デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
12節 煉瓦製造業
2款 日本煉瓦製造株式会社
■綱文

第11巻 p.514-535(DK110075k) ページ画像

明治20年10月25日(1887年)

是日栄一、池田栄亮等四人ト連署シテ資本金二十万円ノ日本煉瓦製造会社ノ設立ヲ東京府知事高崎五六ニ出願ス。同二十九日認許ノ指令ヲ受ケ、尋イデ栄一理事ト為ル。当会社ハ独逸ヨリ新式焼成窯ヲ輸入シ、工場ヲ埼玉県大里郡大寄村上敷免ニ設ケテ本邦最初ノ機械製煉瓦ノ製造ヲ開始ス。


■資料

日本煉瓦製造株式会社所蔵文書(DK110075k-0001)
第11巻 p.514-521 ページ画像

日本煉瓦製造株式会社所蔵文書
    日本煉瓦製造会社設立願
今般煉化石改良増殖ノ為メ、私共申合、別冊定款ニ拠リ、本社ヲ東京日本橋区箱崎町三丁目壱番地ニ設立仕度候間、御認可被成下度奉存候尤モ株金之義ハ出願主ニ於テ悉皆負担シ、他ヨリ募集不仕候、依而別冊定款相添、此段奉願上候也
  明治二十年十月廿五日
           東京府日本橋区浜町三丁目壱番地
                    池田栄亮(印)
           同 深川区福住町四番地
                    渋沢栄一
           同 荏原郡北品川宿弐百六拾番地
                 益田孝代理
                    木村正幹
           同 深川区深川清住町十四番地
                    木村正幹
           同 日本橋区浜町三丁目壱番地
                    隅山尚徳(印)
    東京府知事 男爵高崎五六殿
右出願ニ付奥印候也
           東京府日本橋区長 伊藤正信
(以下六行朱書)
第八二九四号
書面会社設立ノ儀ハ、追テ一般ノ会社条例制定相成候迄、人民ノ相対ニ任セ候条、其旨可相心得事
 但製造場設立ニ係ル儀ハ、更ニ其地管轄庁ノ指揮ヲ受クベシ
  明治二十年十月廿九日
         東京府知事 男爵高崎五六
  ○本指令ハ「本会社定款ヲ閲スルニ別段不都合ノ廉無之且発起人中府下有名ノ資力者モ有之ノミナラス、資本金ハ悉皆発起者負担スルモノニ付、身元ノ厚薄ハ取調ルニ不及儀ト思考シ本按ノ指令ヲナサントス、又定款第三条
 - 第11巻 p.515 -ページ画像 
ニ其工場ヲ埼玉・千葉両県ニ設クル旨記載アルニ付、本按ノ但書ヲ付ス」ト云フ理由ヲ以テ認許セラレタリ。
      ○
    日本煉瓦製造会株金負担人名《(社脱)》
               日本橋区浜町三丁目壱番地
  一 金拾万円              池田栄亮
               深川区福住町四番地
  一 金五万円              渋沢栄一
               荏原郡北品川宿弐百六十番地
  一 金弐万円              益田孝
               深川区清住町十四番地
  一 金壱万円              木村正幹
               日本橋区浜町三丁目壱番地
  一 金弐万円              隅山尚徳
      ○
    日本煉瓦製造会社定款
日本煉瓦製造会社ヲ創設スルニ付、其株主ノ衆議ヲ以テ決定スル処ノ定款左ノ如シ
   第壱章 総則
第壱条 当会社ノ営業ハ蒸滊器械ヲ以テ欧式ニ倣ヒ、装飾及ヒ普通煉瓦ヲ製造シ建築局御用ヲ主トシ、其他公衆ノ需要ニ供スルヲ以テ目的トス
第弐条 当会社ノ名号ハ日本煉瓦製造会社ト称ス
第三条 当会社ハ本社ヲ東京日本橋区箱崎町三丁目壱番地ニ置キ、其工場ヲ埼玉県榛沢郡上敷免村千葉県周准郡小浜村ニ設ケテ製造ヲナススモトス
  但販売方ハ別ニ約定ヲ設ケテ他ノ商会等ヘ取扱ハシムルコトアルヘシ
第四条 当会社ノ営業年限ハ満五拾ケ年トス
  但株主総会ノ決議ニ依リ延期スルヲ得ヘシ
第五条 当会社ハ有限責任トシ負債弁償ノ為メ株主ノ負担スヘキ義務ハ株金ニ止ルモノトス
第六条 当会社ノ営業ハ第壱条ニ定メタル目的ノ外他ノ業務ニ干預スヘカラス
   第二章 資本金
第七条 当会社ノ資本金ハ弐拾万円ト定メ、壱株ヲ金千円トシ総計弐百株ヲ内国人民ヨリ募集スヘシ
  但営業ノ都合ニ依リ株主ノ決議ヲ以テ此株高ヲ増減スルヲ得ヘシ
第八条 此株金ハ各其引受高ヲ理事員会ニ於テ定メタル期限ニ於テ入金スヘシ、其時日ハ必ス三十日前ニ通知スヘシ
第九条 株主第一回ノ払込ヲ為シタルトキハ、当会社ヨリ仮証ヲ交付シ、第二回以後ハ其金額ヲ右仮証ニ記入シ、主任者之レニ鈐印スヘシ、但最後ノ入金ヲ為シタルトキハ本株券ト交換スヘシ
第十条 株主若シ此払込金ヲ怠ルトキハ其金高ニ対シ一日百円ニ付金三銭ノ延滞日歩利息ヲ徴収スヘシ、而シテ日数六十日ヲ過キ尚入金ヲ為サヽルトキハ当会社ニ於テ此株式ヲ売却シ、其買受入ヲシテ補欠員タラシムヘシ
 - 第11巻 p.516 -ページ画像 
  但此場合ニ於テハ売却ニ係ル諸費及延滞日歩利息ヲ計算シ、不足アレハ原株主ヨリ徴収シ余金アラハ之レヲ還付スヘシ
   第三章 役員
第十一条 当会社株主ノ投票ヲ以テ一株以上ヲ所有スル株主中ヨリ人員三名ヲ撰挙シ、之レヲ当会社ノ理事員ト為スヘシ
第十二条 理事員ハ互撰ヲ以テ理事長壱名ヲ撰定スヘシ
第十三条 理事員ハ其会議ノ決議ヲ以テ当会社全体ノ事ヲ総理スル権アルヘシ、故ニ会社ノ業務ヲ整理スルニ於テハ株主ニ対シ其責ニ任スヘシ
第十四条 理事員ハ少ナクモ毎月弐回当会社ニ於テ会議ヲ開キ、会社一切ノ事ヲ処弁スヘシ
  但其議長ハ理事長之レニ任スヘシ
第十六条 理事員ハ其会社ノ議決ヲ以テ当会社ノ諸傭員ヲ任免黜陟シ及其給料旅費賞与金ノ配付等ヲ定ムルノ権アルヘシ
第十七条 理事員ハ其会議ノ議決ヲ以テ当会社ノ営業ニ関スル諸規則ヲ制定施行スルヲ得ヘシ
第十八条 理事員ハ上任ノ日ニ当リ所持ノ株式券状三個ヲ当会社ヘ預ケ置クヘシ、当会社ハ之レヲ挌護シ其券状ノ保護預リ証書ニ禁授受ノ印ヲ押シ之レヲ渡スヘシ
第十九条 理事員ノ任期ハ弐ケ年トシ三ケ年目ヨリ株主総会ノ投票ヲ以テ、其中弐名宛ヲ抽籖法ニ拠テ順次更代スルモノトス
  但再撰挙ヲ得タル者ハ重任スルヲ得ヘシ
第二十条 理事員中若シ不時ノ欠員アルトキハ株主臨時総会ヲ催シ其代任ヲ撰挙セシムヘシ
  但時宜ニヨリテハ理事員中ノ衆議ヲ以テ之レガ補欠員ヲ撰ヒ、本員ノ年限丈ケヲ補塡セシムルヲ得ヘシ
第二十一条 理事員ハ理事長又ハ同員中ニ職任不適当ノ所為アリト認ムルトキハ、株主臨時総会ヲ催シ三分ノ二以上ノ多数説ニ従ヒ之ヲ退職セシムルヲ得ヘシ
  但此場合ニ於テハ其行為不適当ノ理由ヲ株主ニ証明スヘシ
第二十二条 理事員ノ勤務ニ対スル報酬金ハ株主ノ協議ヲ以テ之レヲ定ムヘシ
   第四章 傭員
第二十三条 当会社傭員ノ職名ハ左ノ如シ
  庶務部
    支配人
    書記
    会計方
  工業部
    監督
    副監督
    機関師
    配置師
    機関手
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    配置手
   但書記会計方ハ便宜他ノ課ヲ兼務代任セシムル事アルヘシ
第二十四条 支配人ハ理事長ノ命ヲ受ケテ、当会社ノ庶務一切ヲ担当シ、諸傭員ヲ督励シテ業務ヲ暢達整頓スル責ニ任スヘシ
第二十五条 支配人ハ常ニ当会社ノ会計ニ注意シ薄記計算及物品出納等ニ於テハ殊ニ之レヲ調理スルコトヲ勉ムベシ
第二十六条 支配人ハ会計営業ノ為メタリト雖モ、他ヨリ借用金ヲ為スコトヲ得ス
第二十七条 書記及監督以下ノ傭員分掌ノ事務及其規程ハ理事員会ノ議決ニ拠リ、当会社ノ営業規則ヲ以テ之レヲ定メ置クヘシ
第二十八条 当会社ノ傭員ハ諸有金及物品等ヲ規程外ニ出入使用スヘカラス
第二十九条 当会社ノ傭員万一勤務上不都合ノ行為アレハ之レヲ放免スルハ勿論、若シ其行為ヨリ損耗ヲ生スルトキハ其者ニ賠償セシムヘシ、本人其義務ヲ果サヽレバ引受証人ヲシテ之レヲ弁償セシムヘシ
第三十条 当会社傭員ヲ採用スル者ハ一ケ月間見習トシテ勤務セシメ然ル後慥ナル身元引受人ヲ立テ引受証書ヲ出サシメテ其等級ヲ定ムヘシ
  但理事員会ノ議決ニ拠リ特ニ採用スル者ハ此限リニ非ス
   第五章 株主ノ権利責任
第三十一条 当会社ノ株主ハ即チ当会社ノ本主ナルヲ以テ株主相当ノ権利ヲ有シ、且当会社ノ営業ニ差支ナキニ於テ何時ニテモ金銭出納諸帳簿諸計算ヲ検査スルヲ得ヘシ
第三十二条 当会社ノ株主ハ理事員会ノ議決ニ不適当ノ事アルヲ認ムルトキハ、第四拾条ノ順序ニ照シ臨時総会ヲ催シ、三分ノ二以上ノ多数説ヲ以テ理事員ノ全数又ハ幾名ヲ解任スルノ権アルヘシ
