デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
10節 陶器製造業
2款 旭焼組合
■綱文

第11巻 p.417-430(DK110060k) ページ画像

明治23年2月(1890年)

是ヨリ先、栄一、東京磁器会社ヲ創立セントセシガ、是ニ至リ前計画ヲ中止シテ独人ワグネルノ発明セル陶器旭焼ヲ製造セントシ、浅野総一郎等ト謀リテ旭焼組合ヲ組織ス。当組合ハ、二十九年ニ至リテ解散ス。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第四七頁 〔明治三三年六月〕(DK110060k-0001)
第11巻 p.417 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)第二巻・第四七頁〔明治三三年六月〕
 ○第二十六章 陶器業
    第一節 旭焼組合
東京大学御雇教師独逸人ワグネル明治初年ノ交、一種ノ陶器製造方ヲ発明ス、名ケテ旭焼ト云フ、其製方ノ従来ト異ナル所ハ、着色後釉薬ヲ施サスシテ之ニ固着セシムルカ故ニ、之ニ施ス所ノ彩紋絵画等実ニ優美ノ色沢ヲ存スルニアリ、明治二十三年ノ交、先生其将来有望ノ事業ニ属スルモノアルヲ認メ、浅野総一郎等ト謀リ、一ノ組合ヲ組織シ名ツケテ旭焼組合ト云ヒ、大ニ其製方ヲ弘ント欲ス、依テ理学士植田豊橘ヲシテ専ラ是ニ従事セシメシモ、奏功ノ見込ナキヲ以テ、二十五年八月終ニ此ノ業ヲ廃スルニ至レリ
   ○当会社解散ノ年ニツイテハ後掲「日本窯業史」ハ明治二十九年トナス。コレニ従フ。


東京磁器会社株主へ通知案(DK110060k-0002)
第11巻 p.417-418 ページ画像

東京磁器会社株主へ通知案 (渋沢子爵家所蔵)
    東京磁器会社株主へ通知案
拝啓、陳は一昨年中計画仕候東京磁器会社之義ハ都合有之、今日まて創業之運ニ至り兼居候処、右計画は此際一時其儘ニ据置き、更ニ資本金壱万五千円之組合組織ニ而旭焼之事業相営み申度と存候、右旭焼之儀ハ従来東京職工学校ニ於而製造致居候ものニて、現今ハ内外之需要多く大ニ望ミ有之候者ニ候間、同校と塾議之上《(熟)》、植田豊橘ニ監督為致小計画ニ而相試み候ハヽ見込相立可申と存候、右企図仕候ニ付而ハ前年之御関係も有之候旁右組合ニ御加盟相成候哉御伺申上候、尤も示来植田豊橘《(爾)》ニ支給致来り候俸給其他諸雑費之義ハ、此際拙生之立替金と致置き他日支消之方法御相談致し可申と存居候、右ニ御含置被下度候右申進候間御加盟之有無至急御返詞被下度候 草々不宣
  月 日
                      渋沢栄一
    株主宛
   ○以下別紙ハ果シテ右ノ書面ニ附属スルモノナリヤ不明ナリ。
(別紙)
    記
 一金四百五拾円也       植田豊橘氏へ給料立替 明治廿年七月より十二月迄
 - 第11巻 p.418 -ページ画像 
 一金九百円也         右同人同断明治廿一年一月ヨリ十二月迄
 一金七拾五円也        右同人西京行ニ付旅費立替金廿一年十月
 一金九百円也         右同人ヘ給料立替金廿二年一月ヨリ十二月迄
  小以金弐千参百弐拾五円也
   内金七拾五円也      右同人門司セメン会社ヨリ廿二年三月但壱ケ月給料入
  〆弐千弐百五拾円也
 一金五百円也         中沢岩吉氏明治廿年七月十八日陶器取調ノ為メ旅行費立替
 一金拾参円廿九銭       磁器会社ノ件常磐屋ニテ会議費廿一年四月立替
 一金九円拾銭         磁器会社規則書並ニ定款ノ類整エ入用立替金
   合計金弐千七百七拾弐円参拾九銭
右之通
  明治廿三年二月
                  渋沢栄一代理
                      尾高幸五郎
    東京磁器会社御中

旭焼製造予算(DK110060k-0003)
第11巻 p.418-419 ページ画像

旭焼製造予算 (渋沢子爵家所蔵)
    旭焼製造予算
製造所ハ東京市深川区    《原本欠》ニ設ケ左ノ予算ヲ定ム
     建物
 一金弐百五拾円      水簸場調合場水切場木製平家二十五坪
 一金三百円        釉薬掛場画工場木製平家三十坪
 一金弐百七拾円      窯場 木製拾八坪壱坪ニ付金拾五円
 一金弐百五拾円      原料貯場釉薬調合場 木製平家拾五坪
 一金百五拾円       製品場 木製平家拾五坪
 一金七百五拾円      技師住居並ニ製品陳列場 但シ木製三十坪壱坪金弐拾五円
   計金千九百七拾円

