デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
9節 麦酒醸造業
2款 札幌麦酒株式会社
■綱文

第11巻 p.381-391(DK110056k) ページ画像

明治33年3月21日(1900年)

是日栄一、当会社重役会ニ出席シ、東京市本所区
 - 第11巻 p.382 -ページ画像 
中ノ郷瓦町一番地(旧佐竹邸)五千三百三十余坪ニ建設スベキ分工場敷地ノ件ヲ決ス。


■資料

大日本麦酒株式会社三十年史 第一七―一八頁〔昭和一一年三月〕(DK110056k-0001)
第11巻 p.382 ページ画像

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渋沢栄一 日記 明治三二年(DK110056k-0002)
第11巻 p.382 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三二年
五月十二日 雨
午前九時兜町ニ於テ札幌麦酒会社ノ事ニ関シ大倉・浅野・増田多郎諸氏ト会話ス、植村氏ヘ電報シテ至急其出京ヲ促シテ再議スヘキコトニ決ス○下略
五月十八日 曇
○上略札幌麦酒会社ノコトニ関シ大倉・浅野・植村諸氏来会ス○下略
五月廿二日 曇
午前、植村澄三郎・浅野総一郎氏等来リ札幌麦酒会社ノコトヲ談ス
○下略


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK110056k-0003)
第11巻 p.382 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三三年
三月二十一日 曇
○上略十時大倉・植村・増田多郎諸氏来ル、札幌麦酒会社重役会ヲ開キ植村氏身上ノコト及分工場敷地ノコトヲ決ス○下略
六月十七日 曇
○上略午後一時ヨリ札幌麦酒会社ノ分工場ニ宛タル庭園ニ於テ園遊会ヲ開ク、余興数番アリテ頗ル盛会ナリ、此日会スル者四百五十余人余ナリト云フ○下略


竜門雑誌 第一四五号・第三六頁〔明治三三年六月二五日〕 ○札幌麦酒会社の事業拡張(DK110056k-0004)
第11巻 p.382 ページ画像

竜門雑誌 第一四五号・第三六頁〔明治三三年六月二五日〕
    ○札幌麦酒会社の事業拡張
青淵先生の社長たる札幌麦酒会社に於ては大に其事業を拡張するがため、今回東京向島なる旧佐竹邸の全部を買収し分工場を建設する筈なるが、同社専務取締役植村澄三郎氏は器械購入其他の用務を兼ねて来る八・九月頃海外に渡航する由なり○同年十月中旬出発セリ


雨夜譚会談話筆記 下・第四四三頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK110056k-0005)
第11巻 p.382-383 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第四四三頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
    雨夜譚会(第十五回)
  麦酒会社の土地買収に関する大倉対植村両氏の口論と真相
 - 第11巻 p.383 -ページ画像 
                     (植村澄三郎氏談)
札幌麦酒会社は、初め西川氏等が氷製造から青淵先生を中心として麦酒会社を起さうとして居つたのを、当時北海道開拓使から麦酒工場の払下を受けて居つた大倉喜八郎氏が聞き、そんな計画があるのならば、一しよにやらうと云ふことで北海道札幌のものを会社組織にしたので、私は青淵先生の御推薦を受けて実際の仕事に従事するやうになつたのであります。大倉さんと喧嘩を起したのはそれからずつと後、麦酒会社で今の吾妻橋の工場敷設《(地)》を買ふた時のことであります。其時候補地が二つあつた。一つは浅野さんの現在住ひにしてある土地で浅野さんが買つたばかりの時、此田町の土地を坪六円で売ると云ふ。又一つは大倉さんの紹介で土地ブローカーの木村粂一と云ふ者が持ち込んだ現在の吾妻橋工場の敷地五千五百坪でありました。私は色々将来の発展のことや交通の関係を考へ、浅野さんのものより木村の持ち込んだ方が将来会社の為によいとした。そして(私個人のものとするなら非常に割安の浅野さんの土地が有利であるからそれを買ふが、会社の工場敷地としては将来を考へて、木村の持て来た方がよいと思ふ)と云つた処、大倉さんが(自分のものなら有利な浅野の土地を買ふけれど、会社のものだから不利な吾妻橋の方を買ふと云ふのは不都合だそんな人に会社を預けて置くことは出来ない)と立腹したので、私も若い時ではあるし、直ぐに辞表を出しました。すると子爵の御使で益田太郎君が訪ねて来て一体どうしたのかと云ふから事情を話すと夫を話したと見えて、子爵に呼ばれ(其様なことで喧嘩をすることがあるか、大倉は誤解して居る。君は自分のもの以上に会社のことを大切がるからさう云つた。処が大倉の方は君が会社のことはどうでもよい。自分のことばかり大切にすると云ふように考へたから出た云ひ分で、会社のことを思ふ情は両者とも同様である)と云はれ、それから青淵先生が間へは入つて大倉さんによく説明せられ、大倉さんもそうかと云ふて誤解も解け、引続き私が会社の経営をやることになりました。処が之にまだ話があります。こんな経緯で木村の持ち込んだ土地を坪十八円で買つた。然るに木村が三千円とかコンミツシヨンを取り、之は植村にやるのだと云ふたそうで、此土地の持主であつた建物会社の或る人が(植村が口銭をとつた)としやべつたことが聞えたので、私は直ぐ木村を呼びつけ(その三千円を出せ)と迫つた所が、それはひどいと云ふ、植村にやつたと云つたと云ふことではないか、そんならはき出すのが本当ではないかと責めたがどうか許してくれと云ふから此始末を大倉さんに白状するなら許してやらうと云ふことにし、結局大倉さんに白状したので許し、会社は手数料をやらずにすみました。
   ○第十五回雨夜譚会ハ昭和二年十一月十五日飛鳥山邸ニ開カレ、出席者ハ栄一・同夫人・穂積歌子・武之助夫人・正雄夫人・敬三・増田・渡辺・白石・小畑・高田、係員岡田・泉。


