デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
13節 セメント製造業
1款 浅野セメント株式会社
■綱文

第11巻 p.560-569(DK110083k) ページ画像

明治16年4月16日(1883年)

是日工部省工作局深川セメント工場貸下浅野総一郎ニ許可セラル。此件ニ付栄一、政府当局者ニ交渉斡旋ヲ為ス。明年七月八日更ニ同人ニ払下許可セラレ、浅野セメント工場成立ス。栄一其経営ヲ援助ス。


■資料

明治前期 財政経済史料集成 第一七巻・第三〇九―三一〇頁〔昭和六年九月〕(DK110083k-0001)
第11巻 p.560 ページ画像

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東京府日誌 巻之五七明治一七年七月(DK110083k-0002)
第11巻 p.560-561 ページ画像

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先賢墨蹟 第一巻 明治一六年 【四月十三日 [大鳥]圭介】(DK110083k-0003)
第11巻 p.561 ページ画像

先賢墨蹟 第一巻 明治一六年          (竜門社所蔵)
□《(欠字)》清適恭賀、扨深川工場之儀其後色々模様変遷之後、終ニ浅野宗一郎拝借之事ニ相決候由、先以好都合と奉存候、右ニ付明十四日午後四時頃久保町売茶亭ヘ参会可仕様被仰遣敬承、多謝之至ニ奉存候、猶拝姿万々可申上候也 頓首拝復
  四月十三日                  圭介
    渋沢栄一様
        侍史
   ○大鳥圭介ハ工部省工作局長ナリ。