     窯
 一金七百円        窯
     機械
 一金四百円        水切機械  壱台
 一金九拾円        ロクロ   三台
 一金千五百円       板造機械  弐台
 一金三拾円        粉砕器
 一金五百八拾円      予備金
   計金三千三百円
 一金弐百三拾円      起業雑費
  合計金五千五百円    起業資本
     原料
 一金弐百七拾五円     寺山土
 一金拾六円        造司ケ谷土
 一金百三拾弐円      ガイロメ土
 - 第11巻 p.419 -ページ画像 
 一金弐百六拾円      他種ノ原料
 一金百五拾円       釉薬原料
 一金六拾円        絵具
 一金八百円        燃料
 一金三百七円       予備金
   計金弐千円

    給料
      役員
 一金千弐拾円       技師及会計員
     職工
 一金弐百四拾円      画工  壱人
 一金五百四拾円      下画工 六人
 一金百五拾円       職工  壱人
 一金三百六拾円      下職工 四人
 一金百弐拾円       水簸方兼焼方
 一金弐百拾円       水簸焼方手伝三人
 一金六拾円        小使  壱人
  計金弐千七百円
   合計金四千七百円    営業資本

 一金弐千八百円      職工学校製造品売捌基金
     資産勘定
 一金五千五百円      起業資本
 一金四千七百円      営業資本
 一金弐千八百円      売捌基金
   合計金壱万三千円    総資本金

     収入
 一金三千円        大皿 壱千弐百枚売上金
 一金弐千円        陶板 壱万枚売上金
 一金七百円        職工学校製造品売上金 但資本金ニ対シ弐割五歩ノ利
   合計金五千七百円

     損益勘定
 一金五千七百円也     収益金
   内
   金四千七百円也    営業資金
 差引金千円也      純益金


旭焼製造予算(DK110060k-0004)
第11巻 p.419-421 ページ画像

旭焼製造予算(渋沢子爵家所蔵)
     旭焼製造所予算
                   植田豊橘
      地所
 - 第11巻 p.420 -ページ画像 
 一金三千円        地所六百坪 但壱坪金五円
     建物
 一金百八拾円       原土水簸場 拾弐坪 但シ木製壱坪金拾五円
 一金百三拾五円      粘土調合場 九坪
 一金九拾円        調合済粘土水切場 六坪
 一金百八拾円       調合済粘土貯蓄場 拾弐坪
            右四ケ所壱棟
 一金三百円        製品所並ニ造リ上品置場 弐拾坪
 一金九拾円        シメ焼品置場 六坪
 一金三百七拾五円     画工場 弐拾五坪
 一金百八拾円       釉薬場 拾弐坪
 一金九拾円        焼上品置場 六坪
            右五ケ所壱棟
 一金百五拾円       事務所 拾坪
 一金千円         窯場 五拾坪
 一金三百円        原料貯蓄場 弐拾坪
 一金四百三拾円      予備金
   計金三千五百円     建物費

     窯及ヒ器械
 一金弐千円        窯 但薬焼窯共
 一金四百円        粘土水切器械 但ポンプ付
 一金弐百五拾円      手造りロクロ五台 但壱台金五拾円
 一金百四拾円       釉薬擵器械 壱台
 一金七百拾円       予備金
   計金三千五百円     窯及ヒ器械費

     原料
 一金百弐拾円       寺山粘土三千貫目 但拾貫目ニ付金四拾銭
 一金拾八円        造司ケ谷粘土九百貫目 但拾貫ニ付金弐拾銭
 一金七拾弐円       ガイロメ粘土千八百貫目 但拾貫目ニ付金四拾銭
 一金弐百拾円       他ノ原料 但秘密ニ付此ニ記セス
 一金百円         釉薬原料 但秘密ニ付此ニ詳記セス
 一金千五百円       燃料
 一金百円         絵具
 一金三百八拾円      予備金
   計金弐千五百円     原料費

     役員職人
 一金六百円        技師 壱人
 一金三百円        助手 壱人
 一金三百六拾円      事務員 弐人
 一金七百弐拾円      造り職工 六人
 一金百五拾円       窯方 壱人
 - 第11巻 p.421 -ページ画像 
 一金六拾円        窯方手伝 壱人
 一金百弐拾円       粘土製し方 壱人
 一金六拾円        粘土製し方手伝 壱人
 一金百八拾円       人足 三人
 一金千五百円       画工 拾人
 一金弐百四拾円      画工手伝 四人
 一金弐百拾円       予備金
   計金四千五百円     給料

 一金弐万円         総資本金
  内 金壱万円      地所・家屋・器械及ヒ窯費
    金七千円      原料費及ヒ給料
    金三千円      融通資本

     損益算
一金七千五百円       直径壱尺三寸ノ大皿三千枚 但壱枚ニ付金弐円五拾銭
 内 金七千円        営業資本
   差引五百円        純益
   ○旭焼製造予算ハ右ノ外、総資本金六千円及ビ金四万円ヲ以テ計算セルモノ各々一通アレドモ(共ニ渋沢子爵家所蔵)前掲ノ「東京磁器会社株主へ通知案」ニ於テ「資本金壱万五千円之組合組織ニ而旭焼之事業相営み申度」トアルニ鑑ミ右ノ二通ヲ挙ゲタリ。
   ○総資本金六千円ヲ以テ計算セルモノハ地所百五拾坪ニシテ、従テ建物・機械・職人等総テ小規模ナリ。
   ○総資本金四万円ヲ以テセルモノニ於テハ蒸汽機械並ニ圧搾器ヲ具ヘ、売上ノ項ニ於テ大皿三千枚ノ外、板六万枚、無画ノ板六万枚ヲ挙ゲタリ。
   ○総資本金弐万円ノモノヲ甲号、同四万円ノモノヲ乙号ト称シタリ。