青淵先生に関する諸氏の談話 「麦酒会社との関係に就て(植村澄三郎氏談)」(DK110056k-0006)
第11巻 p.383-385 ページ画像

青淵先生に関する諸氏の談話            (雨夜譚会所蔵)
    麦酒会社との関係に就て(植村澄三郎氏談)
○上略
 - 第11巻 p.384 -ページ画像 
 扨てビールも其後に及んで段々売行が多くなり、東京へも工場を建てねばならぬことになつた。明治三十二・三年の頃であつた、東京で工場の位置を定めるに就て二つの候補地があつたのである、一つは取締役の一人であつた浅野総一郎氏が芝の田町に土地を持つて居つた、即ち今の浅野邸である、当時浅野氏は永代橋の脇に住んで居られたのだが、田町にも土地を持たれ此処は交通の要路に当り市内として利便の場所であり、且つ運搬の都合もよくエビス麦酒に対抗するによい位置にあつた。今一つは吾妻橋東詰の現在の場所で、私としては広告の出来る水運の便のある吾妻橋の方をよいと考へたが、兎に角此の二つを選定して、取締役であつた大倉喜八郎氏にはかつた処、氏は曰く、『自分のものとしてはどちらがよろしいか、君はどちらを買ひますか』と、私は即座に『私自分のものなら浅野さんの田町の方を買ひます』と答へた処『君はどうもけしからん、自分のものなら田町を買ひ、会社のものだからとて吾妻橋の傍を推薦する、何か為めにする処があるのだらう』と非常に立腹せられた。私は此処で考へざるを得なかつた、と云ふのは、此地面を紹介したのは大倉さんである、私としては交通の便もよく工場の位置として最も適当と認めたから、それを推薦したのに、大倉さんが立腹するとは其の意のある処を判断するに苦しむ、私はこれを甚だ不満として別れて帰つたが、更に斯くの如き重役と同じ仕事をするのは前途頗る心もとないとして、又々青淵先生に此事を訴へ、先生の御判断をわづらはした。そして双方の主張を御話した処、先生は手を打つて笑はれた『それはお前が大倉の考へを誤解して居る、私の察する処両人共会社の為めを考へて居る結果相互に立腹したのだ特に大倉に事情を尋ねるまでもない』と、要するに植村は大倉と交際して日が浅い為め大倉の真意を了解せず、大倉も植村をよく承知しない為めの誤解であると一笑に附せられた。併し私には尚ほ其意味が如何にも了解が出来なかつたが其後よくよく聞くと、大倉さんは自分の立場から物を考へて居るから、私が会社本位の立場から会社のものは自分のものより大切であると考へて居るに拘らず私の返事を自分流に解釈して、自分のものなら買ふが、会社のものだから有利な田町の方を買はぬと云ふものと思つたのだ、其処が双方誤解のもとである、と云はれるのであつた、たぶん大倉さんも其後青淵先生から話を聞かれて了解されたことゝ思ふ。斯くて此問題は両人の目のつけ処が相違して居たと云ふので、一たん出した私の辞表は撤回したのである、蓋し先生が人を見るの明あるのに感ぜしめられた、斯くて工場は吾妻橋に定つたが、それは五千五百坪あつて十万円であつた、昔からの佐竹の邸で庭もそのまゝに残つて居た処から、後に庭石だけが五万円に売れた程である。其後は大倉さんも私の意ある処を知られ、会社も発展して行つた、扨て工場の土地が定つたとして工場の設計をしなければならぬが、それは何処までも最新のものにしたいと思ひ、私か一度欧米の斯業の状況を視察した上で、との意見を述べた処、直ちに採用され三十三年の秋私は欧米へ行くことになつた、私は当時非常に熱心に事に当つたが、機械のことは更に判らなかつたので、青淵先生の御言葉により大川平三郎氏に相談することになつた、即ち大川氏を
 - 第11巻 p.385 -ページ画像 
此時初めて知つた訳である。
○下略


