デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
10節 陶器製造業
3款 友玉園製陶所
■綱文

第11巻 p.431-439(DK110061k) ページ画像

明治40年(1907年)

明治十五年加藤友太郎ニヨリ創立サレタル友玉園製陶所ハ、是年匿名組合ニ組織ヲ変更シ業務ノ発展ヲ図ル。栄一、郷誠之助・植村澄三郎等ト共ニ組合員トナリ、大正五年ニ及ブ。


■資料

我国に於ける洋式窯の開祖 友玉園製陶所ノ沿革ト事業(DK110061k-0001)
第11巻 p.431 ページ画像

我国に於ける洋式窯の開祖 友玉園製陶所ノ沿革ト事業
友玉園製陶所ノ創立ハ明治十四年五月、工場ヲ東京市牛込区新小川町ニ建設シ、農商務省、御傭独逸人技師ドクトルワクネル氏ヲ顧問トシ現所主ノ先考福井常直氏ノ後援ヲ得テ、初代陶寿加藤友太郎氏ガ専心経営シ来リタルモノニシテ、実ニ我国ニ於ケル洋式窯ノ開祖ナリトス明治四十一年業務ノ大発展ニ随ヒ、現大崎町ニ新工場ヲ建設移転シ匿名組合トナシ、工場監督ニハ工学博士高山甚太郎氏就任ス、同氏没後ハ工学博士高松豊吉氏監督トナル、組合員ハ主トシテ実業家及ビ学者ニ依リテ組織サレ、実業界ニアリテハ渋沢栄一子爵・郷誠之助男爵・植村澄三郎・阿部吾市、川崎八右衛門・八十島親徳・久米良作・高田慎蔵ノ諸氏、又学者トシテハ和田維四郎・工学博士柵橋寅五郎《(棚橋寅五郎)》ノ諸氏其他平田東助子爵ノ十七名トス、大正五年二月匿名組合営業人加藤友太郎陶寿逝去ニヨリ匿名組合ハ終了トナリ、旧組合員ノ決議ニ基キ現所主福井常静氏ニ謀リ友玉園ノ事業ヲ継承スル事ノ承諾ヲ得タリ、初代陶寿ハワクネル氏ニ親炙シ其技術ヲ習得スルト共ニ、更ニ科学界ノ権威工学博士高山甚太郎氏並ニ工学博士高松豊吉氏ノ指導督監ノ下ニ諸学者ノ援助ヲ受ケ鋭意研究ヲ続ケ独特ノ新工夫ヲ凝シ、経験ト改良ヲ重ネタリ、如斯創業以来多年ニ亘ル精励研鑽ノ結果、製品陶寿及現所主ニ依リ"UTF"(共ニ商標)ヲシテ我学界並ニ工業界ニ其名声ヲ博スルニ至ラシメタリ、殊ニ美術陶器ニアリテハ、幾多ノ色彩案出ニ成功シ本窯ノ石焼ニテ赤色ヲ出スコトハ、東西古今ノ陶工ガ未ダ曾テ工夫シ得ザルモノヲ苦心研究ノ後、明治三十二年之ガ発明ヲ完成シ陶寿紅ト名ヅケテ発表シ、内外人ヲ驚歎セシメ欧米各国博覧会ニテ名誉大賞金牌廿一個、銀銅牌賞状百二十有余ヲ受領シタルハ、啻ニ当製陶所ノ名誉ノミナラズ我国製陶界ノ栄誉ナリトス
   ○右ハ友玉園製陶所製品型録(昭和七年十月)所載ノモノナリ。


工学博士 高松豊吉伝(鴨居武編)第三四九―三五三頁〔昭和七年六月〕 【○第十五章 会社 友玉園製陶所(園主 福井常静)】(DK110061k-0002)
第11巻 p.431-433 ページ画像

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飯塚千之助氏談話(DK110061k-0003)
第11巻 p.433-434 ページ画像

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加藤友太郎記録(DK110061k-0004)
第11巻 p.434-435 ページ画像