竜門雑誌 第四八一号・第三六―三八頁〔昭和三年一〇月〕 青淵先生と洋灰事業(浅野総一郎)(DK110083k-0004)
第11巻 p.561-563 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第三六―三八頁〔昭和三年一〇月〕
    青淵先生と洋灰事業(浅野総一郎)
 洋灰事業は渋沢翁と私とに決心があつたればこそ今日に至らしめ得たので、私が明治十四年に工部省から引受ける時に、渋沢翁の御援助を頂き得なかつたら或はどうなつたかも知れませぬ、事業上私が渋沢翁の御援助を受けた始めての事業で又洋灰業発展の歴史の上に翁は見逃せぬ第一人者で御座います。当時の模様を聊か左に物語ります。
 官営事業であつた深川のセメント工場(現在浅野セメント会社深川工場)は、政府か明治四年以来、二十一万五千円の資本を投じて経営して来たけれども、セメントの需要の少ない当時の事とて、収支遂に償はず明治十二年に至つて、休止することになつた、私は明治八九年の頃よりコークスを納入して出入してゐた関係から、セメントの将来に就て心潜かに大きな期待を抱き、殊に江戸の赤猫(火事のこと)は名物とせられてゐたことに、江戸へ来た其夜から驚かされて、毎夜のやうに国の財産が灰にされてゐるのを惜しみ、偶々セメント工場に出入してセメントの如何なるものかを研究するに及んでからといふものは、どうかして焼けないセメントの家を建てゝ国家の財産を保護せなければ国の財産は行々は焼き尽くされて終ふだらうと惧れてゐた矢先きでもあり、且つ此私の考が段々世に拡まるにつれてセメント事業の将来が期待されることになるといふ考から、休止した此セメント工場を払下げて一身籠めて働いて見たいといふ希望を抱いた、それにしても当時としては稀れに見る大工場のことであるから仲々自分一人の力では及びさうもない、尤も当時私は第一銀行に六万円か七万円の預金を持つてゐたやうに覚えてゐる、私は横浜の知人朝田又七氏を仲間に引き入れようといふ下心から或日、朝田氏を深川迄伴れて来たことがあつた、処が朝田氏は工場の外観を見たゞけで「君はこんな大きなものを払下げてどうしようといふのか殊に素人が払下げるなんて無謀極まる」と業々しく驚いて逃げて終つた、仕方がないから私はこんな時こそ渋沢さんの力を藉りようと決心した、これが渋沢さんと私との関係を密にする最初の動機であつた、私は渋沢さんに此希望を申出たら渋沢さんも最初は大反対で「政府がやつてさへ見込みの立たないもの
 - 第11巻 p.562 -ページ画像 
を資力の薄い君が手を出すなんて乱暴極まる、そんな需要の遠いものをやるよりは紡績をやれ」と言はれて仲々御承諾下さらぬ、さればとて紡績のやうな糸繰り商売は私の柄でなし、私も困つたが、尚も執拗に御頼みすると、渋沢さんは「それ程迄君が熱心に希望するなら、政府も喜ぶことだから、君の熱心を買つて一つ尽力して見よう」と御承諾下さつた、そこで渋沢さんはガタ馬車(当時渋沢さんのガタ馬車といつて有名なものであつた、確か岩崎さんと渋沢さんとの二人より外に馬車を走らす人はなかつたと思ふ)を早速走らせて工部卿の山尾庸三氏、工作局長の大鳥圭介氏、大参事の中江弘氏等を訪問になつて、種々御骨折を頂いたので中江弘氏の御配慮から「浅野に損をさせても気の毒だから二三年見込みの付く迄貸下げよう」といふことになり、明治十四年に初めて私が手をかけることになつた、以来私は昼も夜も働き通して漸く目鼻が付いたので、翌々十六年、渋沢さんの保証の下に十二万五千円で払下げることになり、内五万円を現金で即納して残り七万五千円は三十五ケ年賦といふことになつたが、其後政府の都合で一時払に還元して金一万六千五百円を収めて、一切の権利を私のものとすることになり、明治十六年には家庭を纏めて横浜からセメント工場内に引移り、以来一家総出で働いた、此時渋沢さんは、私の熱心を買はれて、若し損をしたら自分が三分の一だけ責任を負ふから安心して働けと励まして下されたのである、渋沢さんの此一言が当時の私に、如何程の力となつたか判りませぬ、尚渋沢さんは「王子の抄紙部(王子製紙会社の前身)から機械に明るい大川平三郎と簿記に明るい谷敬三との二人を君の手助けにやる」と言はれて以来此両氏は月に一二回宛は工場に来て御尽力下された、斯くの如く私の足らぬ点を何かと注意下されて親味も及ばぬ御配慮を頂いたので、セメント工場も完全に私の手に入れ得た次第である、然し経営は無論楽ではなかつた、私は朝の六時から職工と共に終日働き通し、夜も夜中の二時に起きて必らず工場内を一応見廻るといふ有様で其時分の苦しみは、到底口や筆では語れない、遂に私はセメントで咽喉を痛めて血を吐いた、渋沢さん出入の高木兼寛博士に診察して頂くと、肺病ではないか、大変にセメントで咽喉を痛めてゐるから、二三ケ月の静養を強ひられた、それでも私はセメント工場から引越もせず、撓まず屈せず働いてゐたら或日高木博士が青木周蔵氏を伴つて猟の帰りに立寄られ「君は金と命とどちらが欲しいのか」と云はれたから、私は「両方とも欲しい」と御答へした、すると高木氏は青木氏を顧みて「浅野にかゝつてはかなはない」と云つて帰られたことを憶えてゐる、実際私の当時の働き振りは全く命懸けであつた、私は斯く払下以来十六七年間人知れぬ苦心を重ねて、漸く五十万円の資産を作つた、そこて払下当時を顧みて渋沢さんの御恩義に対し、即ち渋沢さんが損をした時は三分の一の責任を負ふてやると励まされたその恩義に酬ゆるために、私は五十万円の三分の一、十六万五千円を差上げますと申上げたら、渋沢さんは「私は貰つたも同じだから」と云はれて御自身は御取りにならず其十六万五千円を大川氏へ十一万、尾高氏へ(谷敬三氏の後を引受けられてゐたので)五万五千円分配せられて御自分は別に安田・徳川両氏と共に
 - 第11巻 p.563 -ページ画像 
十万円宛現金を出資されて、初めて八十万円の浅野セメント合資会社を組織したのであります、これは明治三十一年二月であつた。