斎藤峰三郎氏所蔵文書(DK110060k-0005)
第11巻 p.421 ページ画像

斎藤峰三郎氏所蔵文書
○上略
旭焼製造所地面之事ハ藤平重資氏へ、鈴木善三を以て拙者関係之事申入、先日草案せし約定書ニて貸借之義、承諾致呉候様可申入事
○下略
   ○栄一自筆、斎藤峰三郎宛覚書ト思ハル。


日本近世窯業史(大日本窯業協会編) 第三編下・第一四九〇―一四九二頁〔大正一一年二月〕 【旭焼(植田豊橘記)】(DK110060k-0006)
第11巻 p.421-422 ページ画像

日本近世窯業史(大日本窯業協会編)
               第三編下・第一四九〇―一四九二頁〔大正一一年二月〕
 ○第五章 通説
    旭焼(植田豊橘記)
一 来歴 旭焼は、明治十六年九月、当時一ツ橋外にありし旧東京大学法理文三学部応用化学実験室に於て、故ドクトル・ヂ・ワグネル氏と自分が研究を始めたるものにして、其目的は白色の陶器にして、釉薬に亀裂なく、各色の顔料を釉薬下に施し、絹紙に描出せる如き日本固有の絵画を陶器の釉薬下に現出せしめんとせり。而して此研究を三段に区分せり。即ち第一素地、第二釉薬、第三顔料、是なり。当時、大学の実験室は未だ幼稚なる程度にありしを以て、素地の調合終るも
 - 第11巻 p.422 -ページ画像 
之を以て器物を製作し得べき装置なく、又之を素焼、本焼するの設備あらざりしが故に、石膏型を以て、小なる円形薄片の素地を製し、之を乾燥したる後ち、坩堝内に焚焼し、釉薬は毛筆を以て素地に塗り、乾燥したる上、マツフル内に熱して、熔融せしめたり。此釉薬は適当の原料を親密に調合し、坩堝内に熔融して玻璃と成るを俟ち、冷水中に滴下せしめ、之を取り出し乾燥したる後ち、粉砕して使用せり。此の如く実験を重ること約九箇月、其成績稍々見るべきものありしを以て、之を実地に応用して器物を製せんとせり。
○中略
 明治二十年春、ワグネル氏は東京職工学校(現今の東京高等工業学校)の講師に転勤せらる。因て此陶器の研究も亦同校に移れり。同校に於ては稍々大なる規模に器物を製造するを得たり。此時に至り初めて此陶器に吾妻焼なる名称を附したり。然るに其後、明治二十三年、第三回内国勧業博覧会の上野に開設せらるゝや、本所の某よりの出品に、吾妻焼と命名せる今戸焼に類するものありしが故に、同じ土地に製造する二種の陶器に、同一の名称あるは面白からずと為し、更に旭焼と改称せり。然れども山城宇治に朝日焼と云ふ陶器あり。只製品及び産地共に異なるを以て、甚しき不都合なきものとせり。而して高等工業学校に於ては、尚ほ今日に至りても、此旭焼の製造を継続しつゝありと云ふ。
 又一方に於て明治二十三年、渋沢栄一・浅野総一郎両氏は旭焼工場を深川区東元町に設立し、製品益々進歩し、主に粧飾用陶器板の製造を創め、之が製造に水圧器械を応用し、製品は極めて優等にして、舶来品を凌駕したるのみならず、日本固有の製品を製造し得たるも、時期未だ早かりし為め、明治二十九年末、遂に閉場するの已むを得ざるに至れり。自分は創業以来、明治二十七年秋まで、右工場に関係し、其後閉場までは、平野耕輔氏担当せられたり。前述の如く旭焼は数年間研究の結果、追々に進歩し一種の新規なる陶器を製出したるも、之を商品として大規模に製造し能はざりしは、実に遺憾なりとす。然れども此旭焼が我国の陶器界に刺激を与へ、間接に之が進歩を促したるは疑はざる処なり。