加藤友太郎記録 (友玉園製陶所所蔵)
    沿革及発明
祖先累代尾張国瀬戸ニ於テ、製陶ヲ以テ業トナス、則チ窯元ノ一家ナリ、王政維新ノ際、国主尾州侯ハ国制ナリシ窯元ノ保護ヲ解キ、任意窯焼自由制トナルニ及ンデ俄ニ窯元増加シ、殆ント全村挙テ陶業者トナル、漸ク濫造放売ノ弊ヲ生シ、為ニ品位素質随テ落ル、其勢ヒ救フ可カラズ
明治六年翻然製陶改良ニ志シ同八年上京、具ニ辛酸ヲ嘗メ次第ニ困難ニ陥リ弊衣僅ニ生命ヲ保ツノミ、然レトモ勇ヲ鼓シテ諸方ニ奔走シテ自究怠ラズ、此ノ時ニ当リ七宝会社々長故村松彦七氏及吹原正六氏ノ援助ヲ得テ、玆ニ初メテ目的ナル勧業寮洋法陶器試験場ニ入ル事ヲ得タリ、孜々研究ノ趣キ愛知県庁ノ知ル所トナリ、抜擢セラレテ官費伝習生トナル、石膏模型科第一期卒業シテ帰県、卒先シテ瀬戸全村ノ有力者ニ石膏模型使用法ヲ伝習ス、是レ本邦ニ於ケル実地ニ石膏型使用ノ嚆矢ナリ、今ヤ其便益卓絶ナルヲ以テ帝国製陶地全般ニ伝播シテ盛大ニ行ハルヽハ不肖ノ最モ欣ブ所ナリ、又夙ニコロム青ヲ創製シ大ニ当業者ノ歓迎ヲ受ク、明治十年官制改革ニ依リ不幸勧業寮廃セラレ尋テ江戸川製陶所設立セラルヽニ当リ同所ニ入ル、勤勉功労ヲ以テ賞状ヲ受クルコト前後五度、同十二年三月工長ニ挙ケラレ場主勲五等塩田真氏ノ委任ヲ受ケ諸工ノ進退及製陶所一切ノ事業ヲ管理ス。明治十五年五月(独立創業)場主ニ請フテ独立シ即チ現住所ニ新タニ陶磁器製造所ヲ起シ之ヲ友玉園ト称ス、同時ニ独逸人ドクトルワグネル氏ノ尽力ニ藉リ同氏ノ創意ニ係ル陶磁器窯ヲ築造シ、玆ニ始メテ製陶改良ノ緒ニ着ク事ヲ得タリ、爾後同博士及諸学士ノ援助又自家ノ研究ニ依リ化学用品採鉱冶金用品等ノ堅牢品及染付食器本窯各彩装飾器等ヲ製出シテ中外ノ賞誉ヲ得タリ。本窯用紫黒茶等各種ノ顔料ヲ製シ世ノ好評ヲ得タリ。自家特独ノ技ナル平面象眼ハ製磁中至難ノ工ニ偶スレトモ潜心研究ノ結果完全ノ製法ヲ得タリ(第四号大花瓶双鶴象是ナリ)
又夙ニ吹画法ヲ按出シ各会(本邦)ニ出品ノ結果、漸ク模傚スル者現ハレ遂ニ目下ノ如キ殆ント吹画法ナラザルハナシ、蓋筆技ノ成シ能ハサル難所ヲ排シテ容易ニ成功スルヲ以テ当業者ノ意ニ没《(投カ)》シタルモノナリ
本窯用紅赤ハ(発明)内外製磁家ノ斉シク之ヲ得ン事ニ熱望従事ス、
 - 第11巻 p.435 -ページ画像 
不肖又玆ニ留意シ普ク内外各国ヨリ金属鉱ヲ蒐集シ、十有余年ノ間惨憺ノ苦心ヲ忍ビ鋭意研究ノ結果、明治卅二年創メテ優美ナル紅赤ヲ発明シ得テ、之ヲ陶寿紅ト称シ自家ノ雅号ヲ冠シテ自発明ノ意ヲ表スルナリ、爾来各装飾品ニ施シテ普ク世ノ激賞ヲ得タリ(発見)善良広大ナル陶土石(原料)発見モ製陶中重大ノ件ナリ、不肖創業以来各地方ノ陶土石ヲ実験スル事一日ノ如ク、或ハ遠ク自ラ山谷ヲ踏査シテ其適否ヲ究メ、明治三十一年茨木県真壁郡ニ純良ノ長石山ヲ発見シ、翌年山形県置賜米沢字太郎沢ニ一太良質《(大カ)》ノ白色陶土ヲ発見ス、此広大無尽蔵ノ宝庫ハ同年買収シテ所有トナセリ、創業以来内外博覧会・日本美術協会・彫工競技会・全国窯業品共進会・京都美術展覧会・府県聯合共進会等ヨリ賞ヲ受クル事、壱等賞金牌四個、壱等賞牌一、弐等賞銀牌拾五個、特別賞状一 妙技進歩、弐等賞銅牌拾数個、陶磁器部審査員ヲ嘱托セラルヽ事数次、銀杯ヲ贈与セラルヽ事八個
   ○右ハ加藤友太郎ノ記録ニ係ルモノニシテ友玉園製陶所ヨリ筆記送附セラレシモノナリ。


