ、近時販路他府県ニ拡張スルノ形勢ナルヲ以テ、此ニ事業拡張ノ必要ヲ生シ、更ニ五百石ヲ醸造シ得ヘキ家屋ヲ増築シ、之ニ称フ《(マヽ)》諸器械ヲ準備シ、初メニ弐百五拾石ヲ増醸シ、販路逐年拡張スルニ従ヒ尚更ニ弐百五拾石ヲ醸造シ、総醸造高壱千石ニ至ラシメントス、又同年拾弐月之ガ増築費弐万七千四百七拾五円拾弐銭七厘ヲ以テ、十七・十八両年度ニ竣成スルニ決ス
次ニ売捌法ハ従来麦酒缶詰ニ限リ、本局ニ於テ売捌ヲナシ来レリ、本局ハ之ヲ直接本道内ニ売捌クモノ、外ハ東京箱崎町物産取扱所ヲシテ
 - 第11巻 p.355 -ページ画像 
一手売捌カシメシガ、売捌人ハ之ヲ不便トシ、最初ノ如ク大取次人ヲ設クルヲ便トシ、且ツ近来物産取扱所ニ停滞スル物品少カラサルヲ以テ本年更ニ二人ノ大取次人ニ売捌カシム、大取次人ハ五千円ノ公債証書ヲ抵当ニ入レ麦酒缶詰ノ定価一割引ヲ以テ払下ヲ受ク、即チ従前麦酒壱本販売価格二十一銭ナルヲ十九銭ニ改正シ大取次人ノ払下価格ヲ十七銭一厘トナス、十七年十一月大取次人ノ抵当高ヲ五百円ニ低減ス本場ハ創設以来漸次好成績ヲ挙ケ来リ、他ノ諸農工場ニ比シテ有望ナル事業ニ属セリ、此ヲ以テ十七年ヨリ拡張ヲ企テ、九月増築ニ着手シ且器械ヲ購入セリ、然ルニ此ト前後シテ本場ニ一大阻害ヲ発生スルニ至レリ、此阻害ノ為ニ漸次好況ニ進ミツヽアル本場ハ、大ナル屯座ヲ蒙ルニ至レリ、其阻害ハ主ニ東京物産取扱所ニ於テ認メタル事故ニシテ、一ハ貯蔵麦酒ニ変質物即チ飴ヲ生シタル事、二ハ貯蔵麦酒ニ損傷ヲ生シタル事、三販路次第ニ閉塞、多大ノ停滞品ヲ生スルニ至ル事是ナリ、コノ三阻害ニ就キテ其原因ヲ詳説スレバ、第一麦酒ニ変質物即チ飴ヲ生スルニ至リシハ、十七年ノ秋ニアリテ、麦酒ニ一種粘液ヲ発生ス、依テ衛生局東京試験場及東京大学ニ分析ヲ依頼シ以テ其原因ヲ探究セントセリ、然ルニ其根本原因ハ不明ナルモ、大学ノ報告ニヨリテ通常酵母(イースト)ノ外ニ、微細ノ酵母(フエルメント)ヲ多量ニ含有スルヲ発見セリ、コノ(フエルメント)ハ粘状液ノ素成分ナレトモ、良好ノ麦酒ハ皆コノ少量ノ(フエルメント)ヲ含有スルモノトス、其含有多少ニヨリテ粘状ノ濃薄ヲ来スモノナルモ、其之ヲ生スル原因ニ至リテハ当時ニ於テ発見スルヲ得サリシモ、中川ハ大麦ニ黴菌ヲ生セルカ、又ハ多年使用シ来レル器械ノ汚損ニヨリテ不良質物ヲ混入スルニ因ルトナセリ
○中略
第二阻害ハ貯蔵麦酒ニ損傷ヲ生シタル事ニシテ、之レハ十六年十月以降ノ製品ニ始メテ発生シ、十七年ニ入リテ次第ニ其損傷ヲ増加セルヲ見ル、其状体ハ口栓キルク少シク抜ケ出テ、其間隙ヨリ酒液ヲ吹出シタルモノ尤モ多ク、其残液ハ既ニ腐敗シテ飲ムニ堪エス、又烈シク沸騰シテ沸騰シテ《(マヽ)》口栓ヲ吹抜キ、一滴ノ残液ヲ留メサルモノ、及其尤モ甚シキモノハ瓶ヲ破壊スルニ至ルモノ等ナリ、之レ又十六年十月以降ノ送品ニ多ク、十六年十月ヨリ十八年三月迄ノ総数四千八百〇弐瓶ノ中、損傷千七百八十四瓶ニ達セリ、此沸騰ノ原因ハ当時ハ之ヲ発見スルヲ得サリシモ、今日施行シツヽアル瓶詰後ノ火入法ヲ行ハサルニ因ルヲ知レリ
コノ火入法トハ瓶詰シタル麦酒ヲ温湯中ニ入レテ酵母ノ発酵力ヲ減殺スルモノトス
第三阻害ナル販路次第ニ閉塞シテ停滞品多クナリシ原因ハ、従来ノ醸造高五百石ハ此瓶数凡ソ拾弐万五千本ニシテ、其内北海道ニ七万五千本、新潟・加賀・大阪・越前等ニ弐万五千本、東京ニ弐万五千本ヲ売捌スルノ予定ナリ、然ルニ本道ノ消費高予想ニ反シ意外ニ寡少シテ、僅カニ弐万五千本内外ニ過キス、東京ニ於テモ僅ニ壱万五千本ヲ売捌クニ過キサル景況ナリ、之一般麦酒ノ需要少ナキニ非スシテ、他ニ競争者ノ本道麦酒ヲ圧スルモノアルタメナリ、即チ上等品ハ独乙・英国