第三十三条 当会社ノ株主ハ総会ニ於テモ一株毎ニ一個ノ発言投票ヲ為スノ権アルモノトス
第三十四条 当会社ノ株主タル者ハ其引受ケタル株式一個ニ付、株券状一通ヲ受領スルヲ得ヘシ、其券状ノ書式ハ左ノ如シ
 第何号
   有限責任日本煉瓦製造会社株式券状
      何府県何国何郡何町村何番地
              何某殿
 日本煉瓦製造会社ノ定款ヲ遵守シ明治何年何月何日ヨリ本社株式ノ内、千円則チ壱株ノ持主タル事相違ナキ証拠トシテ、此券状ニ社印及主任ノ印章ヲ鈐シテ之レヲ交付スル者也、此株券状ヲ売却又ハ譲与セント欲スル時ハ定款第十章第五十七条ノ手続ヲ経テ後、此株券ヲ本社ニ持参スヘシ、本社ハ至当ノ検査ヲ遂ケ券状裏面ニ主任者鈐印シ、及其時日ヲ記載シテ以テ所有ノ転換ヲ証明スヘシ
                 日本煉瓦製造会社
  明治何年何月何日            理事員連署
第三十五条 右株式券状磨滅敗裂等ノコトアルトキハ其趣ヲ書面ニ認
 - 第11巻 p.518 -ページ画像 
メ、之レカ書替ヲ乞フヘシ、若又焼亡紛失スルコトアレハ其事実ヲ明瞭ニ認メ、弐人以上ノ証人ヲ立テ各之ニ記名調印シ更ニ新株券状ノ交付乞フヘシ
  但シ株券状ヲ書替ル時ハ当会社ニ於テ定メタル手数料ヲ払フヘシ
第三十六条 前条株式券状焼亡又ハ紛失等ノ場合ニ於テハ会社ハ之ヲ新聞紙ニ広告シ、三十日ヲ経タル後新株式券状交付ヲ為スヘシ
  但広告料ハ其株主ヨリ之ヲ会社ニ支払フヘシ
第三十七条 株主ハ何等ノ事故アルモ当会社営業年限ノ間ハ其株金ヲ取戻スコトヲ得サルヘシ
第三十八条 株主ハ第五十七条ノ手続ヲ為セハ其所有株式ヲ売却譲与スルヲ得ヘシ
   第六章 株主総会
第三十九条 株主総会ハ定式臨時ノ二類ト為シ、定式総会ハ毎年両度一月七月理事員会ノ議決ヲ以テ指定シタル時日ニ之ヲ開キ、臨時総会ハ理事員会ノ議決ニ拠リ適当ナリト認ル場合ニ於テハ何時ヲ論セス之ヲ開設スルヲ得ヘシ
第四十条 株主人員三名ニ下ラス其株数当会社総株高ノ五分ノ一ニ下ラサルモノニシテ、臨時総会ヲ要スルトキハ之ヲ理事員会ニ通牒シテ開会スルヲ得ヘシ
第四十一条 右ノ通牒ニハ其総会ヲ要スル事件ノ目的ヲ詳明ニ記載スヘシ、而シテ理事員会ニ於テ理由ナク開会ノ手続ヲ怠ルコト二週間ヲ過ルトキハ通牒者自ラ招集開会スルヲ得ヘシ
第四十二条 第四十条・第四十一条ノ手続ヲ以テ開会シタル総会ニ於テ、株主出席ノ数第四十八条ノ限員ニ満タサルトキハ此議案ハ全ク之ヲ棄却スヘシ
第四十三条 株主総会ノ議案ハ定式臨時共予テ理事員会ノ議決ヲ以テ之ヲ定メ、書面又ハ口頭ヲ以テ之レヲ提出スヘシ
 (第四十条・第四十一条ノ場合ヲ除クノ外)故ニ其総会ニ於テハ理事員許可ヲ得ルニ非サレハ、議題外之事ヲ討議スルヲ得ス
第四十四条 総会ノ決議ハ過半数ヲ以テスヘシ(第二十一条・第三十二条及第六十二条ヲ除クノ外)所々病気其他事故アリテ会同セサルモノハ必ス当会社ノ株式ヲ有スルモノヲ以テ(理事員併テ傭員ヲ除ク)代人ニ立テ、之ニ其委任状ヲ授クヘシ、此規定ヲ履マサルモノハ決議ノ後異議ヲ発スルモ決シテ採用スヘカラス
第四十五条 右代人ニ付与スヘキ委任状書式ハ左ノ如シ
     代理委任状ノ事
 日本煉瓦製造会社株主何某儀、何某ヲ以テ代人ト為シ左ノ権限ノ事ヲ委任致候
 一、何年何月何日何々総会ヘ出席投票発言ノ事
   年月日         何某印
     日本煉瓦製造会社御中
第四十六条 株主遠隔ノ地ニ住シ又ハ旅行ヲ以テ会同シ難キモノハ、定式臨時総会ノ為メ予メ代人ヲ立テ其姓名ヲ当会社ニ通知シ置クヘシ
 - 第11巻 p.519 -ページ画像 
第四十七条 総会ノ議長ハ理事長之ニ当ルヘシ、若シ理事長差支アレハ他ノ理事中之ヲ務ムヘシ
第四十八条 総会ニ当リ其会員株主総数ノ三分二(委任状ヲ有スル代人モ亦之ニ算ス)満タサルトキハ延会シ、必ス五日以内ニ更ニ招集開会スルヲ得ヘシ
  但利益金配当ニ係ル総会ハ此限ニアラス
   第七章 純益金配当
第四十九条 当会社ノ総勘定ハ毎年六月十二日ノ末ニ於テ之レカ決算ヲ為シ、諸収入金ノ内ヨリ営業一切ノ諸経費ヲ引去リ其残高ヲ純益金トナシ、其季ノ総会ニ付シ其協議ヲ以テ積立金及配当金ノ高ヲ定ムヘシ
  但理事員其他諸役員ハ配与スル賞与金ハ純益金高百分ノ十ヨリ二十迄ノ範囲内ニ於テ、理事員ノ協議ヲ以テ毎季之ヲ定メテ配当スルモノトス
   第八章 簿記計算報告
第五十条 当会社ノ簿記計算書類ハ簡明ナル表式ヲ設ケ、其主任者ヲシテ之ヲ遵拠セシムヘシ
第五十一条 凡計算ハ日表・月表・季表ヲ以テ整頓シ、日表ハ毎日支配人之ヲ点検シ、月表・季表ハ理事員之ヲ検閲シ、均シク之レニ検印スヘシ
第五十二条 支配人ハ毎季一切ノ事務及ヒ営業ノ事情ヲ編述シタル考課状ヲ作リ、理事員会ニ提出シテ其議決ヲ経、株主総会ニ於テ報告ノ後、季表ト共ニ印刷シテ各株主ニ配付スヘシ
   第九章 印章並記録
第五十三条 当会社ニ於テ使用スル印章ハ左ノ如シ
 ○印章略ス
第五十四条 当会社ノ印章及理事長支配人ノ印章ハ其印鑑牒ヲ作リ、之ヲ管轄庁ニ具申シ改刻スルトキ速カニ之ヲ再具スヘシ
第五十五条 営業規則及理事員会録事・株主総会ノ録事・官庁ニ具申スル書牒等ハ、皆理事長及支配人ノ鈐印ヲ以テ証トナシ之ヲ存続スヘシ
第五十六条 官庁ニ具申スル諸牒及重要ナル文書等当会社ノ名ヲ以テスルモノハ皆社印ヲ押捺スヘシ、而シテ其金銭出納ニ係ル重要書類又ハ約定書等々ハ理事長支配人之ニ署名鈐印シ、其他通常ノ文書ハ支配人之ニ署名鈐印スヘシ
   第十章 株式売買授受
第五十七条 当会社ノ株主ハ自儘ニ其株式ヲ売譲スヘカラス、若シ之ヲ売譲セント欲セハ先ツ其引受クヘキ人名ヲ理事員ヘ紹介シ、一同承諾ノ後ニ売買授受ノ手続ヲ履行スヘシ
  但此手続ニ依リテ株主タル人ハ前株主ト同様ノ権利義務ヲ有スルコト勿論タルヘシ
第五十八条 株式ヲ売買授受スルニハ左ニ掲タル文例ニ照シテ証書ヲ作リ、之ヲ当会社ニ差出シテ書替ヲ求ムヘシ
  (株式売買授受証書文例)
 - 第11巻 p.520 -ページ画像 
 日本煉瓦製造会社株式ノ内、第何号株券何枚何某所有ノ分何某ヘ売渡(又ハ譲渡)候処実正也、然ル上ハ向後右買受入(又ハ譲受人)ハ従前所有人遵奉スル所ノ諸規則及約定等堅ク相守ルヘク候、仍テ証書如件
           住所属籍
           売渡人(又ハ譲渡人)姓名印
           同
           買受入(又ハ譲受人)姓名印
           同
           証人        姓名印
    日本煉瓦製造会社御中
第五十九条 定式総会前十日間ハ株式記名替ヲ停止シ株式帳ノ書替ヲ為サヽルヘシ
第六十条 株式所有主死亡ノ後、其嗣子又ハ遺族ノ名前ニ書替ヘキ時ハ、其親族弐名連署ノ証書ヲ以テ書替ヲ要求スルヲ得ヘシ
第六十一条 総テ株券書替ニ於テハ其買受入又ハ譲受人ヨリ当会社ニ於テ定メタル所ノ書替手数料ヲ差出スヘシ
   第十一章 定款改正
第六十二条 此定款ハ株主ノ衆議ニ依リテハ増減更正スルコトアルヘシ、尤モ其総会ノ議決ハ三分ノ二以上ノ多数説ニ従フヘシ
  但其改正ノ項目ハ速ニ管轄庁ノ認可ヲ受クヘシ
右十一章六十二条ハ当会社株主ノ衆議ヲ以テ相定メタルニ付、一同記名鈐印シテ以テ之ヲ証明致候也
  ○上掲設立願書ハ東京府庁所蔵「願伺届録綴洩会社明治二十年」ニモ収メラル。
      ○
    煉瓦製造所設立願
今般煉化石改良増殖ノ為メ、私共申合、別冊定款ニ拠リ、既ニ本社ヲ東京日本橋区箱崎町三丁目壱番地ニ設置仕候ニ付、該製造所ヲ御県下榛沢郡上敷免村ヘ設立仕度候間、御聞届被成下度候、依テ別冊定款並ニ株主人名簿相添、此段奉願上候也
  明治二十年十一月七日
           東京府日本橋区浜町三丁目壱番地
                     池田栄亮(印)
           同 深川区福住町四番地
                     渋沢栄一
           同 荏原郡北品川宿弐百六拾番地
                   益田孝代理
                     木村正幹
           同 深川区深川清住町拾四番地
                     木村正幹
           同 日本橋区浜町三丁目壱番地
                     隅山尚徳(印)
    埼玉県知事 吉田清英殿
(以下朱書)
第二五〇四号
書面願之趣聞届ク
 - 第11巻 p.521 -ページ画像 
  明治二十年十一月十日
              埼玉県知事 吉田清英
  ○別冊略ス。