〔参考〕ワグネル伝(植田豊橘編) 伝記・第二三―二五頁〔大正一四年一月〕(DK110060k-0007)
第11巻 p.422-423 ページ画像

ワグネル伝(植田豊橘編) 伝記・第二三―二五頁〔大正一四年一月〕
是れより前独逸伯林府にある官立磁器製造所の技師ドクトル、ゼーゲル氏はゼーゲル磁器と称するものを創製して焼成の火熱を低下し、以て釉薬下に施す色彩料の種類を選ぶに便ならしめ、又仏国セープル府の官立磁器製造所に於ても此類の器物を製造せり、是れ磁器製造界の一進歩として世の専門家は賞讃せり、ワグネル氏は玆に見る所ありてか爾来陶磁器の製造方法に就て研究の歩を進め、明治十六年に至り漸く一の新案を樹立することとなりたり、是れ独仏両国に於けるが如く磁器に新案を施せるものにあらずして氏は寧ろ之を陶器に試むるを得策とせり、蓋し陶器に施す釉薬は一層低下せる火度にて熔融するを以て低熱磁器に比すれば更に色彩料応用上便宜なる理由あるを以てなり
 - 第11巻 p.423 -ページ画像 
加之我邦固有の絵画描法を釉薬上に施さんか幾分美術的趣味を減殺する患あれども、若し之を釉薬下に施さんか青華と一般大に其趣味を増加するを以て、出来得べくんば〓裂なき陶器にして若かも石灰を多量に含有せざるものを創製し、以て其目的を貫徹せんことを希望せられたり、氏は数年間其試験を継続して玆に初めて成功の端緒を開きたり然るに当時大学は諸芸学部を新設する計画ありて諸事多端なる折柄にて氏の希望を充たすこと能はざりし情勢にありたれば、氏は奮然自から小石川区西江戸川町に家屋を購ひ陶窯を築造し素地職工並に画工を雇傭し其費用を自弁して実地に試作の研究を開始し理学士植田豊橘氏をして之を監督せしめたり、蓋し植田氏は大学助手たりしを以てワグネル氏の教室にありては同氏を補佐するの任にありたればなり。
 明治十七年には東京職工学校(東京高等工業学校の前身)に陶器玻璃工科を創設することゝなり氏を聘して其主任教官を兼ねしめたり、其翌年農商務省は氏に嘱するに諸般工業の奨励に資すべき試験を以てし特に手当を支給せり、是れ農商務省は同氏の発明に係る新規の陶器に付、更に進ましめんが為め補助するに勉めたるものならん、此の時に当り西江戸川町の事業を葵坂にありし地質調査所の一部に移し、且つ同氏の受くる特別手当は一切其製作費に投じて益研究を進ましむることゝなし、始め新製品に吾妻焼の名を付したり、明治二十年春吾妻焼製作事業は東京職工学校の構内に移りしが、同名の製作品の既に世間にあることを知りたるを以て之を旭焼と改名したり、是れより前農商務省を経て吾妻焼即ち旭焼製品を宮内省に献納したることあり、又美術協会展覧会に出陳して優賞を受けたること屡ありて旭焼の名は斯界に轟き、時の大臣官舎を始め貴顕紳士の邸宅を飾り上流間に愛翫せらるる所となりたり。今日に至るも其製品の存するもの少しとせず、東京職工学校に於ては其後数年間尚ほ之を製造したるも.如何せん世人一般の趣味進んで之を愛翫する程度に至らず従て需用振はず、時に海外に輸送して其販路を求めたれども意の如くならず、又民業に移して之を試みたれども更に振ふことなくして遂に衰頽し、同氏の死去と共に其跡を絶つことゝなりたるは甚だ遺憾とす。



〔参考〕日本工業史 (横井時冬著) 第二一三頁〔昭和二年五月〕(DK110060k-0008)
第11巻 p.423-424 ページ画像

日本工業史(横井時冬著)第二一三頁〔昭和二年五月〕
○上略 明治十六年のころ独逸人ワグネル江戸川製陶所において旭焼を発明せり初のほどは吾妻焼といへり其後東京工業学校内にてこの陶器を製造することゝなれり、ワグネルの発明ありしよりこのかた我邦固有の優美清雅なる絵画を陶面に顕すことを得たり、蓋しこの業のため一大進歩を与へたるものといふべし、この業につきて最初より理学士植田豊橘、ワグネルを助けて其研究に従事せしかば、ワグネルの歿後、別に深川において旭焼を製出せしが今は廃窯せりといふ
   ○ワグネルノ旭焼発明ノ場所ニ就テハ「日本工業史」及ビ「新撰大人名辞典」(第三巻第二七頁「塩田真」ノ項)ハ共ニ江戸川製陶所トナス。「ワグネル伝」ニ於テ「小石川区西江戸川町に家屋を購ひ陶窯を築造し」トアルハ或ハ同製陶所ヲ指スモノナラン。
   ○江戸川製陶所ニ就テハ本巻所収「友玉園製陶所」(第四三一頁)ノ項参照。

 - 第11巻 p.424 -ページ画像 

〔参考〕ワグネル先生追懐集 第九一―一〇一頁〔昭和一三年一〇月〕 【旭焼に就て(工学博士 植田豊橘)】(DK110060k-0009)
第11巻 p.424-427 ページ画像