 - 第11巻 p.356 -ページ画像 
製ノモノアリ、下等品ハ桜田ビールアリテ販売高何レモ本道麦酒ニ優レリ、本道麦酒ハ其中間ニ位シテ、最モ一般ノ嗜好ニ適スヘキ筈ナルニ、其販路ノ狭隘ナルハ、其代価ノ格外ニ不廉ナルニアリ、東京ニ於ケル札幌製一瓶ハ卸売原価拾七銭壱厘ニシテ、桜田製ハ拾弐銭五厘ナリ、札幌製ハ桜田製ニ比シテ品質優良ナルモ、桜田製ヲ購フモノハ其価ノ格別ニ廉ナルヲ喜ンテ、其味ノ悪シキヲ忍フモノヽ如シ
次ニ現今実施シツヽアル東京其他地方ノ売捌方法ハ、大取次人ニ其販売ヲ担任セシム、大取次人ハ其命令書ノ許ス範囲頗ル狭キ為メ、他ノ製品ト競争スルノ余地ナシ、之販路閉塞ノ主因ナルモノヽ如シ
以上ノ三阻害ハ東京物産取扱所ニ於テ認メタル事故ニシテ、札幌醸造場ニ於テハ増築ノ工事進捗シテ、十八年十二月落成シタル沸騰ポンプニ欠点アリテ、増築釜ニ於テハ未醸造ニ着手セス、且其原料ニ充スル大麦ハ従来米・独二国ノ種子ニシテ、皆能ク本道ノ地味ニ適スルト雖モ、年ヲ経ルニ従ヒ、漸ク変質スルノ患アルノ為メ、十八年新種ヲ更ニ独乙ヨリ購入シ、之レヲ播種セリ、其発育頗ル佳良ナリシモ、爾後気候不良ノ為メ大ニ収穫ヲ減シ、従来播種ノ大麦ヲ併セテ僅々参百八拾余石ヲ収入セルノミ、コノ新麦ヲ以テ将ニ増醸ニ着手セントシツヽアリシニ、以上ノ三阻害ノ為メ、本年醸造高参百拾六石八斗ナルニ、販売高弐百七拾参石五斗三升ニ過キス、醸造高ハ前年ヨリ増加セルニ販売高ニ於テ著シク減少セリ、八月麦酒ノ価格ヲ低減セルモ、大勢ヲ挽回スルコトヲ得ス
十一月中遂ニ一時販売ヲ中止セルニ至レリ、因テ独乙人ヲ雇ヒ、之カ改良ヲ謀ルニ決ス、十九年一月北海道庁ノ所管トナル、二月東京府民大倉喜八郎ヘ土地・家屋・器具余ノ物件ヲ払下ケ、代金弐万六千六百七拾余円ハ十九年十二月ヨリ廿一年十一月迄据置キ、廿一年十二月ヨリ八ケ年賦ニ徴収シ、外ニ現在麦酒及原料品代価ハ千弐百四拾参円弐拾参銭九厘ハ即時上納セシム、廿年九月道庁ニ於テ醸造師独乙人(マツクス、ポールマン)ヲ年俸参千円ノ割ニテ参ケ年間雇入レ、往復旅費及初年ノ俸給ハ官費支給ヲ以テ大倉組ヘ貸与シ、醸造ノ改良ヲ為サシム、十二月払下人大倉喜八郎ヨリ、年賦上納金二ケ年据置ヲ五ケ年ニ、(ポールマン)旅費給料補給一ケ年ヲ五ケ年ニ改メラレン事ヲ出願ス、因テ年賦上納金ハ当初命令ノ年ヨリ満五ケ年間ニ据置キ、又(ポールマン)ノ旅費給料ハ同上命令ノ年ヨリ満参ケ年間道庁ヨリ補給スル事ヲ許ス、尋テ喜八郎東京府民渋沢栄一外参名ト共ニ本場ノ組織ヲ改メテ札幌麦酒会社設立ヲ出願シ、道庁之ヲ認可シ、追テ命令書ヲ下附スル迄ハ十九年十一月卅日及其年十二月十五日大倉喜八郎ヘ下付セシ命令ノ通リ遵守スヘキヲ令ス、是歳醸造ハ教師ノ来着期ニ後レ、概ネ旧法ニヨレリト雖モ、其間多少改良スル処アリ、且ツ原料ノ準備充分ニシテ多量ヲ醸セリ、又販路拡張ニ力ヲ尽スト雖モ、元ト地方飲用ノ醸法ナルヲ以テ、遠地輸出ノモノ瓶詰後小売商ノ手ヲ経テ需要者ノ口ニ入ル迄数月ヲ経過シ、往々腐敗ヲ主トシテ好結果ヲ見ル能ハス、販売地方ハ札幌・小樽及ヒ近傍ノ各地ヲ最トシ、函館・釧路・根室・青森・石ノ巻・仙台・酒田・秋田・東京・横浜之ニ次ク、然レトモ東京・横浜ハ暑中輸出ニ不適当ナルヲ以テ販売ヲ見合セリ
 - 第11巻 p.357 -ページ画像 