浅野総一郎 (浅野泰治郎 浅野良三著) 第三二九―三三三頁〔大正一四年二月改訂版〕(DK110083k-0005)
第11巻 p.563-564 ページ画像

浅野総一郎(浅野泰治郎 浅野良三著) 第三二九―三三三頁〔大正一四年二月改訂版〕
 ○第七章
    七、セメント(一)
○上略 朝田又七氏を見限つた惣一郎《ちゝ》は、東京に渋沢栄一氏を訪ふた、渋沢さんは社会的に博識の士である、経綸のある実業家である、官途にも、民間にも、信用と実力との覇を根強く張つてゐられる先輩である官業の払下げには此人を動かすの外はない、惣一郎の望みをかけた渋沢氏は、果して惣一郎の要求を容れた乎、渋沢氏は言つた。
『セメントの使命は大きい、前途ある事業といふ意見は、俺の考へとも一致してゐるが、セメント業は俺は余り好まぬ、而已ならず、セメント業の将来は遼遠だ、今日の処、幾干補助しても見込みがない、政府の巨資を以つて、既に失敗に帰してゐるではないか、それにセメントの需要は狭くて困る、第一鉄道局の御機嫌を損ずればもう儲からぬ、そんな仕事を為るよりも、支那四百余州に販路の有る紡績を始めるが良い、これからは紡績に限る、セメントなどは廃す方が悧怜だらうよ。』
 頗る気乗栄のせぬ御挨拶であつた、渋沢氏の懇切な老婆心から出た此御勧告は難有いが、此処で志望を棄てたなら、今日の浅野総一郎は成就しなかつた、惣一郎は執拗に渋沢氏に縋つた。
『それ程に熱心なれば尽力して見よう。』
 渋沢さんは遂に動いた、時の工部卿山尾庸三氏を訪ひ、工務部長の中江弘氏を説き、工作局に局長大鳥圭介氏及赤羽工作所長佐藤某氏等を紹介されて、
『浅野が行りたいといふから、行らしたら怎うでせう。』
 と要所々々に、渋沢さんは骨折つて下さつた、そして又『浅野は三井三菱の様に名の有る者では無いが、大変な勉強家だから、彼れに払下げれば、必らず昼夜の差別なく働き通すであらうから、セメント工場も盛大になる事を保証する。』と迄断言して惣一郎の希望を達成せしめようと努めて下された、工務部長の中江氏は、
『運転を休止してから、三井からは倉庫を建てるから払下げて呉れといつて来るし、三菱は別荘にするのだから払下げて呉れと、言つて来るし、実は弱つてゐたのだが、あの儘、機械を運転して官業の意思を継承しようといふ浅野の雄志は、大いに買つて遣らなければならない官業は元来見本に過ぎないので、その見本を見て大いに有益だと信じて、それを真似て呉れる人が民間に出さへすれば、それで官業の目的は半ば達せられたものだ、浅野の決心は大いに国家として助けてやる義務がある、浅野の雄志は大いに歓迎するが、此の事業のために浅野を殺しては気の毒だから、先づ最初一二年の間は無償で貸し下げよう一二年経営の後、見込みがあつたら、希望通り払下げよう。』
 と花も実もある言葉に、惣一郎は意を強くした、渋沢さんの保証の下に、惣一郎の手に明治十四年七月、始めてセメント工場の実権が移
 - 第11巻 p.564 -ページ画像 
つた、工場貸下の受授は、厳密に行はれた、工作局側及渋沢側の代表者は休止前製造係を勤務された渋沢信吉氏で、浅野側代表者は三俣盛一氏であつた、両氏ともセメントに就いては、縁故の深い人達であつた。
 セメント工場の浅野内閣は成立した。
   経営者      浅野惣一郎
   支配人      三俣盛一
   会計主任     曾根乎吉
   同助手      高石徳三郎
   製造係      渋沢信吉
   同        木下真十郎
渋沢氏と木下氏とは、僅かの期間にして辞職された、その後に来たのが石田豊太郎氏であつた、職工総数三十七人、製造額は一月八百樽乃至九百樽といふ小規模に過ぎないものであつた、皆は夫々部署こそ定まつたといふものゝ、惣一郎は一同で製造して、一同で売る分業制度は、名目に止めたいと、一同に宣告した、そして工場は浅野セメント工場と改名された。
○下略
   ○右伝記中ニ記セル朝田又七ハ横浜ノ実業家。
   ○又深川工作分局貸下ヲ明治十四年七月トスルハ十六年四月ノ誤。尋イデ払下許可ヲ十六年七月トスルハ是亦十七年七月ノ誤。
   ○栄一、浅野惣一郎ト相識ルニ至レル動機ニ就イテハ後掲(第五六六頁)「浅野総一郎」ニ記ス如キ挿話アリ。