第四課文書 商工会社十巻明治三十二年(DK110056k-0007)
第11巻 p.385 ページ画像

第四課文書 商工会社十巻明治三十二年    (東京府庁所蔵)
    株式会社出張店登記結了御届
今般東京市日本橋区南茅場町弐拾番地ヘ当会社出張店設置仕候ニ付、商法第百六拾九条ニ拠リ明治三十二年五月十二日東京区裁判所ニ於テ登記結了仕候間、此段御届申上候也
  明治三十二年五月卅日
             北海道札幌区北二条東四丁目
                  札幌麦酒株式会社
                   専務取締役
                    植村澄三郎(印)
             東京市日本橋区南茅場町二十番地
                  札幌麦酒株式会社出張店
    農商務大臣 曾禰荒助殿


大川平三郎君伝(竹越与三郎編) 第二三八―二三九頁〔昭和一一年九月〕(DK110056k-0008)
第11巻 p.385 ページ画像

大川平三郎君伝(竹越与三郎編) 第二三八―二三九頁〔昭和一一年九月〕
    第十、ビール会社から上海華章公司
○上略
明治三十二年にありては、二十九万円たらずの財産と、一年四万円の収入があれば、一大財力であつて、常人にありては一時休息するのが普通であるが、不休の精神の充満したる大川君は決して休息はせぬ。札幌ビール会社の植村澄三郎君の相談に応じて、明治三十二年八月再度監査役(先是二十七年監査役となり三十一年辞任)となり、更に同三十四年八月には常務取締役の事務を執ることゝなつた。当時札幌ビール会社はヱビスビール会社と対抗すべく東京に於て一大工場を開設する計画があるので、大川君を招聘して、其の事に当らしめんとしたのである。
 斯くて吾妻橋の附近に赤煉瓦の工場が建築せられたが、それは大川君の計画と監督によつて出来たものである。従来ビール工場は多くは山麓に立てられ、山の中腹に横穴を穿ち、其の中でビールを醸造したのであるが、其の頃新しき研究が行はれ、太陽の熱を遮断するためには、横穴よりは空気を充満したる壁を以て、醸造室を掩屏するのが有効であると言ふことに決定したので、吾妻橋畔に建築した工場は右の研究に基づき、厚さ三尺五寸の壁を以て掩屏したが、其の壁は二重の処もあり三重の処もあつて、其の間に空気を密包して太陽の熱を遮断し、之によりて完全なる氷室を造り得たのであつて、之もまた大川君の主張によつて成つたものである。
 斯くて札幌ビールが玆から売り出されたが、其の当面の敵としてヱビスビールを駆逐せねばならぬといふので、植村君と大川君とで種々の販売政策を講究し、完全に浅草地方からヱビスビールを駆逐してしまつたが、此の激烈なる競争の結果として、明治三十九年一月札幌・ヱビス・朝日の三ビール会社の合同となつてしまつた。
 - 第11巻 p.386 -ページ画像 