〔参考〕北海道事業管理局沿革誌(麦酒沿革誌)(DK110053k-0013)
第11巻 p.357 ページ画像

北海道事業管理局沿革誌
     (麦酒沿革誌)
           (大日本麦酒株式会社札幌支店所蔵)
   札幌麦酒醸造石数
  年次    札幌工場 吾妻橋工場  年次   札幌工場 吾妻橋工場
 明治廿一年   四〇七石      卅一年  六、一四〇
   廿二年   八三九       卅二年 一一、二六一
   廿三年   八八一       卅三年 一四、三〇〇
   廿四年   九九二       卅四年 一三、五九一
   廿五年   五七五       卅五年 一六、七九七
   廿六年   八四二       卅六年 一五、二三三  二、一一六
                             (九月ヨリ)
   廿七年   七〇〇       卅七年 一一、二〇二 一三、二八七
   廿八年 一、七〇五       卅八年 一五、五三六 二〇、九三二
   廿九年 四、二二九       卅九年   合併
   卅年  六、一六三
   ○札幌麦酒株式会社政府関係書類ノ中、明治二十二年以前ノ分ハ紛失シテ見ルヲ得ズ、創立願書ハ明治二十五年以後ノ分ニ写ヲ綴込ミタリ。明治二十二年十月十日付願書ノ内容ヲ知ルヲ得ズ。
   ○大日本麦酒株式会社札幌支店ニ「麦酒沿革誌」ト称スルタイプライター刷ノパンフレツトヲ所蔵ス。中ニ開拓使事業報告・北海道事業管理局沿革誌等ヲ引用セリ。
   ○明治二十一・二年頃札幌麦酒会社営業成績ニ関スル資料若干渋沢子爵家所蔵文書(白一ノ一二―一五)ニアリ。


〔参考〕北海道庁第一回勧業年報 (明治十九年度) 【本年(十九年)北海道事業…】(DK110053k-0014)
第11巻 p.357-358 ページ画像

北海道庁第一回勧業年報 (明治十九年度)
 本年(十九年)北海道事業管理局ヲ廃セラレ、本庁ノ管理ニ帰ス、本庁乃チ区内養蚕ニ熟セシ者三名ヲ選ヒ、第一号園中、墾成地荒蕪地各五町歩以内ヲ貸与シ、八月第二号園ヲ挙テ、本道寄留華族菊亭修季ニ、三年間貸与シ、其事業ヲ続行セシム、又修季ニ葎草園ノ苗種ヲ第二号園ニ移植栽培セシム、命令書左ノ如シ
     命令書
 第一 白石村桑園及葎草園内建物ハ三ケ年間無料貸与ス可ニ付、建物葎草共桑園ニ取移シ葎草園地所ハ明治廿年十一月限リ返納スヘシ
     但葎草移植ノ順序及建物引移シ期限取調勧業課ヘ申出ヘシ
 第二 葎草移植地ノ撰定及栽培製造方法ハ総テ勧業課ノ指揮ヲ受クヘシ
 第三 製造葎花ハ上等品壱斤金四十銭ヲ以テ買上ヘシト雖、中等以下ニ至テハ其品位ニ拠リ直下ケ又ハ買上ケサル事アルヘシ
     但葎花入用高ハ其年ノ醸造都合ニ拠ルヘシト雖モ、予メ一ケ年ニ三千五百斤内外ヲ要スヘシ
 第四 貸与ノ建物引直シ及諸修繕費ハ一切自弁タルヘシ
 第五 貸与ノ器具類破却セシムルトキハ弁償スヘシ
 第六 貸与中葎花製造高及売上品ノ外、猶ホ残余アルトキハ其処分
 - 第11巻 p.358 -ページ画像 
順取調勧業課ヘ届出ヘシ
 第七 天災等ノ為メ葎花ノ収量ニ異変アリト認ムルトキハ速ニ勧業課ヘ届出ヘシ
 第八 貸与建物模様替等ノ節ハ図面ヲ添、勧業課ヘ申出ヘシ
  明治十九年八月五日       北海道庁長官
                    岩村通俊