竜門雑誌 第四八一号・第九一―九二頁〔昭和三年一〇月二五日〕 青淵先生と製紙事業(大川平三郎)(DK110083k-0006)
第11巻 p.564-565 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第九一―九二頁〔昭和三年一〇月二五日〕
    青淵先生と製紙事業(大川平三郎)
○上略
 もう一つ私は此機会に於て申し述べて置くことがある。それは私がセメント事業を浅野君と共にするに至つた動機とでも称すべき事である。明治十三年と記憶す。浅野君は深川の工作局セメント製造所払下の計画を立て御自分は商売の遣り方に就ては人後に落ちぬ積りだが工場機械の事は私にやらせたが一番よろしいといふ考から是非一部分の資本者となつて働いて貰ひたいと、これを青淵先生に申込まれた。先生は如何なる御見込を立てられたか私を御呼びになつて浅野君の相談に応じ一番奮発して遣つて見よ。若し俺の考が間違つてお前が仕損じたら跡の始末は俺が片附けてやるから、心配するなと云ふ御話であつた。そして其資本額はと云ふと総額七万五千円で其内二万五千円即ち三分の一を私が負担するのであつて、差当り浅野君が三万円私が一万五千円払込を要することゝなり、之を第一銀行より借用し先生が御自筆で美濃紙活版刷の借用金証書用紙に御署名下さつた。先生が例の通り極めて丁寧慎重なる態度で筆をお執りになるのを傍らに佇立して拝見する私は実に言語に表し難き感慨無量の感があつた。印象の深刻なる事は永久に尽る事なく、其時の光景が時々髣髴として目前に現はれるもので、私は五十年後の今日もはつきりと其時の有様が胸に浮ぶ。其度毎に感謝の念が溢るゝのである
 - 第11巻 p.565 -ページ画像 
 人には運と云ふことがある。先生が一介の青年たる私に此大金を托して当時の比較的大事業に関係せしめた事は何の動機であらう。私自身も常に此事を不思議に思ひ、これが世に云ふ運のまはり合せといふものならんと解釈した。併又此頃更に考ふるに、それも漠然として来れる運ではない。若し運なるものが怠け者の頭にも宿ることありと思はゞそれは天理に違ふのである。私の頭に此不思議なる運が降り来りたるは矢張私の奮励努力、事業の為に一身を賭する位の覚悟が先生の御眼に止まりたる為なるに相違なし。即ち幸福は只誠意努力の人の頭にのみ宿ると云ふ天理は、決して疑ふべきものでないと云ふ帰結になる。此セメント事業は日本一の努力家浅野君の驥尾に附して私も働を覚え忽ち大成功となり、一年半の後は恩借金を返戻した。七万五千円の会社は今日迄種々様々の道程を経て遂に壱億円の大会社となつた。


