デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
11節 硝子製造業
1款 磐城硝子会社
■綱文

第11巻 p.440-442(DK110062k) ページ画像

明治20年9月(1887年)

栄一、益田孝・浅野総一郎等ト共ニ磐城硝子会社ヲ創立セシモ、二十三年ニ至リ解散ス。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第二七九頁 〔明治三三年六月〕(DK110062k-0001)
第11巻 p.440 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)第二巻・第二七九頁〔明治三三年六月〕
 ○第四十五章 硝子製造業
    第二節 磐城硝子会社
磐城硝子会社ハ磐城国小名浜ニアリ、明治二十年九月ノ交、青淵先生及益田孝・浅野総一郎ノ発起ニ係ルモノニシテ、其目的ハ専ラ食器壜類等ノ製造販売ニアリ、当時青淵先生ハ中沢岩太ニ命シテ窯ヲ築カシメ、海福某ヲ技師トシ、大ニ製造ニ力メシモ、製品ニ亀列ヲ生シ、数回ノ改良ヲ試ムルモ終ニ良好ノ成績ヲ得ルコト能ハス、二十三年ニ至リ解散セリ
後田中栄八郎、東京本所区ニ一工場ヲ起シ、同社養成スル所ノ職工ヲ使用シ、終ニ事業ノ成立ヲ見ルニ至リシト云フ


日本近世窯業史(大日本窯業協会編)第四篇・第三二―三四頁〔大正六年五月〕(DK110062k-0002)
第11巻 p.440-442 ページ画像

日本近世窯業史(大日本窯業協会編)第四篇・第三二―三四頁〔大正六年五月〕
 ○第二章第二節 民間硝子工場の勃興
    第一 三大硝子会社の設立
○上略
 此頃東京なる西村勝三の品川硝子会社及び大阪なる伊藤契信の日本硝子会社と相並びて、当時の三大硝子製造会社たりし磐城硝子会社は明治二十年九月、渋沢栄一・益田孝・浅野総一郎等に依て発起せられたるものとす。而して此翌年は即ち品川硝子製作所が組織を変更して品川硝子会社と改称したる年なりき。磐城硝子会社創設の目的は板硝子を製造せんとするにありたり。板硝子の製造は曩に興業社に於て試み、次ぎに工部省所管の品川硝子製作所に於て企劃せられたるありと雖も、何れも其成功を告げざりき。然るに其需用は年を追ふて益々盛ならんとし、従て海外より輸入せらるゝもの漸次増加せんとするを以て、栄一・孝・総一郎の如き商工業界の有力者は、奮然として此至難の業を開かんと企劃せり。而して当時硝子に関し研究しつゝありたる技術家中沢岩太に就きて、設計其他諸般技術上の教を受けぬ。岩太策を立てゝ曰く『板硝子を製造せんと欲せば、資本よりも機械よりも、先づ職工の選択に重きを置かざるべからず。既往に於て板硝子製造の屡次失敗を繰り返されたるは、実に斯道に熟練なる職工なかりしに由る。故に今職工を悉く海外より招致するか、我職工を海外に派して技術を修得せしむるか、二者其一を執るを要す、若し我職工をして海外
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に学ばしむるものとせば、其経費約金二万円を要すべし』と。然るに会社発起人は、従来外国職工を招きて業を開きし他種工場の成績余り良好ならざるに徴して、第一策の結果如何を懸念し、左りとて第二策に依りて多額の職工養成費を支出し難き事情あり。是等の為め板硝子の製造は第二期以下に於て計劃を立つることに為し、第一期の事業としては、小規模の工場を創設し置き、先づ麦酒瓶其他食器類の製造を為し、以て他日の発展を待つことゝせり。
 磐城硝子会社は明治二十年九月愈其創立を告げたり。而して工場は磐城国小名浜海岸の官有地を借用して建築せり。蓋し小名浜の地たる硝子原料として要する珪砂は良質にあらずと雖も、壜類食器類用の原料たるに堪うるものを附近の海辺に於て獲べく、また海上の距離甚しく遠からざる安房国よりは房州砂を輸致することを得、燃料たる石炭も亦た近傍に於て産出し、加之良港とは言ひ難きも、船舶の出入を為すを得て、製品の輸送にさばかりの不便ありとも思はれず、是れ遂に小名浜を選択して工場所在地と為したる所以なりき。爰に於て岩太は其頃硝子の研究に熱心なりし海福悠を推して技術部の主任と為しぬ。
 当時硝子用の窯として一般に使用せられたるは総て坩堝窯なりき。然るに製壜用には槽窯を使用するを利益とするも、当時欧米に行はるる新式のものを築造するには多額の経費を要し、小規模なる磐城硝子会社の耐うる処にあらず。玆に於て岩太は、築窯費を成るべく軽からしめて、而かも効力の大なる新式窯の考案に思を致し、遂に簡易なる瓦斯槽窯の設計を立て、従来の坩堝窯に代ふるに槽窯を築かしむることゝ為し、其築窯の実務は悠をして自ら担任せしめぬ。此簡易なる槽窯は爾来諸処の硝子工場に於て使用せらるゝに至り、本邦に於ける硝子窯の一革新を為せり。而して愈々窯の製造に着手せんとするや、内地には耐火煉瓦を求むること容易ならず。西村勝三の経営に係る品川白煉瓦製造所ありと雖も、勝三も亦た他方に於て硝子の製造に従事せる関係上、該所の製品を購入し難き事情あり。また小名浜附近に於て現時は盛に耐火粘土を採取せるも、其当時は耐火粘土の産出あるを知らざりしかば、止むを得ず尾張国より木節粘土を取寄せ、工場敷地内に先づ耐火煉瓦の焼成工場を建築し、其の製造より始めて漸く硝子窯を築造したりと云ふ。
 斯くして翌二十一年諸般の準備漸く整ひしかば、愈々壜類食器類の製造を開始せり、而して品物は予定の如ものを製造し得たりと雖も、意外なる困難は他の方面より湧起せり。即ち初め工場地を小名浜に選定するや、船舶出入に左程の困難も感ぜざるべく、且つ小名浜築港の風聞もありたるを以て、大に前途の有望なるを察して此地に工場を起したるものなり。然るに石炭の如き種類のものを船積するには敢て甚しき不便を感ぜずと雖も、硝子製品の如き、損傷し易きものにありては、風浪常に荒きが為めに、商品を毀損すること夥しく、之が荷造及び運送に要する費用莫大にして、収支相償ひ難き難境に陥りぬ。加之築港の議また行はれず、現時見る処の常磐海岸鉄道の如きは、其敷設の噂さへも聞かざりし頃なりしかば、遂に二十三年に至り会社を解散するの止むなきに至りぬ。後ち此工場敷地其他工作物一切は、品川白
 - 第11巻 p.442 -ページ画像 
煉瓦製造所の買収する処となりて同所の支工場と為りぬ。
○下略