〔参考〕北海道庁第一回勧業年報(明治十九年度) 第四 工業 官有工場処分 札幌麦酒醸造場(DK110053k-0015)
第11巻 p.358 ページ画像

北海道庁第一回勧業年報(明治十九年度)
 ○第四 工業
    官有工場処分
      札幌麦酒醸造場
 本場ハ札幌区ノ東ニアリ、明治九年創設スル所ニ係ル、其醸造法タル独国冷製ニ倣ヒ、其原料ハ本道産スル所ノ大麦及葎花ヲ用ヒ、以テ農業物消流工業勧誘ノ端ヲ啓ク、十年桶工場ヲ場内ニ設ケ、十二年麦酒貯蔵所ヲ手宮埠頭(後志国高島郡)ノ側ニ築キ、輸出ノ際一時蔵置スルノ用ニ充ツ、醸造及販売ノ数額逐年増加シ頗ル声価ヲ得タリ、十五年廃使置県本場ヲ農商務省工務局ニ属セラレ、十六年北海道事業管理局ニ転シ、十九年管理局ヲ廃セラレ本庁ノ所管ニ帰ス、本年十二月一日本場ヲ挙テ之ヲ大倉組商会頭取大倉喜八郎ニ払下ケ、其事業ヲ続行セシム、其代償ハ弐万六千六百七拾弐円余、其上納期限ハ二ケ年据置、三ケ年目ヨリ向フ八ケ年賦ト定メ、廿九年十一月ヲ以テ完納セシム、本年中職員職工及経費製造額等左ノ如シ○下略
   ○北海道開拓使時代ノ麦酒醸造ニ付テハ「札幌商工会議所、草創時代に於ける札幌の工業」(第二七―三〇頁〔昭和一一年一〇月〕)参照。
   ○北海道庁勧業年報ハ「札幌ビール沿革資料後篇」(大日本麦酒札幌支店所蔵)ヨリ採レリ。