願伺届録 明治二十年(DK110075k-0002)
第11巻 p.521 ページ画像

願伺届録 明治二十年          (東京府庁所蔵)
    日本煉瓦製造会社役員並印鑑届
             理事長 池田栄亮
       役員御届
                理事長
                  池田栄亮
                理事
                  渋沢栄一
                  益田孝
                支配人
                  隅山尚徳
本社役員前記之通、今般相定候間此段及御届候也
                日本煉瓦製造会社理事長
                     池田栄亮(印)
 東京府知事 男爵高崎五六殿

 右届出ニ付奥印候也
           東京府日本橋区長 伊藤正信
  ○印鑑届略ス。


青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第二三〇―二三三頁 〔明治三三年六月〕 【○第四十二章第二節日本煉瓦製造会社 青淵先生ト我社トノ関係(諸井恒平述)】(DK110075k-0003)
第11巻 p.521-522 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)  第二巻・第二三〇―二三三頁〔明治三三年六月〕
 ○第四十二章第二節日本煉瓦製造会社
    青淵先生ト我社トノ関係(諸井恒平述)
吾社工場ノ所在地タル埼玉県大里郡上敷免村ハ、元臨時建築局建築顧問ビヨツクマン氏及ヒ吾社雇技師チーゼ氏ノ選定ニ係リ、土質ノ純良ナル、原料ノ豊富ナル、実ニ海内無比ト称スヘキモ、奈何セン煉瓦ノ最大需用地タル東京ヲ距ル二十余里、之ヲ競争者タル他ノ煉瓦工場カ隅田川若クハ江戸川沿岸ニ位地ヲ占メルニ比シテ、大ニ地利上ノ欠点アルコト、三尺ノ童子モ亦タ能ク知ル所ナリ、夫レ然ルニモ狗ハラス尚ホ地ヲ此ノ処ニ撰ミタルモノ、蓋シ大ニ其理由ナクンハアラス、明治十八九年ノ交ナリキ、我邦ヲシテ文明諸国ニ対峙セシメンニハ諸官衙・議事堂ノ建築ヲ完全ナラシメサルヘカラストノ議、廟廊ノ間ニ起ルヤ、十九年二月新ニ臨時建築局ヲ置カレ、井上伯総裁ニ独逸建築大家ビヨツクマン氏顧問官ニ任セラレ、愈々目的ノ事業ニ着手セントスルニ当リ、ビ氏ハ建築材料ノ主要物タル東京附近ノ産出ニ係ル煉瓦石ノ品質粗悪、製法不備、到底永遠不朽ノ建築ニ堪ヘサルコトヲ発見シ材料ノ完備ヲ期センニハ広ク良土ヲ求メ、欧式ニ傚ヒ一大機械的工場ヲ新興スルノ止ム可カラサル所以ヲ開申セリ、爰ニ於テ総裁井上伯ハ之ヲ民業トシテ成功セシムルノ方針ヲ執リ、民間事業家ニ対シ大ニ勧誘セラルヽ所アリシ結果、製品ハ年七朱ノ利益ヲ加算シタル価ヲ以テ同局ヘ買上クヘキコトヲ《(マヽ)》、機械煉瓦ハ本邦未曾有ノ事業ナルヲ以テ、
 - 第11巻 p.522 -ページ画像 
相当ナル外国技師ヲ政府ニ於テ雇聘貸下クヘキ事、此ノ二条件ヲ以テ最初池田栄亮氏其勧誘ニ応シ、後チ先生及益田孝等ノ諸氏ト倶ニ合同起業スルコトヽナリ、遂ニ吾社ノ成立ヲ見ルニ至レリ、之レ実ニ明治二十年十月ナリキ
先是建築局ニ於テハ在伯林品川公使ヲ介シテ一人ノ製煉瓦技師ヲ雇聘セリ、即チ三年間当社ノ建築及ヒ製造技師タリシナスチヱンテス、チーゼ氏ナリ、氏ハ既ニ来朝シテビ氏ト共ニ専ラ工場位地ノ選定ニ従事シツヽアリシカ、各地探査ノ結果、土質ノ純良ナル地区ノ広大ナル、上敷免ヲ措テ他ニ其所ナシト断定シ、愈々工場ヲ同地ニ設クルニ決セリ、此ノ工場位置ノ選定タル、土質ノ純良ニシテ且ツ豊富ナルヲ主眼トシ、運輸ノ便否ノ如キハ寧ロ第二位ニ措カレタルヲ以テ、若シ前記ノ利益保証ナク、単ニ営利ノ目的ヲ以テスルナランニハ、成算固ヨリ期シ難ク、或ハ吾社ノ成立ヲ見ルヘカラサリシヤモ亦知ル可カラス、然ルニ何ソ図ラン、此ノ唯一ノ命脈トモ恃ミタル利益保証ノ条件カ工場経営ノ中途ニシテ一場ノ夢ト化シ去ラントハ、誠ニ意外千万ノ出来事ナリト云フヘシ、事ノ玆ニ至レルニハ種々ノ事情アルヘシト雖モ、当時諸官衙議事堂等ヲ一時ニ改築スルカ如キハ、国帑ノ許サヽル所ナリトテ、政府ノ方針俄然一変シ、井上伯遂ニ総裁ノ位地ヲ去ルニ至リシコト、其最大原因ニシテ、政府ノ事情ハ誠ニ不得止モノアリシナランモ吾社ハ為メニ暗夜灯ヲ失ヒ、殆ント進退維谷ルノ窮境ニ陥レリ、是レ実ニ創業第一ノ難関ナリ、然レトモ此ノ時ニ当リ工場諸般ノ経営ハ既ニ進行ノ途ニアリ、加フルニ上敷免地方天然ノ良土ハ他ノ企及スヘカラサル一大特色ニシテ、例ヒ運輸上ノ欠点アルモ、此ノ長ハ以テ彼ノ短ヲ補フニ足リ、施設宜キヲ得ルニ於テハ、事業ノ成功必スシモ期シ難キニ非ラサルノ色アリ、所謂棄ツルモ惜シク棄テサルモ憂シノ境遇ニシテ、創業ノ諸氏亦孰レモ躊躇逡巡容易ニ決スル能ハサルモノノ如シ、此ノ際青淵先生ハ主トシテ不撓前往ノ説ヲ主張シテ曰ク、苟クモ国家経済ノ為メニ此ノ新事業ヲ経営セントスルモノ、何ンソ政府保護ノ有無ニ因テ当初ノ志望ヲ二三ニスルカ如キコトアルヘケンヤ、建築局ノ関係如何ノ如キ亦深ク顧慮スルヲ要セジト、爰ニ於テ諸氏ノ意見全ク一定シ、爾来着々トシテ工ヲ進メヌ、斯クテ二十一年初春ニ着手セル工場建設工事ハ二十二年九月ニ至リ全ク其功ヲ竣ヘタリ
○下略


渋沢栄一 書翰 韮塚直次郎宛(明治二〇年四月六日)(DK110075k-0004)
第11巻 p.522-523 ページ画像

渋沢栄一 書翰  韮塚直次郎宛(明治二〇年四月六日)
                    (韮塚理重氏所蔵)
拝啓、然者過日御高配被下候高畑村其外村々より煉瓦石ニ可相用原土掘採方ニ付、申出之書面ハ古谷竜蔵帰京ニて委細承合候処、少々不充分之処有之候ニ付、更ニ別紙之通リ金井元治外三人へ拙生より書通いたし、且右書面之草案も相添差遣申候、幸ニ村々一同右書面之通リ申出候ハヽ、拙生ハ早速外国技師雇人実地見分之為差出し、弥以適当之場処と決定候ハヽ、器械据付等ニ取掛可申と存候間、貴兄ニハ再度御骨折ニ候得共今一応村々重立候人ニ御示談被下、右草案之如く書面差出候様仕度候、㝡前之書面ニてハ只煉瓦製造所創設候而も差支無之と申
 - 第11巻 p.523 -ページ画像 
のミニて、万一器械等建設之後土取方等ニ彼是之苦情相生候恐有之候間、呉々も他日之面倒無之様致度ニ付右様入念仕候義ニ御坐候
もしも実地適当と相成、器械取付候様相成候ハヽ地方ニ於てハ其原土ハ無代ニても種々間接之利益相生し候ニ付、随分為筋ニ相成候哉と存候、金井氏ニ別而其段御申談被下共ニ御尽力可被下候、此段書中得御意候也
                    渋沢栄一(印)
    韮塚直次郎様