渋沢栄一 日記 明治三六年(DK110056k-0009)
第11巻 p.386 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三六年
二月十四日 晴
午前十時向島札幌麦酒会社分店ニ抵リ株主総会ヲ開ク、畢テ新工場ヲ一覧シ○下略



〔参考〕東京経済雑誌 第四三巻一〇六六号・第二〇三―二〇六頁〔明治三四年二月二日〕 ○麦酒業者の課税反対意見(DK110056k-0010)
第11巻 p.386-391 ページ画像

東京経済雑誌 第四三巻一〇六六号・第二〇三―二〇六頁〔明治三四年二月二日〕
    ○麦酒業者の課税反対意見
全国麦酒業者同盟会にては、内国麦酒に課税の不可なる理由を述べて左の如く云へり
 我政府は増税案を第十五帝国議会に提出するに際し麦酒をも其税源の一に数へ、直に之に課するに一石七円の重税を以てせんと擬せらる、是啻に我国麦酒醸造事業の発達を挫折する而已ならず、之を衰頽せしめ之を自滅せしめ併て将来有望なる重要税源を烏有に帰せしむるものなり、今其事情と理由とを左に開陳して以て明断を請はん
     我国麦酒醸造事業創始期に在るの事情
 麦酒醸造事業は今尚創始の時期に属す、仮令、政府は其発達を保護して以て国家の為に永遠の利益を計らざるも、重税を将て之に鉄鎚を下し、斯業を打撃して可ならんや、夫れ麦酒の我国に輸入せられたるは二十余年の前に始まれりと雖も、其需用漸く内地に増加したるは明治十八九年の交に在りて、即ち独逸麦酒か盛に輸入の勢力を得たるの時なりとす、既にして明治二十年に到り「きりん」麦酒の醸造先づ横浜に起り、尋て恵比寿麦酒は東京に、旭麦酒は大阪に起り、其他亦相尋て各地に勃興したりと雖も、内にしては未だ曾て経験なきの新事業に委頓し、外にしては外国輸入の強敵に会ひ、拮据経営備さに辛苦を嘗め、百難を排して漸く今日に達し、遂に三・四年前よりして全く外国麦酒の輸入を杜絶するを得たるなり
 今や我国に於ける麦酒醸造高を通算するに、僅々拾壱万余石に過ぎず(別表第一を参観すべし)是を清酒醸造高四百余万石に比較すれば実に其四十分一弱たり、若夫れ酒精分より算すれば其百分一にも該当せざるなり、更に進みて欧米諸国の醸造高と(別表第二)消費高(別表第三)とに対照すれば九牛の一毛も啻ならず、此一事以て我国麦酒醸造の今尚創始期に属して其発達の前途は太だ遼遠なるを証するに余ありとす、然るを今日にして早くも課税の為に之か発達を遏止して、事業の衰滅に陥るを顧みざるは国家の長計を得たるものと云ふべき乎
     我国麦酒醸造に関し原料等の事情
 我国麦酒醸造の今尚創始期に属するは其醸造石高に於て然りとする而已ならず、其原料及び用具に於ても亦然りとす、抑々麦酒の原料たる大麦は我内地産の大麦は其質醇良の麦酒を醸造するに適せざるを以て、概ね其全部の輸入を独逸に仰ぎ、我国産の物は纔に其一割弱を混用するに過ぎず、是我麦酒の佳良以て外品を圧倒する所以なり、然れども原料を外国に仰がんこと素より醸造者等が中心より冀
 - 第11巻 p.387 -ページ画像 
ふ所に非ざれば、醸造者等は数年前より各地方の農事試験場を介し麦酒の原料に適する大麦の試作を鋭意奨励しつゝあるを以て、数年の後には全く原料大麦の輸入をも防遏すべきの望あるに至りぬ、豈是国家の為に新に一利源を啓発するものに非ずや
