デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
10節 陶器製造業
3款 友玉園製陶所
■綱文

第11巻 p.431-439(DK110061k) ページ画像

明治40年(1907年)

明治十五年加藤友太郎ニヨリ創立サレタル友玉園製陶所ハ、是年匿名組合ニ組織ヲ変更シ業務ノ発展ヲ図ル。栄一、郷誠之助・植村澄三郎等ト共ニ組合員トナリ、大正五年ニ及ブ。


■資料

我国に於ける洋式窯の開祖 友玉園製陶所ノ沿革ト事業(DK110061k-0001)
第11巻 p.431 ページ画像

我国に於ける洋式窯の開祖 友玉園製陶所ノ沿革ト事業
友玉園製陶所ノ創立ハ明治十四年五月、工場ヲ東京市牛込区新小川町ニ建設シ、農商務省、御傭独逸人技師ドクトルワクネル氏ヲ顧問トシ現所主ノ先考福井常直氏ノ後援ヲ得テ、初代陶寿加藤友太郎氏ガ専心経営シ来リタルモノニシテ、実ニ我国ニ於ケル洋式窯ノ開祖ナリトス明治四十一年業務ノ大発展ニ随ヒ、現大崎町ニ新工場ヲ建設移転シ匿名組合トナシ、工場監督ニハ工学博士高山甚太郎氏就任ス、同氏没後ハ工学博士高松豊吉氏監督トナル、組合員ハ主トシテ実業家及ビ学者ニ依リテ組織サレ、実業界ニアリテハ渋沢栄一子爵・郷誠之助男爵・植村澄三郎・阿部吾市、川崎八右衛門・八十島親徳・久米良作・高田慎蔵ノ諸氏、又学者トシテハ和田維四郎・工学博士柵橋寅五郎《(棚橋寅五郎)》ノ諸氏其他平田東助子爵ノ十七名トス、大正五年二月匿名組合営業人加藤友太郎陶寿逝去ニヨリ匿名組合ハ終了トナリ、旧組合員ノ決議ニ基キ現所主福井常静氏ニ謀リ友玉園ノ事業ヲ継承スル事ノ承諾ヲ得タリ、初代陶寿ハワクネル氏ニ親炙シ其技術ヲ習得スルト共ニ、更ニ科学界ノ権威工学博士高山甚太郎氏並ニ工学博士高松豊吉氏ノ指導督監ノ下ニ諸学者ノ援助ヲ受ケ鋭意研究ヲ続ケ独特ノ新工夫ヲ凝シ、経験ト改良ヲ重ネタリ、如斯創業以来多年ニ亘ル精励研鑽ノ結果、製品陶寿及現所主ニ依リ"UTF"(共ニ商標)ヲシテ我学界並ニ工業界ニ其名声ヲ博スルニ至ラシメタリ、殊ニ美術陶器ニアリテハ、幾多ノ色彩案出ニ成功シ本窯ノ石焼ニテ赤色ヲ出スコトハ、東西古今ノ陶工ガ未ダ曾テ工夫シ得ザルモノヲ苦心研究ノ後、明治三十二年之ガ発明ヲ完成シ陶寿紅ト名ヅケテ発表シ、内外人ヲ驚歎セシメ欧米各国博覧会ニテ名誉大賞金牌廿一個、銀銅牌賞状百二十有余ヲ受領シタルハ、啻ニ当製陶所ノ名誉ノミナラズ我国製陶界ノ栄誉ナリトス
   ○右ハ友玉園製陶所製品型録(昭和七年十月)所載ノモノナリ。