ワグネル先生追懐集 第九一―一〇一頁〔昭和一三年一〇月〕
    旭焼に就て(工学博士 植田豊橘)
○上略 ワグネル先生が旭焼に就いて御研究をお始めになりましたのは唯今申しました明治十六年の七月で、其の場処は今日学士会館のあります処より少し一ツ橋に寄つた辺で其の当時の東京大学理学部化学教室であります。
 旭焼研究の目的は白い陶器にヒビのない釉薬をかけ、其の下に各色を以て絵模様を描くのであります。元来支那或は日本の焼物のあるものには鳶色とか白色とかで釉薬の下に文字などを書いたものは大分以前からありましたが、黒色・黄色・青色・臙脂色等の各色を以て釉薬の下に描いたものはございませんでした。
 なほこの旭焼の素地を造る原料と致しましては粘土では当時尾張の瀬戸から参りました木櫛土と蛙目土で、珪酸はギヤマン即ち石英粉又熔剤としては石粉即ち長石粉でありました。是等の原料を以て素地を調合し唯今申しました大学の化学実験室で焼いたのであります。併し今日の様に瓦斯炉・電気炉といふものはございませんでしたから、デビル炉と申しまして直径七・八寸位の鉄製の円筒の内を耐火粘土で四分ばかりの厚さに塗り、其の内へ英国製の耐火性坩堝を入れそれへ試験体を入れ、坩堝の外へ無煙炭を入れそれに炭火を加へて鞴で吹いて素地を焼いたのであります。而も当時はまだ強い熱度を計るゼーゲル錐なるものがありませんでしたので、素地を焼く熱度は普通の磁器釉薬の熔度を目当に致しました。ところが焼き過ぎたり焼き足りなかつたりしてなかなかの苦心でございました。今日から申しますとまるで嘘の様な話であります。又釉薬はその熔ける熱度が摂氏七百度乃至七百五十度位のものですが、それは直径一尺五寸高さ二尺位の大きな七輪がありまして、その中へ大きい坩堝を入れその中へ釉薬をかけた試験体を入れ外部より炭火で焼いたのであります。
 さて研究の第一の目的は素地でありました。即ち釉薬にヒビの出ない素地はどう云ふものがよいか。これが少しも判つてをりませんでした。当時は今日の様に書物や雑誌がさつぱりありません。僅かにワグネル先生のお手許にあつた書物をお調べになつたり、又一二それに似寄の素地を分析して其成分より試験体の成分を考へたのであります。そこで其の時分の考としては素地と釉薬とが能く熔け合ふと釉薬にヒビが出ないと云ふ結論を得まして、試験体の成分を稍々珪酸質にすると云ふことを目当に素地を拵へ、珪酸を七十一パーセント内外に決めました。其当時大学に轆轤は無論ありません。それ故試験体は二銭銅貨大のものを石膏型で拵へましてそれを先程申しましたデビル炉で焼き、それに釉薬をかけて七輪で焼いたのであります。此の素地の調合や次にお話する釉薬の種類は沢山拵へまして遂に釉薬にヒビのないものが出来ました。
 それから釉薬となりますと、其の原料は今日とさう変つて居りません。即ち酸化鉛(鉛丹)、炭酸鉛(唐の土)、炭酸カルシユーム(石灰石粉)、酸化亜鉛(亜鉛華)、硼砂及び硼酸等を以て一種の硝子を造り
 - 第11巻 p.425 -ページ画像 
ました。此の硝子の成今は只分述べましたやうに鉛・亜鉛・カルシユーム・曹達等の珪酸及び珪酸塩の混合物で、其の溶融点は先刻述べました摂氏七百度乃至七百五十度位のものでありました。かう申すると極めて簡単の様でございますがさてこれを実際の品物に拵へて見ますと云ふと、なかなか厄介な事でありまして大学でやりました二銭銅貨大の試験体の時にはさう困難な事もなかつたのですが、稍々大きい品物例へばコツプとか花瓶の様なものになりますと釉薬の成分によつて一寸焼き過ぎても流れるのであります。そこで此の釉薬の基である硝子は先づ其の調合物を坩堝で熔かし、これを水中に落し急に冷してこはれ易くし之れをかはかした後粉砕して其の粉に一二のものを混ぜて釉薬と致しました。此の硝子の粒が粗いと熔けた釉薬面の沢が充分に出ません。又余り細か過ぎると硼砂のはいつたものなどは幾分水におかされて良い沢が出ないので俗に謂ふ菊石面になります。又或場合に釉薬を少し火に強くして、少しも動かないやうにすれば其の面に沢が出ず、いくらか動いて良い沢が出る様にすれば流れる恐がある。之れが無地のものならば差支ないのですが旭焼は釉薬の下に各色を以て絵模様を描くのですから、釉薬が流れると絵模様も崩れますし又其の中に熔けて無くなつてしまふと云ふ事もあります。これは勿論旭焼だからと云ふのではありません。今日でも此の種類の陶器を造るには同じ様な困難があります。
 次に絵具でありますが其の主なる原料は鉄・錫・鉛・コバルト・クローム・マンガン・黄金等でありまして、多く使ふものは、黒色・鳶色・青色・黄色等であります。今申しました釉薬の成分に由り絵具にも亦色々の困難があります。即ち或時は絵具が流れたり或は釉薬中に熔けて無くなつたりします。例へば酸化鉄と酸化コバルトとを混ぜまして強い熱で焼きますと、黒い塊になります。それを粉砕して熔剤とし、釉薬の硝子粉を少し混ぜ合せて釉薬の下で使へば黒い色が出ますが、其の絵具と釉薬との釣合がうまく行きませんと釉薬が一寸動いただけでコバルトが溶けて出ます。職工などは此の事を「脚を出す」と言つて居ります。それからもう一つ絵具に就て困難な事があります。即ち素地に絵具で絵模様を描きこれに釉薬をかけて焼くのですが絵具が悪いと素地に充分着きません。さうすると焼いて暫く置くと素地から絵具が離れて釉薬が其の部分だけ飛んでしまふ事があります。これは絵具に溶剤が足りないから起ることでありまして絵具が釉薬に溶けて無くなつたり、又脚を出したり素地から飛び離れたりする。之等は随分厄介なことであります。
 そして大学でやつてをりました間は彼の二銭銅貨大の試験体で済みましたが、小さな器を拵へる様になりましたところが大学には轆轤がございませんから、先刻中沢先生がお話になりました加藤友太郎氏の工場で素地を造つて貰つたり焼いて貰つたり致しました。これに絵模様を描き釉薬焼は大学で致しました。斯ふ云ふ風な次第で大学の研究は段々進みまして徳利や茶碗位の物は拵へねばならぬと云ふ事になりましたが、これは大学では出来ませんから明治十七年の春から同十八年の秋まで小石川の江戸川町に小さな工場の空家がありましたので、