 然るに今麦酒の資料たる麦芽忽布及《マルトホツプ》び用品の輸入を、昨年度に於てせる其金額は壱百六拾四万円余に上れり(別表第四)是等の諸品も原料の我国に求め得べき限りは自然に其製作を奨励し、漸次に輸入を杜絶するの途に就かんとす、然るを今や課税の為に麦酒醸造事業の根本先づ倒るれば、此耕作製品も亦従つて止み空く国利を失ふものに非ずや、是豈国家の福利ならんや
     我国麦酒醸造の衛生上に必要なる理由
 瀕年麦酒飲料の漸次に増加するの趨勢あるは、是れ我国民の衛生思想の発達と倶に酒精少量の飲料を嗜好するの証にして誠に喜ぶ可きの現象なりとす、抑々多量の酒精を含有する飲料の人身を蠱毒するや弁を費さずして明なり、之に関して去年仏国大博覧会閉場式に臨める白耳義全権公使は演説して曰く「頃年欧洲諸国民が酒精多量の飲料を嗜好する頻に其程度を昂上すること寔に憂ふべきの禍因なり中流社会より以下一般の飲料としては麦酒を以て最も無害なりとするが故に、衛生上の要義よりして各国政府は麦酒の醸造を一方に保護し、多量酒精の飲料を一方に排斥せざる可からず、然らざれば全欧の国民は遂に酒精中毒の為に鏖殺せらるゝに至らん」と実に至言と謂ふべし、左れば欧米各国の麦酒に於ける或は全然其醸造を無税にし、然らざるも其税率を軽くして之を保護するを怠らず、既に瑞典の如きは寒国の慣習として国民盛に酒精飲料を嗜好し、多数の中毒患者を現出して止まざるに由り、瑞典政府は衛生上の必要より一方に向つては酒精飲料に重税寧ろ禁止税を課して其製造若くは輸入を抑制し、一方に向つては年々壱百万有余石の税源を断然抛棄して麦酒の醸造を保護す、其他独逸・英吉利・墺太利・白耳義・仏蘭西露西亜・北米合衆国等の如き、酒類に課するに概皆重税を以てするに拘らず独り麦酒に対しては勉めて其税を軽減するの実あるは他なし、国民衛生の重きを是れ祈るが故なるのみ
 然るに我国今日麦酒の価格たる之を欧米諸国に比較すれば迥かに高価にして、恰も気度に反比例の観を呈するか故に其未だ中流以下の飲用に供するに至らず、空しく彼輩をして酒精中毒の人たらしむること寔に遺憾の至なり、願ふ所は早く内地麦作の改良を実行し輸入原料に換るに我内地の産麦を以てし、麦酒の醸造費を減じ以て衛生の一助と成さんとするに在るの時機に際し、俄然之に課するに一石七円の重税を以てせば我国醸造の麦酒は中流以下に普及の絶望なるは勿論、忽に外品輸入に圧倒せられて事業の滅亡に陥らんは太だ明白なり
     我国醸造の麦酒に課税するの不可なる理由
 説を為す者云はん「麦酒一石七円は敢て重税と云ふべきに非ず、一瓶(四合入)僅に三銭の直上なるのみ、未だ外品の為に圧倒せらるるの患なしとす、若し果して之ありとせば其時に至り麦酒に対する
 - 第11巻 p.388 -ページ画像 
関税を改正せば則ち可なり」と、是れ全く実際を詳悉せざる机上の言なる而已、夫れ麦酒の我国に行はるゝ瓶詰を以て普通なりとす、而して醸造高一石の麦酒を瓶詰に為す迄には諸種の原因に依りて少くも二割五分を減じ、一石は実際七斗五升に減量するを以て一石七円の名称は一石九円参拾参銭の実率と為り、即ち一瓶に付凡四銭余の税を課するものなり、是を将て英独仏三国の税率と価額とに比較せば(別表第五)、其軽重果して如何ぞや、若し内国麦酒にして一石九円一瓶四銭を昂貴せば外国麦酒の我国に侵入するに屈竟の機会を与へ、之を防止するの力無きを慮らざるを得ざるなり