大川平三郎君伝(竹越与三郎編) 第一三四―一三五頁〔昭和一一年九月〕(DK110083k-0007)
第11巻 p.565 ページ画像

大川平三郎君伝(竹越与三郎編) 第一三四―一三五頁〔昭和一一年九月〕
    第六、セメント会社の合弁
○上略
 斯くて大川君は、旧の如くに王子製紙会社の社員として早朝から深夜まで努力し、アメリカで見聞したことによりて、種々創意に基くことを行ふやら、旧事を改良することなどに多忙であつた。然るに半年ほど経過して後、突然渋沢家から来訪せよとの命が来たので、訪問すると、思ひがけなき天来の福音を聴かされた。渋沢君は、大川君に対し、浅野総一郎が来て、深川にある政府のセメント工場を七万五千円で払ひ下げることになつたにつき、工場の方を大川君に担当して貰ひ自分は商売の事を遣るつもりであるから相談を願ひたいと言ふのであるが、一ツ此のことを担当して見る気はないかといふのである。大川君は之に答へてセメント事業は非常に面白いと思ふが、併し二人合同と云ふことでは私はその資本の工夫が着かぬと言つた。之に対して渋沢君は浅野の案によれば、彼は三万円を提出し、大川君から一万五千円を提出さしたい、即ち三分の二と一の割合にて合同したいといふのであるが、その一万五千円は乃公が出してやる。但し事業が順潮に行けばよいが万一、失敗するやうのことがあらば大川の損失は乃公が負担する。失敗の場合に資金を返却する心配をする必要はないと言ふのである。大川君は此の意外の提議に歓天喜地で直ちに応諾した。○下略



〔参考〕明治前期 財政経済史料集成 第一七巻・第三〇八―三一〇頁〔昭和六年九月〕(DK110083k-0008)
第11巻 p.565-566 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕浅野総一郎 (浅野泰治郎 浅野良三著) 第二九五―三〇一頁〔大正一四年二月改訂版〕(DK110083k-0009)
第11巻 p.566-567 ページ画像