ワグネル伝(植田豊橘編)伝記・第二五頁〔大正一四年一月〕(DK110061k-0005)
第11巻 p.435-436 ページ画像

ワグネル伝(植田豊橘編)伝記・第二五頁〔大正一四年一月〕
○上略
是より前、明治十四年尾州の陶工加藤友太郎氏は、嘗て勧業寮に伝習し、続て江戸川製陶所(納富・塩田両氏の経営せるもの)に入り職長となり業務を執りたるが、爰に独立の製造業を経営せんと欲し地を新小川町に卜して之れを開始せり、同氏は斯業に於て有望の工人たり、由てワグネル氏の勧誘に由り時の農商務大臣たりし品川子爵之を賛助し、官より改良窯築造費を補助せらるゝことゝなりたり、此に於てワグネル氏は連日同所に出張し築窯を指揮督励せしが、窯の将に成らんとする時不幸にも亀裂を生じ、故に試築を完了したるも其成績を揚ぐること能はざるに至りたれば官民共に憂慮せり、然るにワグネル氏は平然として之に要する費用を自弁し、直に改築を命じ以て監督の責任を完ふし改良窯の成績を揚ぐるに至れり、之れ本邦に於て陶磁器製造に関する築窯上に改良を試みたる嚆矢ならん乎。○下略
   ○当所ノ創立、匿名組合組織及ビ大崎移転ノ各年度ニ関シテハ以上ノ諸資料ニ於テ完全ナル一致ヲ見ザルモ、創立年度ニ就テハ、明治十四年独立ヲ図リ、同十五年ニ至リ製陶所ヲ完成シタルモノト見ルヲ妥当ナリトシテ完成年度ヲトリ、大崎移転ノ年度ハ「友玉園製陶所ノ沿革ト事業」ニ依リ明治四十一年トナセリ。又匿名組名ハ大崎移転以前ニ既ニ組織サレタルモノノ如キガ故ニ移転ノ前年ノ明治四十年トナセリ。
   ○明治六年墺国博覧会参同ニ際シテ伝習セル各種ノ工業技術ハ、各伝習者ノ帰朝後、当時博覧会事務局タル山下門内ノ別室ニ実施試業セラレ、後此事業ハ内務省勧業寮ノ所轄トナル。(内務省勧業寮陶器試験所)製陶技術ノ伝習生タリシ納富介次郎・河原忠次郎ハ同所ニ於テ全国著名ノ陶磁器産地ヨリ生徒ヲ募リ石膏型用法等ヲ伝習ス。十年一月政府改革ノ際、伝習事業ハ挙テ工部省ニ引継ガレタルニヨリ、納富・河原モ共ニ同省ニ転ジタリシガ、同年六月末同省ハ突然総テノ伝習事業ヲ廃止スルニ及ビ、事業ノ半途ニシテ廃セラルルヲ慨歎シ塩田真ト謀リ江戸川製陶所ヲ設立シテ更ニ伝習事業ヲ継続ス。同所ハ瀬戸・九谷其他地方ノ生徒及陶画工女工合セテ八十余名ヲ薫陶養成シテ地方製陶ノ改良ニ貢献シタリシモ、出納相償ハス十七
 - 第11巻 p.436 -ページ画像 
年廃絶ニ帰ス。(「墺国博覧会参同紀要」下篇第一〇六―一一〇丁ニ依ル)



〔参考〕日本窯業大観 第三六五―三六七頁〔昭和八年七月〕 【ワグネル先生回顧談 (太田能寿)】(DK110061k-0006)
第11巻 p.436-437 ページ画像