〔参考〕サツポロビール沿革誌 第三―一六頁〔昭和一一年七月〕(DK110053k-0016)
第11巻 p.358-362 ページ画像

サツポロビール沿革誌 第三―一六頁〔昭和一一年七月〕
    一、開拓使時代
 札幌麦酒の発祥 現代随一の文化的飲料である麦酒が、今から六十年の昔、当時尚ほ蝦夷ケ島と謂はれた北海道で生産されたことは真に不思議のやうに思はれるが、其間の事情をよく調べて見ると、深く先人の苦心が偲ばれて啓発される処が甚だ多いのである。
 そもそも本道の開拓使制度は、明治二年七月八日に始まり、明治十五年二月八日に於ける廃使置県に終つたのであるが、東久世長官が侍従長に転じ、次官黒田清隆氏が長官となるに及んで一層本道の産業開発に努め、その治績は日を追ふて頗る顕著なるものがあつた。
 而して明治五年には新たに開拓使に生産係を置いて主として農工業方面を担当せしめ、翌年には鉱山・博物・勧業を併せて之を物産局と改称した。当時本道に招聘された米人トーマス・アンチセル氏は蝦夷の南方に野生のホツプを発見し、北海道の地味気候がホツプの栽培に適する事を明治五年七月に建言し、越えて同七年一月には開拓使顧問ゼネラル・ホラシ・ケプロン氏もまた之を献策して居るから、当時既に麦酒事業に関心をもたれた事が明らかに窺はれるのである。
 次いで明治八年に再び職制が改まり、鉱山・製煉・博物の三課が新
 - 第11巻 p.359 -ページ画像 
たに設けられ、製造工業はすべて製煉課の管掌する処となつた。而して当時札幌官園及び札幌附近に播種された大麦は概ね外国の優良種子であつて、自然収穫も多く品質もまた良好であつたから、開拓使に於ては本道の農産物を利用する趣旨から之を原料として麦酒業を起すことに決定したのであつた。
 即ち明治八年八月に、かつて独逸伯林のティフオリー醸造所で醸造技術を習得した中川清兵衛氏を御用係雇に任命していよいよ事業を開始したのである。醸造所は最初は試験の為に東京に建てる計画であつたが、係役人村橋久成氏は北海道は気候も醸造に適し且つ冷蔵も容易であるから、最初から現地に建てる方が再建の費用も省ける旨を建言したので当局者も之に従つた。かくて明治九年六月二十七日、現在の当工場敷地に総工費八千三百四十八円十二銭三厘の予算で着手、同年九月八日に竣工し、同月二十三日午後一時から開拓使札幌麦酒醸造所の開業式を挙行したのであるが、之が実にサツポロビールの起源である。
 尤も更に源流に遡れば、明治四年七月東京に設置された大蔵省勧農寮では輸入麦酒が年々著しく増加するのを見て早くも麦酒事業の必要を痛感し、研究生を米国に派遣したほどであつた。然るに同寮の事業は翌五年十月に廃止された為に折角の計画も自ら立消えとなつて了つた。之が其後五年にして遂に開拓使の手によつて実現されたのであるから何人も我が麦酒事業の源遠く流深きを思ふて少からぬ興味を覚えるであらう。
 札幌麦酒は一切独逸流の醸造法に従つて製造したのであるが、最初の醸造高は一ケ年僅かに百石に過ぎなかつた。開拓使では之を札幌冷製麦酒(一名日耳曼ビール《ゲルマン》)と称し、「尋常舶来麦酒ノ火酒力ヲ籍テ醗酵セシメ沸騰激烈健康ニ益ナキモノト全ク製法ヲ異ニス」云々と吹聴して発売したのは同十年六月頃であつた。