浅野総一郎(浅野泰治郎 浅野良三著)第二九五―三〇一頁〔大正一四年二月改訂版〕
 ○第七章
    二 渋沢翁
 コークスと磐城炭との物々交換から、王子製紙会社では若い商人の惣一郎《ちゝ》を徳として、これを縁故に、其後も引続いて石炭を買つて呉れた。
 石炭積の船が着く毎に、大塚屋の惣一郎は人足等と共と《(に)》、真黒くなつて水揚げに従事した、大塚屋の勤勉は社内の評判であつた、事務所の窓越しに、惣一郎の労働を讃嘆して眺むる一人の紳士がある、支配人の谷敬三氏を時折麾き、又窓外を指差して、感嘆久しう私語する事も度々あつた、此の紳士こそ誰れあらう、時の抄紙部総理渋沢栄一氏である。
 - 第11巻 p.567 -ページ画像 
○中略
当時、実業界に飛ぶ鳥落す渋沢氏の勢力圏内に、一介の浅野惣一郎が引き入れられたとすれば、社会的に価値付けられる事が大きい、多くの人はその機会を熱望してゐる、然るに大塚屋の仮名大熊良三その人は、社会的勢力に均霑する事が、果して何れ丈けの価値があるかを知らなかつた、若い奮闘心に燃え盛つてゐる眼中には、社会的の勢力も権勢も、威望も、映らない、強い自我の継続と、不断の精力とが、唯一の自己の向上であり、拡張であり、発展であるとのみ確信してゐた只真一文字に此大信念の上に直情径行した。汗染みた袢天股引を憂しとせず、パツパと立つ粉炭に汚れつゝも、恬として顧みない、それが強い自我の表象なのだ、朝に横浜に在ると思へば、夕には東京に在り又横浜に薪炭を割り、切り、曳く、担ぐ。間断なき東奔西走、それが精力の体現なのだ。その強烈な自我とその非凡な精力の権化となつてゐる惣一郎の勇ましい姿が、先づ偉人渋沢の目に《(を)》喜ばせた。
『大塚屋に一度会つて見たい。』といふ渋沢総理の好意を、谷支配人が折を見て、大塚屋の惣一郎に取次いだ時、
『暇人らしふ、大将等の話相手はしてゐられません、昼の間は私は一分二分を争ふ商売人ですから、夜分ならば兎も角も、折角ですが、宜敷お断りを――。』
 と味気なく謝《ことわ》つた、その言葉に無量の妙味があると言つて、渋沢さんは非常に喜ばれた。
『暇人話が嫌なら、仕事の上に相談事でも出来たら、夜分にでもお越しなさい。』
 といふ渋沢さんの、後進者を遇する先輩らしい親切に、甘んじた訳では無いが、其夜遅くドンドン門戸を叩いて、浜町の別宅に渋沢さんを訪づれた。渋沢さんは寝所に這入られた後であつたので、
『旦那様は御寝みになられました。』
 と女中が面会を避けると、惣一郎は威猛高に怒号した。
『夜分来いとおツ仰るから夜分伺つたのに、それでは御約束が違ひます、浅野の夜分は毎夜十時過ぎからなのです。十時前は宵の内ですと旦那様に御伝へ下さい。』
 其時分かな《(ら)》要路の人達に向つては、ボツボツ本名の浅野を名乗り初めてゐた。
 何時かな去りそうも無い惣一郎の気配を見て取つた女中が、仕方なげに寝所に取次ぐと、渋沢さんは、
『どうも済みませんでした。君は噂に勝る活動家ですね。結構々々。」
 と快げに引見された。『お汝の様な人は、腕で飯を食ふ心掛が肝心ぢや』と訓へられた。
 惣一郎は此一言を、処世上の金科玉条として、恰も守護本尊の如く五十年間念頭を離さない、初対面の第一印象からして、渋沢さんは既に総一郎の一大恩師であつた。渋沢さんの悠然とした大人風の応接振りに、惣一郎も流石に恐縮したか、交談僅かに寸時、匆々乎として辞去したといふ。
○下略
 - 第11巻 p.568 -ページ画像 

〔参考〕大川平三郎君伝(竹越与三郎編) 第一四一―一四二頁〔昭和一一年九月〕(DK110083k-0010)
第11巻 p.568 ページ画像

大川平三郎君伝(竹越与三郎編) 第一四一―一四二頁〔昭和一一年九月〕
    第六、セメント会社の合弁
○上略
 右の如くにして深川のセメント事業が順調に進んだ処で、数年の後浅野君は更に其の猿臂を延ばして、門司にセメント工場を開始することゝなつた。其の経緯は大倉喜八郎君が門司で精米会社を起したが、種々の理由によりて到底収支が償はぬ為め廃業したのを見て、浅野君が之を買ひ取り、セメント工場にしたのである。浅野君の見る所によれば、門司は海運の要衝であるから万事に都合がよい。他日海外へセメントを輸出するにしても、此処からならば万事に都合がよいと云ふ例の好大心から、第一に此処に着目した。第二には日本の鉄道の発達が未熟であるから、セメントを大阪地方の工業中心地に送るにも、門司からならば、海運を利用することが出来るといふのである。
 斯くて浅野君が定石を敷置した上に、大川君は永く門司に滞在して工場経営を担当した。之が今日の浅野セメント門司工場である。○下略