日本窯業大観 第三六五―三六七頁〔昭和八年七月〕
    ワグネル先生回顧談 (太田能寿)
追憶
 東京工業大学の最前身なる東京職工学校は、明治十四年の設立にして、校舎は浅草区蔵前東片町に在りたり。化学科と機械科とに分れ居りて、化学科の内に窯業・染織及び応用化学の三種ありたり。同十五年八月に初めて入学せる生徒は六十名にして化学科の生徒は二十名あり、其中にて窯業を修めたる者は僅に二名にして、関口寛一郎君と小生となりき。
 窯業の実修場は校内の東南端に在りて隅田川に臨みて居たり。其処には玻璃窯一基と石炭にて焼成する陶窯一基とがあり。一台の手轆轤及び一台の皿を造る西洋轆轤もありき。又玻璃の細工人は品川の玻璃製造所に居たる田中弁次と云ふ人にして、陶器の細工人某の他に友玉園主人の加藤友太郎氏も時々来りて手伝はれたり。
○中略
ワグネル式陶窯
 ワグネル先生の考案に係る陶窯は我国従来の尾濃辺の登窯、有田辺の丸窯、西洋窯等を参酌せられ、其短を捨て其長を取りしものなり。先生は生前に此窯四基を築造せられたり。第一は京都府舎密局所属の陶器実験場に在りたり。先生は明治十一年京都府の招聘に応じて赴任せられ、舎密局・医学校等に関係せられたり。当時舎密局は土手町に在りしが陶器実験場は五条坂に在りき。其後先生は明治十四年に職を去られ上京せられたるものなれば、五条坂に在りし窯は明治十一年乃至十四年の間に成りしこと明かなり。
 第二は東京府内小石川の江戸川製陶所に在りたり。此製陶所は明治十年の創立にして塩田真及び納富介次郎両氏の経営に係り、製陶に石膏型を用ひしは実に此所が嚆矢なり。両氏共に小生も面識ありしが余程前に物故せられたり。扨て先生は明治十四年に京都を辞して東大の理学部に教鞭を執られたるを以て、此窯の成りしは明治十四年及び十五年の交なり。尤も新築ならずして既に在りしものを改築されたるなり。
 第三は牛込区新小川町二丁目八番地に在りたり。是は農商務省地質調査所が先生に依頼して築造したるものにして明治十五年六月に成れり。前記の江戸川製陶所の職工長なりし加藤友太郎をして之を掌らしめたり。此の加藤氏は元来瀬戸の陶工なりき。翌十六年六月に至りて此製陶所は加藤氏の所有に帰し友玉園と称したり。
 第四は東京工業大学の最前身なる東京職工学校内に先生が築造せられたるものなり。其成りしは明治十八年の夏なりき。乃ち小生等が実験に供したる窯なり。
 以上四基の窯は構造は大同小異にして一言以て之を蔽へば、横に連結せる二室より成りて前室にて本焼を行ひ、後室にて素焼を行ふべく
 - 第11巻 p.437 -ページ画像 
火床は薪材若しくは石炭を用ふることを得るといふに過ぎず、又此新案窯は母校は申す迄もなく他の三箇所に於ても試験的に石炭を燃料に使用せるものなれば、本邦石炭窯の濫觴と言ふも、差支へなかるべし。
 小生は第一及び第二の窯は知らざれども、第三は幾回も見学したるのみならず、先生が其正面・平面及び断面等十一図と解説一冊とを上梓せられたるを以て之を見れば瞭然たり。今之に拠りて一歩を進め少しく説明せむ。
 登窯の欠点 従来の登窯は傾斜せる地面を利用して築造するものにて、多きは二十余室に及び下室の余熱にて上室を熱するが故に熱を散失すること極めて少き点は嘉すべきも、他に幾多の不便あり左の如し。
 1各室は巨大に過ぐるを以て其天井に達する迄匣鉢を積上ぐること能はず。
 2焼成法は甚だ不便なり。
 3室内の熱度は均一ならず。
 4製品の委托あるも焼成する迄に長日月を要するが故に之に応ずることを得ず。
 新案窯の得点 新案窯は従来の窯の有する利益は悉く保有し、其損害と認むる点は大抵除去したれば左の得点あり。
 1構造小なれば製造所内に築造することを得。
 2委托ある毎に焼成して供給する事を得。
 3燃料を節約し本焼の余熱を以て次室に於て素焼を為すことを得。
 4薪材の外石炭を用ふることを得。
 5室内の熱度は上層最も高ければ下層にある匣鉢は熱の為に破損せず。
○下略
   ○当所ノ創立ニ関シテ横井時冬著「日本工業史」ハ右ノ「ワグネル先生回顧談」ト同ジク、明治十五年六月農商務省地質調査所ニ於テワグネルノ創意ニカヽル陶窯ヲ牛込区新小川町ニ築キ、江戸川製陶所ノ工長加藤友太郎ヲシテ監督セシメタルガ、翌十六年六月友太郎ノ所有ニ帰シ友玉園ト称シタルモノトナセルモ、既ニ十五年製陶所完成ノ際、友玉園ノ名称ヲ附シ、友太郎ノ有ニ帰シタルモノノ如シ。