 札幌の気候風土が麦酒の醸造に適した関係もあつたのであらうが札幌冷製麦酒は全く醇良なものであつた。第一回の醸造分は大半東京に送り、第一に開拓使の名によつて之を宮内省に献上した後、知名の士に寄贈したり、或は都下の新聞に払下げ広告を掲げて大に宣伝に努めた。この際開拓使の麦酒販売業者は都鄙を通じて徴税免除の特典を受けてゐた。
 然し創業早々の事であるから種々の苦心を払つたのは言ふまでもない。特に製氷機械の完備しない当時であるから麦酒の保存には余程苦心したらしい。小樽港から積出する際には色内川の氷と共に輸送する計画をたてたり、或は大取次人である函館竜紋氷で名高い中川嘉兵衛氏に命じてその氷倉を利用した事などもあつた。小樽手宮埠頭の岩窟に斜めに洞穴を穿つて光線の通らぬ様にし、其処に麦酒や缶詰類を貯蔵した事もあるが、これは当時浦塩斯徳地方で行はれた構造を真似たものであつた。
 開拓使麦酒は一般に好評を博し、独逸醸造学士オ・コルセツト氏は、「日本醸造ノ麦酒トシテハ一ノ欠点ナク、透明ニシテ沈澱物ナク炭酸ヲ含有スルコト亦充分ニシテ良好ナリ」と推称し、中川技師の学んだ
 - 第11巻 p.360 -ページ画像 
伯林ティフオリー麦酒醸造会社でも「柔軟キエール麦酒ノ一種ノ美味ヲ帯ビ、上製麦酒ト称スベシ」と評したほどであつた。
 其時代の大麦とホツプ 本道で初めて大麦の耕作されたのは遠く安政年間からであるが開拓使の時代に入つてから大に之を奨励したので次第に生産石数を増加した。札幌官園の大麦は明治八年に百十石、翌年には百九十五石を収穫したが、明治十二年五月に墺国のメーレン州から醸造用二条大麦の種子十二石を輸入して広く耕作せしめたので、十四年頃からは醸造用の良種大麦を充分に供給し得るやうになつた。
 次にホツプに就て見ると、北海道に野生のものは遺憾ながら香気が薄いので明治十年四月に米独両国からホツプ苗を輸入し、庁下虻田通(道庁前辺り現在の北二条より北四条までの西四丁目)に最初の葎草園《ホツプ》を設けた。園の面積は五千五百一坪、移植した株数は米種六百四十四株、独種二百一株であつた其後も怠らず度々良種を移植して自給の道を図つたので産額も年々増加すると共にその品位も次第に向上するやうになつた。
 麦酒の醗酵に用ひる酵母も、最初は独逸から輸入したが、その取扱ひ等に就ては非常に苦心を要した。
    明治天皇の御臨幸
 明治十四年八月三十一日 明治天皇は北海道御巡幸の砌、畏くも当麦酒醸造所に御臨幸の光栄を賜はつた。明治天皇御巡幸記には
 「十一時三十五分麦酒醸造所へ臨御あらせらる。佐藤物産課長場員を率ゐて門外に奉迎し、直に御先導、楼上に於て貯麦所・冷酒所・煎麦所・楼下に於て製酒所・瓶詰所・醸酒所・酒窖・製蘗所等御通覧あらせられ、便殿に於て御休憩、此の時麦酒を献ぜしに、重ねて御望あり之を奉る夜に入りて、又一「ダース」を行在所に献ぜり」と謹記してある。
    開拓使時代の札幌麦酒醸造所醸造石数