〔参考〕中外物価新報 第二〇〇四号〔明治二一年一二月二日〕 セメント会社の計画(DK110083k-0011)
第11巻 p.568 ページ画像

中外物価新報 第二〇〇四号〔明治二一年一二月二日〕
    セメント会社の計画
セメント製造を以て最も有名なる浅野惣一郎氏にハ、従来毎に両三名の技師を独英等の諸国に遣ハして彼の製造場に入れ、年々発明の秘術を研究せしめ専ら我国セメント製造業の進歩を謀り、且つ府下深川清住町なる同氏所有の工場に於てハ昨年来其焼立竈を増築して世の需用に応ぜんとするも、尚引足らざる程の盛況なれば同氏外数名の紳商にハ今度愈々九州門司の近傍に於て適当の場処を撰び、資本金廿五万円を以てセメント製造会社を設立する由なるが、過般浅野氏が九州地方へ赴たる節、既に適当の地所をも買入れ又曩に欧洲より帰朝したる浅野セメント工場の技師阪内氏にも目下同地へ出張し居る由なれば、実際其製造に着手するも来年中に在らん歟、兎に角同地ハ第一石炭に富み且原料にも豊なれば、随て其製造原費も大に省減するを得べき見込ありて一ケ年十万樽のセメントを製出すべければ、今後支那地方へ輸出販売するの計画なりと云ふ、既に此程も府下浅野工場よりセメント数樽を試に香港へ輸送したるに、非常の好評を博し直ちに五十樽の注文ありたる由なれど、目下同工場にてハ先約の注文口へも殆んど間に合ひ兼る程の有様なれば、残念ながら止むなく其需めに応ずるを得ざる次第なるゆへ其品質と価格に依てハ随分輸出の望みありと云ふべし


〔参考〕中外商業新報 第二一四七号〔明治二二年五月二四日〕 浅野セメント工場(DK110083k-0012)
第11巻 p.568-569 ページ画像

中外商業新報 第二一四七号〔明治二二年五月二四日〕
    浅野セメント工場
数個の煙突は筍立して其煙り天を凌ぎ永代橋上遠き英京倫敦の観を呈するものは、是れ浅野惣一郎氏が所有に係る深川セメント工場なり、頃日此の工場は隣地岩崎氏が買入れたりとの風説頻に世間に伝唱すれども、浅野氏は尚も此業を盛大に為すの目的なれば、仮令ひ岩崎氏が黄金を以て隅田川を埋むるも売却抔は思ひも寄らぬ事なりと聞きぬ、
 - 第11巻 p.569 -ページ画像 
序に記す抑も此の工場は元工部省の所轄にして我邦セメント事業を起したる嚆矢なりしが、故ありて往年氏が払下けを受けたるより事業却て官業に優り、曾て焼釜六個なりしも今は十六個となり、五十馬力の蒸気力も更に新規の滊鑵及釜を据付けて、今は二百馬力に増加したり且つ製造法研究の為めには技師及職工長を海外に派遣し、彼地実際の事業を探究せしめ帰朝の後は更に彼の長を探り短を補ひて専ら改良を加へたるを以て、現今一日二百樽の多きを製造するも尚需用者の求めを充たす能はずして、目下三四ケ月前の注文品を受渡すの場合なれば往々花主《とくい》の希望に背き遺憾なればとて今回浅野氏は更に二三の紳商と申合せ豊前国門司港に一大セメント製造所を設置し両所相待て多額の品を製出し、需用者の満足を充たし進んて輸入を防遏し国家経済の上に於て大に為すあらんとするの意気込なりと、又右門司セメント製造所は目下工事中なれば本年中に器械を据付け、来年よりは年々十万樽のセメントを製出すへき計画なりと聞へたり


〔参考〕渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(明治二八年)一一月五日(DK110083k-0013)
第11巻 p.569 ページ画像

渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(明治二八年)一一月五日
                   (八十島親義氏所蔵)
其後途中無事九州巡回も相済、昨夕門司ニ帰着仕候、今朝ハ当地築港之場処一覧、浅野セメント工場及内裏之地所迄も相廻り、午前之中ニ馬関ニ罷越、地方有志者之招宴ニ列し候都合ニ御坐候
○中略
  十一月五日 栄一
    親徳殿