渋沢栄一 書翰 金井元治宛(明治二〇年)九月二〇日(DK110075k-0005)
第11巻 p.523 ページ画像

渋沢栄一 書翰  金井元治宛(明治二〇年)九月二〇日
                     (金井滋直氏所蔵)
秋冷之候益御清適御坐可破成奉賀候、然は先頃貴地近傍へ煉瓦製造所創設之見込取調之為、三井物産会社々員出張之節ハ、種々御心配被下候由忝奉存候、就而右創設之事も其後色々相談之都合も有之、今日迄遷延いたし候得共、略見込も相立候間、夫々手配致度場合と相成候、就而ハ一応貴兄ニ御面会之上篤と御相談いたし、村々との引合等別而御高配相願度と存候、依而御苦労なから本月廿五・六日頃迄ニ一寸御出京之上、深川拙宅へ御来訪被下度候、右御承諾ニ候ハヽ何日ニ御出京と申処、前以書中御申越有之度候、此段可得御意如此御坐候 匆々不一
  九月廿日                渋沢栄一
    金井元治様


渋沢栄一 書翰 金井元治・韮塚直次郎宛(明治二〇年)一一月五日(DK110075k-0006)
第11巻 p.523 ページ画像

渋沢栄一 書翰  金井元治・韮塚直次郎宛(明治二〇年)一一月五日
                    (金井滋直氏所蔵)
引続き御尽力被下候由、隅山氏及諸井等より承知いたし、御厚意忝奉存候、兎角各村之中ニハ何か勝手自儘之考案相立、充分之協議相成兼候由、小生ハ大ニ痛心いたし候、兼而も申上候如く、此工場を貴方へ創設仕度との望ハ、将来其村々之為余程利益と相成候事と相信候故、池田・隅山両氏ニてハ千葉県下を目的とし、夫々手配相成候を、強而埼玉県下へ振替候程ニ有之、然ルヲ今日ニ至り、村々ニ於て右様百事延引いたし、取極方相付兼候様ニてハ、小生ハ池田・隅山両氏へ対し面目を失し候義ニ御坐候間、何卒両君ニ於て今一段御奮発被下、会社より之注文早々相運候様御尽力被下度候、もしも協議相纏兼候義ニ候ハヽ、小生ハ更ニ埼玉県ニ創設之事を断念し、池田氏㝡初之計画ニ従ひ、千葉県ニ転し候様主張可仕と存候、呉々御注意被下度候
韮塚君より諸井恒平へ御申聞相成候沼尻村を同意為致候為、小生より大沢新五郎へ一書差送候義ハ別紙逓送いたし候間、何卒韮塚君より大沢ニ御面話ニて、尚小生之深意も丁寧ニ御申述被下度候、右ハ夫々御厚配も被下候処、催促ケ間敷申上候も如何ニ候得共、頻ニ痛心仕候儘書中申上候義ニ候、尚一層之御厚配奉頼候 匆々再行
  十一月五日               渋沢栄一
    金井元治様
    韮塚直次郎様
 - 第11巻 p.524 -ページ画像 

渋沢栄一 書翰 金井元治・韮塚直次郎宛(明治二〇年)一一月一八日(DK110075k-0007)
第11巻 p.524 ページ画像

渋沢栄一 書翰  金井元治・韮塚直次郎宛(明治二〇年)一一月一八日
                    (金井滋直氏所蔵)
十六日附御書拝見仕候、過日ハ罷出種々御厄介ニ相成拝謝之至ニ候、偖地方村々之模様其後追々相纏り候ニ付、㝡早工場建設之事も決定之時ニ際し又隅山より上敷面村地所直下《(免)》ケ之事御相談申上候由、昨日諸井出京詳細承及申候、乍去右ハ少々隅山之見込不充分之処有之哉ニ付明日帰京面会之上篤と申談候積ニ候間御安心可被下候、折角是迄之御尽力ニ付小生ハ可成丈此御心配をして水泡ニ帰せさる様仕度と相考居候間、不日決局之見込申上候様可仕候、右は来示ニ対し早々拝答如此御坐候 不宣
  十一月十八日              渋沢栄一
    金井様
    韮塚様


渋沢栄一 書翰 韮塚直次郎宛(明治二〇年)一一月二五日(DK110075k-0008)
第11巻 p.524 ページ画像

渋沢栄一 書翰  韮塚直次郎宛(明治二〇年)一一月二五日
                    (韮塚理重氏所蔵)
華翰拝読、然者煉瓦工場敷地買取之義ニ付而ハ先頃隅山ニ於て少々地代引下度との考案相生候為、却而上敷面村ニ苦情相生し彼是別而御心配相成候由拝謝之至ニ候、乍然其後右買取之事小生よりも隅山へ申談漸諸事協議相成候趣、先以段々之御骨折ニて百事都合を得候ハ偏ニ御尽力故と忝奉存候、明日隅山再応貴方へ罷出地券書替之手続等御打合申上其上代金ハ取究次第速ニ払渡候筈ニ申談置候間、㝡早此上異情等相生候義も有之間敷と存候、併右代金之高も末タ発輝と相走り不申由ニ付、明日ハ持参不致義ニ候得共是ハ治定次第決而間違等無之事ニ候間御安心可被下候、右様工場之地所確定之上ハ此末其建築方及実地営業之都合等ニ付而も引続き御配意相願候事と存候、何卒充分御添心可
被下候、右拝謝旁御答申上候 匆々再拝
  十一月廿五日              渋沢栄一
    韮塚直次郎様


韮塚理重所蔵文書(DK110075k-0009)
第11巻 p.524-526 ページ画像

韮塚理重所蔵文書
家屋之構造ヲ改良致ス義者今日官府人民共ニ注意尽力致シ《(マヽ)》事柄ニテ、既ニ東京ハ全国之首府ニモ有之候ニ付、諸官衙等モ改良可相成御見込ヲ以テ、臨時建築局御設相成、専ラ其事務御経理相成候趣、随テ同府下及各県下共官民家屋之構造モ改良可致時運ニ向候義ト奉存候処、右改良ニ必ス要々材料《(マヽ)》ハ最上之煉瓦ニシテ、右煉瓦之製造良好ニシテ其価低廉ニ候ハヽ、自ラ家屋之改良モ進捗致候ノミナラス一般之利益トモ相成可申奉存候、然処私共村々之義者元来畑地多ク其地質ハ煉瓦製造ニ最良之土地ニシテ、且東京ヘハ運般之便モ有之候ニ付、右村々近傍適当之地ヘ煉瓦製造所創設有之度、然時ハ其原土ハ村々畑地床下ケ之土ヲ以無代価ニテ供用可致旨、別紙写之通東京三井物産会社ヘ書面ヲ以テ請求致置候、就テハ御庁ヨリ尚同会社ヘ御照会被成下置、至急其工場創設ニ付テ其敷地又ハ原土掘採方及製品之運搬等ニ付、種々ノ
 - 第11巻 p.525 -ページ画像 
都合モ可有之事ニ奉存候ニ付、右等之村々申合適当之総代人相立其工場之主任者ト協議之上、勉テ工事ニ便益相成候様取許可申ト奉存候、此段村々連署ヲ以テ奉願候 以上
  明治廿年十月十三日
              榛沢郡高畑村
                     大沢新三
                     高木和吉
                     金井太良
              ○外十三村
              十七名氏名略
    埼玉県知事 吉田清英殿
前書願之趣相違無之ニ付、奥印仕候也
              榛沢郡内ケ嶋村聯合
                  戸長 河田三弥
              ○外六村
              六名氏名略
一畑反別三町三反壱畝拾五歩     上敷免村
                  国道より西
一畑反別三町五反弐畝廿四歩     同村
                  国道より東
 合反別六町八反四畝九歩
一畑反別九反六畝拾五歩       新井村
                  国道東
一同 六反四畝弐拾壱歩       追加同村
 合反別壱町六反壱畝拾六歩
通計反別八町四反五畝拾五歩
  右訳 ○略ス
○別紙欠ク。

    差入証
畑地床下ケノ土ヲ以、煉瓦製造ノ為メ工場ヲ私共村々近傍ヘ御設置有之度旨、曾テ三ツ井物産会社ヘ請求致、尚埼玉庁《(県脱)》ヘモ上申致候処、今般貴社ニ於テ尚製造所創設ノ事ヲ御引上ケ相成、上敷免村ヘ工場御建築相成候ニ付而者将来会社ノ工事ニ不都合無之様村々地主一同申合、左之廉書之通保証致候、最モ尚小細ノ事ハ向後村々ニ於テ適当ノ惣代人相立、貴社主任之人ト其時々協議□□可仕候、依之差入証書如件
一畑地床下ケノ土ハ煉瓦製造原料トシテ貴社ノ都合ニ任セ何時ニテモ無代価ニテ差出可申事
一向後此連署之地主其所有地ヲ他ヘ売譲致候義有之候共、此床下ケ土ヲ貴社ヘ差出候義ハ其買受入ニ於テ履行可致候事
一右原料掘取工場ヘ運般之為メ鉄机子据付候様ノ義有有之候《(衍カ)》ハヽ、其敷地等モ差支無之様可致事
一製造之煉瓦運搬ノ為メ河川浚渫之事有之候ハヽ差支無之様協力可致候事
一土場処要ノ用水引入口ニ付、土管等埋却之事有之候ハヽ差支無之様
 - 第11巻 p.526 -ページ画像 
協力可致事
 是ハ先般煉瓦之義ニ付、廿年十一月一日写シヲ○以下欠ク
  ○設立願書ニハ工場ヲ埼玉・千葉両県下ニ設クル旨ヲ記セドモ、実際ハ千葉県下ニハ設ケズ(諸井恒平氏談話ニヨル)