 今夫れ我内国醸造の麦酒を将て之を欧洲諸国に比すれば比較す可からざるの高価なり、然り而して其以て欧洲諸国の外品に対抗して輸入を杜絶し得る所以のものは、市中の売価に於て聊か我、彼より廉なるに由るが故なるのみ、夫れ内品に飽きて外品の珍奇を喜ぶは人情の常たり、若し内外の麦酒にして同価ならん乎、需用者は皆争ひて外品を択び復誰か内品を採る者あらんや、況や外品にして却て内品より低価なるの場合に於てをや、聞くが如くなれば目下香港に於ては一大麦酒醸造会社設立の計画漸く熟し、其企業は独逸人等に由りて組織せられ、壱千万円の資本を以て其規模を大にし、販路を普く東洋に拡張するの目的にして既に樽桶等製作の為に必要の職工を我国より雇聘し、日夜其竣工を勉めつゝあり、云へり果して然らば一旦我国より排斥し得たる外国麦酒は目前また斯る一大会社の新に興起して、更に来襲の整備を為すこと実に我に取りては強敵なりと云はざる可からず、此時に当りてや現状の如くなるも尚これが防禦に競争の苦戦あらんことを恐る、然るを内にして重税負担の困難に会はゞ、戦はずして先づ敗れんは数の最も覩易きものに非ずや、斯の如くなるも尚内国麦酒に重税を課するも国家の不利益に非ずとする乎
     我国麦酒醸造は将来の一大税源たるの理由
 然りと雖も我国麦酒事業に向つて永遠に課税すべからずと断言するに非ず、之に反して麦酒は将来に於ける一大税源たるを以て須く之を今日に保護して、其養成を助け他日の大用に供するの計を為すべしと切言するものなり、山林の幼樹を濫伐せざるは後年に棟梁の材を得んが為なり、幼童を過度の労働に服せしめざるは成丁の後に強健の壮夫たらしめんが為なり、今日内国麦酒に課税せずして之が発達を得せしむるは他年の一大税源たらしめんが為なり、国家百年の計は宜く将に是の如くなるべし、然るを七年乃至十年の後を俟つことを為さずして今遽に麦酒に課するに一石七円の重税を以てし、忽に其事業を衰滅せしむるを顧みすんば、是猶幼童に過役して其駆幹を羸弱ならしめ、幼樹を濫伐して其山林を枯痩せしむると何ぞ択ばん、俗説に云く高利を貪る者は遂に其資本を併せ失うと、苟も国家を経綸して其局に当るの政治家にして麦酒課税に関し、豈此愚に習ひて可ならんや、上来開陳する所の要旨を提挙すれば
  一、内国麦酒は現に其創始期に在るを以て未だ之に課税すべからず
 - 第11巻 p.389 -ページ画像 
  一内国麦酒に向つて目下直に課税する事あらば、其事業は忽に衰頽し滅亡して将来の大税源を全く失ふの不幸ありとす
  一内国麦酒の醸造を奨励するは(一)外品の輸入を杜絶し、(二)内国の麦作改良を促し、(三)少量酒精飲料の嗜好を進むる等の利益あり、是等の利益は課税の為に併せ失ふに至るべし
  一内国麦酒にして課税の為に其価格を昂上するに到らば、外国麦酒忽に再び輸入せられて之に代るべし、関税に国定税率ありと雖も急に之に応じて防止の実を挙るに難かるべし
  一是の如くなるが故に宜く目下麦酒課税の小計を止めて之を養成し、他年の一大税源たらしむべし
 右の理由なるが故に区々たる拾壱万石の麦酒に課税して其事業を衰滅せしめんよりは、之を今日に養成して其発達を謀らしめ、遂に販路を大陸及び海峡の諸外国に拡張せしめ、百万石乃至二百万石に上進するを俟ち以て一大税源と為すの全計たるに若かざるなり、税務を計画するの諸士豈之を悟覚するの智識なからんや、古人曰く局に当る者は迷ふと、蓋し是を謂ふなり仍て此利害得失を開陳して以て明断を請ふものなり
    三十三年度に於ける日本全国麦酒の醸造高(参考第一表〉