工学博士 高松豊吉伝(鴨居武編)第三四九―三五三頁〔昭和七年六月〕(DK110061k-0002)
第11巻 p.431-433 ページ画像

工学博士 高松豊吉伝(鴨居武編)第三四九―三五三頁〔昭和七年六月〕
 ○第十五章 会社
    友玉園製陶所(園主 福井常静)
 先代友玉園製陶所主加藤友太郎は陶寿と号し、横浜の宮川香山、田端の板谷波山の両氏と共に、関東に於ける著名な窯元であつた。陶寿は瀬戸の生れで明治六年単身上京し内務省の勧業寮陶器試験場に入り
 - 第11巻 p.432 -ページ画像 
て洋式製陶術を習ひ、一度帰郷して石膏型形式法を郷里窯元に伝へたが、再び上京して勧業寮試験場に入り洋式製陶法の実習を励んだ。明治十四年春小石川江戸川畔に自ら加藤製陶所を起し、刻苦勉励する内に農商務省の故高山博士、大学の高松・中沢両博士に知られ、技術上に色々の指導を受けた。明治十九年には蔵前の東京職工学校に陶器玻璃工科が新設され、其主任教師にドクトル・ワグネル先生が任命されたので、予て敬慕する先生に師事することができた。ワグネル先生は明治初年大学南校の化学教師を勤めた政府御雇の独逸人であつたが、後に我国の陶土と製陶法の調査の傍ら諸方の窯元に欧式窯業法の伝習を委嘱され、多年各地を巡遊して我窯業の工業的開発に熱心に尽瘁された方で、斯界の権威であり大恩人であつた。前記諸博士は何れもワグネル先生とは親交があつたので、陶寿が師事する上にも色々の便宜が与へられた。ワグネル先生は農商務省に請ふて加藤製陶所内に欧洲式の本窯を築き、我国各地の陶土を用ひて形成や施釉や本焼などにも独特の方法を試み、多数の製品を示して我陶磁器界に新路開拓を促された。後この試験窯其他の装置一切は加藤の有に帰し恩顧を蒙つてゐた品川子爵は此記念すべき陶園を友玉園と命名し、加藤には陶寿の号を与へ斯業の研究を励まされた。
 高松博士と中沢博士は、応用化学教室用の蒸発皿や坩堝や手洗器など、当時総て輸入品のみで不経済であり、且つ不便尠からざる為め、陶寿に指導を与へ其国産を促されたけれども、陶寿は工芸品の製作特に磁器に赤色と黄色の上絵を着けることの考案に没頭してゐたので他を省みず、恩師に対し申訳ないことであつたが、化学用磁器の製造は兎角疎かになり御用命に添ふことができなかつた。然し陶寿の熱心な研究は遂に成功して鮮かな赤色を磁器に着色することを得た、其製品は大方の賞讃を博し内国博覧会共進会は勿論欧米の万国大博覧会にも出品して多数の賞牌を授与された。
 明治四十年には高松・高山両博士の御尽力で、品川子爵、渋沢子爵、平田男爵其他在京貴紳十七名の御同情の下に、友玉園を後援する匿名組合ができた。陶寿は此庇護の下に大崎町に敷地を求め、北村博士の設計に成る仏蘭西型倒焔式竪窯の外数個の補助窯を築造し、三百坪の工場を新築してこれに一切の新式動力機械を装備した。斯くて陶業史上記念すべき小石川江戸川畔の友玉園全部を引払つて、大崎町の新工場へ移転した。友玉園は公私の信用も厚く屡々宮内省御用をも承はり磁製食器類各種の大口御注文を完納したことは誠に光栄である。然し秋季に目黒川大氾濫し工場も亦浸水甚しく不慮の損害を重ねた。これが為め業績は陶寿の初志と違ひ少からぬ欠損を生じた。兎角不如意の中に陶寿も亦健康を害し懊悩の日を続けたが、組合監督高松博士は匠工気質の陶寿に工場経営の才なきを見て、御繁忙の中を日曜日など度度工場を見舞はれて経営に助力された。然し博士の御厚志も空しく陶寿は財政復興の時期到るに先だち大正五年冬遂に永眠した。これが為めに博士は組合清算の任に当られ、非常に御迷惑な立場に立たれたが組合員各位に同情を求め故人の責を寛容して一切を遺族再興の資に恵まれた。陶寿没後は後継者もなかつたので博士は加藤の親戚中より不
 - 第11巻 p.433 -ページ画像 
肖を招かれ其後の経営引継を御配慮下さつた。不肖も各位の御恩顧に報ゆる大決心を以て此苦境に立つた。爾来私財を抛つて専心遺窯に拠り奮闘努力すること十数年、今日では特殊な工業陶磁器製造を主として漸次に業務発展の途に向つた。これ偏に高松博士始め各位の御庇護のお蔭と深く感謝してゐる次第で、博士八十の祝賀に際し陶寿遺窯復興の事実を御報告し得ることは不肖の最も欣幸とするところである。


飯塚千之助氏談話(DK110061k-0003)
第11巻 p.433-434 ページ画像

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加藤友太郎記録(DK110061k-0004)
第11巻 p.434-435 ページ画像

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ワグネル伝(植田豊橘編)伝記・第二五頁〔大正一四年一月〕(DK110061k-0005)
第11巻 p.435-436 ページ画像