諸井恒平氏談話(DK110075k-0010)
第11巻 p.526 ページ画像

諸井恒平氏談話
 金井○元治さんはあの地方の名望家であり、会社としては、この時○工場土地買収ノ時ばかりでなく、何かにつけ金井さんを地方総代として色々交捗や尽力をお願したものです。
 韮塚○直次郎さんといふのは、工場の隣村の沼尻村の人、尤もその頃上州富岡にゐたのですが、この人には軌道敷地買収について尽力して貰つたので「六十年史」にその名を挙げなかつたといふので、息子さんの韮塚二郎氏から、うらまれたことがありましたよ、暫らく会つても口をきかなかつた。兎に角この人には土地買収の時尽力して貰つたのです。
 池田○栄亮さんといふのは、千葉県の県会議長で又千葉銀行の頭取であり、千葉県下では当時非常の勢力をもつた人でした。政党の改進党の首領株でして、そのため敵も多かつた。が東京に於ても大臣級の連中と交遊があり、井上馨などとも親しくしてゐた。浜町の池田さんの屋敷の三階に部室があつて、そこで井上さんや何かゞ集つて遊んだものだと聞いたが、そんな関係で井上さんから煉瓦のことを聞いたのでせう。それなら私にやらせて下さいと云ふので、池田氏自ら煉瓦会社設立の計劃をしてゐた。一方青淵先生や益田さんの計劃がある、両方競争してはいけないと云ふので、双方合同してやる事になり、一歩譲つて理事長に池田氏がなり、先生は理事の一人となつたのです。
 隅山○尚徳といふ人はこの池田の懐刀といふべき人、池田氏が理事長となるや、支配人に任せられて会社の事実上の経営の衝にはこの人があたつたのです。
 地元の連中がはじめ工場を建てゝ呉れゝば、原土は無償で提供すると云ふてゐましたが、サテ実行となると有料になりました。当時田は畑の倍の価格でしたから、畑の土をとつて田にした方が有利なのですこういふ意味で会社と地元の利益が完全に一致したのでした。
○下略


竜門雑誌 第六号・第二〇―二一頁〔明治二一年一〇月二五日〕 ○日本煉瓦製造会社の景況(DK110075k-0011)
第11巻 p.526-527 ページ画像

竜門雑誌  第六号・第二〇―二一頁〔明治二一年一〇月二五日〕
○日本煉瓦製造会社の景況 同会社は池田・渋沢其他数氏の発起に係り、蒸滊力を利用して欧式の煉瓦を製造するの目的を以て設立せしものにて、其第一工場を埼玉県下榛沢郡上敷面村に置けり、同村は仲仙道深谷宿を距る一里許、戸数七十有余の一小村落なり、工場の敷地は村の東北隅に位し延て新井村地内に跨り、南は備前渠に瀕し北は小山川に臨み(此処より小山川を下ること凡二十余町にして、利根川に注ぐ)工場は環形窖三個(則ち煉瓦竈なり面積三百坪)及び之に属する乾燥室三棟(一棟九百三十余坪)其他機関室壱棟(百三十五坪)及び事務所・賄所・病室・役宅・職工部屋等を以て成るものにして、機関
 - 第11巻 p.527 -ページ画像 
室及事務所以下の建物は既に落成し其他は目下工事中なり、環形窖三箇の内壱個は先月中に出来せり、猶全部の竣功を告くるは明年の事なるべし
当時煉瓦類は並形の外に管形即ち縦又は横に二条若くは四条の長円穴の明きたるものなるを以て、其形の大なるに比すれば其量軽ろし、故に建築上「モルタル」積の手間等に於て、頗る労費を節略するを得べし、諸機械及蒸滊々缶は一切独逸国「マグデブルク」府「シュメルツェル」氏の製造に係り、八月中同地に着し最早其の据付も終りたり、煉瓦製造機械は三基にして其作用に拠りて製出する白地の数は一日に六万個、壱ケ年の執業日三百日の予算にて千八百万個を製造するの都合なり、工場は弐名の外国人ありて万般の工事を指揮せり、両人共独逸国人にして一をチーゼ氏といひ築窖建築の設計より製造万般の事を担当し、一人をエーメー氏と云ふ器械の組立を担任せり、運輸の便は小山川及び利根川筋の水路を利用するを得るを以て、製品を東京及横浜へ送るに左マデ高貴の賃銀を要せず、故に価格も随分廉価に販売するを得へき見込なりと云ふ


中外物価新報 第一六七八号〔明治二〇年一一月三日〕 ○煉瓦製造会社役員(DK110075k-0012)
第11巻 p.527 ページ画像

中外物価新報  第一六七八号〔明治二〇年一一月三日〕
    ○煉瓦製造会社役員
去月三十日設立の許可を得たる大日本煉瓦製造会社にては、翌三十一日役員の撰挙を為したるに理事長には池田栄亮氏、理事には渋沢栄一益田孝の両氏、支配人には隅山尚徳が当選したる由、因に記す同会社は素と池田栄亮氏が建築局の煉瓦製造方を一手に引受け、同氏一人にて設立せんと企てたるものにて、已に其工師等も独逸国より傭入れたる折柄、又一方に於ては渋沢・益田等の諸氏にも相談の上、埼玉県下へ右製造所を設立せんとする挙ありて、過般益田氏が洋行を幸ひ器械の買入方を依頼せんとの話を聞き、池田栄亮氏には大に心配し若し左様なるときは自然競争を生じ、彼此ともに不利を免かれざれば寧そのこと、之を会社の組織になし共々に株主となりて之を設立しては如何との議を持出したる処、一方の人々には素より去る計画のあるを知らずして企てたることにては競争は尤も好まざる所なれば、共々一所になりて之を設立すべしと云ふに決し、遂に都合二十万円の資本を以て之を設立することになりしものなりとぞ


中外物価新報 第一九七九号〔明治二一年一一月一日〕 煉瓦製造会社(DK110075k-0013)
第11巻 p.527-528 ページ画像

中外物価新報  第一九七九号〔明治二一年一一月一日〕
    煉瓦製造会社
渋沢・益田・池田等の諸氏が組合ひ埼玉県下深谷近在に設立したる煉瓦製造会社にてハ、兼て独逸《(人カ)》へチーセー氏の監督にて器械据付中なりしが、其準備も最早略ぼ相整ひたるに付き、渋沢・益田の両氏にハ見分かたがた一昨二十日同所へ赴かれしが、来月初旬頃にハ其製造に着手するに至るべしとの事なり、聞く所によれば同会社の製造器機ハ最も簡便有利なるものにて、例へば通常八百人の工夫を要する程の仕掛けなるも、僅に百五十人にて充分なりと、又其の焼竈ハ近時有名なるホグマン氏新発明のものにて、煉瓦製造上の経済には最も有効のもの
 - 第11巻 p.528 -ページ画像 
なるが、其烟突の如きハ百六十五尺あり、屹として空天に聳立せりと云


中外物価新報 第二〇三五号〔明治二二年一月一一日〕 株主総会(DK110075k-0014)
第11巻 p.528 ページ画像

中外物価新報  第二〇三五号〔明治二二年一月一一日〕
    株主総会
埼玉県下金町なる日本煉瓦会社にては本日午後三時より兜町第一銀行楼上に於て株主総会を開き了て渋沢氏邸に晩餐会を催す由


執事日記 明治二十二年(DK110075k-0015)
第11巻 p.528 ページ画像

執事日記 明治二十二年          (渋沢子爵家所蔵)
十一月十六日
一君公ニハ煉瓦工場御見物トシテ千住摸寄《(最)》、午后一時三十分頃より被為入候、御同伴ニハ大高源右衛門並ニ諸井恒平ノ両氏ニ有之候、夫より他へ御廻り之事