〔参考〕日本窯業大観 第九一頁〔昭和八年七月〕(DK110061k-0007)
第11巻 p.437 ページ画像

日本窯業大観 第九一頁〔昭和八年七月〕
友玉園製陶所 東京市品川区東大崎五の三四〇。創業明治一四年五月。投資額二〇万円。経営者福井常静。
沿革 明治一四年故加藤友太郎・子爵品川弥二郎・独逸人ドクトル・ワグネル・和田維四郎・伯爵平田東助・子爵渋沢栄一等、一四名の匿名組合を以て創立し工場を東京市牛込区新小川町に置きしが、後明治三九年現在地に移る、大正五年二月営業人加藤友太郎歿すると共に匿名組合解散し、同年五月現所主福井常静の個人経営となりて今日に至る、営業所として東京市麹町区丸ノ内二ノ六福島合名会社を東京総代理店として、外に呉及仙台に代理店を置く。製品及年産額 化学工業品五―八万円、美術品約一万円。

 - 第11巻 p.438 -ページ画像 

〔参考〕府県陶器沿革陶工伝統誌 第二頁〔明治一九年七月〕(DK110061k-0008)
第11巻 p.438 ページ画像

府県陶器沿革陶工伝統誌 第二頁〔明治一九年七月〕
同○明治十五年六月、農商務省地質調査所ニ於テ独乙人学士ワクネル氏ノ創意ニ係レル陶窯ヲ牛込新小川町ニ築キ、江戸川製陶所ノ工長加藤友太郎ヲシテ之ヲ掌ラシム、翌十六年六月終ニ友太郎ノ有ニ帰シ、友玉園ト称シ陶磁器ヲ製セリ


〔参考〕ワグネル先生追懐集 第八七―八八頁〔昭和一三年一〇月〕 【ワグネル先生来歴第一段(工学博士 中沢岩太)】(DK110061k-0009)
第11巻 p.438 ページ画像

ワグネル先生追懐集 第八七―八八頁〔昭和一三年一〇月〕
    ワグネル先生来歴第一段(工学博士 中沢岩太)
○上略
 大学に就職せらるる間、明治十五年時の農商務省より陶器焼成窯の改良を依嘱せらる。此の時先生の考案には本邦固有の楷段ある昇窯に於てその一段より離散する火熱を次段に受けしめ、以て燃料の経済を図るを宜しとし、其の他燃料を浪費すると左右の小孔より薪材を投入する不便を除くべしとなし建設図を案定せられ、而も薪材と石炭との何れをも使用する便宜を慮り、夫の焚口には楷段装置を設けらる、是れ本邦に於て楷段装置の嚆矢ならん。当時加藤友太郎(友玉園陶寿)氏が東京市牛込区新小川町に於て陶窯を築かんとする好機あるを以て多少の保護を支給し之を建設せしめたり。蓋し加藤氏は尾張国瀬戸村の生れ、嘗て勧業寮の招集に応じ陶器製造の新法を伝習せるものなり。因てワグネル先生の指揮を信頼し新しき陶窯を製造せり。此の窯の特微《(徴)》は小工業に対し最も便利なるに由り、加藤氏は弥来十有余年間使用《(爾)》し後同氏の全工業を挙げて他に移転するの止むを得ざる場合之を砕解せりと云ふ。此の窯の模型は昨今商工省京都陶磁器試験所に保存せらるるを以て其の詳細は省略する。
○下略