図表を画像で表示開拓使時代の札幌麦酒醸造所醸造石数

 年度  九年        十年         十一年        十二年        十三年         自十四年七月至十五年二月八日 醸造高 石数    石          石          石          石          石           石    一〇〇、〇〇〇    一五〇、〇〇〇    一八〇、〇〇〇    一六九、八二五    三三〇、三二〇     一〇八、〇〇〇 価格     円          円          円          円          円           円    二、三四六、二五〇  三、五七七、二九〇  四、一七六、七二〇  六、七九三、二八九  一三、二一六、〇六二  三、九一五、〇〇〇 



    開拓使札幌本庁物産局麦酒醸造所(明治十四年七月現在人員調)
係員(判任) 係員(雇) 製造人(雇)   職夫     合計
   四     二      一     一五     二二
    二、事業管理局時代
 開拓使は明治十五年二月に廃止され、新たに函館・札幌・根室の三県が新設された。この三県時代は明治十九年まで続いたが、この間を通じて麦酒醸造と葎草園《ホツプ》とは共に農商務省の管轄下に移つた。農商務省北海道事業管理局所轄事務所処務規定によると、札幌麦酒醸造所は同局札幌工業事務所で所管し、葎草園《ホツプ》は、同局札幌農業事務所で所管した。
 当時の醸造所は、営業資金八千六百三十六円、醸造場二百三十六坪五合、敷地三千六百坪といふ小規模なものであつた。然し麦酒の需要は年年増加して来たので開拓使に於ても明治十三年に年五百石の醸造設備に増築を行つたが、同十八年十二月には更に千石の設備に拡張し
 - 第11巻 p.361 -ページ画像 
た。
 麦酒壜については開拓使時代より製造場を設立する意志はあつたが硝子の原料が発見出来なかつた為め大に苦心した。最初は輸入麦酒の空壜を使用したが、後には麦酒の需要が増加し、瓶型にも流行の変遷があつたので東京に注文して品川製を用ひた。また陶器製の麦酒壜が用ひられたのもこの時代で、之は主に東京製のものであつた。
 その当時の壜はすべてコルク栓でそれに封蝋を塗つたものであるから栓を抜く時に封蝋が砕け落ちる懸念があつた。この欠点を除く為に錫箔が用ゐられたが、これは其後、王冠コルクが実用されるまで続いたのである。
 麦酒の販売は北海道三県下への払下げ及び外国への輸出は直接管理局が取扱ひ、道内には十一名の販売人を許可した。東京其他内地への販売に就ては一時直接払下制をとつたが、この時代に至つて再び東京府下十二名、大阪府下に一名の大取次人を設けた。何れも公債証書を担保に供託させて満三ケ年間の営業を許可したのである。大取次人への麦酒の払下げは定価の一割引であつたが、一函以上の売捌値段は払下げ原価の一割増を超過してはならぬといふ掟があつた。
 当時の麦酒の払下げ代価は
   札幌 四合入一瓶 金十五銭四厘
   小樽 〃     金十六銭三厘
   函館 〃     金二十一銭
   東京 〃     金二十一銭
で、かやうに定価が一定しなかつたのは、札幌の代価を基準としてそれに各地迄の運賃を加へたからである。
 さて創業時代の苦心も追々に酬ひられ、販路も東京を始め、大阪・京都・神戸・越前・加賀・越後方面に迄広まつたのであるが、明治十七年の秋頃からこの進路を阻害する様なことが起つた。即ち当時は、独逸及び英吉利製麦酒が盛んに輸入され、内地産のものでは桜田麦酒が全盛を極めてゐたので、自然開拓使麦酒も販路を開拓する為には市価の引下げを余儀なくされたことが一つ、更に不良雑菌の為に貯蔵麦酒が粘性となる様な故障が起つたのもその一つであつた。当時の開拓使麦酒は冷製麦酒と称し、今日の生麦酒風のもので余り保存がきかない為に、地売りの場合には差支ないが、遠方へ輸送する際には腐敗の憂ひがあつた。殺菌方法を全然知らなかつた当時のことであるから、之等の腐敗を予防する苦心は誠に想像に余りあるものがある。
 これらの関係を加へて先進国の技術を習ふ必要もあるといふので、十八年に至り独逸から醸造教師を招聘することゝなつたのである。
    三、大倉組時代
 開拓使の麦酒醸造所は明治十九年一月に事業管理局から北海道庁の所管に移つた。開拓使が創設した事業もこの頃に至つて漸やくその成果が現はれ、ほヾ前途も見込みもついて来たので之を民間に払下げ一層の発達を計らうとする意見が起り、終に明治十九年十二月に麦酒醸造所は大倉組商会頭取大倉喜八郎氏に払下げられたのである。大倉組の経営したのは僅か一ケ年に過ぎなかつたが、本道に於ける官営醸造
 - 第11巻 p.362 -ページ画像 
事業が民間の経営に移つた記念すべき時代である。
  明治十九年に於ける醸造所の収支計算によると
    醸造高  五百七十六石  此代価 金九千二百十六円
    諸経費            金一万四千五百十二円
      差引  損金五千二百九十六円也
となつてゐる。
 而して麦酒改良の為に北海道庁が独逸から招聘した醸造教師は予定より後れて大倉組の時代には間に合はなかつたので、此間は全く従来の醸造法によつてゐた。然し大倉組に移つてからは大に宣伝に努めた結果、醸造高は相当に増加した。
   ○開拓使時代ニ於ケル麦酒醸造ニ付テハ「大日本麦酒会社三十年史」(第一一五―一四三頁〔昭和一一年三月〕)ヲ参考。