〔参考〕煉瓦要説 (諸井恒平著) 附録会社概覧・第一―八頁〔明治三五年九月〕(DK110075k-0016)
第11巻 p.528-531 ページ画像

煉瓦要説(諸井恒平著)  附録会社概覧・第一―八頁〔明治三五年九月〕
    第一章 起源
当社ハ明治二十年ノ創立ニ係リ本邦ニ於ケル機械製煉瓦業者ノ鼻祖ナリ、案スルニ明治十九年二月国会議事堂及諸官衙改築ノ目的ヲ以テ臨事建築局ヲ設置セラルヽヤ、井上馨伯之ガ総裁ニ任セラレ、独逸建築学者びゆっくまん氏顧問ト為リ、妻木・渡辺・川合等本邦有数ノ建築学士其技師タリシガ、愈々実際ノ事業ニ着手セントスルニ当リ、顧問びゆっくまん氏ハ爰ニ端ナクモ、建築上ニ於ケル一大欠点ヲ発見シタリ、开ハ他ナシ、建築材料中最重要ノ地位ヲ占ムル煉瓦石ノ頗ル粗悪ナル一事ニシテ、当時京浜地方産出ノ煉瓦石タル、其原料ハ専ラ隅田川・江戸川等ノ沿岸ヨリ採取セシ塵挨ヲ含メル粗土ヲ用ヒ、其製法ハ一二手工ニ依ル等、頗不完全ヲ極メ到底永世不朽ノ大建築ニ適セザルモノナリシナリ、爰ニ於テびっくまん氏ハ先ズ事業ノ第一着手トシテ専ラ欧米ニ行ハルヽ機械的一大煉瓦工場ヲ設立スルノ急務ナル旨ヲ建議セシカバ、其結果トシテ渋沢栄一・益田孝等ノ諸氏ハ総裁井上伯ヨリ右煉瓦工場ヲ民業トシテ成立セシムルノ勧誘ヲ受ケ、尚ホ一二ノ特許条件(製品買上・技師貸下)ヲ附与スルノ認諾アリ、斯クテ官民一致苦心経営ノ末漸クニシテ創設セラレタルモノ当社即チ是ニシテ、実ニ明治二十年十月ノ事ナリキ
是ヨリ先キ臨時建築局ニ於テハ在伯林品川公使ヲ介シテ一人ノ製煉瓦技師ヲ雇聘セリ、即チ三年間当社工場ノ建設及製造技師タリシなすちえんてす、ちーぜ氏其人ニシテ、氏ハ来朝後びゆっくまん氏ト共ニ工場位地ノ選定ニ従事シ、各地検査ノ結果土質ノ純良ナル地区ノ広大ナル、到底現在ノ上敷免ヲ措テ他ニ其所ナシト断定シ愈工場ヲ此処ニ設置スルニ決シタリ、勿論此工場選定ハ土質ノ純良ニシテ且ツ豊富ナルヲ主眼トシ、運輸ノ便否ノ如キハ第二位ニ措カレタルヲ以テ、単ニ営利ノ目的ノミニテ他ニ何等ノ特異ナクンバ成算甚タ乏シク、或ハ其設立ヲ見ルベカラザリシヤモ知ルベカラス、然ルニ此重要ナル特典ハ軈テ臨時建築局ノ廃止セラルヽト共ニ消滅ニ帰セシカバ、吾社ハ忽チ暗
 - 第11巻 p.529 -ページ画像 
夜灯ヲ失ヒシ如キ窮境ニ陥リ頗ル困難ヲ窮メタリ、然レトモ元来上敷免地方天然ノ良土ハ他ノ企及スベカラザル一大特色ニシテ、仮令運輸上ノ欠点アルモ彼ノ長ハ以テ此ノ短ヲ補フニ足リ、施設宜シキヲ得ルニ於テハ事業ノ成効必スシモ期シ難キニ非ズ、之カ為メニ現ニ進行中ナル諸般ノ経営ヲ撤廃スルハ如何ニモ遺憾千万ニシテ、苟クモ国家経済ノ為メ此斬新ナル事業ヲ経営セントスルモノ、奚ンゾ政府保護ノ有無ニ由テ当初ノ志望ヲ二三ニスルガ如キ薄志弱行ナルベケンヤトテ、遂ニ断然所志ヲ貫徹スルニ決シ着々工ヲ進メテ二十二年九月全ク工場建設ノ工事ヲ竣成スルヲ得タリ
爾来吾社ハ内外特殊ノ事情ノ為メ幾多ノ難関ニ遭遇シタリト雖モ、原土ノ純良ニシテ豊富ナルト、規摸宏壮設備ノ完全ナルトハ、本邦無比ノ好煉瓦ヲ製出スルヲ得テ次第ニ其声価ヲ高メ来リ、明治廿八年六月上敷免工場ヨリ深谷停車場ニ達スル鉄道線路ノ竣工ハ、創立以来最焦慮シタリシ運輸機関ノ不完全テウ一大欠点ヲ除去スルコトヲ得、日本否東洋ニ於ケル無比ノ大煉瓦工場トシテ、今日ノ隆運ヲ来スニ至リシハ窃ニ吾社ノ光栄トスル所ナリ
当社ハ最初資本金弐拾万円ヲ以テ起リシ株式会社ナルガ、其後事業ノ拡張ニ伴ヒ明治廿三年五月更ニ弐万円ヲ増資シ、明治三十年又タ参万円ヲ増資シタルヲ以テ現在総資本額ハ弐拾五万円ナリトス、尤モ此間ニ於テ屡々社債ヲ発行シ一時ハ其額拾数万円ニ達セシコトアルモ、卅二年六月ヲ以テ全然之ヲ償還シ終リ会社ノ基礎ハ磐石ノ如ク鞏固ナルニ至レリ、現今当社ノ役員組織等ハ左ノ如シ
           東京市日本橋区三代町六番地
                   日本煉瓦製造株式会社
           埼玉県大里郡大寄村大字上敷免
                   同工場
               取締役会長  渋沢栄一
               取締役    堀江助保
               同      益田克徳
               同兼支配人  諸井恒平
               同兼工場長  北川俊
               監査役    日比谷平左衛門
               同      矢野二郎
    第二章 工場
当社上敷免工場ハ中山道深谷停車場ヲ北ニ距ルコト里許、小山川ノ沿岸ニ在リテ敷地五万坪ヲ有シ、左記ノ諸建築物ヲ備フ、而シテ其製造法ハ方今世界中最煉瓦業ノ発達セル独逸国ノ最新式ニ則リタルモノナリ
 一独逸「ホフマン」式輪焼窯四坐
 一同「シリツク、アイゼン」式素地成形機三台及八十馬力ノ附属滊機一切
 一同「カツセル」式化粧煉瓦焼窯一坐
 一同「コール」式乾燥室四棟
右ノ外機関室・原土調合場・平家建乾燥室・製品撰別場・同撿査場
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鍛工室・木工室・事務所・役員及職工住宅等数十棟ノ建物並列シ、搆内ニハ原土及製品運搬ノ為メ縦横ニ軽便鉄道ヲ敷設スルコト延長十余哩ノ多キニ及ブ
右「ホフマン」式輪焼窯ノ装置ハ楕円形ノ窯内ヲ十数室ニ分チ輪焼法ヲ行フカ故ニ四時火熱ヲ絶タズ、其焼上高ハ一坐一箇年七百五十万個以上ノ巨額ニ達ス、故ニ当社一箇年ノ総生産高ハ尠ナクモ三千万個ノ上ニ出ツベク、如斯多数ノ焼成力ヲ有スル大工場ハ東洋ニ於テ他ニ其ノ比ヲ見ザル所ナリ、又タ彼ノ「コール」式乾燥法ハ「ホフマン」式輪焼窯ノ上屋ヲ以テ乾燥室ニ充ツルモノニシテ、其巨大無数ノ乾燥棚ハ焼窯ノ余熱ヲ受ケ同時ニ完全ナル換気作用ニ依リテ内部ノ温度常ニ均一ヲ保チ得ルガ故ニ乾燥ノ度合ニ不平均ヲ来サズ、之ヲ以テ焼成セシ煉瓦ハ形状端正ニシテ苦窳亀裂等ノ欠点尠ナキ優等品ヲ製出スルヲ得ルナリ、従来我国ニ行ハレツヽアル天日乾燥法ハ動モスレバ天候不良ノ為メ製造力ヲ減殺セラレ、殊ニ厳寒期ハ休業セザル可ラザル等ノ障碍ヲ免レズ、為メニ取引上約定ノ納期ヲ誤マリ工事ノ進行ヲ阻碍シ需要者ニ意外ノ損失ヲ蒙ラシムルニ至ル、独リ当社ノ乾燥法ハ毫モ右等ノ欠点ヲ有セス、製品佳良ニシテ且ツ多額ナルヲ得ルガ故ニ曾テ約定ノ納期ヲ誤ルガ如キ虞ナキノミナラズ、常ニ多数ノ予備品ヲ貯蔵シ置クヲ以テ不時ノ需要ニ遇フモ晏然トシテ之ニ応ズルコトヲ得ベシ、是レ当社ノ窃力ニ自負スルヲ憚ラザル所ナリ
    第三章 原土
当社工場上敷免附近ノ地、到ル処煉瓦原料ニ適セザル莫シ、殊ニ其土質ハ分子細徴、粘力強靭ニシテ実ニ天然無比ノ良土ナリ、而シテ之ヲ発見セルモノハ即チ当社創始ノ尽力者タリシ臨時建築局顧問びゆっくまん及当社最初ノ技師ちーぜノ二氏ナリトス、抑モびゆっくまん氏ハ独逸ニ於ケル建築学ノ大家ニシテちーぜ氏ハ製煉瓦家ノ巨擘ナリ、而シテ此ノ二氏ハ共ニ政府ノ雇聘ニ応ジテ来朝シ始メテ我国ニ煉瓦ノ機械的製造ヲ伝授シタル師祖ナルガ、二氏ハ来朝後普ク四方ニ週遊シテ土質ヲ撿分シ、遂ニ当上敷免地方ノ原土最純良且豊富無尽蔵ナルコトヲ発見シ、其煉瓦ノ需用地タル東京ヲ距ル二十余里、稍々遠隔ノ嫌アルニ拘ハラズ、断然此地ニ工場ヲ設置スルニ決シタル如キ、亦タ以テ如何ニ該地方ノ原土ガ煉瓦ノ製作ニ適セルカヲ知ルニ足ルベシ、元来原土ノ良否ハ煉瓦ノ品質ニ重大ノ関係アルコト言フ迄モナク、殊ニ東京市附近ノ如キ河海ニ接近シ低卑湿潤ナル地方ノ土質ハ植物性有機物ヲ含有スルコト多ク、如斯キ原土ヲ以テ製作セル煉瓦ハ焼成ノ際有機物ヲ燃燼シテ数多ノ空隙ヲ生セシメ、為メニ吸水量ヲ多大ニシ耐抗力ヲ薄弱ナラシム、之ニ反シテ上敷免地方ノ如キハ海岸ヲ距ルコト頗ル遠ク、碓氷ノ峻嶺ニ接近シテ土地甚ダ乾燥ナリ、随テ有機物ノ如キ粗悪ノ分子ヲ含ムコトナク、焼成シ得タル煉瓦ハ其質堅緻ニシテ吸水量ヲ減シ耐抗力ニ富ム等殆ンド善良煉瓦ノ特質ヲ十分ニ具備セリ、嘗テ府下淀橋浄水工場ニ於テ当社製品ト他ノ製品トノ簡易ナル比較試験ヲ施行シ、「アルコール、ランプ」ノ火力ニ依リテ無際限ニ之ヲ燃焼シタルニ、他ノ製品ハ漸次実質ヲ焼亡シテ遂ニ軽石ノ如クナリシニ反シ、当社製品ハ却テ益々焼ケ固マリ、恰モ鋼鉄ノ如ク為レリ迚当局官吏ノ
 - 第11巻 p.531 -ページ画像 
親シク明言セラレシコトアリ、以テ其土質ノ成分ニ非常ノ差違アルコトヲ証スルニ足ルベシ、且ツ又タ東京附近ニ在リテハ年一年原土ノ欠乏ヲ告クル為メ、曩ニハ棄テヽ顧ミザリシ粗土モ、今ハ之ヲ採収セザル可ザルニ至リ、益々製品ノ粗悪ラ来スガ如キ弊ハ豊富無尽蔵ナル原土ヲ有スル我上敷免工場抔ニ於テ、殆ンド夢想ダニ為シ能ハザル所ナリ