ワグネル伝(植田豊橘編)伝記・第二五頁〔大正一四年一月〕
○上略
是より前、明治十四年尾州の陶工加藤友太郎氏は、嘗て勧業寮に伝習し、続て江戸川製陶所(納富・塩田両氏の経営せるもの)に入り職長となり業務を執りたるが、爰に独立の製造業を経営せんと欲し地を新小川町に卜して之れを開始せり、同氏は斯業に於て有望の工人たり、由てワグネル氏の勧誘に由り時の農商務大臣たりし品川子爵之を賛助し、官より改良窯築造費を補助せらるゝことゝなりたり、此に於てワグネル氏は連日同所に出張し築窯を指揮督励せしが、窯の将に成らんとする時不幸にも亀裂を生じ、故に試築を完了したるも其成績を揚ぐること能はざるに至りたれば官民共に憂慮せり、然るにワグネル氏は平然として之に要する費用を自弁し、直に改築を命じ以て監督の責任を完ふし改良窯の成績を揚ぐるに至れり、之れ本邦に於て陶磁器製造に関する築窯上に改良を試みたる嚆矢ならん乎。○下略
   ○当所ノ創立、匿名組合組織及ビ大崎移転ノ各年度ニ関シテハ以上ノ諸資料ニ於テ完全ナル一致ヲ見ザルモ、創立年度ニ就テハ、明治十四年独立ヲ図リ、同十五年ニ至リ製陶所ヲ完成シタルモノト見ルヲ妥当ナリトシテ完成年度ヲトリ、大崎移転ノ年度ハ「友玉園製陶所ノ沿革ト事業」ニ依リ明治四十一年トナセリ。又匿名組名ハ大崎移転以前ニ既ニ組織サレタルモノノ如キガ故ニ移転ノ前年ノ明治四十年トナセリ。
   ○明治六年墺国博覧会参同ニ際シテ伝習セル各種ノ工業技術ハ、各伝習者ノ帰朝後、当時博覧会事務局タル山下門内ノ別室ニ実施試業セラレ、後此事業ハ内務省勧業寮ノ所轄トナル。(内務省勧業寮陶器試験所)製陶技術ノ伝習生タリシ納富介次郎・河原忠次郎ハ同所ニ於テ全国著名ノ陶磁器産地ヨリ生徒ヲ募リ石膏型用法等ヲ伝習ス。十年一月政府改革ノ際、伝習事業ハ挙テ工部省ニ引継ガレタルニヨリ、納富・河原モ共ニ同省ニ転ジタリシガ、同年六月末同省ハ突然総テノ伝習事業ヲ廃止スルニ及ビ、事業ノ半途ニシテ廃セラルルヲ慨歎シ塩田真ト謀リ江戸川製陶所ヲ設立シテ更ニ伝習事業ヲ継続ス。同所ハ瀬戸・九谷其他地方ノ生徒及陶画工女工合セテ八十余名ヲ薫陶養成シテ地方製陶ノ改良ニ貢献シタリシモ、出納相償ハス十七
 - 第11巻 p.436 -ページ画像 
年廃絶ニ帰ス。(「墺国博覧会参同紀要」下篇第一〇六―一一〇丁ニ依ル)



〔参考〕日本窯業大観 第三六五―三六七頁〔昭和八年七月〕(DK110061k-0006)
第11巻 p.436-437 ページ画像

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〔参考〕日本窯業大観 第九一頁〔昭和八年七月〕(DK110061k-0007)
第11巻 p.437 ページ画像

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〔参考〕府県陶器沿革陶工伝統誌 第二頁〔明治一九年七月〕(DK110061k-0008)
第11巻 p.438 ページ画像

府県陶器沿革陶工伝統誌 第二頁〔明治一九年七月〕
同○明治十五年六月、農商務省地質調査所ニ於テ独乙人学士ワクネル氏ノ創意ニ係レル陶窯ヲ牛込新小川町ニ築キ、江戸川製陶所ノ工長加藤友太郎ヲシテ之ヲ掌ラシム、翌十六年六月終ニ友太郎ノ有ニ帰シ、友玉園ト称シ陶磁器ヲ製セリ


〔参考〕ワグネル先生追懐集 第八七―八八頁〔昭和一三年一〇月〕(DK110061k-0009)
第11巻 p.438 ページ画像

ワグネル先生追懐集 第八七―八八頁〔昭和一三年一〇月〕
    ワグネル先生来歴第一段(工学博士 中沢岩太)
○上略
 大学に就職せらるる間、明治十五年時の農商務省より陶器焼成窯の改良を依嘱せらる。此の時先生の考案には本邦固有の楷段ある昇窯に於てその一段より離散する火熱を次段に受けしめ、以て燃料の経済を図るを宜しとし、其の他燃料を浪費すると左右の小孔より薪材を投入する不便を除くべしとなし建設図を案定せられ、而も薪材と石炭との何れをも使用する便宜を慮り、夫の焚口には楷段装置を設けらる、是れ本邦に於て楷段装置の嚆矢ならん。当時加藤友太郎(友玉園陶寿)氏が東京市牛込区新小川町に於て陶窯を築かんとする好機あるを以て多少の保護を支給し之を建設せしめたり。蓋し加藤氏は尾張国瀬戸村の生れ、嘗て勧業寮の招集に応じ陶器製造の新法を伝習せるものなり。因てワグネル先生の指揮を信頼し新しき陶窯を製造せり。此の窯の特微《(徴)》は小工業に対し最も便利なるに由り、加藤氏は弥来十有余年間使用《(爾)》し後同氏の全工業を挙げて他に移転するの止むを得ざる場合之を砕解せりと云ふ。此の窯の模型は昨今商工省京都陶磁器試験所に保存せらるるを以て其の詳細は省略する。
○下略