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それを借り入れまして工場にし、轆轤を据ゑつけ轆轤職一人、画工一人、窯工一人を雇ひまして準備が出来たのであります。此の工業の費用は全部ワグネル先生がお出しになりました。此処で雇ひ入れました窯工はつい江戸川の向岸にありました塩田真氏と納富介次郎氏とが作りました製陶所に居たものでありましたが、其の工場へ各地から試験のため色々の原料が集つて居りました。或時其の職工が斯う云ふ原料がありますがと云つて持つて参りました。見ると大変細かい色の白い一寸粘力もあつていいやうです。それを分析して見ますと珪酸が八十三パーセントあるのでギヤマンの代りに使つて見ますと大変いいのです。それはどう云ふ土かと訊きますと寺山土です。何処で出るかそれはよく判りませんと云ふ。その後彼是取調べましたら茨城県か栃木県で出ると云ふ事だけ判つて場処は判りません。それで私が大学の命で栃木県へ参り県庁で色々伺ひましたところそれが遂に判りました。寺山といふのは同県塩谷郡の矢板より三里程の所に観音寺と云ふお寺があつて、其の裏山から出る土を寺山土と云ふので行つて見ますと成程その土がございました。此の寺山土が見つかりましたのはワグネル先生の御研究になりました旭焼にとつては一段階と申しますかこれが非常な進歩を与へたのであります。
 此の寺山土の見つかつた事は大変有難かつたのでありますが、又一つ困つた事が出来ました。と云ふのは此の土を使ひますと素地の色は白く釉薬にヒビが出ないのはいいのでありますが、これと反対に素地が割れるのであります。しかも面白い事には素地を轆轤の上で引ぎ上げると其の筋から割れるので、これを引つ張りますとねぢ形になつて伸びるのであります。以前は釉薬にヒビが出て困つたのでありますが今度は反対に素地が割れる。寺山土を使つた為めに斯ふ云ふ困難を来したのであります。これに就ても先生は色々御研究になりました。其の結果素地に炭酸カルシユームを入れると其の割れが止まるといふ事が判りました。それ故炭酸カルシユーム剤として胡粉を用ひまして素地の百分の三乃至百分の五位入れる事になりました。これで釉薬にヒビも出ず素地も割れず立派な陶器が出来る様になりました。さうすると斯う事になります。初は素地と釉薬とが能く熔け合へばヒビが出ないと考へてをつたものが、今度は互に能く熔け合つても素地が割れる事があることから見ると、釉薬と素地との熱膨脹係数の差が大であれば釉薬か素地かの孰れかに割が出る。少しくつつき工合が悪くても其の系数に大差がなければ釉薬にヒビも出ず、又素地も割れないといふ事が後になつて判りました。その当時此の事が判つたところで素地や釉薬の膨脹係数を計る器械がありませんから駄目でありました。今日から申せば此の釉薬にヒビが出ると云ふ事は素地と釉薬とでは冷める時、釉薬の方が余計に縮む。それで釉薬にヒビが出る。若し素地の方が余計に縮まれば素地が割れると云ふ事になる。今では能く判つてゐる事と思ひますけれども、その当時はなかなか困難を来したものであります。
 そこで此の時は恰度明治十八年の春でありましたが素地の割れも止まりまして器物も出来ましたので、東京府でおやりになつた繭糸織物
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陶漆器共進会へ文部省から出品になりました。それがどう云ふ品でどう云ふ絵模様のものであつたかと云ふ事は忘れました。それからその頃器物の或ものが石川県金沢の勧業課へ送られました。之れは今でも同所にあるかどうですか。それから明治十八年の秋から同十九年十一月までの間に又試験場の変更がありました。これはワグネル先生が農商務省にお移りになつたからであります。其の時麻布の霊南坂の上にお住まゐになりまして其の下の所に工場が移りました。又其の工場に要した費用の大部分は先生がお出しになつたと思ひます。其処で立派な器物で出来るやうになりまして其の時に吾妻焼と云ふ名が初めて附けられ、其の印をゴムで拵へまして器物の裏に押しました。一寸余談になりますがワグネル先生は俗に謂ふ万字卍が大変お好きであつたのであります。之れは印度・西蔵の万と云ふ字であるさうですがどう云ふわけでお好きであつたか判りませんが、吾妻焼の印に之れを用ひる事になりました。ところが器物に押す関係上之れを丸くして吾妻焼印と云ふ印を器物の裏に押したのであります。世間には此の吾妻焼印を押した品をお持ちの方もあらうと思ひます。ところが今の独逸政府がこの形を国の印にしてをられます。ワグネル先生が大変お好きであつた此の形を今日独逸国の印にされてをると云ふのは全く偶然の事とは思ひますが大変面白いと思ひます。但し吾妻焼の方は卍で独逸国の方はであります。
 それから明治十九年の秋に上野で開かれました竜池会(之れは今日の日本美術協会の前身であります)へ出品されました。然しこれがどう云ふものであつたか覚えて居りません。同十九年十一月に吾妻焼の製作は東京職工学校に移され、其後旭焼と改名されました。元来吾妻焼と云ふのは東京を吾妻と云ふところから取つて以て附けられたのでありますが、或時の共進会の出品中に今戸焼にペイントを塗つたものが吾妻焼と云ふ名で出品されてをりましたので、混雑を防く為めに旭焼と改めたのでありますがその時分には私は一身上の都合で関係して居りませんでした。
 私は明治二十年四月にワグネル先生の膝下から離れました。其の後旭焼は東京工業大学の前身である東京職工学校・東京工業学校・東京高等工業学校でおやりになつて居られましたが精しい事は私は存じません、只今では全くお止めになつてゐるさうであります。
 明治二十三年の秋に中沢先生と故和田維四郎さんのお世話で、故浅野総一郎さんの出資の下に深川区東元町に旭焼の製造場が出来まして私がそれに従事致し色々の品物を拵へましたが、明治二十七年の秋、私は一身上の都合で罷めまして其の後を平野耕輔さんがお引受けになつて同三十年まで続いたと思ひます。それ故今日では官辺でも亦民間でも旭焼を製造する所はありません。併し此の研究が間接に我が陶器の進歩に多少の影響を及ぼした事は間違のないことと思ひます。
○下略