〔参考〕煉瓦要説 (諸井恒平著) 第一―一一頁〔明治三五年九月〕(DK110075k-0017)
第11巻 p.531-535 ページ画像

煉瓦要説(諸井恒平著)  第一―一一頁〔明治三五年九月〕
    第一章 沿革
煉瓦ノ製造ハ其淵源頗ル古クシテ旧約聖書中ニモ屡々煉瓦ナル文字ノ使用セラルヽヲ見ル、彼ノ有名ナル「バベル」ノ塔及ビ巴比倫ニ於ケル数多ノ家屋ハ皆焼成セル煉瓦ヲ以テ築造セラレタル如キ、又タだぴっと王ハあむもんノ子供ヲシテ煉瓦窯中ヲ通過セシメタル記事アル如キ以テ之ヲ証スルニ足ルナリ、降テ埃及国「ナイル」河辺ニ屹立セル三角塔《ピラミツト》(古代帝王ノ墳墓)ノ内ニモ焼成セザル煉瓦ヲ以テ築造シタルモノアリ、其原土ハ小砂利・貝殻等ヲ混セル黒色ノ砂ヲ含ミシ粘土ニシテ之ニ寸断シタル藁片ヲ混和セルガ如シ、更ニ降テ希臘羅馬等ノ古代建築物ヲ見ルニ亦タ焼成及末焼成煉瓦ヲ併用シタルノ事実アリ、びとるびやす氏ノ記事ニ依レバ羅馬ニテハ原土ノ良好ナルモノトシテ粘着力ニ富メル柔靭性粘土ヲ撰ヒ其焼成時季ハ春秋ヲ以テ最好ノ季節ト為セリト云フ
蛮軍ノ為メニ羅馬ノ蹂躙セラルヽ前後ニ於テ、建築術・製煉瓦術ノ如キモ亦タ、他ノ文明ト共ニ四鄰ニ散伝セラレ、西班牙・仏蘭西・英吉利・独逸等ノ諸国ニハ今尚当時建造物ノ遺趾ヲ存セリ、就テ之ヲ見ルニ其建築法ノ技術的ナルノミナラズ、其煉瓦石ノ堅牢ニシテ耐久性ニ富メル以テ如何ニ製造技術ノ発達シ居リシカヲ想像スルニ足ルモノアリ、然ルニ羅馬ノ衰亡後、煉瓦製造業ハ一時甚シク衰頽ニ赴キ拾弐世紀頃ヨリ漸次回復ノ気運ニ向ヘリト雖モ、中頃大頓挫ノ為メ製造術ノ進歩毫モ見ルベキモノナク、殊ニ其事業ハ多ク無教育者ノ手ニ委セラレシヲ以テ技術上ノ発明ヲ為シ、又ハ科学ヲ応用スルガ如キ智識ヲ有セズ、唯祖先伝来ノ旧法ヲ墨守スルノミニ過キザリシガ、第十九世紀ニ入ルニ及ビ各種ノ発明ハ先ヅ独逸国ニ於テ行ハレ忽チ世界ニ流伝シテ、遂ニ今日ノ盛況ヲ呈スルニ至レリ、試ニ其二三ヲ記セバ
 一 輪焼窯(丸窯)千八百五十四年一月特許ヲ得タル独逸人ふるまん氏ヲ鼻祖トス、然レ共其ノ世上一般ニ用ユルニ至リシハ千八百五十八年五月特許ヲ得タルほふまん氏発明ノ丸窯ナリ、爾来幾多ノ改造ヲ企ツルモノアリト雖モ多クハ該式ノ範囲内ニ在リ、其構造用法ハ下文ニ之ヲ詳叙ス、要スルニ煉瓦煙窯トシテハ現今最完全ト称セラルヽモノナリ
 二 素地成形機 独逸国しりっく、あいぜん氏ノ発明ニシテ千八百五十七年ニ特許ヲ受ク、爾来数回改良ヲ経テ今日ニ至レリ、最初ハ螺旋羽根ノ軸心ヲ錘直ニセシガ今ハ多ク水準ト為セリ、但シ我国ニ渡来セルハ重ニしゆめるつえる氏及ぐろっかー氏ノ製造ニ係ルモノナリ
 - 第11巻 p.532 -ページ画像 
 三 人工乾燥法 千八百八十三年特許独逸国こーる氏ノ発明ニ係リ其方法ハ下文ニ記ス如ク焼窯ノ余熱ヲ利用スル者ニシテ、設備ノ簡単ナル割合ニ効果頗ル大ナリ、尤モこーる氏以前ニ特許ヲ得タルりゆね氏乾燥法モ稍之ニ類セシガ広ク世ニ行ハレザリキ、其後「コール」式ヲ基礎トシテ種々ノ設計ヲ為スモノアリ、又タ「カンマー」式「モルレル」式「ケヱレル」式等数種ノ乾燥法アリ、下章ニ詳記スベシ
転シテ東洋ヲ見ルニ印度ノ如キハ古代ヨリ焼成シタル煉瓦アリテ、而カモ之ニ最緻密ナル装飾ヲ施シ、其品質モ現今欧米諸国ノ製品ニ優レルモノアルガ如シ、印度爪哇等ニ残存セル廃趾ハ明カニ之ヲ証シテ余アラン、又タ清国及韓国ニテハ古来磚ト称スル黒色ニ焼成セシ煉瓦及ビ陶器ノ如ク釉薬ヲ施セシ煉瓦等ヲ製造シ、盛ンニ之ヲ建築ニ供用セリ、現ニ万里ノ長城、北京天津其他各地ノ城壁及韓国王城等皆磚ヲ用ヒ居レリ、其大サハ、長壱尺五六寸、巾六七寸、厚三四寸ノモノ最多シ、磚ヲ製造スル焼窯ハ山腹ニ築キアリテ其上部ヲ開放ス、焼成ノ方法ハ野天焼《クランプ》ノ如ク素地ト石炭トヲ積込ミ更ニ素地ヲ以テ廻リ及ビ上部ヲ被フモノナルガ如シ、此外焼成セサル煉瓦モアリテ此等ハ多ク壁ノ心積ニ用フト云フ
斯ノ如ク煉瓦ノ沿革ハ各国共ニ頗ル古クシテ十分ニ之ヲ審ニスルヲ得ズ、然ルニ本邦ニテハ古来今日ノ所謂、煉瓦ノ如キモノハ、嘗テ見エズ、唯ダ建築材料トシテ稍煉瓦ニ似寄タル瓦アルノミ、古史ニ曰ク、用明天皇ノ御宇百済王威徳ヨリ博士麻奈父奴・陽貴文・陵貴文・昔麻帝弥ノ四人ヲ献ジ以テ瓦ノ製法ヲ我国ニ伝ヘシムト、然レ共煉瓦ナル語ハ維新前迄遂ニ之ヲ聞クコトヲ得サリキ、是レ一ハ気候風土ノ為メ建築ノ制ヲ外国ト異ニシタルニ由ルベシト雖モ、亦タ我国ハ森林ニ富ミ木材ノ供給充分ニシテ毫モ建築用材ニ不便ヲ感ゼザリシガ故ナランカ
明治維新ノ後百般ノ制度スベテ欧風ヲ模倣スルニ及ビ、政府ハ諸官衙ノ建築モ亦タ欧風ニ倣ハントシ、先ヅ其主要材料タル煉瓦ノ供給ヲ計ランガ為メ、明治五年大蔵省建築局ハ当時ノ土木頭高石某ヲシテ東京浅草橋場町真崎稲荷地先旧百銭座跡(天保銭ヲ鋳造セシ所)ニ極メテ不完全ナル焼窯(円形ニシテ左右ニ素地出入口ヲ附ケ前方ニ焚口ヲ設ケタル瓦窯ノ丸キモノ)ヲ築造シ以テ煉瓦ヲ焼成セシメタリ、然ルニ其技師ハ雇外国人(米国人ナリシト云フ)ニシテ煉瓦製造ニ関スル経験ハ多少之ヲ有セシモ、焼窯築造ニ関スル設計ニ至テハ全ク不案内ナリシカバ、此事業ハ忽チニシテ失敗ニ帰シ了ンヌ、爰ニ於テカ政府ハ已ムヲ得ズ我邦固有ノ瓦窯ニ稍異リタル焼窯(煉瓦千七八百本ヲ容ルベキ)ヲ築キ引続キ製造ニ従事セリ、俗ニ瓦窯ト称スルモノ即チ是ナリ
元来該工場ニテ製出セシ煉瓦ハ当時竹橋内ニ建築セラルヽ兵営工事ニ使用スル目的ナリシガ成績思ハシカラズ、約二ケ年ノ後遂ニ該製造所ハ廃止セラレタリ
然ルニ之ト殆ンド前後シテ(即チ明治五年ノ頃)京橋八丁堀住、平松栄治郎ト称スル人煉瓦ノ製造ヲ思ヒ立チ当時ノ町会所(今ノ小菅集治
 - 第11巻 p.533 -ページ画像 