〔参考〕ワグネル先生追懐集 第三七〇―三七二頁〔昭和一三年一〇月〕(DK110061k-0010)
第11巻 p.438-439 ページ画像

ワグネル先生追懐集 第三七〇―三七二頁〔昭和一三年一〇月〕
    新設陶器窯解設《(説)》(ドクトル・ワグネル)

図表を画像で表示--

 明治十五年六月地質調査所に於て、東京牛込区新小川町弐丁八番地の陶器工加藤友太郎をして試験の為、築造せしめたる陶器窯の解設《(説)》 



 抑々日本固有の陶器窯は傾斜せる地面に沿うて連築せる数個の窯室より成るものにして、其窯室の二十個の多きに至るもの往々之あり、而して下室の余熱は上室に通過せしむるを以て其外部に散失する極めて鮮小なり。故に熱を利用する如何の一点より論ずる時は、稍々善良のものと称するも不可なきが如しと雖も、尚ほ其構造に就き精査する時は不完全なる所許多あり。則ち左に之を陳述せん。
 第一 各窯室は巨大に過ぐるを以て其天井に達する迄、充分に磁鞘《さや》を堆積するを得ざるなり。
 第二 焚焼法は甚だ不便なり。
 第三 各窯室中熱度均一ならざるの弊あり。
 第四 製造家は各室内に器品の全充するを待て焚焼を始むるを常とす、故に臨時焼成の委託を受くるも殆んど六ケ月間を経ざれば之に応ずる事能はず。
 - 第11巻 p.439 -ページ画像 
 今回新設の陶器窯たる日本の制式に特有する利益は、悉く之を保存し、其損害を認むる所は可成的蠲去して構造せるものなり。乃ち此窯を用ゐて便益ある所以を左に略述せんとす。
 此窯は日本固有のものに比すれば其構造甚だ小なるを以て、啻に製造場内に築造し得るの便利あるのみならず、製陶家は陶磁器の需求を受くる毎に之を焼成して供給するに敢て久しき時日を要せざるなり。故に資本を収却する速にして、其利子僅少なるも利潤を獲る還て速なり。且一の製造場内に造坏及び焚焼の業を共にするを得るを以て、或は自ら新形の器品等を創製するも他人の之を見て摸擬するの恐なきなり。
 此窯を用ふる事は大に燃料を減少するを得べし。而して本窯より発出する焔熱は、第二の小窯室内に於て素焼を為すに活用するを得べきなり。
 若又薪料を投入するに其方法宜きを得ば、外部より寒冷なる空気の窯内に侵入するを防ぐを得べし。
 窯室内は僅かに直立の焔道を除くの外、全く器品を以て充塡して焼成するを得るなり。
 火床を築造するに極めて注意し堅牢ならしむる時は、窯材のみならず石炭をも適用するを得べし。
 焚焼方は簡易にして薪材を投入するの煩労は日本固有のものに比すれば僅少なり。
 窯中焔熱の分布は常に均一にして排列せる器品中一として直に火焔に接触するものなし。
 窯内の熱度は上壁の処に於て最も高大なるが故に、下層にある磁鞘《さや》は焔熱の為に破壊するの患なし。
 抑々此陶器窯に就きては既に三ケ所に於て其適否を実施せしに皆良結果を得たり。即ち第一京都府勧業場、第二東京府下小石川新小川町塩田氏所有の陶器窯を改造したるもの、第三同府下同区同町二丁目八番地加藤友太郎方に新築せしもの是なり。
○下略


〔参考〕(塩田真)書翰 渋沢栄一宛 (明治一三年?)五月一八日(DK110061k-0011)
第11巻 p.439 ページ画像

(塩田真)書翰 渋沢栄一宛 (明治一三年?)五月一八日
                     (渋沢子爵家所蔵)
小石川製陶所一条其他御協議奉願度義御座候間、寸時得拝顔度何日頃参拝可致哉、恐縮なから端書御恵投奉希上候也
  五月十八日
                     塩田真
    渋沢様
   ○右書簡ニ於テ、「小石川製陶所」トアルハ江戸川製陶所ヲ指スモノト思ハル。栄一ト江戸川製陶所トノ関係ニ就テハ他ニ資料ヲ見ズ、之ヲ知ル能ハザルモ、製陶業トノ関連ニ於テ玆ニ参考資料トシテ掲グ。