〔参考〕ワグネル先生追懐集 第三九二―三九七頁〔昭和一三年一〇月〕 【ドクトル・ワグネル氏実験場意見書】(DK110060k-0010)
第11巻 p.427-430 ページ画像

ワグネル先生追懐集 第三九二―三九七頁〔昭和一三年一〇月〕
    ドクトル・ワグネル氏実験場意見書
 - 第11巻 p.428 -ページ画像 

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 本書は吾妻焼(後の旭焼)製作に関するワグネル先生の工業実験場設立の意見書である。明治二十三年秋この実験場は東京市深川区東元町に設立され、明治二十七年秋まで植田豊橘氏が専らその業に膺り、平野耕輔氏その後を受け明治三十年廃された。植田豊橘氏講演「旭焼に就て」参照。(太田能寿氏所蔵) 



 三年以前東京大学化学実験場に於て植田豊橘氏の補助を以て窯術に関する実験を始めたり。乃ち其目的は主として陶磁業玻璃及セメントの製造に係る学理上の研究をなし、且右等の諸工業に要する日本所産の原料即ち土石類の適否如何を査定し、以て実地の工業を裨益するに外ならざるなり。前大学総理加藤弘之氏も亦是等の試験を実行するは最も賛成せし所なりしも、元来実業上に裨益を益《(マヽ)》へんと欲せば須らく先づ其実験に於ても適当の実業を挙行せざる可らざるは勿論にして、啻に分析場に於て施行し得るが如き試験のみにては到底充分なる実功なきものとす。然るに大学に於ては右等実業に渉る実験の費用を支出する事能はざりしを以て、断然自費を以て、之を実行せん事を決定せり。是に於てか小石川に一の工場を設け、其所用の建物器具及原材を購求し、画工及職工を雇入れ以て一の小製造場と為せり。蓋し此工場設立の目的たる敢て其製品を販売するに非ずして、第一に欧洲に於て製造するフアヤンスの最良品に劣らざる美品を焼成し、之に日本固有の風彩を存せしめ以て日本に特有の器品を造出するに在り。之を以て右器に描する画様に於ても普通の磁器に描するが如き、彼のクリオスに類せずして純然たる支那及日本の古画を施し、欧米人をして日本上流の美術を知らしむを以て目的とせり。但し此フアヤンスには吾妻焼の名を命ぜり。
 右新案フアヤンスの試験は今や全く其目的を達したると言ふべし。即ち其品質の精良なると装画の微妙なるとに就ては各人皆讃称して已まず、実に意外の好結果を得たり。今日にては該器の製造は之を民間に托するも必ず有利の工業となるべきを信ず。然りと雖も今暫く之を民間に下すを止め其製造を以て実験場の基本とし、其販売収益金を以て益々実験の範囲を拡張せん事を希望するなり。然る時は政府は夥多の費途を出さず唯僅少の補助金を以て工業拡張に必要なる実験を施行せしむるを得べし。抑々仏のセーブルに於ける、普の伯林に於ける、撒遜のマイセンに於ける、露のペートルスブルグに於ける、皆官立の陶磁工業場を設くる事既に久し。又澳の維那府に於ける二十年前官立の磁業場を廃せしも、更に又美術館中に実験場を創立するに至れり。是等の各国に設立するものは孰れも真正の製造場にして、啻に官用器品のみならず夥多の販売品を製出するを常とす。皆精良の佳好品にして民業の模範となり、其の振張を輔佐するの責任を有す。蓋し民業の模範たらんには僅々分析場の試験を以て足れりとせず、必ず自ら実地の製造を施行するに非ざれば実際功益なかるべし。
 前陳の各国官立陶磁工業場は其費額の一部を償ふ為、皆製造品を販売するの允許を得たるものにして、売品収入金及政府の補助金とを以て作業するものなり。其の資金の使用は場長之を定め、工場の維持若くは拡張の目的に支出し、毎年会計検査院の検査を経るものとす。