斎藤峰三郎氏所蔵文書(DK110062k-0003)
第11巻 p.442 ページ画像

斎藤峰三郎氏所蔵文書
硝子製造所ヲ品川硝子会社へ売却之事ハ、昨日益田孝へ書状を以掛合置、今日同氏面会ニて尚相談取極候積之処、園遊会へ出席無之ニ付、明日早々再応引合いたし当金千円を受取、跡金年賦証文ニいたし残品売却方及他向借入金完済之都合等、浅野氏ニ承合夫々処分致候様、増田多郎へ可申談候事
○下略
   ○栄一自筆、斎藤峰三郎宛覚書ト思ハル。明治二十三年四月十三日ノモノト推定サル。


中外商業新報 第二四五九号〔明治二三年六月四日〕 磐城硝子製造所の譲渡(DK110062k-0004)
第11巻 p.442 ページ画像

中外商業新報 第二四五九号〔明治二三年六月四日〕
    磐城硝子製造所の譲渡
去る明治二十年の頃に当たり硝子瓶の需用頓に増加し、従て其の価格自から騰貴せしより磐城地方の採炭事業に従事せる浅野惣一郎氏等が発起主唱と成りて、彼地に一の硝子製造所を創設するの計画を企て、中沢岩吉氏に托して該製造の調査を遂けたる上、浅野惣一郎氏外四五名の人々之れが資本を投じ、爾来右採炭事業と併せて其の業を営み居たり、然るに一方なる採炭事業の日増隆盛に赴くに従ひ、何分手廻はり兼ぬる等の事情ある折柄、和田・中沢氏等より同製造所を譲り受けたしとの申込みありしかば、幸ひ其の相談を承諾せんとせし処又た品川硝子製造会社よりも同様其の譲り受けの相談ありしに就き、此程双方熟議を凝らしたる末、遂に品川硝子製造会社の方へ譲り渡すべき事に決定したるを以て、愈々近日売買の契約を取結ぶ運びに成行きしとなり
   ○西村翁伝記編纂会ノ編ニカカル「西村勝三翁伝」(第一二〇頁)ニハ、明治二十七年三月、西村勝三ガ磐城硝子会社工場ヲ買収シテ耐火煉瓦工場トナシタル事ヲ記セリ。然レドモ「青淵先生六十年史」(第二巻第二七九頁)並ニ「日本近世窯業史」(第四三頁)ニヨレバ、磐城硝子会社ハ明治二十三年既ニ解散シタリ。ヨツテ斎藤峰三郎氏所蔵文書並ニ「中外商業新報」第二四五九号ニヨリ、同社工場ハ明治二十三年一度品川硝子会社ノ所有ニ帰シ、二十七年三月ニ至リ西村勝三ノ手ニ買収セラレタルモノト推定スル方妥当ナルベシ。