 参万七千石   恵比寿  日本麦酒株式会社
 弐万七千石   アサヒ  大阪麦酒株式会社
 壱万六千石   キリン  日本醸造株式会社
 壱万参千石   札幌   札幌麦酒株式会社
 六千石     カブト  丸三麦酒株式会社
 五千石     東京   東京麦酒株式会社
 弐千石     浅田   浅田麦酒醸造所
 壱千石     富貴   富貴麦酒株式会社
 壱千石     明治   明治麦酒醸造所
 七百石     ライオン 磯貝醸造所
 六百石     函館   函館麦酒醸造場
 六百石          畑麦酒醸造所
 五百石     日の出  日ノ出麦酒醸造所
 参百石     軍艦   和歌山麦酒醸造所
 弐百石     富士   北陸麦酒株式会社
 弐百石     千歳   千歳麦酒醸造所
 壱百石          野口麦酒醸造所
  合計 拾壱万千弐百石

    一千八百九十九年度の各国醸造石数及税率(参考第二表)

             醸造場数       石数      税率
                 個           石  円
 独逸         二〇、〇五五  三七、八三三、七七五  一・五〇〇
 合衆国南亜米利加濠洲  二、三九九  三五、六三一、一六七  二・八四五
 英吉利         六、八九一  三三、六三五、八九一  四・五〇〇
 澳多利         一、五八〇  一一、七一〇、五八一  四・六五〇
 白耳義         三、一一八   七、六〇六、五〇〇  一・八二〇
 仏蘭西         二、五四六   五、一七一、九三二  二・二五〇
 - 第11巻 p.390 -ページ画像 
 露西亜         一、〇三五   二、九一七、二〇三  二・〇〇〇
 瑞□《(西脱カ)》      三六七   一、一六四、九六七  無税
 瑞典            五四〇   一、一三七、四五九  無税
 荷蘭            三八九     八〇二、六五五  一・五〇〇
 ルクセンブルク        六三      九三、五〇〇  無税
 以太利            八九      七二、六〇〇  五・八五〇
 西班牙            三六      四九、六一〇  無税
 ブルガリヤ          二九      四四、一三七  無税
 欧羅巴土耳古          三       八、九一〇  無税

    各国酒類一人壱ケ年間飲料調(参考第三表)

        葡萄酒      麦酒       アルコール
        斗         斗         斗
 一等仏   五・六六五  独  九・六六九  丁  一・四六九
 二等瑞西  三・〇二五  白  九・三〇六  露    七七六
 三等澳  一二・一五五  英  七・九七五  荷    七七六
 四等独     三一四  丁  四・六七五  白    七七六
 五等自     二〇三  瑞西 三・〇二五  独    七二六
 六等露     一八二  米  二・五八五  澳    六八五
 七等荷     一四五  澳  二・四二〇  仏    六八三
 八等米     〇九九  荷  二・二〇〇  諾    六六〇
 九等英     〇九四  仏  一・二三二  瑞西   五一二
 十等丁     〇五五  諾    八四二  英    四六二
 十一等諾    〇五五  瑞典   六〇五  米    四二六
 十二等瑞典   二二〇  露    二五九  瑞典   二六四

更に又之を合計すれば左の如し
 等級  国名     数量
            斗
  一  澳多利  一四・八八二
  二  独逸   一〇・七〇九
  三  白耳義  一〇・二一五
  四  英吉利   八・五三一
  五  仏蘭西   七・五八〇
  六  瑞西    六・五六二
  七  丁抹    六・一九九
  八  荷蘭    三・一一九
  九  米国    三・一一〇
  十  諾威    一・五五七
 十一  露西亜   一・二一七
 十二  瑞典    一・〇八九
    麦酒資料輸入額(参考第四表)

                数量         代金     税金
                     基       円      円
 麦芽《マルツ》(大麦) 四五、〇〇〇、〇〇〇 九九〇、〇〇〇 四〇、八〇〇
 忽布《ホツプ》        八三、三〇〇 一四九、九四〇  八、〇二〇
                     基
 塞子《コルク》    二八、〇〇〇、〇〇〇 二五二、〇〇〇 二五、二〇〇
 口金《キヤプシル》  一〇、〇〇〇、〇〇〇  五〇、〇〇〇  七、五〇〇
                     磅
 錫板《チンホイル》     二〇〇、〇〇〇 二〇〇、〇〇〇 二〇、〇〇〇
 - 第11巻 p.391 -ページ画像 
 合計          一、六四一、九四〇 一〇一、五二〇

    英独仏三国の麦酒税率と其価格(参考第五表)

           独国      仏国    英国   日本
 一升の価格    二拾三銭六厘 三拾二銭七厘 二拾九銭  五拾銭
 一石に対する税率 壱円五拾銭  二円二拾五銭 四円五拾銭 無税

 (備考)此税率は千八百九十九年の各国の醸造高を以て其税金総額を除し算出したるものなり、但し英国は戦時税をも加算せり
政府今回の増税計画に対する予輩の意見は、屡ば誌上に反覆したる処なれば、今亦贅言を費さゞるべし、而して政府の増税にして真に已むべからさるものとせば、砂糖及び麦酒の課税も亦已むを得ざる処なるべし、只々予輩は無意義の増税を極力排せんとするものなり