監煉瓦工場所在地ニシテ旧幕ノ頃江戸市内饑饉ノ際施与救助スル為メ籾倉ヲ設ケアリ、維新後廃止ニ就キ其倉庫ノ不用ニ帰スルニ従ヒ漸次ニ之ヲ払下ケタリ)ノ倉庫ヲ払下ケ、其跡ヘ煉瓦焼窯ヲ築カント欲シ其起業資金ノ調達ニ関シ計画中前記竹橋兵営ノ建築工事アリテ煉瓦ノ欠乏ヲ告ゲシカバ、即チ建築局ヘ請願スル所アリシニ直チニ若干ノ元資金ヲ貸与セラレ尚ホ同局雇技師たーどろす氏ヲモ貸下ゲラレタリ、依テ同氏指揮ノ下ニ房州石ヲ以テ「ホフマン」式焼窯三個ヲ右ノ倉庫跡ニ建築シ、之ヲ製煉社ト名ヅケ一時頗ル有望ナルベク見受ケラレシガ、焼窯ノ完成ニ先チテ早ク既ニ政府ノ貸下金(三万円)ハ消費シ終リ、又タ又タ資金ノ欠乏ヲ感ズルニ至リシヲ以テ遂ニ之ヲ川崎八右衛門及土州山内家ノ福富六郎右衛門両氏ノ手ニ譲与スルニ至レリ、然シテ両氏ハ焼窯三個ノ内各一箇ヲ頒チ残一箇ヲ共有トセシガ、此窯ハ軈テ大分県人深沢勝興氏ノ手ニ帰シ、暫ラクノ間三氏各一窯ヲ以テ煉瓦ノ製造ニ従事セリ、然ルニ明治七・八年頃ヨリ西南地方不穏ノ為メ一般ノ不景気ヲ来タシ煉瓦ノ需要ハ殆ンド皆無ト為リシカバ、到底之ヲ民業ニテ維持スベカラザルニ至リ、明治十二年三者ノ全部ヲ約五万円ニテ警視庁監獄局ヘ買上ゲラルヽコトヽ為レリ、是レ東京集治監ニ於ケル煉瓦作業ノ由来ニシテ、当時権利移転ノ際製品ノ堆積セシモノ川崎氏所属ノ分ノミニテモ四五百万個アリシト云フ、亦タ以テ当時ノ状況ヲ推知スルニ足ランカ
以上ハ即チ丸窯ニ関スル来歴ナルガ是ヨリ先キ小倉常祐氏(現今八王子煉瓦製造会社技師)ハ、旧百銭座ノ煉瓦工場(即チ前記建築局附属)ニ在リテ見聞自得スル所アリ、単独ニテ工場ヲ経営セント志シ其ノ向河岸(現今鐘淵紡績会社ノ附近)ニ瓦窯ヲ築キ以テ煉瓦ノ製造ニ従事セリ、既ニシテ明治六年ニ到リ会津邸ヨリ出火、銀座・築地辺一円灰儘ニ帰セシカバ東京府庁ニ於テ銀座通リヲ煉瓦造ト為スコトニ決シタリ、爰ニ於テ煉瓦ノ需要盛ンニ起リ、為メニ向島ヨリ本所区内ニ散在セル旧来ノ製瓦職ハ多ク煉瓦製造ニ転シ、一時該地附近ニ於テ百三十七ケ処ノ小煉瓦工場ヲ見ルニ至リシトゾ
然ルニ明治七・八年銀座ノ煉瓦街落成スルト共ニ需要ハ漸ク減少シ来リ、搗テヽ加ヘテ前記製煉社ノ丸窯ニテハ煉瓦二万箇ヲ焼成スルニ漸ク二千二百本ノ薪材ヲ要スルノミナルニ反シ、瓦窯ニテハ煉瓦千七八百箇ヲ焼成スルニ四百五十本以上ノ薪材ヲ要スルヲ以テ経済上到底対立シテ競争スルコト能ハズ、瓦窯ノ運命ハ遂ニ悲ムベキ末路ヲ示スニ至リヌ
瓦窯ニ代ルベキ登窯ハ明治十三・四年ノ頃、小菅集治監ニ於テ三河ヨリ職工ヲ雇ヒ来リ陶器窯ニ摸倣シテ試ニ之ヲ築造セシメタルヲ嚆矢トシ、爾来東京附近ノ小工場ハ必ス此式ヲ用フルニ至レリ、元来三河ハ夙ニ瓦ヲ以テ有名ノ所ナルガ此地亦タ近来煉瓦地トシテ其名ヲ博スルニ至レリ、今聞ケルガ儘、其沿革ヲ記サンニ明治十五・六年ノ交、陸軍省ニテ富津及観音崎砲台ノ建築ニ際シ東京産煉瓦ノ品質不完全ナルノ議アルヲ聞キ、故斎藤実尭氏(旧南部藩士ニシテ大学南校ニ応用化学ヲ専修セシ人)ハ同国碧海郡大浜村字新川ニ煉瓦製造工場ヲ開始シ其製品見本ヲ陸軍省ニ提供セシニ、成績宜シク直チニ採用セラレシヲ
 - 第11巻 p.534 -ページ画像 
以テ、更ニ同郡刈谷町、幡豆郡西尾町、及額田郡岡崎町等ニ製造所ヲ起シ、当時東京集治監技師ナリシ小倉常祐・高木忠五郎ノ両氏ヲ聘シ盛ンニ其事業ヲ拡張シ、以テ一面ニハ士族授産ノ目的ニモ副ハシメント計レリ、時ノ国貞県令亦タ大ニ之ヲ賛シ極力保護スル所アリ、尋テ皇居御造営ニ際シ特命ヲ以テ其煉瓦所要額ノ大半ヲ調達スベキ旨達セラレ同国ニ於ケル煉瓦業ハ逸早ク非常ノ発達ヲ為セリ、但シ其製法ハ普通手技製ニシテ天日乾燥法ヲ用ヒ英国式ノ野焼窯ヲ築キ燃料ニハ専ラ紀州熊野産ノ松薪ヲ用ヰ、其施設頗ル見ルベキモノアリシモ惜哉経済上ニ於テ失敗セリ、然ルニ明治十九年東海道鉄道ノ敷設ニ着手セラルヽヤ、煉瓦ノ需要ハ俄ニ増進シ而カモ三河ハ其中心ニ当ルヲ以テ同地ノ各工場ハ爰ニ登窯ヲ築造シ大ニ供給力ヲ増進セシメタリ、爾来該業ハ一盛一衰ナキニ非スト雖モ、三河煉瓦ノ名ハ能ク東西ニ聞ヘ、殊ニ煉瓦職工トシテハ同国ノ出身者到ル処ニ多キコト争フベカラザル事実ナリ
斯ノ如ク焼成ノ方法ハ種々ノ焼窯ニ依リテ久シキ以前ヨリ行ハレ居リシモ、素地ノ成形ニ至テハ手技法ニ依ルノ外別ニ改良セラルヽ所ナカリキ、然ルニ明治二十年日本煉瓦製造会社ノ起ルヤ、始メテ独逸しゆめるつえる氏ノ製造ニ係ル完全ナル「シリツク、アイゼン」式素地成形機械ヲ輸入シ来リ驚クベキ速力ヲ以テ日々数万個ノ素地ヲ成形スル実例ヲ示セシカバ、爾来各地ノ有力ナル工場ハ之ニ倣フテ該機械ヲ装置スルモノ多ク、手技成形法ハ漸ク勢力ヲ失フニ至レリ、尚ホ同社ハ乾燥法ノ改良・耐震煉瓦・穿孔煉瓦等各種煉瓦ノ発明ノ如キ、文明的設備ヲ以テ常ニ新式器械ヲ応用シ斯業ノ改良ニ全力ヲ注ギ居レリ
明治三十三年末ノ調査ニ依レバ東京及附近四県ニ於ケル煉瓦工場ハ東京集治監ヲ加ヘテ其数四十五ケ処、焼窯ハ「ホフマン」式丸窯二十坐ト登リ窯五十一坐ニシテ其一ケ年ノ製造力約一億弐千八百万個ニ達スト雖モ、休業若クハ築造中ニ係ルモノ亦タ尠カラズ、三十三年度中実際ノ生産高ハ約七千五百万個内外ニ過ギザリシガ如シ
以上ハ専ラ東京ヲ中心トセル沿革ナルガ、更ニ関西ニ於ケル事情ヲ聞クニ、其創業ハ関東ヨリモ稍早キガ如シ、同地方ニテハ明治二年春阪神間鉄道敷設ニ附キ煉瓦ノ需要起ルヤ、始メテ堺市住吉橋通リ旧函館物産会所及姫路産物会所跡ニ工部省鉄道寮ノ標坑ヲ建テ、「ダルマ」窯ト称スル恰モ我国旧来ノ瓦窯ヲ一方口ト為セシ如キモノヲ築キ、外国傭技師及地方労働者ヲ使役シテ製造ヲ開始シタルガ、右工事用品ノ終了ニ際シ之ヲ鹿児島県人原口某ニ払下ゲタリ、其後明治七・八年ノ頃、原口製造所ノ外ニ於テ二三ノ資本家合同シ、稲葉組ト称スル煉瓦工場ヲ建設セシガ、爾来両三年毎ニ一二ケ所宛位ノ製造所増設セラレ、殊ニ日清戦争後即チ廿八年末ヨリ三十年ニ至ルノ間同業者ノ勃興頗ル甚シク、大阪府下ニ於ケル同年末調査ニ依レバ会社組織三十二ケ所、個人事業十九ケ所其他素地成形ノミニ従事スルモノ亦タ数ケ所ノ多キニ及ベリト云フ、然ルニ同年十月以降卅一年ニカケテ経済界ノ困難極度ニ達スルト共ニ該業者亦タ一大恐慌ヲ来タシテ続々瓦解倒産ノ悲運ニ陥リ現今ニテハ僅ニ其三分ノ一ニ減セリ、右ノ内最早ク輪焼窯ヲ採用セシモノハ大阪窯業会社ニシテ、明治廿一年頃之ヲ築造セシ由
 - 第11巻 p.535 -ページ画像 
(同社ハ卅二年堺ニ移ル)其他関西地方ニテ該窯ヲ使用シ居ルモノ八ケ処(広島迄含ム)ニシテ十二座ヲ有ス、然レドモ成形機械ヲ使用シ居ルモノハ大阪窯業ノ一ケ処ノミニテ他ハ皆手技製ヲ用ヒ居レリト云フ
因ミニ記ス、長崎地方亦タ煉瓦製造ニ関シテ参考トスベキモノアルガ如シト雖モ、調査シ難キヲ以テ今且ラク之ヲ省キヌ