〔参考〕ワグネル先生追懐集 第三七〇―三七二頁〔昭和一三年一〇月〕 【新設陶器窯解設《(説)》(ドクトル・ワグネル)】(DK110061k-0010)
第11巻 p.438-439 ページ画像

ワグネル先生追懐集 第三七〇―三七二頁〔昭和一三年一〇月〕
    新設陶器窯解設《(説)》(ドクトル・ワグネル)

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 明治十五年六月地質調査所に於て、東京牛込区新小川町弐丁八番地の陶器工加藤友太郎をして試験の為、築造せしめたる陶器窯の解設《(説)》 



 抑々日本固有の陶器窯は傾斜せる地面に沿うて連築せる数個の窯室より成るものにして、其窯室の二十個の多きに至るもの往々之あり、而して下室の余熱は上室に通過せしむるを以て其外部に散失する極めて鮮小なり。故に熱を利用する如何の一点より論ずる時は、稍々善良のものと称するも不可なきが如しと雖も、尚ほ其構造に就き精査する時は不完全なる所許多あり。則ち左に之を陳述せん。
 第一 各窯室は巨大に過ぐるを以て其天井に達する迄、充分に磁鞘《さや》を堆積するを得ざるなり。
 第二 焚焼法は甚だ不便なり。
 第三 各窯室中熱度均一ならざるの弊あり。
 第四 製造家は各室内に器品の全充するを待て焚焼を始むるを常とす、故に臨時焼成の委託を受くるも殆んど六ケ月間を経ざれば之に応ずる事能はず。
 - 第11巻 p.439 -ページ画像 
 今回新設の陶器窯たる日本の制式に特有する利益は、悉く之を保存し、其損害を認むる所は可成的蠲去して構造せるものなり。乃ち此窯を用ゐて便益ある所以を左に略述せんとす。
 此窯は日本固有のものに比すれば其構造甚だ小なるを以て、啻に製造場内に築造し得るの便利あるのみならず、製陶家は陶磁器の需求を受くる毎に之を焼成して供給するに敢て久しき時日を要せざるなり。故に資本を収却する速にして、其利子僅少なるも利潤を獲る還て速なり。且一の製造場内に造坏及び焚焼の業を共にするを得るを以て、或は自ら新形の器品等を創製するも他人の之を見て摸擬するの恐なきなり。
 此窯を用ふる事は大に燃料を減少するを得べし。而して本窯より発出する焔熱は、第二の小窯室内に於て素焼を為すに活用するを得べきなり。
 若又薪料を投入するに其方法宜きを得ば、外部より寒冷なる空気の窯内に侵入するを防ぐを得べし。
 窯室内は僅かに直立の焔道を除くの外、全く器品を以て充塡して焼成するを得るなり。
 火床を築造するに極めて注意し堅牢ならしむる時は、窯材のみならず石炭をも適用するを得べし。
 焚焼方は簡易にして薪材を投入するの煩労は日本固有のものに比すれば僅少なり。
 窯中焔熱の分布は常に均一にして排列せる器品中一として直に火焔に接触するものなし。
 窯内の熱度は上壁の処に於て最も高大なるが故に、下層にある磁鞘《さや》は焔熱の為に破壊するの患なし。
 抑々此陶器窯に就きては既に三ケ所に於て其適否を実施せしに皆良結果を得たり。即ち第一京都府勧業場、第二東京府下小石川新小川町塩田氏所有の陶器窯を改造したるもの、第三同府下同区同町二丁目八番地加藤友太郎方に新築せしもの是なり。
○下略


〔参考〕(塩田真)書翰 渋沢栄一宛 (明治一三年?)五月一八日(DK110061k-0011)
第11巻 p.439 ページ画像

(塩田真)書翰 渋沢栄一宛 (明治一三年?)五月一八日
                     (渋沢子爵家所蔵)
小石川製陶所一条其他御協議奉願度義御座候間、寸時得拝顔度何日頃参拝可致哉、恐縮なから端書御恵投奉希上候也
  五月十八日
                     塩田真
    渋沢様
   ○右書簡ニ於テ、「小石川製陶所」トアルハ江戸川製陶所ヲ指スモノト思ハル。栄一ト江戸川製陶所トノ関係ニ就テハ他ニ資料ヲ見ズ、之ヲ知ル能ハザルモ、製陶業トノ関連ニ於テ玆ニ参考資料トシテ掲グ。