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 今日本に於て此種の実験場を設立する事は日本工業の進歩及振興を計るに最も緊要欠く可らざるものならん。而して是が為費す所の資は少額を以て足れりとすべし。彼の新案のフアヤンスは日本に於て未だ製造したる事なきものなれば、今之を該実験場の基本となし其製品を販売し収金を使用する事を得ば、実験場の費を助くる事尠少ならざるべし。蓋し該場に於ては唯精良の器品のみを製出し、日本美術の名誉を保持する一助となすべし。果して然らば其製品は固より夥多なる能はざれば、決して民業の妨害若くは之と競争するの患なかるべし。要するに此吾妻焼製造の目的は、唯工業実験場の費途を助くるに在るのみ。
 此工業実験場に於て施行すべき業務の大要は左の数項にあり。
 第一 日本に於て未だ製造せし事なきか又は其製造甚だ不完全なる陶磁業を創立せしむる事。例へばスタインツオイヒ坩堝建築上の装飾等。
 第二 日本に於て既に製造する陶磁器の改良及其価格をして稍々低廉たらしむる事を計り、成るべく常用品を外国へ輸出するに至らしむる事。是れ装飾品に比すれば、常用品の需要最も多ければなり。殊に米国を以て其販路の要地とす。
 第三 日本在来の工場に備ふる窯器具装飾等に就て、巨額の資本を要せずして施行し得べき改良を勧奨する事。政府に於て熟知せらるる如く内国の陶磁工業家に於て巨額の資本を支給し得べきもの極めて少なきのみならず、又壮大なる製造所を経営し得べき人物も極めて稀なり。是等の工業家に於ては欧米の如く製造の規模を大にし巨額の産出の籌策するの利を得る事能はず。故に目下最も勧奨すべきは少額を以て実行し得べき有用なる改良にあるなり。此改良を以て他日壮大の経営をなすの階梯とすべし。
 第四 製品の装飾は努めて往時の模範に則り古代の美術は果して無量の意匠を有するや否を試むべし。
 第五 実験の業を拡張し同一の原材を用ゆる工業に及ぼす事。例へば染色用の礬土薬料・玻璃・水玻璃・セメントの類是なり。
 第六 日本の石炭に適応する燃火の装置を考案試験する事。主として前の窯術に関するものの為にす。
 以上各項実験の成果は毫も之を秘密にせず悉く世に公にすべきは勿論なり。唯新案の吾妻焼のみは実験場を維持する基本なれば暫く之を本場の専有とすべし。是れ亦他国官立の工場に於て慣行するものにしてマイセン伯林セーブルの如き皆然り。是等の工場に於ても民業を害せざる一の製品を以て該工場の秘密とし、其収益を以て工場を維持するの助となす。民業奨励の方法に就ては或は挿画の小冊子を刊行頒布する事もあるべしと雖も、第一の要務は実験を施行し如何なる方法に拠て新案又は良好の物品を製出し得るやを教示し、又或は原図、工場の装置、雛形等を調製交付する等なり。工業家若し右等の教示を乞ふ時は単に口演を以て之を教導するのみに止らず、作業を以て之を導き其製法等を実行し良果を得るの順途を目撃せしむれば、必ず工業家信認を厚ふし学理上の知識は工業の振興に欠くべからざるを暁得するに
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至るべし。
 前条縷陳せし如き組織を以て実験場を設けらるるときは、其工業奨励上裨益あるは信じて疑はざるなり。尚玆に再言すべきは該実験場に於て実験の外一の製造を専有するの必要なる事是なり。是れ敢て其収益を以て該場維持の一助となすの目的のみならず、学理上試験と実地の工業との関係を識らんが為必要なるものなり。此両者並び立ち相俟て始めて学理上の研究は如何なる方法を以て実業の輔佐となるや、一の工業を経営するには如何すべきものなるやを詳悉にし、又工業を維持するには細心注意し寸閑も放擲すべからざるが故に、掛員に於ては大に心身を練磨し間接に工業を振張するの大助となるべし。
 前陳の実験場を設立するには先づ適当の地を占して必要の建築をなし、実験上所用の装置を備へられん事を要す。而して該実験場の費途は毎月百円の補助を乞ひ、更に製造品を販売したる収益を以て之を補ふべし。右収入金の仕払等に就ては確実なる帳簿を製し時々会計の検査を受くべし。斯く独立の経済を以て就業する事を得ば日を期して該実験場の日本工業奨励上果して必要なる輔佐たるや否を証明すべし。
  明治十九年四月八日         ドクトル・ワグネル