〔参考〕渋沢栄一 書翰 伊藤謙太郎宛(年未詳)四月二日(DK110053k-0017)
第11巻 p.362 ページ画像

渋沢栄一 書翰 伊藤謙太郎宛(年未詳)四月二日(渋沢子爵家所蔵)
別紙西川虎之助より来状御廻申上候株金集合之事ニ付而ハ、尚来報有之筈と存候間、其上ニて株主ヘ通知相成候而可然と存候、又此来状ヘ之回答も右再応之通知有之候上、并而回答状御取調被下候而可然と存候併もしも両三日を経て別に株金集合之請求表向書状ニ不申来候ハヽ、電報ニて問合遣し候方可然と存候、是又御含御取扱可被下候、右申上度 匆々再行
  四月二日                 渋沢栄一
    伊藤謙太郎様


〔参考〕渋沢栄一 書翰 伊藤謙太郎宛(年未詳)五月一六日(DK110053k-0018)
第11巻 p.362 ページ画像

渋沢栄一 書翰 伊藤謙太郎宛(年未詳)五月一六日(渋沢子爵家所蔵)
拝見仕候麦酒会社事務ニ付、土田・西川ヘ回答書案一覧候処、別ニ異見無之候ニ付、草案ニ小印返上仕候、早々御出状御取計可被下候
村尾氏も漸快方之由ニて昨日一寸面会仕候、追々出勤相成候様なれハ是迄之手続夫々御伝達御引継可被下候、右拝答旁得御意候 匆々
  五月十六日
                      渋沢栄一
    伊藤謙太郎様